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title: "正法念處經 · 1"
description: "正法念处经是佛教重要经典，由元魏时期译经师瞿昙般若流支翻译。该经属于小乘佛教典籍，成书于古印度，后传入中国。经文主要阐述通过正念观察身心现象，达到解脱的修行方法，详细分析六道轮回、因果业报等佛教核心教义。内容涵盖四念处修法、三十七道品等修行体系，强调通过观照身、受、心、法来破除执着。在佛教史上具有重要地位，是研究早期佛教禅修理论的重要文献，对后世禅修实践影响深远，被列为汉传佛教基本经典之一。"
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### 觀天品之十五夜摩天之初

> 観天品 第十五＜陽炎天の始め＞

「又彼比丘知業果報，精進不壞，觀察三十三天已上，復有何天在彼三十三天上住，光明勝妙，力命自在，勝彼三十三天果報？彼見聞知：於彼三十三天已上，復有一切法勝之堂，法果報勝，光明勝妙，名夜摩天。因三種戒故，得生彼夜摩天中，三者所謂不殺、不盜、不邪行等，善修不缺、不孔不穿，堅固不犯。一切聖人所愛讚戒，報常清涼，次第乃至得到涅槃，猶如善親，生死海中能渡如橋。若有上彼持戒橋者，是則能渡生死大海，到於彼岸。彼修行者復諦思惟見，彼比丘觀七種戒，果報業法有下中上，如前所說。正觀察已，又復觀察彼夜摩天須彌山上夜摩天處，以何為處？有何光明？高幾許住？如是觀察，彼見聞知：如不殺生及不偷盜、不邪行等樂修多作，自能持戒，教他持戒，自他利益，如是眾生得生彼天。

> その比丘は、業（カルマ）とその果報について理解し、精進の心が揺るぎなかった。彼は三十三天の上に、さらにどのような天があるのかを観察した。三十三天の上の天は、より勝れた光明と力、寿命、自在の力を持ち、その果報は三十三天を凌駕している。彼の見聞によれば、三十三天の上には、「一切法勝之堂」という場所があり、法の果報が勝れ、光明が勝妙である。これを夜摩天という。三種の戒（不殺生、不盜、不邪婬）をよく修め、欠けず、穴がなく、堅固に犯さず、すべての聖人が愛し讚える戒を保つことにより、その果報は常に清凉であり、次第に涅槃に至る。この戒は、まるで善き親のように生死の海を渡る橋である。この橋に上る者は、生死の大海を渡り、彼岸に至ることができる。 修行者はさらに深く観察し、比丘は七種の戒の果報と業の法が、下・中・上の三階層に分かれることを見た。先に述べた通りである。正しく観察した後、さらに夜摩天が須弥山の上の夜摩天処において、どのような場所にあり、どのような光明を放ち、どのくらいの高さに存在するのかを観察した。彼の見聞によれば、不殺生、不盜、不邪婬などの戒を楽しく多く修め、自ら戒を保ち、他者にも戒を保たせ、自他を利益する衆生は、この天に生まれるのである。

「彼夜摩天可高幾許？彼見聞知：高六十八百千由旬；彼夜摩天，須彌樓上兩倍高遠。

> 夜摩天の高さはどれほどでしょうか？正しい知識によれば、その高さは六十八万由旬です。夜摩天は、須弥山の頂上よりもさらに二倍、高く遠くにあるのです。

「彼夜摩天凡有幾地？舉高幾許？何物為地？彼見聞知：彼一切地有三十二，高五千由旬。彼夜摩天住於虛空，如虛空中所有雲聚，為風所持。如此地根，下有水持，水為風持，名閻婆風，持夜摩天如持雲聚。何等名為三十二地？一名勢力；二名乘處遊行；三名雲處遊行；四名積負；五名心相；六名山樹具足；七名廣博行；八名成就；九名勝光明圍；十名正行；十一名常樂；十二名增長法；十三名一向樂；十四名樂行；十五名種種雜；十六名心莊嚴；十七名風吹；十八名崇高；十九名沫旋行；二十名百光明岸；二十一名山聚行；二十二名月鏡；二十三名憶念量；二十四名遮尸迦；二十五名解脫禪；二十六名慢上慢；二十七名下入；二十八名階行；二十九名自身鏡；三十名慢身光明；三十一名上行；三十二名林光明。此等是彼夜摩天地，夜摩天王名牟修樓陀。如彼三十三天之主帝釋大王名憍尸迦，如是彼處夜摩天王名牟修樓陀。夜摩天王隨順法行，於帝釋王法神通樂其量多少，千倍為勝。牟修樓陀天王之身五由旬量，光明勝妙，帝釋王身一居賒量，夜摩天王牟修樓陀身量如是。夜摩天王牟修樓陀，一身分力，彼帝釋王百千和合所不能及，彼業因果亦復如是。

> 夜摩天には、どれだけの地があるのか。高さはどのくらいか。地は何からできているのか。 ここで見聞きしたところによれば、そのすべての地は三十二あり、高さは五千由旬である。 夜摩天は虚空にあり、虚空の中にある雲の集まりが風に支えられているかのようである。 地の根元は下に水があり、水は風に支えられ、その風を「閻婆風」という。この風が夜摩天を、雲の集まりを支えるように支えている。 それでは、三十二の地とは何か。 一、勢力 二、乗処遊行 三、雲処遊行 四、積負 五、心相 六、山樹具足 七、広博行 八、成就 九、勝光明囲 十、正行 十一、常楽 十二、増長法 十三、一向楽 十四、楽行 十五、種種雑 十六、心荘厳 十七、風吹 十八、崇高 十九、沫旋行 二十、百光明岸 二十一、山聚行 二十二、月鏡 二十三、憶念量 二十四、遮尸迦 二十五、解脱禅 二十六、慢上慢 二十七、下入 二十八、階行 二十九、自身鏡 三十、慢身光明 三十一、上行 三十二、林光明 これらが、夜摩天の地である。 夜摩天の王は、牟修楼陀という。 三十三天の主である帝釈大王が憍尸迦と呼ばれるように、ここ夜摩天の王は牟修楼陀と呼ばれる。 夜摩天王は法に従って行動し、帝釈王の法における神通や楽しみの量に比べると、千倍も勝れている。 牟修楼陀天王の身体は五由旬の大きさで、その光明はすばらしく勝れている。帝釈王の身体は一居賒の大きさだが、それに対して夜摩天王の身体はこのような大きさである。 夜摩天王・牟修楼陀の身体の一部分の力も、帝釈王の百千の力を合わせたものに及ばない。その業の因果もまた、このようなものである。

「如是比丘既觀察已，而說偈言：

> このように比丘が観察を終えて、次の詩句を唱えた。

「『如負少物者，度水則不沒；少惡業之人，上昇不下沈。如鳥翅堅牢，行空無障礙；持戒堅固者，則生於天中。』

> 『軽い荷物を背負った人は、水を渡っても沈まない。 わずかな悪業しか持たない人は、上昇して沈むことがない。 鳥の翼がしっかりと丈夫で、空を飛んで障害がないように、 戒律を堅固に保つ人は、天界に生まれることができる。』

「彼比丘如是觀察彼夜摩天樂果業因。彼夜摩天有四大山，彼一切山高萬由旬。何等名為四大山耶？一名清淨；二名無垢；三名大清淨；四名內像。是等名為四大山也。復有其餘種種異山，有無量種，有無量色、無量形相、無量功德。如是具有多千異山，多饒天花具足莊嚴，夜摩天中如是莊嚴。三十二地有種種山，種種莊嚴饒種種河，蓮花水池、百千園林周匝圍遶。一種形相香色味具。諸樹蓮花有種種味，如彼帝釋三十三天所有山河、蓮花水池、諸園林等勝妙之事，人中所有山河樹林、蓮花水池所不能及；彼夜摩天勝妙之事，三十三天所不能及亦復如是。何以故？因果多故。彼有無量善業福德，百種功德業因緣果，善業所化不可具說。以何因緣不可得說？種種業力動轉多故。如是業果，一切眾生所不能說。一切善業得天化生，夜摩天中如是種種不可具說。彼天果報千分之中，此可說一。何以故？若持戒者，必定得果，今此實說，若持戒人聞已心進，若修智人十倍力進。以何因緣知彼持戒如是差別？持戒之人生彼天中，修智之人則得涅槃。如是智戒功德已說，若彼已知如是戒果、如是智果，生如是心：『持戒尚爾，何況修智，我如是得。』彼人聞已，勤行精進，如是而說：『有中業果。』復以因緣異說有法：『彼天如是久住天中，受第一樂，無所妨礙，後時猶退，不得自在。況人中欲，多有諸過，少樂少味，動轉不住，常不安隱，能為破壞，與無量罰、恐怖賊等。』

