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大乗理趣六波羅蜜経 (大乘理趣六波羅蜜多經)


靜慮波羅蜜多品第九之一

第九章 静慮波羅蜜多 その一

爾時,佛薄伽梵處種種摩尼寶王師子之座,為無量無數大菩薩摩訶薩眾之所圍遶——是諸菩薩,或現天身天眾圍遶,或現龍身龍眾圍遶,乃至或現非人身非人眾圍遶,或現菩薩身菩薩眾圍遶——光明晃曜普及大會靡不周遍。時慈氏菩薩摩訶薩即從座起,偏袒右肩右膝著地,合掌恭敬而白佛言:「大聖世尊以大慈悲,利益安樂諸菩薩眾,已說精進波羅蜜多。唯願哀愍,宣說靜慮波羅蜜多,令諸有情起大乘行。云何思惟、云何修習如是靜慮波羅蜜多而得圓滿?唯願宣說?我等樂聞。」

その時、仏陀であり世尊であられる方は、様々な摩尼宝珠で飾られた王たる獅子の座におられました。そして、数え切れないほどの大菩薩、大修行者たちに囲まれていました。その菩薩たちは、ある者は天の姿で天の衆に囲まれ、ある者は竜の姿で竜の衆に囲まれ、さらには、ある者は人間でない姿で人間でない衆に囲まれ、またある者は菩薩の姿で菩薩の衆に囲まれていました。その輝く光はあまねく大いなる集会を照らし、行き渡らないところはありませんでした。

その時、慈氏(弥勒)という名の大菩薩が、ただちに座を立ち、右の肩をあらわにし、右膝を地面につけ、両手を合わせて敬いの意を表し、世尊にこう申し上げました。「大聖なる世尊よ、あなたは大きな慈悲をもって、諸々の菩薩を利益し安楽にするため、すでに努力精進の完成についてお説きになりました。どうか私たちを哀れみ、静かな瞑想の完成についてお説きください。それによって、生きとし生けるものたちが大乗の道を起こすことができるように。いかに考え、いかに修習すれば、この静かな瞑想の完成が円満となるのでしょうか。どうかお説きください。私たちはそれを喜んで聴きたいと願っております。」

爾時薄伽梵告慈氏菩薩摩訶薩言:「善哉,善哉!善男子!汝今能問如是深義,利益安樂一切有情。汝等諦聽善思念之,吾當為汝分別解說。若善男子、善女人,發阿耨多羅三藐三菩提心,應作如是諦念思惟:『佛道懸遠無人能到,唯有一法饒益有情,所謂正定。若諸菩薩未獲此定,其心未得清淨不動,生死涅槃無有二相。』由此義故,為度眾生,以巧方便精勤修習相應靜慮無相正智,猶如虛空清淨無垢常住不變。復觀此定猶如滿月,一切妄想猶若浮雲,又此正定如清涼風,能除虛空一切雲翳,朗然清淨光明照曜,一切有情見皆生喜。如是滿月光明莊嚴,能施有情清涼安樂。如是靜慮清涼之風,能除性空妄想雲翳。正定滿月出現世間大悲光明,能除有情諸煩惱熱,使得清淨安樂涅槃。」

その時、世尊は慈氏菩薩摩訶薩に告げられた。「よし、よし。善き男子よ、汝はよくこのような深い義を問うた。それは一切の有情を利益し、安楽にするためである。汝らはよく聞き、よく思惟せよ。吾は汝らのために、それぞれに説き明かそう。

もし善き男子、善き女人が、無上正等覚を発心するならば、次のように正しく念じ、思惟すべきである。 『仏の道は遠く、誰も到達できる者はいない。ただ一つの法だけが有情を饒益する。それが”正定”である。もし菩薩がこの定を得ていなければ、その心はまだ清らかで動揺のないものとはならず、生死と涅槃に二つの相はない。』

この義によって、衆生を度するために、巧みな方便をもって精進し、相応の静慮と無相の正智を修習せよ。それは虚空のごとく清らかで、汚れがなく、常住して変わらない。

また、この定を観察せよ。ちょうど満月のごとくであり、すべての妄想は浮雲のようである。また、この正定は清涼な風のごとく、虚空のすべての雲の覆いを取り除き、明らかに清らかとなり、光明は輝きわたる。一切の有情はこれを見て、皆喜びを生じる。

このように、満月の光明の荘厳は、有情に清涼の安楽を施す。このように、静慮の清涼の風は、性空の妄想という雲の覆いを除くことができる。正定の満月が世に現れ、大悲の光明によって、有情の諸々の煩悩の熱を取り除き、清らかで安楽な涅槃を得させるのである。」

爾時薄伽梵而說頌言:

その時、世尊は次のように詩句を唱えられた。

「靜慮能生智, 定復從智生,
佛果大菩提, 定慧為根本。
供養讀誦持, 施戒及安忍,
正智見不二, 無二何可得。
靜慮為親友, 究竟不相離,
世間一切法, 身歿皆相捨,
未來無善伴, 父母不能救,
況餘諸眷屬, 唯靜慮能護。
捨此身命時, 如棄於土木,
親戚皆相離, 唯禪定隨逐。
此身不堅固, 散亂造諸惡,
若不修禪定, 死墮三惡趣。
如人理家務, 事畢應止息,
如牛踐穀時, 被捶猶應食。
如盲還本處, 慣習不失路,
若人樂修定, 必歸空寂舍。
眾生妄心起, 如翳見空花,
唯定慧能治, 諸佛說如是。
眾生心躁動, 猶如旋火輪,
若欲止息時, 無過修靜慮。
若於一念中, 不勤修靜慮,
如人遭賊劫, 身命難保全。
捨定修餘業, 雖獲大果報,
猶如雜毒藥, 智者不應食。
財寶如塵穢, 盛色方駛流,
若不勤修定, 甘露門難啟。
如薪火所燒, 壯年老所逼,
愚不修靜慮, 為欲之所害?
一切無常吞, 皆由貪五欲,
禪定棄不修, 云何得常住?
如人煑少米, 惜薪燒栴檀,
捨定不修行, 散亂亦如是。
愚人耽睡眠, 流轉生死海,
犛牛自愛尾, 貪惜喪其軀。
輪王壽盡時, 七寶皆散失,
大臣及妃后, 一切無隨者。
唯有修靜慮, 隨逐不相離,
智者樂修行, 必到涅槃岸。

「静慮(瞑想)は智慧を生み、 智慧はまた静慮から生まれる。 仏の果である大いなる悟りも、 静慮と智慧がその根本である。

この経典を供養し、読み、唱え、保ち、 施し、戒を守り、忍び、 正しい智慧と見解で不二を悟れば、 不二とは何かと求めるものもない。

静慮は親友のごとく、 決して離れることがない。 世の中のすべてのものは、 死ねばすべて手放すしかない。

未来に善き友もなく、 父母でさえ救うことはできない。 ましてや他の家族や親族が? ただ静慮だけが守ってくれる。

この命を捨てる時、 土くれや木くずを棄てるように、 親戚は皆離れていき、 ただ禅定(静慮)だけが従う。

この身体は堅固ではなく、 散乱して様々な悪をなす。 もし禅定を修めなければ、 死んで三つの悪い世界に落ちる。

人が家事を整理し、 用事が終われば休息するように。 牛が穀物を踏む時、 鞭で打たれてもなお食べ続けるように。

盲人が元いた場所に戻る時、 慣れていれば道を間違えないように。 人が静慮を楽しんで修めるなら、 必ず空(くう)の静かな家に帰る。

衆生の誤った心が起きるのは、 目の病気が空中の花を見るようだ。 ただ静慮と智慧だけがこれを治す。 諸仏はこう説かれた。

衆生の心は騒ぎ動き、 まるで回る火の輪のようだ。 もしそれを静めたいなら、 静慮を修めるに勝るものはない。

もし一瞬のうちに、 静慮を怠って修めなければ、 それは人が盗賊に遭い、 身の安全を保てないのと同じだ。

静慮を捨てて他の行いを修めても、 大きな報いを得るとしても、 それは毒を混ぜた薬のようなもの。 賢者はそれを口にすべきではない。

財宝は塵や汚れのようであり、 美しい色は急流のように過ぎ去る。 もし静慮を怠れば、 甘露の門は開きにくい。

薪が火に焼かれるように、 壮年も老いに追い詰められる。 愚か者は静慮を修めず、 欲望に害されるのだろうか?

すべては無常に飲み込まれる。 すべては五つの欲望への執着からだ。 禅定を捨てて修めなければ、 どうして永遠に留まることができよう?

