**巻中**
開府儀同三司・特進・試鴻臚卿・肅国公・食邑三千戸・紫衣賜与・司空
その時、如来は慈氏菩薩摩訶薩に告げられた。 「あなたは今、仏のために法座を厳かに整えなさい。私はここに登り、昔、心の願いによって修行された様々な行い、巧みに生み出された諸仏の浄土の功徳の荘厳、そして正しい行き方へと向かう教えの門について説こう。」
その時、慈氏(弥勒)菩薩はこう考えた。
「今、世尊はどのような意味があって、私に座を整えさせたのであろうか。 阿難陀や大目犍連らを遣わされなかったのはなぜか。 なぜあの声聞や縁覚たちを差し置かれたのか。 まさか、清らかな菩薩たちのためだけに説法されるのではないだろうか。 あるいは、あの声聞や縁覚たちは、この法門を受ける器ではないからであろうか。 菩薩たちのための教えだから、私に座を整えさせたのだろうか。」
その時、慈氏菩薩摩訶薩(弥勒菩薩)は神通力を現し、その力によって獅子座を変化させました。その高さは四万由旬にも及び、無数の宝で美しく飾られ、天の妙なる衣が敷かれていました。その衣は柔らかく、触れる者は安らぎを得ました。そして、その座からは様々な光が放たれ、この三千大千世界を照らし出しました。そこで如来は、元の座から立ち上がり、その獅子座に昇られました。すると、三千大千世界は常とは異なる六種の震動を起こしました。
その時、世尊は尊者の舎利子にこう告げられました。「菩薩が四つのことを身につけるならば、願い求めることはすべて叶えられる。その四つとは何か。第一に、悟りを目指す真摯な思いを起こすこと。第二に、すべての生きとし生けるものに対して慈しみの心を抱くこと。第三に、たゆまぬ努力を起こすこと。第四に、善き師友に親しむこと。菩薩はこの四つの法を身につけることにより、大きな願いを完全に成就するのである。」
また、舎利子よ。菩薩が一つの法を成就すれば、大いなる誓願を退かず、清らかな仏国土を成就することができる。その一つの法とは何か。菩薩が学ぶべきこととは、こうである。動かざる如来が菩薩であった時、本来修行されたように、広大な誓願を発して言われた。「私は生まれる所々において、もし出家しなければ、それは十方の諸仏世尊を欺くこととなるであろう」と。 このように、舎利子よ。諸々の菩薩はこれに随順して学ぶべきである。仏が世に現れようと現れまいと、すべての生まれる所において、必ず決定して家を捨て、家なき者となるのである。なぜなら、諸々の菩薩にとって最も勝れた利益とは、すなわち出家であるからだ。 舎利子よ。菩薩摩訶薩が出家を喜ぶならば、十の功徳を摂取することができる。その十とは何か。第一に、諸々の欲望に執着しない。第二に、閑静な修行の場を喜ぶ。第三に、仏の行われる所を実践する。第四に、妻や子、貪りの愛着や財産の利益に執着しない。第五に、悪趣へ向かう行ないを離れる。第六に、善趣へ向かう行ないを習う。第七に、善根の成就を得ることができる。第八に、善根を積み集めて退失しない。第九に、常に諸天によって称賛される。第十に、常に人間ならざる者たちによって守護される。 舎利子よ。出家を喜ぶ者は、このように十の功徳を摂取することができるのである。 それゆえ、舎利子よ。菩薩摩訶薩は、正しい覚りを求める者であり、有情を解脱させようとする者であるから、常に出家を喜ぶのである。 このように、舎利子よ。これを一つの法と名づけ、成就を得れば、大いなる誓願を退かず、心のままに清らかな仏国土を得るのである。
また、舎利子よ。菩薩が二つの法を成就すれば、大いなる誓願を退かず、心のままに清らかな仏の国を浄めます。その二つとは何か。すなわち、菩薩は声聞を求めず、声聞の乗り物を楽しまず、声聞の説く法を愛好せず、声聞の修行者に親しむことを好まず、声聞の戒律を学ばず、声聞の乗り物に相応する法を説くことを好まず、また他人に声聞の乗り物を修行するよう勧めないことです。縁覚の乗り物についてもまた同じです。ただ、もっぱら有情を奮い立たせて、最上の阿耨多羅三藐三菩提を成就するよう導くのです。これを二つの法と名づけます。
舎利子よ。もし他人を仏の乗り物へと導くならば、この菩薩は十の功徳を得ることができます。その十とは、一には、声聞や縁覚のいない仏の国を得ること。二には、純一で清らかな偉大な菩薩の集団を得ること。三には、諸仏世尊に護られ、心に留められること。四には、常に諸仏から名を呼ばれ、讚嘆され、説法を受けること。五には、すべてのことに対して広大な心を起こすこと。六には、もし天に生まれれば、帝釈天や梵天王となること。七には、もし人に生まれれば、転輪聖王となること。八には、常に諸仏世尊を見て、遠ざかることがないこと。九には、天や人の愛するところとなること。十には、壊れることのない眷属と無量の福徳の集まりを得ること。
なぜなら、舎利子よ。もし三千大千世界のすべての有情をして、皆が阿羅漢の果や縁覚の境地を得させる者がいたとしても、もし一人の有情を仏の菩提に置く者がいれば、この功徳はそれよりもはるかに勝っているからです。なぜか。舎利子よ。声聞や縁覚が世に現れても、仏の種を絶やさないようにすることはできません。しかし、仏如来が世に出なければ、声聞も縁覚も存在しません。舎利子よ。仏世尊が世に現れるからこそ、仏の種を絶やさずにいられ、その結果として声聞や縁覚も説かれるのです。
舎利子よ。このようにして、他人を菩提心に留めることによって、このような十の功徳を得、大いなる誓願を退かず、心のままに清らかな仏の国を得るのです。
また、舎利子よ。菩薩が三つのことを成就すれば、その大いなる願いが退くことなく、仏の国(浄土)の功徳や荘厳さを自らのものとすることができる。その三つとは何か。第一に、静かな山や林(阿蘭若)に住むことを尊重すること。第二に、何の見返りも求めずに教えを施すこと。第三に、清らかな戒律をしっかりと守り通すことである。舎利子よ。菩薩がこの清らかな戒律を守り通せば、十の恐れのない境地(無畏)を得ることができる。その十とは何か。第一に、村や町に入ることへの恐れがない。第二に、人々の集まりで説法することへの恐れがない。第三に、飲食をすることへの恐れがない。第四に、村や町を出ることへの恐れがない。第五に、寺に入ることへの恐れがない。第六に、僧の集まりに入ることへの恐れがない。第七に、座に坐ることへの恐れがない。第八に、師匠や指導者(和尚・阿闍梨)のもとへ行くことへの恐れがない。第九に、大衆を教え戒め、慈しみの心を持ち続けることへの恐れがない。第十に、衣・食・寝具・医薬などの必要な品々を用いることへの恐れがない。
舎利子よ、清らかな戒律をしっかりと守り行うことによって、このような十の恐れなき境地が得られるのです。
また、舎利子よ。菩薩が説法する際、心に見返りを望まなければ、さらに十の功徳を得ることができる。その十とは何か。第一に、多くを欲することがない。第二に、他人に知られようと求めない。第三に、名声を求めない。第四に、施主の家に心を執着しない。第五に、高貴な家柄の門徒を占めて求めない。第六に、粗いものにも細やかなものにも足ることを知る。第七に、天人が訪れても高ぶった心を起こさない。第八に、仏を観想する心を退けない。第九に、説いた教えを他者が信じて受け入れる。第十に、仏を念じる心が起こる。舎利子よ。菩薩が法施において心に見返りを望まなければ、このような十の功徳を得るのである。
また、舎利子よ。菩薩が阿蘭若(あらにゃ)に住むことを尊べば、さらに十の功徳を成就することができる。その十とは何か。一つには、無益な話を遠ざける。二つには、静けさを喜ぶ。三つには、心を禅定の対象に向ける。四つには、様々な仕事を営まない。五つには、諸仏を敬い愛する。六つには、禅定の喜びを捨てない。七つには、清らかな行いを修めるのに妨げがない。八つには、わずかな努力で三昧を証得する。九つには、受けた教えの名・句・文身を決して忘れない。十には、聞いた法の意味をすべて理解する。舎利子よ。菩薩が阿蘭若に住むことを重んじれば、このような十の功徳を得るのである。また、菩薩が三つの法を成就すれば、大いなる願いを退かず、望むままに清らかな仏の国を得る。
また、舎利子よ。菩薩が四つの行いを実践すれば、大いなる誓いを退かず、望むままに清らかな佛の国を得ることができる。その四つとは何か。第一に、真実の言葉を語り、その通りに修行すること。第二に、常に自分を低くして、我(が)を慢(まん)する心を取り除くこと。第三に、物惜しみやねたみを遠ざけること。第四に、他の人の栄えある姿を見て、心から喜ぶこと。これらを四つの行いというのである。
さらに、舎利子よ。菩薩が真実の言葉を語ることには、四つの功徳がある。どのような四つか。第一に、口から常に青い蓮華の香りが漂う。第二に、言葉の行いが清らかで、語る言葉に障りがない。第三に、人々や天人の間で、模範とされる。第四に、諸仏の円満な響きを身に受ける。舎利子よ、菩薩が真実の言葉を語ることで、このような四つの功徳を得るのである。
また、舎利子よ、菩薩が謙虚であることには四つの功徳がある。どのような四つか。第一に、悪い生き物の世界から遠ざかり、ラクダやロバ、牛、馬、犬などの動物の身を受けることがない。第二に、軽んじられたり誹謗されたりすることがない。第三に、悪い友人や敵に脅かされたり攻撃されたりしない。第四に、常に人や天の生き物から敬われ礼拝される。舎利子よ、これが菩薩が謙虚であることによって得られる四つの功徳である。
また、舎利子よ。菩薩が吝嗇(りんしょく)や嫉妬から遠ざかることには、四つの功徳があります。その四つとは何か。第一に、施しの心を決して忘れないこと。第二に、飢饉のときに大きな施主となること。第三に、常に戸を閉ざさないこと。第四に、戒律を守る人を見て、施しや受け取りに嫉妬しないことです。舎利子よ、これが菩薩が吝嗇や嫉妬から遠ざかることによって得る、四つの功徳なのです。
また、舎利子よ。菩薩が他者の繁栄を見て心から喜びを生じることには、四つの功徳がある。その四つとは何か。第一に、常にこうした心を起こす。「あの生きとし生けるもののために、この鎧を身に着け、彼らを喜ばせよう。彼らは自らの福と力によって財宝を得て安楽を享受している。それによって、私の喜びはさらに倍増する」と。第二に、すべての財物は、王の難、水害・火災、盗賊、悪友によっても奪われることがない。第三に、生まれるところごとに、財宝、男女、およびその眷属がすべて満たされ、帝王でさえ喜ぶ。ましてや他の人々はなおさらである。第四に、財宝は広大で、受用することに限りがない。舎利子よ。これが菩薩が他者の繁栄を見て心から喜びを生じ、得るべき四つの功徳である。
さらに、舎利子よ。菩薩が五つのことを成就すれば、大いなる願いを退けず、望むままに清らかな仏の国土を得ることができます。その五つとは何か。第一に、菩薩は清らかな仏の国土を築き、荘厳を成就するために法を求めるべきであり、その教えを聞いたならば、次のように尋ねるべきです。『菩薩はどのようにしてこのような功徳の荘厳を成就するのですか?』そうして聞いた通りに実践し、真実の如実な相(真如)を求め、証得すべきです。
また、舎利子よ。第二に、菩薩が清らかな仏の国に生まれたいと願うならば、清らかな戒律を守り、行いを清めるべきである。戒律が清らかであれば、その願いのままに必ず生まれることができる。清らかな仏の国に生まれたならば、ただちにその国を観察し、その形相やさまざまな荘厳、声聞や菩薩の大衆、そして彼らが享受する道具や備えを正しく捉えるがよい。その相を捉えたならば、深く敬いの心を起こし、合掌して仏のもとへ赴き、教えを問うのである。
また、舎利子よ。第三に、菩薩がその広大な仏国土の功徳荘厳を求めると、かの仏世尊はその増上の意楽を知って、すぐに説法される。仏が説法されることによって、即座に広大な仏国土の功徳荘厳を成就できる。その菩薩は教えを聞いた後、説かれた通りに修行する。
また、舎利子よ。第四に、菩薩は「事」と「智」において清らかになり、正しくない道から遠ざかるのです。では「事」とは何でしょうか。「智」とは何でしょうか。「智」とは、心が捉える対象と捉える働きについて、声聞や縁覚の智慧から離れていることを指します。そして「事」とは、聞いた教えをすべて実践すべきことを意味します。
また、舎利子よ。第五に、菩薩は仏の自性(本質)と、仏国土の自性を理解します。では、仏の自性とは何か?仏国土の自性とは何か?それらはただ名前があるだけであり、その名前が清らかであると知ることで、執着が生まれません。このように、舎利子よ。これが菩薩が五つの法を成就し、大いなる願いを退かず、思いのままに清らかな仏国土を得る方法なのです。
「また、舎利子よ。菩薩が六つの法を成就すれば、速やかに無上正等覚を得て、すべての世間を超越し、清らかな仏の国を現すことができる。その六つとは何か。第一に、この菩薩は大施主となって施しを行い、所有する愛着する宝飾品や珍しい物などに対しても恥じらいの心を起こし、それらをすべて施し与え、喜び躍る心でこう思う。『私は大施を行い大乗を円満し、無上の菩提を満たすべきである』と。またこうも考える。『このわずかな施しで無上の正覚を得ることはできない』と。このように思惟した後、すべての繁栄をすべて施し、さらに自分の命さえも施すべきであり、ましてや財産や妻子を施さないことがあろうか。なぜなら、舎利子よ。薩婆若とは、どのような意味か。舎利子よ。菩薩摩訶薩が菩薩行を行う時、自分が所有するすべてのものをすべて施す。この意味によって、菩提を得て、一切智と名づけられるのである。」
「また、舎利子よ、在家の菩薩と出家の菩薩の二者について、もし清らかな戒律と儀軌に安住し、たとえ生きるためであっても、ついに清らかな戒律の学処(まなぶところ)によって保たれる律儀を毀(やぶ)らず、その誓いの功徳を一切の有情(いっさいのうじょう)に回向(えこう)して、無上正等覚(むじょうしょうとうかく)を成就せんと大いなる喜びを生じるならば、『我は持戒者なり』とて、清らかな戒律の儀軌を深く愛楽し、昼夜(ちゅうや)も専ら清らかな行いである梵行(ぼんぎょう)を修して安楽を得る。すなわち仏法が目前に現れ、理と相応して実相(じっそう)の観を得る。実相の観に住するがゆえに甚深(じんじん)の忍(にん)を得、深き忍を証(しょう)するがゆえに正見(しょうけん)を得る。正見によって正しく修行し、正しい修行に住するがゆえに三界(さんがい)を厭(いと)い、三界を厭うては便(すなわ)ち怖畏(ふい)を生じ、怖畏によって出離(しゅつり)を求める。出離の見を懐(いだ)くがゆえにかくのごとく念(おも)う。『我にこのような苦悩があるならば、一切の有情もまた同じであるはずだ。我は彼らのためにこの重荷を担い、彼らをして究竟(くきょう)の安楽を得させしめん』と。このように観察する時、すなわち大悲(だいひ)を得る。大悲に住しては大いなる精進を発(おこ)し、あたかも頭や衣服の燃えているのを救うように、精進を捨てずにいれば、すなわち薩婆若(さばにゃ/一切智/さいち)の智を得ることができる。」
また、舎利子よ。第三に、菩薩は忍辱の鎧を身にまとい、驕りを離れ、大いなる忍びの力を得るべきである。もし罵られ、侮辱され、打たれるようなことがあっても、忍辱を成就して怒りの心を起こさない。彼はこう思惟する。「たとえ須弥山のような大きさの棒をもって、誰かが私を打ち、幾劫にもわたって酷く罵り続けようとも、私は怒りの心を起こすべきではない。なぜなら、かの人々はまだ仏の教えに従っておらず、私は仏や菩薩の教えを学ぼうとしているからである。それゆえ、もし彼らが私を打ち罵るならば、それは私の大いなる慈悲をいっそう成長させるのである。私は彼ら有情のために広大な誓いの鎧をまとい、彼らを救い取り、解脱させ、生死を離れ涅槃に入らせよう。ゆえに、今、私は怒ってはならない。」このように忍辱の鎧を身にまとえば、十の成就を得ることができる。その十とは何か。第一に、家系の成就。第二に、財産の成就。第三に、眷属の成就。第四に、容姿の成就。第五に、布施の成就。第六に、善き友の成就。第七に、正しい教えを聞くことの成就。第八に、説かれたままに修行する成就。第九に、命終の時に、諸仏に会い、供養する成就。第十に、仏を見たのち、清らかな信心を生じる成就である。舎利子よ、これらが菩薩の十の成就である。
「また、舎利子よ。第四に、菩薩は大いなる精進を起こし、堅固な決意をもって善い行いを成就するために、このような精進の鎧をまとい、次のように思惟する。『一人ひとりの有情のために、未来永劫にわたって生死の輪廻の中で様々な精進の修行を続け、決して疲れることなく、善き決意を固めよう。すべての有情のために、無数の劫の間、生死を流転しながらも、この精進を起こし、決して有情を見捨てることはない。』 舎利子よ。もし、十方のガンジス川の砂の数ほどの世界に満ちた七宝を、瞬間瞬間に如来に捧げ、その行いを未来永劫続ける菩薩がいたとする。また、内に増上の意楽を抱き、大悲の心をもって、その心で精進の鎧をまとう菩薩がいたとする。この後者の功徳は、前者よりもはるかに勝るのである。 舎利子よ。菩薩がこの精進を具えると、十の功徳を得る。その十とは何か。第一に、凡夫や愚者の行いから離れること。第二に、仏の行いを摂取すること。第三に、生死の世界を過患であると観じること。第四に、これによって大悲を摂取すること。第五に、過去の本願を退けないこと。第六に、病気が少ないこと。第七に、三世の如来の教えに違背しないこと。第八に、貪り、怒り、愚かさが薄らぐこと。第九に、聞いたことを、名・句・文のすべてにおいて、よく理解すること。第十に、修行が成就すること。 舎利子よ。精進を発する者は、このような十の功徳を得るのである。」
