(二)
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復次,應分別論。所謂論者即是法也。夫於法所宜善思惟,若能思惟則解其義。
さらに、教えを分別して論じるべきである。ここで論じるとは、すなわち法(真理)のことである。この法については、よく考えることが大切であり、もし考えることができれば、その意味を理解することができる。
我昔曾聞,有婆羅門名憍尸迦,善知僧佉論、衛世師論、若提碎摩論,如是等論解了分別。彼婆羅門住華氏城中,於其城外,有一聚落。彼婆羅門有少因緣,詣彼聚落,到所親家。時其親友以緣事故餘行不在,時憍尸迦婆羅門語其家人:「汝家頗有經書以不?吾欲並讀待彼行還。」時所親婦即為取書,偶得《十二緣經》而以與之。既得經已,至於林樹間閑靜之處,而讀此經。聞無明緣行,行緣識,識緣名色,名色緣六入,六入緣觸,觸緣受,受緣愛,愛緣取,取緣有,有緣生,生緣老病死憂悲苦惱,是名集諦。無明滅則行滅,行滅則識滅,識滅則名色滅,名色滅則六入滅,六入滅則觸滅,觸滅則受滅,受滅則愛滅,愛滅則取滅,取滅則有滅,有滅則生滅,生滅則老病死憂悲苦惱眾苦集聚滅。初讀一遍猶未解了,至第二遍即解無我。外道之法著於二見:我見、邊見,於一切法深知生滅無有常者,而自念言:「一切外論皆悉無有出生死法,唯此經中有出生死解脫之法。」心生歡喜,尋舉兩手而作是言:「我於今者,始得實論,始得實論。」端坐思惟深解其義,容貌熙怡如花開敷,復作是言:「我今始知生死繫縛,解出世法,乃悟外道所說諸論甚為欺誑,不離生死。」歎言:「佛法至真至實,說有因果,因滅則果滅。外道法中甚為虛妄,說言有果而無其因,不解因果,不識解脫。自觀我昔深生怪笑,云何乃欲外道法中度生死河?我昔外道求度生死,譬如有人沒溺恒河波浪之中,懼失身命,值則攀緣,既不免難沒水而死。我亦如是,遇彼外道求度生死,然其法中都無解脫出世之法,沒生死河喪善身命墮三惡道。今見此論,當隨順行,得出生死。外道經論如愚狂語,九十六種道悉皆虛偽,唯有佛道至真至正。六師之徒及餘智者,咸自稱為一切智人,斯皆妄語。唯佛世尊是一切智,誠實不虛。」時憍尸迦即說偈言:
私はかって、ある婆羅門がいたと聞きました。名を驕尸迦(キョウシカ)といい、僧佉論(サーンキヤ論)、衛世師論(ヴァイシェーシカ論)、若提碎摩論(ジャイナ教の論)など、様々な論を深く理解し、自在に解説する者でした。この婆羅門は華氏城(パータリプトラ)に住んでいましたが、城外にある村に用事があり、親戚の家を訪ねました。ところが、その親戚は所用で外出中でした。そこで驕尸迦は家人に、「あなたの家に経典はありますか?あの方がお戻りになるまで読んで待たせてください」と言いました。親戚の妻は書物を取り出しましたが、たまたま手にしたのが『十二縁経』でした。
経典を受け取った驕尸迦は、林の中の静かな場所に行き、これを読み始めました。そこにはこう記されていました。「無明(むみょう)に縁(よ)って行(ぎょう)があり、行に縁って識(しき)があり、識に縁って名色(みょうしき)があり、名色に縁って六入(ろくにゅう)があり、六入に縁って触(そく)があり、触に縁って受(じゅ)があり、受に縁って愛(あい)があり、愛に縁って取(しゅ)があり、取に縁って有(う)があり、有に縁って生(しょう)があり、生に縁って老・病・死・憂悲・苦悩が生じる。これを集諦(じったい)という。無明が滅すれば行が滅し、行が滅すれば識が滅し…(中略)…生が滅すれば老・病・死・憂悲・苦悩という苦しみの集まりも滅する。」
