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title: "金剛經易解 · 能淨業障分第十六"
description: "金刚经易解是清代学者谢承謨对佛教经典《金刚经》的注释著作。谢承謨以通俗易懂的语言阐释了这部大乘佛教核心经典，帮助读者理解般若空性思想。该书成书于清代，反映了当时佛教义学的研究水平。注释内容紧扣经文，重点解析了“应无所住而生其心”等核心教义，阐发离相破执的修行要旨。作为般若部重要经典，《金刚经》在中国佛教史上影响深远，被誉为“经中之王”。谢承謨的注解既保持了佛经原义，又适应了普通信众的阅读需求，是清代佛经注释中颇具价值的读本。"
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## 金剛經易解卷下

> 金剛経易解 巻下

### ○能淨業障分第十六

> 第十六章 罪障を清める功徳

言持誦此經之人。雖宿世罪孽重大。由經力故。即能消滅而證道果。詎不重哉。

> この経を読み、唱える人は、たとえ前世で大きな罪を犯していても、その経の力によって罪は消え去り、悟りの境地に至ることができるのです。何と尊いことでしょうか。

### ○究竟無我分第十七

> 第17章 究竟無我

言大乘正法。無得無說。乃為究竟。又豈有我人等相。而為正法哉。

> 大乗の正しい教えとは、何も得ることなく、何も説くことのないことこそが、究極のあり方なのです。ましてや、私や人といった固定的な姿が、どうして正しい教えでありえましょうか。

爾時須菩提白佛言。世尊。善男子善女人。發阿耨多羅三藐三菩提心。云何應住。云何降伏其心。

> その時、須菩提が仏に申し上げた。「世尊よ、善き男子、善き女人が、この上なく完全な悟りを求める心を起こしたならば、どのようにしてその心を保ち、どのようにして心を静めればよいのでしょうか。」

是時須菩提以在會聽法之人。及後之求道者。於佛說住心降妄之法。恐未盡明了。故復白佛曰。善男女等。若發求無上正等正覺之心者。其真心應如何住著。妄心起時。如何降伏。此乃一經之要。故不憚煩𤨏。再申問答。欲使羣疑盡釋。無礙修途而慈悲普度之心。亦可見矣。

> そこで、須菩提は、その時、法会に集まっている人々や、将来において道を求める人々のために、仏が説かれた心をとどめ、妄念を降伏させる法が、まだ完全には明らかになっていないのではないかと案じ、再び仏に申し上げた。 「善き男女らが、もし無上正等正覚の心を発そうとするならば、その真実の心は、いかにしてとどめるべきであり、迷いの心が生じた時には、いかにしてそれを降伏させるべきでしょうか。」 これはこの経典の要であり、煩わしさをいとわずに再び問答を重ねることで、人々のあらゆる疑問を解きほぐし、修行の道を妨げなくしようという、慈悲深く全てを救おうとする心が、ここに現れているのである。

佛告須菩提。善男子善女人。發阿耨多羅三藐三菩提心者。當生如是心。我應滅度一切眾生。

> 仏は須菩提に告げられました。「善男子、善女人よ、無上正等覚（阿耨多羅三藐三菩提）の心を起こす者は、このような心を起こすべきです。『私はすべての衆生を悟りへと導き、救済しなければならない』と。」

此佛以志求大乘者。須發大心。故告須菩提曰。善男女等發無上道心者常生如是之心。而度脫一切眾生此即降住之法也。盖二乘之人。惟求自度悲心不普。志求大乘者。自雖未度。先須度人是為菩薩發心。

> この仏は、大乗の道を志す者は大いなる心を起こすべきであると説かれ、そのため須菩提に告げて言われた。「善き男女らが無上の悟りを求める心を起こすならば、常にこのような心を生じ、一切の衆生を救い渡すこと、これが心を降伏させ、とどめる方法である。」なぜなら、声聞・縁覚の二乗は、ただ自己の救済のみを求め、慈悲の心が広くないからである。大乗を志す者は、自らは未だ悟りを得ていなくとも、まず他人を救済することを優先する。これが菩薩の心を起こすという所以である。

滅度一切眾生已。而無有一眾生寔滅度者。

> すべての生きとし生けるものを悟りへと導き終えたとしても、実際に悟りに導かれた者は一人もいないのです。

言善男女等。雖已度脫一切眾生。則願非虗設。而其心乃不自居功。並不見有一眾生為我滅度者。此為如是生心。

> 善き男女らよ。たとえ一切の衆生をすでに救い尽くしても、その願いは虚しくない。しかしその心は、自らの功績に驕ることはなく、また、自分が救ったと見なすべき衆生は一人として存在しないと認めるのである。これこそが、このように心を起こすということなのだ。