「さらに、舎利子よ。第五に、菩薩は諸仏世尊を心に思い浮かべる。このことにより心は集中して如来を観じ、常に静かな心で、確かな念を成就してとどまる。そして、こう考える。『私は如来の行いを実践すべきだ。もし心が散り乱れて念を失えば、仏の智慧という殊勝な境地を得ることはできない。だからこそ、心の拠り所としているすべてのものを手放し、また、すべての物質的な供養や尊敬、村や町、飲食物や生活の糧、さらには親しい人々までも手放すべきである。しかし、生きとし生けるものを利益するために、彼らを見捨てはしない。静かな修行の場を喜び、独り犀の角のように、伴侶なくして歩むのだ』と。静かな修行の場にとどまったなら、広大な慈しみの心を起こす。まずは一方、二方、三方、四方から、ついには十方に至るまで、あまねく生きとし生けるものに向けて、慈しみの心にとどまる。こうしてとどまるとき、その人は「禅定に住する者」と呼ばれるのだ。舎利子よ。もし、ある菩薩が、あらゆる喜びの道具を用いて、ガンジス河の砂ほどの数の劫の間、ガンジス河の砂ほどの数の仏陀と、比丘たち、そしてその眷属のすべてに供養したとする。一方で、別の出家した菩薩が、静けさを求めて、静かな修行の場へと七歩を歩み出るとする。この場合、後者の功徳は、前者よりもはるかに大きい。なぜか? それは、後者によって速やかに大いなる悟りが得られるからである。舎利子よ。静けさを喜び、禅定に住する者には、十の功徳が得られる。その十の功徳とは何か。第一に、念を得る。第二に、智慧を得る。第三に、正しい修行を得る。第四に、意志が堅固で勇猛になる。第五に、速やかな弁舌を得る。第六に、陀羅尼を得る。第七に、生と死について巧みになる。第八に、戒の集まりなどにおいて動じなくなる。第九に、天人が仕える。第十に、他人の繁栄を羨まない。舎利子よ。静けさを喜び、禅定に住する者は、このような十の功徳を得るのである。」
また、舎利子よ。第六に、菩薩は智慧から生じるものを善く理解し、こう思惟する。『智慧は何から生じるのか。清らかな戒律から生じるのである。そしてこの智慧は、あらゆる善い法を増大させる。ゆえに菩薩は、世の中のあらゆる智慧を学ぶべきである。』工芸、呪術、医術など、たとえ成し難く達成し難いものであっても、それらすべてをくまなく学ぶ。こうして学んだ後、さらにこう思惟する。『しかし、この智慧は、欲望を離れた静かな境地に達することも、神通力や悟りへと向かうこともできない。沙門(修行者)の境地にも、バラモンの境地にも、涅槃へも向かわない。それゆえ、私は今、さらに法の薬や工芸の智慧を広く求め、それによって究極の寂滅を得るべきである。』そして、その菩薩は諸々の法の根源を追求するが、法を生じさせるような微細な法さえも見出すことができない。見出せないがゆえに、寂滅の境地に安住する。寂滅に安住するゆえに、煩わしさがない。煩わしさがないゆえに、生死をありのままに知り、迷いの世界に生きる者たちのために利益を施し、彼らの苦しみを滅ぼすのである。 舎利子よ。これこそが、菩薩が六つの法を成就し、大いなる誓いを退けず、心のままに清らかな仏の国を得る道である。
さらに、舎利子よ。菩薩が七つの法を成就すれば、大いなる誓願を退転させず、望むままに清らかな仏の国土を得ることができる。その七つとは何か。第一に、自らのすべての所有物をすべて施すことである。しかし、施されたものは実体として捉えられないと観じる。第二に、戒律を欠かさず守ること。しかし、戒律そのものを固定的なものとして思惟しない。第三に、忍耐と柔和を身につけること。しかし、他者という実体は捉えられないと観じる。第四に、精進を発起すること。しかし、身・口・意の働きも実体として捉えられないと観じる。第五に、静慮(瞑想)を成就すること。しかし、静慮の境地に執着しない。第六に、智慧を円満にすること。しかし、分別を起こさない。第七に、諸仏を心に念ずること。しかし、形相に執着しない。舎利子よ。菩薩がこのように七つの法を成就すれば、大いなる誓願を退転させず、あらゆる清らかな仏の国土の種々の荘厳を獲得するのである。
また、舎利子よ。菩薩が八つの法を成就すれば、大願を退転させず、思いのままに清らかな仏の国土を得ることができる。その八つとは何か。第一に、心に嫉妬しないこと。第二に、荘厳な供養具を施すこと。第三に、心が広大であること。第四に、説法者を敬うこと。第五に、不正な生計を営まないこと。第六に、平等に施しを行うこと。第七に、自分を高く見せないこと。第八に、他人を軽んじないこと。舎利子よ。これが菩薩が八つの法を成就し、大願を退転させず、思いのままに清らかな仏の国土を得る方法である。
また、舎利子よ。菩薩が九つの行いを身につけるなら、その大いなる願いは退かず、望むままに清らかな仏の国(浄土)に生まれることができる。その九つとは何か。 一つ目は、身体の行いを正しく保つこと。 二つ目は、言葉の行いを正しく保つこと。 三つ目は、心の行いを正しく保つこと。 四つ目は、貪りの心を衰えさせること。 五つ目は、怒りの心を衰えさせること。 六つ目は、愚かさの心を衰えさせること。 七つ目は、ごまかしを行わないこと。 八つ目は、確かな善い友となること。 九つ目は、善い友を軽んじないこと。 舎利子よ。菩薩がこの九つの行いを身につけるなら、その大いなる願いは退かず、望むままに清らかな仏の国に生まれることができるのである。
「また、舎利子よ。菩薩が十の法を成就すれば、大いなる誓いを退けず、思いのままに清らかな仏の国を楽しむことができる。その十の法とは何か。 第一に、菩薩が見事な花を持って、如来のもとや仏塔に供養するとき、こう誓うべきである。『この花は色と香りが殊勝で、見る者を喜ばせる。私が仏となるとき、私の国には様々な素晴らしい花が地一面に咲き、多くの宝の木々が周囲を飾るように。また、香や塗香、衣服や飲食、宝の傘や旗、金銀や瑠璃、真珠や瑪瑙、珊瑚などの宝を捧げるときも、同じように仏の国の功徳ある荘厳を願うべきである。』菩薩は清らかな戒律を保つべきであり、戒律を守る者は、心のままに願いがすべて成就するのである。」
また、舎利子よ。菩薩が自ら楽を受ける時、このように願うのです。「他の者も共に、このような楽を受けることができますように。」と。それゆえ、菩薩が正覚を成就した時、その仏の国にいる生きとし生けるものは、みな一様に安楽を具えているのです。
