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title: "海幢阿字無禪師語錄 · 普說"
description: "海幢阿字無禪師語錄是清代禪宗高僧今無禪師的語錄彙編，由弟子今辯重編，依駒本印行。今無禪師乃明末清初曹洞宗重要傳人，活躍於廣東海幢寺，其思想承襲洞山一脈，融合時代特色。語錄內容涵蓋上堂法語、機鋒對答、開示偈頌等，生動展現其禪法精髓與接引手段，強調心地法門與當下覺照。該文獻不僅記錄了清初嶺南禪宗的真實風貌，更是研究曹洞宗思想流變的重要典籍，在漢傳佛教語錄體系中具有不可替代的學術價值與實踐指導意義。"
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### 普說

> 普説

大日菴師太七辰，請師普說。僧問：「西方此土實無岐路，為甚麼此土人更欲念佛往生？」師卓拄杖一下，云：「汝喚甚麼作佛？」進云：「恁麼則用念作麼？」師云：「下地獄去。」進云：「祇如佛之一字，吾不喜聞，又作麼生」？師云：「也是闍黎分上事。」進云：「今日特請座元普說。」便禮拜，師云：「墮也，墮也。」僧便喝，師云：「教誰聽？」僧不顧，歸眾。問：「法身圓妙，遍滿十虛，為甚麼卻在蓮華中現？」師云：「即今是遍滿？不遍滿？」進云：「蓮華未開時如何？」師云：「汝喚甚麼作法身？」進云：「開後如何？」師云：「瞎卻眼睛。」僧以坐具提起，云：「者箇是開？是合？」師云：「咦。」進云：「伏荷慈悲。」師云：「拄杖子𨁝跳上三十三天，觸著帝釋鼻孔，卻來與闍黎相見。」僧鼓掌笑，云：「座元今日納敗缺也。」師云：「甚麼處見得？」便打，僧云：「某甲罪過。」遂禮拜，歸眾。師乃卓拄杖一下，云：「快人一言，快馬一鞭，今日拄杖子更不𨁝跳，還有出來與他相見者麼？」良久，云：「古語有言：『顛倒想生生死續，顛倒想歇生死滅，生死滅處涅槃空，涅槃空處眼中屑。』諸兄弟！既是涅槃空，為甚麼猶是眼中屑？須是鐵額銅筋、鶻眼鷹頭，匹馬單鎗、全鋒料敵，氣吞劉項、智賽韓彭底漢，始有語話分。不然，盤根錯節，結角羅文，正按旁提，說黃道黑，秖添得許多伎倆。」卓拄杖一下，云：「諸兄弟！還委悉麼？今日是大日菴智母老師太三七之辰，堂頭和尚以平昔孝順之心，答盡劬勞之德，大事因緣，全家度脫，直登者老師太於極樂之邦，八十年來何止色養？復命知客訶公及來機菴主請今無為諸兄弟舉揚般若，冥資覺路。諸兄弟！且道作麼生說箇般若？般若又如何舉揚？記得洞山价祖問一講《維摩經》僧云：『不可以智知，不可以識識。是甚麼語？』僧云：『是讚法身語。』山云：『喚作法身，早是讚了也。』所以，此事向明眼人前直是無開口處。於今有一干漢稍留心此道，將謂有多少閒家具一向坐地等，直饒耳朵裏聽得來、書本上看得來，早是塗汙了也。大慧禪師云：『大凡參學，須參活句，莫參死句。活句下薦得，永劫不忘；死句下薦得，自救不了。』你諸人每日上來下去，僧寮下喫茶、喫湯，莊上搬鹽、搬麵，僧堂裏行益，長廊下摘菜，後園裏擔糞，磨坊裏推磨。當恁麼時，佛眼也覷你不著，可謂徹骨徹髓，依實供通。」又云：「且道是活句？是死句？是不死不活句？試定當看。直饒定當得出，未免落在三句裏。諸兄弟！者箇方是得底人真實說話。汝若不會恁麼道，纔見人說箇僧寮裏喫茶湯時、莊上搬鹽麵時、僧堂裏行益時、長廊下摘菜時、後園裏擔糞時、磨坊裏推磨時，佛眼也覷不著，汝便拍盲金砂不揀，倒認無明窟以為自性，棄置妙悟，高談闊論，鹵莽麤豪，逢人問著，不難踢倒淨瓶、掀翻曲彔。者箇莫說道錯參死句，直是魔種。諸兄弟！佛眼覷不著處作麼生？到者裏秪要你伶俐。」良久，云：「料掉沒交涉。昔雲峰悅初參大愚芝和尚，纔請益，芝云：『法輪未轉，食輪先轉，今一眾無食，可為抄化。』悅如命而往。及還，芝已遷別剎，悅又詣芝所，復請益，芝云：『佛法且置，今大眾苦寒，可為乞炭。』悅有難色，然慕道心勝，不敢辭。迨歸，復請益，芝云：『佛法不怕爛卻，即今堂中缺維那，子可補職。』悅直是叵耐，然業已鳴楗槌白眾請之，遂入堂，肚裏只是悶悶，無諮問處。一日，在後架箍桶引篾，觸盤墮地，遂大悟，頓見芝公用處，披衣走方丈，芝一見，喚云：『維那！且喜大事了畢。』悅不能造一辭，拜下，汗如雨而退。諸兄弟！者箇便是參得活句底樣子，汝道他觸盤悟時悟得箇甚麼？第一莫說他悟得箇平常是道，莫說他悟得箇一切現成、更無少欠是道，悟得箇百不知、百不解、日用分明、烜赫虛空是道。既總不是，畢竟作麼生？者裏便是金剛圈、栗棘蓬。你要吞又吞不得，要吐又吐不得，是學人放身捨命處，亦是學人墮坑落塹處，大須著精彩始得。于今說禪，都是認目前鑑覺。有一等鬥湊得極玄極妙，問似普慧雲興、答如普賢瓶瀉，看來總不出心識鑄就底。价祖所謂認驢前馬後，將為自己賓中主尚未分，如何辯主中主？諸兄弟！古人多少勞攘，天下老和尚橫說豎說、曲說直說，總是說得箇第二項底。若不是者箇人，將謂實有恁麼事，如冬瓜印子，一印印定，且不喚作知有，還說甚麼奇特？參禪人具生死心，于宗師門下眉毛廝結，直要此生取辦，不為生死二字拘繫，須具向上眼，要透過佛祖始得。適來說『生死滅處涅槃空，涅槃空處眼中屑』，者句便有透過佛祖底。若會得者句，要會曹山三墮、南泉異類中行、趙州勘破婆子話也不難。他一切祖師秖是得者些子結角羅文處，都盧要穿卻十方三世一切人鼻孔，一切立他下風。新豐和尚亦云：『佛祖言句，如生冤家，始有參學分。若透不過，卻被佛祖謾將去。』又云：『透得佛祖過，此人過卻佛祖。若也如是，始合他佛祖意，方與向上人同。若透不過，但學他佛祖，則萬劫無有出期。』諸兄弟，你看他驢前馬後底，聞人有箇透過佛祖底話，他便認木人鼓掌、石女起舞，耳朵裏盛卻四大海水、眼睫上著得百千須彌盧等語，以為透脫心窩，依舊如黑漆桶相似，豈不是更加一層迷悶？所以，此事若不是啐地折、暴地斷，直饒千說萬說，總不出心識。古人要透過佛祖者箇，須是轉識成智底手段，所謂此智是一切諸佛、一切眾生之地，依此智而作眾生、依此智而成正覺；若無此智，元是虛空，亦非諸佛、亦非眾生，因智隨迷、因智隨悟，智隨迷時名之為識、智隨悟時名之為智。」驀以拂子畫空，云：「諸兄弟！即今是識？是智？還轉得麼？你若心識不行，純以智眼觀察，方知智母老師太數十年來念佛功德，臨命終時一心不亂，念佛之聲纔絕便化去，不是分外；大如車輪之蓮花，微妙香潔，早入夢寐，不生奇特；阿彌陀佛白毫相光先被其體，不是別人；十萬八千里路，不在他方。老師太承是功德，不須一彈指，如壯士展臂便生其國。還信得及麼？且道：只今老師太畢竟在甚麼處安身立命？為是生邪？為是死邪？為是離此五濁生安養邪？試定當看。」良久，云：「即今休去便休去，若覓了時無了時。諸兄弟！還有心識不到一句不曾道著，閒時不妨記取。」

> 大日庵の師太の七回忌にあたり、師が広く説法を求められた。ある僧が問うた：「西方の浄土とこの娑婆世界に、実に岐路はありません。それなのに、なぜこの土の人々はさらに念仏して往生を願うのでしょうか？」 師は杖を一打ちして言った：「汝は何を仏と呼ぶのか？」 僧が進み出て：「それでは、念じることは何のためでしょうか？」 師：「地獄へ落ちるためだ。」 僧：「しかし『仏』という一字さえ、私は喜んで聞きません。それについてはどうなのでしょうか？」 師：「それも、あなた様の立場上のことだ。」 僧：「今日は特に座元に広く説法をお願い申し上げます。」そう言って礼拝した。 師：「堕ちた、堕ちた。」 僧がすぐに喝した。 師：「誰に聞かせるつもりか？」 僧は顧みず、衆の中に戻った。 別の問い：「法身は円妙で、十方の虚空に遍満しているというのに、なぜ蓮華の中に現れるのでしょうか？」 師：「今、遍満しているのか、していないのか？」 僧：「蓮華がまだ開いていない時はどうですか？」 師：「汝は何を法身と呼ぶのか？」 僧：「開いた後はどうですか？」 師：「目を潰してしまえ。」 僧が坐具を掲げて言った：「これは開いているのでしょうか、閉じているのでしょうか？」 師：「おや。」 僧：「ご慈悲をありがたく受け止めます。」 