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title: "泉州開元寺志 · 重刻序"
description: "泉州開元寺志由明代高僧釋元賢撰寫，是一部記載福建泉州開元寺歷史與文化的佛教寺志。該書成於明代，詳述了開元寺的創建緣起、歷代興修、高僧事蹟、寺規制度以及相關佛教活動，反映了宋明時期閩南佛教的發展脈絡與社會影響。作為研究中國佛教史與地方宗教文化的重要文獻，它不僅保存了豐富的歷史資料，還展現了漢傳佛教在泉州的傳播與融合，對了解明代寺志編纂和佛教地域化具有極高價值。"
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### 重刻序

夫泉南佛國，名播寰中，循名核實，則豈僅僧多有德之儔？亦必俗尚無為之化，故以稱焉。考之唐、宋間，泉南佛法大興，禪宮林立，而開元地靈人傑，甲於諸方。桑蓮肇瑞，喜法界以宏開；甘露流芳，慶宗風之丕振。寫經則文殊親降，應夢則羅漢偕來。禪、教、律三宗碩德相繼而起者，指不勝屈，洵足移風易俗、扶世導民。故使海濱鄒魯之邦，進為佛國莊嚴之域。昔賢題開元寺聯云：「此地古稱佛國，滿街都是聖人。」細味其語，則開元之盛衰，實與世道人心有密切之關係。而寺志一書，豈容湮沒哉？慨自隆嘉以降，聖賢不作，寺規日弛。迨至民國，剝落殊深。惟是時機既至，法會當興。爰有圓瑛法師經通三藏，名震一時。講大乘論於南洋星洲，會遇轉道和尚及其師弟轉物大師。三人發願重興斯寺，併創辦開元慈兒院。轉道和尚本泉僧，俗姓黃，亦紫雲一脈，對開元素抱興復之志。既得圓師任其仔肩，遂慨出缽資數萬元，以為開辦費用。圓師同物師於民國十三年甲子九月入寺。興工三日，桃開紅蓮以應瑞兆。泉人覩者，靡不稱異。乙丑八月慈兒院開幕，圓師復以重興之工程既鉅，不得不仰慕檀施。按：開元自黃守恭長者捨園建寺以來，設祠立像，推紫雲黃氏為檀越主。前度興復，黃氏亦與有功焉。於是約同黃孫哲先生，請黃祝堂老先生出函介紹，同赴鼓浪嶼謁見黃仲訓、黃奕註、黃秀烺三檀越，勸請捐資援助，以成圓滿功德。因仲訓先生性嗜詩文，與圓師素有文字交，即首允同其弟仲讚獨建法堂而為之倡。次奕註先生獨脩東塔，秀烺先生獨脩西塔。三種殊特工程，三檀越毅然擔荷。圓師欣然而返，聘傅維早工程師以專其責。丙寅春自赴南洋，籌募慈兒院基金，冀垂永久。至丁卯，三種工程次第落成。仲訓先生復出家存《開元寺志》一本，以寺既興復，志應流傳。遂捐資交圓師，壽之梨棗，因問序於余。余雖不敏，第念開元為聖賢應化之區，一寺之源流，累朝之勝蹟，斷未可任其湮沒無聞焉。當此續志未脩，而三上人、諸檀越之功行，豈得不順序及之，俾諸來哲略知梗概耶？

