解深密經無自性相品第五
第五品 無自性相
爾時,勝義生菩薩摩訶薩白佛言:「世尊!我曾獨在靜處,心生如是尋思:『世尊以無量門曾說:「諸蘊所有自相,生相、滅相,永斷、遍知。」如說諸蘊,諸處、緣起、諸食亦爾。以無量門曾說:「諸諦所有自相,遍知、永斷、作證、修習。」以無量門曾說:「諸界所有自相、種種界性、非一界性、永斷、遍知。」以無量門曾說:「念住所有自相、能治、所治、及以修習,未生令生、生已堅住,不忘、倍修、增長、廣大。」如說念住、正斷、神足、根、力、覺支,亦復如是。以無量門曾說:「八支聖道所有自相、能治、所治、及以修習,未生令生、生已堅住,不忘、倍修、增長、廣大。」』世尊復說:『一切諸法皆無自性、無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃。』未審世尊依何密意作如是說:『一切諸法皆無自性、無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃。』我今請問如來斯義,惟願如來哀愍解釋,說一切法皆無自性、無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃所有密意。」
その時、勝義生菩薩摩訶薩が仏に申し上げた。
「世尊よ、私はかつて一人静かな場所で、このようなことを考えました。『世尊は数多くの教えを通じて、「諸々の五蘊には、それぞれ固有の性質(自相)、生じる様子、滅する様子、そしてそれを完全に断ち切り、完全に知り尽くすこと(永断・遍知)がある」と説かれました。五蘊について説かれたように、十二処、縁起、四食についても同様です。また、数多くの教えを通じて、「諸々の真理(四諦)には、それぞれ固有の性質、それを完全に知ること、断ち切ること、現に悟ること、修行すること(遍知・永断・作証・修習)がある」と説かれました。さらに、「諸々の十八界には、それぞれ固有の性質、様々な種類の性質、多様な性質、それらを完全に断ち切り、知り尽くすこと(永断・遍知)がある」と説かれました。また、「四念住には、それぞれ固有の性質、それを対治するもの(能治)と対治されるもの(所治)、そしてその修行、未だ生じていないものを生じさせ、生じたものをしっかりと定着させ、忘れずにさらに修行し、増長させ、広大にすること(未生令生・生已堅住・不忘・倍修・增長・廣大)がある」と説かれました。四念住について説かれたように、四正断、四神足、五根、五力、七覚支についても同様です。さらに、「八支聖道には、それぞれ固有の性質、能治・所治、そして修行、未生令生・生已堅住・不忘・倍修・增長・廣大がある」と説かれました。』
ところが世尊はまた、『あらゆるものごと(一切諸法)には、そもそも固有の性質がなく(無自性)、生じることも滅することもなく(無生・無滅)、もとより静かで安らいでおり(本来寂静)、その本来の姿が涅槃である(自性涅槃)』とも説かれました。私は、世尊がどのような深い意図(密意)に基づいて、このように『一切諸法は無自性、無生、無滅、本来寂静、自性涅槃である』と説かれたのか、理解できずにいます。今、どうか如来よ、この義についてお尋ねいたします。願わくは、如来の哀れみにより、この『一切法は無自性、無生、無滅、本来寂静、自性涅槃である』という教えに込められた全ての深い意図を、御説明いただきたく存じます。」
爾時,世尊告勝義生菩薩曰:「善哉,善哉!勝義生!汝所尋思,甚為如理。善哉,善哉!善男子!汝今乃能請問如來如是深義,汝今為欲利益安樂無量眾生,哀愍世間、及諸天、人、阿素洛等,為令獲得義利安樂故,發斯問。汝應諦聽,吾當為汝解釋所說『一切諸法皆無自性、無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃所有密意。』
その時、世尊は勝義生菩薩に告げられた。 「よきかな、よきかな。勝義生よ、あなたが思索したことは、まことに理にかなっている。よくぞ、よくぞ、善男子よ。あなたは今、如来にこのような深遠な意味を問うことができる。あなたは今、無量の衆生を利益し安楽にし、世間および天、人、阿修羅などを哀れみ、彼らに義利と安楽を得させるために、この問いを発したのである。あなたはよく聴きなさい。私があなたのために、『すべての諸法は無自性であり、無生、無滅、本来寂静、自性涅槃である』という、これまで説いてきたすべての密意を解説しよう。」
「勝義生!當知我依三種無自性性密意,說言一切諸法皆無自性,所謂相無自性性、生無自性性、勝義無自性性。
勝義生よ、知るがよい。私は三種の無自性性の密意に基づいて、「すべての諸法は無自性である」と説いたのである。すなわち、相無自性性、生無自性性、勝義無自性性である。
「善男子!云何諸法相無自性性?謂諸法遍計所執相。何以故?此由假名安立為相,非由自相安立為相,是故說名相無自性性。
善男子(ぜんなんし)よ。では、諸法の「相(そう)に自性(じしょう)なしという性質(たち)」とは何か。それは、諸法における「遍計所執相(へんげしょしゅうそう)」のことである。なぜかといえば、この相は、仮の名称(けみょう)によって立てられたものであって、それ自体の本質的な特徴(じそう)によって立てられたものではないからである。それゆえに、「相に自性なしという性質」と名づけるのである。
「云何諸法生無自性性?謂諸法依他起相。何以故?此由依他緣力故有,非自然有,是故說名生無自性性。
「では、諸法の『生まれながらにして自性がない性質』とは何か?それは、諸法が他の条件に依存して現れる相(依他起相)である。なぜか?これらは他からの縁(原因や条件)によって存在するのであって、自然に(自ら)存在するのではない。そのため『生まれながらにして自性がない性質』と名付けられる。」
「云何諸法勝義無自性性?謂諸法由生無自性性故,說名無自性性;即緣生法,亦名勝義無自性性。何以故?於諸法中,若是清淨所緣境界,我顯示彼以為勝義無自性性,依他起相非是清淨所緣境界,是故亦說名為勝義無自性性。復有諸法圓成實相,亦名勝義無自性性。何以故?一切諸法法無我性名為勝義,亦得名為無自性性,是一切法勝義諦故,無自性性之所顯故。由此因緣,名為勝義無自性性。