師：「杖が跳ね上がって三十三天に至り、帝釈天の鼻孔に触れて、それからあなた様に会いに来るだろう。」 僧は拍手して笑いながら言った：「座元は今日、敗北を喫しましたね。」 師：「どこでそれが見えたのか？」そして杖で打った。 僧：「私の過失でした。」そう言って礼拝し、衆の中に戻った。 師は杖を一打ちして言った：「機敏な人は一言で分かり、駿馬は一鞭で走る。今日、杖はもう跳ね上がらない。まだ出てきて、これと相見する者はいるか？」 しばらくして言った：「古語にこうある：『顛倒の想いが生じれば生死は続き、顛倒の想いが休めば生死は滅する。生死の滅する処に涅槃は空であり、涅槃の空なる処は眼中の屑である。』諸兄弟よ！涅槃が空であるなら、なぜそれがまだ眼中の屑なのか？鉄の額と銅の筋、鷹の目のように鋭く、鷹の頭のように洞察力を持ち、単騎で槍を手に、全力で敵を裁き、気力は劉邦や項羽を飲み込み、知恵は韓信や彭越に勝るような漢（者）であって初めて、語る資格があるのだ。そうでなければ、絡み合った根や節、角を結んだ網目のような理屈を、正面から押したり、傍らから引き上げたりして、黒を説き白を言い、ただ多くの技巧を増やすだけだ。」 師は再び杖を一打ちして言った：「諸兄弟よ、あなたがたは理解しているか？今日は大日庵の智母老師太の三七日の命日である。堂頭和尚が平生の孝順の心をもって、尽くせし労苦の徳に報い、この大事の因縁により、一家全員を度脱し、この老師太を直接極楽の国に登らせようとなさっている。八十年の間、何も物質的な養いだけではなかった。さらに知客の訶公と来機庵主に命じて、今の無為の諸兄弟に般若を挙揚させ、冥界の覚りの道を資けさせようとしている。諸兄弟よ、さて、どのように般若を説くのか？般若をどのように挙揚するのか？洞山の价祖が、ある『維摩経』を講じる僧に問うたのを覚えているか：『智をもって知るべからず、識をもって識るべからず。これは何の言葉か？』僧が答えた：『法身を賛嘆する言葉です。』价祖：『法身と呼ぶこと自体、すでに賛嘆しているのだ。』 それゆえ、この事は明眼人の前では、まったく言葉を出す余地がないのである。今、一団の漢たちがこの道に少し心を留めている。彼らは、多くの余計な道具を並べて、ただじっと座っているだけだと勘違いしている。耳で聞き、書物で見ただけのものを、既に塗り汚しているのだ。大慧禅師は言った：『およそ参学する者は、活句を参じ、死句を参じてはならない。活句の下で薦め得れば、永劫忘れない。死句の下で薦め得ても、自己を救うことはできない。』 あなたがた諸人は、毎日上に行き下に行き、僧寮で茶を飲み、湯を飲み、庄屋で塩を運び、麺を運び、僧堂で行益し、長廊下で菜を摘み、後園で糞を運び、磨坊で臼を挽いている。そのような時、仏眼もあなたを見ることができない。まさに骨の髄まで、事実のままに通じていると言える。」さらに言った：「さて、これは活句か、死句か、不死不活の句か？試しに定めてみよ。たとえ定め得たとしても、結局は三句の中に落ちてしまう。諸兄弟よ、これこそが悟った人の真実の言葉である。もしあなたがこのように言うことを理解できないならば、人の『僧寮で茶を飲み湯を飲む時』、『庄屋で塩を運び麺を運ぶ時』、『僧堂で行益する時』、『長廊下で菜を摘む時』、『後園で糞を運ぶ時』、『磨坊で臼を挽く時』、『仏眼も見ることができない』という言葉を聞くたびに、あなたは盲目となって金と砂を選別せず、無明の窟を自性と誤認し、妙悟を捨て去り、高談闊論し、粗野で乱暴になり、人に問われるとすぐに浄瓶を蹴倒し、曲彔をひっくり返すだろう。これは死句を間違って参じたと言うだけでなく、まさに魔の種である。諸兄弟よ、仏眼も見ることができない処とはどういうことか？ここではただ、あなたが機敏であることだけが求められる。」 しばらくして言った：「計算違いで、全く関係がない。昔、雲峰悦和尚が初めて大愚芝和尚に参じた時、請益しようとした。芝和尚は言った：『法輪が回る前に、食輪を先に回せ。今、一衆に食べ物がないので、托鉢に行け。』悦は命じられた通りにした。戻ってみると、芝和尚はすでに別の寺に移っていた。悦は再び芝和尚のもとに行き、再び請益しようとした。芝和尚は言った：『仏法はひとまず置け。今、大衆が寒さに苦しんでいる。炭を乞うて来なさい。』悦は難色を示したが、道を慕う心が強かったので、辞することができなかった。帰ってきて、再び請益しようとした。芝和尚は言った：『仏法は腐ることを心配するな。今、堂中には維那が足りない。お前がその職を補え。』悦はまったく耐え難かったが、すでに楗槌を鳴らして大衆に告げ、彼を請うことになっていたので、堂に入った。腹の中はただ鬱々として、相談するところがなかった。ある日、後架で桶に箍を嵌め、篾（竹ひご）を通している時に、盤に触れて地面に落とした。そこで大悟し、たちどころに芝和尚の使い方を理解した。衣を掛けて方丈に走ると、芝和尚は一目見て呼んだ：『維那よ！喜べ、大事は終わった。』悦は一言も発することができず、礼拝し、汗だくになって退いた。諸兄弟よ！これこそが活句を参じた手本である。あなたは、彼が盤に触れて悟った時、何を悟ったと言うのか？彼が『平常が道である』と悟ったと言ってはならない。彼が『一切が現成で、欠けるところが何もないのが道である』と悟ったと言ってはならない。彼が『百も知らず、百も解せず、日用が明らかで、虚空に燦然と輝くのが道である』と悟ったと言ってはならない。すべてそうではないなら、結局どうなのか？ここが金剛の輪、栗の棘の蓬である。あなたはそれを飲み込もうとしても飲み込めず、吐き出そうとしても吐き出せない。ここは学人が身を投げ出し命を捨てる処であり、また学人が坑に落ち塹に落ちる処でもある。大いに精彩を放たねばならない。今、禅を説く者は皆、目前の鑑覚を認めている。中には極めて玄妙に組み立て、問いは普慧菩薩の雲の起こるが如く、答えは普賢菩薩の瓶から水が注がれるが如くという者もいる。しかし見れば、みな心識によって鋳造されたものである。价祖が言うところの『驢馬の前、馬の後を認めて、自己のものとすることは、賓中の主がまだ分かっていないのに、どうして主中の主を弁別できようか？』というのがこれである。諸兄弟よ、古人はどれほど苦労したことか。天下の老和尚は横に説き、縦に説き、曲げて説き、直く説いたが、全て第二項目のことを説いたに過ぎない。もしこのような人でなければ、実にこのような事があると思い込み、冬瓜の印判のように一つの印で押し固めてしまう。そして、それを『知有』とも呼ばず、何が奇特的だと言えようか？ 参禅する者は生死の心を具え、宗師の門下で眉をすり合わせ、生涯にこの事を成し遂げようと直に志し、『生死』の二字に束縛されないようにする。向上の眼を具え、仏祖を透り抜けなければならない。先ほど『生死の滅する処に涅槃は空であり、涅槃の空なる処は眼中の屑である』と言った。この句には仏祖を透り抜けるものがある。もしこの句を会得すれば、曹山の三堕、南泉の異類中行、趙州の婆子を勘破した話を会得することも難しくない。すべての祖師は、ただこの結角羅文の処を得て、すべて、十方三世の一切の人々の鼻孔を貫き、一切の人々をその下風に立たせようとしたのである。新豊和尚も言った：『仏祖の言句は、生まれつきの怨家の如くであって、初めて参学の分がある。もし透り抜けなければ、逆に仏祖に欺き惑わされる。』また言った：『仏祖を透り抜ける者、この人は仏祖を過ぎる。もしそのようであれば、初めて仏祖の意に合い、向上の人と同じになる。もし透り抜けなければ、ただ仏祖を学ぶだけで、万劫経っても出離の期はない。』 諸兄弟よ、あなたはあの驢馬の前、馬の後を行く者たちを見なさい。彼らは、人が『仏祖を透り抜ける』という話を聞くと、すぐに『木人が拍手し、石女が舞い、耳に四大海水を盛り、睫毛の上に百千の須弥山を置く』などの言葉を認めて、透り抜け心窩を得たと思う。