ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 六祖大師法宝壇経 (六祖大師法寶壇經)
  2. 六祖大師法宝壇経賛 (六祖大師法寶壇經贊)
←と→
矢印キーでページをめくれます

六祖大師法宝壇経 (六祖大師法寶壇經)


六祖大師法寶壇經贊

六祖大師法寶壇経賛

宋明教大師契嵩撰

宋の明教大師契嵩撰

贊者告也,發經而溥告也。壇經者,至人之所以宣其心也(至人謂六祖篇內同)。何心邪?佛所傳之妙心也。大哉心乎!資始變化,而清淨常若,凡然聖然幽然顯然,無所處而不自得之,聖言乎明,凡言乎昧,昧也者變也。明也者復也。變復雖殊而妙心一也。始釋迦文佛,以是而傳之大龜氏,大龜氏相傳之三十三世者,傳諸大鑒(六祖諡號大鑒禪師),大鑒傳之而益傳也。說之者抑亦多端,固有名同而實異者也,固有義多而心一者也。曰血肉心者,曰緣慮心者,曰集起心者,曰堅實心者,若心所之心益多也,是所謂名同而實異者也。曰真如心者,曰生滅心者,曰煩惱心者,曰菩提心者,諸修多羅其類此者,殆不可勝數,是所謂義多而心一者也。義有覺義、有不覺義,心有真心、有妄心,皆所以別其正心也。方《壇經》之所謂心者,亦義之覺義,心之實心也。

「賛」とは告げることであり、経典を開示して広く告げ知らせることです。『壇経』とは、至人が自らの心を宣べ伝えるために記したものです(至人とは六祖を指す。篇内同じ)。いかなる心でしょうか?仏より伝えられた妙なる心です。なんと大いなる心でしょうか!万物の始まりを支え変化をもたらしながら、清らかで澄みきり、常に変わらない。凡夫の心も聖者の心も、幽玄な心も顕現した心も、いずれもこの心から自ずと得られるのです。聖者の言葉は明るく、凡夫の言葉は暗い。暗いとは変化の状態をいい、明るいとは本来の状態に復することをいいます。変化と復元は異なれど、妙なる心は一つです。かつて釈迦文仏よりこの心が大迦葉に伝えられ、大迦葉より三十三世を経て、大鑒(六祖の諡号は大鑒禅師)に伝えられました。大鑒よりさらに伝えられて今日に至ります。この心についての説き方は様々で、名は同じでも実質が異なるものもあれば、表現は多様でも心は一つであるものもあります。血肉の心、縁慮の心、集起の心、堅実の心など、心に関わる言葉はさらに多く、これが名は同じでも実質が異なる例です。真如の心、生滅の心、煩悩の心、菩提の心など、経典に説かれる類いは数えきれず、これが表現は多様でも心は一つである例です。教えには覚りの義と無明の義があり、心には真実の心と妄りの心があります。いずれも正しい心を見分けるためのものです。さて『壇経』でいう心とは、覚りの義にかなう真実の心なのです。

