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  1. 大乗理趣六波羅蜜経 (大乘理趣六波羅蜜多經)
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大乗理趣六波羅蜜経 (大乘理趣六波羅蜜多經)


大乘理趣六波羅蜜多經卷第九

大乗理趣六波羅蜜経 第九巻

罽賓國三藏般若奉 詔譯

罽賓国の三蔵般若、詔を奉じて訳す

靜慮波羅蜜多品第九之餘

静慮波羅蜜多品第九の余

佛告慈氏:「菩薩摩訶薩修行靜慮波羅蜜多,應當修習大悲無量,為此大悲於諸善業而為導首。譬如命根於出入息而為其先,輪王七寶輪寶為先,大乘萬行大悲為先。譬如長者唯有一子,父母鍾念徹於骨髓。菩薩大悲亦復如是,於諸有情住於極愛一子之地。云何大悲?大名麼賀,麼者名我,我以大悲利樂有情故名大悲。又賀者名性,自性大悲能濟有情,不由他教,故名大悲。又娑嚩者名屬已分,一切有情我應救護故名大悲。又迦者名護。不令他人得其便故,名為大悲。又此大悲者能作方便,成辦一切助菩提故。又此大悲能悟無師自然智故。又此大悲能除一切自心熱惱,隨順有情為饒益故。

仏は慈氏に告げた:「菩薩摩訶薩が静慮波羅蜜を修行するにあたり、大いなる慈悲の無量を修習すべきである。この大悲は、あらゆる善き行いの先導となるからだ。たとえば命の根源が呼吸の出入りに先立つように、転輪聖王の七宝では輪宝が先にあり、大乗の万行では大悲が先にある。ちょうど長者がただ一人の子を持ち、父母が骨髄に徹するほどに心を注ぐように、菩薩の大悲もまた同じく、あらゆる生きとし生けるものに対し、極めて愛おしい一子の境地に住するのである。

大悲とは何か。『大』とは『麼賀』であり、『麼』は『我』を意味する。我が大悲をもって生きとし生けるものを利楽するゆえに、大悲と呼ばれる。また『賀』は『性』を意味し、自性の大悲が生きとし生けるものを救済する力を持つからであり、他者の教えによるものではないゆえに、大悲と呼ばれる。さらに『娑嚩』は『己が分に属す』ことを意味し、すべての生きとし生けるものは我が救護すべきものだから、大悲と呼ばれる。また『迦』は『護る』ことを意味する。他者が付け入る隙を与えないから、大悲と呼ばれる。

この大悲は方便として働き、一切の菩提の助けを成し遂げる。またこの大悲は、師なくして自然に智慧を悟らせる。さらにこの大悲は、一切の自心の熱悩を除き、生きとし生けるものに随順して、その利益となるのである。」

「復次,慈氏!此大悲心有五十種。云何大悲?無諂諛故。云何大悲?身口相應故。云何大悲?無虛誑故。云何大悲?住實際故。云何大悲?不退轉故。云何大悲?了本覺故。云何大悲?無詐偽故。云何大悲?自性清淨故。云何大悲?行質直故。云何大悲?住正性故。云何大悲?求佛身故。云何大悲?求佛壽故。云何大悲?不起一切過故。云何大悲?護有情故。云何大悲?所度有情無有量故。云何大悲?同虛空故。云何大悲?不捨貧窮諸眾生故。云何大悲?拔諸苦故。云何大悲?自性不動荷負一切故。云何大悲?行清淨行不誑自他故。云何大悲?能作自利諸善業故。云何大悲?普與樂故。云何大悲?不生疲倦故。云何大悲?能除重擔示勝義故。云何大悲?堅持施忍精勤行故。云何大悲?能忍下劣所輕慢故。云何大悲?不懷一切宿憾恨故。云何大悲?作無上醫故。云何大悲?以大乘慧攝下劣乘,等無二故。云何大悲?善覆自德讚他善故。云何大悲?能與無漏真法樂故。云何大悲?能捨所愛心無悋故。云何大悲?為諸有情心無悔故。云何大悲?善持淨戒護毀禁故。云何大悲?能忍己苦,令諸有情得佛樂故。云何大悲?成就有情住法身故。云何大悲?不惜自身捨支節故。云何大悲?樂修功德不求報故。云何大悲?能調有情修靜慮故。云何大悲?了三界空不染著故。云何大悲?積集善根離不善故。云何大悲?能滿一切有情所求願故。云何大悲?不捨普願住無為故。云何大悲?捨有為法故。云何大悲?慳貪有情令行捨故。云何大悲?能令有情住佛戒故。云何大悲?多瞋有情令住忍故。云何大悲?懈怠有情令精進故。云何大悲?散亂有情令住定故。云何大悲?愚癡有情令智慧故。」

