平山堂位於江蘇揚州蜀岡,蜀岡在府城西北四里,東北抵茱萸灣,隔江與金陵相對。有三峯突起,中峯有平山堂棲靈寺,唐代鑒真和尚壯年遊學回揚,曾居於此。寺創建於劉宋孝武時(四五三~四六四)孝武以大明紀年,故名「大明寺」;隋文帝仁壽元年(六〇一)立九層浮圖,稱「棲靈寺塔」,從此「大明寺」與「棲靈寺」並稱,實為一寺也。唐會昌三年(八四三)塔為火焚,從此多稱大明矣!宋慶曆八年(一〇四八)歐陽修守揚州時,為堂於大明寺坤隅,名「平山堂」。其後大明舊寺漸毀,至明天順、弘治、正德間,經智滄溟祖孫三代之興建,規模始備;清初又廣建殿宇,乾隆三十年(一七六五)賜名「法淨寺」。後人不以寺稱,而直呼為平山堂者,通稱也。記平山堂,舊有汪應庚攬勝志、程夢星小志;乾隆年間,趙之璧復撰為圖志十卷,以山水為經,而以平山堂左右祠寺及園亭各勝為緯,分五門:宸翰、圖、名勝、藝文、雜識。宸翰一門,收清世祖、聖祖、世宗三朝之御製詩。名勝全圖一門,共收四圖;蜀岡保障河全景、由城闉清梵至蜀岡三峰再由尺五樓至九峰園圖、迎恩河東岸圖、迎恩河西岸圖,第二圖極其詳密,所佔頁數達一百十四面,蔚為長卷。名勝一門,以名勝為綱,錄各書所載有關該名勝之記載,皆冠以書名,並附以案語,共記五十二處名勝,其中法淨寺、觀音寺、慧因寺、蓮性寺等,乃蜀岡之佛刹也,法淨寺為蜀岡之主刹;觀音寺乃宋之摘星寺;慧因寺舊名舍利律院,宋寶祐間建;蓮性寺舊名法海寺,元至正間僧為正建。藝文一門,收各體文字。雜識一門,則錄方言、詩話、軼事與異聞。茲據國立臺灣大學研究圖書館藏清乾隆三十年(一七六五)揚州官署原刊本景印。
平山堂は江蘇省揚州の蜀岡に位置し、蜀岡は府城の西北約四里にあり、東北は茱萸湾に至り、長江を隔てて金陵と向かい合っている。三つの峰が突き出ており、中峰には平山堂と棲霊寺があり、唐代の鑑真和尚が壮年の頃、留学から揚州に戻った後、ここに住んだことがある。寺は劉宋の孝武帝の時代(453~464年)に創建され、孝武帝が「大明」と改元したため、「大明寺」と名付けられた。隋の文帝の仁寿元年(601年)に九層の仏塔が建てられ、「棲霊寺塔」と呼ばれ、これ以降「大明寺」と「棲霊寺」が併称されるようになったが、実際は同じ寺である。唐の会昌三年(843年)に塔が火災で焼失し、以後は主に大明寺と呼ばれるようになった。宋の慶暦八年(1048年)、欧陽修が揚州の長官を務めていた時、大明寺の南西の隅に堂を建て、「平山堂」と名付けた。その後、大明寺の旧建物は次第に荒廃したが、明の天順・弘治・正徳年間に智滄溟とその子孫三代によって再建され、規模が整った。清の初期にはさらに殿宇が広げられ、乾隆三十年(1765年)に「法浄寺」の名を賜った。後世の人々は寺の名で呼ばず、直接「平山堂」と呼ぶことが一般的になった。平山堂についての記録としては、かつて汪応庚の『攬勝志』や程夢星の『小志』があった。乾隆年間に趙之璧がさらに『図志』十巻を編纂し、山水を縦軸とし、平山堂の左右にある祠寺や庭園などの名所を横軸として、五つの部門に分けた:宸翰・図・名勝・芸文・雑識。宸翰の部門には、清の世祖・聖祖・世宗の三代の皇帝による御製詩が収められている。名勝全図の部門には四つの図が収録されており、蜀岡保障河の全景、城門の清梵から蜀岡の三峰へ、さらに尺五楼から九峰園までの図、迎恩河の東岸図、迎恩河の西岸図である。第二の図は非常に詳細で、114ページにわたる長巻となっている。名勝の部門では、名所を項目とし、各書に記されたその名所に関する記録を掲載し、それぞれ書名を冠し、案語を付している。全部で52か所の名所が記録されており、その中には法浄寺・観音寺・慧因寺・蓮性寺など、蜀岡の仏教寺院が含まれている。法浄寺は蜀岡の主刹であり、観音寺は宋の摘星寺である。慧因寺はかつて舎利律院と呼ばれ、宋の宝祐年間に建立された。蓮性寺は旧名を法海寺といい、元の至正年間に僧・為正によって建てられた。芸文の部門には、様々な文体の文章が収められている。雑識の部門では、方言・詩話・逸話・奇談が記録されている。本書は国立台湾大学研究図書館所蔵の清乾隆三十年(1765年)揚州官署原刊本を影印したものである。