「では、諸々の法における勝義無自性性とは何か。それは、諸々の法が生起する性質を持たないという性質によって、無自性性と名づけられる。すなわち、縁によって生じる法も、勝義無自性性と名づけられる。なぜなら、諸々の法の中で、清らかな対象となる境地であるものを、私はそれを勝義無自性性として示すからである。依他起の相は清らかな対象となる境地ではないため、それゆえ勝義無自性性とも名づけられる。さらに、諸々の法における円成実の相も、勝義無自性性と名づけられる。なぜなら、一切の諸法における法無我の性質は勝義と名づけられ、また無自性性とも名づけられる。それはすべての法の勝義の真理だからであり、無自性性によって顕されるからである。このような理由により、勝義無自性性と名づけられるのである。」
「善男子!譬如空花,相無自性性,當知亦爾。譬如幻像,生無自性性,當知亦爾;一分勝義無自性性,當知亦爾。譬如虛空,惟是眾色無性所顯,遍一切處;一分勝義無自性性,當知亦爾,法無我性之所顯故,遍一切故。
「善きかな、善男子よ。例えば、空に咲く花のようなものだ。その相(形)には自分自身で存在する性質(自性)がない。そのように知るべきだ。また、例えば幻のように見える像のようなものだ。生じることに自分自身の性質はない。そのように知るべきだ。そして、一分の勝義(究極の真実)も無自性であることも、同様に知るべきだ。さらに、例えば虚空(空間)のようなものだ。これはただ様々な色や形が無いことによって現れるものであり、全ての場所に遍く存在する。この一分の勝義も無自性であることも、そうであると知るべきだ。なぜなら、それは法の無我という性質によって現れるものであり、全てに遍く存在するからである。」
「善男子!我依如是三種無自性性,密意說言:『一切諸法皆無自性。』
善き男子よ、私はこの三つの「無自性性」に基づき、密意をもって「すべての諸法には、それ自体としての固定した性質はない」と説いたのである。
「勝義生!當知,我依相無自性性,密意說言:『一切諸法無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃。』何以故?若法自相都無所有,則無有生;若無有生,則無有滅;若無生無滅,則本來寂靜;若本來寂靜,則自性涅槃。於中都無少分所有更可令其般涅槃故。是故我依相無自性性,密意說言:『一切諸法無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃。』
勝義生よ、知るがよい。私は「相無自性性」に基づいて、密意を持ってこう説いたのだ──「すべての諸法は、無生・無滅・本来寂静・自性涅槃である」と。なぜか? もしある法の自相がまったく存在しないならば、生はない。生がなければ、滅もない。生も滅もなければ、本来寂静である。本来寂静であれば、それは自性涅槃である。その中には、涅槃に入らせるべきわずかなものも存在しないからだ。ゆえに私は、相無自性性に依って、密意を持ってこう説いた──「すべての諸法は、無生・無滅・本来寂静・自性涅槃である」と。
「善男子!我亦依法無我性所顯勝義無自性性,密意說言:『一切諸法無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃。』何以故?法無我性所顯勝義無自性性,於常常時、於恒恒時,諸法法性、安住、無為。一切雜染不相應故,於常常時、於恒恒時,諸法法性安住故無為,由無為故無生無滅;一切雜染不相應故,本來寂靜、自性涅槃。是故我依法無我性所顯勝義無自性性,密意說言:『一切諸法無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃。』
「善き男子よ。我もまた、法無我性によって顕される勝義の無自性性に依って、密意をもって説く。『一切の諸法は、無生、無滅、本来寂静、自性涅槃なり』と。なぜなら、法無我性によって顕される勝義の無自性性は、常に常に、恒に恒に、諸法の法性として安住し、無為であるからだ。あらゆる雑染と相応しないがゆえに、常に常に、恒に恒に、諸法の法性として安住している故に無為であり、無為であるがゆえに無生無滅である。あらゆる雑染と相応しないがゆえに、本来寂静、自性涅槃なのである。ゆえに我は、法無我性によって顕される勝義の無自性性に依って、密意をもって説く。『一切の諸法は、無生、無滅、本来寂静、自性涅槃なり』と。」
「復次,勝義生!非由有情界中諸有情類,別觀遍計所執自性為自性故,亦非由彼別觀依他起自性及圓成實自性為自性故,我立三種無自性性;然由有情於依他起自性及圓成實自性上,增益遍計所執自性故,我立三種無自性性。
「さらに、勝義生よ。私が三つの無自性性(ものごとに固有の実体がないという性質)を説いたのは、有情世界の生き物たちが、それぞれ遍計所執性(概念的に虚構された性質)を本来の性質として別々に見るからでも、また彼らが依他起性(原因と条件によって生じる性質)や円成実性(完成された真実の性質)を本来の性質として別々に見るからでもありません。むしろ、生き物たちが依他起性と円成実性の上に、さらに遍計所執性を付け加えて執着するからこそ、私は三つの無自性性を説いたのです。」
「由遍計所執自性相故,彼諸有情於依他起自性及圓成實自性中,隨起言說。如如隨起言說如是如是,由言說熏習心故、由言說隨覺故、由言說隨眠故,於依他起自性及圓成實自性中,執著遍計所執自性相。
執着された自己の性質(遍計所執性)というものがあるため、生きとし生けるものは、縁によって生じる自己の性質(依他起性)と、完成された自己の性質(円成実性)について、言葉による説明を起こします。そのように言葉による説明を起こすたびに、言葉の習慣によって心が形成され、言葉に従って認識し、言葉の潜在的な影響(随眠)によって、縁起の性質と完成の性質の中に、執着された自己の性質の相を固く捉えてしまうのです。
