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釈量論 (釋量論)


現量品第三之二

第三品 現量(その二)

異於有事者, 類等無比量。 有杖等一切, 世俗立名言。
有事、殿鬘等, 聲亦非待他。 若房是具者, 彼鬘復是何?
若是種類者, 一房猶如樹, 亦應說為鬘。 於眾多殿鬘,
彼聲如何轉? 種類無類故。 於鬘等大等, 所許假立者,
與實無差別, 識取故非假。 即許實轉者, 非餘因相同。
六等、句義聲, 見待何餘因? 如共稱所成, 真名。彼同故,
如是說俗名。 事立無事故。 共稱隨名行, 彼隨樂說行。
名言義所作。 如韻名、聲分。 雖異由事法, 如是識因義,
彼識於彼等, 即如是了知。 異了知無異, 其知亦如是。
故離無彼果, 隨行。無一事。 於諸事有故, 事聞有彼邊。
外功能遮斷, 雖無觸,彼聲, 其分別影像, 彼究竟相屬。
遣餘究竟故, 說聞能遣餘。 如遮,由諸聲, 於識現餘影,
彼亦非義體, 彼從亂習起。 彼若由聞說, 能知義何分?
不知。為彼義, 作名則無義。 聲詮義何分? 當詮彼遣餘。
彼相於義無, 說彼豈義依? 隨行聲隨行, 義果。由見習,
所變無隨行。 由覺無異故。 以知彼事益, 了知遮餘故。
何為其聲義? 說即彼無違。 識由聲所變, 彼等所現遮,
此隨義分行。 如是聞遣餘。 故於立名時, 亦見自為果,
與說義屬故, 遣餘與聲屬。 待不見於餘, 待有見彼故。
遣餘與聲屬, 彼於事不可。 故無類等具, 於義及彼等,
非聞相繫屬, 遮餘合聲故。 以念名為因, 所見合雜性,
執前後所空, 眼識彼如何? 心向餘轉者, 眼見眾色時,
不明執彼名, 無彼生分別。 於何定立聲, 於彼生分別,
根生隨欲轉, 應不見外境。 於色謂見色, 彼覺如何見?
亦有彼領受, 如何無分別? 若彼自領受, 無頓二分別。
彼即說同時, 由他識領受。 於過去成念, 無受彼如何?
覺自覺他覺, 決斷體應一。 於了過去義, 離喻,因非有,
由何成?於彼, 非現、非有因。 若謂現彼體, 由彼無間覺,
如色等緣者, 不緣彼前覺。 如有自境識, 領受無分別,
不能名。如是, 餘亦無分別。 詮總為性聲, 分別亦一義。
若無無分別, 差別由何知? 若有無分別, 與彼同因者,
一切皆如是, 果異由因異。 不觀待外義, 由念名結合,
如是不待名, 由事能眼覺。 若色待念名, 於根覺有能,
非無所待者。 如因,於念性, 彼彼繫生故。 念,根識、或非;
餘時亦應生; 有時散亂故。 若漸為二因, 無異故,即前。
若根覺餘因, 於彼念無義。 如為成假名, 許憶念名者,
緣別無假名, 彼念有何義? 若緣唯總者, 不可待差別。
故依眼及色, 而生於眼識。 若生起現識, 如根、境是能,
何故依二生, 而不以彼說? 由見能了知, 決定立名言,
根名言有彼, 所立是彼法。 故此立名言, 是自性正因。
反能遍自性, 故彼亦應遮。 諸集合是聚, 彼總彼根覺,
總覺定無疑, 與分別相連。 餘義相連故, 餘何塵當生?
說彼等集合, 是生識原因。 若無餘微塵, 亦無彼別塵。
識定非於一, 故說總行境。 若雖是一處, 非能頓緣多。
於胡麻等異, 如何現頓緣? 此中速,已說。 於次第降落,
何不非次緣? 諸覺皆同時, 如何彼等中, 有現非次第,
餘現有次第? 故緣眾義時, 此應非次第。 如花蝶等色,
眾多如何現? 若種種是一, 此尤為希有。 種種非一性,
喻如摩尼色。 青等諸區別, 花布等亦同。 若唯支分色,
乃見如是者, 若捨青等外, 見餘花甚奇。 時與義行相,
同了知諸覺, 一次第多義, 一非次一義。 覺種種體故,
諸義種種體。 若彼非因者, 建異由何成? 異類無造故,
畫覺非種種。 由無有色故, 相應非種種。 亦非依假設。
各各非種種。 非漸次取已, 覺合為種種, 一不緣多故。
故一有多義。 由知一義時, 亦見餘義故。 亦成無分別。
現種種諸義, 若一性非理, 且彼獨一覺, 如何現種種?
如如思惟義, 如是如是離, 諸智者所說, 是由事力來。
一種種何過? 彼覺亦不成。 若諸義體爾, 於彼我何為?
故於義與識, 現粗色非有。 破彼體一故, 體多亦非有。
決斷是內心, 似安住於外, 此是所餘分。 無異者諸識,
現異是染性。 彼中由一無, 二者俱失壞。 是故彼二空,
亦是彼實性。 此諸事異住, 是依於彼異。 彼既是染性,
