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法瀾澂禅師語録 (法瀾澂禪師語錄)


法瀾澂禪師語錄序
溯自往代禪家,克振宗風者代不數人,至今目猶為空谷之音。慨夫大道榛蕪,性真翳障,綿綿一線,幾至廢墜,而六祖五宗之心傳,如泥牛入海,永無消息。即有一二後起,咸分流別派,見解紛紛,拈棰豎拂,騁辯馳鋒,藤蔓不少,而世之儒者因從而毀之,是亦儒者之過也。何也?余嘗取兩家之言合而觀之,吾儒言誠意正心而先致其知,禪家言明心見性而不離於覺,有二義乎?繇誠、正而修身,以至齊、治、平,皆此一知;繇明心見性,以至度盡眾生,皆此一覺,有二用乎?內外既一,何存彼此?余客遊江陵,得謁法瀾禪師,知其為天王海公嫡嗣,具向上爪牙。讀其語錄,若月印萬川,川川見月,月既無聲,水亦無相,直令大地眾生盡在水月光中出現。其機鋒敏捷,又如金刀破竹,使人情意無餘,六祖五宗之心傳煥然若新,而幾至廢墜之道亦可云克振矣,又豈外吾儒而不吻合宗旨哉?雖西來大意不假言詮,然而繪風圖海,聽之有聲,獨不可授諸天下慧心人乎?

古来より禅の家系において、宗風を大いに振るわしめた者は、時代を経ても数えるほどしかおらず、今に至るまでその声は空しい谷の響きのようだと見なされている。大道が雑草に覆われ、真実の本性が覆い隠されていることを嘆かわしく思う。細々と続く一筋の糸は、ほとんど途絶えんとし、六祖や五宗の心の伝承は、泥の牛が海に入るがごとく、永遠に消息を絶ってしまったかのようだ。たとえ一、二人の後継者が現れても、皆が別々の流れや派閥に分かれ、見解はまちまちで、杖を手に取り、払子を立て、弁舌をふるい、鋭鋒を競い合い、絡み合う蔓草のように煩雑さは少なくない。世の儒者たちはこれに従って禅を誹謗するが、これもまた儒者の過ちである。なぜか?私はかつて両家の言葉を取り上げ、合わせて考察してみた。我が儒教は「誠意正心」を説き、まずその「知」を究めようとする。禅家は「明心見性」を説き、「覚」から離れない。これらに二つの異なる意味があるだろうか?誠意正心から修身を経て、斉家・治国・平天下に至るまで、すべてこの一つの「知」による。明心見性から、衆生をことごとく救済するに至るまで、すべてこの一つの「覚」による。これらに二つの異なる働きがあるだろうか?内と外がすでに一つであるなら、どうしてこちらとあちらを分けて存在させようとするのか?私は旅の途中で江陵を訪れ、法瀾禅師に拝謁する機会を得た。彼が天王海公の正統な後継者であり、向上の爪牙を備えていることを知った。その語録を読むと、まるで月が万川に映り、川川に月が現れるようである。月はすでに声なく、水もまた形なく、ただ大地の衆生をことごとく水と月の光の中に出現させる。その機鋒の敏捷さは、また金の刀が竹を裂くがごとく、人の情意を残すところなく断ち切り、六祖や五宗の心の伝承が鮮やかに新たなものとなり、ほとんど途絶えんとしていた道も、大いに振るわしめられたと言えよう。また、どうして我が儒教の外にあって宗旨に合致しないことがあろうか?たとえ西来の大意が言葉による解釈を借りないとしても、風を描き海を図るごとく、耳を澄ませば声が聞こえる。ただ天下の慧心ある人々に授けることができないだろうか?

康熙十二年歲枉癸丑七月既望,鍾山王才鼎沐手敬題。

康熙十二年癸丑の七月、十六日、鍾山の王才鼎、手を洗い清めて謹んで題す。


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