解深密經卷第三
解深密経 第三巻
大唐三藏法師玄奘奉 詔譯
大唐三蔵法師玄奘奉詔訳
分別瑜伽品第六
第六品 瑜伽の分別
爾時慈氏菩薩摩訶薩白佛言:「世尊!菩薩何依何住,於大乘中修奢摩他、毘鉢舍那?」
その時、慈氏菩薩摩訶薩が仏に申し上げました。「世尊よ、菩薩は何に依り、何に住して、大乗において奢摩他(止)と毘鉢舎那(観)を修行するのでしょうか?」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!當知菩薩法假安立,及不捨阿耨多羅三藐三菩提願,為依、為住,於大乘中修奢摩他、毘鉢舍那。」
仏が慈氏菩薩に告げられました。「善男子よ、知るがよい。菩薩の教えは仮に立てられたものであり、そして無上正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)の願いを捨てないことをよりどころとし、住まいとして、大乗の中で奢摩他(止)と毘鉢舍那(観)を修するのである。」
慈氏菩薩復白佛言:「如世尊說四種所緣境事:一者、有分別影像所緣境事;二者、無分別影像所緣境事;三者、事邊際所緣境事;四者、所作成辦所緣境事。於此四中,幾是奢摩他所緣境事?幾是毘鉢舍那所緣境事?幾是俱所緣境事?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げた。 「世尊がお説きになった四つの所縁境事(心の対象)についてお尋ねします。第一に有分別影像所縁境事、第二に無分別影像所縁境事、第三に事辺際所縁境事、第四に所作成弁所縁境事です。この四つのうち、どれが奢摩他(止・サマタ)の所縁境事であり、どれが毘鉢舎那(観・ヴィパッサナー)の所縁境事であり、どれが両方に共通する所縁境事なのでしょうか?」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!一是奢摩他所緣境事,謂無分別影像;一是毘鉢舍那所緣境事,謂有分別影像;二是俱所緣境事,謂事邊際、所作成辦。」
仏が慈氏菩薩に告げて言われた。「善男子よ。一つは奢摩他(止)の対象となる事柄、すなわち分別を伴わない影像である。一つは毘鉢舎那(観)の対象となる事柄、すなわち分別を伴う影像である。二つは両方に共通する対象となる事柄、すなわち事の限界と、なすべきことが成し遂げられることである。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!云何菩薩依是四種奢摩他、毘鉢舍那所緣境事,能求奢摩他、能善毘鉢舍那?」
慈氏(弥勒)菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊(世に尊いお方)。どのようにして菩薩は、この四つの奢摩他(止)・毘鉢舍那(観)のよりどころとなる対象に基づいて、奢摩他を求め、毘鉢舍那を善く行うことができるのでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!如我為諸菩薩所說法假安立,所謂契經、應誦、記別、諷誦、自說、因緣、譬喻、本事、本生、方廣、希法、論議。菩薩於此善聽、善受、言善通利、意善尋思、見善通達,即於如所善思惟法,獨處空閑作意思惟。復即於此能思惟心,內心相續,作意思惟。如是正行多安住故,起身輕安及心輕安,是名奢摩他。如是菩薩,能求奢摩他。彼由獲得身心輕安為所依故,即於如所善思惟法,內三摩地所行影像,觀察勝解捨離心相。即於如是三摩地影像所知義中,能正思擇、最極思擇,周遍尋思、周遍伺察,若忍、若樂、若慧、若見、若觀,是名毘鉢舍那。如是菩薩,能善毘鉢舍那。」
仏が弥勒菩薩に告げられた。「善男子よ。私が諸菩薩のために説いた、方便として仮に立てられた教え、すなわち経典・偈頌・授記・諷誦・自説・因縁・譬喩・本事・本生・方広・希法・論議。菩薩はこれらをよく聞き、よく受け止め、よく理解し、心によく考え、見解によく通達する。そして、そのよく思惟した教えについて、静かな場所に独りで座り、心を集中して思惟する。さらに、その思惟する心そのものを、心の内側で絶え間なく観察し思惟し続ける。このように正しい行いをよく修め安住することで、身体の軽安と心の軽安が生じる。これを奢摩他(止・samatha)と呼ぶ。このようにして菩薩は奢摩他を求めることができる。彼は身体と心の軽安を得たことをよりどころとして、そのよく思惟した教えについて、内なる三昧(samādhi)において現れる映像(影像)を観察し、深く理解し、心のとらわれを捨て去る。そして、その三昧の影像において知られるべき意味(義)について、正しく選択し、極めて選択し、あまねく尋ね、あまねく観察する。その際の忍耐・喜び・智慧・見解・観察を、毘鉢舍那(観・vipaśyanā)と呼ぶ。このようにして菩薩は毘鉢舍那をよく修めることができる。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!若諸菩薩緣心為境,內思惟心,乃至未得身心輕安,所有作意,當名何等?」
慈氏(弥勒)菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊よ。もし菩薩たちが心を対象として、内なる心を観察し考える修行をするとき、まだ心身の軽やかな安らぎを得ていない段階での、そのすべての心の働きは、何と呼ばれるべきでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!非奢摩他作意,是隨順奢摩他勝解相應作意。」
仏は慈氏菩薩に告げられました。「善き人よ、それは奢摩他(止)への専念そのものではありません。奢摩他に順じた理解を深めるための専念なのです。」
「世尊!若諸菩薩乃至未得身心輕安,於如所思所有諸法內三摩地所緣影像作意思惟,如是作意,當名何等?」
「世尊よ、もしも菩薩たちが、心と身体の軽やかな安らぎ(軽安)をまだ得ていない段階で、考えたとおりのあらゆる法について、内なる三昧の対象となる映像を思い浮かべて、そのように心を働かせるならば、そのような作意は、何と呼ばれるべきでしょうか。」
「善男子!非毘鉢舍那作意,是隨順毘鉢舍那勝解相應作意。」
「善き人よ。これは毘鉢舎那(観察)そのものの作意ではなく、毘鉢舎那に従い、それに対する確かな理解と調和した作意である。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!奢摩他道與毘鉢舍那道,當言有異?當言無異?」
慈氏(弥勒)菩薩がまた仏に申し上げました。「世尊(せそん)、奢摩他(しゃまた)の道と毘鉢舎那(びはっしゃな)の道は、異なるものと言うべきでしょうか、それとも異ならないものと言うべきでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!當言非有異、非無異。何故非有異?以毘鉢舍那所緣境心為所緣故。何故非無異?有分別影像非所緣故。」
仏が慈氏菩薩に告げられた。「善き男子よ、『異なるものでもなく、異ならないものでもない』と言うべきである。なぜ異ならないのかと言えば、観察の智慧(毘鉢舎那)の対象となる心が、そのまま観察の対象となるからである。なぜ異なるのでもないのかと言えば、分別を伴って描かれる影像は、観察の対象そのものではないからである。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!諸毘鉢舍那三摩地所行影像,彼與此心,當言有異?當言無異?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊よ、観察の智慧(毘鉢舍那)と禅定(三摩地)によって現れる映像(影像)は、この心と異なると言うべきでしょうか、異ならないと言うべきでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!當言無異。何以故?由彼影像唯是識故。善男子!我說識所緣,唯識所現故。」
仏が慈氏菩薩に告げられました。「善男子、同じであると言うべきです。なぜなら、その影像はただ識のみだからです。善男子、私が説くところの識の対象は、ただ識が現れているにすぎないからです。」
「世尊!若彼所行影像,即與此心無有異者,云何此心還見此心?」
世尊よ、もしその心に現れる影像が、この心そのものと異なるものではないのなら、なぜこの心が自分自身を見ることができるのでしょうか?