彼等亦當染。 離能所取相, 其餘相非有。 由其相空故,
說為無自性。 由蘊等差別, 一切能相者, 彼亦非實性。
彼等皆離相。 無明所染體, 觀待如自緣, 生識非真如,
如有眩翳等。 未見彼岸者, 皆不了實性。 無能所取染,
彼皆非有故。 彼捨真實義, 以象王顧視, 唯順世間心,
趣向觀外義。 識青等種種, 識別不依餘, 非能見。爾時,
分辨趣外義。 識如其所現, 即如是領受。 如是心行相,
種種成一體。 布等色若一, 如是無區別。 除去差異者,
不見餘無異。 若如諸根等, 差別生眾多, 頓為一覺因,
亦有何相違? 除為因事外, 全無餘所取。 彼中覺所現,
說為彼所取。 如何能頓取, 具自支有支? 未見垂胡等,
不見知是牛。 若許頓了知, 功德最勝等。 非頓取眾支,
亦非德等具。 差別、有差別, 樂說他力故, 先取為支分,
由此而緣彼。 自事離餘者, 無異故;未取、 德等能異故:
雖見餘餘法, 其覺當成一。 若取德等別, 故了知多者。
雖爾,縱如是, 其繫屬錯亂。 聲等多性故, 頓緣多已成。
未取能建者, 不取所建故。 有法遮一切, 從彼彼返異,
假立有異者, 彼眾多體性, 假立自性異, 現種種彼等,
非無分別心, 現為種種事, 非暫生行境。 設有白等性,
如根所行境, 非聲能詮說, 識自性異故。 諸覺雖一義,
由種種所依, 故成彼異者。 則彼耳等心, 由何有異義?
心雖然是從。 彼彼所依生, 然於彼一事, 現種種自性,
彼是由何成? 無所見了知, 言分別轉故。 是遮由所見,
而認識牛等。 於所見牛等, 隨言說分別, 比度種類等,
由此亦破彼。 所見雖各異, 分別認謂一, 是由自性造,
如前已說訖。 若緣前領受, 意則非是量, 若緣未見者,
盲等應見義? 是剎那性故, 非見過去義。 若非剎那性,
應說相差別。 所作已辦業, 不作少差別, 有根或餘者,
如何許能立? 彼事所生覺, 一切應頓起。 若餘無別作,
待彼相違故。 是故諸根識, 無間緣所生, 意能緣餘境,
故盲者不見。 待隨自義者, 根生覺是因, 故此雖緣餘,
許緣境決定。 與彼無同時, 自識時諸義, 如何為根識,
而作俱生緣? 無前無能故, 後亦不合故, 一切因先有,
非義俱自覺。 彼如何緣異? 由理智了知, 能立識行相,
因性為所取。 因雖有眾多, 能隨生果者, 彼立彼體性,
說彼是所取。 樂等不依餘, 不能設立名, 故彼等自證,
非繫屬言說。 餘非證,彼等, 自體如何證? 有說依一義,
是識所證知。 彼非彼自性, 彼非彼因生, 識因生非餘,
樂等何非識? 俱義根堪能, 有如自體心, 見能生樂等,
意亦與彼同。 彼等若有無, 有樂等及覺, 見生不生故,
從彼生,非餘。 由彼等差別, 苦樂等各異, 喻如即由覺,
明、不明,及疑。 由近於何義, 覺及樂等生, 捨彼則樂等,
彼如何能知? 故漸次緣者。 領受彼不能, 無間斷顯現。
速故者,同故, 何非無領受? 非由一知二, 根心決定故,
即無有樂等, 從諸義生故, 彼能無成故。 若謂二別別,
是能,如青等。 應唯緣樂等。 未取彼因義, 領受彼非理。
若與義同緣, 樂等有何能? 不許彼生覺。 若無義,眼等。
領受樂等者, 眼終不能緣, 色等婦等別。 有內支能義,
應不見外境。 緣義,從彼生。 則不受樂等。 由有彼彼境,
諸覺頓生者, 則頓有諸義, 苦樂應頓了。 若有內因識,
則生起苦等, 許彼識唯一, 非相違因者。 何緣計彼識,
為無知親因? 若是增上者, 於相違亦見。 喻如一光明,
對夜行及餘, 諸根觀色相, 頓作逆順緣。 故樂等自身,
所投義相現, 領受故。世設。 非親受外義。 此等了自體,
唯從義生耳。 彼等義體相, 成自體,彼受。 故說領受義,
即所緣,彼現。 有者說樂等, 住外及無心, 是所取。彼亦,
頓緣二,非理。 青等性樂等, 一故頓緣者, 現異相之心,
所取何非異? 外境無差別, 由修習差別, 則不應於覺,
生歡戚差別。 若覺是樂等, 體性無違者, 如何知外境,
是樂等體性? 若謂種類異, 非能所取者, 則士夫應非。
一切能取者, 則受者失壞。 此亦除因果。 應非是因果,
無能所取故。 若有,餘亦爾。 故彼是內性; 所受故是心。
領受何自性? 彼非彼領受。 若非自性受, 謂了住覺者。
除現念行相。 領受,何用覺? 依於彼彼義, 領受樂苦等,
見有一受起, 中間不見餘。 如火與鐵丸, 合雜無分者。
如是一切事, 異不異失壞。 受無異是一, 非爾則成異。
