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般舟三昧経 (般舟三昧經)


行品第二

行品第二

佛告颰陀和菩薩:「若有菩薩所念現在定意向十方佛,若有定意,一切得菩薩高行。

仏は跋陀和菩薩に告げられた。「もし菩薩が、心を定めて十方の諸仏を念じるならば、その定意によって、一切の菩薩は高き行いを得るであろう。」

「何等為定意?從念佛因緣,向佛念,意不亂,從得黠,不捨精進。與善知識共行空——除睡眠不聚會——避惡知識,近善知識,不亂精進。飯知足、不貪衣、不惜壽命,孓身避親屬、離鄉里,習等意、得悲意,心護行,棄蓋習禪。不隨色、不受陰、不入衰,不念四大、不失意、不貪性,解不淨。不捨十方人、活十方人,十方人計為是我所、十方人計為非我所。一切欲受,不貿戒,習空行,欲諷經。不中犯戒、不失定意、不疑法、不諍佛、不却法、不亂比丘僧。離妄語,助道德家,避癡人世間語,不喜不欲。

「定意とは何か。それは、仏を念じる因縁によって、仏に向かう念を起こし、心が乱れないことである。そこから智慧が得られ、精進を怠らない。善き知識と共に空の行を実践し、睡眠を除き、集まりを避け、悪しき知識を遠ざけ、善き知識に近づき、乱れのない精進を行う。食事は知足し、衣服に貪らず、寿命を惜しまず、独りで身を処して親類を避け、郷里を離れ、平等の心を習い、慈悲の心を得て、心を守って行動し、五蓋(ごがい)を捨てて禅定を習う。色に随わず、五蘊を受け入れず、十二処に入らず、四大を念じず、心を失わず、性に貪らず、不浄を観じて解する。十方の人々を捨てず、十方の人々を生かし、十方の人々を我がものと思わず、十方の人々を我がものにあらずと思わない。一切の欲望を受けても、戒を売らず、空の行を習い、経典を誦することを願う。戒を犯さず、定意を失わず、法に疑念を持たず、仏を争わず、法を拒まず、比丘僧を乱さない。妄語を離れ、道徳の家を助け、愚かな人の世間話を避け、それを好まず喜ばない。」

「聞道語,具欲聞亦喜。從因緣畜生生,不欲聞六味。習為五習,為離十惡;為習十善,為曉九惱;行八精進、捨八懈怠,為習八便;為習九思,八道家念。又不著禪聞,不貢高、棄自大,聽說法、欲聞經、欲行法,不隨歲計、不受身想。離十方人,不欲受、不貪壽,為了陰不隨惑,為不隨所有求無為。不欲生死、大畏生死,計陰如賊、計四大如蛇,十二衰計空。久在三界不安隱,莫忘得無為。不欲貪欲,願棄生死;不隨人諍,不欲墮生死。

仏の教えを聞こうとする人は、よく聞こうと欲し、また喜ぶ。因縁によって生類は生まれ、六味(六境の味わい)を聞こうと欲しない。五つの習いを修め、十の悪を離れるために、十の善を習い、九の惱りを曉る。八の精進を行じ、八の懈怠を捨て、八の便(方策)を習う。九の思惟を習い、八の道の家の念を修める。また、禪定や経典の聞法に執著せず、高ぶらず、おごりを捨てて、説法を聞き、経典を聞こうと欲し、法を行じようと欲する。年數によって計らず、身體の想いを受けない。十方の人々を離れ、受けようと欲せず、壽命を貪らない。五陰を明了するために、惑いに隨わず、所有に隨って無為を求めない。生死を欲せず、生死を大いに畏れ、五陰を賊のように計り、四大を蛇のように計り、十二衰(十二入)を空のように計る。長く三界に安穏ならず、無為を得ることを忘れてはならない。貪欲を欲せず、生死を捨てようと願う。人と爭わず、生死に墮ちようと欲しない。

「常立佛前,受身計如夢。以受信不復疑,意無有異,一切滅思想——過去事、未來事、今現在事等意。

常に仏の前に立ち、この身を受けることを夢のごとく観じます。その信を受けて、再び疑うことなく、心に異なる思いはありません。一切の想念を滅し——過去の事、未来の事、現在の事をすべて等しく見極めるのです。