「善男子!此中無有少法能見少法;然即此心如是生時,即有如是影像顯現。善男子!如依善瑩清淨鏡面,以質為緣還見本質,而謂我今見於影像,及謂離質別有所行影像顯現。如是此心生時,相似有異三摩地所行影像顯現。」
「善男子よ。この中には、わずかな法であっても、他のわずかな法を見るということはない。しかし、この心がそのように生じるとき、そのような映像が現れるのである。善男子よ。例えば、よく磨かれた清らかな鏡の面に、対象となるもの(質)を縁として、その対象そのものが映る。すると、人は『今、私は映像を見ている』と思い、また、対象そのものとは別に、そこに現れた映像が存在すると思う。このように、この心が生じるとき、あたかもそれとは別に三摩地の作用の映像が現れるかのように、似て非なるものが現れるのである。」
「世尊!若諸有情自性而住,緣色等心所行影像,彼與此心亦無異耶?」
「世尊はおっしゃいました。もし一切の生きとし生けるものが、本来の自らの性質のままに安住しているならば、色などの対象を縁として心に映る影像は、その心そのものと異なるものではないのでしょうか?」
「善男子!亦無有異!而諸愚夫由顛倒覺,於諸影像,不能如實知唯是識,作顛倒解。」
「善男子よ、何ら異なることはない。しかし愚かな人々は、誤った認識によって、様々な影像をあるがままに『ただ識のみである』と知ることができず、間違った解釈をしてしまうのである。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!齊何當言菩薩一向修毘鉢舍那?」
慈氏(弥勒)菩薩が再び仏に申し上げました。 「世尊(尊いお方)!どのような状態になって、菩薩が『専ら毘鉢舎那(観察の智慧による瞑想)を修めている』と言えるのでしょうか?」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!若相續作意唯思惟心相。」
仏が慈氏菩薩に告げられた。「善男子よ、もし相続して作意するならば、ただ心の相を思惟せよ。」
「世尊!齊何當言菩薩一向修奢摩他?」
「世尊。どのような場合に、菩薩は専ら奢摩他(止)を修行していると言えるのでしょうか。」
「善男子!若相續作意唯思惟無間心。」
「善男子よ。もしも心を途切れさせることなく、ただひたすらに注意を向け続けるならば。」 (※原文の「相續作意」は「絶え間ない注意力・心の働き」、「無間心」は「間断のない心」「途切れない意識」を指し、簡潔に意訳しました。)
「世尊!齊何當言菩薩奢摩他、毘鉢舍那和合俱轉?」
「世尊よ。どのようなときに、菩薩の奢摩他(止)と毘鉢舎那(観)が調和して、同時にはたらくと言えるのでしょうか。」
「善男子!若正思惟心一境性。」
善男子よ。正しく考えるならば、心は一つの境地に落ち着くのである。
「世尊!云何心相?」
「世尊よ、心の相とはどのようなものでしょうか?」
「善男子!謂三摩地所行有分別影像,毘鉢舍那所緣。」
「善男子。三摩地の修行によって生じる分別のある影像、それが毘鉢舍那の対象となるのです。」
「世尊!云何無間心?」
世尊よ。間断なき心とは、どのようなものでしょうか。
「善男子!謂緣彼影像心,奢摩他所緣。」
善男子(善き人よ)、その影像を対象とする心、それが「奢摩他(しゃまた)」の対象となるのです。
「世尊!云何心一境性?」
「世尊、心を一つの対象に集中するとはどういうことですか?」
「善男子!謂通達三摩地所行影像,唯是其識;或通達此已,復思惟如性。」
「善男子(善き男子よ)。三摩地(瞑想)において現れる影像は、ただ心(識)によるものであると悟ること。あるいは、この道理を理解した後、さらにその本質(如性)について深く考えること。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!毘鉢舍那凡有幾種?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げました。「世尊よ、毘鉢舎那(観察)には、いくつの種類があるのでしょうか?」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!略有三種:一者、有相毘鉢舍那;二者、尋求毘鉢舍那;三者、伺察毘鉢舍那。云何有相毘鉢舍那?謂純思惟三摩地所行有分別影像毘鉢舍那。云何尋求毘鉢舍那?謂由慧故,遍於彼彼未善解了一切法中,為善了故,作意思惟毘鉢舍那。云何伺察毘鉢舍那?謂由慧故,遍於彼彼已善解了一切法中,為善證得極解脫故,作意思惟毘鉢舍那。」
仏は慈氏菩薩に告げられた。「善男子よ、大きく分けて三つの毘鉢舎那(観察)がある。第一に、相を有する毘鉢舎那。第二に、探究する毘鉢舎那。第三に、詳細に観察する毘鉢舎那である。
では、相を有する毘鉢舎那とは何か。それは、ただ三摩地(瞑想)の対象となる、分別を伴う影像を思惟する毘鉢舎那である。
では、探究する毘鉢舎那とは何か。それは、智慧によって、まだ十分に理解していない様々な法(現象)について、よく理解するために、心を働かせて思惟する毘鉢舎那である。
では、詳細に観察する毘鉢舎那とは何か。それは、智慧によって、すでに十分に理解した様々な法(現象)について、完全な解脱を得るために、心を働かせて思惟する毘鉢舎那である。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!是奢摩他凡有幾種?」
慈氏菩薩が再び仏陀に申し上げました。「世尊(お釈迦様)、この奢摩他(止)には、全部で何種類あるのでしょうか?」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!即由隨彼無間心故,當知此中亦有三種。復有八種,謂初靜慮乃至非想非非想處,各有一種奢摩他故。復有四種,謂慈、悲、喜、捨四無量中,各有一種奢摩他故。」
仏は慈氏菩薩に告げられた。「善き男子よ。その絶え間ない心の働きによって、ここにも三つの種類があると知るべきである。さらに八つの種類がある。それは初禅から非想非非想処に至るまで、それぞれに一種の奢摩他(静まり)があるからである。さらに四つの種類がある。それは慈、悲、喜、捨という四無量心の中に、それぞれ一種の奢摩他があるからである。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!如說依法奢摩他、毘鉢舍那,復說不依法奢摩他、毘鉢舍那。云何名依法奢摩他、毘鉢舍那?云何復名不依法奢摩他、毘鉢舍那?」
慈氏菩薩が、仏に問うていいました。「世尊様。お教えでは、『法に依る止と観』と『法に依らない止と観』があると説かれています。では、何を『法に依る止と観』と言い、何を『法に依らない止と観』と言うのでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!若諸菩薩隨先所受所思法相,而於其義得奢摩他、毘鉢舍那,名依法奢摩他、毘鉢舍那。若諸菩薩不待所受所思法相,但依於他教誡教授,而於其義得奢摩他、毘鉢舍那,謂觀青瘀及膿爛等,或一切行皆是無常、或諸行苦、或一切法皆無有我、或復涅槃畢竟寂靜。如是等類奢摩他、毘鉢舍那,名不依法奢摩他、毘鉢舍那。由依止法得奢摩他、毘鉢舍那,故我施設隨法行菩薩,是利根性;由不依法得奢摩他、毘鉢舍那故,我施設隨信行菩薩,是鈍根性。」
仏は慈氏菩薩に告げた。「善男子よ。もし菩薩たちが、先に受け入れ、考えた法の姿に従って、その意味において奢摩他(静寂)と毘鉢舍那(観察)を得るならば、それを法に依る奢摩他・毘鉢舍那と名付ける。もし菩薩たちが、受け入れ考えた法の姿を待たず、ただ他者の教えや教授に依って、その意味において奢摩他と毘鉢舍那を得るならば、それは例えば、青瘀(青く変色した死体)や膿爛(腐敗)などを観じる、あるいはあらゆる行(現象)はすべて無常である、あるいは諸行は苦である、あるいはすべての法は我(永遠の自己)がない、あるいは涅槃は究極的に静寂である、といった類の奢摩他・毘鉢舍那であり、これを法に依らない奢摩他・毘鉢舍那と名付ける。法に依って奢摩他・毘鉢舍那を得るゆえに、私は法に従って修行する菩薩を利根の性質と定める。法に依らずに奢摩他・毘鉢舍那を得るゆえに、私は信に従って修行する菩薩を鈍根の性質と定める。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!如說緣別法奢摩他、毘鉢舍那,復說緣總法奢摩他、毘鉢舍那。云何名為緣別法奢摩他、毘鉢舍那?云何復名緣總法奢摩他、毘鉢舍那?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げました。「世尊よ、『個別の法を対象とする奢摩他(止)と毘鉢舍那(観)』とお教えになり、また『全体の法を対象とする奢摩他と毘鉢舍那』とお教えになりました。では、どのようなものを『個別の法を対象とする奢摩他と毘鉢舍那』といい、またどのようなものを『全体の法を対象とする奢摩他と毘鉢舍那』というのでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!若諸菩薩,緣於各別契經等法,於如所受所思惟法,修奢摩他、毘鉢舍那,是名緣別法奢摩他、毘鉢舍那。若諸菩薩,即緣一切契經等法,集為一團、一積、一分、一聚作意思惟:此一切法,隨順真如,趣向真如,臨入真如;隨順菩提,隨順涅槃,隨順轉依,及趣向彼,若臨入彼。此一切法,宣說無量無數善法。如是思惟修奢摩他、毘鉢舍那,是名緣總法奢摩他、毘鉢舍那。」
仏は慈氏菩薩に告げられた。「善き男子よ、もし諸々の菩薩が、それぞれ異なる経典などの教えに基づいて、その受け止め学んだ法を思惟し、奢摩他(止)と毘鉢舍那(観)を修するならば、これを『別々の法を縁とする奢摩他・毘鉢舍那』と名づける。