また、舎利子よ。第三に、菩薩は他者に対して不快な言葉を発せず、常に巧みな言葉を用います。そしてこう誓います。「悟りを得た時、私の仏の国では、生きとし生けるものに不快な声が聞こえることなく、常に心楽しい声が聞こえるようにあれかし」と。
また、舎利子よ。第四に、菩薩は常に生きとし生けるものに十の善い行いを勧め、その善い行いの根をすべての生きとし生けるものと共に、すべてを知る智慧へと向けます。「私が悟りを開いた時には、私の仏の国にいるすべての者が、十の善い行いを完全に身につけることができるように願います」と。
さらに、舎利子よ。第五に、菩薩は至るところで、その目に見えるあらゆる衆生(男、女、子供たち)に対して、無上の正等覚(完全な悟り)を求めるよう皆に勧め、決して二乗(声聞や縁覚)の果を称賛しない。それゆえ、菩薩が悟りを開いたとき、その仏の国に生まれる衆生はすべて、無上の悟りを求める心を起こし、声聞や縁覚の考えを離れる。こうして、菩薩は清らかな仏の国を得、多くの菩薩の集まりがその国に満ちあふれるのである。
さらに、舎利子よ。 第六に、菩薩は他の人の利養を決して妨げず、他の人が利益を得るのを見て常に喜びを生じます。 このゆえに、菩薩が悟りを開くとき、その仏の国にいるすべての生きとし生けるものは、生活に必要な道具が常に絶えることなく、このような大きな法の光を得るのです。
また、舎利子よ。 七つ目。 菩薩は、もし比丘や比丘尼に過ちや犯しがあるのを見ても、決してそれを暴露しません。 ただ自ら正しい教えの中に安んじて住むのです。 それゆえ、菩薩が悟りを得た時、その仏の国には一切、過ちを非難する声がありません。 なぜなら、そこに集う人々は皆、過ちのない清らかな法を得ているからです。
また、舎利子よ。 第八に、菩薩は法を楽しみ、法を求めても、熱悩(心の苦しみ)を生じない。聞いた法を正しく受け止め、修行に励む。 この菩薩が悟りを開く時、その仏の国に生まれる者たちは皆、法を楽しみ、悩み苦しむことなく、聞いたままの教えに従って修行するのである。
また、舎利子よ。菩薩が法螺貝や太鼓、角笛、弦楽器など、様々な音楽を如来やその塔に捧げるとき、その善い行いの根を、仏の浄土の荘厳を成就するための願いに向けます。そのため、菩薩が悟りを得た時、その仏の国では、何百、何千もの音楽が、誰が奏でるでもなく、自然と響き渡るのです。
また、舎利子よ。十番目に、菩薩はもし心が散乱している生きとし生けるものを見たら、こう願うのです。「彼らに正しい心のあり方が与えられますように。」と。 このように願うことで、菩薩が悟りを開いた時、その仏の世界にいるすべての生きとし生けるものは、禅定の喜びを糧として得ることができるのです。
舎利子よ、このように如来の仏国土はあらゆる功徳を備えている。たとえ如来がその弁才を尽くして、一劫の長きにわたり、あるいはそれ以上の長い時間をかけて説こうとも、そのすべてを語り尽くすことはできないのである。舎利子よ、しかし私は今、諸々の菩薩たちの望むところに従って、このように簡潔に説き示す。それによって、より高次の決意を持つ者たちがこれを聞き、その教えに向かって進み、ついには円満な仏国土の功徳を得ることができるのである。
「さらに、舎利子よ。菩薩が三つの法を成就すれば、速やかに無上の正しい悟りを得て、願う仏の国をすべて成就する。その三つの法とは何か。第一に、油断せずに修行を続けること。第二に、聞いた教えの通りに正しく実践すること。第三に、優れた大きな願いを起こすこと。」
舎利子よ、もし菩薩がこの三つの法を成就するならば、速やかに無上の正しい悟りを証し、その望みに従って清らかな仏の国土をすべて円満に成就するであろう。
その時、舎利子が仏に申し上げました。「世尊よ、如来がこの教えを巧みに説かれたことは、まことに稀有なことです。世尊よ、決して怠らずに心を保つことによって、あらゆる悟りへの道が得られます。正しい修行に留まることによって、大いなる悟りが得られ、大いなる誓願が秀でていることによって、仏の国が成就されるのです。」
仏は舎利子に告げられた。「その通り、その通りです。あなたがおっしゃる通り、決して怠らないこと(不放逸)によって悟りに至る教え(菩提分法)が得られ、正しい修行に安住することによって大いなる悟り(大菩提)が得られ、特別で偉大な願いを起こすことによって、清らかな仏の世界(浄仏刹)が完全に荘厳されるのです。
舎利子よ、私(仏)が過去世において、優れた願いに従ったことにより、このような清らかな世界を成就したのです。舎利子よ、私は決して怠らないことに安住することで本来の願いを満たし、正しい修行によって大いなる悟りを得ました。
舎利子よ、もしただ言葉で語るだけで修行しなければ、声聞の境地にすら到達することはできません。ましてや、この上ない悟り(無上菩提)を得ることなど、到底できるものではありません。
それゆえ、舎利子よ、菩薩は真実を目指し、説いた通りに修行し、あらゆる学ぶべきことにおいて、そのように学ぶべきなのです。」
その時、会場にいた四万の菩薩たちが立ち上がり、合掌して仏に向かい、声を揃えて申し上げました。
「世尊よ。仏がお説きになったように、菩薩の学ぶべき道を、私たちはしっかりと学び、怠ることなく修行に励み、大きな願いを成就させ、仏の国を清らかに荘厳いたします。そのような行いを、私たちは実践いたします。また、菩薩たちがそれぞれに願うところがあれば、私たちはそれを叶えさせていただきます。」
その時、世尊は慈しみの微笑みを浮かべられました。 そこで舎利子が仏に申し上げました。 「世尊よ、どのような因縁によってこの微笑みを現されたのでしょうか。」
仏は舎利子に告げられました。「あなたは、これらの善き男性たちが獅子吼を行っているのを見ますか?」
舎利子が申し上げました。「はい、すでに見ました。」