昔者聖人之將隱也,乃命乎龜氏教外以傳法之要意,其人滯迹而忘返,固欲後世者提本而正末也。故《涅槃》曰:「我有無上正法,悉已付囑摩訶迦葉矣。」天之道存乎易,地之道存乎簡,聖人之道存乎要,要也者,至妙之謂也。聖人之道以要,則為法界門之樞機,為無量義之所會,為大乘之椎輪,《法華》豈不曰:「當知是妙法諸佛之祕要」,《華嚴》豈不曰:「以少方便疾成菩提」,要乎其於聖人之道,利而大矣哉。是故《壇經》之宗,尊其心要也。心乎若明若冥,若空若靈,若寂若惺,有物乎?無物乎?謂之一物,固彌於萬物;謂之萬物,固統於一物;一物猶萬物也,萬物猶一物也,此謂可思議也。及其不可思也,不可議也,天下謂之玄解,謂之神會,謂之絕待,謂之默體,謂之冥通,一皆離之遣之,遣之又遣,亦烏能至之微,其果然獨得與夫至人之相似者,孰能諒乎!推而廣之,則無往不可也;探而裁之,則無所不當也。施於證性,則所見至親;施於修心,則所詣至正;施於崇德辯惑,則真妄易顯;施於出世,則佛道速成;施於救世,則塵勞易歇。此壇經之宗,所以旁行天下而不厭,彼謂即心即佛。淺者何其不知量也,以折錐探地而淺地,以屋漏窺天而小天,豈天地之然邪?然百家者,雖苟勝之,弗如也。而至人通而貫之,合乎群經,斷可見矣。至人變而通之,非預名字不可測也,故其顯說之,有倫有義,密說之,無首無尾。天機利者得其深,天機鈍者得其淺,可擬乎?可議乎?不得已況之,則圓頓教也,最上乘也,如來之清淨禪也,菩薩藏之正宗也。論者謂之玄學,不亦詳乎?天下謂之宗門,不亦宜乎?《壇經》曰定慧為本者,趣道之始也。定也者,靜也。慧也者,明也。明以觀之,靜以安之,安其心可以體心也,觀其道可以語道也。一行三昧者,法界一相之謂也。謂萬善雖殊,皆正於一行者也。無相為體者,尊大戒也。「無念為宗」者,尊大定也。無住為本者,尊大慧也。夫戒定慧者,三乘之達道也。夫妙心者,戒定慧之大資也。以一妙心而統乎三法,故曰大也。無相戒者,戒其必正覺也。「四弘願」者,願度度苦也,願斷斷集也,願學學道也,願成成寂滅也。滅無所滅,故無所不斷也;道無所道,故無所不度也。無相懺者,懺非所懺也。三歸戒者,歸其一也。一也者,三寶之所以出也。說摩訶般若者,謂其心之至中也。般若也者,聖人之方便也。聖人之大智也,固能寂之明之、權之實之。天下以其寂,可以泯眾惡也;天下以其明,可以集眾善也;天下以其權,可以大有為也;天下以其實,可以大無為也。至矣哉般若也!聖人之道,非夫般若,不明也、不成也。天下之務,非夫般若,不宜也、不當也。至人之為以般若振,不亦遠乎!我法為上上根人說者,宜之也。輕物重用則不勝,大方小授則過也。從來默傳分付者,密說之謂也。密也者,非不言而闇證也,真而密之也。不解此法而輒謗毀,謂百劫千生斷佛種性者,防天下亡其心也。

昔、聖人が世を去ろうとするとき、亀氏に命じて、教えの外に法を伝える要意を授けた。その人は形跡に執着して帰ることを忘れたが、それは後世の人々に根本を把握させ、枝葉を正すためであった。故に『涅槃経』にはこうある。「我は無上の正法を有し、ことごとく摩訶迦葉に付嘱した」と。天の道は「易」にあり、地の道は「簡」にあり、聖人の道は「要」にある。要とは、最も微妙なものを指す。聖人の道を要によって捉えるならば、それは法界の門の枢機となり、無量の義理の集まる所となり、大乗の始原となる。『法華経』に「この妙法は諸仏の秘要であることを知るべし」とあるではないか。『華厳経』に「少ない方便で速やかに菩提を成ずる」とあるではないか。要は聖人の道において、利があり大きく広がるものである。故に『壇経』の宗旨は、その心の要を尊ぶのである。