また、もし諸々の菩薩が、あらゆる経典などの法を一つに集め、一塊、一積、一分、一聚とまとめて、次のように思惟するならば──『これらのすべての法は、真如に随順し、真如に向かい、真如に入ろうとしている。また、菩提に随順し、涅槃に随順し、転依に随順し、それらに向かい、それらに入ろうとしている。これらのすべての法は、無量無数の善き法を説き示している』と──このように思惟して奢摩他と毘鉢舍那を修するならば、これを『総法を縁とする奢摩他・毘鉢舍那』と名づける。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!如說緣小總法奢摩他、毘鉢舍那,復說緣大總法奢摩他、毘鉢舍那,又說緣無量總法奢摩他、毘鉢舍那。云何名緣小總法奢摩他、毘鉢舍那?云何名緣大總法奢摩他、毘鉢舍那?云何復名緣無量總法奢摩他、毘鉢舍那?」
弥勒菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊よ、お説きのように、小総法を縁とする奢摩他(止)と毘鉢舎那(観)があり、また大総法を縁とする奢摩他と毘鉢舎那があり、さらに無量総法を縁とする奢摩他と毘鉢舎那があるとお聞きしました。では、どのようなものを小総法を縁とする奢摩他・毘鉢舎那と言うのでしょうか?どのようなものを大総法を縁とする奢摩他・毘鉢舎那と言うのでしょうか?また、どのようなものを無量総法を縁とする奢摩他・毘鉢舎那と言うのでしょうか?」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!若緣各別契經,乃至各別論義,為一團等作意思惟,當知是名緣小總法奢摩他、毘鉢舍那。若緣乃至所受所思契經等法,為一團等作意思惟,非緣各別,當知是名緣大總法奢摩他、毘鉢舍那。若緣無量如來法教,無量法句文字,無量後後慧所照了,為一團等作意思惟,非緣乃至所受所思,當知是名緣無量總法奢摩他、毘鉢舍那。」
仏が慈氏菩薩に告げられた。「善男子よ。もしも個別の経典や、個別の論義などを、ひとまとまりとして心に思い描くならば、これは『小さな総合の法を対象とする止観』であると知るべきである。また、自ら受け止め考えた経典などを、個別ではなくひとまとまりとして心に思い描くならば、これは『大きな総合の法を対象とする止観』であると知るべきである。さらに、無量の如来の教え、無量の法の句や文字、無量の後に後に智慧によって照らし出されるものを、ひとまとまりとして心に思い描き、受け止め考えたものに限らないならば、これは『無量の総合の法を対象とする止観』であると知るべきである。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!菩薩齊何名得緣總法奢摩他、毘鉢舍那?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げた。「世界に尊いお方よ。菩薩はどのような境地に至って、『すべての法を縁とする奢摩他(止)と毘鉢舎那(観)』を身につけたと言えるのでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!由五緣故當知名得:一者、於思惟時,剎那剎那融銷一切麁重所依;二者、離種種想得樂法樂;三者、解了十方無差別相無量法光;四者、所作成滿相應淨分無分別相,恒現在前;五者、為令法身得成滿故,攝受後後轉勝妙因。」
仏が慈氏菩薩に告げられた。「善き男子よ、五つの理由によって、これを『得る』と名づけるべきである。第一に、瞑想するとき、一瞬一瞬において、すべての重い煩悩の基盤が融け消えること。第二に、様々な観念を離れ、法の楽しみを得ること。第三に、十方に差別のない相(すがた)を悟り、無量の法の光を理解すること。第四に、行いが完成し、清らかな部分と相応して、無分別の相が常に現前にあること。第五に、法身を完成させるために、後々のさらに優れた因(もと)を受け入れること。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!此緣總法奢摩他、毘鉢舍那,當知從何名為通達?從何名得?」
弥勒菩薩が再び仏に申し上げました。「世尊様。この総法を対象とする奢摩他(止)と毘鉢舍那(観)は、何をもって『通達』と名づけ、何をもって『得る』と名づけるのでしょうか?」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!從初極喜地名為通達;從第三發光地乃名為得。善男子!初業菩薩亦於是中隨學作意,雖未可歎,不應懈廢。」
仏が慈氏菩薩に告げられた。 「善男子よ。初地である極喜地からが『通達』と呼ばれる。第三地である発光地に至って、初めて『得る』と呼ばれるのだ。 善男子よ。修行を始めたばかりの菩薩も、この境地に倣って心を向けて学ぶべきである。たとえ称賛されるに至らなくても、決して怠ってはならない。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!是奢摩他、毘鉢舍那,云何名有尋有伺三摩地?云何名無尋唯伺三摩地?云何名無尋無伺三摩地?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げました。「世尊よ。この奢摩他(止)と毘鉢舍那(観)において、どのようなものを『尋(粗い思考)と伺(微細な思考)のある三昧』と言い、どのようなものを『尋なく、伺のみある三昧』と言い、どのようなものを『尋も伺もない三昧』と言うのでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!於如所取尋伺法相,若有麁顯領受觀察,諸奢摩他、毘鉢舍那,是名有尋有伺三摩地。若於彼相,雖無麁顯領受觀察,而有微細彼光明念領受觀察,諸奢摩他、毘鉢舍那,是名無尋唯伺三摩地。若即於彼一切法相,都無作意領受觀察,諸奢摩他、毘鉢舍那,是名無尋無伺三摩地。
仏が慈氏(みろく)菩薩に告げられた。「善き男子よ。例えば、捉える対象について、粗い表象をはっきりと受け止め、観察する修行——つまり止(サマタ)と観(ヴィパッサナー)——を、『有尋有伺三摩地(あるじんうしさんまじ)』と名づける。
また、その対象について、粗い表象ははっきりと受け止めなくとも、微細な、その対象を明らかにする念(おもい)を持って受け止め、観察する修行を、『無尋唯伺三摩地(むじんゆいしさんまじ)』と名づける。
さらに、すべての現象について、全く作意(意識的に捉えること)なく受け止め、観察する修行を、『無尋無伺三摩地(むじんむしさんまじ)』と名づける。」
「復次,善男子!若有尋求奢摩他、毘鉢舍那,是名有尋有伺三摩地。若有伺察奢摩他、毘鉢舍那,是名無尋唯伺三摩地。若緣總法奢摩他、毘鉢舍那,是名無尋無伺三摩地。」
さらに、善男子よ。もし「奢摩他(止)」と「毘鉢舍那(観)」を求めて探し求めるならば、それを「有尋有伺三摩地」と名づける。もし「奢摩他」と「毘鉢舍那」をただ静かに観察するならば、それを「無尋唯伺三摩地」と名づける。もし「奢摩他」と「毘鉢舍那」を全体として捉えるならば、それを「無尋無伺三摩地」と名づける。
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!云何止相?云何舉相?云何捨相?」
慈氏(弥勒)菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊よ、どのようなものが止の相であり、どのようなものが挙の相であり、どのようなものが捨の相なのでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!若心掉舉或恐掉舉時,諸可厭法作意及彼無間心作意,是名止相。若心沈沒或恐沈沒時,諸可欣法作意及彼心相作意,是名舉相。若於一向止道,或於一向觀道,或於雙運轉道,二隨煩惱所染污時,諸無功用作意,及心任運轉中所有作意,是名捨相。」
仏が慈氏(弥勒)菩薩に告げて言われた。「善き者よ。もし心が落ち着かずに浮ついている時、または浮つきそうな時、心が厭うべき事柄に注意を向けること、そしてそれに途切れなく心を向け続けること。これを『止(し)の相』と呼ぶ。もし心が沈み込んでいる時、または沈み込みそうな時、心が喜ばしい事柄に注意を向けること、そしてその心のあり方そのものに注意を向けること。これを『挙(こ)の相』と呼ぶ。また、ひたすら止の道に専念している時、あるいはひたすら観( vipassanā )の道に専念している時、あるいは止と観を交互に、もしくは同時に行う道において、心が二つの付随する煩悩に染まっている場合に、何の作為も働かせない心の働き、そして心が自然に進むままに任せる中の注意の向け方。これを『捨
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!修奢摩他、毘鉢舍那諸菩薩眾,知法知義。云何知法?云何知義?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊。静寂と観察の修行を行う菩薩たちは、法とその意味を知ると言われます。では、どのようにして法を知り、どのようにしてその意味を知るのでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!彼諸菩薩,由五種相了知於法:一者、知名;二者、知句;三者、知文;四者、知別;五者知總。云何為名?謂於一切染淨法中,所立自性想假施設。云何為句?謂即於彼名聚集中,能隨宣說諸染淨義,依持建立。云何為文?謂即彼二所依止字。云何於彼各別了知?謂由各別所緣作意。云何於彼總合了知?謂由總合所緣作意。如是一切總略為一,名為知法。如是名為菩薩知法。
仏が慈氏菩薩に告げられた。「善男子よ、かの菩薩たちは五つの相によって法を了知する。第一に名を知り、第二に句を知り、第三に文を知り、第四に別を知り、第五に総を知る。
「では『名』とは何か。それは、あらゆる清浄・不清浄の法において、その自性として仮に立てられた名称である。
「『句』とは何か。その『名』が集まった中で、清浄・不清浄の意味を適切に説き示し、支えとなり成立させるものである。
「『文』とは何か。上記の名と句の二つが依って立つ文字である。
「『各別に了知する』とは何か。それぞれの対象に心を向けることによって、個々を明らかに知ることである。
「『総合して了知する』とは何か。全体を統合した対象に心を向けることによって、まとめて知ることである。
「これらすべてを一つにまとめたものを『法を知る』と言う。これが菩薩の法を知るという意味である。」
「善男子!彼諸菩薩,由十種相了知於義:一者、知盡所有性;二者、知如所有性;三者、知能取義;四者、知所取義;五者、知建立義;六者、知受用義;七者、知顛倒義;八者、知無倒義;九者、知雜染義;十者、知清淨義。
善男子よ、それらの菩薩たちは、十種の相によって義を了知しています。一つには、尽所有性を知ることです。二つには、如所有性を知ることです。三つには、能取の義を知ることです。四つには、所取の義を知ることです。五つには、建立の義を知ることです。六つには、受用の義を知ることです。七つには、顛倒の義を知ることです。八つには、無顛倒の義を知ることです。九つには、雑染の義を知ることです。十つには、清浄の義を知ることです。
「善男子!盡所有性者,謂諸雜染清淨法中,所有一切品別邊際,是名此中盡所有性。如五數蘊、六數內處、六數外處,如是一切。
善き男士よ。「尽所有性(すべてを尽くした性質)」とは、あらゆる煩悩に汚れた状態と清らかな状態において、存在する一切の種類や限界を指す。例えば、五つの集まり(五蘊)、六つの内なる感覚の場(内処)、六つの外なる感覚の場(外処)など、すべてがこれに当たる。
「如所有性者,謂即一切染淨法中,所有真如,是名此中如所有性。此復七種:一者、流轉真如,謂一切行無先後性;二者、相真如,謂一切法、補特伽羅無我性及法無我性;三者、了別真如,謂一切行唯是識性;四者、安立真如,謂我所說諸苦聖諦;五者、邪行真如,謂我所說諸集聖諦;六者、清淨真如,謂我所說諸滅聖諦;七者、正行真如,謂我所說諸道聖諦。當知此中由流轉真如、安立真如、邪行真如故,一切有情平等平等。由相真如、了別真如故,一切諸法平等平等。由清淨真如故,一切聲聞菩提、獨覺菩提、阿耨多羅三藐三菩提,平等平等。由正行真如故,聽聞正法,緣總境界勝奢摩他、毘鉢舍那所攝受慧,平等平等。
「如所有性」とは、あらゆる汚れたものと清らかなものの法(現象)の中にある真実そのもの、すなわち真如を指します。この真如には七つの種類があります。
第一に「流転真如」―あらゆる行為(行)には前後の区別がなく、流れゆくままであるという真実。 第二に「相真如」―すべての現象には「自己」という実体がなく(人無我)、また現象そのものにも実体がない(法無我)という真実。 第三に「了別真如」―あらゆる行為は、ただ認識(識)の働きに過ぎないという真実。 第四に「安立真如」―私(仏)が説いた「苦しみの真理」(苦聖諦)という真実。 第五に「邪行真如」―私が説いた「苦しみの原因の真理」(集聖諦)という真実。 第六に「清浄真如」―私が説いた「苦しみの滅びの真理」(滅聖諦)という真実。 第七に「正行真如」―私が説いた「苦しみを滅する道の真理」(道聖諦)という真実。
このうち、流転真如・安立真如・邪行真如によって、すべての生きとし生けるものは等しく平等です。また、相真如・了別真如によって、すべての現象(諸法)は等しく平等です。さらに、清浄真如によって、声聞の悟り・独覚の悟り・無上正等覚(仏の悟り)はすべて等しく平等です。そして、正行真如によって、正しい教えを聞き、全体的な対象(総境界)に基づく優れた止観(奢摩他・毘鉢舎那)によって培われた智慧は、等しく平等なのです。
「能取義者,謂內五色處、若心、意、識及諸心法。
執着する対象とは、内にある五つの色の領域(五感の対象)、心、意識、認識、そして心に伴うすべての働き(心所)を指す。
「所取義者,謂外六處。又能取義,亦所取義。
取られる意味とは、すなわち外の六つの境処(色・声・香・味・触・法)のことです。また、取る側の意味も、実は取られる意味でもあります。
「建立義者,謂器世界,於中可得建立一切諸有情界。謂一村田、若百村田、若千村田、若百千村田。或一大地至海邊際,此百、此千、若此百千。或一贍部洲,此百、此千、若此百千。或一四大洲,此百、此千、若此百千。或一小千世界,此百、此千、若此百千。或一中千世界,此百、此千、若此百千。或一三千大千世界,此百、此千、若此百千。或此拘胝、此百拘胝、此千拘胝、此百千拘胝。或此無數、此百無數、此千無數、此百千無數、或三千大千世界無數、百千微塵量等,於十方面無量無數諸器世界。
「建立の義とは、器世界において、その中にあらゆる有情の世界が成立することをいう。すなわち、一つの村や田んぼ、百の村や田んぼ、千の村や田んぼ、百千の村や田んぼのことである。あるいは、一つの大地から海の果てまで、その百、その千、その百千のことである。あるいは、一つの閻浮提(えんぶだい)、その百、その千、その百千のことである。あるいは、一つの四大洲、その百、その千、その百千のことである。あるいは、一つの小千世界、その百、その千、その百千のことである。あるいは、一つの中千世界、その百、その千、その百千のことである。あるいは、一つの三千大千世界、その百、その千、その百千のことである。あるいは、この倶胝(くてい)、この百倶胝、この千倶胝、この百千倶胝のことである。あるいは、この無数、この百無数、この千無数、この百千無数、あるいは三千大千世界の無数、百千の微塵の量に等しい、十方の方面に無量無数のあらゆる器世界のことである。」
「受用義者,謂我所說諸有情類,為受用故,攝受資具。
受用の意味とは、私が説いたところの、あらゆる有情たちが、生活を営むために必要な道具や品々を受け入れ、保持することである。
「顛倒義者,謂即於彼能取等義,無常計常,想倒、心倒、見倒。苦計為樂,不淨計淨,無我計我,想倒、心倒、見倒。
顛倒の意味とは、すなわち、認識する側などに関する、本来とは異なる捉え方のことです。無常であるものを常であると思い込むこと、これが想倒・心倒・見倒です。苦しみであるものを楽であると思い込むこと、清らかでないものを清らかであると思い込むこと、無我であるものを我であると思い込むこと、これらすべてが想倒・心倒・見倒です。
「無倒義者,與上相違。能對治彼,應知其相。
無倒の意味とは、先に述べたことと反対のものです。それに対処するための方法、すなわちその対治法の特徴について、よく知るべきです。
「雜染義者,謂三界中三種雜染:一者、煩惱雜染;二者、業雜染;三者、生雜染。
三界には三つの「雑染(けがれ)」があります。第一に煩悩という雑染、第二に業という雑染、第三に生存そのものの雑染です。
「清淨義者,謂即如是三種雜染,所有離繫菩提分法。
清らかさの意味とは、すなわちこの三種類の煩わしい汚れ(三種雑染)から離れて繋がれていることなく、悟りへと至る道の教え(菩提分法)のことです。
「善男子!如是十種,當知普攝一切諸義。
善男子(ぜんなんし)よ、以上の十の教えは、あらゆる真理を広くおさめていると知るべきである。
「復次,善男子!彼諸菩薩,由能了知五種義故,名為知義。何等五義?一者、遍知事;二者、遍知義;三者、遍知因;四者、得遍知果;五者、於此覺了。
「また、善き男子よ。その菩薩たちは、五つの意味をよく理解しているので『義を知る者』と呼ばれる。その五つとは何か。第一に、対象を全て知ること。第二に、意味を全て知ること。第三に、原因を全て知ること。第四に、その結果を全て得ること。第五に、それらを覚り了することである。」
「善男子!此中遍知事者,當知即是一切所知:謂或諸蘊,或諸內處或諸外處;如是一切。
善男子(ぜんなんし)よ。ここで「事(じ)を遍く知る」とは、知るべきすべてのものを意味します。すなわち、五蘊(ごうん)や、内なる六処(ないろくしょ)、あるいは外なる六処(げろくしょ)など、そのすべてを指します。
「遍知義者,乃至所有品類差別所應知境。謂世俗故、或勝義故,或功德故、或過失故,緣故,世故,或生、或住、或壞相故,或如病等故,或苦集等故,或真如、實際、法界等故,或廣略故,或一向記故、或分別記故、或反問記故、或置記故,或隱密故、或顯了故:如是等類,當知一切名遍知義。
「遍知とは、あらゆる種類の違いによって認識されるべき対象のことである。すなわち、世俗の観点からか、勝義の観点からか、功徳の観点からか、過失の観点からか、因縁の観点からか、世間の観点からか、あるいは生・住・壊の相の観点からか、あるいは病の喩えなどの観点からか、あるいは苦・集などの観点からか、あるいは真如・実際・法界などの観点からか、あるいは広略の観点からか、あるいは一向記・分別記・反問記・置記の観点からか、あるいは隠密の観点からか、顕了の観点からか――このような種類のもの全てを、遍知の義と知るべきである。」
「言遍知因者,當知即是能取前二菩提分法,所謂念住或正斷等。
言って、遍く知るための因とは、まさに知るべきです。それは、先の二つの菩提分法(悟りの要素)を取る能力のことです。すなわち、念処(気づきの確立)や正断(正しい努力)などです。
「得遍知果者,謂貪、恚、癡永斷毘奈耶,及貪、恚、癡一切永斷諸沙門果。及我所說聲聞、如來若共不共世出世間所有功德,於彼作證。
遍知の果を得るとは、すなわち貪り・怒り・無知が完全に滅び去った「律(ヴィナヤ)」と、貪り・怒り・無知がすべて永遠に断たれた「沙門果(修行者としての果実)」のことである。また、私が説いた声聞(弟子)と如来(悟りを開いた者)の、共通しているものも、そうでないものも含めた、世間的および出世間的ありとあらゆる功徳を、それらのもとで自ら証することである。
「於此覺了者,謂即於此作證法中,諸解脫智,廣為他說、宣揚、開示。
この悟りを自ら証した者は、まさにこの証得の法において、さまざまな解脱の智慧を、広く他の人々に説き、宣べ伝え、明らかに示すのである。
「善男子!如是五義,當知普攝一切諸義。
善男子よ、この五つの義は、あらゆる義をすべて含み摂していると知るべきである。
「復次,善男子!彼諸菩薩,由能了知四種義故,名為知義。何等四義?一者、心執受義;二者、領納義;三者、了別義;四者、雜染清淨義。善男子!如是四義,當知普攝一切諸義。
復次に、善男子よ、それらの菩薩たちは、四つの義をよく理解できることによって、義を知る者と呼ばれます。どのような四つの義でしょうか。第一に、心が執受するという義です。第二に、領納するという義です。第三に、了別するという義です。第四に、雑染と清浄という義です。善男子よ、これらの四つの義は、すべての義をあまねく含みおさめていると知るべきです。
「復次,善男子!彼諸菩薩,由能了知三種義故,名為知義。何等三義?一者、文義;二者、義義;三者、界義。
さらに、善男子(ぜんなんし)よ。 菩薩たちが、この三つの意味(いみ)をよく理解するからこそ、「意味を知る者」と呼ばれるのです。
その三つの意味とは何でしょうか? 第一は「文字の意味」、 第二は「内容の意味」、 第三は「本質(ほんしつ)の意味」です。
「善男子!言文義者,謂名身等。
善男子(ぜんなんし)よ、「文」や「義」とは、名前などの言葉の集まりを指す。
「義義當知復有十種:一者、真實相;二者、遍知相;三者、永斷相;四者、作證相;五者、修習相;六者、即彼真實相等品差別相;七者、所依能依相屬相;八者、即遍知等障礙法相;九者、即彼隨順法相;十者、不遍知等及遍知等過患功德相。
義について知るべきことが、さらに十種類あります。 一、真実の姿(実相) 二、すべてを知り尽くすことの相 三、完全に断ち切ることの相 四、自らが悟りを証することの相 五、修行を積むことの相 六、その真実の姿などの、種類ごとの違いを分ける相 七、よりどころとなるものと、それに依るものとの関係の相 八、すべてを知ることなどを妨げる、障害となる法の相 九、それに沿って進む、助けとなる法の相 十、すべてを知らないことなどの過ちと、すべてを知ることなどの功徳の相
「言界義者,謂五種界:一者、器世界;二者、有情界;三者、法界;四者、所調伏界;五者、調伏方便界。
ここで「界」と言うのは、五つの種類を指します。 第一は、器世界(物質的な環境世界)。 第二は、有情界(生きとし生けるものの世界)。 第三は、法界(真理や現象の法則の世界)。 第四は、所調伏界(教えによって導かれるべき者たちの世界)。 第五は、調伏方便界(その者たちを導くための方法の世界)です。
「善男子!如是五義,當知普攝一切諸義。」
「善男子よ。この五つの義が、あらゆる義を広く含んでいることを知るべきである。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!若聞所成慧了知其義,若思所成慧了知其義,若奢摩他、毘鉢舍那修所成慧了知其義,此何差別?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊よ。もし、聞くことによって得られた智慧がその意味を理解し、もし、考えることによって得られた智慧がその意味を理解し、また、止観の修行によって得られた智慧がその意味を理解するならば、これらにはどのような違いがあるのでしょうか?」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!聞所成慧,依止於文,但如其說,未善意趣,未現在前,隨順解脫,未能領受成解脫義。思所成慧,亦依於文,不唯如說,能善意趣,未現在前,轉順解脫,未能領受成解脫義。若諸菩薩修所成慧,亦依於文亦不依文,亦如其說亦不如說,能善意趣,所知事同分三摩地所行影像現前,極順解脫,已能領受成解脫義。善男子!是名三種知義差別。」
仏は慈氏菩薩に告げて言われた。「善男子よ。聞によって生じる智慧は、言葉に依り、その説かれた通りに理解するものの、まだその真意を深く会得しておらず、心に現前しておらず、解脱に向かってはいるが、まだ解脱そのものを体得してはいない。
思によって生じる智慧もまた、言葉に依るが、ただ説かれたままというわけではなく、その真意をよく会得するものの、心に現前しておらず、より解脱へと向かうが、依然として解脱そのものを体得してはいない。
しかし、菩薩が修することによって生じる智慧は、言葉に依ることもあれば、依らないこともあり、説かれた通りに理解することもあれば、そうでないこともある。その真意をよく会得し、対象を正しく観ずることで、心に映る影像が現前し、解脱へと完全に向かい、すでに解脱そのものを体得しているのである。
善男子よ。これが三種の、『意味を知る』ことの違いである。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!修奢摩他、毘鉢舍那諸菩薩眾,知法知義,云何為智?云何為見?」
慈氏菩薩が、さらに仏に申し上げました。「世尊(仏さま)、奢摩他(止)と毘鉢舎那(観)を修行する菩薩たちは、法を「知る」と「義(意味)」を「知る」と言われますが、その『智』とは何なのでしょう? また『見』とは何なのでしょう?」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!我無量門宣說智、見二種差別,今當為汝略說其相。若緣總法修奢摩他、毘鉢舍那所有妙慧,是名為智;若緣別法修奢摩他、毘鉢舍那所有妙慧,是名為見。」
仏は慈氏菩薩に告げて言われた。「善き男子よ。私は無数の方法で智慧と見解という二つの違いを説いてきたが、今、その概略をあなたに示そう。もし全体としての法(真理)に基づいて止観(奢摩他・毘鉢舍那)を修める時に生じる優れた智慧を『智』と呼ぶ。そして個別の法に基づいて止観を修める時に生じる優れた智慧を『見』と呼ぶ。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!修奢摩他、毘鉢舍那諸菩薩眾由何,作意何等?云何除遣諸相?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊よ、奢摩他(静寂)と毘鉢舍那(観察)を修行する菩薩たちは、どのような心構えで、何を対象として、いかにして諸々の表象を取り除くのでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!由真如作意,除遣法相及與義相;若於其名及名自性無所得時,亦不觀彼所依之相,如是除遣。如於其名,於句、於文、於一切義,當知亦爾。乃至於界及界自性無所得時,亦不觀彼所依之相,如是除遣。」
仏が慈氏菩薩に告げられた。「善男子よ。真如(しんにょ)への気づきによって、法の相と意味の相は取り除かれる。もし名称とその本質(じっしょう)が得られないと悟ったなら、そのよりどころとなる相にも執着してはならない。このようにして、それらは除かれるのだ。 名称についてそうであるように、句、文字、すべての意味についても同じであると知るがよい。さらに、認識の領域と、その本質が得られないと悟ったなら、そのよりどころとなる相にも執着してはならない。このようにして、それらは除かれるのである。」
「世尊!諸所了知真如義相,此真如相亦可遣不?」
「尊よ、すべての認識された真理の本質、その真理の姿というものは、やはり取り除くことができるのでしょうか?」
「善男子!於所了知真如義中,都無有相,亦無所得,當何所遣?善男子!我說了知真如義時,能伏一切法義之相,非此了達餘所能伏。」
「善き人よ、悟られた真如の意味の中には、まったく姿形もなく、得るものもない。ならば、何を除くというのか? 善き人よ、私が真如の意味を説き明かす時、すべての教えや概念の形を静めることができる。この悟りは、他の何によっても静めることはできない。」
「世尊!如世尊說,濁水器喻、不淨鏡喻、撓泉池喻,不任觀察自面影相;若堪任者,與上相違。如是若有不善修心,則不堪任如實觀察所有真如;若善修心,堪任觀察。此說何等能觀察心?依何真如而作是說?」
「世尊よ。世尊がお説きになったように、濁った水の器の譬え、汚れた鏡の譬え、かき混ぜられた泉の池の譬えは、自分の顔の姿を映し見るには適さない。もし映し見るのに適するなら、それは先の譬えとは逆である。同じように、心を善く修めていない者は、ありのままに真実(真如)を観察することができません。しかし、心を善く修めた者は、それを観察することができます。この教えで言う、観察する心とは何なのでしょうか。また、どのような真如に基づいてこのように説かれたのでしょうか。」
「善男子!此說三種能觀察心,謂聞所成能觀察心,若思所成能觀察心,若修所成能觀察心。依了別真如作如是說。」
「善男子よ。ここで説く三種の心の観察とは、すなわち「聞くことによって得られる観察の心」、「考えることによって得られる観察の心」、「修行することによって得られる観察の心」です。これらは、真如を識別するという観点から、このように説かれているのです。」
「世尊!如是了知法義菩薩為遣諸相勤修加行,有幾種相難可除遣?誰能除遣?」
「世尊よ、このように法の意味を理解した菩薩が、あらゆる相(すがた)を払い除こうと修行に励むとき、除き難い相にはどのような種類があるのでしょうか。また、誰がそれを除き去ることができるのでしょうか。」
「善男子!有十種相,空能除遣。何等為十?一者、了知法義故,有種種文字相;此由一切法空,能正除遣。二者、了知安立真如義故,有生、滅、住、異性相續隨轉相;此由相空及無先後空,能正除遣。三者、了知能取義故,有顧戀身相及我慢相;此由內空及無所得空,能正除遣。四者、了知所取義故,有顧戀財相;此由外空,能正除遣。五者、了知受用義、男女承事資具相應故,有內安樂相、外淨妙相;此由內外空及本性空,能正除遣。六者、了知建立義故,有無量相;此由大空,能正除遣。七者、了知無色故,有內寂靜解脫相;此由有為空,能正除遣。八者、了知相真如義故,有補特伽羅無我相、法無我相,若唯識相及勝義相;此由畢竟空、無性空、無性自性空及勝義空,能正除遣。九者、由了知清淨真如義故,有無為相、無變異相;此由無為空、無變異空,能正除遣。十者、即於彼相對治空性,作意思惟故,有空性相;此由空空,能正除遣。」
「善男子、聞いてください。空には十の相を払い除く働きがあります。その十の相とは何でしょうか。
第一に、法の意味を理解しようとするとき、様々な文字の相が現れます。これはすべての法が空であることによって、正しく払い除かれます。
第二に、真実の意味(真如)が確かに存在することを理解しようとするとき、生じ、滅し、留まり、変化する相が続いて現れます。これは相の空と先後のない空によって、正しく払い除かれます。
第三に、認識する主体(能取)の意味を理解しようとするとき、自分の身体に執着する相と慢心の相が現れます。これは内空と得るもののない空によって、正しく払い除かれます。
第四に、認識される対象(所取)の意味を理解しようとするとき、財産に執着する相が現れます。これは外空によって、正しく払い除かれます。
第五に、受用する意味、つまり男女や奉仕者、道具などに関わるとき、内に安らかな楽しみの相、外に清らかで微妙な相が現れます。これは内外空と本来の空(本性空)によって、正しく払い除かれます。
第六に、様々な世界が成立する意味を理解しようとするとき、無量の相が現れます。これは大空によって、正しく払い除かれます。
第七に、形のない世界(無色)を理解しようとするとき、内的に静かな解脱の相が現れます。これは有為空によって、正しく払い除かれます。
第八に、相の真実の意味(相真如)を理解しようとするとき、人には我がないという相、法には我がないという相、唯識の相、そして勝義の相が現れます。これらは畢竟空、無性空、無性自性空、勝義空によって、正しく払い除かれます。
第九に、清らかな真実の意味(清浄真如)を理解しようとするとき、無為の相、変化しない相が現れます。これは無為空と無変異空によって、正しく払い除かれます。
第十に、それらの相に対する対治法としての空性を考え思惟するとき、さらに空性という相が現れます。これは空の空(空空)によって、正しく払い除かれます。」
「世尊!除遣如是十種相時,除遣何等?從何等相而得解脫?」
「世尊よ、この十の相を取り除くとき、どのようなものを取り除き、どのような相から解脱するのでしょうか?」
「善男子!除遣三摩地所行影像相;從雜染縛相而得解脫,彼亦除遣。善男子!當知就勝說,如是空治如是相,非不一一治一切相。譬如無明,非不能生乃至老死諸雜染法。就勝但說能生於行,由是諸行親近緣故。此中道理,當知亦爾。」
「善男子。三昧の中で対象として現れる影像のような形相を手放しなさい。そうすれば、煩わしい束縛という形相からも解放されます。善男子。悟りなさい。最も優れた教えとして、このように空性という修行は、こうした形相を対処しますが、決して一つひとつの形相をすべて治療しないわけではありません。例えば、無明という根本的な無知は、老いや死などのあらゆる煩わしい現象を生み出さないわけではありません。しかし、最も優れた教えとして、無明は特に「行」という次の現象を生むと言われます。なぜなら、それが「行」に最も直接的に近い原因だからです。この道理は、ここでも同じだと知りなさい。」
爾時,慈氏菩薩復白佛言:「世尊!此中何等空是總空性相?若諸菩薩了知是已,無有失壞於空性相,離增上慢?」
その時、慈氏菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊よ。これらの中で、どの空が『総空性の相』なのでしょうか。菩薩たちがこれを正しく理解すれば、空性の相を損なうことなく、増上慢から離れることができるのでしょうか。」
爾時,世尊歎慈氏菩薩曰:「善哉,善哉!善男子!汝今乃能請問如來如是深義,令諸菩薩於空性相無有失壞。何以故?善男子!若諸菩薩於空性相有失壞者,便為失壞一切大乘。是故汝應諦聽,諦聽!當為汝說總空性相。善男子!若於依他起相及圓成實相中,一切品類雜染、清淨遍計所執相,畢竟遠離性,及於此中都無所得,如是名為於大乘中總空性相。」
その時、世尊は慈氏菩薩に告げられた。「善きかな、善きかな。善男子よ、汝はよくも如来にこのような深遠な意味を問うた。それによって諸菩薩が空性の相において迷い損なうことがないであろう。なぜなら、善男子よ、もし諸菩薩が空性の相において迷い損なえば、それはすなわち大乗のすべてを損なうこととなるからである。ゆえに、汝はよく聞き、よく聞きなさい。今、汝のために総じて空性の相を説こう。
善男子よ、もし依他起相と円成実相の中において、あらゆる種類の雑染と清浄の遍計所執相が、究竟的に遠離する性質であり、その中に何ら得るものがないのであれば、これを大乗における総じての空性の相と名づける。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!此奢摩他、毘鉢舍那,能攝幾種勝三摩地?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊よ、この奢摩他(心の静けさ)と毘鉢舍那(内観の智慧)は、いくつのすぐれた三摩地(禅定)を含んでいるのでしょうか?」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!如我所說無量聲聞、菩薩、如來,有無量種勝三摩地,當知一切皆此所攝。」
仏は慈氏菩薩に告げられた。「善き男子よ。私が説いた無数の声聞、菩薩、如来には、無数の優れた三昧がある。しかし、それらはすべてこの三昧に含まれると知るべきである。」
「世尊!此奢摩他、毘鉢舍那以何為因?」
「世尊、この奢摩他(止)と毘鉢舎那(観)は、何を因として生じるのでしょうか?」
「善男子!清淨尸羅,清淨聞思所成正見,以為其因。」
「善き男子よ、清らかな戒律と、清らかな聞思によって正しい見解を成就することが、その因となるのです。」
「世尊!此奢摩他、毘鉢舍那以何為果?」
「世尊よ、この止(奢摩他)と観(毘鉢舍那)は、どのような果報をもたらすのでしょうか。」
「善男子!善清淨戒、清淨心、善清淨慧,以為其果。復次,善男子!一切聲聞及如來等,所有世間及出世間一切善法,當知皆是此奢摩他、毘鉢舍那所得之果。」
「善男子よ。清らかな戒律、清らかな心、清らかな智慧が、その果であるのです。また、善男子よ。あらゆる声聞や如来たちが持つ、世間的なものも世間を超えたものも含めたすべての善い法は、まさにこの「奢摩他(静寂)」と「毘鉢舍那(観察)」によって得られる果であると知るべきです。」
「世尊!此奢摩他、毘鉢舍那能作何業?」
世尊よ、この「止」と「観」は、いったいどのような働きをするのでしょうか。
「善男子!此能解脫二縛為業,所謂相縛及麁重縛。」
「善きかな、男子よ!この(観法)は、二つの束縛、すなわち「相の束縛」と「粗重の束縛」を解き放つはたらきをなすのです。」
「世尊!如佛所說五種繫中,幾是奢摩他障?幾是毘鉢舍那障?幾是俱障?」
世尊よ。仏がお説きになった五つの束縛(五蓋)の中で、どれが「奢摩他(サマタ・止)」の妨げとなり、どれが「毘鉢舎那(ヴィパッサナー・観)」の妨げとなり、どれが両方の妨げとなるのでしょうか。
「善男子!顧戀身財,是奢摩他障;於諸聖教不得隨欲,是毘鉢舍那障;樂相雜住,於少喜足,當知俱障。由第一故,不能造修;由第二故,所修加行不到究竟。」
「善き者よ、自分の体や財産に執着することは、奢摩他(しゃまた:心の静けさ)の妨げとなる。教えを思うままに受け入れられないことは、毘鉢舎那(びはっしゃな:物事をありのままに見る智慧)の妨げとなる。また、多くの人と群れて過ごすことを好み、わずかな満足で安心してしまうことは、この両方の妨げとなると知るべきである。第一の妨げによって、修行に取り組むことができず、第二の妨げによって、修行の努力が最終的な完成に至らないのである。」
「世尊!於五蓋中,幾是奢摩他障?幾是毘鉢舍那障?幾是俱障?」
「世尊よ。五つの蓋(心を覆い隠すもの)の中で、どれがサマタ(心の静けさ)の妨げとなり、どれがヴィパッサナー(物事をありのままに見る智慧)の妨げとなり、どれがその両方の妨げとなるのでしょうか。」
「善男子!掉舉、惡作,是奢摩他障;惛沈、睡眠、疑,是毘鉢舍那障;貪欲、瞋恚,當知俱障。」
「善男子よ。心の浮つきと後悔は、『奢摩他(しゃまた)』(心の静けさ)の妨げとなります。 また、心の沈みと眠気、そして疑いは、『毘鉢舎那(びばしゃな)』(ものごとをありのままに見る智慧)の妨げです。 さらに、欲望と怒りは、この両方の妨げとなることを知るべきです。」
「世尊!齊何名得奢摩他道圓滿清淨?」
世尊よ、何をもって奢摩他の道が円満に清らかであると名づけるのですか?
