No. 275-A大佛頂首楞嚴經正脉疏序
大仏頂首楞厳経正脉疏序
京都西湖沙門 交光真鑑述
本元覺海,在纏名如來藏心。湛寂性天,當體號首楞嚴定。豈惟世出世間,從來不動。亦且情與無情,法爾無生。奈何華起翳睛,夢沉長夜。於不動中,而見遷流動轉。於無生內,而受生死輪迴。若是則豈但凡外狂走,不能脫於瀑流。是雖權小劬勞,亦未免於細注。率由未見天真之本定,徒攻縛識之枯禪。所謂生滅為因,終無實果也。故我釋尊,因中悟此為密因,果中證此為極果。寂場海印,非不欲普灌醍醐。而夢夜昏狂,要須待多方淘汰。及其機熟,仍示元心。法華方以開端,斯經乃以竟說。多聞示墮,警狂慧策力於深禪。答定徵心,破凡小全迷於偽定。是必偽定全捨,而後大定可聞。由是向六根而指見性,令親驗乎不動之本真。會四科而示藏心,令備明乎常住之自體。復通七大,極顯周圓。阿難遂以讚不動尊,謝希有定。是尚未及於請修,而所謝首楞嚴王,非指自性本定而何哉。此方答慶喜會妄歸真,顯空藏不變之體。下及酬滿慈從真起妄,顯不空隨緣之用。又復雙明性相,見空與不空,二俱無礙,而圓彰三藏之全體大用。然後知一切事究竟堅固之定體,本自圓成;徹法源不動不壞之楞嚴,非由造作。所謂奢摩他微密觀照,發盡無餘,迴視強制識心,思惟影相之定,天淵未足為喻矣。然而定雖本有,根結未開,體固無虧,用終不發。由是當機思契入,而喻屋求門;如來示決定,而指根明結。於中列數量,所以令其選圓;推攬塵,所以明其可盡。疑斷滅,則擊鍾以驗其不滅;疑別有,則現佛以證其無他。乃至綰巾而六結有倫,冥授而諸長悉啟。及敕文殊之推選,獨取觀音之耳門。蓋必寂滅之真體現前,而後圓應之妙用備發。真所謂如幻三摩提,彈指超無學矣。若夫道場三學,祕呪四檀,但為修圓通而障重者加行耳,非別有異門也。是則華屋之門方入,而升堂入室,不無所歷之位,故當機繼是以請位焉。佛乃楪加行圓通以為三漸,束三漸以為乾慧,即以此心中中流入。由是生佛家而名十住,行佛事而名十行,攝歸三處名十向,實證一真名十地。以至等覺覆涅槃海,即大寂滅海,而生死永寂;妙覺入莊嚴海,即萬德果海,而菩提永成。顧謂歸無所得者,明但復還乎本不動體,而出現其本有家珍,非從外得也。豈同非因非果,空無所獲哉?斯乃依禪那以修進聖位,而首楞嚴大定成始成終,故結五名而囑其奉持焉。至於七趣勸離,五魔教識,亦前文要義,特重伸以加詳耳。最後深慈,曷有窮己乎?是則斯經也,一乘終實,圓頓指歸。語解悟,則密因本具,非假外求;語修證,則了義妙門,不勞肯綮。十方如來得成菩提之要道,無有越於斯門者矣。夫何經本分明,而註多莽鹵?正脉既失,本旨多乖。後賢指摘成帙,甚至但說本文,學者莫決從違,而臨文浩嘆者多矣。鑑長夜迷徒,釋宗晚學,賴聖賢加被,發薄少善根。偶窺華屋之門,輙憫宮墻之望,僭伸管見,請正大方。實非橫陳臆說而蔑先賢,意惟曲順佛言而資後學。知我罪我,靡恤靡逃。所冀暫結喜緣,普碎阿鼻而成樂國;倘開妙悟,咸歸大定而證菩提。他日於諸佛會下,寧非同行眷屬哉?特撮略以冠篇端,而其詳在懸示云。
本来の悟りの海、無明に覆われた状態では如来蔵心と呼ばれる。寂静なる本性の天、そのままの姿で首楞厳定と名づけられる。この本性は、世間・出世間を問わず、元来動くことがない。さらに、情あるものも無情のものも、法として本来、生じることがない。ところが、あたかも目に翳りが生じて花が見えるように、迷いの長い夜に沈み、動かない中で移り変わりを見て、生じない内に生死の輪廻を受ける。これでは凡夫の外道が走り回り、激流から抜け出せないだけでなく、権小乗の修行者も苦労しながら、細かい分別から逃れられない。全ては、本来の真実の定を知らずに、ただ分別意識を縛る枯れた禅定をむなしく修行するからである。いわゆる「生滅を因とする」ため、ついに真の果報を得ることはない。