しかし、相変わらず黒い漆桶のようなもので、これはさらに一段の迷いと憂いを加えることではないか？ それゆえ、この事は、もし啐の一声で折れ、響きと共に断たれなければ、たとえ千度万度説いても、結局心識から出ることはない。古人が仏祖を透り抜けようとしたのは、まさにこの『識を転じて智と為す』手段が必要なのである。すなわち、この智は一切諸仏、一切衆生の地であり、この智によって衆生となり、この智によって正覚を成す。もしこの智がなければ、元は虚空であり、諸仏でもなく、衆生でもない。智は迷いに随い、智は悟りに随う。智が迷いに随う時、これを識と名づけ、智が悟りに随う時、これを智と名づける。」 突然、払子で虚空に円を描き、言った：「諸兄弟よ、今、これは識か、智か？転じることができるか？もしあなたが心識を起こさず、純粋に智眼をもって観察すれば、初めて智母老師太が数十年間の念仏の功徳により、命終の時に一心不乱で、念仏の声が絶えると同時に化して去ったことが、決して分不相応ではないことを知るだろう。車輪のように大きな蓮華は、微妙香潔であり、既に夢の中に入り、奇特を生じない。阿弥陀仏の白毫相光は、先にその体を照らし、それは他人ではない。十万八千里の道も、他方にあるのではない。老師太はこの功徳を受けて、一弾指の間も必要とせず、壮士が腕を伸ばすようにしてその国に生まれる。あなたは信じることができるか？さて、只今、老師太は結局どこに身を置き、命を託しているのか？生きているのか？死んでいるのか？この五濁の世を離れて安養浄土に生まれたのか？試しに定めてみよ。」 しばらくして言った：「今まさに休むなら、休んでしまえ。もし了る時を求めれば、了る時はない。諸兄弟よ、まだ心識の及ばない一句、まだ一度も言っていない一句がある。暇な時に忘れずに覚えておくがよい。」

陶門蕭氏傳齍設供，請普說。師云：「今日是德文童子奉其老夫人蕭氏道人命，渡江飯僧，請山野說法，宣揚功德，回向其先郡丞大占陶公，欲其夙障肅清，早登天界。道人自去歲皈依山野，受三皈五戒，今春大生歡喜，諄諄以修行事為問，願受持《金剛般若經》，特特求山野半偈。我聞陶公當日居官時，立身狷介，亦曾見我先師翁空隱老和尚，以善人君子遇大善知識，未有不以此事相引發者，所謂一歷耳根，便為道種。者箇是大占不可磨滅底因緣。《涅槃經》云：『善男子！若復有人不知如來甚深境界常住不變微妙法身，是為色身，非是法身。若復有人不知如來道德威力，即名為苦。何以故？以不知故，法作非法、非法作法，當知是人即墮惡趣，受諸輪轉，增長諸結，多受苦惱。若復有人得聞如來常住無有變易，或聞常住二字音聲，若一經耳，即生天上，後得解脫，乃能證知如來常住無有變易。既證知已，作如是言：「我於往昔曾聞是義，今乃證知。我于本際以不知故，流轉生死，週回無窮。」作如是知者，多所利益；若不知者，雖復勤修，無所利益。』」卓拄杖云：「大眾！者箇是如來甚深境界常住不變微妙法身。」復卓拄杖云：「者箇是如來道德威力，昔日靈山會上被金色頭陀輕輕竊將出來，四七二三盡力傳持，天下老和尚橫說豎說，以及我先師翁從博山頂上拈來受用，布告於人。陶大占以不知故，百劫千生受諸纏結，於纏結中一經耳已，早生天界。今日蕭氏道人復請山野特一提起，大占於天界上如夢方覺、如醉方醒、如渴遇水、如飢得食，真能證知如來常住，無有變易。既證知已，即作是言：『我於往昔曾聞是義，以不知故，受諸輪轉，週回無極。』如今合其六親、眷屬、父母、兄弟、妻子，合其知遇，山野以無變易印為其印定，三年前大占不曾有生，三年後大占不曾有死，無有薦拔之人，亦無受薦之者。不特大占如是，盡無央數劫諸天人民亦如是，乃至今日目前刀兵割截、流離酸楚，不妨慶弔異施、悲歡倒用，此是酬蕭氏道人請說法之意。大眾，還會麼？者箇境界，你十二時中時刻踏著者箇，叫做建立智而不建立識。嘗愛李長者註《華嚴經．法界品》法界兩字，他說道：『純與智俱，非情識境界，名為法界。』又云：『違無明識種，純為智用，不屬迷收。此是無依分別智之境界，名為法界。』大眾！有分別是識，無分別是智，如今善見、惡見，乃至達聖語之玄微、別聖境之階級，皆名分別。所謂證於如來清淨涅槃，猶是我相，作麼生得成智用去？者裏大要辯別，但凡說禪，不要儱侗。古人拈頭作尾、拘曲作直，說一句麻三斤、乾矢橛，者箇是會盡微言、婆心赤骨底說話，不是與你躲根。嘗見今愛弄煤炭裏炒黑豆底漢，動著就打就喝，以為向上奇特，此風盛行不能口爭，殊不知全身墮在無明識種中，被無明識種所使。不見大慧舉圓悟有云：『如今諸方盡是窠臼，五祖下我與佛鑑、佛眼三人結社參禪，早見逗遛出來了。佛鑑下有一種作狗子叫、鵓鳩鳴，取笑於人；佛眼下有一種指燈籠露柱、指東話西，如眼見鬼一般。我者裏幸沒有者般病痛。』大慧說道：『好沒者般病痛。』圓悟曰：『何謂也？』大慧曰：『擊石火、閃電光，舉了便會了，引得無限人弄業識精魂，豈不是病痛？』圓悟不覺吐舌曰：『莫管他，我者裏秖要契證為期，若不契證決定不放他。』你看他者三種都不是，若是伶俐人就該在者裏識得，識得當下就是無明識種翻為智用，若更籌度則秖是箇無明識種。如人頭上頂箇盤子相似，若一手除不下，直饒高高頂起、頂到須彌，依舊有箇盤子在。所以此事說與你不得、傳與你不得，一部《五燈會元》、一部《指月錄》，多少宗語未嘗不讀、未嘗不學，秖是沒有悟底消息。白雲端云：『為愛尋光紙上鑽，不能透處幾多難，忽然撞著來時路，始覺平生被眼瞞。』眼是你自家底眼，瞞亦是你自家去瞞，沒人捉定你，所以纔叫做絕消息，知之者少。說法底人句句要把你無明識種翻為智用，無奈你聽法底人步步要長養識種，熏習無明。說法底人若沒有者箇手段，名為劫人智慧底賊。聽法底人不善於聽者箇，叫做曉得運糞入，不曉得運糞出。昔天台韶國師參龍牙和尚，問云：『雄雄之尊，為甚麼近不得？』荅云：『如火與火。』國師云：『忽遇水來又作麼生？』龍牙曰：『道者你去，你不會我語。』看他『如火與火』一句，龍牙出盡己力，直下要你做箇乾乾淨淨底人。若有根器底在者句上，從前求得之心當廢然而退，死盡了知解、死盡了籌度，纔叫做聞熏般若。要討無明識種純為智用在者裏，始見有真消息。他到長起惡濁知見，說道：『忽遇水來又作麼生？』好不直半文。又問：『天不蓋，地不載，此理如何？』龍牙曰：『道者理合如是。』他不省，一連問十七遍，龍牙亦秖如是答。說法底師家似龍牙，真真令人悅服。他者樣去待學者，雖是擇主底行貨，然一遇良賈，出價便多。我說龍牙與李長者一條氣出兩箇鼻孔，一箇細細說到者裏，一箇一提提到者裏，宗教相須，道火何曾燒口？若仔細檢點起來，猶是一場笑具。于今儱侗底驢年夢見，所以知之者轉見難得。大眾！莫有易底麼？若有，不妨因齋慶讚；若無，葛藤堆久立。珍重。」

> 陶門蕭氏が斎を設け供養を捧げ、普説を請うた。師が言われた。「今日は徳文童子がその老夫人蕭氏道人の命により、江を渡り僧に斎を施し、山野に法を説いて功徳を宣揚するよう請い、その先の郡丞である大占陶公に回向し、その宿業を払い清め、早く天界に登らせんと欲するのです。道人は昨年山野に帰依し、三帰五戒を受け、今春大いに歓喜し、懇ろに修行のことを問い、『金剛般若経』を受持したいと願い、特に山野に半偈を求められました。私は聞きます、陶公がかつて官にあった時、立身は狷介で、また私の先師翁である空隠老和尚にお目にかかったことがあると。善人君子が大善知識に遇えば、必ずこの事をもって引き起こさない者はありません。いわゆる『一たび耳根に歴れば、便ち道種と為す』です。これこそ大占の磨くこと能わざる因縁です。『涅槃経』に云わく『善男子、もし復た人ありて如来の甚深境界、常住不変の微妙法身を知らざれば、是れを色身と為し、法身に非ず。若し復た人ありて如来の道徳威力を知らざれば、即ち名づけて苦と為す。 何以故。知らざるを以ての故に、法を作して非法と為し、非法を作して法と為す。当に知るべし、是の人は即ち悪趣に堕ち、諸の輪転を受け、諸の結を増長し、多くの苦悩を受く。