心とは、明るくもあり暗くもあり、空であり霊であり、静寂であり覚醒である。そこに物があるのか、無いのか。一つの物と言えば、万物に満ちている。万物と言えば、一つの物に統べられている。一物は万物の如く、万物は一物の如し。これは思議できるものである。しかし、その不可思議・不可議なる境地に至れば、天下の人はこれを玄解と言い、神会と言い、絶待と言い、黙体と言い、冥通と言う。すべてを離れ、遣り、遣りつくしても、なおその微細なる境地に至ることはできない。果たして独りで得た者と、至人に似た者と、どちらが真実を理解できようか。これを推し広めれば、どこへ行っても通用しないことはない。探り究めれば、何にでも当てはまる。本性を証するに施せば、見る所は最も親密となる。心を修めるに施せば、至る所は最も正しくなる。徳を崇め惑いを弁ずるに施せば、真と妄は容易に顕れる。出世に施せば、仏道は速やかに成就する。世を救うに施せば、塵労は容易に止む。これが『壇経』の宗旨が、天下に広く行き渡って飽きられることがない所以であり、いわゆる「即心即仏」である。浅はかな者は、自らの力量を知らず、折れた錐で地面を探って地を浅しとし、屋根の漏りから天を覗いて天を小さいとしている。果たして天地がそうなのであろうか。しかし百家の説は、たとえ一時的に勝っていても、及ばないのである。至人はこれを貫通させ、多くの経典と合致させる。それは明らかである。至人はこれを変通させ、名前によって予測することはできない。故に顕に説けば、秩序と道理があり、密に説けば、始めも終わりもない。天機の利なる者は深くを得、鈍なる者は浅くを得る。これを擬えようか、議しようか。やむを得ず譬えるならば、円頓の教えであり、最上乗であり、如来の清浄禅であり、菩薩蔵の正宗である。論ずる者がこれを玄学と呼ぶのは、詳しすぎるであろうか。天下の人がこれを宗門と呼ぶのは、適切ではないだろうか。

『壇経』に定慧を本とするとあるのは、道に入る始めである。定とは静かなること、慧とは明らかなることである。明らかさをもって観じ、静けさをもって安んずる。心を安んずれば心を体得でき、道を観じれば道を語ることができる。一行三昧とは、法界が一つの相であることをいう。万の善は様々であっても、すべて一行によって正されるのである。無相を体とすることは、大戒を尊ぶことである。「無念を宗とすること」は、大定を尊ぶことである。無住を本とすることは、大慧を尊ぶことである。戒・定・慧は、三乗の達する道である。妙心は、戒・定・慧の大いなる資質である。一つの妙心によって三つの法を統べるから、大というのである。無相戒とは、必ず正覚を得ることを戒めることである。「四弘誓願」とは、苦を度そうと願い、集を断とうと願い、道を学ぼうと願い、寂滅を成じようと願うことである。滅するものがないから、断つことができないものはない。道とすべきものがないから、度すことができないものはない。無相懺とは、懺悔すべきものがないことを懺悔することである。三帰戒とは、一に帰依することである。一とは、三宝の現れる所以である。摩訶般若を説くとは、心が至極の中道にあることをいう。般若とは、聖人の方便である。聖人の大智は、寂ならしめ明らかにし、権と実とをなすことができる。天下はその寂によって、衆悪を消し去ることができる。天下はその明によって、衆善を集めることができる。天下はその権によって、大いに為すことができる。天下はその実によって、大いに無為であることができる。なんと素晴らしいことか、般若よ。聖人の道は、般若なくしては明らかにならず、成就しない。天下の務めは、般若なくしては適切でなく、当を得ない。至人の行いは般若によって振るわされる。なんと遠大なことか。我が法は上上根の人のために説く。それが適切である。軽い物を重用すれば耐えられず、大きな器に少しだけ授ければ過ちとなる。かつてより黙って伝え分け与えてきたとは、密説のことをいう。密とは、言葉なくして暗黙に証することではなく、真実を密かにすることである。この法を理解せずに誹謗する者を、百劫千生にわたって仏の種性を断つというのは、天下の人がその心を失うのを防ぐためである。