「如如執著如是如是,於依他起自性及圓成實自性上,執著遍計所執自性;由是因緣,生當來世依他起自性;由此因緣,或為煩惱雜染所染、或為業雜染所染、或為生雜染所染,於生死中長時馳騁、長時流轉,無有休息,或在那落迦、或在傍生、或在餓鬼、或在天上、或在阿素洛、或在人中,受諸苦惱。
このように執着すればするほど、そうなるのです。 つまり、他者に依存して生じる性質(依他起性)と、完全に実現された真実の性質(円成実性)において、誤って概念化された性質(遍計所執性)に執着するのです。 その因縁によって、未来世における他者依存の性質(依他起性)が生じます。 この因縁により、煩悩の汚れに染まったり、行為(業)の汚れに染まったり、生存そのものの汚れに染まったりして、長い間、生死の世界を駆け巡り、流転し続け、休むことがありません。 あるいは地獄に、あるいは畜生に、あるいは餓鬼に、あるいは天界に、あるいは阿修羅に、あるいは人間の世界に生まれ、様々な苦しみや悩みを受けるのです。
「復次,勝義生!若諸有情從本已來,未種善根,未清淨障,未成熟相續,未多修勝解,未能積集福德、智慧二種資糧。我為彼故,依生無自性性宣說諸法。彼聞是已,能於一切緣生行中,隨分解了無常、無恒,是不安隱變壞法已,於一切行,心生怖畏,深起厭患;心生怖畏,深厭患已,遮止諸惡,於諸惡法能不造作,於諸善法能勤修習。習善因故,未種善根能種善根,未清淨障能令清淨,未熟相續能令成熟。由此因緣,多修勝解,亦多積集福德、智慧二種資糧。
さらに、勝義生よ。ある有情が、もとより善根を植えず、障りを清めず、心の連なりを成熟させず、勝解を十分に修めず、福徳と智慧という二つの資糧を積んでいない場合がある。私はそのような者のために、「生無自性性」に基づいて諸法を説く。彼らがこれを聞けば、すべての縁起の営みにおいて、無常であり、不変ではなく、不安定で壊れゆく性質を、徐々に理解するようになる。そして、すべての営みに対して、心に恐れを抱き、深く嫌い離れようとする。心に恐れを抱き、深く嫌い離れるようになると、諸々の悪を防ぎ止め、悪い行いを造らず、善い行いを励み修めるようになる。善行を修める因縁により、善根を植えていなかった者は善根を植えられるようになり、障りを清めていなかった者はそれを清め、心の連なりが未成熟だった者は成熟させられるようになる。このような因縁によって、勝解を多く修め、福徳と智慧という二つの資糧も多く積むようになるのである。
「彼雖如是種諸善根,乃至積集福德、智慧二種資糧;然於生無自性性中,未能如實了知相無自性性及二種勝義無自性性。於一切行未能正厭、未正離欲,未正解脫,未遍解脫煩惱雜染、未遍解脫諸業雜染、未遍解脫諸生雜染。如來為彼更說法要,謂相無自性性及勝義無自性性。為欲令其於一切行能正厭故、正離欲故、正解脫故,超過一切煩惱雜染故、超過一切業雜染故、超過一切生雜染故。
彼はこのように様々な善い根を植え、さらには功徳と智慧という二つの糧を積み重ねているにもかかわらず、生まれながらに無自性なる本質について、相の無自性性と二種の勝義の無自性性を、あるがままに理解することができません。そのために、すべての行(行い)に対して正しく厭うことができず、正しく離欲することができず、正しく解脱することができず、煩悩の雑染からも完全に解脱できず、諸々の業の雑染からも完全に解脱できず、諸々の生の雑染からも完全に解脱できないのです。そこで如来は、そのような者に対してさらに法の要点を説かれました。すなわち、相の無自性性と勝義の無自性性です。それは、彼がすべての行に対して正しく厭い、正しく離欲し、正しく解脱し、あらゆる煩悩の雑染を超え、あらゆる業の雑染を超え、あらゆる生の雑染を超えることができるようにするためです。
「彼聞如是所說法已,於生無自性性中,能正信解相無自性性及勝義無自性性,簡擇思惟,如實通達;於依他起自性中,能不執著遍計所執自性相。由言說不熏習智故、由言說不隨覺智故、由言說離隨眠智故,能滅依他起相;於現法中智力所持,能永斷滅當來世因。由此因緣,於一切行能正厭患、能正離欲、能正解脫,能遍解脫煩惱、業、生三種雜染。
彼がこのように説かれた教えを聞いた後、 「生まれながらに自性がないという性質」の中において、 「相に自性がないという性質」と「勝義に自性がないという性質」を、 正しく信解し、選り分けて考え、如実に悟り通る。
さらに、「他に依って生じる自性」の中において、 「虚妄に分別して執着する自性の相」に執着しない。 言葉による概念に慣らされない智慧によって、 言葉による概念に随って覚らない智慧によって、 言葉による概念に伴う潜在的な煩悩から離れる智慧によって、 「他に依って生じる相」を滅することができる。
現世において、智慧の力に支えられて、 来世における原因を永遠に断ち滅ぼすことができる。 このような因縁によって、 あらゆる「行(つくろい・形成作用)」に対して、 正しく厭い離れ、正しく欲望から離れ、正しく解脱し、 煩悩・業・生という三つの雑染から完全に解脱するのである。
「復次,勝義生!諸聲聞乘種性有情,亦由此道此行迹故,證得無上安隱涅槃。諸獨覺乘種性有情、諸如來乘種性有情,亦由此道此行迹故,證得無上安隱涅槃。一切聲聞、獨覺、菩薩,皆共此一妙清淨道,皆同此一究竟清淨,更無第二。我依此故,密意說言:『唯有一乘。』非於一切有情界中,無有種種有情種性,或鈍根性、或中根性、或利根性有情差別。
さらに、勝義生よ。声聞乗の種姓を持つ者も、この同じ道と修行の迹によって、この上ない安らかな涅槃を証得する。独覚乗の種姓を持つ者も、如来乗の種姓を持つ者も、この同じ道と修行の迹によって、この上ない安らかな涅槃を証得する。すべての声聞、独覚、菩薩たちは、みなこの一つの清らかな道を共有し、みなこの一つの究極の清らかさに到達するのであって、他に第二の道はない。私はこのことに基づいて、深い意図をもって「唯一つの乗り物があるのみ」と説いたのである。しかし、すべての生きとし生けるものの世界に、さまざまな種姓の有情が存在しないわけではない。鈍根の者、中根の者、利根の者という違いが存在しないわけではないのである。