若し復た人ありて如来の常住にして変易あること無しと聞くことを得、或いは常住の二字の音声を聞くこと、一たび耳を経れば、即ち天に生じ、後に解脱を得て、乃ち能く如来の常住にして変易あること無しと証知す。既に証知して已りて、是の如く言うを作さん。『我れ往昔に曾て是の義を聞けり。今乃ち証知す。我れ本際に於いて知らざるを以ての故に、生死に流転し、週回して窮まり無し』と。是の如く知るを作す者は、多く利益有り。若し知らざる者は、復た勤修すと雖も、利益する所無し』と。」 杖を卓って云わく、「大衆！これ如来の甚深境界、常住不変の微妙法身なり。」復た杖を卓って云わく、「これ如来の道徳威力なり。昔、霊山の会の上にて、金色頭陀に軽く窃み出だされ、四七二三、力を尽くして伝え持し、天下の老和尚、横に説き縦に説き、並びに我が先師翁、博山の頂上より拈って来り受用し、人に布告す。陶大占、知らざるを以ての故に、百劫千生、諸の纏結を受け、纏結の中に於いて一たび耳を経已れば、早く天界に生ず。今日、蕭氏道人、復た山野に請うて特に一提起し、大占、天界に於いて夢の如く覚め、酔の如く醒め、渇して水に遇うが如く、飢えて食を得るが如く、真に能く如来の常住にして変易あること無しと証知す。既に証知して已りて、即ち是の言を作さん。『我れ往昔に曾て是の義を聞けり。知らざるを以ての故に、諸の輪転を受け、週回して極まり無し』と。今、その六親・眷属・父母・兄弟・妻子、その知遇に合し、山野、変易無きを以て印と為して其れを印定す。三年前、大占未だ曾て生有らず、三年後、大占未だ曾て死せず、薦抜の人あること無く、亦た薦めらるる者あること無し。大占のみかくの如きに非ず、尽く無央数の劫の諸天人民も亦た是くの如し。乃ち今日目前の刀兵割截、流離酸楚に及ぶも、妨げず慶弔異施、悲歡倒用。此れは蕭氏道人の請いて法を説くの意に酬ゆるなり。大衆、还会麼？この境界、汝十二時中審に此を踏む者、これを建立智と名づけて、識を建立せずと曰う。嘗て愛す李長者の註『華厳経・法界品』の法界の二字。彼云わく『純に智と倶にして、情識の境界に非ず、名づけて法界と為す』と。又云わく『無明識種を違えて、純ら智の用と為し、迷の収むる所に属さず。此是れ無依分別智の境界にして、名づけて法界と為す』と。大衆！分別有るは是れ識、分別無きは是れ智。今、善見・悪見、乃至聖語の玄微に達し、聖境の階級を別つも、皆名づけて分別と為す。所謂、如来の清浄涅槃を証するも、猶ほ是れ我相、作麼生か智用を成さん。此処に大いに弁別すべし。但だ禅を説くに、ただ儱侗なることなかれ。古人、頭を取りて尾と為し、曲を拘して直と為し、一句、麻三斤、乾屎橛を説く。此れは微言を会し尽くす、婆心赤骨の説話なり。汝に根を躲す所に非ず。嘗て見る、今愛炭裏に黒豆を炒る底の漢あらんことを。動著すれば打ち喝す。以て向上奇特と為す。此の風盛んに行われて口争を能わず、須らく知るべし、全身無明識種の中に堕ちて、無明識種の使う所と為るを。見ずや大慧、円悟を挙げて云う有り、『今、諸方尽く是れ窠臼。五祖の下、我と仏鑑・仏眼の三人、社を結びて禅に参ずるに、早く逗遛し出だせるを見る。仏鑑の下に一種の狗子叫を作り、鵓鳩鳴を為して、人を取笑する有り。仏眼の下に一種の灯籠露柱を指し、東を指し西を話す、眼の鬼を見るが如き有り。我が此処に幸いに未だ此の病痛有ること無し』と。大慧云わく『好し、未だ此の病痛有ること無し』と。円悟云わく『何謂ぞや？』大慧云わく『石火を撃ち、電光を閃かし、挙げ了れば便ち会し、限り無き人を引得して業識精魂を弄せしむ。豈に病痛に非ずや？』円悟に不自覚、舌を吐いて曰わく『彼に管する勿れ。我が此処に祇り契証を以て期と為す。若し契証せずんば決定して彼を放たず』と。汝見よ、此の三種の者は皆非是なるを。若し伶利の人ならば、即ち此に於いて識るべし。識る、当下に無明識種を翻して智用と為す。若し更に籌度せば、則ち祇り是れ無明識種、人の頭の上に盤子を頂くが如し。一手に除き下ろす能わざる、縦令高高と頂き上げ、頂き須弥に到るも、依舊として一箇の盤子在り。所以に此事説くと汝に与えず、伝うと汝に与えず。一部の『五灯会元』、一部の『指月録』、多少の宗語、未だ嘗て読まず学ばず、祇り是れ悟底消え息む消息無し。白雲端云わく『光を尋ぬるを愛す紙上に鑽る。能く透らざる処幾多の難き。忽然と撞著す来時路。始めて覚る平生眼に瞞されしを』と。眼は是れ汝自家の眼。瞞は亦た是れ汝自家去りて瞞す。没人捉定有ること無し。所以に才って駟つて消息無しと曰いて、知る者少なし。法を説く底の人、句句に汝の無明識種を翻して智用と為さんことを要するも、奈何せん汝の法を聴く底の人、步步に識種を長養し、無明を熏習せんことを要す。法を説く底の人、若し此の手段無くんば名づけて人の智慧を劫する底の賊と為す。法を聴く底の人、此を善く聴くに非ざる者、謂う名字曉得運糞入を、曉得旋糞出をせず。昔、天台韶国師、竜牙和尚に参ず。問いて云わく『雄雄の尊、為什麼にか近づくこと得ざらん？』答えて云わく『火と火との如し。』国師云わく『忽ち水来たるに遇はば又作麼生？』竜牙云わく『道者、汝去れ。汝我が語を会せず。』看他の『火と火との如し』一句、竜牙、己力を使い尽くす。直下に汝に箇の乾乾淨淨たる人を作らんと要す。若し根器ある底の者、此の句の上に於いて、従前の求むるの心、当に廃然として退き、死尽くした知解、死尽くした籌度、才って聞熏般若と曰う。無明識種を討ち、純ら智用と為さんことを要す。此に於いて始めて真消息有りを見ん。彼は長く悪濁の知見を起こし、云わく『忽ち水来たるに遇はば又作麼生？』と。好し不直半文。又問う『天蓋しらず、地載きず、此れ理如何？』竜牙云わく『道者、理合よし是くの如し。』彼省みず、一連に十七遍を問う。竜牙亦た祇く是くの如く答う。法を説く底の師家、竜牙の似く、真真に人をして悦服せしむ。彼かくの如く去って学者を待つ。是れ主を択ぶ底の行貨と雖も、然れども一たび良賈に遇わば、価を出だすこと便ち多し。我云わく、竜牙と李長者と一つの気より両の鼻の孔を出だす。一箇は細細に説いて此に到り、一箇は一提に提して此に到る。宗教相須いて、道火、何ぞ曾て口を焼かん。若し仔細に検点し起だせば、猶ほ一場の笑具。于今儱侗底の驢年に夢見、所以に之れを知る者、転見難得たり。大衆！易き底有りや。若し有らば、因斎慶讃を妨げず。若し無くんば、葛藤堆に久しく立つ。珍重。」

臘八日，三水縣尊王默菴設供，請普說。師豎拄杖，云：「釋迦老子於拄杖頭上放大威光，說道：『當年今日於正覺山前拾還家寶，智慧德相居然具足，作天中天。』諸兄弟！還見麼？」卓一下，云：「於此見得，豈獨釋迦老子具此智慧德相？即今天之所覆、地之所載，若男、若女，若尊、若卑，若貴、若賤，若僧、若俗，一齊具此智慧德相，現前諸兄弟亦具此智慧德相，阿上座亦具此智慧德相。」復卓一下，云：「若只恁麼見去，卻又是你妄想執著，為客塵煩惱所障閉。此事須得頓根鐵漢如擇乳鵝王，於擊石火閃電光中沒頭沒面，一擔擔上纔許與釋迦老子同參。蜀中王默菴明府，阿上座八年前乞食燕都，與他相見於吳太僕家，握手如故。雖他此時功名之念隆隆而上，然觀其智慧德相，卻儘能於宗師門下作得一箇心空及第底縉紳，甚以此事期之。嗣後別去，阿上座為祖禰不了，在十字街頭為人東語西話；默菴亦刺頭入仕宦之途，腰懸墨綬、手執神符，出宰一邑。今日為其長公作道場佛事，卻請為舉揚般若，回向正因。蓋因默菴信有宗門中事，雖理繁治劇，方圓並畫之際，俱不忘卻家傳清白，夙植德本。如此求福慧，真如水歸四河，星拱一月。《涅槃經》有云：『復次，文殊師利！譬如有人生一愛子，為飢渴所逼，為風雨所苦，為行役所困，乃至受蚊虻蜂螫所唼，是人俱不捨離此子，以慈念功德，他日生於梵天。文殊師利！若有善男子欲護正法，深信如來不可思議，應說如來定是無為。何以故？能為眾生生善法故、生憐愍故。如彼前人愛念其子，雖受種種苦，將捨身命，無所顧惜。護法菩薩亦應如是，寧捨身命，不說如來同於有為，當言如來同於無為。以說無為故，得阿耨多羅三藐三菩提，亦如彼人得生梵天。