さらに、慈氏よ、この大悲の心には五十の種類がある。

大悲とは何か。それは、へつらわないことである。 大悲とは何か。それは、言葉と行いが一致していることである。 大悲とは何か。それは、偽りがないことである。 大悲とは何か。それは、真実の境地に住することである。 大悲とは何か。それは、退転しないことである。 大悲とは何か。それは、本来の覚りを悟ることである。 大悲とは何か。それは、ごまかしや偽りがないことである。 大悲とは何か。それは、自性が清らかであることである。 大悲とは何か。それは、素直で正直な行いをすることである。 大悲とは何か。それは、正しい性質に住することである。 大悲とは何か。それは、仏の身を求めることである。 大悲とは何か。それは、仏の寿命を求めることである。 大悲とは何か。それは、一切の過ちを起こさないことである。 大悲とは何か。それは、生きとし生けるものを守ることである。 大悲とは何か。それは、救い導くべき生きとし生けるものが限りないことである。 大悲とは何か。それは、虚空と同じであることである。 大悲とは何か。それは、貧しく苦しむすべての衆生を見捨てないことである。 大悲とは何か。それは、あらゆる苦しみを取り除くことである。 大悲とは何か。それは、自性が動揺せず、一切を背負い担うことである。 大悲とは何か。それは、清らかな行いをし、自他を欺かないことである。 大悲とは何か。それは、自らの利益となる善い行いをなすことである。 大悲とは何か。それは、広くすべてに安楽を与えることである。 大悲とは何か。それは、疲れや怠け心を起こさないことである。 大悲とは何か。それは、重い荷を除き、勝れた真理を示すことである。 大悲とは何か。それは、布施と忍耐を堅持し、精進して行うことである。 大悲とは何か。それは、劣った者からの軽蔑や侮辱にも耐えることである。 大悲とは何か。それは、一切の過去の恨みや遺恨を抱かないことである。 大悲とは何か。それは、この上ない医者となることである。 大悲とは何か。それは、大乗の智慧をもって劣った乗を摂め、等しく二つとしないことである。 大悲とは何か。それは、自らの徳を隠し、他人の善を称賛することである。 大悲とは何か。それは、煩悩のない真実の法の喜びを与えることである。 大悲とは何か。それは、愛するものを捨てても心に惜しみがないことである。 大悲とは何か。それは、生きとし生けるもののために心に後悔がないことである。 大悲とは何か。それは、清らかな戒律をよく保ち、戒を破る者を守ることである。 大悲とは何か。それは、自らの苦しみに耐え、生きとし生けるものが仏の安楽を得られるようにすることである。 大悲とは何か。それは、生きとし生けるものを成就させ、法身に住まわせることである。 大悲とは何か。それは、自らの身を惜しまず、手足の関節をも捨てることである。 大悲とは何か。それは、功徳を喜んで修め、報いを求めないことである。 大悲とは何か。それは、生きとし生けるものを調え、禅定を修めさせることである。 大悲とは何か。それは、三界が空であることを悟り、それに染まらないことである。 大悲とは何か。それは、善い根を積み集め、不善から離れることである。 大悲とは何か。それは、すべての生きとし生けるものの求める願いを満たすことである。 大悲とは何か。それは、広大な願いを捨てず、無為の境地に住することである。 大悲とは何か。それは、有為の法を捨てることである。 大悲とは何か。それは、物惜しみや貪りのある生きとし生けるものに、施しを行わせることである。 大悲とは何か。それは、生きとし生けるものを仏の戒律に住まわせることである。 大悲とは何か。それは、怒りの多い生きとし生けるものに、忍耐に住まわせることである。 大悲とは何か。それは、怠惰な生きとし生けるものに、精進させことである。 大悲とは何か。それは、心の散乱した生きとし生けるものに、禅定に住まわせることである。 大悲とは何か。それは、愚かさに満ちた生きとし生けるものに、智慧を得させることである。

佛告慈氏:「如是大悲,能令自他一切善根皆得成就,是則名為大悲無量。

仏は慈氏に告げられた:「このような大悲は、自他のすべての善根を成就させることができる。これこそが大悲無量と呼ばれるものである。」

「復次,慈氏!菩薩摩訶薩修行靜慮波羅蜜多,云何修習大喜無量?所謂憶念一切佛法愛樂恭敬,不住生死、不壞喜心,除諸邪見、離五欲蓋,能安有情住真實際,恒求如來三十二相、八十種好,聽聞正法順第一義,恒樂修行達於彼岸,圓滿具足喜慶心生。譬如世間大節會日,一切親族善友集會,勝妙五欲歡娛喜悅。菩薩亦爾,起大神變遊戲之時,八部龍天四眾雲集,戒、定、智慧、解脫、知見悅樂其心,是名大喜。又此喜者,於諸有情無損害心,勤求一切諸佛妙法,已得未得心無暫捨。於大乘法心恒正解,於二乘法不生取著。捨離慳悋增長檀那,見乞者來心樂惠施。於他持戒生淨信心,見毀禁人極懷憐愍。於己尸羅清淨圓滿,離三惡怖迴向法身,設有毀罵安忍受之。於軌範師奉順言教,頂戴尊重勤而行之。於諸有情善言含㗛,遠離嚬慼先意問訊。住真寂定,無諂無誑不麁不曲,常讚人善不說他過,樂與眾同行六和敬,作大法師開示涅槃顯真實相。於尊重所起父母想,等視眾生猶如一子。於親教師尊重如佛,於修行者猶海導師,諸波羅蜜如無價寶,於說法人如如意珠,無漏法林自在遊戲。教授我者深自慶喜,聞說過非如醫示病,聞說正法如病獲藥是名為喜。了苦、無常、無我、不淨,隨順涅槃常樂我淨一相一味,故名為喜。又大喜者,體真勝義性無生滅,不沈不舉、無去無來、常爾一心,名真喜悅。又大喜者,如聞善言身心適悅,安住不動猶若須彌。又大喜者,明了因果無迷謬故。又大喜者,如地不動為所依故。又大喜者,如威德人無能敵故。又大喜者,如勝義諦不毀壞故。又大喜者,如佛法僧功德圓滿求無厭故。慈氏!當知此即名為菩薩摩訶薩大喜無量。

また、慈氏よ。菩薩摩薩が静慮波羅蜜多を修行するにあたり、いかにして大いなる喜びの無量心を修習すべきでしょうか。 それはすなわち、あらゆる仏法を念じ慕い敬愛し恭しくし、生死に留まらず喜びの心を壊さず、諸々の邪見を除き五欲の蓋を離れ、有情を真実の境地に安住させることができ、常に如来の三十二相・八十種好を求め、正法を聞き第一義に順い、常に修行を楽しみ彼岸に達し、円満に具わり喜びの心が生じることです。 たとえば世間の大節会の日、全ての親族や善き友が集い、すぐれた五欲の楽しみで歓び喜ぶように、菩薩もまた、大神変を起こし遊戯する時、八部の龍天や四衆が雲のごとく集まり、戒・定・智慧・解脱・知見によってその心を悦び楽しませる、これを大いなる喜びと名づけます。 また、この喜びは、諸々の有情に対して損害の心がなく、精進してあらゆる諸仏の妙法を求め、すでに得たものも未だ得ていないものも、心に一時の捨てることもありません。大乗の法に対して心は常に正しく理解し、二乗の法に対しては取着を生じません。慳吝を捨てて檀那を増長し、乞い求める者が来れば心から恵み施すことを楽しみます。他者が戒を持つのを見ては清らかな信心を生じ、戒を破る人を見れば極めて憐れみの心を抱きます。自己の尸羅は清らかに円満し、三悪趣の恐怖を離れて法身に回向し、たとえ誹謗罵倒されても安らかにそれを受け入れます。軌範の師に対してはその教えに従い敬い、頂戴して尊重し勤めて行います。諸々の有情には優しい言葉と笑顔で接し、しかめ面を遠ざけて先に安否を問います。真の寂静に住し、諂わず偽らず、荒々しくなく曲がらず、常に人の善を讃え他者の過ちを言わず、楽しんで衆と共に六和敬を行じ、大法師となって涅槃を開示し真実の相を明らかにします。尊い方に対しては父母と思うようにし、衆生を等しく見ること一子のごとくです。親教師に対しては仏の如く尊重し、修行者に対しては大海の導師の如く、諸々の波羅蜜は無価の宝の如く、説法する人に対しては如意宝珠の如く、無漏の法林に自在に遊戯します。私を教えてくれる者に対しては深く自ら慶び、過ちを説くのを聞けば医者が病を示す如く、正法を聞けば病が薬を得た如く、これを喜びと名づけます。苦・無常・無我・不浄を了知し、涅槃の常・楽・我・浄の一相一味に随順するゆえに、喜びと名づけます。 また、大いなる喜びとは、真理の勝義の性を体得し、生滅がなく、沈まず上がらず、去ることも来ることもなく、常に一心であり、これを真の喜悦と名づけます。 また、大いなる喜びとは、善き言葉を聞いて身心が適悦し、須弥山の如く動かずに安住するがごときものです。 また、大いなる喜びとは、因果を明らかにして迷いや誤りがないからです。 また、大いなる喜びとは、大地が動かずに万物の依りどころとなるがごときものです。 また、大いなる喜びとは、威徳ある人に敵する者がないがごときものです。 また、大いなる喜びとは、勝義諦が壊されないがごときものです。 また、大いなる喜びとは、仏法僧の功徳が円満し、これを求めても厭うことがないからです。 慈氏よ、知るがよい。これを菩薩摩薩の大いなる喜びの無量心と名づける、と。