若此非能立, 異能立不成。 苦白等現異。 非異,而覺受。
現無異異者, 異無異何依? 一時為明障, 然於心相續,
見其有異故, 異建立得成。 瑜伽智前說, 彼等修所成。
由除分別網, 是明了顯現。 欲、怖、憂所惱, 夢賊等所壞,
如現前安住, 見非真實事。 分別相隨屬, 義不明了現。
夢中所憶念, 念非如是事。 不淨、地遍等, 雖非真實事,
由修力所化, 無分別明見。 故真非真實, 彼彼善修習,
修習圓滿時, 其果當生覺, 明了無分別。 彼如上說事。
許彼不欺誑, 修所成現量。 餘者有染壞。 若識緣聲義,
彼即是分別。 自體非聲義, 故彼皆是現。 似現量四種:
三種分別識; 從壞所依起, 無分別一種。 為成非根生,
說二,見誤故。 說比等已成, 為成前二故。 有依止名言,
於餘義增益, 是等諸分別, 近現量轉故。 時為錯亂因。
如緣不現義, 憶念等分別, 待名言為性, 不緣現前義。
不念所領受, 不知是瓶等。 故彼知亦從。 現量中失壞。
此第四例外, 彼說從患生。 彼唯說眩翳, 是表有患者。
有說彼屬意, 青、二月等覺, 謂根亦是因。 此論與彼違。
若是輾轉因, 今此是觀察, 根識所行境, 如何成意時?
如何為依根? 若隨根有無, 彼同。若有變, 則何故破此?
此如誤蛇等, 根雖變而退, 根患雖除癒, 然而不退轉。
如是於他身, 由說,時安立。 應待憶所見, 應不明了現。
睡眠或醒時, 所有明顯覺, 彼即無分別。 隨於二時中,
非爾即分別。 故彼無分別, 亦破是正量。 欺故。為彼亦,
說二似現量。 言能立所作, 非是說一切, 諸業之能立。
從何是何果, 彼是彼能立。 於彼唯領受, 相同體之識,
由何辨別業, 彼是其體性。 非體性諸因。 雖異,於異業,
此無所異者, 非能決定異。 故此體性異, 由何定作業?
謂此了知此, 成為彼能立。 雖有相能使, 識自性各異,
此能與義屬, 除義性,非餘。 能立知所量, 即所量自性。
若餘能立者, 彼彼繫不成。 彼是彼體性, 故果非餘義。
緣彼體性者, 是知義體性。 於自所作業, 現似有作用。
自雖非作者, 由此立彼故。 如果似諸因, 體性而生故。
雖非具所作, 世說持因色。 故見及根繫, 並差別覺等,
所作隔斷故, 不許為量性。 能作於所作, 一切皆和合。
最後能異者, 許彼正能立。 一切等因故, 如此非根有。
彼雖異無異, 由何言此此? 此即說餘者。 彼若無事者,
則諸差別覺, 亦應無差異。 餘覺亦如是。 所作與能立,
不許二境異。 若是一義者, 則第二無義。 應無次第起。
若覺頓生者, 無能立所立。 依於彼建立, 建分能所立。
體性皆相繫, 則了知某法, 不應有決定, 相繫無別故。
彼雖無差別, 然由何立異, 彼即此量性。 非由所為立。
若無彼事者, 彼亦無立故。 若謂能所作, 一相違。不實,
許為異法故。 許無真實異。 能所作名言, 皆如是安住。
許為異諸事, 皆增益轉故。 何為了知義? 若謂別別了,
此所有現量。 彼由何知義? 由彼相同者, 應當成錯亂。
由何領受此? 此是觀察彼。 諸微塵由何, 令現此粗相?
故彼非實義。 縱是,由錯亂, 故非能成立, 彼領受體性。
若彼同、彼生, 是領受相者。 則應等義識, 領受等無間。
言見此聞此, 由何決定覺, 彼是領受者? 由何而許彼,
是彼之能立? 現與見彼等, 相近是所觀。 依彼等繫屬,
是見者決定。 彼領彼體性, 彼非餘誰領。 現量別別了,
彼是彼體性, 無餘所領受。 彼復無餘領, 彼所諍同故。
彼自性是明。 彼事青等故, 亦領受自性, 彼雖領自體,
現為領青等。 如彼體性故, 能明,明義時, 許能明自體。
如是覺自了。 彼所了餘義, 能所受難成。 無能所了相。
如發等識異。 若時能所取, 分離相有害。 如錯亂所見,
如是建立此。 爾時能所取, 於相非所諍。 以無了他故,
許自證是果。 若領受外境, 有何過?雖無, 領受外義者,
此當說何因? 若覺有彼相, 雖有隨相轉, 彼由外或餘?
此理應觀察。 離所見差別, 則不能取彼, 取彼則取故。
青現是所見, 非有單外義。 此中謂有某, 醒發某習氣,
故覺成決定, 非觀待外義。 故一有二相, 由如是領受,
及念。此二相, 領受即是果。 若時識因境, 餘欲或不欲,
彼事不成就, 彼如是領受。 若時將識分, 安立為義故,
說為識俱境。 爾時受自體, 決定彼為義。 若領受此體,
欲相及餘相, 則彼欲不欲, 亦當了知義。

