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大乗理趣六波羅蜜多経 (大乘理趣六波羅蜜多經)

「大乘理趣六波羅蜜多經」について

唐 · 底本の訳者:般若

7.3 万字 · 約 242 分

大乗理趣六波羅蜜多経(般若)は、唐代の高僧・般若三蔵によって漢訳された重要な仏教経典であり、大乗仏教の般若部に属する経典の一つです。この経典は六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を核心とし、大乗菩薩道の修行の段階と智慧の境地を体系的に説いています。経文は、解脱における般若智慧の中心的な役割を強調し、中観と瑜伽行派の思想を融合させ、大乗仏教の円融的な特質を体現しています。唐代の仏教翻訳における重要な成果として、この経典は漢伝仏教の教理体系の構築に深い影響を与え、今日でも大乗菩薩道思想を研究する上で重要な文献であり、仏教経典の中でも承前啓後の重要な地位を占めています。


歸依三寶品第一

帰依三宝品 第一

如是我聞:

私はこのように聞きました。

一時薄伽梵在王舍大城迦蘭多迦竹林精舍,時與眾多菩薩摩訶薩——住不退轉位階十地,十波羅蜜多悉已圓滿;復有眾多諸大苾芻——皆阿羅漢,諸漏已盡無復煩惱,逮得己利,心善解脫、慧善解脫;復有阿僧企耶諸有情等——皆發阿耨多羅三藐三菩提心。

ある時、世尊(釈尊)は、王舎城のカランダカと呼ばれる竹林精舎におられた。その時、多くの大菩薩たちと共におられた。彼らは決して退くことのない境地に達し、十地(菩薩の修行段階)に位し、十波羅蜜(完全な修行)をすべて円満に成就していた。さらに、多くの大比丘たちも共にいた。彼らは皆、阿羅漢であり、すべての煩悩を尽くし、もはや悩みはなく、自己の利益を達成し、心は完全に解脱し、智慧も完全に解脱していた。また、数え切れないほどの多くの有情たちも皆、無上正等覚(最高の悟り)を求める心を発していた。

爾時,慈氏菩薩摩訶薩於此會中而作是念:「此會眾中諸有情類,貧窮孤露無所依怙,流轉生死沈溺愛河;欲達彼岸為聞法故,願見世尊求一切智,無有力能。」

そのとき、慈氏菩薩(弥勒菩薩)はこの集会の中でこう思いました。 「この会に集まっている人々は、貧しく、頼る人もなく、真実の救いも持たずに、生死をくり返し、愛欲の川に沈んでいます。真理を聞いて悟りの岸に至りたいと願い、世尊にお会いしてすべての智恵を求めたいと思っていても、それを実現する力がありません。」

爾時,慈氏菩薩為欲諮問甚深義趣:一切有情云何發菩提心求佛決定,三無數劫無有疲倦?今佛世尊意趣難解廣大甚深,文句巧妙具足圓滿,記別有情因果差別,希求速疾無上菩提。於是彌勒菩薩摩訶薩發如是心,即從座起,整理衣服,善調六根,身口意業皆悉寂靜——然其六根百福所生,妙相莊嚴八十種好,三無數劫之所圓滿,摩訶般若波羅蜜多等百千萬日光明相莊嚴其身,一切有情瞻仰無厭,近無等等佛果菩提——以如是身往詣佛所,五體投地禮佛雙足,又以無量功德莊嚴之手,如新生蓮華,合掌恭敬而白佛言:「如來世尊於一念中,能知一切有情過去未來現在之心。或有有情因諮問時獲清淨心,或有有情受記之時獲須陀洹果乃至阿羅漢果、辟支佛果,或得阿耨多羅三藐三菩提記。為此義故仰諮如來,惟願世尊分別解說。世尊今為三世有情所依之主,或有有情行大乘行其心柔和。唯願世尊慈悲愍念,獲甘露法不獨受用而同其味。云何令諸有情趣大涅槃安隱正路?此等有情當作何事,於一切智得不退轉?云何圓滿檀波羅蜜乃至般若波羅蜜多?又此般若波羅蜜多與前五種波羅蜜多而為其母,云何修習而能圓滿?又此大願云何顯發?又諸有情云何修習涅槃彼岸?唯願世尊分別解說,為欲利益安樂一切有情令得歡喜。」

その時、慈氏菩薩(弥勒菩薩)は、深遠なる教えの意義を尋ねようとされました。一切の有情は、いかにして菩提心を発し、確固たる仏道を求め、三阿僧祇劫という長きにわたって倦むことなく修行するのでしょうか。今、世尊の説かれる教えは、その意図が理解し難く、広大で深遠であり、言葉は巧みで完全に円満しています。有情の因果の違いを記別し、速やかに無上菩提を求めることを勧めておられます。

そこで弥勒菩薩摩訶薩は、このような思いを起こされ、座から立ち上がり、衣を整え、六根を善く調え、身・口・意の三業をすべて静寂な状態とされました。その六根は百福によって生じ、妙相は荘厳で八十種の好を備え、三阿僧祇劫をかけて円満されたものです。摩訶般若波羅蜜多など、百千万の日輪光明の相がその身を荘厳し、一切の有情は飽くことなく仰ぎ見、無など等の仏果菩提に近づくことができます。

このようなお姿で、弥勒菩薩は仏のもとへ赴かれ、五体を地に投じて仏の両足を礼拝し、また無量の功徳によって荘厳された手を、新生の蓮華のように合わせ、恭しく合掌して仏に申し上げられました。

「如来世尊は、一念のうちに一切の有情の過去・未来・現在の心を知ることがおできになります。ある有情は、質問する時に清浄心を得、ある有情は記別を受ける時に須陀洹果から阿羅漢果、辟支仏果、あるいは阿耨多羅三藐三菩提の記別を得ることがあります。この意義のために、如来に仰ぎ尋ねます。どうか世尊、分別して解き説いてください。世尊は今、三世の有情が依りどころとする主でいらっしゃいます。ある有情は大乗の行を実践し、その心は柔和です。どうか世尊、慈悲をもってお愍みくださり、甘露の法を得て独りで受用せず、共にその味を同じくしてください。いかにして諸々の有情を大涅槃の安穏なる正しい道へと導くことができますか。このような有情は、何をなすべきで、一切智に対して不退転を得ることができるのでしょうか。いかにして檀波羅蜜から般若波羅蜜多までを円満することができるのでしょうか。また、この般若波羅蜜多は、前の五種の波羅蜜多の母となりますが、いかにして修習すれば円満できるのでしょうか。また、この大願はいかにして顕発されるのでしょうか。また、諸々の有情はいかにして修習し、涅槃の彼岸に至ることができるのでしょうか。どうか世尊、分別して解き説いてください。一切の有情を利益し安楽ならしめ、歓喜を得させたいと願うからです。」