偉乎《壇經》之作也,其本正、其迹效,其因真、其果不謬,前聖也、後聖也,如此起之、如此示之、如此復之,浩然沛乎,若大川之注也、若虛空之通也、若日月之明也,若形影之無礙也、若鴻漸之有序也。妙而得之之謂本,推而用之之謂迹,以其非始者始之之謂因,以其非成者成之之謂果。果不異乎因,謂之正果也;因不異乎果,謂之正因也。迹必顧乎本,謂之大用也;本必顧乎迹,謂之大乘也。乘也者,聖人之喻道也。用也者,聖人之起教也。夫聖人之道,莫至乎心;聖人之教,莫至乎修。調神入道,莫至乎一相止觀;軌善成德,莫至乎一行三昧。資一切戒,莫至乎無相;正一切定,莫至乎無念;通一切智,莫至乎無住。生善滅惡,莫至乎無相戒;篤道推德,莫至乎四弘願。善觀過,莫至乎無相懺;正所趣,莫至乎三歸戒。正大體、裁大用,莫至乎大般若;發大信、務大道,莫至乎大志。天下之窮理盡性,莫至乎默傳;欲心無過,莫善乎不謗。定慧為始道之基也;一行三昧,德之端也;無念之宗,解脫之謂也;無住之本,般若之謂也;無相之體,法身之謂也。無相戒,戒之最也;四弘願,願之極也;無相懺,懺之至也。三歸戒,真所歸也。摩訶智慧,聖凡之大範也。為上上根人說,直說也。默傳,傳之至也。戒謗,戒之當也。

ああ、なんと偉大なる『壇経』の教えよ。その根本は正しく、その現れは効果的であり、その原因は真実で、その結果は誤りがない。先の聖人も、後の聖人も、このように起こし、このように示し、このように回復させた。その勢いは広大で豊か、大河が注ぐがごとく、虚空が通ずるがごとく、日月が輝くがごとく、形と影が妨げられないがごとく、鴻が順序よく飛ぶがごとくである。

妙なるものを得ることを「本」といい、それを推し広めて用いることを「迹」という。始まりでないものを始めることを「因」といい、完成でないものを完成させることを「果」という。果が因と異ならないことを「正果」といい、因が果と異ならないことを「正因」という。迹が必ず本を顧みることを「大用」といい、本が必ず迹を顧みることを「大乗」という。乗とは、聖人が道をたとえたものである。用とは、聖人が教えを起こしたものである。

聖人の道は、心に至るものはなく、聖人の教えは、修行に至るものはない。精神を調えて道に入るには、一相止観に至るものはない。善を軌範として徳を成すには、一行三昧に至るものはない。一切の戒を助けるには、無相に至るものはない。一切の定を正すには、無念に至るものはない。一切の智を通ずるには、無住に至るものはない。善を生じ悪を滅ぼすには、無相戒に至るものはない。道を篤くし徳を推し進めるには、四弘願に至るものはない。過ちを善く観るには、無相懺に至るものはない。向かうべきところを正すには、三帰戒に至るものはない。大いなる体を正し、大いなる用を裁くには、大般若に至るものはない。大いなる信を発し、大いなる道に務めるには、大志に至るものはない。

天下の理を窮め性を尽くすには、黙伝に至るものはない。心に過ちなくあらんと欲するには、誹謗しないことが最も善い。定慧は、道の始まりの基である。一行三昧は、徳の端緒である。無念の宗は、解脱という。無住の本は、般若という。無相の体は、法身という。無相戒は、戒の最上のものである。四弘願は、願の極みである。無相懺は、懺悔の至りである。三帰戒は、真に帰依すべきものである。摩訶智慧は、聖と凡の大いなる規範である。上上根の人に説くには、直説である。黙伝は、伝えることの至りである。誹謗を戒めることは、戒めとして当然である。

夫妙心者,非修所成也,非證所明也;本成也,本明也。以迷明者復明,所以證也;以背成者復成,所以修也。以非修而修之,故曰正修也;以非明而明之,故曰正證也。至人暗然不見其威儀,而成德為行藹如也;至人頹然若無所持,而道顯於天下也。蓋以正修而修之也,以正證而證之也。於此乃曰,罔修罔證,罔因罔果,穿鑿叢脞競為其說,繆乎至人之意焉。噫!放戒定慧而必趨乎混茫之空,則吾未如之何也。甚乎含識溺心而浮識,識與業相乘循諸響,而未始息也。象之形之,人與物偕生,紛然乎天地之間,可勝數邪?得其形於人者,固萬萬之一耳。人而能覺,幾其鮮矣!聖人懷此,雖以多義發之,而天下猶有所不明者也;聖人救此,雖以多方治之,而天下猶有所不醒者也。賢者以智亂,不肖者以愚壅,平平之人以無記惛,及其感物而發,喜之怒之、哀之樂之,益蔽者萬端曖然。若夜行而不知所至,其承於聖人之言,則計之博之。若蒙霧而望遠,謂有也,謂無也,謂非有也,謂非無也,謂亦有也,謂亦無也,以不見而却蔽固,終身而不得其審焉。海所以在水也,魚龍死生在海而不見乎水;道所以在心也,其人終日說道,而不見乎心。悲夫心固微妙幽遠,難明難湊,其如此也矣。