具体的な事物から離れた「類」などは、互いに比較して正しく比量することはできません。 「杖を持つ者」など、すべての世俗の言葉は、世俗的な慣習によって名づけられたものです。

「有法(具体的な事物)」「殿鬘(宮殿の飾り花輪)」などの言葉も、他に依存してその意味を持つわけではありません。 もし「家」が「有するもの」であるならば、その「花輪」は一体何なのでしょうか?

もしそれが「種類」であり、一つの家がちょうど一本の木のように「花輪」とも言えるなら、その言葉もまた成り立ちますが、多くの家から成る「殿鬘」という言葉は、どのようにして使われるのでしょうか? 「種類」には、他の種類がありませんから。

「花輪」や「大いなるもの」などにおいて、仮に立てられたもの(仮設)は、実在するものと識別される点で違いがなく、認識されるからです。したがって、それは仮設ではありません。 つまり、実在するものが語られるとき、その原因は他のものと同じではないと認められます。

「六つの等しいもの」や「句義(文の意味)」などの言葉は、他にどのような原因を待って成り立つのでしょうか? あたかも共通の認識によって成立した真の名称のように、それらも同じ理由から俗な名称として説かれます。 事物は実在しないにもかかわらず、名称が立てられるのです。

共通の認識は名称に従って働き、その名称は語りたいままに働きます。 名称や意味は、行為によって作られるものです。 韻律や言葉の区分のように、それらは異なっていても、事物のあり方に従って認識の原因となるのです。 その認識は、それらの対象をそのまま認識します。 認識が異なれば、異なって認識されることもなく、その認識もまたそのようなものです。

したがって、その果を欠くならば、何かに随行する一元の事物もありません。 諸々の事物が存在するからこそ、事物についての認識にはその範囲(辺)があるのです。

外界の事物の機能が遮断されているからには、触れることがなくとも、その言葉は、分別心に映る影像(分別影像)という、究極的に相属するものを持つのです。 排除すること(遣餘)が究極であるから、言葉が排除すること(遣餘)を聞き取ると言われます。 あたかも否定することによって、諸々の言葉によって心に他の影像が現れるように、 それもまた事物の本質ではありません。それは錯誤の習気から生じるのです。

もし、その事物が聞き語られることによって、その意味のどの部分を知ることができるのでしょうか? 知ることはできません。その意味のために名が作られても無意味です。 言葉が表現する意味とはどの部分でしょうか? まさに、それが排除する残余(他を排除したもの)を表現するのです。

その排除する相(イメージ)は事物には存在しませんが、それを説くものがどうして事物に依拠するのでしょうか? 言葉に随行するもの(=意味)は、言葉に従うものです。事物の果として、習慣によって現れるのです。 心によって作り変えられたものは、言葉に随行しません。 認識に違いがないからです。対象物を知る利益は、他を排除したものとして知るからです。

言葉の意味とは何でしょうか? それは、そのものと矛盾しないと説かれます。 心は言葉によって作り変えられ、それら(心)に現れる排除されたものが、 このように意味によって分けられます。このように、聞くことが(他を)排除するのです。 したがって、名前を立てる時にも、自己の果(結果)のために、まさに語られる意味と結びつくことによって、 排除することは言葉と結びつくのです。他には見られず、それあってこそ見られるからです。

排除することは言葉と結びつくと言っても、それは事物においては不可能です。 したがって、「類」や「具有」などは、意味やそれら(語)において、 言葉の聞き取りに結びつくものではありません。排除されたもの(遮余)と言葉とが合わさるからです。

名前という因(原因)によって、見られるものは混ざり合った性質を持ち、 前後の空(欠如)を捉える眼識は、どのようにして成り立つのでしょうか? 心が他に転じている者が、眼で様々な色を見る時、 その名前をはっきりと捉えていなければ、それについての分別は生じません。 どのようなものに言葉が定立されるのか、まさにそれについて分別が生じるのです。

感官から生じ、欲するままに働く(分別)は、外界の対象を見るべきではありません。 色について「色を見る」という認識は、どのようにして見るのでしょうか? また、その領受(感覚)があるのなら、どうして無分別なのでしょうか? もし、それが自らを領受するなら、同時に二つの分別(能取・所取)はあり得ません。 それは、同時に他認識によって領受されると説かれます。

過去に対しては念(記憶)となります。領受がなければ、それはどのように成り立つのでしょうか? 「認識が自己を認識する」「認識が他を認識する」という決断は、その本体は一つであるべきです。 過去の意味を了知することについては、譬喻を離れては因は存在しません。 何によって成立するのか? それについては、現量(直接知)でもなく、比量の因もありません。

もし「それ自体を現す(直接知する)」と言うなら、それはそれに続く認識によって、 例えば色などの縁となるものは、それ以前の認識を縁とはしません。 自己の対象に関する認識があるように、無分別な領受は名前を呼ぶことができません。 それと同様に、他のものも無分別です。

「総体(総)」を表現する性質を持つ言葉と、分別とは、同じ一つの意味を持ちます。 もし無分別がなければ、差異は何によって知られるのでしょうか? もし無分別が存在するなら、それと同じ因を持つものは、 すべてそのようになるはずです。果の違いは因の違いによるのです。

外界の意味を顧みることなく、念と名の結合によって、 このように名を待たずに、事物への眼の認識も可能です。 もし色が念と名を待つなら、それは感官の認識能力を持つことになりますが、 何にも待たないものではありません。因のように、記憶の性質に対して、 それぞれの結びつきから生じるからです。

念は、根識の場合もあれば、そうでない場合もあります。 他の時にも生じるべきですが、時に散乱があるからです。 もし次第に二つの因となるなら、違いがないので、前と同じです。 もし根識に他の因があるなら、その念には意味がありません。

仮の名前を成立させるために、記憶と名前を認めるとしても、 別々のものを縁としなければ仮名はありません。その念にどんな意味があるのでしょうか? もし唯だ総体を縁とするなら、差異を待つことはできません。 したがって、眼と色に依って眼識が生じるのです。

もし現識(直接知)が生じるなら、根と境が能力があるように、 なぜ二つに依って生じるのに、それをもって説かないのでしょうか? 見ることによって了知でき、決定的に名前を立てるのです。 根と名にはそれが存在し、立てられるものは、その法(属性)です。 したがって、この名前を立てることは、自性正因(本質からの正しい推論因)です。

反対に自性を遍く覆うものであるから、それもまた否定されるべきです。 諸々の集合は「集まり」であり、その「総体」は、その根識であり、 総体の認識は間違いなく、分別と結びついています。 他の意味と結びつくからです。他の微塵がどうして生じるでしょうか?