「善男子!乃至所有惛沈、睡眠正善除遣,齊是名得奢摩他道圓滿清淨。」
善き男子よ、さらに、すべての昏沈(こんじん)や睡眠(すいみん)を正しくうまく除き去るならば、これをもって奢摩他(しゃまた)の道が円満清浄に得られたと名づけるのです。
「世尊!齊何名得毘鉢舍那道圓滿清淨?」
「世尊(せそん)どのような基準によって、観察の道が完全で清らかになったとされるのでしょうか?」
「善男子!乃至所有掉舉、惡作正善除遣,齊是名得毘鉢舍那道圓滿清淨。」
「善男子(よき人よ)。さらにまた、あらゆる心の浮つきや落ち着きのなさ、そして後悔を、正しくうまく取り除くことができたならば、その時こそ、観察の道(ヴィパッサナー)が完全に清らかになったと言えるのです。」
「世尊!若諸菩薩於奢摩他、毘鉢舍那現在前時,應知幾種心散動法?」
世尊よ。もし諸々の菩薩が、奢摩他(止)と毘鉢舎那(観)を現前させるとき、いくつの心の散動法(散漫になる心の働き)を知るべきでしょうか。
「善男子!應知五種:一者、作意散動;二者、外心散動;三者、內心散動;四者、相散動;五者、麁重散動。善男子!若諸菩薩捨於大乘相應作意,墮在聲聞、獨覺相應諸作意中,當知是名作意散動。若於其外五種妙欲諸雜亂相,所有尋思隨煩惱中,及於其外所緣境中,縱心流散,當知是名外心散動。若由惛沈及以睡眠,或由沈沒,或由愛味三摩鉢底,或由隨一三摩鉢底諸隨煩惱之所染污,當知是名內心散動。若依外相,於內等持所行諸相,作意思惟,名相散動。若內作意為緣,生起所有諸受,由麁重身計我起慢,當知是名麁重散動。」
「善男子、知るべき五つの散乱があります。第一に、作意の散乱。第二に、外への心の散乱。第三に、内への心の散乱。第四に、相への散乱。第五に、重い煩悩による散乱です。
善男子、菩薩が大乗にかなった心の向け方を捨て、声聞や独覚にかなった心の向け方に陥ってしまうこと、これを『作意の散乱』と言います。
外にある五つの欲望の対象や様々な乱れの相について、あれこれと思い巡らし、やっかいな煩悩に染まり、さらに外の対象に心を勝手に散らしてしまうこと、これを『外への心の散乱』と言います。
または、眠気や睡眠、心の沈み込み、あるいは禅定の味わいに執着すること、あるいは何らかの禅定に伴う煩悩に染まってしまうこと、これを『内への心の散乱』と言います。
外の対象に基づいて、内側の心を落ち着ける中で現れる様々なイメージを、わざわざ意識的に思い描くこと、これを『相への散乱』と言います。
内側の心の向け方によって生じる様々な感覚があり、その重い煩悩を帯びた身体に基づいて「私」があると思い込み、慢心を起こすこと、これを『重い煩悩による散乱』と言います。」
「世尊!此奢摩他、毘鉢舍那,從初菩薩地乃至如來地,能對治何障?」
世尊よ、この奢摩他(止)と毘鉢舍那(観)は、菩薩の初地から如来の地に至るまで、どのような障りを対治するのでしょうか。
「善男子!此奢摩他、毘鉢舍那,於初地中,對治惡趣煩惱業生雜染障。第二地中,對治微細誤犯現行障。第三地中,對治欲貪障。第四地中,對治定愛及法愛障。第五地中,對治生死涅槃一向背趣障。第六地中,對治相多現行障。第七地中,對治細相現行障。第八地中,對治於無相作功用及於有相不得自在障。第九地中,對治於一切種善巧言辭不得自在障。第十地中,對治不得圓滿法身證得障。善男子!此奢摩他、毘鉢舍那,於如來地,對治極微細最極微細煩惱障及所知障。由能永害如是障故,究竟證得無著無礙一切智見。依於所作成滿所緣,建立最極清淨法身。」
「善き人よ。この止(サマタ)と観(ヴィパッシャナー)は、初地においては、悪趣における煩悩や業から生じる雑染の障りを対治します。第二地においては、微細な過ちを犯す現行の障りを対治します。第三地においては、欲望や貪りの障りを対治します。第四地においては、禅定への愛着と法への愛着の障りを対治します。第五地においては、生死と涅槃のどちらか一方にのみ偏って向かう障りを対治します。第六地においては、表象が多く現れる障りを対治します。第七地においては、微細な表象が現れる障りを対治します。第八地においては、無相において努力を要することと、有相において自在を得られないことの障りを対治します。第九地においては、あらゆる種類の巧みな言葉使いにおける自在を得られない障りを対治します。第十地においては、円満な法身の証得を得られない障りを対治します。善き人よ。この止と観は、如来の境地においては、極めて微細で、最も極めて微細な煩悩障と所知障を対治します。これらの障りを永遠に除き滅ぼすことができるがゆえに、ついには執着なく障りなき、一切智の見を証得します。成し遂げられた所作である所縁に依って、最も清らかな法身を建立するのです。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!云何菩薩依奢摩他、毘鉢舍那勤修行故,證得阿耨多羅三藐三菩提?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げました。「世尊(世に尊いお方)よ、どのようにして菩薩は、奢摩他(しゃまた:心の静けさ)と毘鉢舎那(びばっしゃ:物事をありのままに見る智慧)に依って、精進に修行を積むことで、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい:最高の悟り)を証得するのでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!若諸菩薩已得奢摩他、毘鉢舍那,依七真如,於如所聞所思法中,由勝定心,於善審定、於善思量、於善安立真如性中,內正思惟。彼於真如正思惟故,心於一切細相現行尚能棄捨,何況麁相?善男子!言細相者,謂心所執受相,或領納相,或了別相,或雜染清淨相,或內相,或外相,或內外相,或謂我當修行一切利有情相,或正智相,或真如相,或苦集滅道相,或有為相,或無為相,或有常相,或無常相,或苦有變異性相,或苦無變異性相,或有為異相相,或有為同相相,或知一切是一切已有一切相,或補特伽羅無我相,或法無我相。於彼現行,心能棄捨。
仏が慈氏菩薩に告げられた。「善き男子よ。もし菩薩たちがすでに奢摩他(止)と毘鉢舍那(観)を得て、七種の真如に従い、聞き、考えた法の中で、すぐれた定の心によって、よく審かに定め、よく考え、よく安立された真如の性の中で、心の内に正しく思惟するならば、彼らは真如を正しく思惟するゆえに、心はすべての細かな相の現れさえも捨て去ることができる。ましてや粗い相はなおさらである。」
「善き男子よ。細かな相とは、心によって執着された受ける相、あるいは感じ取る相、あるいは識別する相、あるいは雑染と清浄の相、あるいは内の相、あるいは外の相、あるいは内外の相、あるいは『私は一切の有情を利益する修行をすべきである』という相、あるいは正しい智慧の相、あるいは真如の相、あるいは苦・集・滅・道の相、あるいは有為の相、あるいは無為の相、あるいは常の相、あるいは無常の相、あるいは苦には変化する性質があるという相、あるいは苦には変化しない性質があるという相、あるいは有為の異なる相、あるいは有為の同じ相、あるいは『一切は一切であることを知る』という一切の相、あるいは補特伽羅(人)の無我の相、あるいは法の無我の相である。これらの現れに対して、心は捨て去ることができるのである。」
「彼既多住如是行故,於時時間,從其一切繫蓋散動,善修治心。從是已後,於七真如,有七各別自內所證通達智生,名為見道。由得此故,名入菩薩正性離生,生如來家,證得初地,又能受用此地勝德。彼於先時,由得奢摩他、毘鉢舍那故,已得二種所緣,謂有分別影像所緣,及無分別影像所緣。彼於今時得見道故,更證得事邊際所緣。復於後後一切地中,進修修道,即於如是三種所緣作意思惟。譬如有人,以其細楔出於麁楔。如是菩薩,依此以楔出楔方便,遣內相故,一切隨順雜染分相皆悉除遣。相除遣故,麁重亦遣。永害一切相麁重故,漸次於彼後後地中,如煉金法陶煉其心。乃至證得阿耨多羅三藐三菩提,又得所作成滿所緣。
彼がこのように修行を多く行う故に、時々、一切の煩悩の束縛や散乱から心を善く修養して治める。その後、七種の真如について、七種の個別に自己内部で証得する通達の智慧が生じる。これを「見道」と名付ける。これを得たる故に「菩薩の正性離生」に入ると名付けられ、如来の家に生まれ、初地を証得し、さらにこの地の優れた功徳を受用することができる。
彼は先に、奢摩他(止)と毘鉢舍那(観)を得たことにより、すでに二種の所縁を得ていた。すなわち、有分別影像の所縁と、無分別影像の所縁である。彼は今、見道を得た故に、さらに「事辺際所縁」を証得する。
その後、後のすべての地において、修道を進修し、この三種の所縁について作意して思惟する。例えば、ある人が細い楔を用いて太い楔を抜き出すように、この菩薩はこの楔を出す楔の方便に依って、内なる相を遣り除く故に、一切の随順する雑染の部分の相をことごとく除き遣る。相を除き遣る故に、麁重もまた除き遣られる。一切の相と麁重を永く害する故に、次第に後の地において、金を鍛える法のごとく心を陶煉する。ついには阿耨多羅三藐三菩提を証得し、また「所作成満所縁」を得る。
「善男子!如是菩薩於內止觀正修行故,證得阿耨多羅三藐三菩提。」
「善き人よ、このように菩薩が内なる止観を正しく修行することによって、阿耨多羅三藐三菩提(完全なる悟り)を証得するのである。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!云何修行引發菩薩廣大威德?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊よ、どのように修行すれば、菩薩の広大なる威徳を引き起こすことができるのでしょうか。」
「善男子!若諸菩薩善知六處,便能引發菩薩所有廣大威德:一者、善知心生;二者、善知心住;三者、善知心出;四者、善知心增;五者、善知心減;六者、善知方便。
