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title: "空谷道澄禪師語錄 · 住成都重陽觀"
description: "空谷道澄禪師語錄是清代臨濟宗僧人道澄的語錄集由弟子德儒編撰並依駒本增補刊印。該書成於清朝反映當時禪宗發展面貌記錄了道澄禪師的開示語要機鋒問答及修行指導內容涵蓋心性論空觀及禪修實踐體現了臨濟宗直指人心見性成佛的宗風。作為清代禪宗重要文獻它為研究近代禪學思想與實踐提供了珍貴史料在佛教典籍中具有承先啟後的地位有助於理解禪法在明清時期的傳承與演變。"
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康熙四年乙巳，住成都重陽觀，傳戒上堂。云：「古今戒地杖頭開，一埽煙霞不復來，今朝令在山僧手，者段風光恁剪裁。雖然如是，山僧素不慣談人情語，無非隨機應酬，一縱一奪、一放一收，為必不是班門弄斧，或張或隱、或進或退，難道不是因時制宜，扶起的滿面春風，推倒的無端造意？者裏不是無風起浪、平地千戈，蓋緣眾僧乞戒堅請上堂，只得與眾分疏明白。」舉杖示眾，云：「見麼？若向者裏離見見，戒可得一半。」以杖一卓，云：「聞麼？若向者裏離聞聞，準入初地乘。漸登階級毘尼法，只得勞吾兩片唇，乞戒一齊誠諦聽，次第從頭理葛藤。」依文作法竟，下座。

> 康熙4年（1665年）、成都の重陽観に住し、戒を伝えるため上堂した。師は言った。「古来より、戒の境地は杖の先に開かれた。霞のような迷いを一掃すれば、再び訪れることはない。今日、この命令は山僧の手にある。このような風光を、いかに裁断すべきか。そうであるとはいえ、山僧はもとより人情話を語ることに慣れておらず、ただ機に応じて応酬するのみである。時に引き、時に奪い、時に放ち、時に収める。これはまさに『班門弄斧（専門家の前で腕前を誇る）』ではない。時に広げ、時に隠し、時に進み、時に退く。これこそ『因時制宜（時節に応じて対策を立てる）』ではないか。起こしたものは満面の春风、倒したものは無理に作り出した意識。ここは風のないところに波を起こし、平地に戦いを起こすような所ではない。全ては僧侶たちが戒を乞い、固く上堂を請うたからである。やむを得ず、皆と共に道筋を明らかにするのである。」杖を掲げて衆に示し、言った。「見えるか？もしここで、見ることから離れて見ることができれば、戒の半分を得られる。」杖を一度打ち鳴らして言った。「聞こえるか？もしここで、聞くことから離れて聞くことができれば、初地の悟りに入ることを許す。徐々に階級を上る毘尼（律）の法は、ただ我が二枚の唇を労するのみ。戒を乞う者、皆一斉に誠実に聞け。順を追って、葛藤をほぐしていく。」文に従って作法を終え、法座を下りた。

上堂。云：「說法利生，招罪惹愆；殺豬宰羊，成佛有分。山僧向後戒中不除人之殺害、不斷人之酒葷，只教呼轉白牛、不犯苗稼便好。」舉：「廣額屠兒於捏槃會上放下屠刀，立便成佛，自云是賢劫千佛一數，大眾自不照顧，回頭是路。雖然如是，刀痕血跡未乾在。呵呵！當時不覺醜，過後方知羞，開口無交涉，花殘已過秋。」擲下拄杖，云：「丟下屠刀憑自得，堪歎渠兒直下當。」

> 説法し衆生を利益する者は、罪を招き過ちを犯す。豚を殺し羊を屠る者は、仏となる縁がある。山僧は今後、戒律において人の殺生を除かず、人の酒肉を断たない。ただ白牛を呼び戻し、苗や作物を荒らさないことを教えるのみである。 挙して言う：「広頷の屠児は、涅槃の会において屠刀を放下し、立ちどころに仏と成った。自ら言う、賢劫の千仏の一なりと。大衆よ、自ら顧みずして、頭を回せばこれ道なり。しかれども、刀の痕と血の跡は未だ乾かず。呵呵！その時は醜さに気づかず、過ぎて後に羞じるを知る。口を開けば関わり合い無く、花は散りて既に秋を過ぐ。」 拄杖を投げて言う：「屠刀を抛げ捨てて、自ら得るに任せよ。嘆ずべきかな、渠の児は直下に当たるを。」

上堂。云：「幾番權便弄鉗錘，指箇畫梅戲乳孩，法雨撒開如夏露，道風振轉似春雷。泥牛喚醒歸欄去，石虎掉頭入圈來，拄杖橫挑雙日現，重陽院裏法幢開。」一卓，云：「會麼？三世諸佛、歷代祖師種種差別知見、諸乘法門，一一皆由者拄杖領過了也。本來無說須道，世間一切語言文字皆是權語，咳吐掉臂、敲爐打地、吹毛折指，無非方便，實際理地不立一塵，有何言說？既屈山僧說得一團花簇簇，皆是老夫妙用，與汝諸人分中本無交涉。若向諸方舌邊記取得些來，蒸沙豈能作飯？畫餅那得充饑？如前用心，全無勾當，只須自己屋裏撿點，豈向他方馳求？呵呵！若還不遇仙陀客，焉識壺中別有天？」

> 上堂して言う、「何度か巧みに槌と鉤を使い、梅の絵を描いて子どもを喜ばせた。法の雨は夏の露のように撒かれ、道の風は春の雷のように響き渡る。泥の牛を呼び覚まして檻に戻し、石の虎は首を振って囲いの中に入る。杖を横に振りかざせば両方の太陽が現れ、重陽の院に法の幢が開かれる。」一喝して、「わかるか？三世の諸仏、歴代の祖師の様々な差別の見解、諸々の法門は、一つ一つ全てこの杖によって導かれてきたのだ。本来、説くべきことなどなく、世の中の一切の言語文字は全て仮の言葉に過ぎない。咳や唾、腕を動かすこと、炉を叩き地面を打つこと、毛を吹き指を折ること、どれも方便であり、実際の真理の境地には一塵も立たない。何を言葉で語ることがあろうか？私に無理やり華やかに語らせたのも、全て老夫の妙用であって、あなた方の本来の分には一切関わりがない。もしあちこちの言葉を覚え込んで少しでも得ようとするなら、砂を蒸して飯を作るようなもの、描いた餅で空腹を満たせるものか？そのような心がけでは、全く見当違いだ。ただ自分の内を見つめなさい。どうして外に求めて走り回るのか？ああ！もし仙陀の客に出会わなければ、どうして壺の中に別の天があることを知ることができようか？」