仏陀は言われた。「舎利子よ、これらの善き男たちは、百千劫を経て、それぞれ異なる仏国土にて阿耨多羅三藐三菩提(完全なる悟り)を得る。その名は共に『願荘厳』と号し、未来の師子仏などと同じである。その国土の清らかさは、無量寿如来の仏国土と変わらず、増えも減りもしない。ただ、寿命の長さだけが異なるのである。」
舎利子がお尋ねしました。「あの如来方の寿命の長さは、どれほどなのでしょうか。」
仏は言われた。「それぞれの仏は、みな十劫の寿命を持つ。」
その時、師子勇猛雷音菩薩は立ち上がり、右肩を露わにして右膝を地につけ、合掌して仏に向かい、こう申し上げた。 「世尊よ。この文殊師利童真菩薩は、諸仏・如来が常に称賛されておられます。この文殊師利は、どれほどの時を経て無上菩提を得るのでしょうか。その得られる仏の国土は、いったいどのようなものなのでしょうか。」
仏は獅子勇猛雷音菩薩摩訶薩に告げられた。「善き男子よ。あなたは自ら文殊師利童真菩薩に問いなさい。」
獅子勇猛雷音菩薩が文殊師利菩薩に尋ねました。「あなたは、いつ、この上なく完全な目覚め(阿耨多羅三藐三菩提)を得るのでしょうか?」
答えて言われた。「善男子よ、どうしてあなたは、私がどのようにして無上の悟りに安住しているのかを尋ねないのか。その代わりに、どうして私が悟りを成就したのかを尋ねるのか。なぜなら、私は悟りにすら安住していないのに、どうして私に悟りを証せと言うのか。悟りの法は、安住することもなく、証することもない。それなのに、どうして私に証や安住があるというのか。」
師子勇猛が尋ねた。「文殊師利よ、あなたはすべての生きとし生けるものを利益するために、悟りを求めて修行しているのではないのですか。」
答えて言われた。「いいえ、善男子よ。なぜなら、生きとし生けるものは実体として得られないからです。もし生きとし生けるものが実体として得られるなら、私は彼らのために悟りを證し、悟りに安住するでしょう。しかし、生きとし生けるもの、寿命、そして個我はすべて実体として存在しません。ですから、私は今、悟りに安住することもなく、退転することもないのです。」
師子勇猛が言った。「文殊師利よ、あなたは仏法に安住しているのではありませんか?」
「いいえ、善男子よ。全ての諸法は仏法に住しています。およそあらゆる法は、漏れもなく、際限もなく、形相もなく、姿かたちもありません。それゆえに、仏は「如」に住しています。仏が住するように、すべての諸法もまた、そのようなのです。」
獅子勇猛がさらに言った。「善男子よ。今、あなたが『私は仏法に住していない』と言った。私は今、この意味について問いたい。どうかお許しいただき、私に説いてほしい。」
答えました。「善男子よ、あなたはどう思うか。色(物質的なもの)を求めて菩提(悟り)を得ようとするのか。それとも、色の本質、色の真如(あるがまま)、色の自性(本来の性質)、色の空性(空であること)、色の遠離(執着を離れること)、色の法性(真理の性質)を求めて悟りを得ようとするのか。善男子よ、あなたはどう思うか。もし色そのものが悟りであるならば、色が悟りを証明するだろうか。色の本質、色の真如、色の自性、色の空性、色の遠離、色の法性が、悟りを証明するだろうか。」
答えていわく、「そうではない、文殊師利よ。色は菩提を求めず、菩提には色がなく、本性には色がなく、如如には色がなく、自性には色がなく、空性には色がなく、遠離には色がなく、法性には色がない。それによって菩提を証するのである。さらに広く説けば、色の法性もまた菩提を証することはない。」
文殊師利が言いました。 「善き人よ、あなたはどう思うか。感受作用(受)、表象作用(想)、意志作用(行)、認識作用(識)にさとり(菩提)を求めるのか? 善き人よ、それらの心の働きがさとりを証(あかし)するのか?さらには、認識のはたらきそのものの本質(識法性)がさとりを証するのか?」
答えていう。「いいえ、文殊師利よ。受・想・行・識は菩提を求めもせず、悟りもしません。さらに言えば、識の法性に至るまで、菩提を求めもせず、悟りもしないのです。」
文殊師利(もんじゅしり)が言いました。「善男子(ぜんねんし)よ、どう思いますか?五蘊(ごうん)を離れて、私や私のものと仮に呼べるものがあるでしょうか?」
答えて言う、「いいえ」
文殊師利が言いました。「善男子よ、どのような二つの法によって悟りを証するのですか。」
獅子勇猛が言いました。「文殊師利よ。初めて発心した菩薩たちは、あなたの言葉を聞いて皆驚き恐れ、この言葉を決定的なものと受け止めます。そしてその菩薩たちはこう言うのです——『私は菩提を求めず、菩提を証しない。』と。」
文殊師利が言いました。「善き人よ。すべての諸法には驚きやおそれというものがありません。真理の世界(実際)においても、驚きやおそれはありません。仏は、すでに驚きおそれのない者のために法を説かれます。もし驚きおそれを抱く者があれば、その者は厭う心を生じます。厭う心を生じれば、欲望から離れようとします。欲望から離れれば、解脱します。しかし、解脱したならば、菩提(悟り)はありません。菩提がなければ、それに執着することもありません。執着がなければ、どこへ行くこともありません。行くことがなければ、来ることもありません。来ることがなければ、願い求めることもありません。願い求めることがなければ、求めるものもありません。求めるものがなければ、退くこともありません。退かないのならば、何から退くというのでしょうか。それは『私』という執着から退くのでしょうか。あるいは、生きとし生けるもの、命あるもの、個体(補特伽羅)という見解、あるいは断滅や常住といった見解、そうした取られた相(イメージ)への執着のゆえに、退くのでしょうか。もし退くのだとしても、真に退くものなどないのですから、どのようにして退くと言うのでしょうか。空性、無相、無願、真理(実際)、そして諸々の仏法から退くと言うのでしょうか。いったい、どのような仏法から退くと言うのでしょう。それは、仏法を離れることなく、仏法を究めることもなく、観察するところもなく、出入りすることもなく、行うこともなく、示すこともありません。ただその名があるだけで、空であり、生じも滅びもせず、去ることも来ることもありません。清らかさや汚れを遠く離れ、塵もなく、塵を離れ、平等でも不平等でもありません。心を向けること(作意)を遠く離れ、尽きることも執着もなく、等しいことも等しくないこともありません。これが仏法なのです。善き人よ、すべての仏法も、この法も、そもそも『法』というものではありません。なぜなら、その在り処が得られないからです。もしこのように仏法が説かれた時、新しく発心した菩薩がこの説法を聞いて驚きおそれを抱くならば、速やかに菩提を証するでしょう。しかし、驚きおそれを抱かないならば、菩提を証することはありません。」