爾時薄伽梵讚慈氏菩薩摩訶薩言:「善哉,善哉!善男子!汝今乃能利益安樂一切有情問是深義,勸諸有情修善業故;常為有情勤修習故;汝今一心廣為有情頓絕羈鎖勤求法故;汝今以此大慈悲心,於三阿僧企耶圓滿六種波羅蜜多大海法故;汝今已近菩提道場涅槃岸故。猶如明星沒已旭日便照,汝今亦爾,當作佛日。汝今諦聽,善思念之。我今為汝具足分別甚深之義。如有智人能善思惟,觀察生死險道之中,莫能過於無所依怙。譬如大海舟船而無商主,其中有情多所漂溺,涌浪洄澓破壞沈沒,種種諸難常有憂患,求於吉祥無上船師以為依怙。又諸有情於生死中常多恐懼,所以求於力勢之人而為恃怙,不被怨賊之所侵害。縱彼怨賊有大狂力,為此之人依附王者,而彼怨賊必無更能作損害者;又彼怨賊既見力勢,永捨怨心順從正化。一切有情亦復如是,各作是念:『誰能與我作歸依處,除其衰患令得安樂?於此三界五道之中,天、龍、藥叉、阿蘇羅、迦嚕囉、健達婆、緊捺羅、摩怙洛迦、人非人等諸眾之中而求覓之,無有能為作歸依者。所以者何?彼諸天等,自未能免生死羈鎖,煩惱繫縛流轉三界,無量無邊眾苦吞噉諸怖畏事,以貪欲網之所纏縛,況能為我作歸依處。又諸天等常被甲冑鬪戰之具,心懷怖畏彼阿蘇羅,而況於人及餘諸趣。以是觀察三界六道,無有堪能拔濟我者,以是應當歸依佛法僧。除佛法僧,更無有能救護我者。一切有情若欲求於阿耨多羅三藐三菩提涅槃樂者,應當歸依佛法僧寶。』以是因緣令諸有情歸佛法僧。」

その時、世尊は慈氏菩薩摩訶薩を称賛して言われた。 「善きかな、善きかな。善きかな、善男子よ。汝は今、一切の有情を利益し安楽にするために、この深遠な義を問い、諸々の有情に善業を修めるよう勧めている。また、常に有情の為に精進し、一心に広く有情の為に束縛を断ち切り、法を求めて努力している。汝は今、この大慈悲の心によって、三阿僧祇劫の間にわたり六波羅蜜多の大海の法を円満せしめた。汝は已に菩提道場と涅槃の岸に近づいている。丁度、明けの明星が没すると朝日が輝くように、汝もまた、まさに仏の日となるであろう。 汝よ、今よく聞き、よく思惟せよ。我は今、汝の為に、この甚深の義を詳細に説き明かそう。

例えば、智慧ある人がよく考えて観察するように、生死の険しい道の中で、拠り所がないこと以上の苦しみはない。 例えば、大海を行く船に商主がいなければ、その中の人々は多くが漂い溺れ、荒波や渦に巻き込まれ、破壊され沈没し、様々な難に遭い、常に憂いや恐れを抱く。そこで、彼らは吉祥なる無上の船師を求めて拠り所とする。 また、諸々の有情は生死の中で常に多くの恐れを抱く。故に、力ある者を頼りとして、怨敵や賊に害されないようにする。 たとえ怨敵に大きな狂暴な力があっても、この人が王者に依拠していれば、その怨敵は決して害を加えることができない。また、その怨敵は力ある者を見れば、永遠に怨みの心を捨て、正しい教化に従う。 一切の有情もまた、同様である。それぞれがこう思う。 『誰が我に帰依の処となり、その衰えや悩みを取り除き、安楽を得させてくれるのか?』 この三界五道の中、天、龍、夜叉、阿修羅、迦楼羅、乾闥婆、緊那羅、摩睺羅伽、人、非人などの衆生の中を探し求めても、帰依の処となりえる者はない。 それは何故か。それらの天などは、自らも未だ生死の束縛を免れず、煩悩に繋がれ、三界を流転し、無量無辺の苦しみや様々な恐れに飲み込まれ、貪欲の網に絡め取られている。ましてや、我に帰依の処となることなどできようか。 また、諸天などは常に甲冑や戦いの道具をまとい、阿修羅を恐れている。ましてや人間やその他の趣はなおさらである。 このように三界六道を観察するに、我を救済できる者はない。故に、仏法僧に帰依すべきである。仏法僧の他に、我を救護できる者はない。 一切の有情が、もし阿耨多羅三藐三菩提の涅槃の楽を求めようと欲するならば、仏法僧の宝に帰依すべきである。」 この因縁によって、諸々の有情をして仏法僧に帰依せしめるのである。

爾時慈氏菩薩摩訶薩白佛言:「世尊!云何名為佛法僧寶?云何歸依?」

その時、慈氏菩薩・摩訶薩が仏に申し上げた。「世尊。どのようなものを仏法僧の宝というのでしょうか。また、どのように帰依するのでしょうか。」

佛告慈氏言:「佛寶者則有二種:一者佛身,二者佛德。言佛身者,所謂如來、應、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、佛、世尊,已於過去無量無邊阿僧祇劫,不惜身命勤修六度萬行圓滿,菩提樹下坐金剛座,降伏魔軍斷諸結賊,獲一切智成等正覺,具足如是諸妙功德,號之為佛。言佛德者,即佛身中具足十力、四無所畏、十八不共法、大慈大悲大喜大捨、三解脫門、三示導、六神通、隨心三摩地、四智、二智,離於知境,斷煩惱障及所知障,離諸習氣,無功用道起如如化,若遠若近遊止自在無有障礙,於一芥子能納無量諸妙高山。如是功德無量無邊,諸佛如來悉皆具足。又從一劫至無量劫,壽命自在無能損減。於神境通往來變現,無有障礙隨意自在。諸佛世尊之所經行城邑聚落,先放微妙金色光明照曜其處,其中眾生遇斯光者,身病心病皆得除愈。心火滅已身得清涼。僂者能申、跛者能行、盲者得視、聾者能聽、瘂者能言。其心亂者便復本心,鬼魅癲狂魍魎所持悉皆除愈。裸者得衣,憍慢心者而得謙下,憂惱者心安隱,失道者得正路,飢渴者得飲食,囚繫者得解脫,恐怖者得無畏。丘陵坑坎山㵎堆阜,皆悉平正猶如抵掌,門第卑小自然高大,衢路隘狹並皆寬廣,市肆廛里自然開豁,穢惡不淨應時香潔,荊棘毒刺瓦礫沙石悉皆不現。日光晃曜而無炎毒,香風和暢無諸塵坌,白鶴、孔雀、鸚鵡、舍利、迦陵頻伽、拘枳羅、拘那羅、命命等鳥,其聲美妙出和雅音。象、馬、牛、羊、水牛、犛牛、犎牛、竹牛,各出本音其聲微妙。箜、篌、簫、笛、琴、瑟、鼓、吹,如是樂器不鼓自鳴。及餘種種巧妙希奇,諸神通事悉皆變現。如是種種諸希有事,日日各異轉加殊勝,皆是如來威神之力。若有眾生疑佛世尊及佛功德有一異者,當作是說:『佛與功德不一不異。』譬如燃燈,膏炷與明不一不異,離於膏炷無別燈明。若言燈明離膏炷者,明所及處悉應焚爇。佛身功德亦復如是。此微妙身是佛功德無漏法身,自他受用平等所依。然此佛身亦非是體,離是體外無別法身。若是體者,同於外物有四大相。故知非相亦非無相。若非相者同大虛空,同太虛者性即是常無方便過。自性清淨無染無著,甚深無量無有變易,難解難知微妙寂靜,具無邊際真常功德絕諸戲論。唯佛證知非餘所及,亦非譬喻之所校量。慈氏!當知如此身者,即是過去未來現在殑伽沙等諸佛世尊法身之相。佛報身者,謂諸如來三無數劫修集無量福慧資糧所起無邊真實功德,常住不變諸根相好,智慧光明周遍法界,皆從出世無漏善根之所生故,不可思議超過世智,純熟有情為現茲相,演無盡法廣利無邊。慈氏!當知此即如來報身圓滿。言化身者,為彼有情隨所應化,故現無量阿僧企耶諸化佛身。其所化身,或於地獄以現其身,度彼有情令離眾苦,導以正法令發勝心,便生人天受勝快樂,於佛法中深生信樂,得佛法分獲聖道果。或生鬼趣化彼有情,令離飢渴種種逼迫,化以正法使發勝心,便生人天受諸快樂,深入佛法得聖道果。或化傍生在於彼趣,或作迦嚕囉身,或作龍身,或作師子、象、馬、熊、羆、虎、豹、犲狼、野干、狐、兔、蚖蛇、蝮蝎、魚、鼈、黿、鼉、白鶴、孔雀、鳳凰、鴛鴦、鸚鵡、舍利種種之身,令諸有情離相殘害慈心相向,能離種種諸怖畏事,示以正法令深信樂歸佛法僧,得生人天獲諸快樂,得佛法分證聖道果。或化有情於餘國土,或日月光所不能照如是種種無佛法處建立正法,令諸有情歸佛法僧,剃除鬚髮受佛禁戒,而作苾芻及苾芻尼,或作鄔波索迦、鄔波斯迦,建立僧坊護持正法,安立無量無數有情,置於人天涅槃彼岸而得果證。或生天趣化彼有情,令離五欲心無染著,導以正法發菩提心,歸佛法僧深入正法,置於涅槃解脫果證。或生人趣,現處王宮生釋種家,以巧方便化諸有情,斷除三界煩惱憂患生老病死,故現受生、踰城出家、菩提樹下取吉祥草、坐於道場處金剛座、降伏魔軍成等正覺、為化有情轉正法輪,放大光明周遍一切照曜世間,自利利他悉皆圓滿,或現寂靜入大涅槃,是即名為佛化身也。如是種種善巧方便無量無邊,皆是如來自在神力。此即三身,體無異相。」