「善男子!若一向趣寂聲聞種性補特伽羅,雖蒙諸佛施設種種勇猛加行方便化導,終不能令當坐道場證得阿耨多羅三藐三菩提。何以故?由彼本來唯有下劣種性故、一向慈悲薄弱故、一向怖畏眾苦故。由彼一向慈悲薄弱,是故一向棄背利益諸眾生事;由彼一向怖畏眾苦,是故一向棄背發起諸行所作。我終不說一向棄背利益眾生事者、一向棄背發起諸行所作者,當坐道場,能得阿耨多羅三藐三菩提,是故說彼名為一向趣寂聲聞。若迴向菩提聲聞種性補特伽羅,我亦異門說為菩薩。何以故?彼既解脫煩惱障已,若蒙諸佛等覺悟時,於所知障,其心亦可當得解脫。由彼最初為自利益,修行加行脫煩惱障,是故如來施設彼為聲聞種性。
「善男子(善き男子よ)。もしも、ひたすら寂静に趣く声聞の種姓を持つ者があるならば、諸仏が様々な勇猛な修行と方便を用いて導こうとしても、結局は彼をして菩提の座に坐らせ、無上正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)を証得させることはできない。なぜか。彼はもともと劣った種姓しか持たず、徹底して慈悲が薄く、徹底して諸々の苦しみを恐れるからである。慈悲が薄いゆえに、もっぱら衆生の利益となることを捨て離れ、苦しみを恐れるゆえに、もっぱら諸々の行を起こす努力を捨て離れる。私は、衆生の利益を捨て、行を起こす努力を捨てる者が、菩提の座に坐り無上正等覚を得るとは決して説かない。ゆえに、そのような者を『ひたすら寂静に趣く声聞』と名付けるのである。
もしも、菩提に回向する声聞の種姓を持つ者があるならば、私は別の教え方によって彼を菩薩とも説く。なぜか。彼がすでに煩悩障を解脱した後、諸仏によって目覚めさせられる時、所知障に対しても、その心はやがて解脱を得ることができるからである。彼は最初は自己の利益のために修行に励んで煩悩障を脱する。それゆえ、如来は彼を声聞の種姓と施設するのである。」
「復次,勝義生!如是於我善說善制法毘奈耶,最極清淨意樂所說善教法中,諸有情類意解種種差別可得。善男子!如來但依如是三種無自性性,由深密意,於所宣說不了義經,以隱密相說諸法要,謂一切法皆無自性、無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃。
さらに、勝義生よ、このように私が善く説き、善く制定した法と律(ダルマとヴィナヤ)において、最も清らかな意図に基づいて説かれた善い教えの中では、様々な衆生の理解の仕方に違いがあることが認められる。善男子よ、如来はただ、これら三つの無自性性(無相・無生・無滅の性質)に基づいて、深遠な意図をもって、了義経(明確な教え)ではない経典において、隠された形で法の要点を説いたのである。すなわち、すべての法は無自性であり、生ずることなく、滅することなく、本来寂静であり、自性において涅槃である、と。
「於是經中,若諸有情已種上品善根、已清淨諸障、已成熟相續、已多修勝解,已能積集上品福德、智慧資糧,彼若聽聞如是法已,於我甚深密意言說,如實解了,於如是法,深生信解,於如是義,以無倒慧,如實通達。依此通達善修習故,速疾能證最極究竟;亦於我所深生淨信,知是如來、應、正等覺於一切法現正等覺。
「若諸有情,已種上品善根、已清淨諸障、已成熟相續、已多修勝解,未能積集上品福德、智慧資糧。其性質直,是質直類,雖無力能思擇廢立,而不安住自見取中。彼若聽聞如是法已,於我甚深祕密言說,雖無力能如實解了,然於此法能生勝解,發清淨信,信此經典,是如來說,是其甚深,顯現甚深,空性相應,難見難悟,不可尋思,非諸尋思所行境界、微細詳審聰明智者之所解了。於此經典所說義中,自輕而住,作如是言:『諸佛菩提為最甚深,諸法法性亦最甚深,唯佛如來能善了達,非是我等所能解了。諸佛如來,為彼種種勝解有情,轉正法教;諸佛如來無邊智見,我等智見猶如牛跡。』於此經典,雖能恭敬,為他宣說,書寫護持,披閱,流布,殷重供養,受誦溫習;然猶未能以其修相發起加行,是故於我甚深密意所說言辭,不能通達。由此因緣,彼諸有情,亦能增長福德、智慧二種資糧,於彼相續未成熟者,亦能成熟。
もしも生きとし生けるものの中に、すでに上品の善根を植え、諸々の障りを清め、心の連なりを成熟させ、勝れた理解を多く修めてきた者がいたとしよう。ただし、まだ上品の福徳と智慧の資糧を積み集めてはいない。その者は性質が真っ直ぐで、まっすぐな性質の仲間である。分別によって取捨選択をする力はないが、自らの見解や偏見に固執して安住することはない。そのような者が、この教えを聞いたならば、私の極めて深遠な秘密の言葉を、如実に理解する力はなくとも、この教えに対して勝れた理解を生じ、清らかな信を起こすであろう。すなわち、この経典は如来が説かれたものであり、非常に深遠であり、深遠さを顕わし、空性に相応し、見難く悟り難く、思惟によって推し量ることはできず、尋思の対象となる境界ではなく、微細で詳細であり、聡明な智者によってのみ理解されるものであると信じるのである。
この経典に説かれた意味については、自らを卑下してこう言う。「諸仏の菩提は最も深遠であり、諸法の法性もまた最も深遠である。ただ如来のみがそれをよく理解し、我等のような者には到底理解できるものではない。諸仏の如来は、様々な勝れた理解を持つ生きとし生けるもののために、正しい法の教えを転じられる。諸仏の如来の智慧と見解は限りなく広大であり、我等の智見は牛の足跡のようなものである」と。
このような者は、この経典を恭敬し、他のために説き、書写し、護持し、披閲し、流布し、丁重に供養し、受持し読誦し習熟する。しかし、それにもかかわらず、修行の形相をもって加行を発起することはできない。それゆえ、私の深遠な密意によって説かれた言葉に通達することができない。このような因縁により、それらの生きとし生けるものも、福徳と智慧の二つの資糧を増長させ、その心の連なりが未だ成熟していない者も、成熟させることができるのである。