何以故。須菩提。若菩薩有我相人相眾生相壽者相。則非菩薩。

> なぜなら、須菩提よ、もし菩薩に自己のイメージ、他者のイメージ、生きとし生けるもののイメージ、永遠のいのちへの執着のイメージがあるなら、それは菩薩とは呼べないからです。

夫彼度生而不以眾生之為我度者。何哉須菩提當知。若菩薩存一度生之念則有我人等四相而即非大乘菩薩矣。

> だが、その救済において、自らが「衆生を救済した」とは思わないのはなぜか。 須菩提よ、よく聞きなさい。もし菩薩が「衆生を救済しよう」という思いにとらわれるならば、そこには自己・他者という執着（四相）が生じ、真の大乗の菩薩とは言えなくなるのである。

所以者何須菩提。寔無有法發阿耨多羅三藐三菩提心者。

> その理由は何かというと、須菩提よ、実には「阿耨多羅三藐三菩提（完全なる悟り）を求める心を起こす者」というものは存在しないからです。

所謂菩薩度生而不執相者何哉。須菩提當知。此無上正法。寔無有生法執而能發無上覺心者。盖執相求道終難成就也。

> 菩薩が衆生を救済しながら、姿かたちに執着しないとは、どういうことか。 須菩提よ、知るがよい。この最高の教えにおいて、実のところ「生」というものに執着して、無上の悟りの心を起こせる者はいない。 なぜなら、形に執着して道を求める者は、ついに悟りを成就することができないからである。

須菩提。於意云何。如來於然燈佛所。有法得阿耨多羅三藐三菩提不。

> 須菩提（修行者よ）、どう思うか。如来（目覚めた者）が、燃灯仏のもとで修行していた時に、「このような悟りの法」を得たのであろうか。

佛欲人諦信法無得心。故又引己事以質須菩提曰。於汝意中以為何如耶。我昔於然燈佛所。曾為有法以證得無上道否。

> 仏は人々に「法に執着する心などない」と真に信じてもらいたいと思われました。そこで、ご自身の体験を例に挙げ、須菩提に問いかけられました。「あなたの考えではどうだろうか。私は昔、燃燈仏のもとで、何か特定の教え（法）を授かって、悟りを開いたと言えるだろうか。」

不也。世尊如我解佛所說義佛於然燈佛所。無有法得阿耨多羅三藐三菩提。

> 「いいえ、世尊よ。私が仏さまの教えの意味を理解したところによれば、仏さまが燃灯仏のもとにおられた時には、阿耨多羅三藐三菩提を得るというような法は、まったくなかったのです。」

須菩提因佛問而知法由自悟。無法可使之然。故即以不也答之。而稱世尊曰。如我解悟佛所說意我佛於然燈佛所寔無有法能得此無上覺法者。良由自悟耳。

> 釈尊の質問を受けて、須菩提は法が自己の悟りによって得られるものであり、外部の何かによってそうさせられるものではないと理解しました。そのため、彼は「いいえ」と答え、世尊に対してこう述べました。「私が仏の説かれた意味を理解したところによれば、我が仏は燃燈仏のもとにおいて、この無上の覚りの法を獲得できるような実体のある法など、決して存在しなかったのです。まさにそれは、自己の悟りによるものにほかなりません。」

佛言如是如是須菩提實無有法如來得阿耨多羅三藐三菩提。

> 仏はこう言われた。「その通りだ、須菩提よ。実のところ、如来が『阿耨多羅三藐三菩提』を得たとされる、そのような特定の『法』は存在しないのだ。」

佛以須菩提答辭深契其旨。故丞是之。而又呼之曰。我昔於本師處。雖云得法。亦乃得無所得。非有別法而為得無上覺也。

> そこで仏は、須菩提の答えが自らの深い教えにかなっているとお認めになり、その言葉を嘉し（よみし）、さらに彼に呼びかけられて言われた。「私はかつて師のもとで、法を得たと説くけれども、実際には“得るものがない”ということを得たにすぎない。何か別の法を得て、無上の悟りを成就したわけではないのだ。」