「常念諸佛功德,自歸為依佛,定意得自在,不隨佛身相法。一切一計不與天下諍,所作不諍,從因緣生受了。從佛地度,得可法中,法中得下,以了空意計人,亦不有、亦不滅。自證無為,𭶑眼以淨,一切不二覺,意不在中邊。一切佛為一念入,無有疑𭶑、無有能呵。自得曉覺意故,佛𭶑不從他人待。得善知識計如佛,無有異意。一切在菩薩,無有離時,縱一切魔不能動;一切人如鏡中像,見一切佛如晝;一切從法行,為入清淨菩薩行如是。」

常に諸仏の功徳を念じ、自ら帰依し仏を依りどころとし、心を定めて自在を得れば、仏の姿形に執着することはない。一切を一つの計らいとして、世の中と争わず、為すことに争いなく、因縁より生じてこれを受ける。仏の境地より度して、法にかなうものを得、法の中にて下位を得れば、空の義を以て人を計るも、有ることもなく、滅することもない。自ら無為を証し、慧眼は清らかにして、一切は不二と覚るも、心は辺中に在らず。一切の仏は一念として入り、疑いもなく非難する者もなし。自ら覚りの意を得たるゆえ、仏の智慧は他を待たずして得る。善知識を得て仏と見なすこと、異なる心なし。一切が菩薩の内に在りて、離れる時なく、いかなる魔も動かすこと能わず。一切の人を鏡中の影像の如く見、一切の仏を見ること昼の如し。一切は法に従い行ずる、清浄なる菩薩の行に入るとは、かくの如し。

佛言:「持是行法故致三昧,便得三昧現在諸佛悉在前立。何因致現在諸佛悉在前立三昧?如是,颰陀和!其有比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷,持戒完具,獨一處止,心念西方阿彌陀佛今現在。隨所聞,當念去是間千億萬佛剎,其國名須摩提,在眾菩薩中央說經,一切常念阿彌陀佛。」

仏がおっしゃいました。「この修行の法を実践するがゆえに三昧を得て、その三昧を得れば、現在の諸仏がすべて目の前に立たれるのです。どのような原因によって、現在の諸仏がすべて目の前に立たれる三昧を得るのでしょうか。颰陀和よ、次のとおりです。比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷がいて、持戒を完全に守り、ただ一人静かな場所に止まり、心に西方の阿弥陀仏が今まさに現れていると念じます。聞いたとおりにしたがって、ここから千億万の仏の国土を離れたところに、その国は須摩提と名づけられ、多くの菩薩の中央で経を説いておられると念じるべきです。すべての者は常に阿弥陀仏を念じます。」

佛告颰陀和:「譬如人臥出於夢中,見所有金銀、珍寶、父母、兄弟、妻子、親屬、知識,相與娛樂,喜樂無輩。其覺已為人說之,後自淚出,念夢中所見。如是,颰陀和!菩薩若沙門白衣所聞西方阿彌陀佛剎,當念彼方佛,不得缺戒,一心念——若一晝夜、若七日七夜——過七日以後見阿彌陀佛,於覺不見,於夢中見之。譬如人夢中所見,不知晝、不知夜,亦不知內、不知外,不用在冥中故不見、不用有所蔽礙故不見。

仏陀は跋陀和に告げられた。「例えば、ある人が眠りから覚めた夢の中で、金銀や珍宝、父母、兄弟、妻子、親族、知人を見て、共に楽しみ、この上ない喜びを味わうことがある。その人が目覚めた後、人々にそのことを語り、後に涙を流して夢の中で見たものを懐かしむ。このように、跋陀和よ!菩薩や沙門、在家の者が、西方の阿弥陀仏の浄土について聞いたならば、その方角の仏を念じ、戒律を欠くことなく、一心に念じなさい——もし一昼夜、あるいは七日七夜——七日の後に阿弥陀仏を見る。覚醒時には見えず、夢の中で見える。例えば、人が夢の中で見るものは、昼も夜も知らず、内も外も知らず、暗闇の中にいるから見えないのでもなく、何か妨げがあるから見えないのでもない。」

