黃鶴山
黄鶴山
在府城西南三里,一名黃鵠山,俗名鴻鵠山。相傳宋武帝微時采樵山中,見黃鶴百群時翔時集,故名京口。記曰:有黃鶴山在縣界,晉王恭為刺史,改創西南樓名萬歲樓,西北名芙蓉樓。俗傳此樓飛向江外,以鐵鎖縻之廼已。則此山之名,其來已久。而謂宋武帝微時游息於此,有黃鶴飛舞其上而得名者,或非實錄也。劉宋戴顒世居剡中,又徙京口,止黃鶴山。宋文帝每思見之,曰:吾東游當宴戴公山下,故又名戴公山。
府城の南西三里にあり、別名を黄鵠山、俗に鴻鵠山と呼ばれています。伝説では、宋の武帝がまだ身分の低かった頃、この山で薪を集めていたところ、百余りの黄鶴が時おり飛び、時おり集まるのを見たことから、京口という地名が生まれたといいます。書物にはこう記されています。「県の境界に黄鶴山がある。晋の王恭が刺史であった時、南西の楼を改築して万歳楼と名付け、北西の楼を芙蓉楼と名付けた。俗に、この楼が揚子江の彼方へ飛び去ろうとしたため、鉄の鎖で繋ぎ留めてようやく止まったという」。このことからも、この山の名の由来は古くに遡ることが分かります。そして、宋の武帝が身分の低い頃にこの地で遊び休み、黄鶴がその上で舞ったことから名付けられたという説は、おそらく真実ではないでしょう。劉宋の時代、戴顒は代々剡中に住んでいましたが、後に京口に移り、黄鶴山に留まりました。宋の文帝は彼に会いたいと思うたびに、「私は東遊の折り、戴公の山のふもとで宴を催そう」と言ったことから、別名を戴公山とも呼ばれています。