「若諸有情,廣說乃至未能積集上品福德、智慧資糧,性非質直,非質直類,雖有力能思擇廢立,而復安住自見取中。彼若聽聞如是法已,於我甚深密意言說不能如實解了。於如是法雖生信解,然於其義隨言執著,謂一切法決定皆無自性,決定不生不滅,決定本來寂靜,決定自性涅槃。由此因緣,於一切法獲得無見及無相見。由得無見無相見故,撥一切相皆是無相,誹撥諸法遍計所執相、依他起相、圓成實相。何以故?由有依他起相及圓成實相故,遍計所執相方可施設;若於依他起相及圓成實相見為無相,彼亦誹撥遍計所執相,是故說彼誹撥三相。雖於我法起於法想,而非義中起於義想;由於我法起法想故,及非義中起義想故,於是法中持為是法,於非義中持為是義。彼雖於法起信解故,福德增長;然於非義起執著故,退失智慧;智慧退故,退失廣大無量善法。
ある種の者どもがいる。彼らは、広く説けば、優れた功徳と智慧の資糧を十分に積んでおらず、性質が素直でなく、そのような類に属する。彼らは分別して取捨選択する力はあっても、自己の見解に固執している。そのような者たちが、この教えを聞いても、私の深遠な秘密の言葉を正しく理解することができない。この教えに対しては信解を生じるものの、その意味を言葉の通りに執着し、「すべてのものは決定して無自性であり、決定して不生不滅であり、決定して本来寂静であり、決定して自性涅槃である」と考える。
その因縁によって、彼らはすべてのものに対して「無」の見解と「無相」の見解を得る。無見と無相見を得たことにより、すべての相を無相であると否定し、すべてのものの遍計所執相、依他起相、円成実相を否定する。なぜなら、依他起相と円成実相があるからこそ、遍計所執相が成立するのである。もし依他起相と円成実相を無相であると見なせば、その者は遍計所執相も否定することになる。だから、その者は三相を否定していると言うのである。
彼らは私の教えに対して「法」という思いを起こすが、「義」ではないものに「義」という思いを起こす。私の教えに「法」という思いを起こすから、その教えの中のものを「法」と捉え、義ではないものに「義」という思いを起こすから、その義ではないものを「義」と捉える。彼らは教えに対して信解を起こすので、功徳は増えるが、義ではないものに執着するので、智慧は退失する。智慧が退失するから、広大無量の善法もまた退失するのである。
「復有有情,從他聽聞,謂法為法,非義為義,若隨其見,彼即於法起於法想,於非義中起於義想,執法為法、非義為義。由此因緣,當知同彼退失善法。若有有情不隨其見,從彼欻聞一切諸法皆無自性、無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃,便生恐怖,生恐怖已,作如是言:『此非佛語,是魔所說。』作此解已,於是經典,誹謗、毀罵。由此因緣,獲大衰損,觸大業障。由是緣故,我說若有於一切相起無相見,於非義中宣說為義,是起廣大業障方便;由彼陷墜無量眾生,令其獲得大業障故。
また、ある有情は、他人の話を聞いて、「法を法とし、義でないものを義とする」と認識する。もしその見解に従うならば、その者はまさに法に対して法という想いを起こし、義でないものに対して義という想いを起こし、法を法として、義でないものを義として執着する。この因縁により、彼らと同じく善法を失い退くことを知るべきである。
もしある有情が、その見解に従わず、彼らから突然「一切の諸法は無自性であり、無生であり、無滅であり、本来寂静であり、自性涅槃である」と聞いて、恐怖を生じ、恐怖を生じた後、こう言う。「これは仏の言葉ではなく、魔が説いたものである。」と。このように理解した後、この経典を誹謗し、ののしる。この因縁により、大きな損耗を受け、大きな業障に触れる。
このような理由により、私は説く。もしある者が、すべての相に対して無相の見解を起こし、義でないものを義として説くならば、それは大きな業障を起こす方便である。なぜなら、その者は無数の衆生を陥れ墜とし、彼らに大きな業障を得させるからである。
「善男子!若諸有情,未種善根、未清淨障、未熟相續、無多勝解,未集福德、智慧資糧。性非質直,非質直類,雖有力能思擇廢立,而常安住自見取中。彼若聽聞如是法已,不能如實解我甚深密意言說,亦於此法不生信解,於是法中起非法想,於是義中起非義想。於是法中執為非法,於是義中執為非義,唱如是言:『此非佛語,是魔所說。』作此解已,於是經典,誹謗毀罵,撥為虛偽,以無量門,毀滅摧伏如是經典,於諸信解此經典者起怨家想。彼先為諸業障所障,由此因緣,復為如是業障所障,如是業障,初易施設,乃至齊於百千俱胝那庾多劫,無有出期。
「善き男子よ。もしも有情たちが、いまだ善根を植えず、障りを清めず、心の連続が成熟しておらず、すぐれた理解がなく、福徳と智慧の糧を積んでいないとする。さらに、その性質は正直でなく、正直でない類に属し、たとえ物事の取捨や廃立を考え選ぶ力があっても、常に自らの見解に執着してそこに安住している。そのような者が、この法を聞いたとしても、私の深遠な密意の言説をありのままに理解できず、この法に対しても信解を起こさない。その法を法でないものと思い、その義を義でないものと思い、その法を法でないと執り、その義を義でないと執って、『これは仏の言葉ではなく、魔が説いたものだ』と唱える。そう理解した後、この経典を誹謗し、罵倒し、偽りであると否定し、無数の方法でこの経典を打ち壊し、打ち負かそうとし、この経典を信解する者たちに対しても怨敵であると思うようになる。彼らは以前から諸々の業の障りに覆われていたが、この因縁によって、さらにこのような業の障りに覆われる。そのような業の障りは、初めは現れやすいものの、やがて百千倶胝那由多劫にわたって、そこから出る時期がなくなるのである。」
「善男子!如是於我善說善制法、毘奈耶,最極清淨意樂所說善教法中,有如是等諸有情類意解種種差別可得。」
「善き者よ、このように私が善く説き、善く定めた法(教え)と戒律の中で、最も清らかな意図をもって説かれた善い教えの中には、このような様々な種類の有情(生きとし生けるもの)がいて、その理解には様々な違いがあることが認められるのです。」
爾時,世尊欲重宣此義,而說頌曰:
その時、世尊はこの教えの意味を改めて明らかにしようと、次のように詩句でお示しになりました。
「一切諸法皆無性,無生無滅本來寂,
諸法自性恒涅槃。誰有智言無密意?