> 「その比丘は、このように夜摩天における楽の果報とその業因を観察した。夜摩天には四つの大きな山がある。そのすべての山は高さが一万由旬である。それら四つの大山を何と名付けるか。第一を清浄、第二を無垢、第三を大清浄、第四を内像という。これらが四大山の名である。また、その他にも様々な種類の山々があり、無数の種類、無数の色、無数の形相、無数の功徳がある。このように多くの千もの異なる山々があり、多くの天の花で満ち、荘厳されている。夜摩天はこのような荘厳を持つ。三十二の地には様々な山々があり、様々な荘厳、様々な川、蓮華の池、百千もの園林に囲まれている。一つの形相に、香り、色、味がすべて備わっている。様々な樹木や蓮華には様々な味がある。帝釈天の三十三天にある山河、蓮華の池、諸々の園林などの素晴らしい事柄は、人間界にある山河、樹木、蓮華の池が及ばないのと同様に、夜摩天の素晴らしい事柄は三十三天も及ばないのである。なぜか。因果の豊かさによる。そこには無量の善業と福徳があり、百種の功徳による業因縁の果報があり、善業によって化現したものであるため、すべてを語ることはできない。何の因縁によって語ることができないのか。様々な業の力が動き、数多いからである。このような業の果報は、すべての衆生には語ることができない。一切の善業によって天に化生し、夜摩天におけるこのような様々なことはすべてを語ることはできない。その天の果報の千分の一さえ、ここで語ることができるのはその一つに過ぎない。なぜか。戒律を守る者は必ず果報を得る。今、このことを実際に説くならば、戒律を守る人はこれを聞いて心に精進が生じ、智慧を修める人は十倍の力を込めて精進する。どのような因縁によって、戒律を守ることの違いを知ることができるのか。戒律を守る人はその天に生まれ、智慧を修める人は涅槃を得る。このように智慧と戒律の功徳をすでに説いた。もし彼らがすでにこのような戒律の果報と智慧の果報を知り、『戒律を守ることですらこのようなのだから、まして智慧を修めることはなおさらだ。私はこのように得よう』という心を起こすならば、その人はこれを聞いて、勤めて精進する。このように『生存の中の業の果報』を説くのである。また、因縁によって別の法を説く。『その天人は、このように長く天の中に留まり、第一の楽を受けて妨げることがないとしても、後に必ず退転し、自在を得ることができない。まして人間の欲望には多くの過失があり、楽は少なく味わいも少なく、動き続けてとどまらず、常に安穏ではなく、破壊をもたらし、無量の罰や恐ろしい盗賊などがある』と。」

「彼如是等因緣說天，我復更有餘異因緣而說：彼天，外道之人有如是念：『一切皆是摩醯首羅之所造作，非業所得，更無人知。』遮彼外道，故說業果。實有業果，實有因生，非是異作，非無因有。一切因果，相似得果，因果相似，非從異因而得異果，非善業因生於地獄，非不善業因緣生天。然彼如是因果因緣，修施、戒、智必定業故，得生天中。如是說天苦樂二種，不可具說，天中之樂，彼業一分不可譬喻，此說少分。

> 「私はこのように因縁によって天について説いているが、また別の因縁によっても説くことがある。あの天について、外道の人々は『すべては摩醯首羅（大自在天）が造ったものであり、業による結果ではなく、他に知る者はいない』と考える。その外道の考えを防ぐために、私は業の結果があるのだと説くのである。実際に業の結果は存在し、実際に因によって生じるのであって、別のものが作り出したのでもなく、因なしに存在するのでもない。すべての因果は似たように結果を得る。因果は似ており、異なる因から異なる果を得ることはない。善業の因が地獄に生まれることはなく、不善業の因縁によって天に生まれることもない。しかし、因果の因縁はこのようであり、布施・戒律・智慧の修行という確かな業によって、必ず天に生まれるのである。このように天における苦楽の二つを説くが、すべてを詳しく述べることはできない。天における楽は、その業の一部分にすぎず、譬えによっても十分に表せない。ここではその一部を説くのである。」

「又彼比丘知業果報，次復觀察夜摩天地。彼見聞知：彼夜摩天有地分處，名為勢力。眾生何業生彼地處？彼見聞知：若人持戒，微塵等惡，見則生畏，其心正直，不諂不誑，不惱他人，正見不邪，不癡心念。觀此世間一切無常、苦、無我等，念佛法僧，不殺不盜，如前所說。又不邪行：心離、不樂、不行、不作，乃至飛鳥鴿等行欲，亦不觀看，乃至欲睡，心亦不念。若人如是，亦教他人，彼人為他說業果言：『汝勿如是，汝若作者，必入地獄。』彼人如是真見業果，如是不犯他妻婦等，於業生怖。彼人善業生彼地處，百千天女之所圍遶。纔生於彼，彼諸天女即於生時歌天音聲。彼天忽聞，如從睡覺，彼樂音聲始初出時，如是化生。於樂音聲，如是得念。彼歌音聲備有八分，功德具足：一者語；二者稱；三者甜；四者善合；五者相應；六者善深；七者一切愛樂；八者百萬由旬聲不妨礙，法句相應，清淨不濁。如是八分功德具足，勝妙音聲覺善業人。

> 次に、その比丘は業の果報を知り、さらに夜摩天を観察した。彼は見聞して知った。あの夜摩天には、「勢力」と名付けられた地処がある。いかなる業によって衆生はその地処に生まれるのか。彼が見聞したところによれば、もし人が戒律を保ち、微塵ほどの小さな悪であっても見れば畏れを抱き、その心は真っ直ぐで、へつらわず、欺かず、他人を悩ませず、正しい見解を持って邪見にならず、愚かさにとらわれず、この世の一切は無常・苦・無我であると観じ、仏・法・僧を念じ、不殺生・不偸盗を実践する（前述の如し）。さらに、邪な行いをしない。心はそれを離れ、楽しまず、行わず、為さない。鳥や鳩のような欲望の交わりも、見ることさえせず、眠ろうとする時でさえ心に思い浮かべない。もし人がこのように修行し、また他人にも教え、その人に向かって業の果報を説いて「あなたはそのようなことをしてはならない。もしすれば、必ず地獄に落ちる」と言うならば、その人は業の果報を真に見極め、他者の妻女などを犯さず、業に対して畏れを抱く。その人の善業によって、その地処に生まれるのである。彼は百千の天女に囲まれて生まれる。生まれると同時に、その天女たちは天の音声を歌う。その天人の声を聞くと、まるで眠りから覚めたかのようになり、その楽しい音声が最初に響き始めた時に、このように化生する。楽の音声によって、このように記憶がよみがえる。その歌の音声には八つの要素が備わり、功徳が満ちている。第一に言葉、第二に称賛、第三に甘美、第四に善く調和する、第五に相応する、第六に善く深い、第七に一切が愛楽する、第八に百萬由旬の距離でも音声が妨げられず、法句に相応し、清らかで濁りがない。このように八つの功徳を備えた、勝れた妙なる音声が、善業の者を目覚めさせるのである。

「彼於自身出妙光明，廣五由旬，青黃赤白如天上虹。即彼天子初生之時，有光明旋猶如日月暈輪端嚴。彼既起已，百千天女相隨圍遶，故有第一歡喜之心。天子天女共相隨從，如是往入，名光明林。

> その天子は、自らの体から五由旬もの広がりを持つ、青・黄・赤・白の美しい光を放ちました。それはまるで天の虹のようです。この天子が生まれた時、その光はまるで日や月の暈（かさ）のように美しく輝き、周囲を巡りました。天子が立ち上がると、何百、何千もの天女たちが寄り添い、取り囲みました。そのため、天子は最高の喜びの心を抱きました。天子と天女たちは互いに従い合い、このようにして「光明林」という場所へと入っていったのです。

「又於彼處夜摩天中，有花不蔫，彼花名為眼甘露花、香不壞花、善色香花。聞花名已，心則受樂，彼花則有如此勢力。何處何處說彼花名？彼處彼處虛空之中，出彼香花，名月勝花、常轉行花。若天念時，彼天樹花出聲而生，隨天行轉，隨彼天子所念何處，於彼處行。如是天子在彼樹上，行於虛空，在其花中，隨所念處，如是而行。猶如第二三十三天在堂上行，如是彼處夜摩天子在於花中，如是而行。光明赫焰而常下觀一切諸處，於一瞬頃，一切遍見而不疲惓。

> また、その夜摩天には、決してしおれることのない花がある。その花の名は、「眼甘露花」「香りが衰えない花」「美しい色香の花」という。その花の名を聞くだけで、心は自然と喜びに満たされる。それほどまでに、この花には力がある。この花の名が唱えられる所では、どこであっても、虚空から香り高い花々が現れる。それらは「月勝花」「常転行花」と呼ばれる。天子がその花を念じると、天の木々は音を立てて花を咲かせ、天子の進むままに従う。天子が思いを向けた場所へ、その花はともに進む。かくして天子は、その花の上に立ち、虚空を思いのままに遊行する。あたかも忉利天（とうりてん）の天子が、善見堂（ぜんけんどう）の上を歩むかのように、夜摩天の天子もまた、花の中を行くのである。その輝きは熾烈を極め、常にあらゆる場所を見下ろし、一瞬のうちにすべてを遍く見渡しても、疲れることはない。

「彼處復有名樂愛樹，彼樹可愛。於彼樹內何處可愛？入其內已，受天快樂。園林蓮花池水之中，有名隨順一切念樹。樹之勢力，若彼天子憶念之時，彼夜摩天一切地中一切勝物皆在其地。彼樹力故，樹中受樂，八分樂音不可稱計。彼中有樹，名香漂樹，彼有勢力，如彼天子憶念之香，如是樹中香為之出。彼復有樹，名花香樹，在彼樹內，如在房中戲樂無異。有好園林蓮花池水，彼夜摩天在中受樂。彼夜摩天在彼樹中，青黃赤紫妙色光明，備有種種香色具足。彼天若入，有一切種妙色皆生，彼天之身亦如是色。彼身衣色，一切盡滅，唯樹色現。又復有樹，名虛空行。於眼瞬頃，行虛空中百千由旬，隨念而去。彼樹光明如日不異。然彼天子，乘彼無量種種妙樹在空而行，百千天女圍遶相隨，鬘香塗身。彼天子身有勝光明。彼天子前有諸天女，種種妙衣莊嚴其身，喜笑歌舞，彼歌音聲周匝遍滿無量由旬。彼天女中，天子端正，且說少分。善業所得，如星中月，天子端正亦復如是。

> そこには「楽愛樹」という名の、まことに愛らしい木があります。なぜ愛らしいかというと、その木の中に入ると、天の楽しみを受けることができるからです。園林や蓮池の中には、「随順一切念樹」という名の木があります。この木の力は、天子が何かを思い浮かべると、夜摩天のあらゆる場所にある素晴らしいものが、その場に現れるというものです。この木の力によって、木の中で楽しみを受け、八分の楽音も数えきれないほど響きます。また、「香漂樹」という名の木があり、その力は、天子が香りを思い浮かべると、その香りが木から漂い出るというものです。さらに「花香樹」という名の木があり、その木の中はまるで部屋の中にいるように、遊び楽しむのに変わりがありません。美しい園林や蓮池があり、夜摩天の者たちはそこで楽しみを受けます。その夜摩天の者たちは、その木の中で、青・黄・赤・紫の見事な光明と、様々な香りや色を備えたものを味わいます。天子がその木の中に入ると、あらゆる種類の見事な色が生じ、天子の身もまたその色に染まります。天子の衣の色はすべて消え去り、ただ木の色だけが現れます。また、「虚空行樹」という名の木があります。瞬きする間に、虚空を百千由旬も飛び、思いのままに進みます。その木の光明は、太陽と変わりありません。そして天子は、無数の様々な見事な木に乗って虚空を進み、百千の天女たちが周りを取り囲んで従い、鬘や香を身に塗り固めています。天子の身には勝れた光明があります。天子の前には多くの天女たちがおり、様々な見事な衣で身を飾り、笑い歌い踊っています。その歌声は周囲に満ち渡り、無量由旬にも及びます。その天女たちの中で、天子はとりわけ端正です。その一端を述べるならば、善業の報いによって、星々の中の月のように、天子の端正さもまたその通りなのです。

「然彼天子千功德勝，種種樂聲，歌舞嬉戲入香林中。百千種鳥普遍彼林，無量河池、勝妙蓮花以為莊嚴，甚可愛樂，勝於百千日之光明，且以現事少分譬喻。猶如人中可愛園林流水河池，蓮花莊嚴，於彼四天大王天處十六分中不及其一。如是四天大王天處復於三十三天之處園林可愛，十六分中亦不及一。如是三十三天之處園林可愛，於夜摩天園林可愛十六分中亦不及一。如是次第善業勝故，以有上上勝善業故，園林可愛。設使一切眾生之中善智慧人，一心專意更無異作，方便善巧相應辯才，而亦不能說其一分。何以故？以非一切人境界故。彼處如是非一切人心之境界，設使第二三十三天共帝釋王於百千歲，亦不能說彼夜摩天一地之中受樂之事。何以故？以非境界，三十三天不曾見故、不曾聞故，故不能說。於彼善業，且說一分，不可具足一切盡說。此之善業，一切和集，決定受樂，不可思議。受樂之事，可愛之樂，唯說一分。譬如一切善巧畫師、若其弟子於壁等處，或畫為月或畫為日。然彼畫師而終不能畫作光明及其威德，不能令行、不能令照、不能令涼、不能令炙，唯可能畫輪形而已。說夜摩天亦復如是，唯說樂受，不能說其受樂可愛，不可得其勢力之實。若彼光明、若彼園林、若彼勝德、若歌若樂、若彼端正、若境界樂、若光明輪、若近天女種種受樂，唯可髣髴說其少分比類而已。

> かの天子は千の功徳にも勝れており、様々な楽の音や歌、舞、遊戯を楽しみながら香りの林に入っていく。百千種もの鳥がその林に満ち、無数の池や優れた蓮華が飾りとなり、實に愛らしい。その光は百千の太陽にも勝るが、今はほんの一部分を譬えに使うに過ぎない。 例えば、人間界の愛らしい園林や流れる川、池、蓮華の飾りが、四天王天の境の十六分の一にも及ばないように、四天王天の愛らしい園林も三十三天の境の十六分の一にも及ばない。さらに三十三天の愛らしい園林も、夜摩天の園林の十六分の一にも及ばない。このように、善い行いが優れているほど、さらに優れた善業があるため、園林はますます愛らしくなる。 仮に全ての衆生の中で最も優れた智慧ある人が、一心に専念し他事なく、巧みな方便と弁才をもってしても、その一端さえ語ることはできない。なぜなら、それは全ての人の境地ではないからだ。その境地は、まさに全ての人の心の及ぶところではない。仮に第二の三十三天が帝釋天王と共に百千年を費やしても、夜摩天の一地における楽しみを語ることはできない。なぜなら、それは三十三天が見たことも聞いたこともない境地だからである。 この善い行いについては、ほんの一部分だけを語り、全てを尽くして語ることはできない。この善業は一切が集まって、必ず楽しみを受けるという決まった結果をもたらすものであり、思い計ることさえできない。受ける楽しみや愛らしさについては、ただ一部分だけを語るに過ぎない。 例えば、全ての巧みな画家やその弟子が壁などに月や日を描いたとしても、その光や威徳を描くことはできず、動かしたり照らしたり、涼しくしたり暖めたりすることはできない。ただ丸い形を描くだけである。夜摩天についても同じで、楽しみを受けることだけは語れても、その楽しみの愛らしさや、真の力の実在を語ることはできない。その光や園林、優れた徳、歌や楽、端正さ、境地の楽しみ、光明の輪、天女に近づく様々な楽しみは、ほんの僅かに似たものを譬えとして語ることしかできないのである。

「又彼天子於彼天中戲樂之處，無量欲樂種種具足，無量濟口，園林莊嚴。如是地分，既觀察已，五欲境界功德牽心，境界力動令心不住，分別染轉，愛河所漂，普眼所見皆悉可愛。然彼天子如是見已，次復往向名無量欲具足林中，流水河池多有種種蓮花莊嚴，無量百千眾鳥音聲。到彼林已，於彼林中，本未曾見種種具足。共諸天女既到彼已，於彼蓮花河池之中，有真珠沙饒金銀鳥，其翅皆作青寶珠色。在彼河岸種種妙樹，莊嚴河岸，天子在中遊戲受樂。

> さらにその天子は、天界における娯楽の場で、無量の欲望の楽しみが様々に満ち溢れ、無数の入り江があり、園林が美しく飾られている場所がある。そのような土地を観察した後、五つの欲望の境地という功徳が心を引き寄せ、その境地の力が動いて心をとどまらせず、分別に染まり転じ、愛欲の川に流され、見渡す限りのすべてが愛おしいものに映る。その天子はそう見て、次に「無量の欲望が満ち足りた林」と名付けられた場所へと向かう。そこには流れる水や池があり、多くの様々な蓮華が飾り、無数の鳥たちの声が響いている。その林に到着すると、その林の中には、これまで見たことのない様々な満ち足りたものがあった。天女たちと共にそこに着くと、蓮華の池の中には真珠の砂があり、金や銀の鳥がいて、その翼はすべて青い宝珠の色をしている。その池の岸には様々な美しい木々が並び、河岸を荘厳している。天子はその中で遊び楽しむ。

「天子如是既受樂已，次復往向名寶岸林，多有天眾天女圍遶。見彼勝林殊妙七寶光明地分，隨於何處寶山之峯、流水河池、蓮花可愛。百千萬峯莊嚴山谷，彼地分分妙寶莊嚴。善業力故，令彼天子見諸天女而共嬉戲，遊行受樂。以善業故，彼善根因，相似得果，有無量種，如是無量種種受樂。然彼天子五欲功德，受勝樂已，次復往向名釋迦說地處之中。「彼處種種受天樂已，復為所愛境界牽心，分別勢力之所迷意，於彼所見境界不住。彼心獼猴，食天樂果，為果所醉，見諸天女生愛樂故，常行不住。何風所吹，令其常轉？在彼夜摩天眾之中，根不知足。境界之樂有無量種，極甚可愛，終不為他之所侵奪，他則無分，亦不為他之所能毀。

> 天子はこのようにして楽しみを受けた後、次に名宝岸林（めいほうがんりん）と呼ばれる場所へと向かいます。そこには多くの天の衆や天女たちが取り巻いています。その勝れた林を見ると、七宝の光輝く不思議な地面が広がっており、どこを見ても宝の山々の峰、流れる水、池、そして愛らしい蓮の花があります。百千もの峰々が谷を荘厳しており、その地面の一つ一つが美しい宝で飾られています。善い行いの力によって、その天子は多くの天女たちと共に戯れ、遊び楽しみます。善い行いの報いとして、その善根の原因に応じて、似たような結果が得られ、無量の種類があり、このように無数の様々な楽しみを受けます。しかし、その天子は五欲の功徳による優れた楽しみを受けた後、次に釈迦説（しゃかせつ）という場所へと向かいます。 そこでは様々な天の楽しみを受けますが、さらに愛する境遇に心を引かれ、分別の力によって心が迷わされ、見る境に留まることができません。その心は猿のようであり、天の楽の果実を食べ、その果実に酔い、天女を見て愛し楽しむために、常に留まらずに動き続けます。どのような風に吹かれて、常に転じ続けるのでしょうか？彼は夜摩天の衆の中にあって、官能は満足することを知りません。境遇の楽しみには無数の種類があり、極めて愛らしく、他者によって奪われることは決してなく、他者には分け前がなく、また他者によって壊されることもありません。

「又復普生妙寶蓮花，如是如是種種嬉戲，如是如是種種憶念。彼彼如是寶蓮花中，是善業得。若彼天主牟修樓陀夜摩天王如是思念：『我當在彼蓮花中坐，共諸天眾乘空而行。』即生心時，牟修樓陀夜摩天王共諸天眾於虛空中飛行而去，一切天眾如是飛行，身不微動。時一切天坐蓮花中，在於虛空五樂音聲歌舞喜笑，如是遊行受天之樂，五欲功德。彼天如是坐蓮花中，行受天樂。如日欲出，初沒之時，於人世間虛空端嚴，一切皆赤，彼天蓮花光明端嚴亦復如是。彼一切天極受快樂，受快樂已，次復往向名拘鞞羅眾林之中，名滑高山，向彼頂上，為受樂故。若彼天眾到山頂已，彼有無量七寶莊嚴流水河池，所有光明勝百千日。多有端正天子天女，無量七寶光明如日諸樹莊嚴彼天。既到滑高山已，於彼勝山嬉戲受樂，迭共遊行。下彼蓮花，次復更上，名白峯山，為戲樂故。然後方及牟修樓陀夜摩天王向天眾所，共諸天女相隨圍遶。彼諸天眾見已奉迎，心生歡喜，歌舞遊戲，相與往向牟修樓陀夜摩天王。

> また、素晴らしい宝の蓮華が次々と現れた。このように様々な遊びがあり、このように様々な思い出があった。それら一つ一つの宝の蓮華の中で、これらは善い行いによって得られたものだった。 もし天主である牟修楼陀夜摩天王が、こう思ったなら、「私はあの蓮華の上に座り、天の衆と共に虚空を飛んで行こう」と。その心が生まれた瞬間、牟修楼陀夜摩天王は天の衆と共に虚空の中を飛び去っていった。全ての天の衆はこうして飛行したが、身体は微動だにしなかった。その時、全ての天は蓮華の上に座り、虚空の中で五つの楽の音声と共に歌い、舞い、笑い、このように遊びながら天の楽しみ、五欲の功徳を受けていた。 彼ら天はこうして蓮華に座り、天の楽しみを受けながら進んだ。太陽が昇ろうとする時、初めて沈む時の、人間界の虚空の美しさ、全てが赤く染まる様子、あの天の蓮華の光の美しさもまた同じようだった。彼ら全ての天は極めて大きな喜びを受け、その喜びを受けた後、次に向かったのは、名を拘毘羅という多くの林の中にある、滑らかな高山だった。彼らはその頂上へ向かい、楽しみを受けるためだった。 もし彼ら天の衆が山頂に着くと、そこには無量の七宝で飾られた流れる水の川や池があり、その全ての光は百千の太陽よりも勝っていた。そこには多くの美しい天子や天女がおり、無量の七宝の光は太陽のようで、多くの木々がその天を飾っていた。彼らは滑らかな高山に着くと、その素晴らしい山で遊び、楽しみ、互いに連れ立って歩き回った。彼らはその蓮華を降り、次にさらに登り、名を白峯山という山へ向かった。それは遊び楽しむためだった。そうして後に、ようやく牟修楼陀夜摩天王が天の衆の元へ向かい、天女たちと共に互いに従い囲まれていた。彼ら天の衆はそれを見て迎え、心に喜びを生じ、歌い、舞い、遊び、互いに連れ立って牟修楼陀夜摩天王のもとへ向かった。

「自業得果，以彼善業有下中上，天樂亦爾有下中上，勝色亦爾有下中上，食亦如是有下中上，樂亦如是有下中上。如是乃至一切極劣下夜摩天所受之樂十六分中，帝釋天王所受之樂不及其一。彼帝釋王所受之樂尚不可說，況作三倍功德之業，百業行樂而當可說？彼天如是唯多善業。如是善業，持戒之人心常歡喜，有無量種。如是此說，夜摩天中受大快樂，悕望有故。

> 自らの善業に応じて、その報いを受ける。善行には下・中・上の三種があり、天の楽にもまた下・中・上がある。勝れた色にも下・中・上があり、食べ物にもまた下・中・上があり、楽しみにもまた下・中・上がある。このようにして、最も劣った夜摩天が受ける楽しみでさえ、帝釈天の受ける楽しみの十六分の一にも満たない。その帝釈天の楽しみすら言葉に尽くせないのに、ましてやその三倍の功徳の行いや、百倍の善行による楽しみなど、どうして言葉で表せようか。あの天は、このようにただ善業が多い。このような善業によって、戒を保つ人の心は常に喜びに満ち、無量无边の種類がある。ここに説かれたように、夜摩天では大きな楽しみを受ける。それは、そこに望みを抱くからである。

「又復如是牟修樓陀夜摩天王，種種百千分別憶念，無量種種功德成就，不可譬喻，受諸快樂。牟修樓陀夜摩天王滑高山上，彼蓮花中勝妙七寶，受快樂已，復見蓮花，如是思念：『我當入彼大蓮花內，既入彼已，一切天眾共受快樂。』即於念時，彼蓮花臺增長寬大，以善業故多有如是大蓮花臺，皆入其中。彼花臺內多有孔穴，彼孔穴中出大光明。彼蓮花內復有異天，昔未曾見，光明出過普百由旬，其光備有無量種色。

> さらにまた、牟修楼陀夜摩天王は、さまざまな百千の分別を憶念し、無量のさまざまな功徳を成就しており、譬えようもなく、様々な楽しみを受けていた。牟修楼陀夜摩天王は、滑らかな高き山の上で、その蓮華の中にある勝れた妙なる七宝の楽しみを受けた後、再び蓮華を見て、こう思った。「わたしはこの大きな蓮華の中に入ろう。入ったなら、全ての天の者たちと共に楽しみを受けよう。」と。そして、その思った瞬間に、その蓮華の台は増え広がり大きくなった。善業のゆえに、このような大きな蓮華の台が多くあり、その中に入った。その花台の内には多くの穴があり、その穴の中からは大いなる光が出ていた。その蓮華の中には、かつて見たことのない異なる天があり、その光は百由旬を超えて輝き、その光は無量の様々な色を備えていた。

「夜摩天王牟修樓陀及諸天眾見光明已，生希有心。『是何光明於此蓮花臺中而出？』爾時，天王牟修樓陀告天眾言：『汝見如是勢力光明，如是出不？』天眾答言：『唯然，已見。如是光明甚為希有。』

> 夜摩天の王、牟修楼陀と天の衆は、この光明を見て、希有の思いを抱いた。 「この蓮華の台座の中から、どのような光明が出ているのだろうか？」 そのとき、天王・牟修楼陀は天の衆に告げた。 「あなたたちは、このような力ある光明が、このように出ているのを見たか？」 天の衆は答えた。 「はい、見ました。このような光明は、まことに希有なものです。」

「爾時，如是夜摩天主又復告言：『一切天眾，今皆共我從蓮花門入蓮花臺，入已觀察。』爾時，如是一切天眾一心白言：『我等皆如夜摩天王意所希樂，我等意願亦復如是，我亦欲入大蓮花中，并諸天女相與共入。』

> その時、夜摩天の主はさらにこう告げました。 「天の衆生たちよ、今こそ私と共に、この蓮華の門から蓮華の台座へ入り、その中を観察しよう。」 すると、その場にいたすべての天の衆生たちは一心にこう答えました。 「私たちは皆、夜摩天王が望まれる通りにいたします。私たちの願いもまた同じです。天女たちと共に、この大いなる蓮華の中に入りたいと願っております。」

「爾時，天主牟修樓陀夜摩天王并諸天眾、諸天女眾，皆共入彼蓮花臺中，皆悉欲見希有之事。爾時相與欲從孔入，則有光明——如日光照火洋金聚更生日光——照諸天身，遍滿虛空。彼大蓮花臺中光明如是照耀，天皆見故，一切攝眼，不耐光明。時既入彼大蓮花中，生歡喜心、生希有心。『何因故有如是光明不可稱說，而我昔來未曾覩見？』爾時，天主牟修樓陀夜摩天王在天眾前，天眾在後相隨而入。夜摩天王心亦歡喜，而共入已，見有無量百千寶珠，百千光明照耀顯赫，多有無量遊戲之處園林莊嚴，無量百千宮殿莊嚴，光明遍滿，有無量樹百千莊嚴。復有無量七寶諸樹園林莊嚴，有無量色異異形相種種眾鳥，多有無量遊戲妙山莊嚴可愛，無量蓮花池水莊嚴，無量百千妙堂莊嚴，無量百千流水河池㵎谷莊嚴。如說一切色量形相七寶莊嚴，牟修樓陀夜摩天王猶尚不見，何況餘天。

> 爾時、天主ムシュローダ夜摩天王と天の衆、天女の衆は、共にかの蓮華の台の中に入り、皆、この稀なる事を見ようと欲した。 その時、彼らが互いに従って穴から入ろうとすると、光が現れた。それは、太陽の光が火のように輝く金の塊に当たり、さらに日光を生み出すかのような光であった。その光は、天の身を照らし、虚空に満ち渡った。かの大きな蓮華の台の中の光明は、このように輝き渡り、天の者たちは皆それを見て、目を閉じざるを得ず、光明に耐えることができなかった。 そして彼らがかの大きな蓮華の中に入ると、歓喜の心と希有の心を生じた。「何の理由で、このような言葉に尽くせぬ光明があり、昔から一度も見たことがないのだろうか？」 その時、天主ムシュローダ夜摩天王は天の衆の前に立ち、天の衆は後に従って、共に入った。夜摩天王の心もまた喜び、共に入ると、無量の百千の宝珠があり、百千の光明が赫々と輝き、数え切れないほどの遊戯の場所があり、庭園や林が荘厳され、無量の百千の宮殿が荘厳され、光明が満ち渡っていた。また、数え切れないほどの樹木があり、百千の荘厳があった。さらに、無量の七宝の様々な樹木や、庭園の林の荘厳があり、無量の色、様々な形相、種々の鳥がいた。また、数え切れないほどの遊戯のための素晴らしい山々があり、愛らしく荘厳され、無量の蓮華の池の水が荘厳され、無量の百千の美しい堂が荘厳され、無量の百千の流水や河川、池、谷が荘厳されていた。まさに、一切の色や量、形相が七宝で荘厳されていたが、ムシュローダ夜摩天王でさえ、まだ見たことがないものであった。ましてや他の天の者たちはなおさらである。

「彼處如是蓮花臺中，河流清水。彼河兩岸皆是玻瓈，或有金岸或有銀岸，或有寶岸或有青色寶珠為岸，或有赤色蓮花寶岸，或有種種間錯寶岸。復有勝妙蓮花池水，有種種寶蓮花莊嚴，或有一色蓮花莊嚴，有種種色妙葉莊嚴，所謂青黃赤白等色蓮花莊嚴。彼若青葉，彼葉名為青色寶葉；若黃色者則名為金；若白色者則名為銀；若赤色者則名赤寶。如是無量種種蓮花在於如是大蓮花中。如是如是，彼天迭共心生歡喜，見彼蓮花無量百千種種諸蜂滿中莊嚴。

> そこには、蓮の台座の中に清らかな水が流れる川があります。その川の両岸は琉璃でできており、あるいは金の岸、銀の岸、宝の岸、青い宝石でできた岸、赤い蓮の花の宝の岸、あるいは様々な宝が織り交ぜられた岸となっています。さらに、素晴らしい蓮の池があり、様々な宝の蓮の花が荘厳しています。あるいは一色の蓮の花で飾られ、あるいは様々な色の美しい葉で飾られています。それは青、黄、赤、白などの色の蓮の花が荘厳しているのです。もし青い葉であれば、その葉は青い宝の葉と呼ばれます。黄色いものは金、白いものは銀、赤いものは赤い宝と呼ばれます。このように無量の様々な蓮の花が、大きな蓮の中にあります。そして、天の人々はその蓮の花を見て、互いに喜びの心を生じます。そこには無量百千の様々な蜂が満ちて、荘厳されているからです。

「諸天見已，復向異處，極大可愛園林之中遊戲之處。彼處多有種種樂音，既聞樂音，意甚愛樂，生歡喜心。天眾天女彼此更互歡喜心往，生希有心，入彼園林。多有種種眾鳥音聲，七寶莊嚴，其地柔軟，下足則容，舉足還起。一切普生歡喜之心，處處遍看，轉勝轉勝。彼天之心迭相愛樂，遊戲受樂。彼天久時迭相愛樂，如是遊戲受快樂已，復向異處，次第受樂。彼處名行種種寶地，既往彼處，音聲娛樂，種種音聲歡喜受樂，六欲境界，心愛樂見，多受欲樂而行放逸，嬉戲遊行。於彼地處見異功德，青黃赤白無量諸種，皆悉可愛。彼天如是於彼地處，次第復向名嬉戲山。受境界樂，猶未厭足。彼嬉戲山七寶莊嚴，多有無量種種諸鳥，種種妙色、種種形相，無量百千諸樹莊嚴，流水河池蓮花莊嚴，園林戲處。山谷嶮岸峻極之處，鹿眾莊嚴。天眾在彼嬉戲山中，五欲功德而受快樂，迭相愛念。彼天之身種種光明而為莊嚴，多有無量種種莊嚴勝妙天女共相娛樂。

> 天界の神々はこれを見て、また別の場所へと向かいました。そこには、実に愛らしい大庭園の中に遊び戯れる場所がありました。その場所には多くの様々な楽音が響き渡り、その音を聞いた神々は心から楽しみ、喜びの心を生じました。天の神々と天女たちは互いに喜びの心を持って訪れ、希有の思いを抱きながら庭園の中へと入って行きました。そこには多くの種類の鳥たちの鳴き声があふれ、七宝で荘厳されていました。地面は柔らかく、足を下ろせば沈み込み、上げればまた元に戻るほどでした。すべてのものから喜びの心が生じ、見渡す場所ごとに、さらに素晴らしく、さらに美しく感じられました。彼らの心は互いに愛し合い、遊び戯れて楽しみました。彼らは長い間、互いに愛し合い、そのように遊び楽しんだ後、また別の場所へと進み、順に楽しみを味わいました。 その場所は「種々の宝地を行く」と呼ばれ、そこへ赴くと、音声の楽しみや、様々な音声に喜びを感じながら楽しみ、六つの欲の境地に心を愛し楽しみ、多くの欲の楽しみを味わいながら放逸に過ごし、遊び戯れました。その地において、彼らは様々な功徳を見ました。青、黄、赤、白など、無量の色がすべて愛らしいものでした。神々はその地で、次に「嬉戯山（喜び戯れる山）」へと向かいました。彼らは境地の楽しみを受けていましたが、まだ飽き足りませんでした。 その嬉戯山は七宝で荘厳され、無数の様々な鳥たち、様々な妙なる色、様々な形姿をした多くの鳥がいて、無量の百千の樹木が飾り立て、流れる水や河や池、蓮華が荘厳され、庭園や遊び場がありました。谷間や崖、険しい岸辺の極まった場所には、鹿の群れが荘厳されていました。天の神々は嬉戯山の中で、五つの欲の功徳を楽しみながら楽しみ、互いに愛し合いました。彼らの身体は様々な光明で飾られ、無数の様々な荘厳と勝れた麗しい天女たちと共に楽しみ合いました。

「彼處如是復於久時受大快樂，未知厭足。次復往向作行重樓，復有行堂，向彼戲樂，未知厭足，五功德樂亦未厭足。無量分別，無量種欲，復更增長，大增長愛，復受無量種種快樂。彼諸天眾、諸天女眾彼此迭共歡喜受樂，如是復共夜摩天王牟修樓陀歡喜受樂。彼蓮花中光明照曜過百千日所有光明，勝而不熱。各於其根迭相愛樂，五根受樂，第一端正，見者甚樂。聖所愛戒，善淨勝果，有無量種無量分別、無量境界，受諸快樂。迭共一心，彼此更互心不相妨，共相敬重，迭清淨心，彼蓮花中久時受樂。如是之時，於境界中未知厭足。隨所憶念，從彼蓮花臺門出去，如是入故，還如是出。

> かの地にて、長きにわたり大いなる楽しみを受けても、飽き足りることを知らない。次に、再び「作行重楼（さぎょうじゅうろう）」と呼ばれる高楼へと赴き、そこにある「行堂（ぎょうどう）」へと向かい、遊び戯れ楽しんでも、飽き足りることを知らない。五つの功徳による楽しみにも、なお飽き足りない。無量の分別、無量の種類の欲がさらに増大し、愛着は大きく成長し、再び無量の種々の楽しみを受ける。それらの天衆と天女たちは、互いに喜び楽しみ合い、夜摩（やま）天王の牟修楼陀（むしゅるだ）と共に、喜び楽しみを受ける。かの蓮華の中にある光明は、百千の日の光を超えて輝くが、熱さはなく勝れている。それぞれが根を以って互いに愛し楽しみ合い、五根によって楽しみを受け、その姿は最も端正で、見る者を大いに楽しませる。聖者が愛する戒めの、善く浄らかな勝れた果報には、無量の種類、無量の分別、無量の境界があり、種々の楽しみを受ける。心を一つにして互いに妨げることなく、互いを敬い重んじ、清らかな心で、かの蓮華の中で長く楽しみを受ける。このような時にあっても、境界においては飽き足りることを知らない。心に憶念するところに従って、かの蓮華の台の門から出る。このように入り、またこのように出るのである。

「欲出之時，彼滑高山其中有鳥，名諦見鳥。鳥見彼天欲出去故，即為彼天而說偈言：

> 「出ようとする時、その滑らかな高山の中に、諦見鳥という名の鳥がいた。その鳥は、その天人が出て行こうとしているのを見て、その天人に向かって詩を唱えた。

「『此天身色空，年少亦復然，樂念念向盡，愚癡故不覺。如此天一切，無量妙善相，時輪所劈割，令身分散壞。如彼天身命，無量百種相，以其業盡故，死王之所殺。此天受樂久，恒常心放逸，自羂之所繫，將欲壞其樂。樂及安力命，能令愛別離，死王力甚大，在近臨欲至。若多放逸者，天羂臨欲到，必來奪樂命，速疾壞令盡。此久時破壞，常放逸行天，著勝樂未覺，為樂之所誑。此天失光明，諸根心劣減，墮於閻羅處，彼時則知果。此身念念變，樂念念無常，猶故染心天，無眼故不見。從愛至勝愛，恒常受行樂，若死王來至，不能到樂處。不知生死老，心見不生怖，彼後欲死時，於自業生悔。境界不厭足，諸根亦如是，若為智燈照，則除著樂闇。常習近境界，思念無量種，如火為風吹，熾然而增長。欲樂甚大力，常增欲火焰，智者諦思量，故能調境界。若常迷亂心，恒樂於境界，皆是癡力故，如是受戲樂。癡故樂近之，境界火增長，如薪與火合，為風之所吹。屬欲未厭足，常為欲所使，此天退天墮，天欲所誑故。前身受樂時，彼身集功德，念念命不住，彼壞何處去？如彼人身壞，天命爾不疑，雖久會當死，天身必破壞。此天境界樂，常著心不離，必當退此處，而不覺知苦。如此天所受，五欲功德樂，不及別天苦，十六分之一。如魚在水中，未曾有渴苦，於愛知足者，亦未曾有欲。若人不觀心，常愛行欲樂，長夜久時睡，苦惱不曾滅。癡故樂受樂，不覺知苦惱，後得衰惱時，乃知得何果。欲初似賢善，而實甚為惡，此為地獄使，專行不饒益。盲者信此欲，智眼者則離，猶嶮岸相似，如是墮地獄。謹慎第一友，常能作利益，放逸第一怨，故應近善友。欲遍一切身，如第一嚴毒，惡道第一導，所謂放逸是。若行於放逸，復染著境界，彼以愚癡心，常受諸苦惱。若不知是苦，不知觀察者，彼則與羊等，愛樂天亦爾。飲食樂欲樂，羊亦有此樂，若天亦如是，與羊則不異。以心力勝故，業亦如是勝，離業功德已，勝則不可得。天不畏而戲，是故住死中，死時既到已，方知其果惡。乃至未死來，意常不錯亂，黠慧意樂法，皆隨順法行。一切命皆失，一切樂皆盡，一切愛別離，汝死時欲至。死為第一惡，到曠野大道，更無如法歸，故應隨順法。有異法名死，所謂放逸心，放逸前破壞，然後為死殺。由法得命樂，故說法第一；法為不放逸，天道之導師。益不益不異，縛脫亦如是，放逸不放逸，功德過平等。由彼癡心故，令天無所知，共怨聚戲樂，智者則捨離。』

> この天人の身体や姿は空であり、若さもまた同じです。 楽しみは刹那ごとに滅びに向かい、愚かさゆえに気づかないのです。 このようにあらゆる天人は、無量の素晴らしい相を持ちながら、 時間の輪に打ち砕かれ、身体は散り壊れてしまいます。 あの天人の身体や寿命、無数の様々な相も、 その業が尽きたゆえに、死の王によって殺されるのです。 この天人は長く楽しみを受け、常に心が放逸で、 自らの罠に縛られ、その楽しみを壊されようとしています。

「如是彼處名諦見鳥，諦觀察已，訶責彼天無量種過。天未覺知，以有放逸覆其心故，憙樂境界，五欲功德。以樂受故，不覺真諦，故不覺退。如是天處必歸無常，一切世間悉當無常，而彼不覺。

> このように、その場所には「真実を見る鳥」と呼ばれる者が住み、真実の観察をした後に、あの天人の無数の過ちを叱り戒めた。しかし天人はそれに気づかず、その心が放逸に覆われているため、境界を楽しみ、五つの欲望の功徳に耽っていた。快楽に溺れているために、真実の教えに気づかず、そのために退転することにも気づかない。このような天の世界は必ず無常に帰するのであり、すべての世の中はすべて無常であるのに、彼らはそれに気づかないのである。

「又復彼天坐蓮花上，在滑高山并蓮花座，捨出離去，而身不動，向名廣池，有五百堂，七寶莊嚴，周匝欄楯，處處無量間錯莊嚴，復有異天於中受樂。又彼堂中皆有却入，在上高樓，多有重數。復有諸天心生歡喜，滿彼堂中，無量飲食衣服床敷，迭相愛敬，心不妨礙，常遊受樂，欲食恒豐，一切時有五樂音聲。彼處一切天女、天眾如是受樂。牟修樓陀夜摩天王坐蓮華臺，一切天眾皆共相隨，向彼廣池，忽然而至。既到彼已，彼舊住天既見王至，一切下樓，復有離於蓮花處者，有出堂者、離鉤欄者，一切皆從住處而出，生歡喜心，盡共奉迎牟修樓陀夜摩天王，皆向王走，生敬重心，生歡喜心，既見天王在虛空中，合掌在頂。禮敬王已，牟修樓陀夜摩天王在天眾前，一切天眾皆悉在後，若歌若舞，近彼廣池。彼處一切功德具足，無量妙堂皆悉作行，種種莊嚴，有種種鳥種種音聲，無量百千諸樹莊嚴，所有光明勝百千日。彼處多饒無量天眾，常受快樂，在夜摩天勝妙地上。夜摩天王到已則入，彼一切天心生歡喜，讚歎天主牟修樓陀。牟修樓陀夜摩天王以善妙語，先安慰之，乃臨廣池，到已次昇名見心樂勝妙堂上。彼堂珍寶光明照曜周匝彼處，種種間雜，多有無量勝相功德千千莊嚴，一切天眾之所圍遶。

> また、かの天人は蓮華の上に座っている。滑らかな高山の上、蓮華の座にありながら、身を動かさずにその場を離れ、広き池へと向かう。そこには五百の殿堂があり、七種の宝で荘厳され、周囲には欄干が巡らされている。至る所に限りないほど美しく装飾が施され、また別の天人がその中で楽を受けて遊ぶ。 さらに、その殿堂にはすべて奥まった部屋があり、高い楼閣が幾重にも重なっている。また多くの天人は心に歓喜を満たし、その殿堂の中には無量の飲食、衣服、寝具が満ちている。互いに敬い愛し合い、心に障りなく、常に遊び楽しみ、求める食べ物は常に豊かにあり、常に五種の楽音が響き渡る。そこでは全ての天女や天人がこのように楽しみを受ける。 牟修楼陀夜摩天王は蓮華の台に座し、全ての天人が共に従い、かの広き池へと忽然として到った。到着すると、もとからそこに住む天人は王の来臨を見て、皆楼閣から降りた。また蓮華の在所を離れる者、殿堂を出る者、欄干を離れる者もいた。皆その住まいから出て、歓喜の心を生じ、こぞって牟修楼陀夜摩天王を迎えに参った。王に向かって進み、敬いの心と歓喜の心を生じ、天王が虚空にいるのを見て、合掌して頭の上に捧げた。 礼拝を終えると、牟修楼陀夜摩天王は天人の行列の先頭に立ち、全ての天人はその後に従った。歌い、舞いながら、広き池に近づいた。そこには全ての功徳が具わり、無量の見事な殿堂が並び立ち、様々な荘厳が施され、様々な鳥が様々な声で鳴き、無量の百千の樹木が荘厳し、その光は百千の太陽よりも勝っていた。そこには限りない無量の天人が集い、常に楽しみを受け、夜摩天の勝れた妙なる地にあった。 夜摩天王は到着するとその地に入った。その全ての天人は心に歓喜を生じ、天主・牟修楼陀を讃嘆した。牟修楼陀夜摩天王は、善き妙なる言葉をもってまず彼らを慰め、それから広き池に臨んだ。到着すると、次に「見心を楽しませる」と名付けられた勝れた妙なる殿堂に上った。その殿堂は宝の光明で照り輝き、周囲は様々に飾り混ぜられ、数えきれないほどの勝れた相の功徳により千百の荘厳があり、全ての天人が周りを囲んでいた。

「夜摩天王昇彼堂已，第一勝相微妙光明師子之座——七寶莊嚴如是妙座一切樂觸具足而有——天王坐上，彼有第一宿舊天眾圍遶現前，多有無量諸天女眾於先歌舞。然後次第，彼宿舊天問天王言：『王於何處乘蓮花座，今來至此？已於久時不曾見王。』時宿舊天於彼天王第一尊重。爾時，天主牟修樓陀夜摩天王答天眾言：『我向於彼蓮花臺中見希有事，我向入彼蓮花臺中，一切諸天及諸天女俱共入已，一切皆見。』時彼天王如其所見希有之事，悉為舊天盡皆具說。如蓮花中種種功德，悉為舊天具足盡說。時彼舊天於先已曾勝勝見來，聞已不生希有之心。彼蓮花中種種勝事，於先已曾善見來故。

> 夜摩天王がその殿堂に昇ると、まず第一の勝相である微妙な光明を放つ獅子座がありました。それは七宝で荘厳され、このような妙なる座にはあらゆる楽しい触れ心地が具わっていました。天王がその座に坐ると、そこには第一の古参の天の衆たちが取り巻いて現れていました。また数え切れないほどの多くの天女たちが先に歌舞を奏でていました。そして順に、その古参の天たちが天王に問いました。「王よ、どこから蓮華の座に乗って、今ここに来られたのですか。長い間、王にお目にかかっておりませんでした。」その古参の天たちは、天王に対して第一の尊敬の念を抱いていました。 その時、天主である牟修樓陀夜摩天王は天の衆たちに答えました。「私は先ほど、あの蓮華の台の中で稀有なことを見ました。私はその蓮華の台の中に入り、すべての諸天や天女たちも共に入った後、皆でそれを見ました。」そこで天王は、自らの見た稀有なことをすべて古参の天たちに詳しく語りました。ちょうど蓮華の中にある種々の功徳を、すべて古参の天たちに余すところなく語ったのです。しかし、その古参の天たちは以前にすでに優れた見識を得ていたため、それを聞いても稀有な心を起こしませんでした。なぜなら、その蓮華の中の種々の勝れたことは、先にすでに善く見尽くしていたからです。

「時彼舊天於是乃為牟修樓陀夜摩天王說於舊法，作如是言：『願天王聽，我先曾聞此大蓮華有大勢力。此蓮花內大勢力者，隨心憶念，種種功德莊嚴具足。此夜摩天一切處中，除此更無如是樂處如蓮花中。如是先聞：「有迦那迦牟尼世尊、無上士、調御丈夫、天人師，出現於世。彼所說法，初中後善，義善語善，獨法具足清淨鮮白，演說正法，所謂：『此色，此色集，此色滅，此色滅道。如是此法初中後等。』如是說已。彼佛法中有多百千已見諦者，有得果者，如是次第得阿那含者、斯陀含者、須陀洹者，如是復有得四禪者、得三禪者、得二禪者、得初禪者。彼佛安住如是人已，復令餘人住十善法，隨順法行，令使多人，乃至無量百千億人行善業已，然後觀察『有何等人，我今調御？』彼以清淨過人天眼見『夜摩天，我應調御。』彼時此處夜摩天王名曰樂見，彼王內藏有善種子，身行放逸。彼王近身多有無量諸天之眾，善根淳熟，而多放逸，行放逸行。

> 時に、その旧天は牟修楼陀夜摩天王のために古の法を説いて、こう言った。 「天王よ、お聞きください。私は以前、この大蓮華には大いなる力があると聞きました。この蓮華の中にある大いなる力は、心のままに念じれば、あらゆる功徳を備えた荘厳が満ち足りるのです。この夜摩天のあらゆる所の中で、この蓮華のような楽しい場所は他にありません。こうも聞いています。 『かの迦那迦牟尼世尊、無上士、調御丈夫、天人師が世に現れ、その方が説かれた法は、初めも中も終わりも善く、意義も善く、言葉も善く、唯一の法が完全に清らかで明らかであり、正しい法を説かれた。すなわち「これが色であり、これが色の集まりであり、これが色の滅びであり、これが色の滅びに至る道である」と。このように法は初めも中も終わりも善かった。』 こう説かれました。その仏の教えには、多く何百・何千ものすでに真理を見た者たち、果を得た者たちがいました。順に、阿那含（あなごん）を得た者、斯陀含（しだごん）を得た者、須陀洹（しゅだおん）を得た者がいました。また同様に、四禅を得た者、三禅を得た者、二禅を得た者、初禅を得た者もいました。その仏はこのような人々を安住させた後、さらに他の人々を十善の法に住まわせ、法に従って行わせ、多くの人々、無量の百千億の人々に善業を行わせました。それからこう観察されました。 『どのような人々を、いま私が調御すべきか？』 その方は清らかで人間を超えた天眼でご覧になり、『夜摩天には、私が調御すべき者がいる』と見定められました。その時、ここの夜摩天王の名は楽見といい、その王の内蔵には善い種子がありましたが、身は放逸でした。その王の身近には無量の天の衆がおり、善根は純熟していながら多くは放逸で、放逸の行を歩んでいました。」

「『「彼迦那迦牟尼世尊以憐愍之，是故來上此夜摩處天世間中，為利益天，盡其苦故，為彼諸天除放逸故。盡漏比丘有五千人圍遶，共到夜摩天處，更勝光明，處處普遍。彼時諸天見佛世尊。若有諸天從本已來，未見佛者，謂佛是天，於天中勝。彼天於佛生希有心，不知是佛。而此佛色於諸天眾最為殊勝，一切功德皆悉具足，無異相似，光遍一切天之世間。彼天既見與佛世尊相隨聲聞，亦生勝上希有之心，作如是念：『彼是何人？如是形服而共此天相隨不離，圍遶而行。』

> かの迦那迦牟尼世尊は、哀れみの心をもって、この夜摩天の世間にやって来られました。それは天の人々を利益し、彼らの苦しみを尽くし、また彼らの放逸を取り除くためです。煩悩を尽くした比丘たち五千人が周囲を取り巻き、共に夜摩天に到着しました。その光はさらに勝れて明るく、あらゆる場所に広がりました。その時、天の人々は仏世尊をご覧になりました。中には、以前から一度も仏を見たことのない天の人々もいて、仏を天の中の最も勝れた者だと思いました。彼らは仏に対して希有の心を起こしましたが、これが仏であるとは知りません。しかし、この仏の姿は天の衆の中で最も際立って勝れ、すべての功徳を完全に備え、比べるものもなく、その光は天の世間全体に遍く照らしていました。天の人々は、仏世尊に随伴する声聞の姿を見て、さらに勝れた希有の心を起こし、こう思いました。「あの者たちは何者だろう。あのような姿や衣服をまとって、この天と共に離

「『「時彼天子即取種種勝妙蓮華向迦那迦牟尼世尊。爾時世尊見天子來，上昇虛空，示現種種勝妙神通，隨念分別無量功德。身上出水，色香味觸具足而有，彼處天水於十六分不及其一。其身頂上出火焰然，有無量種無量色光遍滿虛空，所謂青黃赤紫色等。復現異異勝妙神通，所謂一身以為多身，或為千身或百千身或為億身，所有光明遍滿一切天處世間，復令多身以為一身。世尊如是復現神通：夜摩天中一切地處，一一手捉舉置掌中，并諸園林流水河池擲在虛空，過眼境界，復還安置本所住處。世尊又復現大神通：彼處大山以手撥取擲虛空中，并諸園林河池、㵎谷及天女眾，不知所在，復還安置本所住處。其中諸天不覺動轉，如本不異。世尊又復現異神通：無量種色、無量種作無量形服，有無量種諸功德色。現大力勢，令彼天眾種種異見，或見如來在於山中，或見如來在園林中，或見如來在蓮花林，或見如來在堂中行，或見如來在於樹下，或見如來在河池中，或見如來在遊戲處園林之中，或見如來一切禪處，或見如來遍滿一切虛空之中坐禪而住，或見如來於虛空中敷具上坐。復虛空中若坐若行，若復經行，還復坐禪。

> 時にその天子は、さまざまな美しい蓮の花を取って、迦那迦牟尼世尊のもとへ向かいました。その時、世尊は天子が来るのをご覧になり、虚空に昇って、さまざまな優れた神通力を示されました。それは、無量の功徳を心に思い描きながら、一つ一つに応じて現れたものでした。身からは水が湧き出し、その水は色・香り・味・触れ心地がすべて備わっていました。天界にある水と比べても、その十六分の一にも及びません。また、頭の上からは炎が燃え上がり、無量の種類、無量の色の光が虚空に満ち広がりました。すなわち、青・黄・赤・紫などの色です。さらに、様々な優れた神通力を示されました。一つの身を多くの身とし、あるいは千の身、百千の身、億の身となり、その光はすべての天界や世間に遍満しました。また、多くの身を一つの身に戻されました。世尊はさらに神通力を示し、夜摩天のすべての場所を、一つ一つ手で掴んで掌の上に載せ、園林・流水・河池もろとも虚空に投げ上げ、目の届かぬ彼方にまで至らせてから、再び元の場所に戻されました。世尊はまた大きな神通力を示し、そこの大きな山を手で掴んで虚空に放り投げ、園林・河池・谷川、そして天女たちもろとも、どこにあるのか分からなくなるほど遠くに飛ばし、また元の場所に戻されました。その間、天々たちは動いたことに気づかず、もとのまま変わらずにいました。世尊はさらに異なる神通力を示されました。無量の種類の色、無量の種類の働き、無量の種類の姿や衣服、無量の功徳の色を現し、大きな力の勢いを示して、天々たちに様々な異なる見方をさせました。ある者は如来が山の中にいるのを見、ある者は園林の中にいるのを見、ある者は蓮の林の中にいるのを見、ある者は堂の中を歩いているのを見、ある者は木の下にいるのを見、ある者は河池の中にいるのを見、ある者は遊戯の場所や園林の中にいるのを見、ある者はすべての禅定の場所にいるのを見、ある者は虚空のすべてに満ちて坐禅しているのを見、ある者は虚空中に敷物を敷いて座っているのを見ました。また、虚空の中で座ったり、歩いたり、経行したり、また坐禅したりする様子も示されました。

「『「世尊又復示現神通，如是如是音聲說法，五樂音聲勝夜摩天。形夜摩天所有音聲如閻浮提烏鳥之聲，彼一切天如是劣減。彼天既聞如是聲已，皆悉捨離能歌慢心。

> 世尊が再び神通力を示されました。このようにして、様々な音声で法が説かれました。その五つの楽音の素晴らしさは、夜摩天の音楽をはるかに超えていました。夜摩天のあらゆる音声は、まるで閻浮提の烏の鳴き声のように劣って聞こえるほどでした。天の衆はその音声を聞いて、皆、歌に対する誇りの心を捨て去りました。

「『「世尊又復現異神通，所謂在彼虛空之中作諸天眾、化作天女，勝妙殊絕。形夜摩天、夜摩天女如螢火蟲。光明色量如是形相，服飾莊嚴，園林處樂皆悉勝妙，彼大天王并諸天眾見化天已，心生恥愧，皆見自身色光欲樂如草無異。彼夜摩天生如是見。

> 世尊はさらに別の神通力を現されました。すなわち、虚空の中で天人の群れを作り出し、天女たちを変化させたのです。その姿はこの上なく美しく、夜摩天や夜摩天女がまるで蛍の光のようにかすんで見えるほどでした。光の色や大きさ、その姿かたち、衣服や装飾、園林や楽しみに至るまで、すべてが優れて素晴らしいものでした。すると、あの大天王と天人の群れは、変化された天女たちを見て、心に恥ずかしさと後ろめたさを感じました。自分たちの身体の光や色、欲望の楽しみが、まるで草のように取るに足らないものであると、みなはっきりと見てしまったのです。夜摩天の者たちには、そのように見えたのでした。

「『「爾時，世尊知其根熟，知其深心知因果報，無障礙見。為欲利益一切世間極大悲心，如來世尊爾時即向夜摩天王樂見王所，現異神通，如向所現，一切神通盡為樂見，悉皆現之百倍勝前。爾時樂見夜摩天王一切慢心皆悉捨離。

> その時、世尊は彼の根機が熟しているのを知り、その深い心が因果応報を理解しているのを見て、何の妨げもなくはっきりと見通されました。一切世間を利益しようという極めて大きな慈悲の心から、如来世尊はその時、夜摩天王の楽見王のもとへ向かい、異なる神通力を示されました。先に示されたすべての神通力を、楽見王のためにすべて現し、その百倍にも勝るものでした。その時、楽見夜摩天王のすべての慢心は、ことごとく捨て去られました。

「『「彼時樂見夜摩天王亦復坐彼大蓮華中，亦如向者牟修樓陀夜摩天王大蓮花中遊戲受樂。

> その時、楽見夜摩天王もまた、その大きな蓮華の中に座しておられました。先ほどの牟修楼陀夜摩天王が大きな蓮華の中で遊戯し、楽しみを受けていたのと、まったく同じように。

「『「時彼世尊大蓮花中示現神通，然後復語夜摩天等，作如是言：『汝今所見一切皆是樂見所感。世尊為化，令使離慢。汝見其內遊戲之處，園林蓮華、河池山谷并妙堂等，境界行處，無量種見。』彼樂見王捨離慢心。

> その時、かの世尊は大いなる蓮華の花の上で神通力を示し、天部の神々にこう告げられました。「あなた方が今見ているものはすべて、楽見による感応である。世尊は教化のため、あなた方の驕りを離れさせようとされている。あなた方が内部に見る遊戯の場所、園林や蓮の花、河や池、谷、そして美しい殿堂など、その境地や行いは無量の見方がある。」かの楽見王は、驕りの心を捨て去ったのである。

「『「時彼世尊入大蓮花，化作一切，復於樂見夜摩天王住處之前有蓮華生，億百千葉，如來坐彼蓮花臺上，聲聞弟子坐其葉上，而現種種勝妙神通。或有飛至虛空中已，然後還至蓮花中者。復現種種異異神通。

> ときに、かの世尊（仏陀）は大いなる蓮華に入り、あらゆるものへと変化された。また、楽見夜摩天王の住まいの前に蓮華が生じ、その花びらは数えきれないほどであった。如来はその蓮華の台座に坐し、声聞の弟子たちはその花びらに坐って、さまざまなすぐれた不思議な力を現わした。ある者は虚空に飛び上がり、その後、再び蓮華の中に戻った。また別の者は、さらに異なる不思議な力を示した。

「『「時彼樂見夜摩天王作如是念：『此是何人？有何善業？以何勢力能作如是奇特之事？我之所有若多若少色光明等，甚為微劣，彼則為勝。』

> ある時、楽見夜摩天王はこう思いました。「この者は誰であろうか？どのような善い行いを積んだのか？どのような力でこのような不思議なことを成し遂げたのか？私が持っている光の色や輝きは、たとえ多くても少なくても、どれもとても劣っている。あの者は私よりも優れている。」

## 正法念處經卷第三十六

> 正法念処経 第三十六巻