如是之人不求解脫，而解脫自至，亦如彼人不求梵天，而梵天自至。』又說：『能知如來是常住法，是不變異法，是名已作長壽因緣。』諸兄弟！釋迦老子見星之時，與今日聞聲之際，有甚麼變異？八年前與人別去，八年後復來相見，中間歷歷記憶，有甚麼變異？既總無變異，如今世間治生營產，意暢則樂，意怫則悲，他亦歷歷，亦當得不變異麼？須知用悲用歡之時，卻有箇大休歇田地在。能於者裏一回灑脫，不為識想所轉，今日悟去，今日就是長壽之因。者裏不是將聰明得、將才學得、將思想得、將無思想得，所以古德道：『十方薄伽梵，一路涅槃門。』諸禪德！作麼生是涅槃門？莫是在者裏聚會少時便當得麼？莫錯會好。諸禪德！總不恁麼，莫別商量麼？山僧早是不獲已，向諸人恁麼道，已是相鈍置了也，更擬踏步向前，有何所益？諸禪德！但自無事，自然安樂，任運天真，隨緣自在，莫用循他門戶，求覓解會，記憶在心，被他繫縛，不得自在，被生死之所拘繫，何時得出頭？可惜光陰倏忽，便是來生。諸兄弟！當踏步向前時，便全體沒有天真自在境界，然亦不捨向前時另有箇天真自在，若捨之別有，正如撥波求水。所以此事若有心可用，他讀九經十七史底人早已用去了也；若無心可用，煩惱熾然，作麼生悟去？秖為你奈他識心不何，將靈妙之心運沾泥之手，步步如如，步步攪亂，止解運入，不解運出。者裏不是一棒一喝，將箇黑冬瓜印子印得定底，大火燄上不是你棲泊地，罔象之玄潭是野狐之窟宅。五祖演和尚云：『如何是祖師西來意？庭前柏樹子。須恁麼會去方始是。如何是祖師西來意？庭前柏樹子。便恁麼會去，又不是了也。』有一種商量說道：『庭前柏樹子者一句，何等現成，不落思議，圓陀陀，光爍爍。』他如是荅：『正當如是會。』所以他道：『恁麼會方始是。』然纔有箇會處，便落了印子，所以他又救曰：『恁麼會便不是了也。』恁麼說去，儘方便耳根，但依舊是箇說底，用他不著。所以古人於一言一句之下，直露婆心，要解與你不得，傳與你不得，止替你作箇報事人，你自家頭還須自家去點。諸兄弟還知麼？你若眼光定動，縱有見處，早是變異，非常住之法，早是有為，不是無為。止有者些子，使你聰明才智，趁不上一回，有箇省處，不惟以愛念其子之功德，得生梵天，且即入真護法之門，解脫自至。者箇是阿上座今日酬王明府所請之意。諸兄弟！還有應時及節一句，又作麼生道？聽取一偈：世雄丈夫健眼力，寒星看徹青天骨。累得兒孫歲歲忙，羞向人前弄椎拂。椎拂弄處渾不休，更將此理與人求。峨嵋山上普賢王，象背明珠燦爛光。欲將照乘為國寶，先燒智慧功德香。香煙永結吉祥雲，布為霖雨散氤氳。金盤夜照海霞赤，神劍早落波旬軍。舌頭抽骨玄路絕，當軒畫鼓倩誰聞。伽陀我說證勝因，空裏書成五色文。」

> 臘八の日、三水県の尊王黙菴が供物を設け、普説を請いました。師は拄杖を立てて言いました。「釈迦老子が拄杖の頭上に大いなる威光を放ち、こう言った。『当年、今日、正覚山の前で家宝を取り戻し、智慧と功徳の相が備わり、天中の天となった。』諸君、見えるか？」杖を一度打ちつけて言いました。「ここに見えるならば、釈迦老子だけがこの智慧と功徳の相を備えているわけではない。今まさに天が覆い、地が載せているもの、すなわち男も女も、尊い者も卑しい者も、高貴な者も賤しい者も、僧も俗も、すべて一体となってこの智慧と功徳の相を備えている。目の前の諸君もこの智慧と功徳の相を備え、私、阿上座もこの智慧と功徳の相を備えている。」再び杖を打ちつけて言いました。「もしただそのように見るならば、それはまた君たちの妄想と執着であり、客塵の煩悩に覆い隠されているのだ。この事は、まさに頑固な鉄の漢が、鵞鳥が乳を選ぶように、撃石の火や稲妻の光の中で、頭も顔もなく、一気に担いで初めて、釈迦老子と共に参じることが許されるのだ。」 「蜀中の王黙菴明府、私、阿上座は八年前に燕都で乞食をしていた時、彼と呉太僕の家で出会い、手を握れば旧友のようであった。彼は当時、功名への思いが高まっていたが、その智慧と功徳の相を見れば、十分に宗師の門下で心を空しくして及第する官僚となることができると思い、大いにこの事を期待した。その後、別れたが、私、阿上座は先祖の因縁が解決せず、街角で人のために四方八方話をしていた。黙菴もまた官途に頭を突っ込み、腰に墨の組紐を下げ、手に神符を持ち、一つの邑を治めるようになった。今日、彼の長子のために道場の仏事を行うにあたり、私に般若を挙揚し、正しい因に回向するよう請うた。なぜなら、黙菴は宗門の事を信じ、煩雑な政務を処理し、方円を画策する中でも、家伝の清白を忘れず、昔から徳の基を植えていたからだ。このようにして福と慧を求めることは、まさに水が四つの川に流れ込み、星が一つの月を仰ぐようなものだ。」 「『涅槃経』にこうある。『さらに文殊師利よ、例えばある人が愛しい一人の子を持ち、飢えと渇きに苦しめられ、風雨に悩まされ、旅の労に疲れ果て、さらには蚊や虻、蜂に刺されても、その人は子を決して捨てない。慈悲の思いの功徳により、後に梵天に生まれる。文殊師利よ、もし善男子が正法を護り、如来の不可思議を深く信じるならば、如来は必ず無為であると説くべきである。なぜなら、衆生に善法を生じさせ、憐れみを生じさせるからである。あの人が子を愛し、様々な苦しみを受けても、身命を捨てることを惜しまなかったように、法を護る菩薩もまた同じく、身命を捨てても、如来を有為と同じと言わず、如来は無為と同じであると言うべきである。無為を説くがゆえに、阿耨多羅三藐三菩提を得る。またあの人が梵天に生まれたように、このような人は解脱を求めなくとも、解脱は自ずから至る。またあの人が梵天を求めなくとも、梵天が自ずから至ったように。』また『如来が常住の法であり、不変異の法であると知る者は、これを長寿の因縁を成したと名づける』とも説かれている。」 「諸君よ！釈迦老子が星を見た時と、今日声を聞くこの時と、何の変異があるのか？八年前に人と別れ、八年後に再び会う、その間を歴々と記憶する、そこに何の変異があるのか？すべてに変異がないのなら、今の世の中での生活や商売、意にかなえば楽しく、意にそむけば悲しむ、これもまた歴々として、変異しないことを得るのだろうか？知るべきだ。悲しみや喜びを用いる時、そこには大いなる休憩の田地があるのだ。もしここで一度、洒脱になり、識想に転じられなければ、今日悟れば、今日がすなわち長寿の因となる。この場所は、聡明で得ることも、学才で得ることも、思考で得ることも、無思考で得ることもできない。ゆえに古徳は言った。『十方の薄伽梵、一路の涅槃門』と。諸禅徳よ、涅槃門とはどのようなものか？まさかここで少し集まっただけで、それに当たると思うのか？誤解してはならない。諸禅徳よ、すべてそうではないのなら、別に商量するな？山僧はすでに不本意ながら、諸君にこのように言っている。これはすでに君たちに鈍いものを置いてしまったのだ。さらに歩みを進めようとすれば、何の益があろうか？諸禅徳よ、ただ自ら無事であれば、自然に安楽であり、運命に任せて天真であり、縁に従って自在である。人の門をたどり、解釈を求め、記憶にとどめ、それに縛られ、自在を得られず、生死に拘束されて、いつになったら頭を出せるのか？光陰はあっという間であり、すぐに来世となる。諸君よ、歩みを進める時、全体として天真自在の境界はない。しかし、歩みを進める時を離れて別に天真自在があるわけでもない。もしそれを離れて別に求めるならば、それは波をかき分けて水を求めるようなものだ。」 「ゆえにこの事に、もし有心で用いることができるならば、九経や十七史を読む者たちがすでに用いてしまっているだろう。もし無心で用いるならば、煩悩が盛んに燃え盛り、どうやって悟ることができるのか？ただ君たちがその識心をどうすることもできず、霊妙な心で泥にまみれた手を動かし、歩々如如、歩々攪乱し、運び入れることのみを知り、運び出すことを知らないからだ。この場所は、一棒一喝で、黒い冬瓜の印で印を押せば定まるものではない。大火の上は君たちの止まる場所ではなく、罔象の玄潭は野狐の巣窟である。五祖演和尚は言った。『如何が是れ祖師西来意？庭前の柏樹子。須く恁麼に会去して方に始めて是れとす。如何が是れ祖師西来意？庭前の柏樹子。便ち恁麼に会去して則ち又た是れに非ず。』ある一種の商量が言う。『庭前の柏樹子の一句、何と現成であることか、思議に落ちず、円陀陀として光り輝く。』彼はこのように答えた。『正に当に是くの如く会す。』ゆえに彼は言った。『恁麼に会して方に始めて是れなり。』しかし、少しでも「会する」ところがあれば、すぐに印に落ちてしまう。だから彼はまた救って言った。『恁麼に会しては便ち是れに非ず。』このように説けば、耳根には大いに便利であるが、やはり説かれたものに過ぎず、用いることはできない。ゆえに古人は一言一句の下で、まさに老婆心を露わにしたが、君に解釈を与えることはできず、伝えることもできない。ただ君のために報せ役をするだけであり、君自身の頭は君自身で点検しなければならない。諸君はまだ知っているか？もし君の眼光が動くならば、たとえ見る所があっても、それはすでに変異であり、常住の法ではなく、すでに有為であり、無為ではない。ただこのわずかなものが、君の聡明や才能を、一度も追いつかせない。もし覚るところがあれば、子を愛する功徳によって梵天に生まれるだけでなく、真の法護りの門に入り、解脱が自ずから至る。これが私、阿上座が今日、王明府の請いに応えた所以である。諸君よ、時節に応じた一句もあるが、どのように道うのか？一偈を聴け。」 雄眼を備えた世の丈夫、 寒星が青天の骨を見通す。 子孫をして年々忙しくさせ、 人前で椎や拂を弄ぶことを恥じる。 椎拂を弄ぶことやまず、 さらにこの理を人に求める。 峨嵋山の上の普賢王、 象の背の明珠、燦爛と光る。 照乗として国の宝とせんと欲し、 先ず智慧功徳の香を焚く。 香煙、永遠に吉祥の雲を結び、 霖雨となって布き、氤氳と散ずる。 金盤、夜に海霞の赤を照らし、 神剣、早く波旬の軍を落とす。 舌の頭、骨を抜き、玄路絶え、 軒の画鼓、誰に聞かれようか。 伽陀を以て勝因を証すと私は説く、 空に書して五色の文を成す。

結夏日，弟子梁定興古元設供，請普說。師云：「年年結制奉毘尼，踏殺春蟲自不知，莫怪娘生雙腳拙，事忙自覺沒高低。今日是十方諸佛、諸大菩薩清淨梵侶安居之晨，斂慮制行，精進伊始，般若之光隆隆而發。君相梁道友趁此芳辰，揮金辦供，欲結般若緣。以君相於今歲元日在本山轉藥師琉璃經五千四十八卷，然燈百日，蓋信得經中有九種橫說、十二大願，故發此心。既收異熟之果，復發靈秀之芽，者箇見聞不從道理熏蒸、不從師父傳授，於不可知之中已持一箇決定信，豈非念念從功德海中相續不斷，大有來由？教中云：『毘盧藏中有大經卷，量等三千大千世界，書寫三千大千世界中事悉盡無餘。我以清淨天眼觀彼大經卷，在一微塵內設大方便，破彼微塵，出此經卷，饒益有情。』」驀卓拄杖，云：「諸兄弟！者箇是未破之微塵。」復卓，云：「者箇是未出之經卷。君相於三、四十年中行之於戎伍之場、用之於走馬搴旗之際，乃至杯浮大白、梁繞嬌歌，如油入麵，山野不須，點鐵為金、敲璞出玉，就於煩惱塵勞中尋常談笑，與君相破此妄想之塵，出大經卷饒益已竟。又不特為君相破卻此塵，出大經卷饒益已竟，乃至若真、若俗，若男、若女，若古、若今，若遠、若邇，若已發心、若未發心，一齊與他破卻此塵，出大經卷饒益已竟。諸兄弟！還信得及麼？即今目前內盡根身、外洎器界，虛妄映現，於其中間求一點實事了不可得，執謂之有，柝謂之無，指為幻有，喚作真空，費許多力，所以提唱此事，大須知得來由。有一般動著，便去行棒行喝，努眉突眼，如口含一物要吐出來一般，有甚交涉？若是尋常做工夫，於心窩裏稍有偏重，便沒卻者箇消息。昔有一婆子施財，請趙州和尚轉大藏經，趙州下禪床遶一匝云：『轉藏已畢。』人回舉似婆，婆云：『比來請轉一藏，如何和尚只轉半藏？』大慧禪師云：『眾中商量道：「如何是那半藏？」或云：「再遶一匝。」或彈指一下，或咳嗽一聲，或喝一喝，或拍一拍，恁麼見解，只是不識羞。若是那半藏，莫道趙州更遶一匝，直饒百千萬億匝，於婆子分上亦只得半藏；設使更遶須彌山百千萬億匝，於婆子分上亦只得半藏；假饒天下老和尚亦如是，遶百千萬億匝，於婆子分上也只得半藏；乃至山河大地，森羅萬象，若艸若木，各具廣長舌相，異口同音，從今日轉到盡未來際，於婆子分上亦只得半藏。』大慧禪師雖是掃除時病，卻是口直心快，趙州和尚遶者一匝，雖將若真若俗、若男若女、若古若今、若遠若邇、若已發心若未發心，施財轉經功德一時荅盡，卻難為後來雙腳使，尋聲逐氣者，直至如今坐不得。若是海幢門下則不然，設有人問：『畢竟如何？』但道：『百日安居今日始，房舍破壞修治故。』」

> 結夏の日、弟子の梁定興・古元が供養を設け、普説を請いました。師が言いました：「毎年結制して毘尼に遵い、春の虫を踏み殺すとも自ら知らず。母が与えた両の足が拙いことを咎めるな。ただ事に忙しく、高低も感じぬほどだ。今日は十方の諸仏・諸大菩薩、清らかな梵侶が安居する朝。心を静め、行いを律し、精進の始まりとして、般若の光が盛んに輝き出でる。君相・梁道友はこの佳き時を借りて、金を揮って供養を施し、般若の縁を結ばんと欲す。君相は今年の元日、当山において薬師琉璃経五千四十八巻を転読し、百日にわたって灯明を絶やさなかった。これ、経の中に九種の横死と十二の大願があることを深く信じ、その心を起こしたからだ。すでに異熟の果を受け、さらに霊秀の芽を発す。この見聞は道理の薫陶によるものではなく、師匠の伝授によるものでもない。知ることのできないうちに、一つの決定信を持ち続けている。これ、まさに念念が功徳の海から相続して絶えず、大きな由縁のあることではないか。教えにいう、『毘盧蔵の中に大経巻あり、その量は三千大千世界に等しく、三千大千世界の中の事をことごとく書き尽くして余すところなし。我、清浄な天眼をもってその大経巻を観ずれば、一微塵の中にあり。大方便を施して、その微塵を破り、この経巻を出だし、有情を饒益す』と。」 たちまち杖を卓りて言う：「諸兄弟！これが未だ破られざる微塵である。」さらに卓りて言う：「これが未だ出でざる経巻である。君相は三、四十年の間、これを戦場に用い、馬を駆り旗を奪う際に使い、さらには杯に浮かぶ大白（大杯の酒）や、梁に響く嬌歌の中にも、油が麺に染み入るようにしてある。山野の我は、鉄を点じて金とし、璞を敲いて玉を出す必要などない。煩悩の塵労の中、日常の談笑の中で、君相のためにこの妄想の塵を破り、大経巻を出だして、すでに衆生を饒益し終えた。さらには君相のためにのみこの塵を破り、大経巻を出だして饒益したのみにあらず。真にも俗にも、男にも女にも、古にも今にも、遠くにも近くにも、すでに発心した者にも、未だ発心せざる者にも、ひとしくこの塵を破り、大経巻を出だして饒益し終えた。諸兄弟！まだ信じきれるか？今まさに目前、内には根身を尽くし、外には器界に至るまで、虚妄に映現している。その中にあって一点の実事をも求め得ない。執してこれを有といい、分析してこれを無といい、幻有と指し、真空と呼ぶのは、多くの力を費やすことだ。ゆえにこのことを提唱するには、大いに来由を知るべきである。ある種の人々は、少し動くとすぐに棒を用い、喝を発し、眉をひそめ目を怒らせて、まるで口に物を含み吐き出そうとするようだ。これに何の関わりがあるか。もし尋常に工夫をなすなら、心の窩に少しでも偏重があれば、この消息を失うであろう。 昔、一人の老婆が財を施し、趙州和尚に大蔵経を転読するよう請うた。趙州和尚は禅床を下りて一まわりし、言うには『転蔵し終えた』と。使いの者が帰って老婆に告げると、老婆は言うには『もともと一蔵を転読していただこうと思ったのに、どうして和尚は半蔵しか転読しなかったのか』と。大慧禅師が言うには『大衆の中で「あの半蔵とは何か」と議論する者がある。ある者は「もう一まわりせよ」と言い、指を弾く者あり、咳をする者あり、一声喝する者あり、一拍する者あり。そのような見解は、ただ恥を知らぬだけだ。あの半蔵について言えば、趙州和尚がさらに一まわりしようとも、たとい百千万億まわりしようとも、老婆にとってはただ半蔵に過ぎない。たとい須弥山を百千万億まわりしようとも、老婆にとってはただ半蔵に過ぎない。仮に天下の老和尚が皆そうして、百千万億まわろうとも、老婆にとってはただ半蔵に過ぎない。さらには山河大地や森羅万象、草や木に至るまで、それぞれ広長舌相をそなえ、異口同音に今日から尽未来際まで転読しようとも、老婆にとってはただ半蔵に過ぎない』と。大慧禅師は当時の病を掃除したものの、実に心直く口早い。趙州和尚のこの一まわりは、真にも俗にも、男にも女にも、古にも今にも、遠くにも近くにも、すでに発心した者にも未だ発心せざる者にも、財を施し経を転ずる功徳を一時に答え尽くした。しかし後の人のために両足を使いにくくし、声を追い気を逐う者は、今に至るまで座ることができない。もし海幢門下ならばそうではない。もし誰かが『いったいどうなのか』と問えば、ただ『百日の安居は今日より始まる。房舎が破壊したから修理するのだ』と答えよう。」