相生勝義無自性,如是我皆已顯示;
若不知佛此密意,失壞正道不能往!
依諸淨道清淨者,惟依此一無第二,
故於其中立一乘,非有情性無差別。
眾生界中無量生,惟度一身趣寂滅,
大悲勇猛證涅槃,不捨眾生甚難得!
微妙難思無漏界,於中解脫等無差,
一切義成離惑苦,二種異說謂常樂。」
一切の諸法はすべて無自性であり、生もなければ滅もなく、もとより寂静である。 諸法の自性は常に涅槃である。智慧ある者が、どうして「密意はない」と言えようか?
「相」の生起と勝義は無自性である――このように私はすでに明らかに示した。 もし人が、仏のこの密意を知らなければ、正しい道を損ない、そこに至ることができない。
清らかな道によって清められた者たちは、ただこの一つのみに依るのであり、第二の道は存在しない。 ゆえに、その中に一乗を立てたのであって、有情の性質に差別があるからではない。
衆生の世界に無量の生が存在する中で、ただ一人の身を度して寂滅に向かう。 大いなる悲心と勇猛さをもって涅槃を証得しながら、衆生を捨てないこと、これは極めて稀有である。
微妙にして思議しがたい、無漏の界(世界)において、解脱はすべて等しく差別がない。 一切の義は成就し、苦しみと煩悩を離れているが、それを「常」や「楽」と説く二つの異説がある。
爾時,勝義生菩薩復白佛言:「世尊!諸佛如來密意語言,甚奇!希有!乃至微妙最微妙!甚深最甚深!難通達最難通達!
そのとき、勝義生菩薩が再び仏に申し上げた。 「世尊よ、諸仏の如来がお示しになる奥深いお言葉は、実に不思議で、稀有であり、そして微細の中の微細、深遠の中の深遠、理解しがたく、最も理解しがたいものです。」
「如是我今領解世尊所說義者:若於分別所行遍計所執相所依行相中,假名安立以為色蘊,或自性相、或差別相;假名安立為色蘊生、為色蘊滅,及為色蘊永斷、遍知,或自性相、或差別相,是名遍計所執相。世尊依此施設諸法相無自性性。若即分別所行遍計所執相所依行相,是名依他起相。世尊依此施設諸法生無自性性,及一分勝義無自性性。如是我今領解世尊所說義者:若即於此分別所行遍計所執相所依行相中,由遍計所執相不成實故,即此自性無自性性法無我真如清淨所緣,是名圓成實相。世尊依此施設一分勝義無自性性。如於色蘊,如是,於餘蘊皆應廣說;如於諸蘊如是,於十二處,一一處中皆應廣說;於十二有支,一一支中皆應廣說;於四種食,一一食中皆應廣說;於六界、十八界,一一界中皆應廣說。
このように、私は今、世尊がお説きになった意味をこのように理解いたします。すなわち、分別によって認識される遍計所執の相に基づく行相において、仮に名前を立てて色蘊とし、あるいはその自性の相や、あるいは差別の相とし、仮に名前を立てて色蘊の生、色蘊の滅、そして色蘊の永断や遍知、あるいは自性の相や、あるいは差別の相とする――これを遍計所執の相と名づけます。世尊はこれに基づいて、あらゆる法の相には無自性性があると施設されました。
また、分別によって認識される遍計所執の相に基づく行相そのものを、依他起の相と名づけます。世尊はこれに基づいて、あらゆる法の生には無自性性があること、および一部の勝義には無自性性があることを施設されました。
さらに、このように、私は今、世尊がお説きになった意味をこのように理解いたします。すなわち、この分別によって認識される遍計所執の相に基づく行相の中で、遍計所執の相が実体として成り立たないことによって、この自性そのものが無自性性であること、法に我が無いという真如の清らかな認識対象、これを円成実の相と名づけます。世尊はこれに基づいて、一部の勝義には無自性性があることを施設されました。
色蘊についても、他の残りの蘊についても、同じように詳しく説かれるべきです。また、蘊についてだけでなく、十二処についても、それぞれの処において詳しく説かれるべきです。十二有支についても、それぞれの支において詳しく説かれるべきです。四種の食についても、それぞれの食において詳しく説かれるべきです。六界や十八界についても、それぞれの界において詳しく説かれるべきです。
「如是我今領解世尊所說義者:若於分別所行遍計所執相所依行相中,假名安立以為苦諦、苦諦遍知,或自性相、或差別相,是名遍計所執相。世尊依此施設諸法相無自性性。若即分別所行遍計所執相所依行相,是名依他起相。世尊依此施設諸法生無自性性,及一分勝義無自性性。如是我今領解世尊所說義者:若即於此分別所行遍計所執相所依行相中,由遍計所執相不成實故,即此自性無自性性法無我真如清淨所緣,是名圓成實相。世尊依此施設一分勝義無自性性。如於苦諦如是,於餘諦皆應廣說。如於聖諦如是,於諸念住、正斷、神足、根、力、覺支、道支中,一一皆應廣說。
私が今、世尊の説かれた意味をこのように理解しました。分別によって生じる遍計所執の相が依りどころとなる行相の中において、仮に名前を立てて苦諦や苦諦の遍知とし、あるいは自性の相や差別の相とするもの、これを遍計所執の相といいます。世尊はこれに基づいて、諸法の相には無自性性があると説かれました。分別によって生じる遍計所執の相が依りどころとなる行相そのもの、これを依他起の相といいます。世尊はこれに基づいて、諸法の生には無自性性があること、そして一部の勝義には無自性性があると説かれました。私が今、世尊の説かれた意味をこのように理解しました。この分別によって生じる遍計所執の相が依りどころとなる行相の中において、遍計所執の相が実在しないがゆえに、この自性には無自性性があるという法無我の真如、清らかな所縁となるもの、これを円成実の相といいます。世尊はこれに基づいて、一部の勝義には無自性性があると説かれました。苦諦についてこのように説かれたのと同じく、他の諦についても広く説くべきです。聖諦について同じく、念住、正断、神足、根、力、覚支、道支のそれぞれについても、一つ一つ広く説くべきです。