善き男子たちよ、もし菩薩たちが六つの領域をよく知るならば、菩薩のあらゆる広大な威徳を引き起こすことができる。その六つとは、第一に心の生起をよく知り、第二に心の住することをよく知り、第三に心の出現をよく知り、第四に心の増長をよく知り、第五に心の減退をよく知り、第六に方便をよく知ることである。
「云何善知心生?謂如實知十六行心生起差別,是名善知心生。十六行心生起差別者:一者、不可覺知堅住器識生,謂阿陀那識;二者、種種行相所緣識生,謂頓取一切色等境界分別意識,及頓取內外境界覺受,或頓於一念瞬息須臾,現入多定,見多佛土,見多如來,分別意識;三者、小相所緣識生,謂欲界繫識;四者、大相所緣識生,謂色界繫識;五者、無量相所緣識生,謂空、識、無邊處繫識;六者、微細相所緣識生,謂無所有處繫識;七者、邊際相所緣識生,謂非想非非想處繫識;八者、無相識生,謂出世識及緣滅識;九者、苦俱行識生,謂地獄識;十者、雜受俱行識生,謂欲行識;十一、喜俱行識生,謂初二靜慮識;十二、樂俱行識生,謂第三靜慮識;十三、不苦不樂俱行識生,謂從第四靜慮乃至非想非非想處識;十四、染污俱行識生,謂諸煩惱及隨煩惱相應識;十五、善俱行識生,謂信等相應識;十六、無記俱行識生,謂彼俱不相應識。
心の生起を正しく知るとは、次の十六の行相に基づく心の生起の違いを、あるがままに知ることである。この十六の行相とは、次の通りである。
一、気づかれずに堅固に留まる器のような識が生じる。これを阿陀那識という。 二、様々な行相を対象とする識が生じる。これは、一瞬で色などのあらゆる境界を捉える分別意識、内外の境界や感覚を一瞬で捉える分別意識、あるいは一瞬のうちに多数の禅定に入り、多くの仏国土や如来を見る分別意識である。 三、小さな相を対象とする識が生じる。これは欲界に属する識である。 四、大きな相を対象とする識が生じる。これは色界に属する識である。 五、無量の相を対象とする識が生じる。これは空無辺処、識無辺処に属する識である。 六、微細な相を対象とする識が生じる。これは無所有処に属する識である。 七、限界の相を対象とする識が生じる。これは非想非非想処に属する識である。 八、相のない識が生じる。これは出世間の識と、消滅を対象とする識である。 九、苦しみを伴う識が生じる。これは地獄の識である。 十、様々な感覚を伴う識が生じる。これは欲界の行相の識である。 十一、喜びを伴う識が生じる。これは初禅と第二禅の識である。 十二、楽を伴う識が生じる。これは第三禅の識である。 十三、苦でも楽でもない感覚を伴う識が生じる。これは第四禅から非想非非想処までの識である。 十四、煩悩に染まった識が生じる。これは様々な煩悩や随煩悩と対応する識である。 十五、善を伴う識が生じる。これは信などの善心所と対応する識である。 十六、善でも悪でもない無記を伴う識が生じる。これは上記のいずれにも対応しない識である。
「云何善知心住?謂如實知了別真如。
善く心の住を知るとは、どのようなことか。それは、真実の如くに真如を了別することをいう。
「云何善知心出?謂如實知出二種縛:所謂相縛及麁重縛。此能善知,應令其心從如是出。
「心が出ることを善く知るとは、どのようなことか?それは、二つの束縛から出ることを、あるがままに知ることである。すなわち、『相の束縛』と『粗重の束縛』である。これを善く知って、心をこのようにして出させることができるようにすべきなのである。」
「云何善知心增?謂如實知能治相縛、麁重縛心,彼增長時,彼積集時,亦得增長,亦得積集,名善知增。
どのようにして心の増長を善く知るのか。それは、如実に相の束縛と粗重の束縛を対治できる心を知り、その心が増長する時、積集する時、それもまた増長し、積集することを善く知る、というのである。これを善く増長を知ると名づける。
「云何善知心減?謂如實知彼所對治相,及麁重所雜染心,彼衰退時,彼損減時,此亦衰退,此亦損減,名善知減。
「心の減をよく知るとは、どういうことか。それは、ある対治されるべき状態や、重くのしかかる煩悩に染まった心が、衰えたり、減ったりするときに、この心もまた衰え、減っていく、とありのままに知ることである。これを、『減をよく知る』という。」
「云何善知方便?謂如實知解脫、勝處、及與遍處,或修或遣。
方便を善く知るとは何か。それは、解脱、勝処、そして遍処について、ある時は修め、ある時は捨てることを、あるがままに知ることである。
「善男子!如是菩薩,於諸菩薩廣大威德,或已引發、或當引發、或現引發。」
「善き男子よ。このように、菩薩たちは広大な威徳(いとく)について、ある者はすでにそれを発現し、ある者は未来に発現し、ある者は今まさに発現しつつあるのです。」
慈氏菩薩復白佛言:「世尊!如世尊說:『於無餘依涅槃界中,一切諸受無餘永滅。』何等諸受於此永滅?」
慈氏菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊よ、世尊がおっしゃるように『無余依涅槃の境地においては、すべての感受(受)が余すところなく永遠に滅する』とありますが、どのような感受がこの中で永遠に滅するのでしょうか。」
「善男子!以要言之,有二種受無餘永滅。何等為二?一者、所依麁重受;二者、彼果境界受。所依麁重受,當知有四種:一者、有色所依受;二者、無色所依受;三者、果已成滿麁重受;四者、果未成滿麁重受。果已成滿受者,謂現在受。果未成滿受者,謂未來因受。彼果境界受,亦有四種:一者、依持受;二者、資具受;三者、受用受;四者、顧戀受。於有餘依涅槃界中,果未成滿受一切已滅,領彼對治明觸生受,領受共有。或復彼果已成滿受。又二種受,一切已滅。唯現領受,明觸生受。於無餘依涅槃界中般涅槃時,此亦永滅。是故說言於無餘依涅槃界中,一切諸受無餘永滅。」
「善男子、善女人よ。かいつまんで言えば、二種類の感受が残らず永遠に消え去る。その二つとは何か。第一は、よりどころとなる重い感受。第二は、その結果としての外界の対象による感受である。
よりどころとなる重い感受には、四種類があると知るべきである。第一は、物質的な身体をよりどころとする感受。第二は、物質を持たない(精神的な)よりどころによる感受。第三は、結果がすでに完成した重い感受。第四は、結果がまだ完成していない重い感受。
結果がすでに完成した感受とは、現在の感受のことである。結果がまだ完成していない感受とは、未来の原因となる感受のことである。
また、その結果としての外界の対象による感受にも四種類ある。第一は、支えとなるものへの感受。第二は、生活の道具への感受。第三は、実際に使用するときの感受。第四は、未練や執着の感受。
煩わしさの残る涅槃の境地(有余依涅槃)においては、結果がまだ完成していない感受はすべて消え去っている。そして、その対処法としての清らかな触れ合いから生まれる感受(明触生受)を、修行者たちと共有しながら体験している。あるいは、その結果としてすでに完成した感受も体験している。
さらに、この二種類の感受はすべて消え去っている。ただ、清らかな触れ合いから生まれる感受のみを現在体験しているのである。
煩わしさの残らない涅槃の境地(無余依涅槃)に入って完全に涅槃する時には、この感受も永遠に消え去る。それゆえに、「煩わしさの残らない涅槃の境地においては、すべての感受が残らず永遠に消え去る」と言われるのである。」
爾時,世尊說是語已,復告慈氏菩薩曰:「善哉,善哉!善男子!汝今善能依止圓滿最極清淨妙瑜伽道,請問如來。汝於瑜伽,已得決定,最極善巧。吾已為汝宣說圓滿最極清淨妙瑜伽道,所有一切過去、未來正等覺者,已說、當說皆亦如是。諸善男子、若善女人,皆應依此勇猛精進,當正修學!」
そのとき、世尊はこれらの言葉をお説きになってから、さらに慈氏菩薩に告げられました。「善いかな、善いかな、善男子よ。あなたは今、円満にして最も清らかな妙なる瑜伽の道に依り止まり、よく如来に問いを請うことができました。あなたは瑜伽について、すでに決定を得ており、最も善巧であります。私はすでにあなたのために、円満にして最も清らかな妙なる瑜伽の道を宣べ説きました。すべての過去・未来の正等覚者たちが、すでに説いた教えも、これから説く教えも、皆またこのとおりであります。もろもろの善男子、および善女人たちは、皆この教えに依り、勇猛に精進して、まさに正しく修学すべきであります。」
爾時,世尊欲重宣此義,而說頌曰:
その時、世尊はこの教えの意味を改めて明らかにしようと、次のように詩句でお示しになりました。
「於法假立瑜伽中,若行放逸失大義;
依止此法及瑜伽,若正修行得大覺。
見有所得求免離,若謂此見為得法,
慈氏彼去瑜伽遠,譬如大地與虛空。
利生堅固而不作,悟已勤修利有情,
智者作此窮劫量,便得最上離染喜。
若人為欲而說法,彼名捨欲還取欲,
愚癡得法無價寶,反更遊行而乞匃。
於諍諠雜戲論著,應捨發起上精進,
為度諸天及世間,於此瑜伽汝當學!」
爾時,慈氏菩薩復白佛言:「世尊!於是解深密法門中,當何名此教?我當云何奉持?」
その時、慈氏菩薩が再び仏に申し上げた。「世尊よ、この解深密の法門において、この教えをどのように名付けるべきでしょうか。私はどのようにしてこの教えを受け持てばよいのでしょうか。」
佛告慈氏菩薩曰:「善男子!此名瑜伽了義之教,於此瑜伽了義之教汝當奉持。」
仏は慈氏菩薩に告げられた。「善男子よ、これを瑜伽了義の教えと名付ける。この瑜伽了義の教えを、あなたはしっかりと受け止め、守りなさい。」
說此瑜伽了義教時,於大會中,有六百千眾生,發阿耨多羅三藐三菩提心;三百千聲聞,遠塵離垢,於諸法中,得法眼淨;一百五十千聲聞,諸漏永盡,心得解脫;七十五千菩薩,獲得廣大瑜伽作意。
このヨガの真実の教えが説かれた時、その大法会の中で六十万の者たちが、最高の完全なる悟りを求める心を起こしました。三十万の声聞たちは、煩悩の塵を離れ汚れを清め、あらゆる教えに対して真理を見通す清らかな眼を得ました。十五万の声聞たちは、すべての煩悩が永遠に尽き、心が完全に解脱しました。七万五千の菩薩たちは、広大なヨガの瞑想を獲得しました。
解深密經卷第三
解深密経 第三巻