人が少しの米を煮るのに、 惜しんで栴檀(せんだん)の木を燃やすようなもの。 静慮を捨てて修行しないのも、 散乱する心も同じだ。

愚か者は眠りにふけり、 生死の海を流れ続ける。 ヤク(牛)が自分の尾を愛し、 執着して命を落とすように。

転輪聖王の寿命が尽きる時、 七宝はすべて散り失せ、 大臣や妃たちも、 誰一人従ってはくれない。

ただ静慮を修めることだけが、 従い離れることがない。 賢者はこれを行い楽しみ、 必ず涅槃の岸に至る。」

「復次,慈氏!若菩薩摩訶薩欲修靜慮波羅蜜多,先當親近大善知識,復應遠離諸惡知識。世間不善及惡名聞由惡友生,諸善法利名聞福德,皆因善友之所生起,以依善友受持淨戒莊嚴法身。破戒之人如燋穀種,一切善法皆不得生,況能滋長無漏深定。如是知已,應當一心奉持淨戒,乃至小罪應生怖畏,寧喪身命不毀禁戒,如淨戒中已廣分別。復次,菩薩摩訶薩欲修靜慮,先應捨離一切世間治生販賣種殖根栽。何以故?若不捨離,擾亂其心,何能安住甚深禪定?以是因緣,菩薩摩訶薩於四威儀,斷除妄想善攝其心,設聞眾聲亦無動亂。譬如毒蛇置竹筒內其身自直。菩薩亦爾,妄想迴曲,置靜慮中正見端直,不住生死不入涅槃,離諸邪曲。若能如是善攝六根不令放逸,眼雖見色而不取相,安住甚深寂靜解脫;耳鼻舌身意亦如是。恒以正智觀察思惟:『而此三業所作善根,為是自利?為是利他?為益現在?為益未來?』若無如是利益事者,菩薩觀察決定不為。猶如世間安立石像,身口意業不動亦然。設遇瞋罵應起慈心,或侵利養不生忿恨,或被打罵,應捨本居,自求寂靜無患難處,結跏趺坐正念觀察,以大悲心而為屋宅,智慧為鼓以覺悟杖,而扣擊之。告諸煩惱:『汝等當知,諸煩惱賊從妄想生,我法身家有善事起,非汝所為,汝宜速出。若不時出,當斷汝命。』如是告已,諸煩惱賊尋自退散。次於自身善起防護不應放逸,以大悲真言令諸有情所求滿足,以方便慧而為大將,用四念處以為守護,本覺心王住第一義禪定宮闕,安處不動猶若金剛,以智慧劍斬煩惱賊,破生死軍摧伏魔怨,荷負一切,令諸眾生皆得解脫。爾時菩薩復語其心:『汝於昔時已發誓願,今當自勉令其圓滿。過去如來已記別汝:「當得菩提廣度一切。」汝於爾時對十方佛三乘賢聖作是誓願,拔濟一切五趣有情咸令解脫。今諸有情無依無怙無救無歸,若入涅槃捨於生死,違本誓願。凡諸世間,濡行忠信言尚無二,況汝昔願而不依行。汝於今者應當正念一心不動,拔濟有情出生死獄,安置無上大般涅槃。』如是思已,住於大乘甚深禪定,是即名為菩薩摩訶薩修習靜慮波羅蜜多。」

「また、慈氏よ。もし菩薩摩訶薩が静慮波羅蜜多を修めようとするなら、まずすぐれた善知識に親しく近づき、悪知識からは遠ざかるべきである。世間の不善や悪い評判は悪友によって生まれ、善い法の利益や名誉、福徳はすべて善友によって生じる。善友に依って清らかな戒を保ち、法身を荘厳するからである。戒を破る者は焦げた穀物の種のようなもので、一切の善い法が生じることはなく、まして無漏の深い定が育つはずもない。このように知ったならば、一心に清らかな戒を奉持し、小さな罪でも恐れを抱き、命を失っても戒律を破ってはならない。これは清浄戒の中で既に広く説かれた通りである。

また、菩薩摩訶薩が静慮を修めようとするなら、まず一切の世間的な生業や商売、植栽を捨て去るべきである。なぜなら、これらを捨てなければ心が乱され、いかにして深い禅定に安住できようか。そのため、菩薩摩訶薩は四威儀において妄想を断ち切り、心をよく摂め、たとえ様々な音を聞いても動揺しない。例えば毒蛇を竹筒の中に入れれば、その身は自然とまっすぐになるように、菩薩もまた、曲がりくねった妄想を静慮の中に置くことで、正見がまっすぐになり、生死に留まらず涅槃に入ることもなく、あらゆる邪曲を離れる。このように六根をよく摂めて放逸にせず、眼は色を見ても相に執着せず、深く寂静な解脱に安住する。耳・鼻・舌・身・意もまた同様である。常に正しい智慧をもって観察し考える。「これらの三業によって生じる善根は、自らのためか。他者のためか。現在の益か。未来の益か。」もしこのような利益がないなら、菩薩は観察して決して行わない。

まるで世間で石の像を立てるように、身口意の業も動かない。たとえ罵られても慈しみの心を起こし、利益を奪われても忿恨を生じず、打たれたり罵られたりしたなら、住む場所を捨てて、自ら寂静で患難のない場所を求め、結跏趺坐して正念をもって観察する。大悲の心を家とし、智慧を鼓とし、覚悟の杖でそれを打ち鳴らして、煩悩に告げる。「汝ら知るべし。諸々の煩悩の賊は妄想から生じる。我が法身の家に善い事が起ころうとしている。それは汝らの仕業ではない。汝らは速やかに出て行け。もし時期を逃せば、汝らの命を断つであろう。」このように告げれば、諸々の煩悩の賊は自ずと退散する。

次に、自らの身をよく防護し、放逸であってはならない。大悲の真言により、諸々の有情の求めるものを満たし、方便の智慧を大将とし、四念処を守護として、本覚の心王を第一義の禅定の宮殿に住まわせ、金剛のように動じることなく安らかに置く。智慧の剣で煩悩の賊を斬り、生死の軍を破り、魔の怨みを降伏し、一切を担い、諸々の衆生を皆解脱させる。

その時、菩薩はさらに自らの心に言う。「汝は昔、すでに誓いを発した。今、自ら励み、それを円満させるべきである。過去の如来たちはすでに汝を記別した。『必ず菩提を得て、一切を広く度するであろう』と。汝はその時、十方の仏と三乗の賢聖の前で、この誓いを立てた。五趣の有情をすべて救済し、解脱させようと。今、諸々の有情は寄る辺なく、頼りなく、救いなく、帰依するところがない。もし涅槃に入って生死を捨ててしまえば、本来の誓いに反することになる。世間の柔らかい行いや忠実な言葉でさえ、二言はない。ましてや汝の昔の誓いを、それに従って行わないことがあろうか。汝は今、正念を一心に保ち、動かずに、有情を救済して生死の牢獄から出し、無上の大般涅槃に安置すべきである。」

このように考えて、大乗の甚深な禅定に住する。これを菩薩摩訶薩の静慮波羅蜜多の修習というのである。」

佛告慈氏:「有十六種靜慮波羅蜜多,一切聲聞獨覺所不能知。一者了達生死而無生死是菩薩靜慮,安住如來清淨禪故。二者於諸禪定不生味著是菩薩靜慮,不住一切定亂相故。三者起大悲心是菩薩靜慮,除諸有情二重障故。四者增長正定是菩薩靜慮,不如三界見三界故。五者成就神通是菩薩靜慮,能了有情諸心行故。六者善調伏心是菩薩靜慮,不住調伏不調伏故。七者依無相智得淨解脫、超諸禪定是菩薩靜慮,於色無色界得自在故。八者寂靜極寂靜是菩薩靜慮,勝出一切聲聞、獨覺諸禪定故。九者無能嬈亂是菩薩靜慮,了心清淨本無動故。十者對治毀禁是菩薩靜慮,除諸有情煩惱習故。十一者入智慧門是菩薩靜慮,善達世間如幻夢故。十二者知眾生心是菩薩靜慮,了諸有情本性空故。十三者紹三寶種是菩薩靜慮,能現如來出世間故。十四者得法自在是菩薩靜慮,了一切法皆佛法故。十五者常住不壞是菩薩靜慮,普門示現、用恒寂故。十六者遍照一切是菩薩靜慮,法界平等無不鑒故。慈氏!當知此即名為菩薩摩訶薩十六種靜慮波羅蜜多,一切聲聞獨覺所未曾有。