「如是我今領解世尊所說義者:若於分別所行遍計所執相所依行相中,假名安立以為正定,及為正定能治所治,若正修未生令生,生已堅住不忘,倍修增長廣大,或自性相、或差別相,是名遍計所執相。世尊依此施設諸法相無自性性。若即分別所行遍計所執相所依行相,是名依他起相。世尊依此施設諸法生無自性性,及一分勝義無自性性。如是我今領解世尊所說義者:若即於此分別所行遍計所執相所依行相中,由遍計所執相不成實故,即此自性無自性性法無我真如清淨所緣,是名圓成實相。世尊依此施設諸法一分勝義無自性性。
「私が今、世尊の説かれた意味をこのように理解いたします。すなわち、分別によって行われる遍計所執相(あれこれと固執して執着する心の働き)が依っている行相(心の働きのあり方)の中で、仮に名づけて安立したものを正定とし、また正定を対治するものやされるものとし、あるいは正しく修して未だ生じていないものを生じさせ、生じたものを堅固に保ち忘れず、さらに修習を倍して成長させ広大にする、その自性の相や差別の相を、遍計所執相と名づけます。世尊はこれに基づいて、諸法の相には無自性性(本質がないこと)があると教えられました。
また、分別によって行われる遍計所執相が依っている行相そのものを、依他起相(縁に依存して生じる心の働き)と名づけます。世尊はこれに基づいて、諸法の生には無自性性があること、および一分の勝義無自性性(一部の最高の真理における無自性性)があると教えられました。
さらに私が今、世尊の説かれた意味をこのように理解いたします。すなわち、この分別によって行われる遍計所執相が依っている行相の中で、遍計所執相が実として成立しないことにより、その自性そのものが無自性性であるという、法無我の真如(真理)の清らかな所縁(よりどころ)を、円成実相(完全に成就した真実の相)と名づけます。世尊はこれに基づいて、諸法の一分の勝義無自性性があると教えられました。」
「世尊!譬如毘濕縛藥,一切散藥、仙藥方中,皆應安處。如是,世尊!依此諸法皆無自性、無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃,無自性性了義言教,遍於一切不了義經,皆應安處。
世尊よ。たとえば、ヴィシュヴァ草という薬は、あらゆる散薬や仙薬の処方に用いられるべきものです。それと同じように、世尊よ。この「すべての法は無自性であり、生じもせず、滅しもせず、もとより寂静であり、自性として涅槃である」という無自性性の確定的な教え(了義の教え)は、あらゆる非確定的な経典(不了義経)に、あまねく用いられるべきものなのです。
「世尊!如彩畫地,遍於一切彩畫事業皆同一味,或青、或黃、或赤、或白,復能顯發彩畫事業。如是,世尊!依此諸法皆無自性廣說乃至自性涅槃,無自性性了義言教,遍於一切不了義經,皆同一味,復能顯發彼諸經中所不了義。
世尊よ。例えて言うならば、彩色を施すための地が、すべての彩色の仕事にとって同じ一つの味わいを持ちながら、青や黄や赤や白などの彩色の働きを際立たせるように――
まさにそのように、世尊よ。この「すべての法には自性がなく、究極的には自性のないことが涅槃である」と広く説かれる、明確な意味を示す教えは、すべての不確かな意味の経典にとって同じ一つの味わいを持ちながら、それらの経典の中であいまいにされた意味を明らかに照らし出すのです。
「世尊!譬如一切成熟珍羞諸餅果內,投之熟酥,更生勝味。如是,世尊!依此諸法皆無自性,廣說乃至自性涅槃,無自性性了義言教,置於一切不了義經,生勝歡喜。
世尊よ、例えば、あらゆる調理された美味しい料理や菓子、果物の中に熟れた酥(バター)を加えると、さらに勝れた味わいが生じるように。同様に、世尊よ、この「すべての法には自己の本質がない」という教え、広く説けば「自己の本質としての涅槃」に至るまで、この「無自性性」という明確な意味の教えを、すべての不明瞭な意味の経典に置けば、勝れた喜びが生じるのです。
「世尊!譬如虛空遍一切處,皆同一味,不障一切所作事業。如是,世尊!依此諸法皆無自性廣說乃至自性涅槃,無自性性了義言教,遍於一切不了義經,皆同一味,不障一切聲聞、獨覺及諸大乘所修事業。」說是語已。
「世尊よ。例えば虚空は、あらゆる場所に遍満し、すべて同じ味わいでありながら、いかなる行いも妨げることがありません。それと同じように、世尊よ。この『すべての法には本来的な実体がなく』と広く説かれ、さらには『本来的な実体がないこと自体が涅槃である』と説かれた、明確な意味を持つ教えは、あらゆる方便的な経典に遍満し、すべて同じ味わいでありながら、声聞、独覚、そして大乗のいずれの修行の働きも妨げることはありません。」と、このように説き終えられた。
爾時,世尊歎勝義生菩薩曰:「善哉,善哉!善男子!汝今乃能善解如來所說甚深密意言義;復於此義善作譬喻,所謂世間毘濕縛藥,雜彩畫地,熟酥,虛空。勝義生!如是,如是!更無有異!如是,如是!汝應受持。」
その時、世尊は勝義生菩薩を称賛して言われた。「善きかな、善きかな。善男子よ、汝は今、如来の説かれた深遠なる密意の言葉をよく理解し、さらにその意味について巧みな譬えを用いた。すなわち、世間のビシュヴァ薬、様々な色で描かれた地、熟した酥、虚空のような譬えである。勝義生よ、その通り、その通りである。少しも違わない。その通り、その通りに、汝は受け持つべきである。」
爾時勝義生菩薩復白佛言:「世尊!初於一時在婆羅痆斯仙人墮處,施鹿林中,惟為發趣聲聞乘者,以四諦相轉正法輪。雖是甚奇、甚為希有,一切世間諸天、人等,先無有能如法轉者。而於彼時所轉法輪,有上、有容,是未了義,是諸諍論安足處所。