須菩提若有法如來得阿耨多羅三藐三菩提者。然燈佛則不與我授記。汝念來世。當得作佛。號釋迦牟尼。

> 須菩提よ、もし何らかの法（真理）が如来によって完全な悟りとして得られたなら、そのような時、燃灯仏は私に「未来において、あなたは仏となり、その名を釈迦牟尼というであろう」という授記を与えなかったでしょう。

授記者。授與預記。將來得果也。釋迦。華言能仁。牟尼。華言寂滅。寂滅為體。即是如字。能仁為用。即是來字。佛呼須菩提曰。我昔若有別法而能得無上覺者我本師即不與我受記。而云汝於來生。當得成佛。號曰釋迦牟尼。盖惟受記者。可見授受之間。得無所得。非有秘傳也。若有絲毫作為。決非大乘正法矣。

> 授記とは、将来必ず悟りの果報を得るという予言を授けることです。 釈迦はサンスクリット語で「能仁」、牟尼は「寂滅」と訳されます。 寂滅は仏の本性（体）であり、これは「如」の字に当たります。 能仁はその働き（用）であり、これは「来」の字に当たります。 仏が須菩提に告げられました。 「もし私が過去に、何か別の悟りの方法によって無上正等覚を得たとするなら、私の師である燃灯仏は私に『汝は来世において必ず仏となり、号を釈迦牟尼とせよ』と授記されなかったであろう。」 なぜなら、授記というものは、授ける側と受ける側の間に、得るものもなく得られるものもないからです。 そこには秘密の伝授などはありません。 もしわずかでも作為的な行いがあれば、それは決して大乗の正しい教えではないのです。

以實無有法得阿耨多羅三藐三菩提。是故。然燈佛與我授記。作是言。汝於來世。當得作佛。號釋迦牟尼。

> ろうごは、ある特定の（きまった）「法（教え）」によって、この上なく完全なさとり（阿耨多羅三藐三菩提）を得たのではありません。 だからこそ、燃燈仏（ねんとうぶつ）は私に未来のさとりを予言し、こう言われたのです。 「あなたは未来の世に、仏となって『釈迦牟尼（しゃかむに）』と名乗るであろう」と。

夫以我寔無別法而成無上覺之故。是以本師與我授記而言曰。汝於來世。必當成佛。而號釋迦牟尼焉。

> そもそも、私には特別な方法などなかったが、それでいて無上の悟りを成就したのである。ゆえに、本師は私に授記してこう言われた。「あなたは将来、必ず仏となるであろう。その名を釈迦牟尼と称するであろう」と。

何以故。如來者。即諸法如義。

> なぜなら、如来とは、すべてのものごと（諸法）のあるがままの真理（如）を体現したものだからです。

昔本師以我佛號為釋迦牟尼者。何故哉盖釋迦牟尼四字。義亦譒如來。而如來者。即諸法如如。自然之意。人胡不顧名而思義哉。

> 昔、本師が私どもの仏の称号を「釈迦牟尼」とされたのは、なぜでしょうか。これは、「釈迦牟尼」という四つの字が、「如来」という意味を表しているからです。「如来」とは、すべてのものがそのままの姿で、自然のままであるという意味です。人はどうして、この名前の意味を考えないのでしょうか。

若有人言。如來得阿耨多羅三藐三菩提。須菩提。寔無有法佛得阿耨多羅三藐三菩提。

> もし誰かが「如来は無上正等覚（あのくたらさんみゃくさんぼだい）を得た」と言うなら、須菩提よ、実は仏が無上正等覚を得たというような法（決まったもの）はないのだ。

言人若以我

> もし人が「わたし」という考えに執着するならば、

### ○一體同觀分第十八

> 第十八章 一体同観

言如來大慈。等觀一切。不存私己之心。不作輕人之見。至公無私。故得證窮法界。

> 如来様の大いなる慈悲は、すべてのものを平等に見つめています。 自分だけを大切にする心もなく、人を軽んじる考えもありません。 徹底して公平で私心がないからこそ、迷いのない悟りの世界を体現されたのです。

須菩提。於意云何。如來有肉眼不。

> 須菩提、どう思うか。如来に肉眼はあるか。」

如來所證。五眼六通。逈超儕輩。雖菩薩亦不能究其極。而其所以然者。第以平等心。而行普度行耳。故呼須菩提而詰之曰。汝意以為何如耶。如來色身。有肉眼否。

> 如来が悟りを得た五眼と六通は、普通の修行者をはるかに超えています。菩薩でさえその極みを究められません。その理由はただ一つ、平等の心で一切を救う行いをしているからです。そこで、如来は須菩提に問いかけました。「あなたの考えではどうか。如来のこの肉体に、肉眼はあると思うか。」

如是。世尊。如來有肉眼。

> はい、世尊。如来には肉眼がございます。

須菩提以如來色身現在。故即是之。而云如來有肉眼。但如來肉眼。雖若無異於人。寔不異而異耳。

> 須菩提よ、如来の色身（肉体）が現に存在するがゆえに、如来にも肉眼があると言われる。しかし、如来の肉眼は、一見すると人間の肉眼と変わりないように見えても、実は同じでありながら、その本質は異なっているのである。

須菩提。於意云何。如來有天眼不。如是世尊。如來有天眼。

> 須菩提よ、どう思うか。如来に天眼はあるだろうか。 「その通りです、世尊よ。如来には天眼がございます。」

佛復問須菩提而言。如來有天眼否。須菩提以佛五眼具足。故以有天眼答之。

> 仏が須菩提に問われた。「如来には天眼があるのだろうか？」 須菩提は、仏が五つの眼を全て備えておられることから、「有ります」とお答えした。

須菩提。於意云何。如來有慧眼不。如是。世尊。如來有慧眼。須菩提。於意云何。如來有法眼不。如是。世尊。如來有法眼。須菩提。於意云何。如來有佛眼不。如是。世尊。如來有佛眼。

> 「須菩提（しゅばだい）よ、あなたはどう思いますか。如来には智慧の眼があるでしょうか。」 「はい、世尊よ。如来には智慧の眼がございます。」 「須菩提よ、あなたはどう思いますか。如来には真理を見通す眼（法眼）があるでしょうか。」 「はい、世尊よ。如来には法眼がございます。」 「須菩提よ、あなたはどう思いますか。如来にはすべてを見通す眼（仏眼）があるでしょうか。」 「はい、世尊よ。如来には仏眼がございます。」

歷問諸眼。須菩提皆答無異辭。就所見而言耳。若佛五眼觀照之境。則非須菩提所能知矣。華嚴經云。五眼者。肉眼見一切色。天眼見一切眾生心。慧眼見眾生諸根境界。法眼見一切法相寔相。佛眼見如來十力。又古德偈云。天眼通非礙。肉眼礙非通。慧眼惟觀俗。法眼了知空。佛眼如千日。照異體還同。此之五眼。通該十界。而優劣有殊。若如來五眼。則皆佛眼也。

> 須菩提は、すべての「眼」について尋ねられたが、いずれも異なる答えをすることなく述べた。それは、自身が見るところに基づいて語ったにすぎない。もし仏の五眼が観照する境界については、須菩提の知りうるところではない。 『華厳経』にこう説かれている。五眼とは、肉眼はすべての形あるものを見る。天眼は一切の衆生の心を見る。慧眼は衆生の諸々の根機や境界を見る。法眼はすべての法の相と実相を見る。佛眼は如来の十力を如実に見る。 また、古徳の偈にこうある。 天眼は通じて碍てず、 肉眼は碍てて通ぜず。 慧眼はただ俗を観じ、 法眼は了知して空なり。 佛眼は千日のごとく、 照らすこと異なれど体は還って同じ。 この五眼は十界すべてに通じるが、その優劣には違いがある。如来の五眼は、いずれも仏眼そのものである。

須菩提。於意云何。如恒河中所有沙。佛說是沙不。如是。世尊。如來說是沙。

> 須菩提よ、どう思うか。例えばガンジス川にあるすべての砂について、如来はそれを『砂である』と説いただろうか。 「その通りです、世尊よ。如来はそれを『砂である』と説かれました。」

佛欲設喻眾生妄心之多。故先以恒沙詰須菩提曰。如恒河中所有之沙。佛亦云是沙否。須菩提以沙見無異。故即是之而云如來說是沙。

> 仏が譬えを用いて、衆生の迷いの心がどれほど多いかを示そうとされた。そこでまず、ガンジス川の砂の数について須菩提に問いかけられた。「ガンジス川にあるすべての砂を、仏は『砂』と言われるであろうか」。須菩提は、砂という見方に違いがないことから、それに応じて「如来はそれを『砂』とおっしゃいます」と答えた。

須菩提。於意云何。如一恒河中所有沙。有如是沙等恒河。是諸恒河所有沙數。佛世界如是。寗為多不。

> 須菩提（しゅばだい）よ、どう思うか。一つのガンジス川に存在するすべての砂の数と同じだけのガンジス川があり、それらすべてのガンジス川に存在する砂の数と同じだけの仏の世界があるとしたら、その数は多いと言えるだろうか。

此佛以世界喻妄心之多也。故呼須菩提而詰之曰。汝意以為一恒河中所有之沙數。一沙復作一恒河。設佛世界如眾恒河沙數之多。亦曾為多否。

> この仏は、世界をもって、迷いの心が数多くあることを譬えられたのです。そこで、須菩提を呼びかけて問われました。「あなたの考えでは、一つのガンジス川にあるすべての砂の数、その一つの砂をさらに一つのガンジス川と見たて、仏の世界が、その無数のガンジス川の砂の数ほどあるとしても、それでもなお、多いと言えるだろうか？」

甚多。世尊。

> たくさんあります、世尊よ。

須菩提以恒沙世界。且多不可量。況眾恒河沙之佛世界乎。故以甚多答之。

> 須菩提よ。ガンジス川の砂の数ほどの世界も、すでに計り知れないほど多い。ましてや、さらに多くのガンジス川の砂の数ほどの仏の世界となれば、なおさらである。ゆえに、「非常に多い」と答えたのである。

佛告須菩提。爾所國土中。所有眾生若干種心。如來悉知。

> 仏は須菩提に告げられました。「あの国々にいるすべての生きとし生けるものたちが、さまざまな心を抱いているとしても、如来はその一つひとつをすべて知っておられるのです。」

佛以須菩提既答世界甚多之語。故復告之曰。爾知佛世界如眾恒沙之為多矣。抑知爾國土中眾生之妄心。更為多否。夫一人之妄心既爾。眾人之妄心無窮。尤為不可數計。但彼等雖具若干種心。我以佛眼觀之。悉皆知見。盖眾心雖多。無非妄耳。

> そこで仏は、須菩提が世界は非常に多いと答えたのを受けて、さらに告げられた。「そなたは、仏の世界がガンジス川の砂の数ほども多いことを知っている。では、そなたの国土に住む人々の迷いの心が、それよりもさらに多いかどうかを知っているか。一人の迷いの心がすでにこれほどであるなら、すべての人々の迷いの心は限りがなく、数えきれないほどである。しかし彼らがどんな心を持っていようとも、私は仏の眼でそれを見通し、すべてを知り尽くしている。なぜなら、心は数多くあっても、すべて迷いの心にすぎないからである」

何以故。如來說諸心。皆為非心。是名為心。

> その理由は、如来が説く「心」とは、実は「心」ではなく、仮に「心」と名付けられているからです。

所謂眾生諸心。我能悉知者何哉。盖我說彼等諸心。無非私妄。皆不得為真如之心。然真妄皆出於一心。是亦名之為心耳。

> 我が説くところの、あらゆる衆生の心とは何か。それはすなわち、彼らの心はすべて私的な妄想に過ぎず、真如の心とはなり得ないということを指す。しかし、真実も妄想も、共に一つの心から生じるのであり、これをさらに「心」と呼ぶのである。

所以者何。須菩提。過去心不可得。現在心不可得。未來心不得。

> それはなぜか。須菩提よ、過ぎ去った心は捉えられない。今の心も捉えられない。未来の心も捉えられない。

夫我所謂眾心非心者何哉。須菩提。當知真妄雖殊。總不出過去。現在。未來。三種心量。然過去心已過隨滅。現在心念念遷謝。未來心尚屬未至。當從何處覓心耶。奈眾生不知此理隨逐妄念。變幻流轉。以故心念之多。無有窮極。是為生滅法。若任念起。心不隨之。則念而無念。無念而念。縱有三心萬念。不能為礙矣。思之。

> 私が言う「衆生の心は、実は心ではない」とは、どういう意味でしょうか。須菩提よ、よく聞きなさい。真実の心と迷いの心は異なるものですが、どちらも過ぎ去ったもの、現在のもの、未来のものという三つの心の枠組みを超え出るものではありません。しかし、過ぎ去った心はすでに過ぎ去り、そのまま消え去っていきます。現在の心は、一瞬一瞬と移り変わっていきます。未来の心は、まだ訪れていないものです。いったい、どこに心を求めることができるでしょうか。 ところが、衆生はこの道理を知らず、迷いの心に執着し、変化し続けて流転していくものです。それゆえ、心の思いは限りなく多く、尽きることがありません。これが生滅の法（すべてが生まれては消えるという道理）です。 もし、思いが次々と湧き起こるままに任せても、心がそれに執着しなければ、思いながらも執着のない心を持ち、執着のない心でありながらも思いは働く、という状態になります。そうであれば、三つの心や無数の思いがあっても、決して妨げとなることはありません。よく考えなさい。