仏が慈氏に告げられた。「仏宝には二つの種類がある。第一は仏身、第二は仏徳である。仏身とは、いわゆる如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊である。この方は、過去の無量無辺の阿僧祇劫の間、身命を惜しまずに六度万行を精進し修行して円満し、菩提樹の下で金剛座に坐り、魔軍を降伏させ、あらゆる煩悩の賊を断ち切り、一切智を得て正等覚を成就された。このような多くの素晴らしい功徳を具えていることから、仏と名付けられるのである。仏徳とは、すなわち仏身の中に具わっている十力、四無所畏、十八不共法、大慈大悲大喜大捨、三解脱門、三示導、六神通、随心三摩地、四智、二智である。これらは知覚の対象を離れ、煩悩障と所知障を断ち、あらゆる習気を離れ、無功用の道によって如如の教化を起こし、遠く近くに遊止して自在で障りがなく、一つの芥子の中に無量の諸々の妙高山を納めることができる。このような功徳は無量無辺であり、諸仏如来はすべてこれを具えている。また、一劫から無量劫に至るまで、寿命は自在であり、損なわれることも減ることもない。神境通においては往来や変化に自在で、障りなく随意自在である。諸仏世尊がお通りになる城や村や集落には、まず微妙な金色の光を放ってその場所を照らし、その光に触れた衆生は、身体の病も心の病もすべて癒される。心の火が消えると身は清涼を得る。腰の曲がった者は伸び、足の不自由な者は歩けるようになり、目の見えない者は見えるようになり、耳の聞こえない者は聞こえるようになり、口のきけない者は話せるようになる。心の乱れた者は本来の心を取り戻し、鬼や魔物にとり憑かれた者、癲癇を患う者、魍魎に憑かれた者はすべて癒される。裸の者は衣を得、傲慢な心の者はへりくだるようになり、憂い苦しむ者は心が安らぎ、道に迷った者は正しい道を得、飢え渇いた者は飲食物を得、囚われの者は解き放たれ、恐怖を抱く者は畏れを無くす。丘陵やくぼみ、山や谷や小山はすべて平らに整えられ、手のひらのように整い、門や家は低く小さかったものが自然に高く大きくなり、道は狭かったものがすべて広くなり、市場や街路は自然に開け広がり、汚れや不浄はたちまち香り清らかになり、荊や毒の棘、瓦礫や砂石はすべて姿を消す。日光はきらめくが暑くなく、香りの良い風は心地よく吹き、塵もなく、白鶴、孔雀、鸚鵡、舎利、迦陵頻伽、拘枳羅、拘那羅、命命などの鳥たちは、その声は美しく和やかな音を奏でる。象、馬、牛、羊、水牛、犛牛、犎牛、竹牛も、それぞれの本来の声で微妙な音を発する。箜篌、簫、笛、琴、瑟、鼓、吹などの楽器は、叩かずとも自然に鳴り響く。その他にも様々な巧みで珍しい神通のことがらがすべて現れ出る。このように様々な珍しい出来事は、毎日異なって、さらに優れたものとなり、すべては如来の威神力によるものである。もし、仏世尊と仏の功徳について、同一か別異かを疑う者がいれば、こう説くべきである。『仏と功徳は一でもなく異でもない。』例えば灯を灯すようなもので、油と芯と明かりは一でもなく異でもなく、油と芯を離れて別に灯明はない。もし灯明が油と芯を離れていると言うなら、明かりが及ぶ所はすべて燃え尽きてしまうだろう。仏身と功徳もまた、このようなものである。この微妙な身は、仏の功徳である無漏の法身であり、自受用身・他受用身の平等の拠り所である。しかし、この仏身もまた体そのものではなく、この体の外に別の法身があるわけではない。もし体そのものであるなら、外の事物と同じように四大の相を持つことになる。だから、相ではないとも、無相ではないとも知るべきである。もし無相ならば、大虚空と同じである。大虚空と同じならば、その性質は常であり、方便のない過失がある。自性は清浄で染まらず執着もなく、甚深で無量であり、変異することもなく、難解で難知であり、微細で寂静、無辺際の真常なる功徳を具え、あらゆる戯論を絶している。ただ仏のみが証知し、他の者の及ぶところではなく、譬えによっても量ることができない。慈氏よ、知るがよい。この身こそが、過去・未来・現在のガンジス川の砂の数ほどの諸仏世尊の法身の相である。仏の報身とは、諸々の如来が三無数劫の間、無量の福徳と智慧の資糧を修集して生じた無辺の真実の功徳であり、常住不変で、諸根や相好は、智慧の光明が法界を遍満し、すべては世間を超えた無漏の善根から生じたものであり、不可思議で世間の智慧を超え、成熟した有情のためにこの相を現じ、尽きることのない法を説き、広く無辺の者を利益する。慈氏よ、知るがよい。これが如来の報身の円満である。化身とは、有情のために、その応じるに従って教化するため、無量の阿僧祇の多くの化仏の身を現ずることである。その化身は、あるいは地獄に身を現し、その有情を度して苦しみを離れさせ、正法によって導き勝れた心を起こさせ、人天に生まれ勝れた快楽を受け、仏法の中に深く信仰と喜びを生じ、仏法の分を得て聖道の果を得させる。あるいは鬼道に生まれ、その有情を教化して飢渴や様々な逼迫を離れさせ、正法によって教化して勝れた心を起こさせ、人天に生まれ様々な快楽を受け、深く仏法に入り聖道の果を得させる。あるいは畜生道に化身し、その道に赴き、あるいは迦嚕囉の身となり、あるいは竜の身となり、あるいは獅子、象、馬、熊、羆、虎、豹、犲狼、野干、狐、兎、蚖蛇、蝮蝎、魚、鼈、鼋、鼉、白鶴、孔雀、鳳凰、鴛鴦、鸚鵡、舎利などの様々な身となり、有情に相害する心を離れさせ慈しみの心で互いに接するようにさせ、様々な恐怖の事柄を離れさせ、正法を示して深く信じ喜び仏法僧に帰依させ、人天に生まれ諸々の快楽を得させ、仏法の分を得て聖道の果を証させる。あるいは他の国土の有情を教化し、あるいは日月の光も届かないような様々な仏法のない場所に正法を建立し、有情に仏法僧に帰依させ、鬚髪を剃り仏の禁戒を受けさせ、比丘や比丘尼とし、あるいは優婆塞や優婆夷とし、僧院を建立して正法を護持させ、無量無数の有情を安立し、人天や涅槃の彼岸に置いて果証を得させる。あるいは天道に生まれ、その有情を教化して五欲を離れさせ心に染着させず、正法によって導き菩提心を発起させ、仏法僧に帰依し正法に深く入り、涅槃の解脱の果証に置く。あるいは人道に生まれ、王宮に現れ釈迦族の家に生まれ、巧みな方便で有情を教化し、三界の煩悩や憂い、悩み、生老病死を断ち切らせるため、受生、出家、菩提樹下で吉祥草を取り、道場に坐り金剛座に坐り、魔軍を降伏し正等覚を成就し、有情を教化するために正法の輪を転じ、大いなる光明を放ち周辺のすべてを照らし世間を照らし、自利利他をすべて円満し、あるいは寂静に入り大涅槃に入ることを現ずる。これを仏の化身と名付けるのである。このように様々な善巧方便は無量無辺であり、すべては如来の自在の神力である。これが三身であり、その体に異なる相はないのである。」

爾時薄伽梵告慈氏菩薩摩訶薩言:「善男子!於意云何?若有善男子、善女人歸依佛者,當歸依諸佛清淨法身。若欲求於佛法身者,當作如是發大誓願:『願我及彼一切有情,當得如是功德法身。』云何乃令發如是願?為佛應身剎那遷變,化身佛者疾入涅槃,功德法身湛然常住,以是歸依清淨法身。歸法身者,即是歸依過去未來現在諸佛。若我捨於眾生取涅槃者,即同受於地獄諸苦。若與有情同解脫者,雖處地獄無異涅槃。以是因緣令諸眾生,歸佛法身證涅槃樂,究竟如如體無增減。如是法身是真安樂,是故但令歸佛法身。

そのとき、世尊は慈氏菩薩摩訶薩に告げられました。「善男子よ、どのようにお思いですか。もし善男子・善女人が仏に帰依するならば、諸仏の清浄な法身に帰依すべきです。もし仏の法身を求めようとするならば、このように大きな誓願を起こすべきです。『私とあの一切の有情とが、このような功徳の法身を得られますように』と。なぜこのような願を起こさせるのでしょうか。仏の応身は刹那に移り変わり、化身の仏はすみやかに涅槃に入られますが、功徳の法身は澄みきって常住されています。それゆえ清浄な法身に帰依するのです。法身に帰依することは、すなわち過去・未来・現在の諸仏に帰依することです。もし私が衆生を捨てて涅槃を取るならば、それは地獄の諸の苦しみを受けるのと同じです。もし有情とともに解脱するならば、たとえ地獄にいても涅槃と異なりません。このような理由から、衆生に仏の法身に帰依させ、涅槃の楽を証得させます。究極の如如の本体には増減がありません。このような法身こそが真の安楽です。それゆえただ仏の法身に帰依させるのです。」

「復次,慈氏!云何名為清淨法寶?言法寶者亦有三種。云何為三?第一法寶所謂涅槃甘露解脫,常樂我淨而為體性,能盡一切生老病死憂悲苦惱。云何生苦?謂依父母牉合之時,不淨種子處母胎中,業力風持時經九月,住居黑闇無有光明,生熟藏間污穢不淨,八萬戶蟲之所和雜,出息入息隨母而行,口不能言、眼不得視,飢渴寒熱種種諸苦逼切身心。如是諸苦無量無邊,令諸眾生不得自在,故名生苦。雖受此苦而有一德,一切怨家所不能見,亦不能說是非過惡。無比涅槃安樂法中無如是苦。云何老苦?所謂眾生從少至老時節代謝,所有充實悉皆損減——筋力衰朽行止戰掉,髮白面皺,眼耳昏暗,牙齒踈缺,顏貌醜陋,身相傴僂人所惡賤,所有言教隨說廢忘——而以此身為其重擔。譬如然燈,膏油既盡不久將滅。老亦如是,壯膏既盡不久將死。又如蘇莫遮帽覆人面首,令諸有情見即戲弄。老蘇莫遮亦復如是,從一城邑至一城邑,一切眾生被衰老帽見皆戲弄。以是因緣老為大苦,除非死至無藥能治。雖受老苦而不厭之,祈禱神祇恒願長壽。無比涅槃安樂法中,無此老苦。云何病苦?所謂地水火風互相違害,種種諸苦來集其身,一切眾生無問老少皆共有之。安樂適身勝妙五欲,金銀珍寶、家族眷屬,悉皆捨離。所有教詔,男女親戚皆不承順,一切怨家詐來親附。如此病苦皆不願求,以是當知病為大苦。安樂涅槃無比法中,清淨寂然無斯病苦。

次に、慈氏よ。では、清らかなる法の宝とは何をいうのか。法の宝にもまた三種がある。その三種とは何か。

第一の法の宝とは、いわゆる涅槃の甘露の解脱であり、常・楽・我・浄をその体性とする。これは一切の生・老・病・死、憂い、悲しみ、苦しみ、悩みを尽くすものである。

では、生の苦しみとは何か。それは、父母が交わり合う時、不浄の種が母の胎内に宿り、業の力と風によって支えられ、九月を経て、暗闇の中に住み、光もなく、生藏と熟藏の間で汚れ不浄であり、八万の虫が入り混じり、息を吐き吸うことも母に従い、口は語れず、目は見えず、飢えや渇き、寒さや暑さなど、様々な苦しみが身と心をせめる。このような苦しみは無量無辺であり、一切の衆生をして自在ならしめない。これを生の苦しみという。この苦しみを受けるけれども、ただ一つの徳がある。それは、すべての怨みの者がこれを見ることができず、あるいは非や過ち、悪しきことを言うこともできないということである。比類なき涅槃の安楽の法の中には、このような苦しみはない。

では、老いの苦しみとは何か。それは、衆生が幼少から老年に至り、季節が移り変わるように、かつて充実していたものがすべて衰え減り、筋力は衰えて朽ち、歩行や動作は震えおののき、髪は白くなり顔には皺がより、目はかすみ耳は遠くなり、歯は欠け落ち、容貌は醜くなり、身体は猫背になり、人に嫌われ軽んじられ、その言葉や教えも、話すそばから忘れ去られる。そして、この自身のからだを重い荷物と思うようになる。それはあたかも灯火が、油が尽きればまもなく消えようとするかのようである。老いもまた同じで、壮年の油が尽きれば、まもなく死のうとする。また、蘇莫遮の帽子が人の顔や頭を覆い、一切の有情にこれを見せては弄ばせるように、老いの蘇莫遮もまた同じである。一つの城から一つの城へと、すべての衆生は老いの帽子をかぶせられ、見る者すべてに弄ばれる。このような因縁により、老いは大いなる苦しみであり、死が訪れるほかは、これを治す薬はない。老いの苦しみを受けながらも、それを厭うことなく、神々に祈り、常に長寿を願う。比類なき涅槃の安楽の法の中には、この老いの苦しみはない。

では、病の苦しみとは何か。それは、地・水・火・風が互いに害し合い、様々な苦しみが身に集まる。一切の衆生は、老若を問わず、皆これを持つ。安楽で快適な身体、すぐれた五つの欲、金銀や珍宝、家族や親族、すべてを手放すことになる。その教えや命令も、男女の親類も皆従わず、すべての怨みの者は偽って親しく近づいてくる。このような病の苦しみは、誰も願い求めるものではない。ゆえに知るべきである、病は大いなる苦しみであると。安楽なる涅槃の比類なき法の中には、清らかにして静かに、このような病の苦しみはない。

「復次,慈氏!云何死苦?所謂眾生氣絕識滅無所覺知,一切苦中莫過死苦。生老病苦,五趣之中有無不定,此死苦者皆共有之。譬如貧苦能却榮華,如怨憎苦能却親愛,死苦若至,不揀老少愚智貴賤,一切盡却。捨此身已入幽闇處,衣服臥具一切財寶莫能用之。裸露而行復無伴侶,貨財不免披訴無地。咄哉無常能作斯害,甚大鄙惡不揀怨親,三界眾生無能免離,皆被死伐何能救之。設轉輪王那羅延力皆被擒獲,當知死苦無量無邊。以是觀之死為大苦。解脫涅槃無比法中,寂靜安樂無茲死苦。譬如有人瀑河漂溺,登陟高山得免怖畏。眾生亦爾,常為一切生死瀑河之所漂溺,登涅槃山離生死畏。亦如天雨能除毒熱塵穢等障,人民安樂身意清涼,百卉滋茂成就果實。如來法雨亦復如是,能除一切煩惱毒熱,眾生安樂解脫清涼,滋長一切白淨善種,成就果實令得涅槃。以是因緣,諸佛世尊捨無常身證涅槃樂。」

さらに、慈氏よ。死の苦しみとは何か。それは、生きとし生けるものの息が絶え、意識が消え、何も感じなくなることである。あらゆる苦しみの中で、これに勝るものはない。生・老・病の苦しみは、五つの生存領域の間であったりなかったりするが、この死の苦しみだけは、すべての生きとし生けるものに共通してある。 例えば、貧しさの苦しみは華やかさを奪い去り、怨み憎しみの苦しみは愛するものや親しいものを奪い去るように、死の苦しみが訪れると、老いも若きも、賢い者も愚か者も、身分の高い者も低い者も、すべてを奪い去ってしまうのである。 この体を捨てて暗い場所に入れば、衣服や寝具、あらゆる財宝も用いることができない。裸のままで、仲間もなく、財産を持っていても逃れられず、訴える場もない。ああ、無常とは何とこのような害をなすものか。あまりにも卑しく悪質で、怨みも親しみも選ばない。三つの世界の生きとし生けるものは、誰一人として逃れられず、皆、死という攻撃にさらされて、誰がそれを救うことができるだろうか。 たとえ世界を転輪する王や那羅延(ナーラーヤナ)のような力を持つ者でも、皆捕らえられてしまう。このようにして、死の苦しみには限りがないことを知るべきである。このことから観察すれば、死は大きな苦しみである。 解脱(げだつ)や涅槃(ねはん)という比類なき境地には、静寂で安らかであり、この死の苦しみはない。 例えば、激流に流されて溺れる人が、高い山に登って恐怖から逃れられるようなものだ。生きとし生けるものもまた同じで、常にすべての生と死という激流に溺れているが、涅槃の山に登れば、生と死の恐怖から離れられる。 また、天の雨が毒の熱や塵や汚れなどの障りを取り除き、人々を安らかにして身体も心も清涼にし、あらゆる草花を潤し実らせるように、如来の説く教え(法雨)もまた同じで、あらゆる煩悩という毒の熱を除き、生きとし生けるものを安らかにして解脱させ清涼にし、すべての清らかな善の種を育て、実らせて涅槃を得させる。 このような理由から、諸仏世尊は無常の体を捨てて、涅槃の安らぎを証得されるのである。

爾時,世尊欲重宣此義而說偈言:

その時、世尊はこの教えをさらに明確に伝えようと、詩の形でお説きになりました。

「如來妙體即法身, 清淨解脫同真諦,
如日與光不相離。 如來功德即涅槃,
真我與佛無差別, 一切有情所歸趣。
生死涅槃等無二, 其性不壞無造作,
垢淨如如性不異, 唯佛世尊獨能了,
眾生悉有如來藏, 三寶於是現世間,
一切有情入佛智, 以性清淨無別故。
佛與眾生性不異, 凡夫見異聖無差,
一切眾生本清淨, 三世如來同演說。
其性垢淨本無二, 眾生與佛無差別,
空遍十方無分別, 心性平等亦復然。
譬如一切眾生界, 遍在虛空受生滅,
諸根生滅亦如是, 處在無為界亦然。
譬如虛空火不燒, 生死不壞無為性,
地水風輪轉相依, 虛空無有所依相。
蘊處界三亦復然, 恒住業種煩惱性,
彼業煩惱住何處? 常居妄想無明源。
妄想之心何所居? 恒在無為淨心性。
蘊處界三假施設, 一切法性本無住。
業惑相持如地水, 妄想轉動猶如風,
心性本淨如虛空, 妄想依空無所有。
煩惱業苦從妄起, 業苦還為煩惱因,
惑業循環無定居, 無因無緣無所會。
無生無滅性空寂, 本體光明智清淨,
自性無生無變異, 煩惱無明垢所覆。
亦如瞖眼見二月, 眾生二執亦復然,
煩惱猶如眾蜜蜂, 其蜜即喻如來藏。
此蜜眾蜂共圍遶, 智者護身能取蜜,
無相六度為方便, 而能證彼法界身。
譬如五穀𥢶未除, 不堪與人充美饍,
菩薩煩惱糠未遣, 不能施人甘露飯。
行人遺寶落穢處, 設經萬歲無損污,
天眼見寶知所在, 收取洗拭隨意用。
佛見眾生性無二, 為欲滌除煩惱穢,
大乘甘露而為水, 滌盡塵勞佛性現,
譬如新生五穀芽, 說米有無未決定,
佛性不離有無中, 唯佛自證方明了。
法寶自性恒清淨, 諸佛世尊如是說。
客塵煩惱之所覆, 如雲能翳日光明,
無垢法寶眾德備, 常樂我淨悉圓滿。
法性清淨云何求? 無分別智而能證。
譬如池水淨無垢, 其中蓮花妙無染,
如月蝕已重光明, 亦如皎日出雲翳,
無垢功德遍莊嚴, 滌除煩惱光明現。」

「如来の妙体は即ち法身、 清らかな解脱は真諦と同じ。 太陽と光が離れないように、 如来の功徳は即ち涅槃。 真の我と仏に差別はなく、 一切の生きとし生ける者の帰依するところ。 生死と涅槃は等しく二つではなく、 その本性は壊れず、作られたものではない。 汚れも清らかも、その如き本性に違いはなく、 ただ仏世尊だけがそれを了知する。 衆生はみな如来蔵を具え、 ここに三宝が世に現れる。 一切の有情は仏の智慧に入る、 その本性が清らかで他と別ではないから。 仏と衆生の本性に違いはなく、 凡夫は異なりと見るが、聖者は差別なし。 一切の衆生はもともと清らか、 三世の如来も同じく説く。 その本性の汚れと清らかはもとより二つなく、 衆生と仏に差別はない。

虚空は十方に遍くして差別なく、 心の本性も平等でまた同じ。 たとえば一切の衆生界が、 虚空に遍く存在して生滅を受けるように、 諸々の根の生滅もまたそうであり、 無為の界に在ってもまた同じ。 たとえば虚空は火に焼かれず、 生死も無為の本性を壊さない。 地・水・風の輪は転じて互いに依るが、 虚空には依る相というものがない。

五蘊・十二処・十八界もまたそうであり、 常に業の種と煩悩の性質に住む。 その業と煩悩はどこに住むのか? 常に妄想と無明の源に居る。 妄想の心はどこに在るのか? 常に無為で清らかな心の本性に在る。

五蘊・十二処・十八界は仮の施設であり、 一切の法の本性はもとより住するところなし。 業と煩悩が互いに支え合うのは地や水のようであり、 妄想が転じて動くのは風のよう。 心の本性はもと清らかで虚空のごとく、 妄想は虚空に依るが何もない。

煩悩と業と苦は妄想から生じ、 業と苦はまた煩悩の因となる。 迷いと業が循環して定まった住処なく、 因なく縁なく、会うところもない。 生まれず滅せず、本性は空しく寂滅し、 本体の光明は智慧清らか。 自性は生まれず変異もないが、 煩悩と無明の汚れに覆われている。

また、目の病にかかって二つの月を見るように、 衆生の二つの執着もまたそう。 煩悩は多くの蜜蜂のようであり、 その蜜はすなわち如来蔵にたとえられる。 この蜜は多くの蜂に囲まれているが、 賢者は身を守って蜜を取ることができる。 相のない六波羅蜜を方便として、 それによって法界身を証することができる。

たとえば五穀の籾殻がまだ除かれていなければ、 人に与えて美味しい食事とすることができないように、 菩薩の煩悩という糠がまだ払われていなければ、 人に甘露の飯を施すことはできない。 旅人が宝を落として汚れた場所にあっても、 たとえ万年経っても損なわれ汚れない。 天眼の者が宝を見てその在り処を知り、 取り出して洗い拭き、思うままに用いる。

仏は衆生の本性に二つとないのを見て、 煩悩の汚れを洗い清めようと欲し、 大乗の甘露を水として、 塵労を洗い尽くせば仏性が現れる。 たとえば新しく生まれた五穀の芽に、 米があるかないかまだ定まっていないと言うように、 仏性は有無の中を離れず、 ただ仏が自ら証して初めて明了となる。

法宝の自性は常に清らか、 諸仏世尊はこのように説く。 客塵の煩悩に覆われ、 雲が太陽の光を覆い隠すことができるように。 汚れのない法宝は多くの徳を備え、 常・楽・我・浄をすべて円満に具えている。

法性の清らかさをどう求めるのか? 無分別の智慧によって証することができる。 たとえば池の水が清らかで濁りなく、 その中の蓮華が妙に染まらないように。 月が蝕から復活して再び光り輝き、 また清らかな太陽が雲の覆いを出るように、 汚れのない功徳がすべてを荘厳し、 煩悩を洗い清めて光明が現れる。」

佛告慈氏:「當知第一法寶即是摩訶般若解脫法身。

仏、慈氏に告げたまわく:「知るべし、第一の法宝とはすなわち摩訶般若(大いなる智慧)・解脱・法身なり。」

「復次,慈氏!應知第二法寶者,謂即戒、定、智慧諸妙功德,所謂三十七菩提分法:謂四念住、四正斷、四神足、五根、五力、七覺分、八聖道。此三十七法與前清淨法寶而為方便。云何方便?以修此法而能證彼清淨法身。當知此即第二法寶。

「さらに、慈氏よ、知るべき第二の法宝とは、戒律、禅定、智慧という優れた功徳のことである。すなわち三十七菩提分法——四念住、四正断、四神足、五根、五力、七覚支、八正道を指す。この三十七の法は、先に述べた清浄なる法宝への方便となる。どのような方便かというと、これらの教えを修行することで、清らかな法身を証得できるからである。これを第二の法宝と知るべきである。」

「復次,慈氏!云何名為第三法寶?所謂過去無量殑伽沙諸佛世尊所說正法,我今亦當作如是說,所謂八萬四千諸妙法蘊,調伏純熟有緣眾生,而令阿難陀等諸大弟子,一聞於耳皆悉憶持,攝為五分:一素呾纜、二毘奈耶、三阿毘達磨、四般若波羅蜜多、五陀羅尼門。此五種藏教化有情,隨所應度而為說之。若彼有情樂處山林,常居閑寂修靜慮者,而為彼說素呾纜藏。若彼有情樂習威儀護持正法,一味和合令得久住,而為彼說毘奈耶藏。若彼有情樂說正法分別性相,循環研覈究竟甚深,而為彼說阿毘達磨藏。若彼有情樂習大乘真實智慧,離於我法執著分別,而為彼說般若波羅蜜多藏。若彼有情不能受持契經調伏對法般若,或復有情造諸惡業——四重、八重、五無間罪、謗方等經、一闡提等種種重罪——使得銷滅速疾解脫頓悟涅槃,而為彼說諸陀羅尼藏。此五法藏,譬如乳、酪、生酥、熟酥、及妙醍醐——契經如乳,調伏如酪,對法教者如彼生酥,大乘般若猶如熟酥,總持門者譬如醍醐——醍醐之味,乳、酪、酥中微妙第一,能除諸病,令諸有情身心安樂。總持門者,契經等中最為第一,能除重罪,令諸眾生解脫生死,速證涅槃安樂法身。

「また、慈氏よ。第三の法宝とは何か。それは、過去無量のガンジス河の砂の数のごとき諸仏世尊が説かれた正法を、今、私もまた同じように説くものである。すなわち、八万四千の諸々の妙法の集まりであり、縁ある衆生を調伏し成熟させるために、阿難陀などの大弟子たちが、一度耳にしただけで全てを記憶し、五つにまとめたものである。一に経蔵、二に律蔵、三に論蔵、四に般若波羅蜜多蔵、五に陀羅尼門である。この五つの蔵は、有情を教化し、それぞれの根機に応じて説かれる。もし、山林に住み閑寂を愛し静慮を修行する者には、経蔵を説く。もし、威儀を習い正法を護持し、一味和合して法を久しく住せしめんとする者には、律蔵を説く。もし、正法を説き性相を分別し、繰り返し研究して究極の深義に至らんとする者には、論蔵を説く。もし、大乗の真実の智慧を習い、我や法への執着と分別を離れんとする者には、般若波羅蜜多蔵を説く。もし、経・律・論の三蔵を受持できない者、あるいは四重罪・八重罪・五無間罪・方等経を謗る罪・一闡提などの種々の重罪を造った者でさえも、それらを消滅させ速やかに解脱し頓悟して涅槃に至らしめるために、陀羅尼蔵を説く。この五つの法蔵は、乳・酪・生酥・熟酥・醍醐に譬えられる。経蔵は乳の如く、律蔵は酪の如く、論蔵は生酥の如く、大乗の般若は熟酥の如く、総持門は醍醐の如くである。醍醐の味は乳・酪・酥の中で最も微妙であり、諸病を除き、諸々の有情に身心の安楽をもたらす。同じく、総持門は経蔵などの中で最も優れ、重罪を除き、諸々の衆生を生死から解脱させ、速やかに涅槃の安楽法身を証させしめるものである。」

「復次,慈氏!我滅度後,令阿難陀受持所說素呾纜藏,其鄔波離受持所說毘奈耶藏,迦多衍那受持所說阿毘達磨藏,曼殊室利菩薩受持所說大乘般若波羅蜜多,其金剛手菩薩受持所說甚深微妙諸總持門。如是教門,能除有情生死煩惱長夜黑闇,速能出離證解脫果。譬如明燈能除暗暝使得見道,佛亦如是,然智慧炬能照有情十不善闇使見善道。設彼有情慳悋財寶,聞此法已便能惠施一切貧窮;若有惡業眾生,聞此法已捨惡修善;若瞋恚者便能忍辱;懈惰有情聞已精進;散亂眾生聞已寂靜;愚癡有情聞是法已便發智慧,得智慧已悉能迴心修種種善;又諸有情聞此法已,閉惡趣門開涅槃路,猶如甘露證解脫果。當知此即第三法寶。是三法寶,一切眾生應當歸依無為法寶,一切法中最尊最勝莫過無為。何以故?以於生死大苦海中能為船筏,能作有情甘露良藥,又是殑伽沙等諸佛菩薩三無數劫六度萬行所證之果。如是妙法功德圓滿,以是歸依無為法寶。若有眾生受持經者當發是願:『願我歸依如是法寶。』歸是法已,願令五道一切眾生,亦發是願:『我今歸依。』亦令有情安住於此功德法中,引至涅槃真實寶所。慈氏!當知此即名為第三法寶。

「また、慈氏よ、私が滅度した後、阿難陀に説かれた経蔵(スートラ)を受け持たせ、ウパーリに説かれた律蔵(ヴィナヤ)を受け持たせ、カーティヤーヤナに説かれた論蔵(アビダルマ)を受け持たせ、文殊師利菩薩に説かれた大乗の般若波羅蜜多を受け持たせ、金剛手菩薩に説かれた非常に深遠で微妙な諸々の総持門(ダーラニ)を受け持たせよう。これらの教えの門は、生きとし生けるものの生死の煩悩という長い夜の闇を取り除き、速やかに迷いを脱して解脱の果を得させることができる。例えば、明るい灯りが暗闇を除いて道を見せるように、仏もまたそのように智慧の燈明を掲げて、生きとし生けるものの十不善の闇を照らし、善い道を見せるのである。もし、財宝を惜しむ者があっても、この法を聞けば、すべての貧しい者に施しを行うことができるようになる。もし悪業を持つ者があっても、この法を聞けば、悪を捨てて善を修める。怒りやすい者も忍辱を行えるようになり、怠惰な者も聞けば精進し、心の乱れた者も聞けば静まり、愚かな者もこの法を聞けば智慧を発し、智慧を得て心を転じて様々な善を修めるようになる。また、生きとし生けるものはこの法を聞けば、悪い道への門を閉ざし、涅槃への道を開く。それは甘露の如く、解脱の果を得させるのだ。これを第三の法宝と知るべきである。この三つの法宝のうち、一切の衆生は無為の法宝に帰依すべきである。あらゆる法の中で最も尊く、最も勝れているものは、無為に勝るものはないからである。なぜなら、生死の苦しみの大海にあって、それは船や筏となり、生きとし生けるものにとって甘露の良薬となり、さらにガンジス川の砂の数ほどの諸仏・諸菩薩が三つの無数の劫(劫)の間、六度の万行を修行して証得した果であるからだ。このような妙法は功徳が円満しており、ゆえに無為の法宝に帰依するのである。もし経典を受け持つ者がいるならば、こう願うべきである。『願わくは、私はこの法宝に帰依せん』と。この法に帰依したならば、五道の一切の衆生もまた、このように願うようにせよ。『私は今、帰依する』と。また、生きとし生けるものをこの功徳ある法に安住させ、涅槃という真実の宝の場所へ導くのである。慈氏よ、これを第三の法宝と知るべきである。」

「復次,慈氏!云何名為真實僧寶?言僧寶者亦有三種:一者第一義僧:所謂諸佛聖僧如法而住:不可覩見、不可捉持、不可破壞、無能燒害、不可思議一切眾生良祐福田。雖為福田,無所受取,諸功德法常不變易。如是名為第一義僧。

また、慈氏よ。では、真実の僧宝とは何か。僧宝にもまた三種類ある。第一に、第一義僧である。すなわち、諸仏や聖者たちの僧が、真理に従って安住している状態をいう。それは、目に見ることも、手でつかむこともできず、壊すことも、焼き滅ぼすこともできない。思いはかることのできない、すべての生きとし生けるものにとっての良き福田である。しかし、福田でありながらも、何ものも受け取ることがなく、さまざまな功徳の法は常に変わることがない。これを第一義僧と名づける。

「第二聖僧者,謂須陀洹向、須陀洹果,斯陀含向、斯陀含果,阿那含向、阿那含果,阿羅漢向、阿羅漢果,辟支佛向、辟支佛果,八大人覺三賢十聖。如是名為第二僧寶。

第二の聖僧とは、預流向(入流を目指す修行段階)、預流果(入流を達成した境位)、一来向、一来果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果、縁覚向、縁覚果、そして八大人覚、三賢、十聖を指します。これらを第二の僧宝と名付けます。

「第三福田僧者,所謂苾芻、苾芻尼等。受持禁戒多聞智慧,猶天意樹能蔭眾生。又如曠野磧中渴乏須水,遇天甘雨霈然洪霔應時充足。又如大海,一切眾寶皆出其中。福田僧寶亦復如是,能與有情安隱快樂。又此僧寶清淨無染,能滅眾生貪瞋癡闇,如十五日夜滿月光明,一切有情無不瞻仰;亦如摩尼寶珠,能滿有情一切善願。如是名為第三僧寶。

第三の福田である僧とは、比丘や比丘尼などを指します。彼らは戒律を守り、教えをよく学び、智慧を備えています。それはまるで天の如意樹のように、生きとし生けるものをその陰で守り育てます。また、荒野の砂漠で水に渇いている者にとって、天からの恵みの雨が降り注ぎ、その時を待たずして十分に満たされるようなものです。さらに、大海がすべての宝をその中から生み出すように、福田である僧宝もまた、生きとし生けるものに安らぎと幸せをもたらします。この僧宝は清らかで汚れがなく、生きとし生けるものの貪りや怒り、無知の闇を滅ぼします。それはまるで十五夜の満月の光が、すべての生きとし生けるものに仰ぎ見られないものがないように、また、摩尼宝珠が生きとし生けるもののあらゆる善き願いを叶えるかのようです。これが第三の僧宝と呼ばれるものです。

「是三僧寶,一切有情云何歸依?應作是說:『當令歸依第一義諦無為僧寶。所以者何?以是無為常住僧故,而此僧寶無漏無為不變不異自證之法,歸依如是無漏僧寶,能滅有情一切苦故。復願有情,當獲如是無漏功德,得此法已,演三乘法度脫有情。我所歸依佛法僧寶,不為怖畏三惡道苦,亦不願樂生於人天,誓救有情出生死苦。是則名為歸依僧寶。』

この三つの僧宝について、全ての生きとし生けるものは、どのように帰依すべきでしょうか?次のように説くべきです。

「まず、第一義諦である無為の僧宝に帰依させるべきです。なぜなら、この僧宝は常住して変わることがなく、無漏・無為で、不変不異であり、自ら悟る法だからです。このような無漏の僧宝に帰依することで、生きとし生けるものの一切の苦しみが滅せられるからです。