仏が慈氏に告げられた。「十六種の静慮波羅蜜多がある。これらはすべての声聞や独覚が決して知ることのできないものである。

一つ目は、生死を了達しながらも生死がないこと、これが菩薩の静慮である。如来の清らかな禅に安住するからである。 二つ目は、諸々の禅定に対して味わいに執着しないこと、これが菩薩の静慮である。定と乱のあらゆる相に留まらないからである。 三つ目は、大悲の心を起こすこと、これが菩薩の静慮である。あらゆる有情の二つの重い障りを取り除くからである。 四つ目は、正しい定を増長させること、これが菩薩の静慮である。三界のあり方を三界のままに見ないからである。 五つ目は、神通を成就すること、これが菩薩の静慮である。有情たちの様々な心の動きを知ることができるからである。 六つ目は、心をよく調伏すること、これが菩薩の静慮である。調伏と不調伏に留まらないからである。 七つ目は、無相の智慧に依って清らかな解脱を得て、諸々の禅定を超えること、これが菩薩の静慮である。色界と無色界において自在を得るからである。 八つ目は、寂静であり、極めて寂静であること、これが菩薩の静慮である。すべての声聞や独覚の諸々の禅定に勝っているからである。 九つ目は、乱されるものがないこと、これが菩薩の静慮である。心が清らかで、本来動くことがないと了知するからである。 十つ目は、戒を破ることに対治すること、これが菩薩の静慮である。あらゆる有情の煩悩の習慣(習気)を除くからである。 十一目は、智慧の門に入ること、これが菩薩の静慮である。世間が幻や夢のようなものであるとよく悟るからである。 十二目は、衆生の心を知ること、これが菩薩の静慮である。あらゆる有情の本性が空であると了知するからである。 十三目は、三宝の種を受け継ぐこと、これが菩薩の静慮である。如来の世に出現する様子を現すことができるからである。 十四目は、法における自在を得ること、これが菩薩の静慮である。あらゆる法がすべて仏法であると了知するからである。 十五目は、常に住して壊れないこと、これが菩薩の静慮である。一切の門に現れつつ、その働きは常に寂静であるからである。 十六目は、すべてを遍く照らすこと、これが菩薩の静慮である。法界が平等であり、照らさないものがないからである。 慈氏よ、知るがよい。これこそが菩薩摩訶薩の十六種の静慮波羅蜜多と名づけられるものであり、すべての声聞や独覚にはかつてなかったものである。」

「復次,慈氏!菩薩摩訶薩於此勝三摩地,如是發起。如人要火,取木作燧,以手鑽搖,勤求不懈方得火生;若數休息,終難得火。菩薩摩訶薩亦復如是,求種智火,以定為燧,安忍為手,精勤不息,便能發生一切智火。是火生已燒煩惱薪,以布施水沐浴清淨,用持戒香塗摩其身,處大悲座受法王位,雨大法雨利樂有情,至大涅槃安樂解脫。

「さらに、慈氏よ。菩薩摩訶薩は、この優れた三昧を、次のように発起する。例えば、人が火を欲して、木を取り燧石を作り、手でそれを回し、求め続けて怠らなければ、ついに火を得ることができる。もし度々休むならば、ついに火を得ることは難しい。菩薩摩訶薩もまた、このように、一切智の火を求めるために、定を燧石とし、安忍を手とし、精進を休めなければ、一切智の火を生じることができる。この火が生じれば、煩悩の薪を焼き、布施の水で沐浴して清らかになり、持戒の香でその身を塗り、大悲の座に座って法王の位を受け、大法の雨を降らして有情を利楽し、大涅槃の安楽解脱に至る。」

「復次,慈氏!若諸菩薩心未純熟,於三摩地心有動轉,猶如惡馬難可調伏,當知是人退失禪定。應於如是勝三摩地,四威儀中無暫放捨。若諸菩薩三種心生:一者懶惰,二者精進,三非勤惰。如是知已,應善調伏勤加精進,當除懈怠、懶惰、睡眠及世緣務治生艱難。若離勤惰,其心正直湛然寂靜。如人遠行,速即疲極緩即不至,遲疾處中任運能達。菩薩摩訶薩亦復如是,應以中道安止其心,設身火然安處不動,住三摩地亦無味著,以大智力常住寂靜,於生死海拔濟有情令得解脫,應以十六種三摩地印記別其心,於剎那中有少動念。應當觀察,以正智鉤制令止住,精勤不息修行靜慮波羅蜜多。

また、慈氏よ。もし諸菩薩の心がまだ成熟しておらず、三昧(さんまい)において心が動揺するならば、それはまるで扱いにくい荒馬のように制御が難しく、その人は禅定を失ってしまうと知るべきである。ゆえに、この勝れた三昧においては、行住坐臥の四威儀(しいぎ)の中、一瞬たりとも放捨してはならない。

もし諸菩薩に三種の心が生じたら、すなわち一つは懶惰、二つは精進、三つは勤惰のいずれでもない心である。このように知ったならば、よく調伏し精進を加え、懈怠・懶惰・睡眠、さらには世間の雑務や生計の苦労を取り除くべきである。

もし勤惰から離れるならば、その心はまっすぐで静かに湛えることになる。

人が遠くへ行くとき、速く行けばすぐに疲れ、遅ければ目的地に着かない。しかし、緩急のちょうど良い中道を取れば、自然と到達できる。菩薩摩訶薩もまた同じである。中道によって心を安んじ、たとえ身に火が燃えようとも動じずに安らかであり、三昧に住しても味わいに執着しない。大きな智慧の力によって常に寂静に住し、生死の海において有情を救い、解脱させることができる。

十六種の三昧の印をもって心を識別し、刹那の間にわずかな動念があれば、これを観察し、正しい智慧の鉤(かぎ)で制して止め、精進を怠らずに静慮波羅蜜多を修行しなければならない。

「復次,慈氏!菩薩摩訶薩修靜慮者,有五種障,一切有情皆被覆翳,所謂五蓋:一者貪欲,二者瞋恚,三者掉悔,四者昏眠,五者疑蓋。除此五蓋,方得禪定身心不動。是故菩薩而觀察之:『何因而起?云何遠離?』菩薩應當先觀色欲猶如水月,水動月動、心生法生、貪欲之心亦復如是,念念不住速起速滅。復觀色欲猶如蟒蛇在曠野中,瞋毒發時頭如蔭蓋,行人熱逼投此蓋下,為毒所觸因致命終。貪欲之人亦復如是,行於生死曠野磧中,妄見欲境生染著心,欲想纔起喪失禪定,是即名為貪欲障蓋。復次觀於欲性,如地獄火,燒炙有情;如水瀑流,漂沒一切;無有慈悲,猶如羅剎損害有情,亦如獄卒損人手足;猶如利刀、復如魁膾,斷眾生命;又如磣毒,犯必命終;如墜高山,受大苦惱;如夜黑闇,無所知見;如白癩病,不可療治;又如大海難使乾竭,貪欲深廣過於巨海;五欲麁重如妙高山;如緊波果端正可觀,若人執之觸便喪命;如屠羊柱,懸者必亡;如熱金冠,戴之燒死。猶如過去轉輪聖王、釋提桓因、四天王等,及諸力士、那羅延天一切有情,皆因貪欲興兵相伐,所積身骨如毘富羅山,過去既然,現在未來亦復如是。復次,世間之人,於己親屬父母兄弟極相憐愛,乃至身命無所悋惜,為貪欲故更相憎嫉,起毒惡心互相殺害。貪色之人有二苦因:一者富貴為貪色欲,受諸卑賤種種輕欺。二者為貪欲刀挑智慧眼,無所分別猶如盲人。為此因緣,死墮地獄受無量苦。復次,貪欲之人心無厭足如火添薪,亦如國王貪於土境,亦如商主貪其財利,如求慧解貪於聽聞,如諸菩薩樂度眾生,如是等人各於己事皆無厭足。貪欲之人亦復如是無有厭足,求於欲境憂苦艱難,得已守護纏縛倍增,死墮地獄受大劇苦。求靜慮者,常於如是色欲怨家不應想念,況親近之。以是名為貪欲重蓋。

さらに、慈氏よ。菩薩摩訶薩が静慮を修める際には、五つの障りがあり、全ての有情を覆い隠しています。それは五蓋と呼ばれるものです。第一に貪欲、第二に瞋恚、第三に掉悔、第四に昏眠、第五に疑蓋です。この五蓋を取り除いてはじめて、禅定を得て身心が動じなくなります。それゆえ菩薩は次のように観察します。「何によって生じるのか。どのようにして遠ざかるのか。」

菩薩はまず、色欲を水に映る月のようなものと観ずべきです。水が動けば月も動き、心が生じれば法も生じます。貪欲の心もこれと同じで、瞬きの間もとどまらず、現れては速やかに消え去ります。さらに色欲を、荒野にいる大蛇のようなものと観じます。毒の怒りが発せられる時、その頭は日陰の覆いのようであり、旅人が暑さに耐えかねてこの覆いの下に入れば、毒に触れて命を落とします。貪欲の人もまた同じで、生死の荒野・砂漠を歩み、誤って欲望の対象を目にして執着の心を生じ、欲望の想いがほんの少しでも起こると禅定を失ってしまいます。これを貪欲の障り・蓋と名づけます。

次に、欲望の性質を観じます。それは地獄の火のように有情を焼き焦がし、水の激流のように一切を押し流します。慈悲はなく、羅刹のように有情を損ない、獄卒のように人の手足を損なうのです。また鋭利な刀のようであり、屠殺人のように衆生の命を断ちます。あたかも毒砂のようであり、触れれば必ず命が終わります。高い山から墜ちて大きな苦しみを受けるようなものです。夜の暗闇のように、何も知ることができず見ることもできません。白い癩病のように、治療のしようがありません。また大海のように、干上がらせることが難しく、貪欲の深さと広さは大海よりも勝っています。五欲は粗く重く、妙高山のようです。美しい果実のように端正に見えますが、人が手に取れば触れた瞬間に命を落とします。屠畜の柱のようなもので、かけられたものは必ず死にます。熱い金の冠をかぶれば焼け死ぬようなものです。