最初に一度読んだだけでは、まだ完全には理解できませんでしたが、二度目を読むうちに、「無我(むが)」の道理を悟りました。外道の教えは「我見(がけん)」と「辺見(へんけん)」という二つの見解に執着するものですが、彼はあらゆる事柄が生じては滅し、永遠なるものなどないことを深く知り、こう考えました。「あらゆる外道の論は、いずれも生死の迷いから出るための方法を示してはいない。ただ、この経典だけに、生死を脱する解脱の法がある。」彼は心から喜び、両手を挙げて叫びました。「私は今、ついに真実の論を得た!真実の論を得たのだ!」そして、静かに座ってその意味を深く考え、顔はまるで花が開くように晴れやかになりました。さらに言いました。「私は今初めて、生死の束縛を理解し、迷いを脱する法を悟った。そして、外道の説く論がいかに欺瞞に満ち、生死を離れていないかを知った。」彼は嘆息して言いました。「仏法こそ最も真実であり、因果の道理を説いている。因(原因)が滅せば果(結果)も滅する。ところが外道の教えは甚だ虚妄で、『果はあるが、その因はない』と説き、因果を理解せず、解脱も知らない。かつての自分の姿を振り返ると、本当に笑ってしまう。どうして私は外道の教えで、生死の大河を渡ろうとしたのか?まるで、波荒れる恒河(ガンジス川)に溺れた人が、命の危険を恐れて何かにつかまるが、それでも溺れ死んでしまうようなものだ。私も同じだった。外道に出会い、生死の彼方を求めながら、その教えには全く解脱の道がなく、生死の川に溺れ、善い身命を失い、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に堕ちてしまったのだ。今この経典を目にした以上、それに従い実践して、生死を脱しよう。外道の経論は愚か者や狂人の言葉に等しい。九十六種もの外道はいずれも虚偽であり、ただ仏道のみが最も真実で正しい。六師(六人の外道の指導者)や他の賢者たちは皆、自らを『一切智者』と称するが、それはすべて嘘である。ただ仏世尊のみが一切智であり、誠実で虚偽がないのだ。」こうして驕尸迦は、次の偈(うた)を唱えました。
「外道所為作,虛妄不真實,
猶如小兒戲,聚土作城郭。
醉象踐蹈之,散壞無遺餘,
佛破諸外論,其事亦如是。」
外道の行いは虚偽で真実ではなく、 まるで子供の遊びで土を積んで城を作るようなものだ。 酔った象に踏みつけられれば、跡形もなく崩れ去るように、 仏が外道の論を打ち破るのも、まさに同じである。
時憍尸迦婆羅門,深於佛法生信敬心,捨外道法除去邪見,晝夜常讀《十二緣經》。時其所親方與諸婆羅門歸還其家,問其婦言:「我聞憍尸迦來至於此,今何所在?」婦語夫言:「彼婆羅門向借經書,我取與之,不識何經。然其得已披攬翻覆,彈指讚歎熙怡異常。」夫聞其言即往其所,見憍尸迦端坐思惟,即問之言:「汝於今者何所思惟?」時憍尸迦說偈答曰:
時に、僑尸迦(きょうしか)というバラモンは、仏法に対して深く信心と尊敬の念を抱き、外道の教えを捨てて邪見を除き、昼夜常に『十二因縁経』を読誦していました。
ある時、その親しい友人が他のバラモンたちと共に家に帰ってきて、妻に尋ねました。「僑尸迦がここに来たと聞いたが、今どこにいるのか。」妻は夫に答えました。「あのバラモンが経典を借りに来たので、私は取り出して渡しましたが、それが何の経かはわかりません。しかし彼はそれを受け取ると、何度もめくり返しながら、指を鳴らして称賛し、喜びに満ちて普段とは違っていました。」
夫はその言葉を聞いて、すぐに彼のところへ行き、僑尸迦が端座して思索にふけっているのを見て、こう尋ねました。「あなたは今、何を考えているのですか。」その時、僑尸迦は偈を唱えて答えました。
「愚癡無智慧,周迴三有中,
如彼陶家輪,輪轉無窮已,
我思十二緣,解脫之方所。」
愚かさと智慧のなさによって、 三つの世界(欲界・色界・無色界)をさまよい歩く。 それは、あたかも陶工のろくろが、 果てしなく回り続けるかのようだ。 私はこの十二縁起(十二因縁)を思い、 そこに解脱への道を見いだす。
爾時親友即語之言:「汝於是經乃能深生希有之想,我釋種邊而得此經,將欲洗却其字,以用書彼毘世師經。」憍尸迦婆羅門聞是語已呵責親友:「汝愚癡人!云何乃欲水洗斯經?如是妙法宜用真金而以書寫,盛以寶凾種種供養。」即說偈言:
そのとき、友人が彼に言った。「あなたはこの経典に深く、めったにない思いを抱いているのですね。私はシャーキャ族のもとでこの経典を得ましたが、これからその文字を洗い流して、そこにヴェーダーンタの経典を書き写そうと思っています。」
カウシカ(コーシヤ)と呼ばれるバラモン(バラモン)はこの言葉を聞いて、友人を責めて言った。「愚かな人よ!どうして経典の文字を水で洗おうなどとするのか。このような素晴らしい教えには、まさに黄金を用いて書き写し、宝箱に納めて、様々な供養を捧げるべきである。」そして、次の詩句を唱えた。
「設我有財寶,以真金造塔,
七珍用廁填,寶案妙巾袠,
莊嚴極殊妙,而用以供養,
雖作如是事,尚不稱我意。」
たとえ私に財宝があり、純金で塔を建て、 七種の宝石で飾り立て、宝の机や見事な布で覆い、 荘厳を極めて見事に整え、それを供養に用いたとしても、 そのようなことをしても、まだ私の心は満たされないのです。
時其親友聞斯語已,甚懷忿恚而作是言:「今此經中有何深妙未曾有事?何必勝彼毘世師經,欲以真金種種珍寶而為供養?」時憍尸迦聞是語已,愀然作色而作是言:「汝今何故輕蔑佛經至於是乎?彼毘世師論極有過患,云何乃用比於佛語?如毘世師論,不知法相錯亂因果,於瓶因果淺近之法,尚無慧解分別能知,況解人身身根覺慧因果之義?」爾時其親友語憍尸迦言:「汝今何故言毘世師論不解因果?彼論中說破瓦以為瓶因,云何而言不解因果?」憍尸迦言:「汝毘世師論實有是語,然無道理。汝今且觀,如因於縷以為經緯然後有疊,瓶瓨亦爾,先有瓶故然後有瓦,若先無瓶云何有瓦?復次破瓦無用、瓶瓨有用,是以破瓦不得為因。現見陶師取泥成瓶、不用破瓦,又見瓶壞後有破瓦,瓶若未壞,云何有破?」時親友言:「汝意謂若毘世師論都無道理,我等寧可徒勞其功而自辛苦。」時親友徒黨諸婆羅門聞是語已心生愁惱:「若如其言,毘世師論即於今日不可信耶?」憍尸迦言:「毘世師論非但今者不可取信,於昔已來善觀察者久不可信。所以然者?昔佛十力未出世時,一切眾生皆為無明之所覆蔽,盲無目故,於毘世師論生於明想。佛日既出,慧明照了,毘世師論無所知曉,都應棄捨。譬如鵄鵂夜則遊行能有力用,晝則藏竄無有力用。毘世師論亦復如是,佛日既出,彼論無用。」
その友人、これを聞いて大いに怒り、こう言った。「今この経典の中に、何か深く妙なる未曾有の事柄があるというのか?なぜあのヴィシェーシカ経に勝るというのか?黄金や様々な宝を惜しみなく供養しようと思うのに。」 その時、カウシカ(帝釈天)はこれを聞いて顔色を変え、厳かに言った。「なぜあなたはこんなにも仏の経典を軽んじるのか?あのヴィシェーシカ論には大きな過ちがある。どうしてそれを仏の言葉と比べられようか?ヴィシェーシカ論は、法の相を理解せず、因果を混乱させている。例えば、瓶の因果という簡単な理法についてすら、分別して知る智慧もない。ましてや、人間の身体・感覚・悟りの因果の意味を理解できるはずがない。」 その時、友人がカウシカに言った。「なぜあなたはヴィシェーシカ論が因果を理解していないと言うのか?あの論では、割れた瓦が瓶の原因だと言っているではないか。どうして因果を理解していないと言えるのか?」 カウシカは言った。「確かにあなたのヴィシェーシカ論にはその言葉がある。しかし道理がない。よく考えなさい。例えば、糸があって縦横に織られて初めて布ができる。瓶もまた同じだ。まず先に瓶があって、その後で初めて瓦(破片)が生じる。もし最初に瓶がなければ、どうして瓦があり得ようか?さらに言えば、割れた瓦には使い道がなく、瓶には使い道がある。だから割れた瓦は原因とはなり得ない。確かに、陶工は土を取って瓶を作り、割れた瓦を使うことはない。また、瓶が壊れた後に初めて割れた瓦が生じる。瓶がもし壊れていなければ、どうして割れた瓦があり得ようか?」 その時、友人は言った。「あなたの意見では、もしヴィシェーシカ論に全く道理がないのなら、我々はただ無駄に努力して自ら苦労するだけではないか。」 その友人ら婆羅門の徒党はこれを聞いて心に憂い悩みを生じた。「もし彼の言う通りなら、ヴィシェーシカ論は今日をもって信じるに足りないものとなるのか?」 カウシカは言った。「ヴィシェーシカ論は、今日だけ信じるに足りないのではない。昔から、よく観察する者にはとうの昔に信じるに足りなかったのだ。なぜか?昔、十力の仏がまだ世に出ていなかった時、すべての衆生は無明に覆われ、目がなかったため、ヴィシェーシカ論に光明があるかのような錯覚を抱いていた。しかし仏という太陽が昇り、智慧の光で明らかに照らし出されれば、ヴィシェーシカ論には何の知識もなく、すべて捨て去られるべきものとなる。例えば、梟(みみずく)は夜には行動力があるが、昼には身を隠して無力になる。ヴィシェーシカ論も全く同じだ。仏という太陽が昇れば、あの論は無用となるのだ。」
親友復言:「若如汝言,毘世師論不如佛經,然此佛經寧可得比僧佉論耶?」憍尸迦言:「如僧佉經說有五分,論義得盡:第一言誓,第二因,第三喻,第四等同,第五決定。汝僧佉經中無有譬喻可得明了如牛犎者,況辯法相而能明了?何以故?汝僧佉經中說鉢羅陀那不生如常,遍一切處亦處處去。如僧佉經中說鉢羅陀那不從他生而體是常,能生一切、遍一切處去至處處。說如是事多有𠎝過。何以故?於三有中無有一法但能生物不從他生,是故有過。復次遍一切處能至處處,此亦有過,何以故?若先遍者,去何所至?若去至者,遍則不遍。二理相違其義自破。若如是者,是則無常。如其所言,不從他生而能生物,遍一切處去至處處。是語非也。」
親友がまた言った。「もしあなたの言う通りなら、ヴィシェーシカ論は仏経に及ばない。しかし、この仏経はサーンキヤ論と比べられるものなのか?」 コーシカが答えた。「サーンキヤ経には五分(五つの構成要素)があって議論が尽くされると説く。第一に誓約(主張)、第二に因(理由)、第三に喩(例証)、第四に等同(類推)、第五に決定(結論)である。あなたのサーンキヤ経には、牛のこぶのような明らかな喩えがない。ましてや法の姿を論じて明らかにすることなどできようか。なぜなら、あなたのサーンキヤ経が説くプラダーナ(根本原理)は、生まれず、常であり、一切の場所に遍在し、またあらゆる場所へ赴くという。このようなことには多くの誤りがある。なぜなら、三界の中に、ただ他から生まれずに物を生み出すだけの法は一つもないからであり、それゆえに誤りがある。さらに、一切の場所に遍在し、あらゆる場所へ赴くというのも、これまた誤りがある。なぜなら、もし先に遍在しているならば、どこへ赴くというのか。もし赴くのならば、遍在ということは成り立たない。この二つの道理は相反し、その意味は自ずから破れる。もしこのようであるならば、それは無常である。彼の言う通り、他から生まれずに物を生み出し、一切の場所に遍在し、あらゆる場所へ赴くというのは、正しくない。」
親友婆羅門聞是語已,語憍尸迦言:「汝與釋種便為朋黨,故作是說。然佛經中亦有大過,說言生死無有本際,又復說言一切法中悉無有我。」時憍尸迦語親友言:「我見佛法生死無際,一切無我,故吾今者敬信情篤。若人計我,終不能得解脫之道,若知無我則無貪欲,無貪欲故便得解脫。若計有我則有貪愛,既有貪愛遍於生死,云何能得解脫之道?復次,若言生死有初始者,此初身者,為從善惡而得此身?為不從善惡自然有耶?若從善惡而得身者,則不得名初始有身。若不從善惡得此身者,此善惡法云何而有?若如是者,汝法則為半從因生半不從因,如是說者有大過失。我佛法無始,故無罪咎。」
親友というバラモンはこの言葉を聞いて、コーシヤに言った。「あなたは釈迦族と仲間になって、そんなことを言うのだ。しかし仏の教えにも大きな欠点がある。生死に始まりがないと言い、また一切の法には我がないと言うではないか。」
その時、コーシヤは親友に言った。「私は仏法において、生死に際限がなく、すべてに我がないと見るからこそ、今、心から敬い信じているのだ。もし人が我を認めるならば、決して解脱の道を得ることはできない。もし我がないと知れば、貪欲はなくなり、貪欲がないゆえに解脱を得るのである。もし我があるとするならば、貪愛があり、貪愛があるがゆえに生死に満ち渡り、どうして解脱の道を得ることができようか。
さらに、もし生死に始まりがあると言うならば、その最初の身体は、善悪によって得られたのか、それとも善悪によらず自然に有ったのか。もし善悪によって身体を得たのであれば、それを最初の身体と呼ぶことはできない。もし善悪によらずにこの身体を得たのであれば、この善悪の法はどのようにして生じたのか。そのように説くならば、あなたの教えは半分は因に従い、半分は因によらないものとなり、そのような説き方には大きな過失がある。私の仏法には始まりがないゆえに、過ちはないのだ。」
于時親友語憍尸迦:「有縛則有解,汝說無我則無有縛,若無有縛誰得解脫?」憍尸迦言:「雖無有我猶有縛解。何以故?煩惱覆故則為所縛,若斷煩惱則得解脫,是故雖復無我猶有縛解。」
その時、親友がコーシカ(帝釈天)に問うた。「縛(束縛)があれば解(解脱)があるものです。あなたが“無我”と言うなら、縛はないはずです。縛がなければ、誰が解脱を得るのでしょうか?」
コーシカは答えた。「我はなくとも、なお縛と解はあります。なぜなら、煩悩に覆われていれば縛され、煩悩を断ち切れば解脱を得るからです。それゆえ、我はなくとも、なお縛と解はあるのです。」
諸婆羅門復作是言:「若無我者,誰至後世?」時憍尸迦語諸人言:「汝等善聽!從於過去煩惱諸業,得現在身及以諸根,從今現在復造諸業,以是因緣得未來身及以諸根。我於今者,樂說譬喻以明斯義。譬如穀子,眾緣和合故得生芽,然此種子實不生芽,種子滅故芽便增長,子滅故不常,芽生故不斷;佛說受身亦復如是,雖復無我,業報不失。」
あるバラモンたちが言った。「もし自己(我)がないなら、誰が来世へ行くのですか?」 その時、コーシヤ(帝釈天)は彼らに語った。「あなたがた、よく聞きなさい。過去の煩悩や業(カルマ)によって、現在の身体や感覚器官が得られます。そして、今また新たな業を積むことで、その因縁によって未来の身体や感覚器官が得られるのです。 今、私は喩えを用いてこの意味を明らかにしましょう。例えば穀物の種子が、様々な条件が和合して芽を生じます。しかし、この種子そのものが芽を生むのではありません。種子は滅するのであり、芽はその後に成長します。種子が滅するゆえに「常」ではなく、芽が生じるゆえに「断」でもありません。 仏が説かれる身体の受肉もまた同じです。自己(我)はなくとも、業の報いは失われることはないのです。」
諸婆羅門言:「我聞汝說無我之法洗我心垢,猶有少疑今欲諮問。若無我者,先所作事云何故憶而不忘失?」答曰:「以有念覺與心相應,便能憶念三世之事而不忘失。」又問:「若無我者,過去已滅現在心生,生滅既異,云何而得憶念不忘?」答曰:「一切受生,識為種子入母胎田,愛水潤漬身樹得生,如胡桃子隨類而生,此陰造業能感後陰,然此前陰不生後陰,以業因緣故便受後陰,生滅雖異相續不斷。如嬰兒病,與乳母藥,兒患得愈,母雖非兒,藥之力勢能及於兒。陰亦如是,以有業力便受後陰憶念不忘。」
あるバラモンたちが言った。「あなたが説く『無我』の教えを聞いて、心の汚れは洗われましたが、まだ少し疑問があります。もし『我』が存在しないのであれば、過去に行った出来事をどうして記憶し、忘れずにいられるのですか?」
答えていわく、「思い起こす力(念覚)が心と相応することで、過去・現在・未来の三つの世の出来事を記憶し、忘れることがないのです。」
さらに問う、「もし『我』がないならば、過去はすでに滅し、現在の心が生じています。生じるものと滅するものは異なるのに、どうして記憶して忘れないことができるのですか?」
答えていわく、「一切の生命の誕生は、認識(識)を種として母胎という田んぼに入り、愛欲の水が潤して身の木が生じるのです。例えば桃や杏の実が、その種類に従って生じるように。この五蘊(色・受・想・行・識)が業(行い)を造り、それが次の五蘊を感応させるのです。しかし、前の五蘊が直接次の五蘊を生むのではありません。業の因縁によって次の五蘊を受けるのであり、生じるものと滅するものが異なっても、その流れは絶え間なく続くのです。
たとえば、乳飲み子が病気になったとき、乳母に薬を与えれば、子の病は治ります。乳母は子そのものではありませんが、薬の力が子に及ぶのです。五蘊も同じで、業の力によって次の五蘊を受け、過去を記憶し忘れることがないのです。」
諸婆羅門復作是言:「汝所讀經中但說無我法,今汝解悟生歡喜耶?」時憍尸迦即為誦《十二緣經》而語之言:「無明緣行,行緣識,乃至生緣老死憂悲苦惱。無明滅則行滅,乃至老死滅故憂悲苦惱滅。以從眾緣,無有宰主,便於其中解悟無我,非經文中但說無我。復次,以有身故則便有心,以有身心諸根有用識解分別,我悟斯事便解無我。」又問:「若如汝言,生死受身相續不斷,設有身見有何過咎?」答曰:「以身見故造作諸業,於五趣中受善惡身形,得惡形時受諸苦惱。若斷身見不起諸業,不起諸業故則不受身,不受身故眾患永息,則得涅槃。云何說言身見非過?復次,若身見非過咎者,應無生死,不於三有受生死苦,是故有過。」時婆羅門逆順觀察十二緣義,深生信解,心懷慶幸,略讚佛法,而說偈言:
あるバラモンたちがさらに言った。「あなたが読む経典には『無我』の法だけが説かれているというが、今あなたはそれを悟って喜んでいるのか?」
そこで、カウシカ(帝釈天)は彼らのために『十二因縁経』を誦して、こう語った。「無明を縁として行が生じ、行を縁として識が生じ、……さらには生を縁として老・死・憂・悲・苦・悩が生じる。無明が滅すれば行が滅し、……老・死が滅するゆえに、憂・悲・苦・悩も滅する。これらはすべて多くの縁(条件)によって生じるものであり、主宰する主体(我)は存在しない。そのことによって無我を悟るのであって、経文にただ『無我』とだけ説かれているわけではない。
また、身体があるから心も生じ、身心と諸々の感官(根)があるから、認識・分別の働きが起こる。私はこの道理を悟って、無我を理解するのである。」
また、バラモンたちが尋ねた。「もしあなたの言う通り、生死において身体を受けることが絶え間なく続くのなら、『身見(身体を我とする見解)』があっても、いったい何の過ちがあるというのか?」
答えて言った。「身見があるために、様々な行為(業)を起こし、五つの生存領域(五趣)において善・悪の身体を受けます。悪い姿を得たときには、多くの苦しみを受けます。しかし、身見を断ち切れば、諸々の業は生じません。業が生じなければ、身体を受けることもありません。身体を受けなければ、様々な苦患は永遠に消え去り、涅槃に至るのです。どうして『身見に過ちはない』と言えるのでしょうか?
また、もし身見に過ちがないならば、生死は存在せず、三つの生存領域(三有)において生死の苦しみを受けることもないはずです。ゆえに、身見には過ちがあるのです。」
その時、バラモンたちは十二因縁の意味を順・逆に観察し、深く信心と理解を生じ、心に喜びを抱いて、簡潔に仏法を称賛し、偈を唱えて言った。
「如來在世時,說法摧諸論,
佛日照世間,群邪皆隱蔽。
我今遇遺法,如在世尊前,
釋種中勝妙,深達諸法相。
所言如來者,真實而不虛,
逆順觀諸法,名聞普遍滿。
向佛涅槃方,恭敬合掌禮,
歎言佛世尊,實有大悲心。
諸仙中最勝,世間無倫疋,
我今歸依彼,無等戒定慧。」
如来が世におられた時、説法によってあらゆる論議を打ち破り、 仏の智慧の太陽が世の中を照らすと、様々な邪見は全て隠れ去りました。 私は今、残された教えに出会い、あたかも世尊の前にいるかのように感じます。 釈迦族の中でも特に優れ、あらゆる物事の本質を深く見通しておられた方。 如来とは、真実そのものであり、決して偽りではありません。 あらゆる現象を順に見ても逆に見ても完全に理解し、その名声は世の中に満ち渡っています。 仏が涅槃に入られた方角に向かって、敬いの気持ちを込めて合掌し、 「仏世尊には、実に深い大悲の心がある」と讃えました。 あらゆる聖者の中で最も優れ、世の中に比べる者はいません。 私は今、その比類なき戒・定・慧の徳を持つ方に帰依いたします。
憍尸迦言:「汝今云何乃爾深解佛之功德?」親友答言:「我聞此法,是故知佛無量功德,如沈水香黑重津膩,以是因緣燒之甚香遠近皆聞。如是我見如來定慧身故,便知世尊有大功德。我於今者雖不覩佛,見佛聖跡則知最勝,亦如有人於花池邊見象足跡則知其大,覩因緣論雖不見佛,知佛聖跡功德最大。」見其親友深生信解,歎未曾有而作是言:「汝於昔來讀誦外典亦甚眾多,今聞佛經須臾之頃解其義趣,悉捨外典,極為希有。」即說偈言:
「あなたはどうしてそんなに深く仏の功徳を理解されているのですか?」と、憍尸迦が尋ねました。友人は答えました。「私はこの法を聞いたからこそ、仏の無量の功徳を知ることができたのです。例えば、沈水香は黒くて重く脂があり、その故に燃やすと大変香ばしく、遠く近くにその香りが広がります。同じように、私は如来の定慧の身を見ることで、世尊に大きな功徳があることを知りました。私は今、直接仏をお見かけしてはいませんが、仏の聖なる足跡を見れば、その方が最勝であると知ることができます。また、花の池のほとりで象の足跡を見れば、その象の大きさが分かるように、因縁論を見て、直接仏を見なくても、仏の聖なる足跡の功徳が最も大きいことを知ることができるのです。」彼の友人は、この深い信仰と理解を見て、かつてないことだと驚き、こう言いました。「あなたはこれまで外典を広く読誦してきましたが、今、仏経をほんのしばらく聞いただけで、その義理の趣旨を理解し、外典をことごとく捨てられたとは、まことに稀有なことです。」そして、偈を唱えました。
「除去邪見論,信解正真法,
如是人難得,是故歎希有。
不但歎於汝,亦歎外諸論,
因其理鄙淺,我等悉捨離。
「邪見の論じを除き去り、 正しく真実の法を信解する、 このような人は得難い、 ゆえに希有だと嘆くのです。
ただあなただけを嘆くのではなく、 外の様々な論もまた嘆くのです。 その理が浅はかで卑しいからこそ、 私たちはことごとく捨て離れたのです。」
「以彼諸論有過咎故,令我等輩得生厭離生信解心,佛實大人無與等者,名稱普聞遍十方剎。外諸邪論前後有過,猶如諂語不可辯了,由彼有過,令我棄捨得入佛法,猶如春夏之時人患日熱皆欲離之,既至冬寒人皆思念。外道諸論亦復如是,誠應捨離如夏時日,然由此論得生信心亦宜思念,猶如寒時思念彼日。」
「あの様々な論書には欠点があるからこそ、私たちは厭い離れる心を起こし、信解の心を生じさせることができたのです。仏は実に大いなる方であり、比べる者のない方です。その名は十方の仏国土に広く聞こえ渡っています。外道の様々な誤った論書は、前後に矛盾があり、あたかもお世辞のような言葉で、はっきりと理解することができません。それらの論に欠点があるからこそ、私はそれらを捨てて仏法に入ることができたのです。これはちょうど、春夏の頃に人々が太陽の暑さを患い、皆それから離れようと望み、冬の寒さが来ると人々が皆その太陽を恋しく思うようなものです。外道の様々な論書もまたこれと同じです。誠に、夏の日の太陽のように捨て去るべきですが、しかし、これらの論によって信心を生じることもできたのですから、やはり思い起こすべきでもあります。それは、ちょうど寒い時にその太陽の日を恋しく思うようなものです。」
于時親友問憍尸迦:「我等今者當作何事?」憍尸迦言:「今宜捨棄一切邪論,於佛法中出家學道。所以者何?如夜闇中然大炬火,一切鴿鳥皆悉墮落,佛智慧燈既出於世,一切外道悉應顛墜,是故今欲出家學道。」於是憍尸迦從親友家,即詣僧坊求索出家,出家已後得阿羅漢。何因緣故說是事耶?以諸外道常為邪論之所幻惑故,說十二因緣經論而破析之。
その時、親友たちが憍尸迦に尋ねた。「私たちは今、何をすべきでしょうか?」 憍尸迦は答えた。「今こそすべての誤った教えを捨て、仏法において出家して修行すべきです。なぜなら、夜の闇の中に大きな松明を掲げれば、すべての鳥がその光に墜ちるように、仏の智慧の灯が世に現れた今、すべての外道の教えは打ち倒されるべきだからです。ゆえに、今、出家して修行したいのです。」 こうして憍尸迦は親友の家を訪れ、僧坊に行って出家を願い出ました。出家した後、彼は阿羅漢の位を得ました。 なぜこの話をするのでしょうか。 それは、すべての外道が常に誤った教えに惑わされているからです。そのため、十二因縁の経論を説いて、それらの誤った見解を打ち砕くのです。