さらに願わくは、生きとし生けるものが、このような無漏の功徳を得て、この法を成就したのち、三乗の法を説いて、生きとし生けるものを苦しみから救済してほしいのです。私が仏法僧の宝に帰依するのは、三悪道の苦しみを恐れるからでもなく、また人天の世界に生まれることを願うからでもありません。ただ誓って、生きとし生けるものを生死の苦しみから救い出すためです。これを僧宝への帰依と名づけます。」

「復次,慈氏!若有眾生歸依三寶,應發是心:『我今此身已生人趣,得離八難,難得能得,以善方便,當習一切勝妙之法。若我違於如是上願,不求善法則為自欺。亦如有人乘船入海,至於寶所空手而歸。如是歸依佛法僧寶脫苦方便,若不歸依後悔何及。』既知是已,當須勉勵精懃修習速願成就。善法既成,過去罪愆應當懺悔使令除滅。復作是說:『我從無始生死已來,身口意業所作眾罪無量無邊,皆從虛妄顛倒心起,而於父母、和上、師長、佛法僧寶尊重之境,所作諸罪,今皆懺悔。復為二事造作諸罪,極重惡業如妙高山。云何為二?一者親愛,二者怨嫌。若於生死急難之中,而彼二類怨親有情,而於我身不能利益,應作如是遍觀察之,彼與我身悉歸磨滅,而我云何乃作斯罪。又於十方世界一切有情造諸善業,及學無學獨覺、聲聞,佛及弟子一切賢聖,我皆隨喜。復次於無始際生死輪轉,受五趣身,無量怨親於我未曾獲得毫釐利益之事,現在未來亦不可得,我於無始為彼怨親,所作諸罪我願自受,誓不擾他一切眾生。若我重患之時求親愛人,慈心瞻省扶侍我身,摩抆沐浴供給飲食,病瘦醫藥種種相資,雖則如斯,而於我身病苦之中無相代者,況於未來而能救我生死大苦。而我此身於現世中無依無怙,何況未來。我身既然,有情亦爾,自我及他皆無恃怙,是故歸依真實三寶。何以故?以常住故。譬如有智之人於險難中,求有力者以為救護。眾生亦爾,生死險難,歸依三寶以為其主,方能越渡生死大河。我若得已亦為其主,覆護一切苦難眾生。』能發如是大誓願者,得大信心,而於佛前長跪合掌偏露右肩,作是歸依佛法僧寶。譬如世間貧賤之人,一切有情見皆輕蔑策役驅使,種種呵罵陵辱其身。既被輕賤,遂求尊貴有力之人以為其主,便能免離種種欺辱。有情亦爾,或生惡趣及在人中,恒被諸苦逼迫其身,為求免離歸依三寶,如是諸苦悉得解脫。歸依三寶已,復發是願:『願我救護一切眾生,渡生死海到涅槃岸,如大商主導諸商人。度大曠野沙磧險路至無畏處,三寶導師亦復如是,導引有情度空曠處生死長夜,至大涅槃得無所畏。』慈氏!當知發心修行大乘行者,應作如是歸依三寶。」

「さらに、慈氏よ。もし衆生が三宝に帰依するならば、このように心を起こすべきである。『私は今、この身で人間の世界に生まれ、八つの困難な状態を離れることができた。得難いものを得たのだから、うまい方法を用いて、あらゆる優れた法を学んでいこう。もしこの上願に背き、善い法を求めなければ、それは自分自身を欺くことになる。それは、船に乗って海に入り、宝のある所に至りながら、何も持たずに帰ってくるようなものだ。このように、仏・法・僧の宝に帰依することこそが苦しみからの脱却の手段であるのに、もし帰依しなければ後悔しても遅すぎる。』このことを知ったならば、努め励み、精進して修行し、速やかに成就するよう願うべきである。善い法が完成したなら、過去の罪過を懺悔して除き滅ぼすべきである。そして、またこのように言うべきである。『私は無始の生死以来、身・口・意の業によって作った無数の罪は限りなく、すべて虚妄や顛倒した心から起こったものである。そして、父母や師僧、長者、仏法僧の宝という尊い境に対して作った様々な罪を、今、すべて懺悔します。また、二つのことのために様々な罪を作り、それは非常に重い悪業であり、妙高山のように大きなものです。その二つとは何か。一つは親愛する者、もう一つは怨み嫌う者です。もし生死の急難の中にあっても、この怨みと親愛の二種類の有情は、私の身にとって利益にはなりません。このようにすべてを観察すべきです。彼らも私の身も、すべて滅びて無くなっていくものです。それなのに、どうして私がこのような罪を作ることがありましょうか。また、十方世界の一切の有情が様々な善業を作り、また学無学の独覚や声聞、仏や弟子などすべての賢聖に対しても、私は皆、歓喜します。さらに、無始の昔から生死を輪廻し、五つの趣に身を受けても、無量の怨親は私のために少しの利益も得たことがなく、現在や未来も得ることはありません。私は無始の昔から、その怨親のために作った様々な罪を、自ら受け入れ、決して他の衆生を悩ませることはしません。もし私が重い病にかかった時、親愛なる人を求めて、慈しみの心で見舞い、私の身を支え、拭いたり入浴させたり、飲食を供給し、病や痩せ衰えのための薬や、様々なものを助けてくれても、それはこのようなことですが、私の身の病の苦しみを代わってくれる者は誰もいません。ましてや未来において、私の生死の大きな苦しみを救ってくれることなどありえません。そして、私のこの身は現世においても頼るべきところがなく、まして未来はなおさらです。私の身がそうであるように、他の有情もまた同じです。私も他者も皆、頼るべきところがないのです。だからこそ、真実の三宝に帰依します。なぜなら、常住であるからです。たとえば、知恵ある人が危険や困難の中で、力ある者を求めて助けを頼むようなものです。衆生もまた同じで、生死の危険や困難の中で、三宝に帰依して主とすることで、初めて生死の大河を渡り越えることができるのです。もし私がそれを得たなら、私もまた主となって、すべての苦難の衆生を覆い守りましょう。』このような大誓願を発することができる者は、大いなる信心を得る。そして、仏の前で長跪し、合掌し、右肩を露わにして、このように仏法僧の宝に帰依するのである。たとえば、世間の貧しく賤しい人は、すべての者に見下され、軽んじられ、こき使われ、様々に罵られ、侮辱され、その身を苦しめられる。このように軽んじられると、尊く力ある人を求めて主とすることで、初めて様々な欺きや辱めから逃れることができる。有情もまた同じで、あるいは悪趣に生まれ、あるいは人間の世界にあって、常に様々な苦しみにその身を逼迫されている。それらの苦しみから逃れるために三宝に帰依すれば、このような様々な苦しみはすべて解脱することができる。三宝に帰依したならば、さらにこのような願いを起こす。『願わくは、私はすべての衆生を救い、生死の海を渡って涅槃の岸に至らせよう。それはあたかも、大商人の主が多くの商人を導き、大きな荒野や砂利の危険な道を渡って、恐れのない場所に至るようなものだ。三宝の導師もまた同じで、有情を導き、虚しい広野や生死の長い夜を渡り、大涅槃に至らせて、恐れのない境地を得させるのである。』慈氏よ、知るがよい。心を起こして大乗の道を修行しようとする者は、このように三宝に帰依すべきなのである。」

大乘理趣六波羅蜜多經卷第一

大乗理趣六波羅蜜多経 巻第一


序
2 陀羅尼護持國界品

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