獅子勇猛が問うた。「文殊師利よ、どのような意図があって、そのようにお説きになったのですか?」
答えはこうです。「善き人よ。もし恐れを抱く者も、分別を起こす者も、そのすべてが悟りを証するのです。このように発心する者も、発心しない者も、正しい覚りを求める者は皆、悟りを証します。さらに、発心しない者は菩提を得ず、また思惟もしません。その菩提心は実に得るものではなく、分別もありません。もし分別しなければ、正覚を証しません。では、何の因縁によって正覚を証さないのでしょうか?それは菩提を得ず、また菩提を証さないからです。なぜなら、善き人よ、虚空の世界がどうして菩提を証するでしょうか?」
いいえ、違います。
文殊師利は言いました。「善き人よ、如来はあらゆるものが虚空と同じであると説かれなかったでしょうか。」
答えていわく、「その通り、その通りです、文殊師利よ。虚空の如く、菩提もまた然り。菩提の如く、虚空もまた然り。虚空と菩提は二つではなく、別のものではありません。もし菩薩がこの平等を悟るならば、知るところもなく、知らざるところもありません。」
この教えが説かれた時、一万四千の比丘たちはあらゆる煩悩を尽くし、心が悟りの境地に至りました。十二那由多の比丘たちは塵や垢を遠く離れ、諸々の法において清らかな法眼を得ました。九万六千の生きとし生けるものたちは、かつて無上の悟りを求める心を起こしたことがありませんでしたが、今、皆がその心を起こしました。五万の菩薩たちは、無生法忍(すべての存在が生じもせず滅しもせぬと悟る境地)を得ました。
その時、師子勇猛雷音菩薩が文殊師利菩薩に問いかけました。「あなたは、この上ない完全な覚りを求める心(菩提心)を起こしてから、どれほどの時が経ちましたか?」
文殊師利が言いました。 「お待ちなさい、善き方よ。生まれのない真理において、あれこれと分別を起こしてはいけません。 善き方よ、もし『私は菩提心を起こした』『私は悟りのために修行している』と言う人がいるとすれば、その人たちは大きな誤った見解に陥っています。 善き方よ、私は、心が悟りのために起こされたのを見ません。なぜなら、心は捉えどころがないからです。そのため、悟りのために心を起こすことはないのです。」
獅子勇猛が尋ねました。「文殊師利よ、これはどういう意味でしょうか?」
文殊師利は言いました。 「善男子よ。何ものも見ないこと、これを平等と名づけるのです。それは先ほどお話しした通りです。」
師子勇猛が尋ねた。「文殊師利よ、何を『平等』と名づけるのですか?」
「善男子よ。平等とは、様々な相(すがた)がないことである。この平等によって、あらゆる法(ものごと)は一つの味わいであると説く。一つの味わいとは、一つの本性(ほんしょう)を説くことであり、一つの本性とは寂静性(静けさの本質)である。そこには、煩わしい汚れもなく、また清らかさもない。このように説くことは、断(断滅)にも常(常住)にもなく、生にも滅にもなく、我(自己)もなく、執着もなく、取ることも捨てることもない。このように説くとき、説いた後に何も思わず、何も分別しない。善男子よ。この平等なる法の中において、修行の智慧を起こすことを、平等と名づける。さらに、善男子よ。菩薩がこのような法の本性に入るとき、異なるものを見ず、一つのものとも見ない。これを平等と名づける。その平等とは、不平等を離れたものである。不平等の中にあるものも、平等そのものも、もともと清らかなのである。」
その時、獅子勇猛雷音菩薩が仏に申し上げた。「世尊よ、今、文殊師利は自ら、私が無上の悟りを求める心を発してからどれほどの時が経ったのかを語ろうとしません。大衆は皆、それを聞くことを切に望んでおります。」
佛がおっしゃった。「善き男子よ、文殊師利はこの深い忍びの境地に達している。そのため、深い忍びの境地さえも捉えられず、菩提も捉えられず、心もまた捉えられない。心が捉えられないがゆえに、発心の遠近について語ることはないのだ。善き男子よ、あなたはよく聞きなさい。今、私が説こう。文殊師利童真菩薩は、はるか昔から無上正等覚の心を起こしていたのだ。善き男子よ、遠い過去、七十万アサンキヤ百千ガンガーの砂の数の劫を超えた時、その時に雷音如来・応・正等覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊という仏が世に現れた。その仏は東方にあり、ここから七十二那由多の仏の世界を過ぎた所に、無生という世界があった。その雷音如来がそこで法を説き、声聞の衆は八十四コーティ那由多、菩薩の衆はその二倍を超えていた。」