過去の転輪聖王、帝釈天、四天王、さらには力士や那羅延天など、一切の有情もまた、貪欲のために兵を起こして戦い合い、積み重なった骨は毘富羅山のようになりました。過去がそうであったように、現在も未来もまた同じことです。

さらに、世の人々は、自分の親族や父母、兄弟を非常に愛しみ、身の命さえ惜しみませんが、貪欲のために互いに憎み嫉み合い、毒悪の心を起こして殺し合うのです。色欲に執着する人には二つの苦しみの原因があります。第一に、富貴でありながら色欲のために様々な卑しい身分に落ち、様々に軽んじられ欺かれることです。第二に、貪欲の刀が智慧の眼をえぐり取り、何の区別もできず盲人のようになることです。この因縁により、死後は地獄に堕ちて無量の苦しみを受けます。

また、貪欲の人の心には満足というものがなく、火に薪を加えるようなものです。また、国土を貪る王のようなもの、財利を貪る商人のようなもの、慧解を求めて聴聞を貪る者のようであり、諸菩薩が衆生を済度することを喜ぶようなものです。これらの人々はそれぞれ自分の事柄に満足することがありません。貪欲の人もまた同じで、満足することがありません。欲望の対象を求めて苦しみ悩み、得た後には守ることに縛られてさらに苦しみが倍増し、死後は地獄に堕ちて大きな激しい苦しみを受けます。

静慮を求める者は、常にこのような色欲という怨みの相手について、思いをめぐらすべきではありません。まして親しむことなどなおさらです。これを貪欲の重い蓋と名づけるのです。

「復次,瞋恚蓋者,如耽酒人飲已色變,瞋恚亦爾顏容改變,作種種相身心戰掉,或行毀謗損惱自他。瞋火燒心何能修定?劫功德賊無過瞋恚,修靜慮者應當遠離。

さらに、怒りの覆いについて言えば、それは酒に酔った人のように、飲んだ後に顔色が変わるのと同じです。怒りもまた、顔つきや表情を変え、様々な様相を現し、心身を震わせます。あるいは他人を誹謗し、自分や他人を傷つけます。怒りの火が心を焼くのに、どうして瞑想を修めることができるでしょうか?功徳を奪う賊は、怒りに勝るものはありません。静かな瞑想を修める人は、怒りから遠ざかるべきです。

「復次,掉悔蓋者,猶如狂人身心錯亂,或緣親里國邑壽命苦樂等事妄起尋求,生善惡念追悔所作。如是躁動不能寂靜,覆蔽行捨障奢摩他,如是名為掉悔重蓋。

次に、掉悔の蓋(じょうかいのふた)とは、まるで狂った人のように身心が乱れ、親族や故郷、寿命や苦楽などのことについて根拠なく思い悩み、善悪の考えを起こしては自分の行いを後悔するものです。このように落ち着かず静まることがなく、心の平等な観察を覆い隠し、止(サマタ)の修行を妨げます。これを掉悔の重い蓋といいます。

「復次,昏眠蓋者,疲極𧄼懵顰申欠呿昏昧不任,能覆輕安、障觀慧品。修靜慮者應當除棄、是則名為昏眠重蓋。

次に、眠気とだるさの覆いは、ひどく疲れてぼんやりとし、あくびをしたり、伸びをしたりして、ぼんやりとして何もする気が起こらない状態です。この覆いは、心の軽やかさや安らぎを覆い隠し、物事を観察する智慧を妨げます。静かな瞑想を修行する人は、この眠気とだるさの覆いを捨て去るべきです。これが、重い覆いである眠気とだるさと呼ばれるものです。

「復次,疑惑蓋者,常懷疑惑理事不决,障礙施、戒、安忍、精進、禪定、智慧三世因果,三寶性相皆不顯現。如何能生微妙靜慮?是名疑蓋。

次に、疑惑の蓋(ふた)とは、常に疑いの心を抱き、物事の道理を決断できないことです。これによって、施し、戒め、忍耐、努力、禅定、智慧といった修行や、過去・現在・未来にわたる因果の道理、そして仏・法・僧の三宝の本質や姿が、まったく明らかになりません。このような状態で、どうして微妙な静かな瞑想(静慮)が生まれるでしょうか?これが「疑蓋」と呼ばれるものです。

「由此五蓋,學行難成,戒、定、慧門不能顯了。如是知已,審諦思惟,修定之人應當遠離。精勤修習能除欲苦,獲深禪定而不味著,由此靜慮起五神通。云何為五?所謂天眼、天耳、他心、宿住、神境智證通。云何名為天眼智通?以天眼力徹見十方無量無邊諸佛世界,所有一切眾生之類——若卵生,若胎生、濕生、化生,有色無色,有想無想非有想非無想等一切有情——如觀掌中阿摩勒果。如是有情,皆被諸苦之所纏縛。菩薩觀已起大悲心,此等有情墮生死海糞穢大坑,我今云何放捨不救?以是應當勤加精進身心無倦,便能發起念佛三昧。以定力故,能見十方一切諸佛遍滿虛空,坐金剛座成等正覺,或見諸佛初轉法輪,或見諸佛往於天上,或見如來從寶階下,或見如來入里乞食,或見如來隨根說法——或為國王、大臣、長者、居士、婆羅門身如應說法,或為苾芻、苾芻尼、信男、信女如應說法;或現天、龍、藥叉、阿蘇羅、健闥婆、迦嚕羅、緊捺羅、摩呼洛迦、人非人等,薜荔多、畢舍遮、鳩畔吒、補呾那、迦吒補呾那、閻摩羅王、餓鬼、傍生,各隨本音,皆言:『如來為我說法。』悉得解悟歡喜踊躍;或見諸佛為諸菩薩說六波羅蜜,或為緣覺說十二因緣,或為聲聞說四諦法,或勸有情安十善道;或見諸佛現梵王身如應說法,或現帝釋身如應說法,或現護世四王身如應說法,或現大自在天身如應說法,或現那羅延天身如應說法,或現日天子身如應說法,或現月天子身如應說法,或現龍、神、藥叉、諸仙、婆羅門等身如應說法,或有應見轉輪王身、國王、宰官、諸男女身,和上、阿闍梨及佛如來尊重弟子,皆為現之,如應說法;或現地獄、餓鬼、傍生異類之身而為說法,各各聞已,離諸苦難及離飢渴,不相殘害慈心相向——或有應見娑羅樹林入般涅槃,而為現之如應說法;或有應見般涅槃後分布設利起諸塔廟而為現之,令申供養而得解脫。如是諸佛現種種相,皆令得度生老病死。如是諸相遍滿虛空,皆佛神通自在變現,種種奇特諸希有事。菩薩雖見如是種種神通變化,但名靜慮所起天眼,不得名為波羅蜜多。

これらの五つの蓋(五蓋)があるために、学びの行いは成就し難く、戒・定・慧の門は明らかになりません。このように知ったならば、よくよく考え、修行に励む人は、これらを遠ざけるべきです。精進して修行すれば、欲望の苦しみを除き、深い禅定を得て、それに執着することなく、この静慮(禅定)によって五つの神通を起こします。その五つとは何か。すなわち、天眼・天耳・他心・宿住・神境智の証通です。

**天眼智通とは何か。** 天眼の力によって、十方の無量無辺の諸仏の世界を徹見し、そこにいるすべての衆生――卵生、胎生、湿生、化生、色のある者、無色の者、想いのある者、想いのない者、非有想非無想の者など、あらゆる有情――を、掌の中のアムラの果実を見るように観じます。このような有情たちは、すべての苦しみに絡め取られています。菩薩はこれを観じて大悲の心を起こし、「この有情たちは、生死の海、糞穢の大穴に堕ちている。今、どうして彼らを捨て置いて救わないことがあろうか」と考える。それゆえに、身心を怠らずに精進し、勤め励むことによって、念仏三昧を発起することができます。

禅定の力によって、十方のすべての諸仏が虚空に遍満し、金剛の座に坐して等正覚を成就しているのを見ることができます。あるいは、諸仏が初めて法輪を転じるのを見、諸仏が天に往くのを見、如来が宝の階段から下りるのを見、如来が村に入って乞食するのを見、如来が衆生の根機に応じて説法するのを見ます――あるいは国王・大臣・長者・居士・バラモンとして、それぞれに応じて説法し、比丘・比丘尼・信男・信女として、それぞれに応じて説法します。あるいは天・竜・薬叉・阿修羅・ガンダルヴァ・ガルーダ・キンナラ・マホラガ・人非人等、さらにプレータ・ピシャーチャ・クンバーンダ・プータナ・カタプータナ・閻魔羅王・餓鬼・傍生に至るまで、それぞれの音声をもって「如来が私のために説法してくださった」と語り、皆が悟りを得て、歓喜し踊ります。あるいは諸仏が菩薩たちに六波羅蜜を説き、縁覚に十二因縁を説き、声聞に四諦の法を説き、有情を勧めて十善道に安住させるのを見ます。