「如是,颰陀和!菩薩心當作是念。

「そのとおりです、跋陀和よ。菩薩は心にこのように念じるべきです。

「時諸佛國界名大山須彌山,其有幽冥之處悉為開闢,目亦不蔽、心亦不礙。是菩薩摩訶薩,不持天眼徹視、不持天耳徹聽、不持神足到其佛剎、不於是間終生彼間佛剎乃見,便於是間坐見阿彌陀佛,聞所說經悉受得,從三昧中悉能具足,為人說之。

その時、諸仏の国土や大山・須弥山といった世界が現れ、暗く陰鬱な場所もすべて開かれ、目も遮られることなく、心も妨げられることはなかった。この菩薩摩訶薩は、天眼を使って透視することも、天耳を使って遠くの音を聞くことも、神通力によって仏の浄土に赴くことも、この世で命を終えてからあの仏の国土に生まれ変わって見ることもない。ただ、この場に座したまま阿弥陀仏を拝見し、その説かれる経をすべて聴き受ける。そして三昧の中から、そのすべてを完全に体得し、人々に説き示すことができるのである。

「譬若有人聞墮舍利國中有婬女人名須門,若復有人聞婬女人阿凡和梨,若復有人聞優陂洹作婬女人。是時各各思念之。其人未曾見此三女人,聞之婬意即為動,便於夢中各往到其所。是時三人皆在羅閱祇國同時念,各於夢中到是婬女人所與共棲宿,其覺已各自念之。」

例えば、ある人が墮舍利國(ヴァイシャーリー)という国に、スメーナという淫らな女がいると聞いたとします。また、別の人はアヴァンタリという淫らな女の話を聞き、また別の人はウパヴァナという淫らな女の話を聞きました。そのとき、それぞれの人が彼女たちのことを思い思いに想像しました。その三人は実際にこれらの三人の女を見たことがなかったにもかかわらず、その話を聞いて欲情が湧き、夢の中でそれぞれ彼女たちのところへ行きました。さて、この三人はみな同時に羅閲祇國(ラージャグリハ)という国にいて、それぞれ夢の中でその淫らな女のもとに行き、一夜を共に過ごしました。そして目が覚めてから、それぞれが自分の経験を思い返したのです。

佛告颰陀和:「我持三人以付,若持是事為人說經,使解此慧至不退轉地得無上正真道,然後得佛號曰善覺。如是,颰陀和!菩薩於是間國土聞阿彌陀佛,數數念,用是念故見阿彌陀佛。見佛已從問:『當持何等法生阿彌陀佛國?』爾時,阿彌陀佛語是菩薩言:『欲來生我國者,常念我,數數常當守念,莫有休息,如是得來生我國。』」

仏陀が跋陀和に告げられた。 「私は三人の人々をあなたに託します。彼らのために経典を説き、智慧を理解させ、退くことのない境地である無上正等正覚に至らせなさい。そうすれば、後に仏となり、その名を善覚というのです。 跋陀和よ、このようにして、菩薩はこの国土で阿弥陀仏の名を聞き、繰り返し念じます。その念じる力によって、阿弥陀仏を見ることができるのです。仏を見たならば、こう尋ねなさい。『どのような教えを実践すれば阿弥陀仏の国に生まれることができますか?』その時、阿弥陀仏はこの菩薩に告げられるでしょう。 『我が国に生まれたいと願うならば、常に私を念じ、繰り返し心に留め、休むことなく守り続けなさい。そうすれば、我が国に生まれることができるのです。』」

佛言:「是菩薩用是念佛故,當得生阿彌陀佛國。常當念如是佛身有三十二相悉具足,光明徹照,端正無比。在比丘僧中說經,說經不壞敗色。何等為不壞敗色?痛痒、思想,生死、識、魂神,地、水、火、風,世間、天上——上至梵摩訶梵——不壞敗色。用念佛故得空三昧,如是為念佛。」

仏はおっしゃいました。「この菩薩はこの念佛の功徳によって、阿弥陀仏の国に生まれることができます。常に、その仏の身には三十二の相がすべて備わり、光明はすべてを照らし、端正で比類がないと念じるべきです。比丘僧の中で経を説かれ、経を説いても色を壊すことはありません。何が色を壊さないことなのでしょうか。痛痒、思想、生死、識、魂神、地、水、火、風、世間、天上——上は梵摩訶梵に至るまで——色を壊すことはありません。念佛のゆえに空三昧を得るのです。これが念佛であります。」

佛告颰陀和:「菩薩於三昧中誰當證者?我弟子摩訶迦葉、因坻達菩薩、須真天子及時知是三昧者,有行得是三昧者是為證。何等為證?證是三昧知為空定。」

仏は跋陀和に告げられた。「菩薩が三昧に入るとき、誰がその証を得るのか?私の弟子である大迦葉、因坻達菩薩、須真天子、そしてこの三昧を悟る者たち、また修行してこの三昧を成就した者たちこそが証を得るのである。何をもって証とするのか?この三昧を証することは、空の定を悟ることである。」

佛告颰陀和:「乃往去時有佛名須波日。時有人行出入大空澤中,不得飲食,飢渴而臥出,便於夢中得香甘美食,飲食已。其覺腹中空,自念:『一切所有皆如夢耶?』」

仏は跋陀和に告げられた。「昔、須波日という名の仏がおられた時、ある人が大きな荒野を旅していました。食べ物も飲み物も得られず、飢えと渇きに襲われて倒れ込んでしまいました。すると夢の中で、香り高く甘いごちそうに出会い、それを味わいました。ところが目を覚ますと、お腹は空っぽのままでした。そこで彼はこう思いました。『すべてのものは、夢と同じなのだろうか?』」

佛言:「其人用念空故,便逮得無所從生法樂,即逮得阿惟越致。如是,颰陀和!菩薩其所向方聞現在佛,常念所向方,欲見佛即念佛,不當念有,亦無我所立。如想空當念佛立,如以珍寶倚琉璃上,菩薩如是見十方無央數佛清淨。譬如人遠出到他郡國,念本鄉里、家室、親屬、財產。其人於夢中歸到故鄉里,見家室、親屬,喜共言語。於夢中見以,覺為知識說之:『我歸到故鄉里,見我家室親屬。』」

仏陀がおっしゃった。「その人は『念(おも)いが空(くう)である』と用いるゆえに、『生ずる所なき法の楽しみ(無生法忍)』を即座に得て、『退くことなき位(阿惟越致)』に至る。かくの如く、颰陀和(はっだわ)よ、菩薩はその向かう方角に、現在の仏がおわすと聞けば、常にその方角を念じ、仏を見たいと願って仏を念ずる。しかし『有る』とも念じず、『我がもの』と立ててはならない。想念が空なるが如く、仏を立てて念じなさい。あたかも珍宝を瑠璃(るり)の上に置くように、菩薩はかくの如く十方の無数の仏を清らかに見る。例えば、人が遠く他国へ出かけ、故郷や家、親族、財産を思うとする。その人は夢の中で故郷に帰り、家族や親族に会い、喜んで語り合う。夢の中で見た後、目覚めて知人に語って言う『私は故郷に帰り、私の家族や親族に会った』と。」

佛言:「菩薩如是其所向方聞佛名,常念所向方欲見佛,菩薩一切見佛,如持珍寶著琉璃上。譬如比丘觀死人骨著前,有觀青時、有觀白時、有觀赤時、有觀黑時。其骨無有持來者、亦無有是骨、亦無所從來,是意所作想有耳。菩薩如是持佛威神力於三昧中立,在所欲見何方佛,欲見即見。何以故如是?颰陀和!是三昧佛力所成。持佛威神於三昧中立者有三事:持佛威神力、持佛三昧力、持本功德力,用是三事故得見佛。譬若,颰陀和!年少之人端正姝好,莊嚴已,如持淨器盛好麻油、如持好器盛淨水、如新磨鏡、如無瑕水精,欲自見影,於是自照悉自見影。云何,颰陀和!其所麻油、水鏡、水精,其人自照,寧有影從外入中不?」