黎孝廉同吉率長男文學綸芳就永福堂上設供，為其母陳氏孺人請普說。師云：「大眾還知麼？霜月無聲只自寒，煙雲來往太無端，碧空終古六橋上，若箇人來著眼看？青山聚夢，出金碗以無時；秋水纏風，送孤鸞而獨遠。文鋒雖利，不剪芙蓉之枝；春鳥時來，尚識萱花之幕。若是生鐵鑄成底漢子，一任全身畫境，獨步臨風，明珠只在褦襶之間，金針豈離鴛鴦之外？以之齊物，蟭螟眼裏，楚漢同門；以之任運，大鵬背上，風雲異路。佐皇猷而有柱石之材，入詞林而動經緯之朢，不須開口，卻勝披襟。其或未然，山僧且俯順人情，因齋慶讚去也。山僧因今歲託缽六橋，暫救三冬，到來挂錫永福禪院，承合郡諸公歡喜有加。黎似仲孝廉是箇偉男子，信有此道，般若薰發，善根微妙，於此朢日令其長公辦供，請山僧舉揚般若，特為其母陳氏孺人用薦冥福，者箇就是黎似仲底正因；不唯黎似仲底正因，就是陳孺人底正因；不唯陳孺人底正因，就是諸佛菩薩、十地三賢底正因；不唯諸佛菩薩、十地三賢底正因，就是現前若僧若俗、若童若叟底正因。因者，因無所因；正者，能信吾人此心，決可以為聖為賢、立地成佛，不用安排、不用造作，污染不得、清淨不得，單信此心、不信一法。若有所信，則名邪信而非正信。所以道：『若有一法過於涅槃，吾說皆如夢幻。』便是正信底道理。不見溈山喚仰山曰：『寂子速道，莫入陰界。』亦就是正信底道理。古德又云：『決定不流第二念，就中方入我宗門。』亦就是正信底道理。如今說好亦是夢、說歹亦是夢、說生亦是夢、說死亦是夢、說者箇夢底亦是夢，總皆是夢。還有不夢底麼？還將得出與人看麼？道非語言、非文字，你若在者裏暗穿得過，翻轉來一一都不是夢。諸佛菩薩愍我人流浪生死，將法身流轉六道，從無始之際指出箇覺性，者箇覺性便是不生不死底。你說有生有死，皆是不曾看得者箇覺性親切。若看得不親切，者箇喚惡覺而不喚覺性。覺性純靜，不能自守，妄動而成惡覺。若不能消此惡覺，反為覺性所累。若消得，便不要說話，說話雖多，無救於動。故我釋迦老子於靈山會上對百萬人天云：『我四十九年不曾說著一句。』沒後只單單拈起一枝青蓮花示人。大眾！你道拈花底意思是箇甚麼？善覺者便看得親切，惡覺者便看得不親切。你若在拈起花處，將見得底者箇昭昭靈靈便認為是，殊不知者箇早是淪溺中所起底惡覺，帶夢去認夢、將夢去破夢，不唯復此覺性不得，且還有種種惡覺隨之而起。者回生也不安其生，死也不安其死，彼短此長，彼優此劣，現前萬境參差搖動，則賢者有冰炭之門，百姓遭聾瞽之毒。所以《金剛》云：『一切聖賢皆以無為法而有差別。』者回縱饒說得極玄極玅，不過成了一箇夢。佛祖示人，其語言皆平實樸直，令三根各得其味。因後人偷心具足，依語生解，將語言障了自己，沒於文義，成了文字，落了階級，將自己本有底靈光覺性驀地打失。唐宋諸大老興棒興喝，用電走鋒馳之機，示雲收雨散之手，皆為救人偷心。怕你認著，拈起花底昭昭靈靈，受淪溺之苦，使你湊泊不上，乃變換佛祖言語，非有異於佛祖。如今不善學底，反將奇特高舉之言造成一箇硬印子，開口便一片糊塗，牙齒、舌根、眼睫、眉毛一齊黑漆，句句離不得古人口涎，鬥湊得來秖圖嘴滑，自家說了尚不知作何解，何況問人？者箇夢是今日不可破底，若是尋常對世間人說：『你不要耽著功名，不要耽著欲樂是非，人我之心一切放鬆。』者些夢話人人會說，人人亦曉得該破。至於我們據曲彔床替人做師家底，縱說得來，不過少一箇漁鼓筒，便是唱勸世文底瞎子，有甚麼尊貴說夢？既非尊貴，叫他入理深談，他又全身落在夢中，須知好生慚愧，還敢去開大口？山僧今日與諸公結般若之緣，且不必舉燈籠沿壁上、天台扇子𨁝跳等話，又不必因黎似仲為陳孺人資薦之請，便說漸源生也不道、死也不道底公案，只與諸公就現前實地上輕輕提起，或可向者裏討得一點入路。此道不分在家、出家，但見得真，便受用得，那箇不從說話邊入？所謂此方真教體，清淨在音聞。」以拂子擊案，云：「大眾！還聞麼？者箇是昭昭靈靈底，切不可認他因聲而顯，聲歇時他亦隱沒。如今人耳朵裏聞得有道可學，不愁不多，只愁消不得者要學底心，所以說威音王已前無佛名、無眾生名，斯時正是道。最怕你於總沒有一點事處有箇明明白白之見，此見即同於因聲而起者無有差別，你不要因聲便將心計度云：『我聞底是性了。』大眾！聞底是你性，知到聞底早不是性，乃至二六時中折旋俯仰、口談名理、心計家緣，種種作為事有斷續，而所以為事者無有斷續。你若在萬斷萬續之中忽起一箇知覺，認取者箇所以為事底，此念早成斷續，便全體是箇斷續，將所以為事底又驀地打失。《楞嚴》云：『一切眾生遺此本明，雖終日行而不自覺，枉入諸趣。』者箇所以底是本明，要去認取所以底是不自覺。何以故？覺非所覺。一切造業散亂固是不自覺，即覺非所覺亦名不自覺。者裏說來甚淺，明明沒多少工夫，體貼得妥時已不是小可。一種下愚無識，總是將者聽見底、看見底把說話粉飾起來，便當做道，還當得好笑麼？今日因黎似仲之請，就將似仲底事又說箇譬喻，譬如他先司李公遺下園亭手澤為他人侵去，似仲毅然具一箇不肯隕沒先緒之念，此念堅明牢固，因起了此念，遂生出種種作用。若無作用，則此念不顯，及至得還園亭，種種作用一時都息，而此不肯隕沒先緒之念雖終古而不息。息者，謂之斷續；不息者，則非斷續。此念就如吾人本有覺性，圓明純粹，從生至死、從劫至劫，不可破壞，無有滲漏，因他生起知見，遂有斷續。你若認看見底、聽見底以為是，何異於以似仲之作用便當似仲毅然之念乎？所以為學貴益，為道貴損，叫你去做工夫，原要你消得一切，不要你多出一點。大眾！還知麼？山僧今日因夢說夢，大眾今日亦住夢、聽夢，總在夢中，者些都是多出底，止有陳氏孺人一箇獨離夢境。」以拂子擊案，云：「還知麼？同在者裏消歸。久立，珍重。」

臘八日，合省紳衿耆碩於海幢新大殿請師普說。僧問：「世尊說法，天花亂墜，和尚說法是何祥瑞？」師云：「颯颯寒風耳後吹。」進云：「釋迦入滅三千年，即今落在甚麼處？」師云：「闍黎莫凍殺麼？」僧良久，師一喝，僧禮拜起云：「無始劫前即不露，無始劫後時如何？」師云：「閒言語。」進云：「舍父從他又作麼生？」師云：「負累不少。」士問：「今日敦請和尚登座舉揚箇事，和尚如何相為？」師云：「長將日月為天眼，指出須彌作壽山。」進云：「世尊睹星大悟，請問在睹星邊？不在睹星邊？」師云：「那裏得者消息來？」進云：「去此二途如何話會？」師云：「一條舊葛藤，絆倒僧俗漢。」進云：「珠江流夜月。」師云：「好。」進云：「和尚莫瞞人。」師不顧，士禮拜歸眾，師乃顧左右云：「今日真覺場開，還有當機敵手者麼？若有，快來相見；如無，阿上座又瞞諸兄弟去也。銀山覿面勢崔巍，玉殿高臨萬象低，窺得此問綿密意，主中主位不能齊。」喝一喝云：「者一喝賓主互融，照用俱到，無人無我、無優無劣、無動無靜、無賢無愚、無僧無俗，只在當人二六時中騎聲蓋色，見之於用，如風吹海濤、神龍鼓鬣，智力剛強、威光熾盛，撒珍珠於錦繡叢中絢花爛彩，拋綵毬於瓊樓月下露湛風清，直得無佛名、無眾生名，不許有提持覺悟者、不許有承受覺悟者、不許無承受覺悟者、不許有無無承受覺悟者。