また、諸仏が梵天の王の姿を現して応機説法するのを見、帝釈天の姿を現して説法するのを見、四天王の姿を現して説法するのを見、大自在天の姿を現して説法するのを見、那羅延天の姿を現して説法するのを見、日天子の姿を現して説法するのを見、月天子の姿を現して説法するのを見、竜・神・薬叉・諸仙・バラモン等の姿を現して説法するのを見ます。あるいは、転輪聖王・国王・宰官・男女、さらには和尚・阿闍梨、および仏・如来の尊重すべき弟子の姿を現して、それぞれに応じて説法します。あるいは地獄・餓鬼・傍生の異類の姿を現して説法し、それを聞いた者たちは、それぞれの苦難や飢え渇きから離れ、互いに害し合うことなく慈しみの心を持つようになります。あるいは、沙羅の樹林において般涅槃に入るのを見るべき者には、その姿を現して説法し、般涅槃後に舎利を分配して塔廟を建てるのを見るべき者には、それを現して供養させ、解脱を得させます。

このように、諸仏は様々な相を現し、全ての者を生老病死から救い渡します。これらの相は虚空に遍満し、すべて仏の神通自在の変現であり、様々な奇特な希有の事柄です。菩薩はこのような種々の神通変化を見るけれども、これはただ静慮によって生じた天眼に過ぎず、波羅蜜多とは呼べません。

「復次,菩薩摩訶薩所得天眼,勝於一切天龍八部、有學無學聲聞獨覺所得天眼,最上最勝最妙最尊、最極明淨最大勢力。以此天眼能見過去無量無邊諸佛菩薩,行住坐臥種種威儀種種行門,禪定解脫十地妙智,陀羅尼門無礙辯才,善巧方便悉令圓滿。如是菩薩天眼清淨,見諸色像無有障礙,無染無著不取一切色像之相,能離一切隨眠執見。然其眼根本性清淨,亦不依止一切境界。又此眼根不從一切隨眠煩惱習氣所生,亦無染著不迷不亂亦無翳障無復分別,不為一切諸煩惱障及所知障之所纏縛,於一切法而得自在。又此眼根,能了一切諸法平等住真解脫,能知一切差別根性無能壞相,於一剎那能見一切有情之類。又此天眼體性明淨,能離一切濁亂之法,而能覺知慈悲之性,不捨有情,亦無縛著無貪無害。又此天眼勝義境界,從真諦生,智為先導,住於大悲,了達諸法及甚深義,離諸戲論。如所見聞能如實說,遠離一切諸不善法,趣向無上正等菩提心無障礙。見慳悋者勸令捨施,見毀禁者生悲愍心,見多瞋者令住安忍,見懈怠者令起精進,見散亂者令修靜慮,見愚癡者令學智慧,行邪徑者示以正道,狹劣心者示以大乘,令諸有情入一切智,發勝神通圓滿菩提一切智智。慈氏!當知此即名為菩薩摩訶薩修行靜慮所起清淨天眼智通。

「また、菩薩摩訶薩が得る天眼は、あらゆる天や竜、八部衆、声聞や独覚の修行者が持つ天眼よりも優れています。最も勝れ、最も優れ、最も妙であり、最も尊く、極めて明らかで清らか、そして最も大きな力を持っています。この天眼によって、過去の無量無辺の諸仏や菩薩たちの行住坐臥のさまざまな威儀、種々の行門、禅定や解脱、十地の妙智、陀羅尼門、無礙弁才、善巧方便などを、すべて円満に見ることができます。

このように、菩薩の天眼は清らかであり、あらゆる色や形を障害なく見通します。染まらず執着せず、すべての色や形の相を取らず、すべての随眠や執見を離れることができます。しかし、その眼根は本来清らかであり、一切の境界に依ることなく、また、すべての随眠や煩悩や習気から生じることもありません。染まらず、迷わず、乱れず、翳りもなく、分別もありません。あらゆる煩悩障や所知障に縛られることなく、すべての法において自在を得ています。

また、この眼根は、すべての法が平等であり、真の解脱に安住していることを了知し、すべての差別的な根性を、壊されることのない相として知ることができます。一瞬のうちにあらゆる有情の種類を見通します。

さらに、この天眼は体性が明らかで清らかであり、すべての濁り乱れた法を離れ、慈悲の性を覚知し、有情を捨てず、縛られることなく、貪りも害もありません。

また、この天眼の勝義の境界は、真諦から生じ、智慧を先導とし、大悲に安住し、諸法とその甚深の義を了達し、すべての戲論を離れています。見聞きしたままに如実に説き、すべての不善法を遠く離れ、無上の正等菩提へと心に障害なく趣向します。

慳吝な者を見れば布施を勧め、戒律を破る者を見れば悲愍の心を起こし、多瞋の者には安忍に住まわせ、懈怠の者には精進を起こさせ、散乱の者には静慮を修めさせ、愚癡の者には智慧を学ばせ、邪道を行く者には正しい道を示し、狭量な心の者には大乗を示し、すべての有情を一切智に入らせ、勝れた神通を発し、菩提と一切智智を円満させます。

慈氏よ、知るがよい。これこそが菩薩摩訶薩が静慮を修行して起こす、清らかな天眼智通と名づけられるものである。」

「復次,慈氏!云何名為菩薩摩訶薩修行靜慮波羅蜜多起天耳通?所謂以天耳力,勝於一切天龍八部、聲聞、獨覺,菩薩摩訶薩所得天耳最上最勝最妙最尊、最極明淨有大勢力。何以故?由此功德迴向無上正等菩提。菩薩摩訶薩以此天耳,能聞十方無量世界諸佛如來、獨覺、聲聞、天龍八部、人與非人乃至地獄、餓鬼、畜生、情非情等所有音聲。悉皆得聞彼諸有情若干種心,三業差別所出音聲,如是菩薩皆如實知。凡所發言作善惡因,起貪著語迷惑之聲,亦如實知。或有言音理雖真正言詞麁獷,或有言音理雖不正言詞柔軟,或有言音二俱妙好,或有言音二俱麤鄙,以此天耳皆如實知。又此天耳能聞一切凡聖之聲,於凡不厭、於聖不忻,於賢聖境起愛樂心,於凡夫境起大悲心。如是一切前中後際所有音聲,皆如實知,不生執著。又此天耳,普聞十方無量無邊所有世界一切諸佛說法音聲,皆如實知,心無錯亂亦不忘失,隨根為說,了知法性無堅不堅、非虛非實。聞一如來所說正法,無邊諸佛所有法門一時悉聞,不錯不亂、不相妨礙,悉能領受文字章句,義理性相皆如實知。又聞如來為諸眾生各隨類音而為說法,令諸有情了真實相皆得解脫。以此功德迴向如來清淨天耳,願於未來不聞一切聲聞、獨覺二乘之名。慈氏!當知此即名為菩薩摩訶薩修行靜慮所起清淨天耳智通。

また、慈氏よ。菩薩摩訶薩が静慮波羅蜜多を修行して得る天耳通とは、どのようなものか。それは、天人の耳の力を超え、すべての天・龍・八部衆、声聞、独覚よりも優れている。菩薩摩訶薩の得る天耳は、最も優れ、最も勝れ、最も妙で、最も尊く、極めて清らかで大いなる力を持つ。なぜなら、この功徳を無上正等菩提に回向するからである。

菩薩摩訶薩は、この天耳によって、十方の無量の世界の諸仏如来、独覚、声聞、天・龍・八部衆、人と非人、さらには地獄、餓鬼、畜生、有情・非情のすべての音声を聞くことができる。それらの有情たちの様々な心や、身体・言葉・心の三業の違いによって発せられる音声を、ことごとく聞き取り、菩薩はそれらを如実に知る。すべての発言が善悪の因を作り、執着の言葉や迷いの音声を発する様子も、如実に知る。

ある言葉は内容は正しいが表現が粗野であり、ある言葉は内容は正しくないが表現が穏やかであり、ある言葉は内容も表現も美しく、ある言葉はその両方が粗悪である。この天耳によって、すべてを如実に知る。

また、この天耳は、すべての凡夫と聖者の声を聞くことができる。凡夫の声を嫌うことなく、聖者の声に執着することなく、聖者の境地には愛楽の心を起こし、凡夫の境地には大悲の心を起こす。このように、過去・現在・未来のすべての音声を如実に知り、執着を生じない。

さらに、この天耳は、十方の無量無辺のすべての世界における諸仏の説法の音声を普く聞き、すべてを如実に知り、心に混乱もなく、忘れることもない。衆生の根機に応じて説法し、法性が堅固でもなく非堅固でもなく、虚でも実でもないことを了知する。一つの如来が説く正法を聞きながら、無辺の諸仏のすべての法門を同時に聞き取ることができ、混乱もなく、妨げられることもなく、すべての文字や章句、義理や性相を如実に知る。

また、如来が諸々の衆生に対して、それぞれの種類に応じた声で説法し、有情たちに真実の相を悟らせて解脱させるのを聞く。この功徳を如来の清浄な天耳に回向し、未来において声聞や独覚という二乗の名を聞くことがないように願う。

慈氏よ、知るがよい。これこそを、菩薩摩訶薩が静慮を修行して起こす清浄な天耳智通というのである。

「復次,慈氏!云何名為菩薩摩訶薩他心智通?所謂一切有情過去未來現在之心,善、惡、無記皆悉能知。復知過去一切有情所作諸業因果差別。又知眾生大心小心非大小心,有欲無欲有垢無垢心,愚心智心廣心略心,定亂縛脫勝劣差別,上心下心皆悉知之。又知有情布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧,有相無相慈悲喜捨相應之心,聲聞、獨覺、大乘菩薩相應之心,此諸有情能具如是善根之因。或復有情生於貴族所為下劣,或生下賤心性清淨,或心性不善所為清淨,或二俱清淨或二俱不善。如是有情過去所有心行差別皆如實知,隨其所應而為說法,此即名為了知過去一切有情他心智通。復能了知未來有情現在布施,能生未來淨持戒因。復知有情現在持戒,能生未來安忍之因。又知現在安忍因緣,能生未來精進之因。又知有情現在精進,能生未來靜慮之因。又知有情現修相善,能生未來無相慧因。又知有情現修小善,能作未來大乘之因。如是諸心因緣相貌,菩薩摩訶薩皆如實知,隨緣救拔心無勞倦,令諸有情深入佛慧無有增減。如是說法無有斷絕,未曾於法生慳悋心,此即菩薩能知未來他心智通。復知現在一切有情,有貪欲心無貪欲心,有過失心無過失心,愚心智心,廣心略心,定心亂心,動心不動心,縛無縛心,垢無垢心,廣大心無量心上下心,皆如實知。一一有情無量煩惱之所繫縛,皆如實知。如是知已,隨根差別如應說法,了心無心不著自他,以善方便禪定智慧,決擇有情根性利鈍,永斷生死煩惱根源,了本性空圓滿無缺,無染無著亦無過失,無滓無穢亦無麁澁,了知諸法如幻如化,能知有情心行差別。慈氏!當知此即名為菩薩摩訶薩修行靜慮所起清淨他心智通。

「さらに、慈氏よ。菩薩摩訶薩の他心智通とは何か。すなわち、あらゆる有情の過去・未来・現在の心、善・悪・無記のすべてを知り尽くすことである。また、過去のすべての有情が行った諸々の業とその因果の違いを知る。さらに、衆生の大きな心、小さな心、大小ではない心、欲望がある心とない心、汚れがある心とない心、愚かな心と賢い心、広い心と狭い心、定まった心と乱れた心、束縛された心と解放された心、優れた心と劣った心、上しい心と下しい心をすべて知る。

また、有情の布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧、そして有相・無相、慈・悲・喜・捨に対応する心、声聞・独覚・大乗菩薩に対応する心、これらの有情がこのような善根を具える因も知る。あるいは、貴族に生まれながら行いが下劣な有情、または賤しい身でありながら心性が清らかな有情、心性は善くないが行いが清らかな有情、あるいはその両方が清らかな有情、両方が善くない有情もいる。このように、有情の過去のすべての心のはたらきの違いをあるがままに知り、その一つ一つに応じて法を説く。これが、過去のすべての有情の心を知る他心智通と呼ばれるものである。

また、未来の有情が現在に布施を行い、それが未来の清らかな持戒という因を生むことを知る。また、有情が現在に持戒を行い、それが未来の安忍という因を生むことを知る。また、現在の安忍の因縁が、未来の精進という因を生むことを知る。また、有情が現在に精進を行い、それが未来の静慮という因を生むことを知る。また、有情が現在に相ある善を修め、それが未来の無相の智慧という因を生むことを知る。また、有情が現在に小さな善を修め、それが未来の大乗という因となることを知る。このような諸々の心の因縁や姿を、菩薩摩訶薩はあるがままに知り、縁に応じて救い助け、心に倦むことなく、諸々の有情をして仏の智慧に深く入らせ、増減することなく説法する。このように説法して絶えることなく、法に対して吝嗇の心を一度も起こさない。これが、菩薩が未来の心を知る他心智通である。

さらに、現在のすべての有情について、貪欲の心がある、ない、過失の心がある、ない、愚かな心、賢い心、広い心、狭い心、定まった心、乱れた心、動く心、動かない心、束縛された心、束縛されていない心、汚れた心、汚れていない心、広大な心、無量の心、上しい心、下しい心を、すべてあるがままに知る。一人ひとりの有情が無量の煩惱に縛られていることを、すべてあるがままに知る。このように知った後、根の違いに応じて、しかるべく法を説き、心を了知して心なく、自他に執着しない。巧みな方便と禅定・智慧によって、有情の根性の利鈍を選別し、生死の煩惱の根源を永遠に断ち、本性が空であることを了知して、円満にして欠けるところなく、染まりも執着も過失もなく、滓も穢れも粗さもない。あらゆる法が幻や変化のようなものであると了知し、有情の心のはたらきの違いを知るのである。

慈氏よ。知るがよい。これが、菩薩摩訶薩が静慮を修行して起こす清らかな他心智通と呼ばれるものである。」

「復次,慈氏!云何名為菩薩摩訶薩修行靜慮波羅蜜多起宿住隨念智證通?所謂住不動地得法平等,善能了知諸法實性,清淨智慧住奢摩他、毘鉢舍那止觀相應,於一切事心無忘失,智為先導三業清淨,福德、智慧二種莊嚴,自然覺悟不由師教,到於涅槃常樂彼岸。菩薩摩訶薩以如是智,能憶過去一生二生若十二十乃至一劫百千萬億那庾多劫若成若壞,皆悉憶知。彼諸劫中如是有情,生如是家,如是父母,如是種族,如是姓字,如是相貌色力壽量苦樂等事,無不明了。又諸有情此滅彼生,種種家族自身他身,無量劫生悉皆憶念。及彼生處所有善根及相勸發,憶念知已,悉皆迴向無上菩提。又觀過去生死之身,無常、苦、空、無我、不淨,如是知已,於諸色相壽命修短富貴自在不生我慢,不求釋、梵、護世四王、人天果報,但以大悲利樂有情隨願受生。又知過去無量生中所造惡業,深生媿悔,於現在世能捨身命不造諸惡,於無量世所有善業悉皆迴向阿耨多羅三藐三菩提,普施法界一切有情,不求世間最上果報,紹三寶種盡未來際,無有斷絕永無休息。慈氏!當知此即名為菩薩摩訶薩修行靜慮所起清淨宿住智通。

さらに、慈氏よ。では、菩薩摩訶薩が静慮波羅蜜多を修行して、宿住随念智の神通を得るとは、どういうことか。それは、不退転の地に住し、法の平等を得て、諸法の真実の性質をよく知り、清らかな智慧をもって奢摩他(止)と毘鉢舎那(観)をそなえ、心境が調和していることである。すべての事柄において心に忘失がなく、智慧を先導として身・口・意の三業が清らかで、福徳と智慧という二つの荘厳を備え、師の教えによらずして自然に悟り、涅槃の常楽の彼岸に至るのである。

菩薩摩訶薩は、このような智慧によって、過去の一生、二生、あるいは十生、二十生、さらには一劫、百千万億那由多の劫、あるいは世界の成る時も壊れる時も、すべてを憶念して知ることができる。それらの劫の中において、このような有情が、このような家に生まれ、このような父母を持ち、このような種族、このような姓名、このような相貌、色身、力、寿命、苦楽など、すべてを明らかに知るのである。

また、諸々の有情がここで死に、あそこに生まれること、様々な家族や、自分自身や他人の身、無量の劫にわたる生まれをすべて憶念する。そして、その生まれた場所でのすべての善根や、互いに励まし合ったことなどを憶念して知ったなら、それらすべてを無上の菩提に回向するのである。

さらに、過去の生死の身を観察して、無常・苦・空・無我・不浄であることを知る。このように知ったなら、さまざまな色形や寿命の長短、富貴や自在などに対して我慢を起こさず、梵天や帝釈天、護世の四天王、あるいは人天の果報を求めない。ただ大悲をもって、有情を利益し楽しませるために、願いに従って生を受けるのである。

また、過去の無量の生において造った悪業を知り、深く悔い改める。現在の世においては、身命を捨てても諸々の悪を造らず、無量の世におけるすべての善業を、すべて阿耨多羅三藐三菩提に回向し、広く法界の一切の有情に施し、世間における最も優れた果報を求めず、三宝の種を未来際まで継承し、断絶することなく、永遠に休むことがないのである。

