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title: "廣福山勝覺寺密印禪師語錄 · 示古風禪人"
description: "廣福山勝覺寺密印禪師語錄由清代僧人真傳說，弟子如暐等人編纂。該書收錄了密印禪師的開示、法語、機鋒對答及詩偈，是研究清初禪宗思想的重要文獻。其內容體現了臨濟宗的禪風，強調直指人心、見性成佛，反映了當時禪林的修行與教化實踐。此語錄在佛教史上具有較高地位，為學者探究清代禪宗發展與語錄體裁提供了珍貴史料。"
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### 示古風禪人

學道心直如弦，透關眼明似鏡，非是張乖賣俏而可得成，必須珍重一番，透到無有纖毫所礙處，堪以出頭利人，非是偶然得個豁蕩蕩地，管取艸艸匆匆就教行得，具眼宗師難以相保，藻鑑之家求其不上，若不急早覺察，必成過患矣。所以永嘉道：「豁達空，撥因果，莽莽蕩蕩招殃禍。」此即是也。試看當時香林和尚在雲門作侍者十八年，凡得一機半語錄於紙衣而下，方知古人不獨重法，久久熏成大器，透出表裏之外，始得八面通霄，乃獅子窟中真獅子也，莫不上從德山、雪峰老人一脈源深之所流長歟！故所是大根器必經晚成。昔日雲門一宗當代行道，只有香林一派最勝，香林後來接得智門，智門下復出雪竇，轉見不同，愈和愈峻、愈唱愈高，卓然孤絕天下無雙，自古傳於至今，至今淺見之流擬欲履佗行徑而不能下，足已退矣。又如此庵和尚首參圜悟老人，深藏眾中，未嘗露出絲言片語求人所知，縱有許多龍象不能深辨得出，為佗眼闊似海、量如虛空，劃破銀山鐵壁，會盡物我一如，故爾不肯將將就就，便去羅張裏李，終日窮究腳跟下事，只待時緣一至，天龍捧出，著著拈來，貫通今古，能令遙聞近瞻傾心歸伏。嘆近來佯佯之類，善不存誠立志，折伏身心，逐日炮焦火燎，未見一星涼氣。雖然作詩做偈，盡是一味熱烝，攃向明眼人前，大似七顛八倒。或時說話有始，過後立志無終，專檢別人長短，不覺自己香臭，返道人不合我。假使這些毛病不除，莫道一人二人，盡世間人總合不得。合與不合，還量得過。又將昔日古德林下作務行由，喚作瞞人，喚作虛事，喚作無益。惜哉！到這裏甚可悲矣！不忖良心傾喪，更擬破敗別人，可見獅子身中蟲，自食獅子肉。又為破和合僧，使聖道不行。似這般人，千佛出世，難以懺悔，還想甚麼出世因緣？今我古風禪者，勘破如是薄德之徒，來到此間，堪為大量。從此已後，明說一丈，不如密行一尺，不待汝去表揚，自然吹出林外。一動一靜，人皆信受；一勞一苦，莫挂口頭；一言一語，出乎實地；一願一力，終歸到底；一是一非，拋出門外。看惜叢林，如自眼目；慕念勤勞，如作依怙。道行若高，龍虎自伏；德澤若重，鬼神自欽。不在安心用意，施計行權，如龍行處，自有雲隨；穩重如山，風吹不動。欲求出世，並無紆曲者哉！

> 道を学ぶ者は、心を弓の弦のように真っ直ぐにし、目を鏡のように明るくして道理を見通さねばなりません。決して、ごまかしや見せかけで達成できるものではありません。徹底して大切に修行し、わずかな妨げもなくなるまで透徹して、初めて人を導く立場に立てるのです。ただ何となく広々とした境地を得ただけで、いい加減に教えを振り回そうとしても、本当の見識を持つ師匠は保証してくれませんし、見識のある人々は決して認めないでしょう。もし早く気づかなければ、必ずや過ちを招くことになります。 そこで永嘉大師は言いました。「空に執着して因果を否定すれば、いい加減な振る舞いが災いを招く」と。まさにこのことです。 