その時、勝義生(しょうぎしょう)菩薩が再び仏に申し上げました。「世尊よ、かつて最初に、バラナシの仙人が堕ちた地、施鹿林(せろく)において、ただ声聞(しょうもん)の道を志す者のために、四諦(したい)の相をもって正しい法の輪を回されました。これは実に驚くべきことであり、極めて稀なことでした。なぜなら、それまで天や人を含む世の中の誰も、正しく法の輪を回すことができなかったからです。しかし、その時に回された法の輪は、不完全なものであり、余地があり、究極の意味ではなく、議論の原因となる拠り所でありました。」
「世尊!在昔第二時中,惟為發趣修大乘者,依一切法皆無自性、無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃,以隱密相轉正法輪。雖更甚奇、甚為希有,而於彼時所轉法輪,亦是有上、有所容受,猶未了義,是諸諍論安足處所。
「世尊よ。かつて第二の時において、ただ大乗を志す者たちのために、すべての法には自性がなく、生もなく、滅もなく、もともと静かであり、その本性として涅槃であるという教えを、隠された形で説かれました。それは確かにさらに優れ、まれに見る教えではありましたが、その時に説かれた法輪も、また超えるものがあり、受け入れられる余地があり、まだ究極の意味ではなく、様々な論争の拠り所となるものでした。」
「世尊!於今第三時中,普為發趣一切乘者,依一切法皆無自性、無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃、無自性性,以顯了相轉正法輪。第一甚奇、最為希有。于今世尊所轉法輪無上無容,是真了義,非諸諍論安足處所。
世尊よ、今、第三の時にあたり、あまねく一切の乗に向かって進む者たちのために、すべての法には自ら固有の性質(自性)がなく、生じもせず、滅しもしないこと、本来より寂静であり、自性として涅槃そのものであること、そして「無自性という性質(無自性性)」そのものに基づき、明らかな形で正しい法輪を転じてくださいました。 これは、まことに第一に不思議であり、最も希有なことであります。 今、世尊が転じられたこの法輪は、最上にして、比べるもののないものです。これは真の了義(明確な最終的な教え)であり、さまざまな論争が止まり住むような場所ではありません。
「世尊!若善男子或善女人,於此如來依一切法皆無自性、無生、無滅、本來寂靜、自性涅槃,所說甚深了義言教,聞已信解、書寫、護持、供養、流布、受誦、修習、如理思惟,以其修相發起加行,生幾所福?」說是語已。
「世尊よ。もし善男子または善女が、この如来が説かれた『すべての法には本来、固有の実体がなく、生も滅もなく、本来静まりかえり、その本質はすでに涅槃である』という、深遠で明確な教えを聞いて、その教えを信じ理解し、書き写し、守り保ち、供養し、広め、受け唱え、修行し、道理にかなった思惟をもって、修行の形をもって修行を開始すれば、どれほどの福徳を生じるのでしょうか。」このように語り終えた。
爾時,世尊告勝義生菩薩曰:「勝義生!是善男子或善女人,其所生福無量無數難可喻知,吾今為汝略說少分。如爪上土比大地土,百分不及一,千分不及一,百千分不及一,數算、計喻、鄔波尼殺曇分亦不及一。或如牛跡中水比四大海水,百分不及一,廣說乃至鄔波尼殺曇分亦不及一。如是,於諸不了義經,聞已信解、廣說乃至以其修相發起加行所獲功德,比此所說了義經教,聞已信解所集功德,廣說乃至以其修相發起加行所集功德,百分不及一,廣說乃至鄔波尼殺曇分亦不及一。」說是語已。
その時、世尊は勝義生菩薩に告げられた。 「勝義生よ、この善男子あるいは善女人が生み出す福徳は、量り知れず、数え尽くせず、譬えようもないものである。今、あなたのためにその一端を簡単に説こう。 それは、爪の上の土と大地の土とを比べるようなものだ。大地の土の百分の一にも及ばず、千分の一にも、百千分の一にも、数えきれない計算や譬え、極微の分割にも及ばない。 あるいは、牛の足跡の水と四大海の水とを比べるようなものだ。四大海の水の百分の一にも及ばず、広く説けば極微の分割にも及ばない。 それと同じように、意味が究極ではない経典を聞いて信解し、広く説けば、その修行の仕方に従って努力して得られる功徳よりも、この説かれた意味が究極である経典の教えを聞いて信解し集める功徳の方が、はるかに勝れている。広く説けば、百分の一にも及ばず、極微の分割にも及ばないのである。」 こう説き終えられた。
爾時,勝義生菩薩復白佛言:「世尊!於是解深密法門中,當何名此教?我當云何奉持?」
その時、勝義生菩薩が再び仏に申し上げました。 「世尊(お釈迦さま)、この『解深密(げじんみつ)』の教えの中で、この教えにはどのような名前を付けるべきでしょうか。私はどのようにしてこれを守り伝えていけばよいのでしょうか。」
佛告勝義生菩薩曰:「善男子!此名勝義了義之教;於此勝義了義之教,汝當奉持。」
仏は勝義生菩薩に告げられた。「善き男子よ、これは『勝義了義の教え』と名づけられるものである。この勝義了義の教えを、あなたはしっかりと受持しなさい。」
說此勝義了義教時,於大會中,有六百千眾生發阿耨多羅三藐三菩提心;三百千聲聞遠塵離垢,於諸法中得法眼淨;一百五十千聲聞永盡諸漏心得解脫;七十五千菩薩得無生法忍。
この最高の真理と究極の教えを説かれた時、その大集会の中で、六十万の衆生が無上正等正覚(阿耨多羅三藐三菩提)の心を起こしました。三十万の声聞(弟子)は煩悩の塵を離れ、諸々の法において清らかな法の眼を得ました。十五万の声聞はすべての煩悩が尽きて、心が完全に解脱しました。七万五千の菩薩は無生法忍(すべての現象が生じないという真理を確かに受け入れる境地)を得ました。
解深密經卷第二
解深密経 巻第二