釋迦掩室於摩竭、淨名杜口於毘耶，猶是攀條引例。」又喝一喝，云：「若向者裏不能一回安住，使識浪奔騰、無明妄動，即有人我、有優劣、有動靜、有賢愚、有僧俗，五嶽之勢界南北以崢嶸、三乘之階隨人性以高下，直煩釋迦老子說箇一切眾生俱有如來智慧德相，但以妄想執著而不證得。者箇婆心快口，將適來者兩喝和泥合水攪成一塊，布告傳持，令西天四七、東土二三渡海傳衣轉加忙卻，天下老和尚勞勞攘攘、唧唧噥噥，遺下一千七百條爛腐葛藤，印向紙文、挂在人口，乃至天下一干州縣白蹋之徒接虛尋響、捕風撮影，今日學相似語、明日學合頭語。阿上座今日不惜口業，亦將釋迦老子說箇一切眾生俱有如來智慧德相，但以妄想執著而不證得，替他和泥合水攪成一塊，分出兩喝。古德云：『但能不觸當今諱，也勝前朝斷舌才。』回互之機、十成之忌，乃明師哲匠順性之工，隨便施設，自然合他古轍。至若據曲彔床、開兩片皮，直須開門見山、挖心露膽；若是一片含糊，吹動法螺、口吐黑煙，有甚麼共語分？大眾！還會得者兩喝麼？」復喝一喝，云：「若是者一喝，就在釋迦老子正說一切眾生俱有如來智慧德相時，求一點轉身吐氣不可得；四七二三渡海傳衣，亦求一點轉身吐氣不可得；天下老和尚唧唧噥噥，亦求一點轉身吐氣不可得；天下一干州縣白蹋之徒，亦求一點轉身吐氣不可得；阿上座與現前大眾，亦求一點轉身吐氣不可得。所謂牢籠不肯住，呼喚不回頭，乃衲僧本地風光。不見梁武帝問達磨：『如何是聖諦第一義？』磨云：『廓然無聖。』帝云：『對朕者誰？』磨云：『不識。』武帝雖然認得聖諦，卻不曉得衲僧本地風光。達磨說箇廓然無聖，說箇不識，大地平沈，真真有者般事。所以此事是極難極易之事，不是奇特，不是特地作氣勢，亦不在深、亦不在淺。譬如有人食甜味，使舉國人不曾食甜，有問此人：『甜作何味？』其人雖具蘇張之舌，亦難措詞。達磨說箇廓然，說箇不識，如輕輕將一塊甜放武帝口中，只是他不嚥下去。就是釋迦老子拈花妙旨，亦要人具者箇風光，事不獲已，說出三乘十二分與人佐助。殊不知纔說箇無常苦空，他便有路可循，失卻本地風光；纔說箇十二相因，他亦有路可循，失卻本地風光；乃至六度萬行興慈運智，他皆有路可循，失卻本地風光。若非達磨傳持箇廓然無聖，連三乘十二分亦留不到今日。故他又說箇直指人心，不立文字。如古德有問他：『如何是佛？』曰：『麻三斤。』『如何是祖師西來意？』曰：『庭前柏樹子。』真是直指。爾若在麻三斤、柏樹子上，稍腳跟不點地，當下就曲了。不唯在者裏當下曲了，即問時稍雜意見，已早曲了。所以，此事斷斷不在語言上。既不在語言上，豈又在優劣、是非、長短之上？阿上座因八月此殿告成，社中諸縉紳發懽喜心，設千佛懺，飯十方僧，要請陞座，只得應從，與大眾舉揚般若，敲骨洗髓。當日有一老宿參臨濟，入門，老宿問云：『禮拜即是？不禮拜即是？』濟便喝，宿便禮拜。濟云：『賊。』宿云：『賊！賊！』即出去。濟云：『莫道無事好。』值臨濟門人在旁，濟問云：『適來有過？無過？』門人云：『有。』濟云：『賓家有？主家有？』門人云：『二俱有過。』濟云：『過在甚麼處？』門人即出去。濟云：『莫道無事好。』大慧禪師判云：『臨濟在暗中贏得一籌，卻在明中輸了一著。雖則有輸有贏、有明有暗，爭奈旁觀者醜。如何是旁觀者？』良久，云：『逢人不得錯舉。』大慧批判古人，如老吏斷獄，無端替人說輸贏，無事生事，亦許會得阿上座前兩喝；若是末後者一喝，尚未夢見在。老宿與臨濟門人雖則善應機宜，進退有節，亦只會得前兩喝；若是末後一喝，亦未夢見在。臨濟是箇白拈賊，縛雞縛兔，俱用全力，亦只會得前兩喝；若是末後一喝，亦未夢見在。且道阿上座末後一喝甚麼纔得夢見？」喝一喝，云：「阿上座今日失利。」

師四十大誕，方大林居士昆仲設供，請師陞座，兼為其尊人八十一致祝普說。師云：「春氣猶寒，春雲如幕。流鶯囀戶，長為實相之談；粉蝶迎空，故作聞琴之舞。應時合節則不無，且道春秋不涉一句作麼生道？」卓拄杖，云：「春秋不涉是當人本具之壽量，虛空則以不拒諸相為壽量、四香水海則以深廣為壽量、須彌山王則以高峻為壽量、諸佛調御則以正覺為壽量、長者居士則以福德為壽量、衲僧則以識得巴鼻為壽量。且道阿上座今日還有壽量也無？」復卓拄杖，云：「者拄杖子四十年橫撐豎拄，不合一回𨁝跳，善能攝諸壽量以為壽量、於虛空則攝他不拒諸相以為壽量、於四香水海則攝他深廣以為壽量、於須彌山王則攝他高峻以為壽量、於諸佛調御則攝他正覺以為壽量、於長者居士則攝他福德以為壽量、於衲僧巴鼻則橫拖直拽以為壽量，不唯善能攝諸壽量，還能令他普遍增長。不見道：『佛身充滿於法界，普現一切群生前，隨緣赴感靡不周，而怕處此菩提座。』諸兄弟！還識此座麼？此座又作麼生處？雲門大師說：『山喚作山、水喚作水、屋喚作屋、拄杖子喚作拄杖子，枉作箇佛法知見，直須如此透得，猶較些子。』若在者裏，動箇聖見，動箇凡情，早已離卻此座，令他普遍增長不得。若在者裏，稍有出入，稍有去來，早已離卻此座，令他普遍增長不得。纔涉唇吻，纔落文彩，早已離卻此座，令他普遍增長不得。直饒一棒一條痕，一掌一握血，亦早離卻此座，令他普遍增長不得。所以此事，有時如龍出海，似虎靠山，亦有時如風吹遊絲，隨風裊娜，不是其人一揖而過。釋迦老子在舍衛乞食畢，洗足敷坐已，全體具足，如是安住、如是降伏底消息，不須須菩提出來，然畢竟令須菩提作禮三拜，讚歎希有，者箇就是釋迦老子與須菩提增長壽量底所在。少林九年兀坐已，全體具足，內心無喘，覓心了不可得底消息，畢竟令二祖霜刀截臂，夜雪齊腰，者箇就是達磨大師與二祖增長壽量底所在。盧行者作新州百姓，斫山雲於斧下，挑夜月於肩頭，早已五葉芬芳，二枝競秀，然畢竟令袈裟遮圍，悟了自渡，者箇就是五祖與盧行者增長壽量底所在。馬祖說：『待汝一口吸盡西江水，始向汝道。』雖則平地與龐居士增長壽量，龐居士好似一條錦尾，乍上禹門，千雷萬電，爇尾燒鱗，翻身跳過。嗣後天下老和尚得此機括，按令而行，攪長河為酥酪，變大地作黃金，一粒還丹，地無頑鐵，平白地推一尊古佛向汝面前，汝纔眨上眉毛，早已容光消瘦，全體是消落，便全體是增長。阿上座只恨口門窄，不能向汝盡說，縱是說得，亦成了捕風捉影，好沒交涉。當時五祖演和尚問一僧云：『釋迦、彌勒猶是他奴，他是阿誰？』其僧答云：『胡張三，黑李四。』五祖演首肯之。明日復理前問，問者僧，僧云：『昨日祇對和尚了。』五祖演云：『汝昨日作麼生說？』其僧云：『胡張三，黑李四。』五祖演云：『不是，不是。』其僧云：『為甚和尚昨日說是？』五祖演云：『昨日是，今日不是。』玄沙禪師亦因一僧問云：『盡大地是一顆明珠，某甲如何識得？』玄沙云：『盡大地是一顆明珠，用識作麼？』其僧休去。明日玄沙復問他云：『盡大地是一顆明珠，汝作麼生識得？』其僧說：『盡大地是一顆明珠，用識作麼？』玄沙云：『情知汝向鬼窟裏作活計。』五祖與玄沙二古德具得如此手眼，乃真堪與人增長壽量。者二僧若不曉得二古德底機用，不唯不能增長，土也消一塊不得。諸兄弟！難道師家與汝傾盤說盡麼？就是用許多坭水琢弄得成，亦是一箇土偶，點睛破壁底手在甚麼處？我海幢社中有方子大林，諸昆仲久信得此事，今日因他尊人方長者八十一初度，特來請阿上座為他舉揚宗乘，令方長者增長壽量。方長者年高八十，阿上座行年半之；方長者富有大業，阿上座貧無卓錐；方長者八子諸孫，阿上座孤笻莫寄。且道是阿上座增長方長者？還是方長者增長阿上座？若說今日是阿上座受生之辰，阿上座不受；若說今日不是阿上座受生之辰，諸兄弟不甘。要粘粘不合、要扯扯不開，不落名言，且道將甚麼與方長者增長壽量？諸兄弟！聽取一偈：有大長者富福德，八龍繞座尤赫赫，聰明智慧各乘時，鎮海明珠隨手得。珊瑚高映彩雲紅，瑪瑙光吞秋月白，長者八十始稱觴，諸郎請我為敷揚。無義諦中真實諦，不施筆墨成文章，不祝三多不作頌，大地靈苗皆可用。九轉還丹定可成，一條熱棒原無縫，今朝始信無生訣，勝如驂鶴朝天闕。長者福德我能攝，還令長者生懽悅，海門日出射扶桑，我與長者同光芒。彼此鬚眉皆映徹，春風滿地成笙簧，長者壽量不可記，長者壽量長如此。諸兄弟！且道是祝壽語？非祝壽語？逢人不得錯舉。」