見てごらんなさい。昔、香林和尚は雲門大師のもとで十八年間侍者を務め、一つの機縁、半句の言葉を得るたびに紙衣に書き留めたそうです。これで、古人が単に法を重んじるだけでなく、長い年月をかけて自らを練り上げ、大きな器となるまでに至ったことが分かります。内外を透徹して初めて、八方に通じ、獅子の穴の中の真の獅子となれたのです。これはみな、徳山和尚や雪峰和尚という偉大な祖師方の深い源流を受け継いだからに他なりません。 ですから、真の大器は必ず晩成するものです。昔、雲門宗の中でその時代に活躍したのは、香林派が最も優れていました。香林は後に智門を指導し、智門からは雪竇が出て、さらに見識が異なり、ますます厳しく、ますます高みを極め、孤高にして天下無比となりました。古くから今日に至るまで伝えられていますが、今の浅い見識の者たちはその道を歩もうとしても及びもつかず、すぐに諦めてしまいます。 また、この庵和尚は、初めに圜悟老人に参じましたが、深く大衆の中に身を隠し、決して一言半句も漏らして人に知られることはありませんでした。多くの優れた修行者がいても、彼の真価を深く見極めることはできませんでした。なぜなら、彼の見識は海のように広く、度量は虚空のように大きく、鉄壁のような障壁を打ち破り、万物と自己の一体を悟りきっていたからです。だからこそ、いい加減に振る舞うことなく、常に自分の足元の事柄を究め尽くし、時機が熟すのを待ち、天と龍が引き出すようにして、すべてを自在に使いこなし、古今に通じ、遠くからも近くからもその教えを聞いた人々が心から帰依したのです。 嘆かわしいことに、最近の似非修行者たちは、誠の心で志を立て、身心を調えることをせず、日々焦りに焦って、少しも涼しさを感じることができません。詩や偈を作ることも、すべて熱に浮かされたようなものであり、明眼の人の前では、まるで混乱しているようにしか見えません。話に始まりがあっても、志に終わりがなく、専ら他人の欠点をあげつらい、自分の粗さに気づかず、かえって「人が自分に合わない」と言います。もしこれらの欠点を取り除かなければ、一人二人どころか、世界中のだれもあなたと合わないでしょう。合う合わないは、また別の問題です。さらにまた、昔の高僧たちが林の中で修行に励んだことを、「人を騙すことだ」「無駄なことだ」「意味がない」と非難します。ああ、なんと嘆かわしいことでしょう。良心を失っていることすら顧みず、さらに他人を陥れようとする。まさに獅子の体内の虫が獅子の肉を食うようなものです。また、僧団を破壊し、聖なる道を廃れさせます。このような人々は、千の仏が現れても罪を悔い改めることは難しく、ましてや出世の因縁など望めましょうか？ 今、私、古風禅者は、このような浅はかな者たちを見抜いています。しかし、この場に来たからには、寛大に受け入れましょう。今より後は、口先で一丈を説くよりも、ひそかに一尺を行じる方が勝ります。あなたがわざわざ宣伝しなくとも、自然とその香りは林の外にまで漂います。一挙一動に人は信頼を寄せ、一苦一労を口に出さず、一言一語は地に足がついており、一願一力は最後まで貫かれ、一是一非は門外に捨て去る。僧団をわが目を守るように大切にし、勤めを親のように慕い頼る。道行が高ければ、龍虎も自然に服し、徳沢が重ければ、鬼神も自ずから敬う。わざわざ心を砕いて策略を巡らす必要はなく、龍の行くところに雲が従うように、山のように穩やかで風にも動じません。このようにして、出世の道を求めれば、何の曲がったところもないのです。