妙なる心というものは、修練によって成るものではなく、悟りによって明らかになるものでもない。もともと完成されており、もともと明らかなのだ。迷って明らかさを失った者が再び明らかになるから、悟りというものがある。完成されているのに背を向けている者が再び完成に至るから、修練というものがある。修練ではないものを修練するからこそ、正しい修練と言える。明らかでないものを明らかにするからこそ、正しい悟りと言える。

真の悟りを得た人は、威厳を誇示することもなく、その徳は自然と行いにあふれている。真の悟りを得た人は、何も持たぬかのように見えながら、その道は天下に現れている。これこそ正しい修練によって修練し、正しい悟りによって悟ったからである。

ここにおいて、修練もなく悟りもなく、原因もなく結果もないと言い、あれこれ穿った説を競い合うのは、真の悟りを得た人の意に反している。ああ!戒・定・慧を捨てて、ただ漠然とした空へと向かうならば、私はどうすることもできない。

さらに嘆かわしいのは、衆生が心を溺れさせて浮ついた認識に陥り、認識と業が互いに影響し合って、まるで響きが止むことなく続くかのようであることだ。形を与えられ、人と物が共に生まれ、天地の間に乱れ立つ様は、数えきれるだろうか?その形を人として得ることは、まさに万に一つもない。人でありながら覚ることができる者は、ほとんどいないのだ!

聖人はこのことを胸に抱き、様々な教えで説き明かしても、世の中にはまだ理解できない者がいる。聖人はこれを救おうと、様々な方法で導いても、世の中にはまだ目覚めない者がいる。賢者は知恵によって乱れ、愚かな者は無知によって塞がれ、平凡な者は無記(善悪の判断がない状態)によってぼんやりしている。そして外物に触れて発動するとき、喜び怒り悲しみ楽しみが、さらに蔽いを厚くし、千差万別に曖昧模糊となる。

まるで夜道を行くように、どこへ向かうのかわからず、聖人の言葉を受けても、あれこれ計算し、知識をひけらかすばかり。霧の中から遠くを望むように、あるとも言い、ないとも言い、あるのでもないとも言い、ないのでもないとも言い、あるようでもないとも言い、ないようでもあるとも言う。見えないためにかえって蔽われ固まり、一生を終えてもその真実を見極めることができない。

海は水の中にあるのに、魚や龍は海の中で生死を繰り返しながら、水の存在に気づかない。道は心の中にあるのに、人々は終日道を説きながら、心の存在に気づかない。ああ、悲しいかな、心はまことに微妙で幽遠、明らかにし難く、近づき難い。このようなありさまであるのだ。

聖人既隱,天下百世雖以書傳,而莫得其明驗,故《壇經》之宗舉,乃直示其心,而天下方知即正乎性命也。若排雲霧而頓見太清,若登泰山而所視廓如也。王氏以方乎世書曰:「齊一變至於魯,魯一變至於道。」斯言近之矣。《涅槃》曰:「始從鹿野苑,終至跋提河,中間五十年,未曾說一字。」者,示法非文字也。防以文字而求其所謂也。曰:「依法不依人」者,以法真而人假也;曰:「依義不依語」者,以義實而語假也;曰:「依智而不依識」者,以智至而識妄也;曰:「依了義經不依不了義經」者,以了義經盡理也。而菩薩所謂即是宣說大涅槃者,謂自說與經同也。聖人所謂四人出世(即四依也)護持正法應當證知者,應當證知故,至人推本以正其末也。自說與經同故,至人說經如經也。依義、依了義經故,至人顯說而合義也、合經也;依法、依智故,至人密說變之、通之而不苟滯也。示法非文字故,至人之宗尚乎默傳也。聖人如春陶陶而發之也,至人如秋濯濯而成之也。聖人命之而至人效之也,至人固聖人之門之奇德殊勳者也。

