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太虚大師全書.第十一編 宗依論(上) (太虛大師全書.第十一編 宗依論(上))


敘論
一 現實即宇宙 有事實而無邊中之謂宇,有變現而無始終之謂宙。用名數心想割畫於宇,故說為點線面體,說為上下縱橫,說為空間(方分);而宇非點線面體,非上下縱橫,非空間也。用名數心想割畫於宙,故說為忽秒分刻,說為古今往來,說為時間;而宙非忽秒分刻,非古今往來,非時間也。將宇宙一部云世界,世界非宇宙之全稱。即人生全部云宇宙,人生非宇宙之對稱。宇宙者何?現實而已。現實者何?宇宙而已。有變斯有現,無現則無變,無變非現,無現非變,續變續現,續續自住攝十世,曰永宙;一念眾念自住永宙,非永宙莫觀乎變現。有事斯有實,無實則無事,無事非實,無實非事,各事各實,各各互遍入十界,曰大宇;一相眾相互遍大宇,非大宇莫觀乎事實。觀各事於續變,是謂宇宙;觀永宙於大宇,是謂現實。然不名宇宙而言現實者,宇宙曾被說為方體時刻,或被說為世界而與人生對稱,易致誤解,故今捨而不用。且猶有餘義,唯現實一名能詮,故曰現實。
二 現實即法界 法謂軌持,軌範他解,任持自性。增損其範軌則迷謬;變失其任持則滅亡。界謂總分,總包至無,分析窮有。總包至無,故包無及有而有無盡包;分析窮有,故析有竟無而無有皆析。總包言之,諸法可以一名舉也。分析言之,諸名亦難一法宣也。非法軌莫究其別異,非界總莫得其通同;非法持莫顯其恆成,非界分莫悉其變壞。故法界者,一切法之總和,非別指任何一法──若真如等──之特稱,亦非任何一法──若心等──可與對稱。又法界者,一一法之分函,任何一法皆遍入於諸法;任何諸法皆攝住於一法。此總、別、同、異、成、壞六相,為法界一名之根本義。別有增釋,見於餘處。非法界六相莫觀乎現實,非現實莫觀乎六相法界,法界即現實,現實即法界,然名現實而不云法界者,法界一名,義詮隱幽;現實一名,義詮顯了。且猶有餘義,唯現實一名能詮,故曰現實。
三 現實即現實 現變實事曰現實,無始恆轉故;現事實性曰現實,無性緣成故;現性實覺曰現實,無相真如故;現覺實變曰現實,無元心樞故。現實即現實,現實唯現實,更無他名能詁之也,故曰現實。
四 現實主義乃佛陀無主義之主義 何謂現實主義即是無主義耶?現實真是如此,契知現實真是如此;現實真是如此──法爾如是,亦曰本來面目,亦曰真如──,宣說現實真是如此。知亦現實真是如此,不知亦現實真是如此;說亦現實真是如此,不說亦現實真是如此。知不知等,說不說等,知即無所知,說即無所說,不同其餘任何主義別有所執、別有所立,故現實主義即是無主義。何謂現實主義即無主義之主義耶?現量實相雖無可知,由現量如實相而知──根本智境──;實相現量雖無可說,彷實相如現量而說──後得智境──。雖自無可說而隨機有說;雖隨機有說而契理應真──如實或如如──,故雖無主義而即為無主義之主義。然又何謂現實主義乃佛陀無主義之主義耶?除佛陀外,莫不為「非現實而有主義之主義」故。宗教執唯神故,哲學與科學執唯我或唯物故。實驗主義──或實際主義、實用主義,又現實主義、實證主義──似為現實主義,然未脫唯我或唯物之執。孔家哲學似為現實主義,然未窮現實之量而猶有拘局。故唯佛陀為無主義主義之現實主義者。而現實主義,雖鏡涵萬流,含容一切,要非佛陀不足以正其名義也。以簡別世俗現實主義,故名曰真現實論。

第四章 現実主義とは、仏陀の「無主義の主義」である

「現実主義」とは、すなわち「無主義」であるとはどういうことか。現実はまさにそのまま、真実の姿をしている。その現実をあるがままに知るということ。現実は真実、まさにその通りである――「法(ダルマ)はかくある」、また「本来の姿」「真如(しんにょ)」とも呼ばれる――。この現実の真実の姿を、そのまま説き示すこと。知っても、現実は真実そのものであり、知らなくても、現実は真実そのものである。説いても、現実は真実そのものであり、説かなくても、現実は真実そのものである。知ると知らないは同じであり、説くと言わないも同じである。知ることは、知るものがないことであり、説くことは、説くものがないこと。他のいかなる主義が、別に何か執着するものを持ち、別に何か立てるものを持つこととは異なる。ゆえに、現実主義とは無主義なのである。

では、なぜ「現実主義は無主義の主義」と言うのか。直接的な知覚(現量)における真実の姿(実相)は、本来知りうるものではない。しかし、現量をとおして真実の姿をあるがままに知る――それが根本智(こんぽんち)の境地である。また、真実の姿を現量によって表すことは、本来語りうるものではない。しかし、真実の姿を現量に倣って説く――それが後得智(ごとくち)の境地である。自らは語るべきものがないのにも関わらず、相手に応じて語ることがある。相手に応じて語るものの、その理にかなっていて真実に合致している――これを「如実(にょじつ)」、または「如如(にょにょ)」という。ゆえに、無主義でありながら、それがまさに無主義の主義たりうるのである。

では、そもそもなぜ現実主義とは、仏陀の「無主義の主義」と言うのか。仏陀をおいて他には、すべて「現実でなく、主義をもつ主義」にすぎないからである。宗教は「唯神(ゆいしん)」に執着し、哲学や科学は「唯我(ゆいが)」や「唯物(ゆいぶつ)」に執着する。実験主義(実用主義、プラグマティズム)は一見現実主義のように見えるが、それもまた「唯我」や「唯物」の執着を脱していない。孔子の哲学も現実主義のように見えるが、現実の全体を究め尽くしておらず、狭い範囲に留まっている。ゆえに、仏陀こそが無主義の主義たる現実主義者なのである。

そして、この現実主義は、すべての流れを鏡のように映し、一切を包みこむけれども、仏陀をもってしなければその名を正しく語ることはできない。世間一般の「現実主義」と区別するため、ここに「真実の現実論」と名づける。

現實之為現實,真現實之為真現實,既正其名,既明其義,乃分宗依論、宗體論、宗用論之三編,以究其詳。

綱要
第一章 能知現實之方法

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