慈氏よ。知るがよい。これこそを、菩薩摩訶薩が静慮を修行して起こす清らかな宿住智の神通と名づけるのである。

「復次,慈氏!云何名為菩薩摩訶薩修行靜慮波羅蜜多起神境智通利樂無盡?所謂菩薩住不動地得真寂靜,除去憂苦、尋、伺、喜、樂、出入息等,不生不滅住真法界,能現種種神通變化——或身如火聚放大光明,遍滿三千大千世界;或身上出水如注大雨;捫摸日月威光自在;或現大身上至梵天;或現小身猶如芥子;或震動大地如水濤波;或以一身而現多身,或以多身還復一身;或隱或顯說種種法;或沒山石,或復直過若上若下,如電流光往還自在,行坐空中如鳥飛翔;或履地如水履水如地,出沒自在無所障礙——如是神力皆為利樂一切有情。復以大悲普門示現——或現佛身或菩薩身,聲聞、獨覺、釋、梵等身,及諸異類種種之身——隨其根性皆悉為現,隨其樂欲而為說法。或諸有情恃其力勢而起貢高,隨彼所應而為現身調伏說法。或為釋、梵、護世四王、那羅延等諸大力士,為降伏故,舉妙高山擲置他方無量世界,猶如擲彼阿摩勒果還置本處,而諸天人無往來想,菩薩神力亦無損減。又復於此三千大千世界,上至色究竟天、下至水際,以其右手掌此世界住經一劫,行住坐臥而無妨礙,還置本處,而諸有情水性之屬亦無嬈害,都不覺知往來之想。如是菩薩示現自在神通力時,令諸有情驕慢之心悉皆調伏,而為說法。

「さらに、慈氏よ。菩薩摩薩が静慮波羅蜜多を修行し、神境智通を起こして尽きることのない利益と安楽をもたらすとは、どのようなものか。それは、菩薩が不動地に住して真の寂静を得、憂いや苦しみ、尋(粗い思考)、伺(細かい思考)、喜び、楽、息の出入りなどを離れ、生じもせず滅しもせず、真実の法界に安住して、様々な神通変化を示すことができることである。あるいは、身が火の塊のごとく大いなる光明を放ち、三千大千世界に満ち渡る。あるいは、身の上から大雨のごとく水を吹き出す。あるいは、日月を手で撫で触れ、その威光は自在である。あるいは、大きな身を現して梵天にまで至る。あるいは、芥子粒のごとき小さな身を現す。あるいは、大地を水の波のように震わせる。あるいは、一身から多くの身を現し、多くの身から再び一身に戻る。あるいは、隠れたり現れたりして様々な法を説く。あるいは、山や岩に没入し、あるいはまっすぐに通り抜け、上へ下へと、電光が流れるように自在に往来し、空の中を行き、座り、あたかも鳥が飛ぶかのようである。あるいは、地を歩くこと水の如く、水を歩くこと地の如く、出入りも自在で何の障りもない。このような神通力は、全てあらゆる有情を利益し安楽にするためである。

さらに、大悲をもって普遍の門を示現する。あるいは仏身を現し、あるいは菩薩身、声聞、独覚、帝釈天、梵天などの身、そして様々な異類の種々の身を現し、その根機や性質に従って全てを現し、その楽欲に従って法を説く。あるいは、ある有情がその力や勢いを恃んで高ぶり慢心を起こすなら、その者に応じて身を現し、調伏して法を説く。あるいは、帝釈天、梵天、護世四天王、那羅延などの大力士たちを降伏させるために、妙高山を持ち上げて他方の無量世界に投げ置く。それは、あたかもアモーラ果を投げて元の場所に戻すかのようであり、諸々の天人は往来の想いを抱かず、菩薩の神通力もまた減損することがない。さらに、この三千大千世界において、上は色究竟天から下は水際に至るまで、その右手でこの世界を掴んで一劫の間保ち、行住坐臥に妨げがなく、元の場所に戻す。その間、諸々の有情や水に住むものたちも害されることなく、往来の想いを全く覚えない。このように菩薩が自在の神通力を示現する時、諸々の有情の高ぶり慢心をことごとく調伏し、そのために法を説くのである。」

「復次,菩薩以神通力,隨意所欲皆得自在,如如意寶所求皆得。或變大海而為牛跡,或以牛跡而為大海。或現火災至於初禪,或現水災至於二禪,或現風災至於三禪。或變水作火、變火為水。如是種種上中下法,隨心變化而得自在,更無有人能動轉者,除佛世尊,餘無能壞。菩薩以此廣大神變,隨其根緣說廣略法,令諸有情而得解脫。如是菩薩自在神力,一切天魔及煩惱魔所不能障,以是菩薩過彼天魔及煩惱魔入佛境界,隨其根緣拔濟有情得大自在,常不斷絕無能動轉。慈氏!當知此即名為菩薩摩訶薩修行靜慮所起神境智通化用無盡。如是五通但名靜慮,不得名為波羅蜜多。

また、菩薩は神通力によって、思いのままに自在に事を成し遂げます。ちょうど如意宝珠が願いを叶えるように、あるいは大海を牛の足跡ほどの大きさに変え、牛の足跡を大海に変えることもできます。また、火災を現して初禅天にまで至らせ、水災を現して二禅天に、風災を現して三禅天にまで至らせることもできます。水を火に変え、火を水に変えるなど、さまざまな上・中・下の法を、心のままに変化させて自在に操り、これを動かせる者は誰もいません。ただし、仏世尊を除いては、他にこれを壊せる者はいないのです。

菩薩はこの広大な神変を用いて、相手の根機や因縁に応じて広い教えや簡略な教えを説き、すべての生きとし生けるものを解脱へ導きます。このような菩薩の自在なる神力は、すべての天魔や煩悩の魔によっても妨げられることがありません。なぜなら、菩薩はそれらの天魔や煩悩の魔を超えて仏の境地に入り、相手の根機や因縁に応じて救済し、大いなる自在を得ているからです。それは常に絶えることなく、動かすことのできないものです。

慈氏よ、知るがよい。これこそが、菩薩摩訶薩が修行する静慮(じょうりょ)によって起こる神境智通(じんきょうちつう)の化用(けゆう)が尽きることがないという意味である。これらの五通は、ただ静慮と名付けられるだけで、波羅蜜多(はらみった)とは呼ばれないのである。

「復次,慈氏!若諸菩薩得此通已,精勤修習靜慮波羅蜜多,於無上菩提得不退轉。譬如貧人掘一伏藏,未見異相猶懷懈慢,穿掘不已漸見少相,勇銳精勤無有休息,以不息故便能得之。菩薩摩訶薩亦復如是,未得阿耨多羅三藐三菩提,日夜精勤修真靜慮不休不息,乃至證得無上菩提。

「さらに、慈氏よ。もし諸々の菩薩がこの通達を得たならば、精進努力して静慮波羅蜜多を修習し、無上の悟りにおいて退転しないようになる。例えば、貧しい人が地下の宝蔵を掘り当てようとするとき、最初は何の兆候も見えず、なお怠り高慢な心を持つが、掘り続けるうちに次第にわずかな兆しが見え始めると、勇猛精進して休むことなく掘り進め、その弛まぬ努力によってついに宝を得ることができる。大菩薩もまたこれと同じである。無上の正しい完全な悟りを得ていない間は、昼も夜も精進して真実の静慮を修行し、休まず弛まず、ついには無上の悟りを証得するのである。」

「復次,慈氏!如是靜慮,一切有情發心非難,長時不懈能成就者是則為難。譬如勝軍侵奪他國取之不難,得已善守是則為難。外道邪師修定亦爾,不近善友、不聞正法,邪求解脫,獲無色定謂得涅槃,壽盡之時趣地獄報。復如癡人畜養毒蛇常飲牛乳。所以者何?世醫皆言牛乳除毒。蛇飲乳已瞋毒轉盛,如是癡人謂蛇毒盡,而摩𢪛之,為蛇所螫中毒而死。一切眾生亦復如是,日夜畜養如是毒身,為求安樂常供飲食,無常忽至死魔毒發,失諸善法,趣向三塗。

「さらに、慈氏よ。このような静慮について、一切の有情が発心することは難しくないが、長い間怠ることなくそれを成就し続けることこそが難しいのである。例えば、強力な軍勢が他国を侵略して奪うことは難しくないが、奪った後によく守り続けることは難しいのと同じである。外道の邪師たちが修行して禅定を得ることもまた同じである。彼らは善き友に近づかず、正しい教えを聞かず、誤った方法で解脱を求める。そして、無色界の定を得て涅槃を得たと思い込むが、寿命が尽きると地獄に落ちて報いを受けるのである。

また、これは愚かな人が毒蛇を飼い、常に牛乳を飲ませるようなものである。なぜなら、世の医者は皆、牛乳には毒を除く効能があると言うからだ。しかし、蛇は牛乳を飲むことでかえって怒りの毒が盛んになる。愚かな人は蛇の毒が尽きたと思い込んで、蛇に触れたり撫でたりする。すると、蛇に噛まれて毒が回り、死んでしまう。

すべての衆生もまた、これと同じである。日夜、この毒のような身体を養い、安楽を求めて常に飲食を供えている。しかし、無常が突然訪れ、死魔が毒を放つと、すべての善い法を失い、三悪道へと向かうのである。」

「復次,慈氏!聲聞、獨覺所得靜慮斷煩惱障,無大悲心而入涅槃,非真靜慮。凡夫有情身口意業,恒為八萬四千煩惱之所纏縛不得自在。譬如有人供養怨家、羅剎惡鬼,供給不已,漸得調伏煩惱怨家,惡羅剎鬼則不如是,供給色香煩惱轉熾難可調伏,何能修習禪定解脫?既無禪定何有智慧?既無正智十善亦無,當墮地獄餓鬼傍生。以是因緣,菩薩摩訶薩應修梵行四無量心,起無緣慈普遍法界。何以故?菩薩大慈無有齊限,不可思量無邊際故,一切有情遍十方界,菩薩大慈亦復如是。譬如虛空無有邊際,菩薩大慈亦復如是。以是當知有情無盡,菩薩大慈心亦無盡。真空無盡慈亦無盡。以是因緣,菩薩大慈真實無盡。」