聖人が世を去られて後、百代を経た今も、書物によって伝えられてはいるものの、その真実を明らかに示す証拠は得られていません。そこで『壇経』の宗旨が掲げられたのは、ただひたすらに心を示すことによって、世の人々が初めて自らの本性を正しく知るに至ったのです。それはまるで厚い雲や霧を払いのけて、たちまち大空の清らかさを見るかのようであり、泰山に登って見渡す限り広々とした景色を目の当たりにするかのようです。

王氏が世の書物を評して言いました。「斉の国は一変して魯のようになり、魯はさらに一変して道に至る」。この言葉は真理に近いものでしょう。『涅槃経』にはこうあります。「始めは鹿野苑で、終わりは跋提河に至るまで、その間五十年、一字も説くことはなかった」。これは、真実の法が文字によるものではないことを示しているのです。文字によって求めようとすることを戒めているのです。

「法に依って人に依らざれ」とは、法は真実であり、人は仮の存在だからです。「義に依って語に依らざれ」とは、義は実体であり、語は仮の表現だからです。「智に依って識に依らざれ」とは、智は究極のものであり、識は妄りだからです。「了義経に依って不了義経に依らざれ」とは、了義経は真理を尽くしているからです。そして菩薩が「即ちこれ大涅槃を宣説する者なり」と言うのは、自らの説くところが経典と同じであることを意味します。

聖人が「四人の出世(すなわち四依なり)は正法を護持すべし、まさに証知すべきなり」と言われたのは、証知すべきであるがゆえに、至人は根本を推し究めて末を正すのです。自説が経典と同じであるがゆえに、至人は経典を説くにあたって経典そのままに説くのです。義に依り、了義経に依るがゆえに、至人は明らかに説いて義に合致させ、経典に合致させるのです。法に依り、智に依るがゆえに、至人は密やかに説き、それを変化させ、通じさせて、決して固執しないのです。法が文字ではないことを示すがゆえに、至人の宗旨は黙伝を尊ぶのです。

聖人は春のようで、温かく万物を育み発展させます。至人は秋のようで、清らかに一切を完成させます。聖人が命じ、至人はそれに従って実践するのです。至人はまさしく、聖人の門において卓越した徳と特別な功績を備えた者なのです。

夫至人者,始起於微,自謂不識世俗文字;及其成至也,方一席之說,而顯道救世,與乎大聖人之云為者,若合符契也。固其玄德上智生而知之,將自表其法而示其不識乎?歿殆四百年,法流四海而不息,帝王者、聖賢者,更三十世求其道而益敬,非至乎大聖人之所至,天且厭之久矣,烏能若此也。予固豈盡其道,幸蚊虻飲海亦預其味,敢稽首布之,以遺後學者也。

至人というものは、初めは微かなものから始まり、自分では世俗の文字も知らないと自覚している。しかし、その境地に至ると、わずか一席の説法で、道を明らかにし世を救い、大聖人の言葉や行いとぴったり合致するようになる。もともと玄妙な徳と高い知恵を持ち、生まれながらにして悟っている者が、自らの教えを表し、自らの無知を示すために現れるのだろうか?彼が亡くなっておよそ四百年、その教えは四海に流れ絶えることなく、帝王も聖賢も、三十代にわたってその道を求め、ますます敬虔になった。もし大聖人の到達した境地に至っていなければ、天もとっくに厭きていたはずで、どうしてこのようでありえようか。私はもちろんその道をすべて理解しているわけではないが、幸いにも蚊や虻が海の水を一口飲むように、その味をほんの少し味わうことができた。ここに謹んで頭を下げてこれを記し、後の学ぶ者たちに残すものである。

六祖大師法寶壇經

六祖大師法寶壇経

風旛報恩光孝禪寺住持嗣祖比丘宗寶編

風幡報恩光孝禅寺住持嗣祖比丘宗寶編


六祖大師法寶壇經序
1 行由

CBETA コード: T2008

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません