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  1. 太虚大師全書.第十四編 支論 (太虛大師全書.第十四編 支論)
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太虚大師全書.第十四編 支論 (太虛大師全書.第十四編 支論)


六 人生觀的科學三

六 人生観の科学 三

上來第四章所明的,是人生究竟之佛乘法;第五章所明的,是人生初行之人乘佛法。孔子是人乘之至聖,即於人生初行已完成者,設非佛法亦進於天乘耳。然天乘以上有偏至,老莊等即有偏至者,不若人乘平正,可為佛乘始基。與佛乘僅異其淺深狹廣之量,不異其質,故予最取孔之學行。向來於佛法判為五乘:曰人乘,曰天乘,曰聲聞乘,曰獨覺乘,曰佛乘——或曰大乘、一乘、菩薩乘、最上乘。人乘之上,隔著天乘、聲聞乘、獨覺乘之三階級,始臻佛乘,如何可由人乘直達佛乘?換言之,如何可由人即成為佛的因位之菩薩,——菩薩、具云菩提薩埵,菩提是佛智,薩埵是迷情。即上求佛智下化迷情者,謂之菩薩。又菩提是覺悟、而薩埵是慈悲,自己覺悟而慈悲他人者,謂之菩薩。又菩提是妙道、而薩埵是勇猛,能於無上妙道勇猛精進修習者,謂之菩薩。非是所奉偶像或神之義——,及進為菩薩的果位之佛,而中間可不經過天與聲聞及獨覺之三階位?此疑不除,吾此人生觀的科學即不成立,故須進為一分析之。
梁漱溟嘗謂:「似乎記得太虛和尚在海潮音一文中,要藉著「人天乘」的一句話為題目,替佛教擴張他的範圍到現世生活裏來。其實、這個改造是作不到的事,如果作到也必非復佛教」。我要發揮佛教原來直接佛乘的人乘法,以施行到現在人世的生活範圍裏來,可謂一語道著。然我發生此願望之動機,全不是替佛教擴張他的範圍,以此原為佛教範圍內事,用不著我來擴張他。然以現在的人世生活已困苦危亂之極,非將佛教原來直接佛乘的人乘法,發揮到現時的人世生活裏以救濟之,終為頭痛醫頭、腳痛醫腳,暫圖苟安,轉增煩苦之局。復以此佛教原來直接佛乘之人乘法,實為佛教適應人世最精要處,向來阻於印度外道及餘宗教玄學或國家之禮俗,未能發揮光大,昌明於世,致人世於佛法僅少數人稍獲其益,未能普得佛法之大利益。今幸一切為阻礙之物已皆在崩析搖離之際,而人世生活復有需此之急要,於是迫乎不獲已的大悲心,及闡揚吾所確見之真理的大智心,從事佛教原來直接佛乘之人乘法的宣傳。但六七年來,以對於此一疑點未為詳切說明,故從予修學者亦每不能同喻斯要。至於許多惡劣宗教團體若同善社等,我是向來極排斥的,對于此一態度,世人終該已明了我。而此等粗劣的同善社等,也跟著佛教繁盛者,亦只因向來未將佛教原來直接佛乘的人乘法盡量發揮之故。於是、我更要來一作此難作的工作。
梁漱溟提出的兩大問題:一曰、其實這個改造是做不到的事,二曰、如果作到也必非復佛教。今可併為一言辭決:則說明人乘法原是佛教直接佛乘的主要基礎,即是佛乘習所成種性的修行信心位;故並非是改造的,且發揮出來正是佛教的真面目。此因釋迦出世的本懷,見於華嚴、法華,其始原欲為世人——凡夫——顯示一一人生等事實三真相——若華嚴等所明;俾由修行信心——若善財童子等——進趨人生究竟之佛乘。此即是將菩薩位擴張延長於人及超人與佛之三位:修行信心位的人生初行,是人的菩薩位,若孔、老、善財等;初無數劫位,是超人的菩薩位,若世親等;第二無數劫位以上,是「佛的菩薩」位,若普賢等。華嚴宗所主張之三生成佛說,即是經此三菩薩位,以第三「佛的菩薩」位謂之成佛。由「人的菩薩」位入「超人的菩薩」位及進至「佛的菩薩」位,所經歷的皆菩薩位,故更不須經歷天與聲聞、獨覺之三階段,而彼三階段已消融於「超人的菩薩位」矣。故彼三階段非由人至佛所必經的,乃由人不走遍覺的路所歧出之三種結果耳。無如僅有少數大心凡夫若善財童子等——善財童子參一個一個善知識所學的解脫門,即是從一個一個專門科學家所學一門一門的科學,但皆以先發信解三真相之菩提心為本耳——,及積行大士若文殊、普賢等能領受其意。其餘、大多數科學幼稚、人情寡薄、若須達多等居士;習於印度外道心行,若舍利弗、目犍連等沙門,皆如聾如盲,不能同喻。為適應此印度的群眾心理,即人天福報及道解脫之機感,乃不得已而示說人天乘福業不動業之報,及聲聞乘獨覺乘解脫之道。人乘有二:一、由專修福業以祈求人天殊勝之果報者,此類觀佛為神人、天人,而皈佛不異事奉梵天等神教,是科學幼稚之世人若須達多等者,可謂「天的人乘」。二、由了達一一人生等事實三真相,歸佛法僧、信業果報、修十善行、厭「取作」、捨「壞苦」以階進佛乘者,若善財童子等,可謂「佛的人乘」。前一類各地佛教皆極盛行,各政治家皆極利用,亦粗劣的宗教團體之所由盛,通俗所知之佛教多屬此。後一類則中國之少數禪師若百丈、永明等,及少數居士若龐蘊等,頗得其真。然居極少數人,而即為我今所要極力提倡的。天乘有二:一、由修人天十善福業而得超人之欲界殊勝天報,由人乘銜接而上者,或事奉天神而修勝福,若基督教等,或盡忠人事成為人倫之至的聖人若周、孔等,皆可超人而得欲界殊勝天報,可謂人的天乘,故賢希聖、聖希天也。二、由內心修養有特殊感驗之玄學家——若老、莊等;宗教家——若創教諸教主;及印度諸外道等,修色界、無色界之不動業,即天乘無出世慧相應而有貪癡等相應之禪定業,而以達到無想天、無所有處、非非想處等為究竟解脫常住者,可謂天的天乘。世間一部分人,視佛教為此類,而道教及同善社等之所由盛。前來所謂由特殊感驗而教化他人的宗教家,皆出乎此。其優秀者,則得四沙門果、辟支佛果之二乘解脫;其凡劣者,則得人天福報及不動業天報。向來在亞洲各地所流行及今日歐洲人所知之佛教,多屬此為適應印度的群眾心理所宣說之人天乘及二乘之一部分,不知人生究竟之佛乘及大心凡夫直接佛乘之佛的人乘,亦無怪梁漱溟以不動業定果或二乘解脫為佛教真面目,絕不知釋迦之本懷及從本懷所流出的大乘佛法,遂以發揮直接佛乘的大乘人生初行施行到人的現世生活範圍裏,謂為改造,謂為作不到的改造,謂為如果作到也必非復佛教。殊不知以今日征服天然、發達自我之科學的人世,已打破向神求人天福報、及向未有以前求外道解脫之印度群眾心理,正須施行從佛本懷所流出之佛的人乘,以謀征服天然後欲望熾盛、及發達自我後情志衝突之救濟,且正可施行此佛的人乘,俾現時科學的人世基之以進達人生究竟,以稱佛教本懷,以顯示佛教之真正面目。噫!佛教之本來真正面目明明若此,基本現時科學的人世生活以進達人生究竟之大路明明若此,有科學知識者可奮興矣!尚何徘徊躊躇於斷港曲徑歧路為?

梁漱溟が提起した二つの問題:第一に、実際この改造は不可能なことである。第二に、もし可能であったとしても、それはもはや仏教ではない。今、一言で断定すれば、人乗の教えが元来、仏教の直接的な仏乗の主要な基盤であり、すなわち仏乗が修行によって種性を成就する信心の位であることを明らかにするものである。故にそれは改造などではなく、むしろ仏教の真の姿を発揮するものである。これは釈尊がこの世に出現された本意が『華厳経』や『法華経』に見られることによる。釈尊は元来、世の人々――凡夫――に対して、一人ひとりの人生などの事実の三つの真相を――『華厳経』などに明らかなように――示し、修行による信心――善財童子などのように――によって、人生の究竟たる仏乗へと進ませようとしたのである。これはすなわち菩薩の位を拡張し、人間、超人、仏の三位に延長したものである。すなわち、修行信心の位における人生最初の修行は、人間の菩薩の位であり、孔子、老子、善財童子などがこれにあたる。最初の無数劫の位は、超人の菩薩の位であり、世親などがこれにあたる。第二の無数劫以上の位は、「仏の菩薩」の位であり、普賢などがこれにあたる。華厳宗が主張する三生における成仏とは、この三つの菩薩の位を経て、第三の「仏の菩薩」の位をもって成仏と称するのである。「人間の菩薩」の位から「超人の菩薩」の位に入り、さらに「仏の菩薩」の位に至るまでに経るものは、すべて菩薩の位である。故に、天、声聞、独覚の三つの段階を経る必要はなく、その三つの段階はすでに「超人の菩薩の位」の中に融け込んでいるのである。故に、その三つの段階は人間から仏に至るために必ず経なければならないものではなく、人間が遍覚の道を歩まなかったために分岐して生じた三つの結果にすぎない。

ただ、わずかに少数の大心の凡夫、すなわち善財童子など――善財童子が一人ひとりの善知識に参じて学んだ解脱の法門は、一人ひとりの専門科学者が一門一門の科学を学ぶようなものである。しかしながら、すべてはまず三つの真相に対する信解を発する菩提心を根本としている――や、功徳を積み修行する大士、文殊や普賢などだけがその意を领会できた。その他の大多数の、科学的に幼稚で人情の薄い者、たとえば須達多(スダッタ)などの居士や、インドの外道の心行に習熟した舎利弗(シャーリプトラ)や目犍連(マウドガリヤーヤナ)などの沙門は、あたかも聾であり盲であるかのように、その意を理解できなかった。このインドの大衆心理、すなわち人天の福報や道による解脱への機感に適応するために、やむを得ず人天乗の福業や不動業の報いや、声聞乗・独覚乗の解脱の道を説き示されたのである。

人乗には二つある。一つは、専ら福業を修めて人天の殊勝な果報を希求する者である。この種の者は仏を神人や天人と見なし、仏に帰依することは梵天などの神教に仕えることと変わらない。これは科学に幼稚な世人、たとえば須達多などの者であり、「天の人乗」と称することができる。二つ目は、一人ひとりの人生などの事実の三つの真相を了達し、仏法僧に帰依し、業と果報を信じ、十善行を修め、「取作」を厭い「壊苦」を捨てて、段階を経て仏乗に進む者である。善財童子などのように、これを「仏の人乗」と称することができる。前者の類型は各地の仏教で非常に盛行しており、各政治家も大いに利用している。また粗雑な宗教団体が盛んになる所以でもあり、通俗的に知られている仏教の多くはこれに属する。後者の類型は、中国の少数の禅師、たとえば百丈懐海や永明延寿などや、少数の居士、たとえば龐蘊などが、その真髄をよく得ている。しかしながら、ごく少数の人のみであり、これこそが私が今まさに力説して提唱しようとするものである。

天乗にも二つある。一つは、人天の十善福業を修めて超人的な欲界の殊勝な天報を得るものである。人乗から繋がって上がってくるもの、あるいは天神に事えて勝れた福を修めるもの(キリスト教など)、あるいは人事に尽くして人倫の極みである聖人となるもの(周公や孔子など)、すべて超人となり欲界の殊勝な天報を得ることができる。これを「人の天乗」と称することができる。故に、賢人は聖人を希い、聖人は天を希うのである。二つ目は、内心の修養によって特殊な感験を得た玄学者(老子や荘子など)、宗教家(諸宗教の教主など)、およびインドの諸外道などが、色界・無色界の不動業を修めるものである。これは天乗ではあるが、出世間の智慧と相応せず、貪欲や愚痴などと相応する禅定の業であり、無想天、無所有処、非非想処などに達することを究極の解脱や常住と見なすものである。これを「天の天乗」と称することができる。世間の一部の人々は、仏教をこのようなものと見なしており、道教や同善社などが盛んになる所以である。先に述べた、特殊な感験によって他人を教化する宗教家は、すべてここから出ている。その優秀な者は、四沙門果や辟支仏果という二乗の解脱を得る。その凡庸で劣った者は、人天の福報や不動業の天報を得る。従来アジア各地で流行し、今日ヨーロッパ人が知っている仏教の多くは、このインドの大衆心理に適応するために説かれた人天乗や二乗の一部に属しており、人生究竟の仏乗や、大心の凡夫が直接仏乗に入る仏の人乗を知らない。梁漱溟が不動業の定果や二乗の解脱を仏教の真の姿と見なし、釈尊の本意やその本意から流出した大乗仏法をまったく知らず、そのために、直接的な仏乗における大乗の人生最初の修行を現代人の現世生活の範囲にまで施行することを、改造と呼び、為し得ない改造と呼び、もし為し得たとしてももはや仏教ではないと呼ぶのも、無理はない。

しかしながら、今日、自然を征服し自我を発達させた科学の世の中は、すでに神に人天の福報を求め、未だ有らざる以前に外道の解脱を求めていたインドの大衆心理を打ち破っている。まさに、仏の本意から流出した仏の人乗を施行して、自然を征服した後の欲望の熾盛や、自我を発達させた後の感情や意志の衝突に対する救済を謀るべきであり、かつ、この仏の人乗を施行して、現在の科学の世の中をそれに基づかせて人生の究竟に達せしめ、仏教の本意に合致させ、仏教の真の姿を示すことができるのである。ああ!仏教の本来の真の姿は明らかにこのようであり、現在の科学の世の中の生活を基礎として人生の究竟に達する大路も明らかにこのようである。科学的知識を持つ者は奮い起こるべきである!なおも、断たれた港や曲がりくねった小道や岐路に徘徊し躊躇することがあろうか?


五 人生觀的科學二
七 人生觀的科學對於世界文化之抉擇

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