「復次,慈氏!菩薩摩訶薩修行靜慮波羅蜜多。云何修習大捨無量?菩薩摩訶薩修捨無量,總有三種。云何為三?一者煩惱捨,二者護自他捨,三者時非時捨。云何名為煩惱捨?若遇恭敬心不高舉,設遇輕慢不鄙卑賤,得利不喜、失利不憂,毀罵不瞋、讚亦無喜,稱揚不欣、聞譏不恚,遭苦難時觀空無我,悅樂事至恒觀無常,於所愛境心無貪著,設見嫌恨亦不生瞋,於怨於親、持戒破戒其心平等,作善作惡、若愛若憎都無二相,聞善惡言正不正法亦復如是,於諸有情其心平等,於身命財不生慳悋,是則名為煩惱大捨。云何名為護自他捨?菩薩摩訶薩若有人來節節支解,菩薩於彼無瞋恨心。如是菩薩於身語中未甞變易,是名為捨。復次乞叉(二合、上聲)多者,是名雙義及瘡痕義,謂眼及色,如有二人於菩薩所,一人打罵、一則香塗,菩薩觀之等心無二。瘡痕義者,菩薩觀之,第一義中誰為打者、誰為塗者?不見損益亦無彼我,不害自他,是名為捨。眼根色境雙義既然,耳聲、鼻香、舌味、身觸、意法,寂滅平等亦復如是。於毀讚者及我六根,第一義中無傷無害,故名為捨。設被傷害亦不損他,是名為捨。或護自他俱無傷損,是名為捨。於利非利常爾一心無害自他,故名為捨。常自覺察護他人心,離於諍訟,亦名為捨。復深觀察無有是非,是名為捨。如是名為護自他捨。云何名為時、非時捨?若諸有情不受教誨非法器者,菩薩不瞋,名非時捨。於聲聞人觀四聖諦,獲苦法忍趣羅漢果,菩薩不障,名非時捨。行布施時且止持戒,修淨戒時且止於施,忍辱、精進、禪定、智慧亦復如是,名非時捨。若於諸法應成就事決定應作,精進勇猛長時無倦,無暇無退不辭勞苦,乃至事畢方可故捨,是名時捨。如是名為時、非時捨。如是修習慈悲喜捨,但名靜慮,不得名為波羅蜜多。」

「また、慈氏よ。菩薩摩訶薩は静慮波羅蜜多を修行します。では、どのように大捨無量を修習するのでしょうか。菩薩摩訶薩が修習する捨無量には、大きく分けて三種類あります。その三つとは何でしょうか。第一に煩悩捨、第二に自他を護る捨、第三に時と非時の捨です。

まず、煩悩捨とは何でしょうか。もし恭敬を受けた時に心が高ぶらず、もし軽んじられても卑下せず、利益を得ても喜ばず、利益を失っても憂えず、罵られても怒らず、誉められても喜ばず、称賛されても得意にならず、非難されても腹を立てず、苦難に遭った時には空と無我を観じ、楽しいことがあっても常に無常を観じ、愛する対象に心が執着せず、嫌われたり恨まれたりしても怒りを生じず、怨みに対しても親しい人に対しても、戒律を守る人に対しても破る人に対しても、その心は平等であり、善を行うことも悪を行うことも、愛することも憎むことも、すべてに二つの相はなく、善悪の言葉や正法・非法を聞くこともまた同様です。あらゆる生きとし生けるものに対して心は平等であり、自らの身体や生命、財産に対しても吝嗇の心を起こさない。これを煩悩の大捨といいます。

次に、自他を護る捨とは何でしょうか。菩薩摩訶薩のもとに、もし誰かがやって来て、関節ごとに身体を切り離しても、菩薩はその者に対して怒りの心を起こしません。このような菩薩は、身や言葉の動きに少しも変化がありません。これを捨といいます。また、乞叉(二合、上声)というのは、二つの意味と傷跡の意味があります。すなわち、眼と色のことです。例えば、二人の者が菩薩のもとにいて、一人は殴り罵り、もう一人は香水を塗るとします。菩薩はこの二人を等しく観じ、心に差別がありません。傷跡の意味とは、菩薩がこれを観じて、第一義の中では誰が殴る者であり、誰が塗る者であるのか、損害も利益も見えず、彼我もなく、自他を害さないことをいいます。これを捨といいます。眼根と色境が二つの意味を持つことがそうであるなら、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法もまた、寂滅し平等であることは同じです。毀る者も誉める者も、そして私の六根も、第一義の中では傷つけることも害することもないので、捨と名づけます。たとえ害されても、他を損なわないこと、これを捨といいます。あるいは自他を共に護り、いずれも傷つけないこと、これを捨といいます。利益のある時もない時も、常に一心に自他を害さないこと、これを捨といいます。常に自らを顧み、他人の心を護り、争いから離れること、これもまた捨といいます。さらに深く観じて、是も非もないこと、これを捨といいます。これを自他を護る捨と名づけます。

では、時と非時の捨とは何でしょうか。もし生きとし生けるものの中に、教えを受け入れず、教えを受けるにふさわしくない器(根機)である者に対して、菩薩が怒らないこと、これを非時の捨といいます。声聞の人々が四聖諦を観じて、苦法忍を得て、阿羅漢果に向かうのを、菩薩が妨げないこと、これを非時の捨といいます。布施を行う時には一時的に持戒を控え、清浄な戒律を修める時には一時的に布施を控え、忍辱、精進、禅定、智慧もまた同様です。これを非時の捨といいます。もし諸々の法について、成就すべき事柄で必ず行うべきだと決めたならば、精進勇猛に長い間倦むことなく、暇もなく退くこともなく、苦労を厭わず、事が終わるまでその行を捨てないこと、これを時(にかなった)捨といいます。これを時・非時の捨と名づけます。

このようにして慈悲喜捨を修習しても、それはただの静慮であり、波羅蜜多とは呼べません。」

爾時慈氏白佛言:「世尊!如是修習靜慮為因,悉能具足神通智慧。云何名為神通智慧?」

そのとき、慈氏尊者が仏に問うた。「世尊よ、このように静慮を修行することを因として、すべての神通と智慧を具えることができるのです。では、神通と智慧とは何を指すのでしょうか。」

爾時薄伽梵告慈氏言:「善男子!是神通者,能以通力見極微色,是名神通;以淨法眼,知色性空亦不取著,是名智慧。復次,聞諸世間極微小聲,是名神通;於諸音聲,悟無言說離諸譬喻,是名智慧。復次,能知一切有情心行,是名神通;了諸有情妄心非心,是名智慧。復次,於過未際悉皆憶念,是名神通;了佛土空,是名智慧。復次,了知根性差別之相,是名神通;了勝義空,是名智慧。復次,能知諸法,是名神通;了俗如幻,是名智慧。復次,力能超彼釋、梵、四王,是名神通;超過一切聲聞、獨覺,是名智慧。慈氏!當知如是名為菩薩摩訶薩修真靜慮得不思議神通果報。

その時、世尊は慈氏(弥勒)菩薩に告げられました。 「善き男子よ。神通力とは、その力によって極めて微細な色(物質)を見ることができること、これを神通と言います。清らかな法の眼によって、色の本質が空であると知り、それに執着しないこと、これを智慧(プラジュニャー)と言います。

また、世の中の極めて小さな音を聞き取ること、これを神通と言います。あらゆる音声において、言葉のない境地を悟り、あらゆる例え話を離れること、これを智慧と言います。

また、すべての生きとし生けるものの心の働きを知ること、これを神通と言います。生き物たちの迷いの心は真実の心ではないと理解すること、これを智慧と言います。

また、過去と未来のすべてを記憶すること、これを神通と言います。仏の国土が空であると知ること、これを智慧と言います。

また、人々の能力や性質の違いを知ること、これを神通と言います。最高の真理(勝義)が空であると知ること、これを智慧と言います。

また、あらゆる物事を知ること、これを神通と言います。世俗のものが幻のようなものであると知ること、これを智慧と言います。

また、その力によって帝釈天、梵天、四天王を超えること、これを神通と言います。すべての声聞(弟子)や独覚(ひとりで悟る者)を超えること、これを智慧と言います。

慈氏よ、知るがよい。これこそが、菩薩摩訶薩が真実の静慮(瞑想)を修めて、思いもよらぬ神通の果報を得ることなのです。」

「復次,慈氏!一切眾生恒為無量煩惱擾亂其心。菩薩摩訶薩得真三昧,隨彼有情煩惱品類,現如是等諸三昧門令其解脫。菩薩摩訶薩勤加精進住是三昧,令諸有情安住如是平等法中。所謂得心平等、行平等、相應平等,布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧悉皆平等,即一切法普皆平等,是名法性三昧。

「さらに、慈氏(弥勒菩薩)よ。すべての生きとし生けるものは、尽きることのない煩悩に常に心を乱されている。しかし、菩薩摩訶薩は真の三昧(禅定)を得て、その生きものたちの煩悩の種類に応じて、こうした様々な三昧の門を現し、彼らを解き放つ。菩薩摩訶薩は精進してこの三昧に安住し、生きとし生けるものたちを、この平等の法の中に安らかに住まわせる。すなわち、心の平等、行いの平等、対応の平等を得る。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、すべてが平等であり、すなわちあらゆる法がことごとく平等である。これを法性の三昧と名づける。」

「復次,慈氏!此三昧平等即菩提平等,菩提平等即一切有情平等,一切有情平等即一切法平等。得如是平等法已,是名住真三昧。

「さらに、慈氏よ。この三昧の平等性がそのまま菩提の平等性であり、菩提の平等性がそのまま一切の生きとし生けるものの平等性であり、一切の生きとし生けるものの平等性がそのまま一切の法の平等性である。こうした平等の法を体得したならば、それを真の三昧に安住していると名付けるのだ。

「復次,慈氏!此菩提平等即虛空平等,虛空平等即一切有情平等,一切有情平等即一切法平等。得如是平等法已,是則名為住真三昧。

さらに、慈氏(弥勒菩薩)よ。この菩提の平等とは、虚空の平等そのものです。虚空の平等とは、すべての生きとし生けるものの平等そのものです。すべての生きとし生けるものの平等とは、すべての現象(法)の平等そのものです。このようにして平等の理法を悟った時、それを真の三昧(正しい心の統一)に安住していると名づけるのです。

「復次,慈氏!一切世間性平等即清淨性平等,清淨性平等即一切有情平等,一切有情平等即一切法平等。得此一切法平等,是則名為住真三昧。

また、慈氏よ。すべての世間の本質が平等であること、それが清らかな本質の平等である。清らかな本質の平等であること、それがすべての生きとし生けるものの平等である。すべての生きとし生けるものの平等であること、それがすべての法(現象)の平等である。このすべての法の平等を体得することを、真の三昧に安住するというのである。

「復次,慈氏!若知自心平等,即知一切有情心平等,是則名為住真三昧。

さらに、慈氏よ。もし自らの心が平等であると知れば、それはすなわち、すべての生きとし生けるものの心が平等であると知ることとなる。これを真の三昧に安住するというのである。

「復次,慈氏!若諸有情,能於我身作於饒益及不饒益,我於彼等,心如大地普皆平等,其心不動。所以者何?由住是三昧平等性故。以住三昧,無散亂語、無率爾語,了達諸法、解第一義,善知時節隨順而說,八風不動。菩薩能住如是平等法性,不捨三昧、不離世間,自在無礙,是名菩薩摩訶薩方便智慧靜慮波羅蜜多。

また、慈氏よ。もし生きとし生けるものたちが、私に対して利益をもたらそうが、あるいは害をなそうが、私は彼らすべてに対して、大地がすべてを平等に受け入れるかのように、心を動かさずに接するのです。なぜなら、この三昧の平等性に安住しているからです。三昧に住するゆえに、心の散った言葉や、軽率な言葉はなく、すべての法をはっきりと見極め、最高の真理を理解し、時と場に応じて適切に語り、世間の八つの風にも心が揺れ動くことはありません。菩薩がこのような平等な法の本質に安住し、三昧を捨てず、かつ世間から離れることもなく、自在で何の障りもないこと、これを菩薩摩訶薩の方便・智慧・静慮波羅蜜多と名づけるのです。

「復次,慈氏!云何菩薩摩訶薩修行出世方便智慧?若菩薩修靜慮時,於諸有情起慈悲心,名為方便;觀法寂滅,是名智慧。復次,修靜慮時歸依於佛,是名方便;了無取著,是名智慧。求一切法,是名方便;了法性空,是名智慧。觀佛色身,是名方便;觀佛身空,是名智慧。觀佛梵音,是名方便;了無言說,是名智慧。若正觀時,是名方便;觀照亦空,是名智慧。拔濟有情,是名方便;了眾生空,是名智慧。知眾生根,是名方便;根性亦空,是名智慧。觀佛土淨,是名方便;了佛土空,是名智慧。得佛菩提,是名方便;了本寂滅,是名智慧。請轉法輪,是名方便;法無轉相,是名智慧。觀七覺支,是名方便;了真本覺,是名智慧。菩薩摩訶薩如是相應修習靜慮波羅蜜多,一切天魔不得其便,即能成就無上菩提。」

さらに、慈氏よ。どのようにして菩薩摩訶薩が世を超えた方便と智慧を修行するのか。菩薩が静慮を修行するとき、すべての生きとし生けるものに慈しみの心を起こすことを方便といい、諸法が寂滅であると観じることを智慧という。また、静慮を修行するとき、仏に帰依することを方便といい、執着しないと了知することを智慧という。すべての法を求めることを方便といい、法の性質が空であると了知することを智慧という。仏の色身を観じることを方便といい、仏身が空であると観じることを智慧という。仏の梵音を観じることを方便といい、言葉が無いと了知することを智慧という。正しく観じるときを方便といい、観じることもまた空であると智慧という。生きとし生けるものを救い助けることを方便といい、衆生が空であると了知することを智慧という。衆生の根機を知ることを方便といい、根機の性質もまた空であると智慧という。仏土の清らかさを観じることを方便といい、仏土が空であると了知することを智慧という。仏の菩提を得ることを方便といい、本来寂滅であると了知することを智慧という。法輪を転じるよう請うことを方便といい、法には転じる相がないと智慧という。七覚支を観じることを方便といい、真の本来の覚りを了知することを智慧という。菩薩摩訶薩がこのように静慮波羅蜜多に相応して修習すれば、一切の天魔はその機会を得ることができず、直ちに無上の菩提を成就することができるのである。

爾時薄伽梵說此靜慮波羅蜜多時,會中三萬二千菩薩得日燈三昧,此日燈三昧亦名一莊嚴三昧。云何名為日燈三昧?如日出時,一切燈燭星月無復光明。菩薩得此三昧者亦復如是,有學無學聲聞、獨覺。諸有情智映蔽不現,是故名為日燈三昧。復次,云何名一莊嚴三昧?所言一者即是無生,無生者即是法空。又一者名遍一切處,譬如油麻油遍麻中。無生法者亦復如是,體遍一切,是名一莊嚴三昧。此一莊嚴亦名一增長三昧,一者即婀,婀即法界,所謂契經令法界現前,法界現前已。所有諸法神通增長明了現前,是故名為一增長三昧。此一增長亦名一法界三昧,所言一者即是法界,法界亦空,以定力故其空現前,是名一法界莊嚴三昧。此一法界亦名一空三昧,所言一者猶如虛空,一切萬物生長空中,菩薩真空現在前時,信等善法悉皆增長,是故名為一空三昧。

その時、世尊がこの静慮波羅蜜多を説かれると、会の中の三萬二千の菩薩たちが日燈三昧を得ました。この日燈三昧は、また一莊嚴三昧とも呼ばれます。

では、なぜ日燈三昧と言うのでしょうか?太陽が昇るとき、すべての灯火やろうそく、星や月の光がかき消されるように、菩薩がこの三昧を得ると、有学・無学の声聞や独覚、そしてあらゆる生きとし生けるものの知恵は、その光に覆われて現れなくなります。そのため、日燈三昧と呼ばれるのです。

次に、なぜ一莊嚴三昧と言うのでしょうか?「一」とは無生を意味し、無生とは法が空であることを指します。また、「一」とは、すべての場所に遍満することを意味します。例えば、ごま油がごまの中に遍く染みわたっているように、無生の法もまた、その体がすべてに遍満しています。これが一莊嚴三昧です。

この一莊嚴三昧は、また一增長三昧とも呼ばれます。「一」とは「阿」(ア)の字であり、「阿」とは法界を意味します。すなわち、経典によって法界が現前し、法界が現前すると、あらゆる諸法における神通力が増長し、明らかに現れます。そのため、一增長三昧と呼ばれます。

この一增長三昧は、また一法界三昧とも呼ばれます。「一」とは法界を意味し、法界もまた空です。禅定の力によってその空が現前するため、一法界莊嚴三昧と呼ばれます。

この一法界三昧は、また一空三昧とも呼ばれます。「一」とは虚空のようなものです。すべての万物が虚空の中で成長するように、菩薩の真空が現前するとき、信心などの善い法がすべて増長します。そのため、一空三昧と呼ばれます。