「また、慈氏よ。声聞や独覚が得る静慮は、煩悩の障りを断つものであっても、大悲心なくして涅槃に入るものであり、真の静慮とは言えない。凡夫の有情たちの身・口・意の業は、常に八万四千の煩悩にまとわりつかれ、自由を得ることができない。

たとえば、ある人が怨家や羅刹の悪鬼に供養し、やめずに施し続ければ、次第に怨家の煩悩を調伏できるかもしれない。しかし、悪羅刹の鬼はそうではない。色や香りを供給すればするほど、かえって煩悩は燃え盛り、調伏は難しく、どうして禅定や解脱を修めることができるだろうか。禅定がなければ、智慧もない。正智がなければ、十善もなく、地獄・餓鬼・畜生に堕ちるであろう。

このような因縁によって、菩薩摩訶薩は梵行と四無量心を修め、無縁の慈を起こして、法界の全体に及ぼすべきである。なぜか。菩薩の大慈には限りがなく、はかり知れず、辺際がないからである。すべての有情が十方の世界に遍満しているように、菩薩の大慈もまた同じである。たとえば虚空に辺際がないように、菩薩の大慈もまた同じである。これによって知るべきである。有情が尽きない限り、菩薩の大慈の心もまた尽きない。真空が尽きないように、慈もまた尽きない。このような因縁によって、菩薩の大慈は真実に尽きることがないのである。」

爾時慈氏菩薩白佛言:「世尊!菩薩普於如是有情起大慈悲,頗有譬喻得宣說者,願為開示。」

その時、慈氏菩薩が仏に申し上げました。「世尊(せそん)よ、菩薩があらゆる生きとし生けるものに対して大きな慈悲を起こすことについて、何か譬え(たとえ)をもってお示しいただけるものがありましたら、どうかお教えください。」

爾時薄伽梵告慈氏菩薩摩訶薩言:「善男子!不可以少因緣譬喻而得宣說。慈氏!當知譬如東方有殑伽沙等世界,南西北方四維上下亦復如是。如是十方殑伽沙數世界合為一海,滿中海水,如是十方殑伽沙數世界滿中有情,一一有情各持一毛,取大海水滴於餘處,至滿一劫是海有竭,彼諸有情尚未窮盡。善男子!如是有情遍於十方殑伽沙數世界,菩薩於彼一一有情起大慈心。善男子!於意云何,如是慈心有邊際不?」

その時、世尊は慈氏(弥勒)菩薩に告げられました。 「善き人よ、このことはわずかな因縁やたとえで説明できるものではない。

慈氏よ、知りなさい。たとえば東の方にガンジス川の砂の数ほどの世界があり、南、西、北、そして上下の四隅にも同じように無数の世界があるとしよう。そして、その十方のガンジスの砂の数ほどの世界を一つにまとめて海とし、その海を水で満たす。さらに、その十方のガンジスの砂の数ほどの世界に、生きとし生けるものが満ちているとする。その生きとし生けるものが、それぞれ一本の毛を取り、その毛で大海の水を一滴ずつ取り、別の場所に移していく。そして、それを一劫もの長い間続けたとしても、海の水は尽きることがあっても、その生きとし生けるものたちが尽きることはない。

善き人よ、そのように生きとし生けるものは、十方のガンジスの砂の数ほどの世界に満ちている。菩薩は、その一人ひとりの生きとし生けるものに対し、大いなる慈しみの心を起こす。善き人よ、どう思うか。このような慈しみの心に、限りがあるだろうか?」

慈氏菩薩白佛言:「世尊!假使虛空尚可測量,此大慈心不可窮盡。」

慈氏菩薩が仏に申し上げました。「世尊よ、たとえ虚空でさえも計り知ることができるとしても、この大いなる慈しみの心は尽きることがありません。」

佛告慈氏:「若菩薩摩訶薩聞是慈心無邊無盡不驚怖者,當知是人亦得如是慈心無盡。其慈心者能護自他,滅除一切諍訟諸惡,能覆有情所有過失,令諸眾生三業調善,常得安樂離諸怨怖。多瞋恨者令其慈忍,息諸戰陣刀兵等苦,悉能救護一切有情。離諸欺誑名聞十方,釋梵四王恭敬供養。慈心瓔珞以自莊嚴,為諸有情解脫導首。能令二乘迴心向大,積集一切菩提資糧。不為世福之所屈伏,恒以相好莊嚴其身。能除一切諸根殘缺,捨離八難得生人天,行八聖道涅槃正路。菩薩修慈不貪五欲,但於有情起平等心。行布施時心無分別,護淨尸羅救犯禁者,示安忍力令離瞋恚,所行精進皆順正法,住三摩地慈救一切,發大智慧出離世間。煩惱菩提無有二相,無緣大慈降魔軍眾,而能安樂一切有情,此生來生常不捨離。行住坐臥恒勸修持,我慢銷除離諸放逸。又慈心者慚愧衣服淨戒塗香,能斷世間煩惱習氣,饒益有情施一切樂。聲聞慈心唯求自利,菩薩大慈救護一切。

仏が慈氏(弥勒菩薩)に告げられた。「もし菩薩摩訶薩が、この慈しみの心には限りがなく、尽きることがないと聞いても驚き怖れないならば、その人もまた、このような尽きない慈しみの心を得るであろう。その慈しみの心は、自他を守り、すべての争いや悪しき行いを滅ぼし、生きとし生けるものの過ちを覆い隠し、全ての者の身・口・意の三つの業を調え善くし、常に安楽を得させて、すべての怨みや恐れから遠ざける。多く怒り恨む者には慈悲と忍びの心を与え、戦いや刀剣の苦しみを鎮め、すべての生きとし生けるものを救い護る。欺き偽りを離れて、その名は十方に聞こえ、梵天、帝釈天、四天王が敬い供養する。慈しみの心という瓔珞(宝飾)で自らを飾り、すべての生きとし生けるもののために解脱への導き手となる。声聞・縁覚の二乗(小乗)の者を大乗の心へと向かわせ、すべての菩提(悟り)の資糧を積み集める。世間の福徳に屈することなく、常に優れた相や姿で自らを飾る。すべての感覚器官の欠損を除き、八つの困難な境遇を離れて、人や天に生まれ、八つの聖なる道を歩み、涅槃への正しい道へと進む。菩薩は慈しみを修めても五欲に執着せず、ただ生きとし生けるものに対して平等な心を起こす。布施を行うとき心に差別がなく、清らかな戒律を守り、戒律を破る者を救い、忍びの力を示して怒りから離れさせ、行う精進はすべて正しい法に従い、心を静める三昧に住して慈しみで全てを救い、大いなる智慧を発して世間を超え出る。煩悩と菩提(悟り)は二つの異なるものではない。縁なきところまでも広がる大慈が、悪魔の軍勢を降伏させ、すべての生きとし生けるものを安楽にする。この生も次に生まれる来世も、常に慈しみの心を離れない。歩くときも、立つときも、座るときも、横たわるときも、常に修め持ち続けるよう勧め、我慢(おごり)を除き、放逸を離れる。また、慈しみの心とは、慚愧という衣服であり、清らかな戒律という塗香であり、世間の煩悩の習気を断ち切り、生きとし生けるものを益し、すべての楽を与える。声聞の慈しみはただ自らの利益のみを求めるが、菩薩の大慈はすべてのものを救い護る。」

「復次,慈氏!慈有三種:一眾生緣慈,二法緣慈,三無緣慈。云何眾生緣慈?若初發心,遍觀有情起大慈心。云何法緣慈?若修行時觀一切法,名法緣慈。云何無緣慈?得無生忍,無有二相,名無緣慈。慈氏!當知此即菩薩摩訶薩住真法界大慈心也。」

「さらに、慈氏(弥勒菩薩)よ。慈には三種類ある。第一に、生きとし生けるものへの慈しみ。第二に、真理への慈しみ。第三に、執着のない慈しみ。

生きとし生けるものへの慈しみとは何か。それは、初めて発心した時、すべての生き物を広く観察して、大きな慈しみの心を起こすことである。

真理への慈しみとは何か。それは、修行の時にすべてのものごと(法)を観察して慈しむことであり、これを真理への慈しみという。

執着のない慈しみとは何か。それは、すべてが生まれも消えもしていないという悟り(無生法忍)を得て、自分と相手という二つの区別がなくなった状態をいう。これを執着のない慈しみという。

慈氏よ。よく知りなさい。これこそが、菩薩摩訶薩が真実の法の世界に安住する、大きな慈しみの心なのである。」

大乘理趣六波羅蜜多經卷第八

大乗理趣六波羅蜜多経 巻第八


9 靜慮波羅蜜多品
之餘

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