「善き男子よ。その時、虚空という名の王がおりました。彼は七つの宝をすべて備え、四つの天下を治め、正しい法によって世を統べる法輪の王でした。善き男子よ。その虚空王は、雷音如来の説法の集いにおいて、八万四千年の間、様々な楽器や道具、衣服、飲食、宮殿や楼閣、召使いや給仕の者に至るまで、すべてを殊勝に見事に整え、敬意を込めて供養し、雷音如来や菩薩たち、声聞の大衆に仕えました。その王の一族、后宮の女官たち、王子や大臣も皆、ただ供養に専念し、それ以外のことは何も行いませんでした。長い年月が過ぎても、彼らは少しも疲れを見せませんでした。八万四千年の後、その王は一人で過ごし、こう考えました。『私は無量の善根を積んできた。この善根を、いったいどのような願いのために回向しようか。帝釈天となることを求めるべきか。梵天となるべきか。転輪聖王となるべきか。あるいは声聞や縁覚となることを求めるべきか。』 善き男子よ。虚空王がこう考えていると、空中の天人が告げました。『王よ、おやめなさい。そのような卑しい心を起こしてはなりません。なぜなら、王が積まれた福徳の集まりは非常に大きいからです。王よ、無上なる菩提心を起こすべきです。』 善き男子よ。その時、虚空王はこの言葉を聞いて、喜びながらこう言いました。『私は今、このことにおいて決して退かないと誓おう。なぜなら、天人たちが私の心を知って、こう告げてくれたからだ。』」
「善男子よ。その時、虚空王は八十俱胝那由他百千の有情たちと共に、雷音如来のもとへ向かい、その両足に額を触れて礼拝し、右に七回まわってから、静かに横に座りました。また、善男子よ。虚空王は雷音如来に合掌して、次の偈を唱えました。」
『私は最勝の法について問いたい、どうか人尊(世尊)よお説きください。 いかにして最勝を得るのか、丈夫人の中の尊よ。 世尊の前で、私は広大な供養を行いましたが、 心をどこにも執着させず、まだ回向をしたことがありませんでした。 独りで座ってこう思いました―― 「私はすでに広大な福徳を積んだ。いかにしてそれを回向すべきか。 帝釈天や梵天、あるいは転輪聖王を求めるべきか? 声聞や縁覚を求めるべきか?」 そう心に思い巡らせていると、天人が私に告げました。 「もし劣った心を起こせば、その福徳は損なわれてしまいます。 大王よ、勝れた願いを起こし、一切の有情を利益しなさい。 世間を救済するために、菩提心を発すべきです。」 そこで私は、全てを遍く覚った方、諸法に自在な方に問いました。 『いかにしてこの心を発し、等正覚を成就するのですか。 どのような方法でこの境地に至るのか、私に示してください。 牟尼と等しい、菩提の念を発すべき方法を。』 虚空からこの言葉を聞いたので、如来に申し上げました。 『大王よ、あなたは知るべきです。今、私は順を追って説きましょう。 諸法は因縁に属し、楽欲(願い)がその根本です。 人が願うように、得られる果もまた同じです。 私は過去世において、この心を発しました。 一切の有情を利益するために、このような勝れた願いを起こしました。 その勝れた願いによって、勝れた果を得ました。 私は大菩提を証得し、勝れた願いを満たしました。 大王よ、勇猛に、このような心を発すべきです。 この妙行を実践すれば、あなたは必ず正覚を成就するでしょう。』 仏の言葉を聞いて、その大王は大いに喜び、 獅子吼を発すると、世間がすべて震動しました。 『元初の際より、生死の果てに至るまで、 一切の有情を利益し、私は限りない行を実践します。 大衆の前で、私は菩提心を発します。 誓って一切の衆生を救済し、皆を苦しみから離脱させます。 願わくば、今より後、もし私に汚れや、 瞋り、嫉みの心、我慢、貪愛があれば、 それは十方の諸仏と現在の諸仏を欺くことになります。 今より後、菩提を証得するまで、 誓って梵行を実践し、貪欲の罪を捨てます。 仏に従い学び、清浄な戒、柔和、忍辱を実践し、 軽率な心で速やかに正覚を求めません。 私は未来際の尽きるまで、一人ひとりの有情に対して、 仏国土を清め、無量で不可思議な功徳を積み、 その名号を称え、十方の国に広く聞こえさせます。 今、私は自ら授記します。成仏することに疑いはありません。 導師の前で、私は意業を清め、 身業も清め、さらには語業も、 すべてを清らかにし、不善を起こしません。 私の真実の行によって、仏となって世間を利益します。 この誠実な言葉によって、大地は六種に震動すべきです。 もし私の言葉が真実でなければ、四大は互いに入れ替わるでしょう。 言葉が誠実であるゆえに、諸々の音楽が 虚空に自然と奏でられるでしょう。私に偽りがなく、 また煩悩の結使もない、この誠実さによって、 天の妙花を降らせてください。』 偽りのない言葉を語り、 真実の覚醒によって、十方の無量の 俱胝の世界が震動しました。刹那の間に虚空では、 俱胝の音楽が奏でられ、妙なる曼陀羅花が 七つの迷盧山の高さまで降り注ぎました。二十俱胝の人々が、 その王に従って学び、皆、微妙な音声を発しました。 『私たちは成仏するでしょう。』二十俱胝の人々と同様に、 すべての人々もまた、王に学び正覚を求めました。』」
「善き男子よ。その時の虚空王を、他の者と思ってはならない。今の文殊師利童真菩薩こそがその方である。童真菩薩はその時、虚空王であり、七十万アサンキヤ百千ガンジス河の砂の数の劫を過ぎて、初めて菩提心を起こした。さらに六十ガンジス河の砂の数の劫を過ぎて、無生法忍を得た。それ以来、十地を満たし、十力を具え、すべての如来の境地をも満たし、すべての仏法をも満たした。そして、一度たりとも『私は無上正等菩提を証する』という心を起こしたことはなかった。」
また、善き息子よ。その時、あの二十俱胝の人々は、かの王と共に、雷音如来のもとで菩提心を発した者たちであり、皆すでに無上菩提を証得し、不退転の法輪を転じ、無数の有情のために仏事を行い、その仏事を終えた後、仏の涅槃に入って般涅槃したのである。彼らはみな文殊師利によって勧められ発起した者たちであり、布施、戒律、忍辱、精進、禅定、智慧を順に修習し、それぞれの諸仏の教えをことごとく護持した。なお、一仏がこの下方にいる。四つのガンジス川の砂の数ほどの仏土を下ったところに、地という世界があり、仏の名は地天という。その寿命は無量で、今現在も世に存在し、無数の声聞の弟子たちに囲まれている。
さて、文殊師利が過去世に修行していたこの話を聞くと、その場にいた七千の生きとし生けるものたちが、みな最高の正しい悟りを求める菩提心を起こしたのであった。
**巻中**