須菩提。說法者。無法可說。是名說法。

> 須菩提よ、法（真理）を説く者というのは、本来説くべき固定した法があるわけではありません。それを仮に「法を説く」と名付けているのです。

須菩提。當知說法者。初無定法可說。不過隨在去其粘著。是即名之為說法耳。又佛說法四十九年。未曾道著一字。隨說隨掃。不落寔迹。是謂說無可說。

> 須菩提よ、知るがよい。法を説く者というものには、そもそも決まった「法」など存在しない。ただ、その時その場で、人々のこだわりを除いてやるのが、すなわち「法を説く」と呼ばれるだけのことだ。 また、仏は四十九年にわたって法を説かれたが、一字として言葉に執着されたことはない。説いてはすぐに払い、現実の跡に留まらない。これを「説くといえども、説くことなき」というのである。

爾時慧命須菩提。白佛言。

> その時、尊ばれる須菩提が仏に申し上げました。

是時須菩提。聞佛說此經。去其疑滯。解證甚深。上堪紹佛心宗。續佛智慧。下能開示眾生。頓超生死。故稱慧命。又道法集於厥躬。寔眾生之慧命也。

> その時、須菩提は、仏がこの経典を説かれるのを聞いて、自らの疑いや滞りを取り除き、その深遠なる真理を悟り、証明した。上は仏の心の教えを受け継ぎ、仏の智慧を絶やさず、下は衆生を開き示して、瞬時に生死を超えさせることができる。それゆえに「慧命」と称されるのである。また、道と法はその身に集まり、実に衆生の慧命である。

世尊頗有眾生。於未來世。聞說是法。生信心不。

> 世尊よ、未来の世において、この教えを聞いて信心を起こす众生はいるのでしょうか。

須菩提以自發信解。得聞妙法。故稱世尊而言。頗能有眾生。於未來之世。去佛漸遠。而得聞此法。能生信受之心否。盖逆知後來眾生。鮮能發正信之心也。

> 須菩提は自ら真理を悟り、この素晴らしい教えを聞くことができました。そこで、世尊にこう申し上げました。「未来の世に、仏から遠ざかった時代に、この教えを聞いて、信じ受ける心を起こすことのできる者はいるでしょうか。」これは、後の時代の衆生が、なかなか正しい信心の心を起こせなくなることを、あらかじめ見通しておられたからです。

佛言。須菩提。彼非眾生。非不眾生。

> 仏は言った。「須菩提よ、彼らは衆生ではない。しかし、衆生でないわけでもない。」

佛因須菩提之問。而言未來眾生。驟聞此法。固未必盡能信受。然必有大心眾生。忽聞正法。便發信心。勤修解證。但此眾生者。寔非等閒之人然現處眾生之中。則又不得謂之非眾生也。

> 仏陀は須菩提の問いに答えて、未来の衆生がこの教えを聞いても、すぐにすべてを信じ受けるとは限らない。しかし、必ず大いなる心を持つ者たちがいて、ふと正法を聞けば、たちまち信心を起こし、精進して理解と証得に励むであろう。ただし、このような衆生は決して平凡な者ではない。しかし、現に衆生の中にいる以上、衆生でないとは言えないのである。

何以故。須菩提眾生眾生者。如來說非眾生。是名眾生。

> その理由は、須菩提よ、「衆生」と呼ばれるものについて、如来は「衆生にあらず」と説き、ただ仮に「衆生」と名付けるに過ぎないからである。

所謂眾生非不眾生者何哉。盖稱彼信心眾生為眾生者。寔則我說此人為非眾生矣。盖其既發信心。自能修行證果。但現未離儕類。是亦名之為眾生耳。

> 世にいう「衆生は衆生にあらず」とは、どういうことか。およそ信心を起こした人を「衆生」と呼ぶのは、実は私はこの人を「衆生にあらず」と言うのである。なぜなら、彼はすでに信心を起こし、自ら修行して悟りの果報を証するからだ。ただ、まだ仲間の世界を離れていないだけである。そのゆえに、やはり「衆生」とも名付けるのだ。