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title: "牧雲和尚嬾齋別集 · 贈郁素修序"
description: "牧雲和尚嬾齋別集是明代臨濟宗高僧通明所著，由著名出版家毛晉編纂。該書成於明末清初，正值佛教禪宗發展與儒釋交融之際，內容收錄了通明禪師的詩文、書信、語錄及禪法開示，融合禪宗心要與文學藝術，展現了禪者對修行與世事的透徹智慧。此作不僅是研究明末禪宗思想與文人佛教的重要文獻，更體現了臨濟宗直指人心的宗風，在佛教典籍中具有承先啟後的地位，為後世學人提供了禪悟與實踐的珍貴參照。"
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### 贈郁素修序

> 郁素修に贈る序

內美未充而外揚，或者譽之，居之不疑，彼何人哉？世出世學術之大患也。惟其欲速外揚，學不至，術不精。叩其所得，曰：「如是而已矣。」察其所安，則貨利也。特借途于學術，故學術惡彼而去之。古之人不然，志于學，不恥惡衣食。或譽之，將不自安，曰：「此譽奚宜至哉？」其意非惡乎譽也，自知學未至也。即使學至，其志愈弱不自滿，其骨愈強不自息可也。彼見學術之量，猶瀛、渤無涯。進乎寸，有尺在前；過乎尺，有尋在前；盡乎今，有古在前。尺寸有盡，瀛、渤之量莫盡；今之尺寸可窮，古之尺寸難窮。名何為哉？惟其不根于名而名隨之，不苟于譽而譽親之，斯又天地間與仁惡佞自然之理也。慨今末世，古人難得，乃于素修郁君見之。其力學篆文云：「在童子時至于今。」歲月深矣，其篆成矣，其譽來矣。為人真樸簡直，不落蕩遊之習，絕迂夸之語。其學可行矣，卒未肯足跡四方，求知于人。客山房中，日與石友，自朝至夕，乎摩神運，心無他營，但求其術之至而已矣。一篆愜意，則喜見眉睫，津津然不自覺。蓋其生平一石當前，雖天地萬物、陰陽寒暑羅列交現，乃不知為何物，況身世窮達、聲色貨利云乎？其用意如此。余見，顧謂諸弟子曰：「學道如郁君，其庶幾焉。」

> 内なる美が十分に育っていないのに、外に誇ろうとする者を、ある者は賞賛し、その者もまた何の疑いもなくその地位に留まる。それは一体どんな人間だろうか。世俗・出世間の学問における最大の害である。ただ外に早く認められたいがために、学問は深まらず、技術も洗練されない。その得るところを問えば、「ただこれだけのことです」と答える。その安んじるところを探れば、利益や欲望である。ただ学問の道を借りているに過ぎないので、学問はそのような者を嫌って離れていく。昔の人はそうではなかった。学問に志し、粗末な衣服や食べ物を恥じなかった。ある人が誉めても、自分は落ち着かず、「この誉め言葉は、どうして自分にふさわしいだろうか」と思った。その心は名誉を嫌うわけではなく、自分の学問がまだ至っていないことを自覚していたのである。たとえ学問が極まっても、その志はますます謙虚で自ら満足せず、その骨格はますます強固で自ら休むことがなかった。彼らは学問の広大さを、大海原のように限りないものと見ていた。一寸進めば、その先に一尺があり、一尺を過ぎれば、その先に一尋があり、今を極めれば、その先に古がある。寸や尺には限りがあるが、大海原の広大さには限りがない。今の寸尺は究められても、古の寸尺は究めがたい。名声など何になろうか。名声を根拠としないからこそ名声が自然とついてきて、称賛を軽んじないからこそ称賛が自然と寄ってくる。これこそ、天地の間で仁を好み佞を憎む自然の理である。 嘆かわしいことに、この末法の世に、古人のような人物は得難い。ところが、このような人物を、平素から修行を積んだ郁君に見出した。彼は篆刻に力を注ぎ、「幼い頃から今日に至るまで」と言う。歳月は深く、その篆刻は完成し、その名声も訪れた。その人柄は真摯で素朴、飾り気がなく、放蕩な習慣に染まらず、気取った大げさな言葉もない。その学問は実践可能であり、未だに一度も諸方を巡って人に知られようとはしなかった。山の書斎に客人として滞在し、日々石を友とし、朝から晩まで手を動かし精神を集中させ、心に他の企てはない。ただその技術の極みを求めるのみである。一つの篆刻が意に適えば、喜びが眉や目に現れ、思わず嬉しさがにじみ出る。そもそも彼の生涯は、一つの石が目の前にある時、天地万物や陰陽寒暑が並び現れても、それが何ものであるかも知らず、ましてや身の上の窮達や、声色や名利など、なおさらである。その心の使いようはこのようである。私はそれを見て、弟子たちに言った。「道を学ぶ者は、郁君のようであれば、ほぼ目的を達するだろう。」