仏陀は言われた。「菩薩は、このように向かう方角の仏の御名を聞けば、常にその方角を念じて仏に遭いたいと願う。菩薩はすべての仏を見ることができる。それは、まるで宝玉を琉璃の上に置くようなものである。例えば、比丘が死者の骨を前に観じる時、青く観じる時もあれば、白く観じる時もあり、赤く観じる時もあれば、黒く観じる時もある。その骨は、誰かが持ってきたものではなく、そもそもそのような骨が実在するわけでもなく、どこからか来たものでもない。ただ心が作り出した想念に過ぎないのである。菩薩もこのように、仏の威神力によって三昧の中に立ち、見たいと思う方角の仏が、見ようとすれば即座に見えるのである。なぜ、そうなるのか。颰陀和よ、この三昧は仏の力によって成就するものだからである。仏の威神力によって三昧の中に立つ者には、三つの働きがある。すなわち、仏の威神力、仏の三昧力、そして自身の根本の功徳力である。この三つの働きによって、仏を見ることができるのである。譬えば、颰陀和よ、若者が端正で美しく装いを整えたとしよう。そして、清らかな器に良質の胡麻油を入れたり、清らかな器に清水を満たしたり、新しく磨いた鏡や、曇りのない水晶を用いて、自分の姿を映そうとする。これらのものに自らを映せば、その全てに自分の姿が映る。さて、颰陀和よ、その胡麻油、水、鏡、水晶に、自分を映す者が自らを照らす時、その映る姿は、外から中に入ってくるものだろうか?」

颰陀和言:「不也。天中天!用麻油、水精、水鏡淨潔故,自見其影耳。其影亦不從中出、亦不從外入。」

跋陀和が申し上げました。「いいえ、天中天様。それは胡麻油や水晶、水、鏡が清らかで澄んでいるから、自分の姿が映るのです。その影は中から出てくるのでもなく、外から入ってくるのでもありません。」

佛言:「善哉善哉!颰陀和!如是,颰陀和!色清淨,所有者清淨,欲見佛即見。見即問,問即報,聞經大歡喜,作是念:『佛從何所來?我為到何所?』自念:『佛無所從來,我亦無所至。』自念:『三處——欲處、色處、無想處——是三處意所為耳。我所念即見,心作佛、心自見,心是佛、心是怛薩阿竭,心是我身,心見佛,心不自知心、心不自見心,心有想為癡、心無想是泥洹。是法無可樂者,皆念所為,設使念為空耳,設有念者亦了無所有。』如是,颰陀和!菩薩在三昧中立者所見如是。」

仏が言われた。「善いかな、善いかな、跋陀和よ。その通りである、跋陀和よ。色が清らかであれば、すべてのものが清らかであり、仏を見たいと思えば、そのまま見える。見えれば問い、問えば答えが返り、経を聞いて大いに喜び、こう思う。『仏はどこから来られたのだろうか。私はどこへ行くのだろうか。』と。そして自ら思う。『仏はどこからも来られたのではなく、私もどこへも行くのではない。』と。また思う。『三つの領域――欲望の領域、形ある領域、無想の領域――この三つは、ただ心が作り出したものに過ぎない。私が思うことによって見えるのであり、心が仏を作り、心が自らを見る。心こそが仏であり、心こそが如来であり、心こそが我が身であり、心が仏を見る。しかし心は自らを知らず、心は自らを見ない。心に思いがあれば迷いであり、心に思いがなければ涅槃である。この教えには楽しむべきものは何もなく、すべては思いが作り出すものである。もし思いが空虚であるとすれば、思いがあったとしても、それもまた何ものでもない。』と。このように、跋陀和よ!菩薩が三昧のうちに立つ者は、このようなものを見るのである。」

佛爾時頌偈曰:

その時、仏は次のように偈を説かれた。

「心者不知心, 有心不見心,
心起想則癡, 無想是泥洹。
是法無堅固, 常立在於念,
以解見空者, 一切無想念。

心は心を知らず、 心があっても心を見ることはできません。 心に想いが生じれば迷いが生じ、 想いがなければ涅槃に達します。

この教えは決して堅固なものではなく、 常に自らの気づきの上に立っています。 空を理解し見極めた者は、 すべての想いを超えているのです。


1 問事品
3 四事品

CBETA コード: T0418

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