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title: "先覺宗乘（選錄「帝王問道錄」） · 唐中宗"
description: "先觉宗乘选录帝王问道录是明代郭凝之编纂的一部佛教典籍。本书辑录了历代帝王与高僧之间的问答对话，集中展现了帝王参禅问道的史实与思想交流。内容涉及禅宗心性、治国理念等核心议题，反映了佛教与中国政治文化的交融。该书不仅是研究佛教与皇权关系的重要文献，也是禅宗史传的关键组成部分，对理解明代佛教思想及世俗化进程具有较高学术价值。"
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唐中宗遣內侍薛簡馳詔迎請六祖，祖上表辭疾，願終林麓。簡曰：「京城禪德皆云：『欲得會道必須坐禪習定，若不因禪定而得解脫者未之有也。』未審師所說法如何？」祖曰：「道由心悟豈在坐也。經云：『若見如來若坐若臥，是行邪道。』何故？無所從來亦無所去。若無生滅是如來清淨禪；諸法空寂是如來清淨坐。究竟無證，豈況坐耶？」簡曰：「弟子回，主上必問，願和尚指示心要！」祖曰：「道無明暗，明暗是代謝之義，明暗無盡亦是有盡，相待立名。故經云：『法無有比，無相待故。』」簡曰：「明喻智慧，暗況煩惱，修道之人儻不以智慧照破煩惱，無始生死憑何出離？」祖曰：「煩惱即是菩提，無二無別，若以智慧照煩惱者，此是二乘小見、羊鹿等機；大智上根悉不如是。」簡曰：「如何是大乘見解？」祖曰：「明與無明，其性無二，無二之性，即是實性。實性者，處凡愚而不減；在賢聖而不增；住煩惱而不亂；居禪定而不寂。不斷不常、不來不去、不在中間及其內外。不生不滅，性相如如，常住不遷，名之曰道。」簡曰：「師說不生不滅，何異外道？」祖曰：「外道所說不生不滅者，將滅止生、以生顯滅，滅猶不滅、生說無生。我說不生不滅者，本自無生，今亦無滅，所以不同外道。汝若欲知心要，但一切善惡都莫思量，自然得入，清淨心體湛然常寂，妙用恒沙。」簡蒙指教豁然大悟，歸闕表上祖語，帝咨美久之。

> 唐の中国皇帝、中宗は側近の薛簡に勅命を下し、六祖恵能を宮中に招こうとした。しかし祖は病気を理由に辞退し、山林での修行を続けたいと願い出た。薛簡が問うた。「京の都の禅の高僧たちは皆、『道を会得したいなら坐禅を組んで禅定を修めねばならない。禅定によらずして解脱を得た者は、まだいない』と申します。いかがでしょうか、祖のお考えは？」祖が答えた。「道は心で悟るものだ。坐ることに在るのではない。経典にも『もし如来を坐し、あるいは臥す姿に見るならば、それは邪道を行じているのである』とある。なぜか？如来はどこからも来ず、どこへも去らないからだ。もし生も滅もないならば、それが如来の清らかな禅である。諸々の事象が空で静かであることこそ、如来の清らかな坐である。究極的には、証することさえ無い。ましてや坐ることにこだわることなど有り得ようか？」 薛簡が言った。「私めが都へ戻れば、必ず皇帝がお尋ねになるでしょう。どうか和尚さま、心の要諦をお示しくださいませ。」祖が答えた。「道に明暗はない。明暗とは移り変わる概念に過ぎない。明暗に終わりがないように見えても、実際には終わりがある。互いに依存し合って名付けられたものだ。だから経典に『法には比べるものがなく、対立する概念がないからである』とある。」薛簡が更に問う。「明かりは智慧に例えられ、闇は煩悩に例えられます。修行の道において、もし智慧という光で煩悩という闇を照らし破らなければ、無始の生死の迷いから、どうやって出離できるのでしょうか？」祖が答えた。「煩悩即ち菩提である。二つではなく、別のものでもない。もし智慧で煩悩を照らすと考えるなら、それは声聞や縁覚という小乗の見解であり、羊や鹿に例えられるような小さな機根の者たちの見方だ。大いなる智慧と優れた根機を持つ者は、決してそのようには考えない。」薛簡が問う。「では、大乗の見解とはどのようなものでしょうか？」祖が答えた。「明るさと無明、その性質に二つはない。二つでない性質こそが、真実の性質である。真実の性質とは、凡夫や愚か者のうちにあっても減ることなく、賢者や聖者のうちにあっても増えることがない。煩悩の中にあっても乱れることなく、禅定の中にあっても沈みきることもない。断たれることもなく、常に在ることもなく、来ることも去ることもない。中間や内外にも存在しない。生まれることも滅することもなく、その本質と形は常に如くであり、永遠に留まり移り変わることがない。これを道と名付けるのである。」薛簡が問う。「和尚さまが仰る『不生不滅』は、外道の説くところとどこが違うのでしょうか？」祖が答えた。「外道が説く『不生不滅』とは、滅によって生を止め、生によって滅を現そうとするものである。滅と言いながらも滅しきってはおらず、生を説きながらも実は生がないと言っている。私が説く不生不滅とは、本来すでに生が無く、今もまた滅することがない。そこが外道とは異なるのである。もし心の要諦を知りたいのなら、ただすべての善悪を思量しなければ、自然に悟りに入ることができる。清らかな心の本体は、湛然として常に静かであり、その妙用はガンジスの砂の数ほども無限である。」薛簡はこの教えを受けて、たちまち深く悟ることができた。都に帰った薛簡は、この六祖の教えを奏上した。皇帝はそれを聞いて、長く感嘆し称賛された。