> 泉南（泉州）は古くから仏教が盛んで、「仏国」の名が世に広く知られています。その名の実態を探れば、僧侶に優れた徳のある者が多かっただけでなく、庶民もまた「無為」の教えを尊んでいたからこそ、そう呼ばれたのでしょう。 調べてみますと、唐宋の時代、泉南では仏法が大いに栄え、禅宗の寺院が数多く建てられました。その中でも開元寺は、地の利と人材の恵まれに恵まれ、諸寺の中で最も優れていました。「桑の木に蓮の花が咲いた」という瑞兆は、迷いの世界を離れて悟りの世界が広がる喜びを示し、甘露の雨が降り注ぐように、仏教の教えである宗風が盛んになることを祝福しました。経典を写経すれば文殊菩薩が親自ら現れ、夢告には羅漢が共に来臨したといいます。禅宗・教学・律宗の三つの宗派の高僧が次々と現れたことは数え切れず、実に人々の心を改め、世を導くほどの力がありました。それゆえ、泉州は「海滨の鄒魯（聖人の故郷）」の地から、仏国荘厳の世界へと進んだのです。昔の賢人が開元寺のための聯にこう記しています。「此地古称佛國、満街都是聖人（この地は昔から仏国と呼ばれ、街中が聖人ばかりである）」。この言葉をよく味わえば、開元寺の盛衰が、実は世の中や人心と密接に関わっていることが分かります。そして、寺院の歴史を記した『寺志』という書物が、どうして埋もれてしまってよいでしょうか。 嘆かわしいことには、明の隆慶・万暦年間以降、聖人や賢人が現れず、寺の規則は日に日に弛緩していきました。民国に至っては、荒廃は特に著しいものがありました。しかし、時が来れば再び法の教えは盛んになるものです。ここに円瑛法師という方が現れました。彼は経典の三蔵に精通し、その名声は一世に轟いていました。南洋のシンガポールで大乗論を講じていた折、転道和尚と、その師弟である転物大師に出会いました。三人は発心してこの開元寺を再興し、併せて開元慈児院を創設することを誓いました。転道和尚はもと泉州の僧で、俗姓は黄氏、紫雲黄氏の一門であり、開元寺を再興しようという志を常に抱いていました。圓瑛法師がその重責を引き受けることを承知すると、彼は奮発して、開辦費用として私費から数万元を寄付しました。 円瑛法師は転物大師と共に、民国13年（1924年）甲子の9月に寺に入りました。工事を始めて三日目、桃の木に紅蓮の花が咲くという瑞兆が現れました。これを見た泉州の人々は、皆が不思議に思い、驚きました。 翌乙丑年（1925年）8月、慈児院が開院しました。円瑛法師は、再興工事の規模が大きいため、檀家や信者の方々の助力に頼らざるを得ませんでした。そもそも開元寺は、黄守恭という長者が園を寄進して寺を建立して以来、祠を設け、像を安置し、紫雲黄氏がその主要な檀家（旦那）となっていました。過去の再興の際にも、黄氏は功績がありました。そこで円瑛法師は、黄孫哲氏に同道を依頼し、黄祝堂老先生に紹介状を書いていただき、共に鼓浪嶼へ赴き、黄仲訓、黄奕註、黄秀烺の三檀越（三人の大旦那）に会って、寄付を募り、完全な功徳を成就させようと願いました。黄仲訓氏は詩文を好み、円瑛法師と以前から文通がありましたので、真っ先に弟の仲讚氏と共に法堂を独力で建てることを約束し、これを先導しました。次に、黄奕註氏が東塔を、黄秀烺氏が西塔をそれぞれ独力で修復することになりました。この三つの特別な工事を、三人の檀越は力強く引き受けたのです。円瑛法師は喜んで戻り、傅維早技師を招聘して工事の責任者としました。 丙寅年（1926年）春、円瑛法師は自ら南洋へ渡り、慈児院の基金を募り、永続的な運営の道を開こうとしました。そして丁卯年（1927年）、三つの工事は順次完成しました。黄仲訓氏は所蔵していた『開元寺志』一冊を提供し、「寺が再興された以上、その寺誌も後世に伝えられるべきだ」と述べ、資金を寄付して円瑛法師に託し、版木に彫らせました。そして、私に序文の執筆を依頼されました。 私は不敏ですが、開元寺が聖人や賢人が感応を示す地であり、一寺の起源や変遷、歴代の優れた事績が決して埋もれてはならないと考えます。現在、続編の寺誌が編纂されていない折、三人の尊者（円瑛・転道・転物の三師）と諸檀越の方々の功績や行いを、この序文でぜひ記しておかねばなりません。これによって、後世の方々にその大筋をご理解いただきたいのです。

民國十六年八月上浣，古田吳亨春序於甬江旅次