それらの集合が認識を生む原因であると説かれます。 もし他の微塵がなく、またそれと別の微塵もなければ、 認識は決して一つの対象に対してではなく、したがって「総体」を行境とすると説かれます。

たとえ一つの場所にあっても、多くのものを一度に縁とすることはできません。 ゴマなどの異なるものを、どうして一気に縁じることができるのでしょうか? このことについては、速やかさにより(一度に認識されるように見える)と、すでに説かれました。 次第に降り積もるものに対して、なぜ順番に縁じないのでしょうか?

すべての認識は同時なのに、なぜそれらの中に、順序なく現れるものと、 順序を持って現れるものがあるのでしょうか? したがって、多くの意味を縁じる時、これは順序があるべきではありません。 花や蝶などの色のように、多くのものがどのように現れるのでしょうか?

もし「多様なものが一つである」なら、これは特に稀有なことです。 多様なものは一つの性質ではありません。譬喻は摩尼宝珠の色のようなものです。 青などの区別は、花や布などでも同じです。 もし部分のみの色によって、このように見られるのなら、 青など以外に、別の花が見られるのは非常に不思議です。

時と意味の行相(イメージ)と共に、諸々の認識は同じようには了知されません。 一度に多くの意味、一つが非順序で一つの意味を認識することはありません。 認識の本体が多様であるから、諸々の意味の本体も多様です。 もしそれが因でないなら、差異の成立は何によって成り立つのでしょうか?

異なる種類には造作がないから、絵画の認識は多様ではありません。 色彩がないから、対応するものも多様ではありません。また、仮設に依るものでもありません。 個々々々は多様ではありません。次第に取った後に、認識が融合して多様になることはありません。 一つは多くを縁じないからです。

したがって、一つの意味に多くの意味があることになります。一つの意味を知る時、 他の意味も見られるからです。また、無分別も成立することになります。 多様な意味を現すことが、もし一つの性質として不合理であるなら、 ましてやその一つの認識が、どうして多様に現れるのでしょうか?

そのようにそのように意味を思惟すればするほど、そのようにそのように離れると、 諸々の智者によって説かれます。それは事物の力によって来るのです。 「一つが多様である」ことの何が欠点なのでしょうか? その認識もまた成立しません。 もし諸々の意味の本体がそのようであるなら、それに対して私が何をなすでしょう?

したがって、意味と認識において、粗大な色という対象は存在しません。 その本体が一つであることを破るから、本体が多数であることもまた存在しません。 決断されたものは内なる心であり、あたかも外に住しているように見えるもの、 これが残りの部分です。

異なることのない諸々の認識が、異なって現れるのは、迷いの性質です。 その中で、一つのものがなければ、二つのものも共に失われます。 したがって、その二つ(能取・所取)が空であること、これがまさにそれ(諸法)の実性です。

これらの事物が異なって存在することは、それらの異なりに依っています。 それ(能取所取の分別)が迷いの性質であるなら、それら(事物)もまた迷っていることになります。 能取と所取の相を離れては、他の相は存在しません。その相が空であるから、 無自性であると説かれます。

蘊などの差別によって、すべての能相(特徴づけるもの)もまた実性ではありません。 それらはすべて相を離れています。 無明に染められた本体は、自己の縁を観待して、認識を生じますが、 それは真如ではありません。眩翳(目がくらむこと)などがあるように。 彼岸(悟り)を見ていない者は皆、実性を了知しません。

能所取(主客)の染め分けがなければ、それらはすべて存在しないからです。 それら(凡夫)が真実の意味を捨てて、象王の顧みるような態度で、 ただ世俗の心に従い、外の意味を観察する方向に向かいます。

青などを様々に認識し、区別することは他に依りません。 見ることができません。その時、 分別は外界の意味へと向かいます。 認識は、そのまま現れるままに、そのまま領受します。 このように、心の行相は多様でありながら一つの本体となります。

布などの色がもし一つなら、このように区別はありません。 差異を取り除けば、差異のない他のものは見られません。 もし眼根などのように、差別が多くを生み出し、 一度に一つの認識の因となるなら、それに何の矛盾があるのでしょうか?

因となる事物を除いては、全く他の所取(認識対象)はありません。 その中で、認識に現れるものが、その所取であると説かれます。 どのようにして、自己の部分と全体を持つものを、一度に取ることができるのでしょうか? 垂胡(牛のあごの下の垂れ肉)などを見なければ、牛であると知ることはできません。

もし一度に了知することを許すなら、功徳や最勝などの属性も同様です。 多くの部分を一度に取るのではなく、 また、属性などを有するものを一度に取るのでもありません。 差異と差異を持つものは、説明上、他に依存するからです。先に部分を取って、 それによって、その全体を縁じます。

自己の対象は他を離れては差異がないからです。 まだ取っていない属性などが能く差異を生むからです。 他の様々な法を見ても、その認識は一つになるはずです。 もし属性などの別を取るなら、多くのものを了知し得るのです。

たとえそうであっても、たとえそうであっても、その結びつきは錯乱しています。 声などは多様な性質を持つから、一度に多くを縁じることは既に成立しています。 能建(基体)を取らなければ、所建(属性)を取ることはありません。

有法(基体)はすべてを遮断し、それからそれへと反対して異なり、 仮に異なるものが立てられるとしても、それらは多くの体性であり、 仮に自性が異なると立てられ、様々に現れるそれらは、 無分別心が様々な事物として現れるものではなく、 つかの間に生じる行境(認識対象)ではありません。

もし白などの性質があり、根の行境のようであるなら、 言葉で表現することはできません。認識の自性が異なるからです。 諸々の認識は一つの意味であっても、多様な所依によって、 それらが異なるとすれば、その耳などの心は何によって異なる意味を持つのでしょうか?