そこで、我が尊い釈尊は、因位においてこの道理を悟って密因とし、果位においてこれを証して極果とされた。寂滅の道場における海印三昧は、甘露を注ぎたくないわけではない。しかし、夢の夜に酔い痴れる者には、様々な方法で淘汰するのを待たねばならない。やがて機が熟すると、再び本来の心を示された。法華経でようやく始まり、この経典で完全に説き尽くされた。多聞第一の阿難が堕ちたことを示し、高慢な智慧を持つ者に警鐘を鳴らして、深い禅定に力を注がせる。三昧の真偽を問うために心を尋ね、凡夫や小乗が偽りの定に完全に迷うのを破る。必ず偽りの定を全て捨て去って、初めて大定を聞くことができる。そこで、六根において見性を指し示し、不動の本真を自ら確かめさせる。四科を一つにまとめて如来蔵心を示し、常住の自らを完全に明らかにさせる。さらに七大に通じて、周遍円満を極めて明らかにする。阿難はついに「不動尊」を讃嘆し、「希有の定」を感謝する。これはまだ修行の請願には至っていないが、感謝された「首楞厳王」とは、自性本来の定を指さずして何であろうか。ここでは、慶喜(阿難)の妄を会して真に帰する問いに答え、空蔵の不変の体を顕す。次に、満慈(富楼那)の真より妄を起こす問いに答え、不空の随縁の用を示す。さらに性と相を両方明らかにし、空と不空が共に無碍であることを示して、三蔵の全体大用を円かに顕す。こうして初めて、「一切の事が究竟して堅固である定の体」は本来自ら円成しており、法源を徹して動かず壊れない楞厳は、作り出されたものではないと知る。いわゆる奢摩他の微密な観照は、余すところなく発揮される。振り返って、強制的に意識を縛る思惟影像の定を見れば、天と淵の差も例えにならない。
しかし、定は本来備わっているとはいえ、根の結び目が解けていない。体は本来欠けていないが、用はついに発揮されない。そこで、機が熟した阿難は悟りに入ろうと、家に例えて門を求める。如来は決定を示し、根を指して結び目を明らかにする。その中で、数や量を列挙して、円通を選ばせる。塵をとらえることを推し進め、尽くせることを明らかにする。断滅を疑えば、鐘を叩いて不滅を確かめさせる。別に存在することを疑えば、仏を現して他にないことを証明する。さらに、巾を結んで六つの結び目に秩序を示し、密かに伝えて諸々の長所を全て明らかにする。そして文殊菩薩に選ばせ、観音菩薩の耳門を唯一採用する。まさに寂滅の真の体が現前して、初めて円満に対応する妙用が全て発揮される。まさに「幻のような三摩提、指を弾く間に無学を超える」である。道場の三学、秘密の呪の四檀は、ただ円通を修めるために障りが重い者のための加行に過ぎず、別に異なる門があるわけではない。
こうして、美しい家の門がようやく入られ、堂に登り室に入るには、必ず歴る位がある。そこで、機が熟した阿難は、続いて位を請う。仏は、加行と円通をまとめて三つの漸次とし、三つの漸次をまとめて乾慧地とし、この心で中道に流入する。これによって、仏の家に生まれて十住と名づけられ、仏の事を行じて十行と名づけられ、三つのところに収めて十回向と名づけられ、一真を実証して十地と名づけられる。等覚は涅槃の海に入り、大寂滅の海となり、生死が永遠に止む。妙覚は荘厳の海に入り、万徳の果報の海となり、菩提が永遠に成る。しかし「帰するところ得るところなし」と言うのは、ただ本の不動の体に還り、本有の家の宝を現すのであって、外から得るのではない。因果を超えて、空しく何も得ないのと同じであろうか。これは禅那によって聖位を修め進み、首楞厳大定が始めから終わりまで成就するのである。それゆえ、五つの名を結んで、その奉持を勧めるのである。
七趣の勧め離れ、五陰魔の識別は、前文の要義を特に詳しく繰り返したものである。最後の深い慈悲は、どうして尽きることがあろうか。この経典は、一乗究極の実相、円頓の指帰である。解悟について言えば、密因は本来具わり、外に求めるものではない。修証について言えば、了義の妙門は、無駄な労を要しない。十方の如来が菩提を成ずる要道は、この門を越えるものはない。ところが、経典の本文は分明であるのに、注釈は粗雑なものが多い。正しい筋道を失い、本来の趣旨を誤ることが多い。後世の賢者が指摘して書物となったが、本文のみを説くものもあり、学者は従うべきか否かを決めかね、本文に臨んで嘆くことが多い。
私は、長夜の迷い人、仏教の晩学として、聖賢の加護により、わずかな善根を発した。偶然、美しい家の門を覗き、すぐに宮殿の壁を望む思いを哀れみ、僭越ながら拙見を述べ、大方のご正鵠を請う。決して勝手な憶測を述べて先賢を軽んじるのではなく、ただ仏の言葉に従い後学を助けたいと思う。私を知ろうと罪しようと、顧みず逃れない。願わくは、一時の善縁を結び、全ての阿鼻地獄を砕いて楽国とし、もし妙悟を開けば、皆大定に帰して菩提を証せんことを。他日、諸仏の会下において、同じく同類の眷属とならないことがあろうか。特に要約して巻頭に掲げ、詳しくは「懸示」において述べる。