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  1. 霊峰蕅益大師宗論 (靈峰蕅益大師宗論)
  2. 巻一 (卷一)
  3. 附記 (附記)
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霊峰蕅益大師宗論 (靈峰蕅益大師宗論)


附記

付記

靈峰大師入滅八年壬寅七月,門人性旦病逝,先書囑語,面乞不肖成時,并胞兄胡淨廣,粉遺骨,代先老人滿甲午臘月初三日所命。先是成時邀淨侶,禮佛,說《佛名經》,旦就壇然頂燈,以報法乳深恩。至是復有此囑,謹就八月,集眾,修行藥王本事,七晝夜而作法焉。於時法弟通玄粉骴,成時說偈曰:「無身何必苦摧殘,只為無身故不貪。此意許誰能會得,前三三與後三三。」旦,出新安績邑胡氏望族,年三十三歲,退居近住,故無夏。不畜徒眾,故無傳。為學精細,少年如槁木死灰。雖性相圓明,而以未悟為恥,以愚拙為懼,故不敢任法道。身孱弱而苦行,不為人敬憚,而愈不文其過。病中初現業相,哀籲於佛,乃見彌陀接引。去時眼耳根離,唯蹲坐微笑不已。著有和西齋淨土詩,及《圓覺疏》,未行。旦逝之次年四月,道友程從焜,感其事,亦力疾念佛西逝,自聞異香,越數日,猶趺坐巍然,舉手昂視。焜,歙之槐塘人,其近事、菩薩兩戒,皆稟於先老人者。癸卯冬,成時稽首附記。

霊峰大師が入滅されて八年目の壬寅の七月、弟子の性旦が病で逝去しました。彼は生前に遺言を書き残し、私・成時と実兄の胡浄広に、遺骨を粉にして、先師が甲午年の臘月三日に命じられたことを代わりに果たしてほしいと頼みました。

以前、成時が浄土の仲間を招き、礼拝し『仏名経』を説いた際、性旦は壇上で頭に燈明をともし、仏法の深い恩に報いました。今回、再びこのような遺言を残したので、謹んで八月に衆を集め、薬王菩薩の本生譚に基づく修行を七日七夜行い、法要を執り行いました。

その時、法弟の通玄が遺骨を粉にし、成時は偈を唱えました: 「身なきに何ぞ苦しんで摧残せん、ただ身なきが故に貪らざるのみ。この意、誰か能く会得せん、前三三と後三三と。」

性旦は新安績邑の胡氏という名門の出身で、三十三歳でした。出家後も近住として暮らし、安居の夏を過ごさなかったため、法臘はありません。弟子も持たず、法脈も伝えませんでした。学問には細心で、若い頃から枯木死灰のようでした。性と相の教えに明るかったものの、未悟を恥じ、愚拙を恐れたため、法を任されることを避けました。体は弱かったが苦行を重ね、人から敬われることも畏れられることもなく、過ちを飾ることもありませんでした。

病中、初めは業の相が現れ、仏に哀願すると、阿弥陀仏が迎えに来るのを見ました。臨終の際、眼と耳の感覚は離れましたが、蹲って座り、微笑みを絶やしませんでした。著書に『和西斎浄土詩』と『円覚疏』がありますが、未だ広まってはいません。

性旦が逝去した翌年四月、道友の程従焜はその事跡に感銘を受け、自らも病を押して念仏を唱え、西方に往生しました。その際、異香が漂い、数日後もなお結跏趺坐したまま、手を挙げて仰ぎ見る姿が残っていました。焜は歙県の槐塘の出身で、近事戒と菩薩戒の両方を先師より授かっていました。

癸卯の冬、成時謹んで記す。


續傳
私諡竊議

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