心は、それぞれそれぞれの所依から生じますが、 しかし、その一つの事に対して、様々な自性を現すこと、 それは何によって成り立つのでしょうか? 見られることなく了知することは、言葉による分別が働くからです。 見られたものによって、牛などを認識することが否定されるのです。

見られた牛などに対して、言葉による分別によって、 種類などを比量することは、これによってもまたそれを破ります。 見られるものは各々異なるけれども、分別は一つと認識するのは、 自性によって作られたものであり、既に前に説かれた通りです。

もし以前の領受を縁とするなら、意(知性)は正量ではありません。 もし見られないものを縁とするなら、盲人なども対象を見るべきでしょうか? ものは瞬間的に滅する性質だから、過去の意味を見ることはありません。 もし瞬間的に滅する性質でなければ、相の違いを説くべきです。

なされた行為が完了しているものは、少しの差別も作りません。 根があるか、または他のものであるか、どうして能立(証明因)として許されるのでしょうか? その事物から生じる認識は、すべて一気に生じるはずです。 もし他に別の働きがなければ、それを持つことと矛盾するからです。

したがって、諸々の根識は、無間縁から生じ、 意(知性)は他の境を縁じることができるので、盲人は見えないのです。 自己の意味に随うものを待つなら、根から生じる認識は因であり、 したがって、これは他を縁じるけれども、境を縁じることが決定していると認められます。

それと同時ではない、自己の認識時の諸々の意味は、どのように根識にとって、 俱生縁(同時に生じる条件)となるのでしょうか? 前になければ能力がなく、後にも適合しないからです。 すべての因は先にあり、対象は自己の認識と同時ではありません。

それはどのようにして異なるものを縁じるのでしょうか? 理知によって了知されることで、認識の行相を能立させ、その因の性質が所取(認識対象)となります。 因は多くあっても、能く果に随って生じるもの、それがそれの体性を立て、 それが所取であると説かれます。

楽などは他に依らず、名前を立てることができません。 したがって、それらの自証(自己認識)は、言語に結びついたものではありません。 他は証明しません。それらの自ら(楽など)の体は、どのようにして証知されるのでしょうか? ある者たちは、一つの意味に依って、認識によって証知されると説きます。

それは、それ(認識)の自性ではありません。それはそれ(認識)から因として生じるのではありません。 認識の因から生じるのは他ではありません。楽などはどうして認識ではないのでしょうか? 共なる意味と、根の能力は、自己の体のような心があるように、 楽などを生じることが見られ、意もまたそれと同じです。

それら(原因)があるかないかによって、楽などと認識の有無が、 生じたり生じなかったりすることが見られるから、 それらから生じ、他からではないのです。 それらの差別によって、苦楽などは各々異なります。例えば、認識によって、 明らかさ、不明瞭さ、および疑いがあるように。

何らかの対象に近づくことによって、認識や楽などが生じ、 それを離れれば楽などはありません。それはどのようにして知ることができるのでしょうか? したがって、次第に縁じるものは、その領受は不可能です。 間断なく顕現するからです。

速やかであるから、同じであるから、どうして領受がないことがあり得るでしょうか? 一つの認識が二つを知ることはできません。根の心は決定しているからです。 すなわち、楽などが諸々の対象から生じることがなく、 その能力が成立しないからです。

もし、二つのものが各々別々に能力があると言うなら、例えば青などのように、 ただ楽などのみを縁じるべきです。その因となる対象を取らなければ、 それ(楽など)を領受することは道理に合いません。

もし対象と同時に縁じるなら、楽などにどんな能力があるのでしょうか? それ(楽など)が認識を生むとは認められません。 もし対象がなければ、眼などは楽などを領受するのでしょうか?

眼は最終的に、色や女などの別を縁じることができません。 もし内なる支え(感覚器官など)に能力があるなら、外界の対象を見るべきではありません。 対象を縁じて、それ(外界)から生じるなら、その時は楽などを感受しません。

もし、そのその対象があることによって、諸々の認識が一気に生じるなら、 一気に諸々の対象があり、苦楽も一気に了知されるはずです。 もし内因としての認識があるなら、苦などが生じます。

その認識は唯一つであり、矛盾する因ではないと認めます。 何の理由があって、その認識を知るための無知の親因と見なすのでしょうか? もし増上縁(支配的な条件)であるなら、矛盾するものにおいても見られます。 例えば、一つの光明が、夜行性の者と他の者に対して、 諸々の根が色相を観察するのに、一気に順縁と逆縁として働くように。

したがって、楽など(の感覚)は、自己自身が投げかけた対象の相(イメージ)を 現し、領受するのです。世間ではそう想定します。外界の対象を直接感受するのではありません。 これらの(楽などの認識)は、自己の本体を、単に対象から生じる それらの対象の体の相として、自己の体とし、それを受容するのです。 したがって、対象の領受とは、すなわち所縁(認識対象)であり、それが現れるのです。