「復次,慈氏!菩薩摩訶薩住此靜慮波羅蜜多時,能入俱胝那庾多百千三昧。今為汝說小分名字,所謂電光三昧,月光三昧,善增長三昧,毗盧遮那三昧,增長不思議三昧,如如光照三昧,無垢三昧,海德三昧,能自在轉一切法輪三昧,成就禁戒三昧,無憂三昧,堅固三昧,蘇迷盧三昧,法炬三昧,法勇三昧,轉法智自在三昧,散積聚法三昧,持一切法三昧,持白法三昧,知他心三昧,莊嚴寶幢三昧,滅煩惱三昧,壞四魔三昧,發起十力三昧,無著三昧,斷縛著三昧,燈手三昧,聞施名三昧,持地三昧,安住心三昧,須彌燈三昧,摧伏怨敵三昧,智炬三昧,發生智三昧,教授三昧,自在轉無邊法門三昧,令心堪任三昧,知勝妙善三昧,震日月音三昧,無所行三昧,壞魔三昧,無種種想三昧,善調伏心三昧,釋師子三昧,念佛三昧,念法三昧,念僧三昧,不退轉三昧,不眴三昧,最勝無我三昧,似空處三昧,常覺悟三昧,除煩惱緣三昧,如虛空三昧,入功能三昧,念慧覺三昧,無盡辯三昧,大悲聲三昧,現真諦三昧,不毀壞三昧,善行三昧,有情歡喜三昧,知愛樂三昧,生愛樂三昧,勝慈三昧,性靜三昧,大悲三昧,大喜三昧,無所捨著三昧,法義三昧,法悲三昧,慧炬三昧,智海三昧,無動三昧,善調伏身三昧,解脫智自在三昧,金剛幢三昧,勝蓮花道場三昧,離世間法三昧,勝智三昧,佛觀行三昧,威光三昧,威焰三昧,與解脫智三昧,佛身莊嚴三昧,光明普遍三昧,剎土遍淨三昧,入有情性三昧,滿一切願三昧,順菩提路三昧,波羅蜜莊嚴三昧,寶髻三昧,覺花三昧,與解脫果三昧,甘露音三昧,無滯三昧,疾風行三昧,寶冠三昧,截海流三昧,金剛峯三昧,大神通三昧,出生義三昧,見無邊佛三昧,憶持一切所聞三昧,與剎那智三昧,清淨無邊功德三昧,如是無量俱胝三昧。若諸菩薩摩訶薩得是三昧者,是則名為靜慮波羅蜜多。」

「また、慈氏よ、菩薩摩訶薩がこの静慮波羅蜜多に安住する時、無数の三昧に入ることができる。今、その中から一部の名前を説こう。すなわち、電光三昧、月光三昧、善増長三昧、毘盧遮那三昧、増長不可思議三昧、如如光照三昧、無垢三昧、海徳三昧、自在に一切法輪を転ずる三昧、成就禁戒三昧、無憂三昧、堅固三昧、蘇迷盧三昧、法炬三昧、法勇三昧、転法智自在三昧、散積聚法三昧、持一切法三昧、持白法三昧、知他心三昧、荘厳宝幢三昧、滅煩悩三昧、壊四魔三昧、発起十力三昧、無著三昧、断縛著三昧、灯手三昧、聞施名三昧、持地三昧、安住心三昧、須弥灯三昧、摧伏怨敵三昧、智炬三昧、発生智三昧、教授三昧、自在に無辺の法門を転ずる三昧、心を堪任せしむる三昧、勝妙の善を知る三昧、震日月音三昧、無所行三昧、壊魔三昧、無種種想三昧、善調伏心三昧、釈師子三昧、念仏三昧、念法三昧、念僧三昧、不退転三昧、不眴三昧、最勝無我三昧、似空処三昧、常覚悟三昧、除煩悩縁三昧、如虚空三昧、入功能三昧、念慧覚三昧、無尽弁三昧、大悲声三昧、現真諦三昧、不毀壊三昧、善行三昧、有情歓喜三昧、知愛楽三昧、生愛楽三昧、勝慈三昧、性静三昧、大悲三昧、大喜三昧、無所捨著三昧、法義三昧、法悲三昧、慧炬三昧、智海三昧、無動三昧、善調伏身三昧、解脱智自在三昧、金剛幢三昧、勝蓮華道場三昧、離世間法三昧、勝智三昧、仏観行三昧、威光三昧、威焔三昧、与解脱智三昧、仏身荘厳三昧、光明普遍三昧、刹土遍浄三昧、入有情性三昧、満一切願三昧、順菩提路三昧、波羅蜜荘厳三昧、宝髻三昧、覚花三昧、与解脱果三昧、甘露音三昧、無滞三昧、疾風行三昧、宝冠三昧、截海流三昧、金剛峰三昧、大神通三昧、出生義三昧、見無辺仏三昧、憶持一切所聞三昧、与刹那智三昧、清浄無辺功徳三昧など、数え切れない三昧がある。もし菩薩摩訶薩がこれらの三昧を得るならば、それを静慮波羅蜜多と名づけるのである。」

時薄伽梵說此靜慮波羅蜜多時,會中七十八那庾多人天發阿耨多羅三藐三菩提心,三萬二千菩薩證無生法忍。

その時、尊き仏がこの静慮波羅蜜多を説き終えられると、会場にいた七十八那由多の人々や天人は、阿耨多羅三藐三菩提(無上正等覚)を求める心を起こし、三万二千の菩薩たちは無生法忍(真理を悟り、一切の現象が生じもせず滅しもしないと安住する境地)を体得しました。


之一
10 般若波羅蜜多品

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