戒壇立名顯號第二
戒壇の名と号を明らかにする 第二
律論所顯,「場」、「壇」兩別,西天諸國皆立別儀,此土中原素未行事,不足怪也。今定其名實,或有異議。案《僧傳》云:「宋文帝元嘉中,聖僧功德鎧者,遊化建業,於南林寺前園中立戒壇,令受戒者登壇於上受也。及其終後,又於壇上而闍維之。」餘如下引。又翻《十誦律》主卑摩羅叉,答《五百問》,於慧觀法師亦云:「壇上師僧為他受戒。」餘文廣有,不復敘之。故知,「壇」名其來久矣。今人不識,混而雷同,平場、高壇莫分二別。誤哉!
律と論によって示されるところでは、「場」と「壇」は二つに区別され、西天の諸国ではみな別の儀式を立てていますが、この地の中原ではもともと行われてこなかったので、不思議に思うには及びません。今、その名と実を定めるにあたって、異議があるかもしれません。『僧伝』を調べますと、こうあります。「宋の文帝の元嘉年間、聖僧の功徳鎧という者が建業を遊化し、南林寺の前の園の中に戒壇を立て、受戒する者を壇の上に登らせて受戒させた。その没後、また壇の上で火葬にした。」残りは下に引く通りです。また『十誦律』を翻訳した主の卑摩羅叉は、『五百問』に答えて、慧観法師に対してもこう言っています。「壇の上の師僧が他のために受戒する。」その他の文にも広く見えますが、ここでは重ねて述べません。ですから、「壇」という名はその由来が久しいことがわかります。今の人はこれを知らず、混同して一律に同じものとし、平らな場と高い壇の二つの区別を分かっていません。誤りです。
案《別傳》云:「佛涅槃後,迦葉結集來戒壇上,使小目連鳴鐘,召百億四天下凡聖僧眾。普集壇已,白四羯磨,罰賓頭盧及阿難罪竟,令阿難披佛僧伽梨上座,先誦《遺教經》,如佛約勅,諸大菩薩及阿羅漢、天龍八部皆大悲泣。大迦葉從座而起,披麁布僧伽梨,捉尼師壇,至阿難前,敷尼師壇,禮阿難已,右繞三匝;大梵天王執大寶蓋覆阿難上,忉利天主進七寶案置阿難前,魔王波旬將七寶拂授與阿難,魔王、帝釋夾侍兩邊,四天王立侍高座四脚,三十二使者隨迦葉後互跪。迦葉禮拜已,至阿難前,問訊起居,如世尊在時不異。迦葉爾時作三千八百問諸有疑事,阿難一一答之。」今略取戒壇一問,餘者闕之。大迦葉問曰:「汝隨如來二十年來,戒壇高下、闊狹,依何肘量?戒壇上中安舍利不?戒壇四面用何物砌?四面開階、方別多少?繞壇四面,作何形像?無石國中,土沙作不?」阿難一如此卷中圖相而用答之。
『別伝』に次のようにあります。「仏が涅槃に入られた後、迦葉が結集のために戒壇に上り、小目連に鐘を鳴らさせ、百億の四天下の凡僧・聖僧の集まりを召し集めました。すべてが戒壇に集まると、四羯磨を白して、賓頭盧と阿難の罪を罰することを終え、阿難に仏の僧伽梨を着せて上座に座らせ、まず『遺教経』を誦させました。仏の教えのままに、諸大菩薩や阿羅漢、天龍八部はみな大いに悲しみ泣きました。大迦葉は座から立ち上がり、粗い布の僧伽梨を着て尼師壇を持ち、阿難の前へ行き、尼師壇を敷き、阿難に礼をしてから、右に三匝巡りました。大梵天王は大きな宝蓋を執って阿難の上を覆い、忉利天主は七宝の案を進めて阿難の前に置き、魔王波旬は七宝の払子を阿難に授けました。魔王と帝釈は両側に侍し、四天王は高座の四脚のそばに立って侍し、三十二の使者は迦葉の後ろに従って互いに跪きました。迦葉は礼拝を終えると、阿難の前へ行き、起居を問い訊ねました。世尊が在世のときと少しも変わりませんでした。迦葉はそのとき、三千八百の問いをなし、疑わしい事柄を尋ね、阿難は一つ一つそれに答えました。」ここでは戒壇についての一問だけを略して取り上げ、残りは省きます。大迦葉が問うて言いました。「そなたは如来に二十年従ってきた。戒壇の高さや広さは、何の肘量に基づくのか。戒壇の上の中ほどに舎利を安置するのか。戒壇の四面は何で砌るのか。四面に開く階は、それぞれいくつあるのか。壇の四面を巡って、どのような形像を造るのか。石のない国では、土や砂で造るのか。」阿難はこの巻の図相のとおりに答えたのです。
初祇桓戒壇,北有鐘臺,高四百尺,上有金鐘,重十萬斤,莊嚴希有;下有九龍盤像,龍口吐八功德水。時欲受戒人至場壇所,龍便吐水灌頂,如轉輪王陞壇受位灌頂之相。故初受戒人,如佛法王受法王位,有摩尼珠光,觸受戒人得清涼樂,又表受人戒珠清淨。若諸聖人受戒之時,得通菩薩擊鐘,聲震三千世界,有聞證果,惡趣停息。凡夫受時,使摩抵比丘擊之,聲聞小千世界,此比丘有力當十萬人。其鐘臺如須彌山形,在大池中,九龍出頭,搆結盤住,諸梁柱等安龍頭上,並黃金作之。屋瓦用頗梨寶,若有受者登壇,諸龍即轉,口出香雨香雲,覆灑壇上。池之四邊砌以白玉,底布銀沙,水色清淨,甘如乳蜜。諸持戒人有疾飲者,無不除差;破戒若飲,如吞鐵汁。佛欲涅槃,水先枯竭,屋瓦飛去;迦葉結集,阿難答時,屋瓦還來,池還出水,色白如乳,然無乳味,以表滅後正法隨滅,展轉無味,如《涅槃經》加水乳譬,可以準也。結集問事都了,僧向王城,大鐘寶臺飛上兜率,池玉、銀沙龍王收去,水亦枯竭。今有其地,相狀都無,迷其初緣,合興壇位,故廣敘之。
初めの祇桓の戒壇の北には鐘台があり、高さは四百尺で、その上に金の鐘があり、重さは十万斤で、荘厳は希有でした。その下には九龍が盤のようにとぐろを巻いた像があり、龍の口から八功徳水を吐き出していました。時に受戒しようとする人が壇の場に来ると、龍はただちに水を吐いて頭に灌ぎました。それは転輪王が壇に昇って位を受け灌頂される姿のようでした。それゆえ初めて戒を受ける人は、仏法の王が法王の位を受けるように、摩尼珠の光に触れて清涼の楽を得ました。またそれは、戒を受ける人の戒珠が清浄であることを表していました。聖人たちが受戒する時には、神通を得た菩薩が鐘を撞き、その音は三千世界に震え響き、これを聞いた者は証果し、悪趣は止息しました。凡夫が受ける時には、摩抵比丘に撞かせ、その音は小千世界に聞こえました。この比丘の力は十万人に匹敵しました。その鐘台は須弥山のような形で、大きな池の中にあり、九龍が頭を出して組み合いとぐろを巻いて住み、諸々の梁や柱などは龍の頭の上に据えられ、すべて黄金で作られていました。屋根瓦には頗梨宝が用いられていました。もし受戒する者が壇に登ると、諸龍はただちに回り、口から香の雨や香の雲を出して壇の上に降り注ぎました。池の四辺は白玉で築かれ、底には銀の沙が敷かれ、水の色は清浄で、甘いこと乳や蜜のようでした。諸々の持戒の人で病があり飲む者は、癒えない者はありませんでした。破戒の者がもし飲めば、鉄の汁を飲むようでした。仏が涅槃に入ろうとされた時、水はまず枯れ果て、屋根瓦は飛び去りました。迦葉が結集し、阿難が答えた時、屋根瓦は還って来て、池もまた水を出し、色は白く乳のようでしたが、乳の味はありませんでした。これは滅度の後、正法がそれに従って滅び、次第に味を失っていくことを表しています。『涅槃経』の水に乳を加える譬えを、これに準じて理解することができます。結集の問答がすべて終わると、僧たちが王城へ向かうと、大鐘の宝台は兜率天へ飛び上り、池の玉と銀の沙は龍王が収め去り、水もまた枯れ果てました。今はその地はありますが、その姿はすっかりなく、初めの由来も分からなくなっています。壇の位置を興すべきですので、ここに広く述べました。
「壇」之立名在佛世矣!此土現有群經律論,咸明王城兩處結集之相,然出沒差互不同,不妨阿難陞座為結法之元匠也!但存迦葉所問,阿難相同佛形,比丘咸疑是佛也!聽說「我聞」便息。如今所傳,達通悟者,不見此土,結法相者,尚自不知,況今所出,有不信者,固其常爾。自佛滅後至於正、像,結集之相,乃有多塗。初五百人,次千人,次大眾,次育王,次七百,且列五條,餘非不有,上並小乘。至於大乘,阿難、迦葉在王城廣結集,文殊師利與大菩薩,在鐵圍山略結集,並如此土諸經所說。
「壇」という名が立てられたのは、仏在世のときのことです。この地には現在、多くの経・律・論があり、いずれも王城における二か所の結集のありさまを明かしています。しかし、それらの出没は互いに食い違って一様ではありません。それでも阿難が座に昇って結集の法を司る中心となったことは差し支えありません。ただ迦葉の問いが残されており、阿難の姿が仏と似ていたため、比丘たちは皆、仏ではないかと疑いました。しかし「我聞」と聞くや否や、その疑いは収まりました。今伝えられているものについて、達通悟した者でさえ、この地で結集の法をなしたありさまを見ておらず、結集のありさまを記した者もなお自ら知らないのですから、まして今出てきたものに対して信じない者があるのは、もとより当然のことです。仏が滅してから正法・像法の時代に至るまで、結集のありさまには多くの道筋があります。初めの五百人、次いで千人、次いで大衆、次いで育王、次いで七百人と、まず五つの条を挙げますが、その他がないわけではありません。以上はいずれも小乗です。大乗に至っては、阿難と迦葉が王城で広く結集し、文殊師利と大菩薩たちが鉄囲山で略して結集したと、いずれもこの地の諸経が説くところです。