ある者たちは、楽などは外界に存在し、かつ無心であり、所取(認識対象)であると説きます。それもまた、 二つを一度に縁じることは、道理に合いません。 青などの性質と楽などの性質は一つであるから、一度に縁じることになれば、 異なる相を現す心が、なぜ所取において異ならないのでしょうか? 外界の境に差別がなくとも、修行の差別によって、 認識に喜びと悲しみの差別が生じることはないはずです。

もし認識が楽などの体性であることに矛盾がないなら、どのようにして外界の境が 楽などの体性であると知るのでしょうか? もし種類が異なると言うなら、それは能取・所取ではありません。 そうだとすれば、士夫もそうでないはずです。すべての能取者(認識主体)であれば、 受者(感受する主体)は失われてしまいます。これも因果を除きます。 因果でないはずです。能取・所取がないからです。 もしあるなら、他のものも同様です。

したがって、それは内なる性質です。感受されるものであるから心なのです。 何の自性を領受するのでしょうか? それは、それ(自身)の領受ではありません。 自性として受け取るのではなく、認識に住することを了知すると言います。 現前の認識と記憶の行相を除いて、何のために領受という認識が必要なのでしょうか?

そのその対象に依って、楽苦などを領受し、 一つの感受(受)が起こるのを見ます。その中間に他のものを見ません。 火と鉄の塊のように、融合して区別がないように。 このように、すべての事物は、異なることと異ならないことが失われます。

感受(受)は異ならずして一つです。そうでなければ、異なることになります。 もしこれが能立(証明因)でなければ、異なる能立(証明)は成立しません。 苦と白などは異なって現れます。異ならないにもかかわらず、認識は感受します。 異ならないものを異なったものとして現れさせる、異なることと異ならないことは何に依存するのでしょうか?

一時に明らかになることと障害となることがありますが、しかし心の相続において、 それに異なりがあるのを見るから、異なるという成立は成り立ちます。 ヨーガの智慧の前で説かれたように、それら(ヨーガの智慧)は修行によって成就されたものです。 分別の網を取り除くことによって、それは明瞭に顕現します。

欲望、恐怖、憂いに悩まされ、夢や盗人などに害された者が、 あたかも眼前に存在するかのように、非真実の事を見るように。 分別の相が随属して、意味は不明瞭に現れます。 夢の中で想起されることは、認識はそんな事ではありません。

不浄観や地遍などの修行も、非真実の事ではありますが、 修行の力によって作り変えられ、無分別で明らかに見えます。 したがって、真実と非真実、それぞれを善く修習し、 修習が円満する時、その果として認識が生じます。 明瞭で無分別です。それは上に説いた通りのものです。

それは欺かないものと認められ、修行によって成就された現量(直接知)です。 その他(の認識)は、汚染によって損なわれています。 もし認識が言葉の意味を縁じるなら、それは分別です。 自己の体は言葉の意味ではないので、それらはすべて顕現を含みます。

似現量(現量に似て非なるもの)は四種あります。 三種は分別識です。破壊された所依(感官)から生じる、 無分別な一種があります。根から生じたものでないことを成立させるために、 二つが説かれ、誤りが見られるからです。 比量などは既に成立していると説かれ、前述の二つを成立させるためです。

名言に依拠し、他の意味に対する増益(付け加え)である、 これらの諸々の分別は、現量に近づいて転じますが、 時が錯乱の因となります。 現れていない意味を縁じるような、憶念などの分別は、 名言を待つ性質であり、眼前の意味を縁じません。

領受したことを思い出さなければ、これは瓶などであると知りません。 したがって、その認識もまた現量から失われます。 この第四の(似現量)を除いて、それは病から生じると説かれます。 それはただ眩翳(目くらまし)のみを説き、病あるものを表します。

ある者は、それは意に属し、青い二つの月などの認識は、 根もまた因であると説きます。この論はそれと矛盾します。 もし互いに縦横の因となるなら、今ここで観察されるのは、 根識の行境です。どうして意の時となるのでしょうか?

どのように根に依るのでしょうか? もし根の有無に従うなら、それと同じです。 もし変化があるなら、ではなぜこれを破るのでしょうか? これは、誤って蛇などを見る例のように、根は変化しても(誤りが)退きません。 根の病が治癒しても、しかし(誤りが)退かないのです。

このように、他の身体において、言葉によって、時に安立されます。 見たことを記憶することを待つべきです。 不明瞭に現れるはずです。 睡眠時や覚醒時における、すべての明瞭な認識、それは無分別です。 二つの時期のいずれにしても、そうでなければ分別です。

したがって、その無分別なものもまた、正量であることを破られます。欺くからです。 それ(現量)のためにまた、二つの似現量が説かれます。 「能立所作」と言うのは、すべての行為の能立を説くのではありません。 何から何が果であるか、それがそれの能立です。

それにおいて、ただ領受するだけの、同一の体を持つ認識を、 何によって作業を区別するのか、それがその体性です。 体性ではない諸々の因。異なっていても、異なる作業に対して、 これに異なるところがなければ、異なりを決定することはできません。

したがって、この体性の異なりは、何によって作業を決定するのでしょうか? 「これはこれを了知する」と言われることで、それがその能立となります。 たとえ能力としての相があって、認識の自性が各々異なっても、 これは意味との結びつきを与えるものであり、意味の性質を除き、他ではありません。

能立(認識因)が知られるべきもの(所量)を知るとは、すなわち所量の自性です。 もし他が能立であるなら、そのその結びつきは成立しません。 それ(果)はそれ(因)の体性だから、果は他の意味ではありません。

その体性を縁じることは、意味の体性を知ることです。 自己のなした作業に対して、あたかも作用があるように現れます。 自己は作者ではないけれども、これによってそれを立てるからです。 もし果が諸々の因のように、体性から生じるからです。

たとえ所作(働き)を具えていなくとも、世間では因の色(性質)を保持すると言います。 したがって、見ることと、根に結びつくこと、および差別の認識などは、 所作が隔断されているから、量性(正量たる性質)として認められません。

能作(原因)は所作(結果)に対して、すべてと結合します。 最後に異なり得るもの、それが正しい能立であると認められます。 すべて等しい因だから、このように根には存在しません。

それ(果)は異なりつつ異ならないにもかかわらず、何によって「これ」「これ」と言うのでしょうか? これはすなわち、他のものを説くのです。 それ(言葉)に事物がなければ、 諸々の差別の認識もまた、差異がないはずです。 他の認識もまた同じです。

所作(結果)と能立(原因)は、二つの異なる境(対象)とは認められません。 もし一つの意味であるなら、第二のものは無意味です。 次第に生じることはないはずです。 もし認識が一気に生じるなら、能立と所立はありません。

それ(因果関係)に依って建立し、能立と所立の区分を立てます。 体性はすべて互いに結びついているなら、ある法を了知することは、 決定してあるはずがありません。結びつきに区別がないからです。

それらに差別がなくとも、しかし何によって異なりが立てられるか、 それがこの量性(正量性)です。なされた目的によって立てられるのではありません。 もしその事物がなければ、それもまた立てるものがないからです。

もし能作と所作は一つであり、矛盾していると言うなら、それは真実ではありません。 異なる法として許されるからです。真実に異なることはないと許されます。 能作・所作という名称は、すべてこのように安住しています。 異なるものとして許されるすべての事物は、増益によって転ずるからです。

何が意味を了知することでしょうか? もし各々別々に了知すると言うなら、 これにある現量(直接知)が、何によって意味を知るのでしょうか? それと同じもの(認識)によって、錯乱が生じるはずです。 何によってこれを領受するのでしょうか? これはそれを観察することです。

諸々の微塵は、何によってこの粗大な相を現させるのでしょうか? したがって、それは真実の意味ではありません。 たとえそうであっても、錯乱によって、 だから真実の成立因とはなりません。 その領受する体性(認識そのもの)は。

もし、それと同じもの、またはそれから生じたものが、領受の相であるなら、 等しい対象に対する認識は、等しい領受を無間(絶え間なく)に持つはずです。 「これを見る」「これを聞く」と言われる、何によって決定された認識が 領受者なのでしょうか? 何によって、それが その能立であると認められるのでしょうか?

顕現とそれを知覚することなどは、近しいものが観察対象です。 それらの結びつきに依って、見る者の決定が生じます。 それ(認識)がそれ(対象)の体性を領受する、それ以外の誰が領受するのでしょうか?

現量(直接知)は別々に了知します。 それはそれ(対象)の体性であり、他に領受されるものはありません。 それもまた他に領受するものがなく、それ(認識自身と対象が同一であること)についての論争は同じだからです。

それ(認識)の自性は明らかです。 その事物(対象)は青などだから、 また、自己の本性(認識の自性)も領受します。 それ(認識)は自己の体を領受しつつ、 青などを領受するように現れます。 その体性のようであるから、 明らかにするもの(認識)は、意味(対象)を明らかにする時、自己の体を明らかにすることができると認められます。

このように、認識は自己を了知します。 それ(認識)によって了知される他の意味(対象)は、 能取(認識主体)と所取(認識対象)は成立しがたい。 能取と所取の相がありません。 例えば髪などの認識が異なるように。

もし時に、能取と所取の分離した相が有害であるなら、 あたかも錯乱して見られるもののように、このようにこれを建立します。 その時、能取・所取は相において論争の対象ではありません。 他を了知することがないから、自証(自己認識)を果として認めます。

もし外界の対象を領受するなら、どんな欠点があるのでしょうか? 欠点はないけれども、外界の対象を領受するもの(認識)が、 これにどんな因を説くべきでしょうか? もし認識がその相を持つなら、たとえ相に従って転じても、 それは外界によるのか、あるいは他のものによるのか? このことは理にかなって観察されるべきです。

見られる相の差別を離れては、それ(対象)を取ることができません。 それ(対象)を取れば、それ(相)を取ることになるからです。 「青が現れる」ということは、見られる相です。 単独の外界の意味は存在しません。

この中で、ある種の何かが、ある種の習気を呼び覚まし、 したがって認識は決定したものとなる。 外界の意味を観待しないのです。 したがって、一つの認識に二つの相があるのは、このような領受と 記憶による。 この二つの相において、領受こそが果です。

もし認識の因(としての)対象に対して、他者が欲するか欲しないかで、 その事(対象)が成立しないなら、それはそのように領受されます。 もし時に、認識の部分を対象として安立するために、 認識と共なる境と言われるなら、その時、自己の体を領受することで それが対象であると決定されます。

もしこの体(認識)を領受する時、欲する相と他の相があるなら、 その時、その欲したり欲しなかったりすることも、また対象を了知することになるでしょう。

(現量品中段)

現量品第三(上)
現量品第三(下)

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