(一三)中阿含業相應品度經第三(初一日誦)
(一三)中阿含経 業相応品 度経 第三(初日誦)
我聞如是:
私はこのように聞きました。
一時,佛遊舍衛國,在勝林給孤獨園。
ある時、お釈迦さまは舎衛国に滞在され、勝林給孤独園におられました。
爾時,世尊告諸比丘:「有三度處,異姓、異名、異宗、異說,謂有慧者善受、極持而為他說,然不獲利。云何為三?或有沙門、梵志如是見、如是說,謂人所為一切皆因宿命造;復有沙門、梵志如是見、如是說,謂人所為一切皆因尊祐造;復有沙門、梵志如是見、如是說,謂人所為一切皆無因無緣。
その時、世尊は比丘たちに告げられました。 「三つの立場がある。それぞれ異なる見解、異なる名称、異なる教え、異なる主張を持ち、賢い者がよく理解し、しっかりと心に留めて他の人に説くが、しかし利益を得ることはない。その三つとは何か。 ある修行者やバラモンは、このように見、このように説く。『人が行うことは全て、過去の行い(宿命)によって定められている』と。 また、ある修行者やバラモンは、このように見、このように説く。『人が行うことは全て、神の力(尊祐)によって定められている』と。 また、ある修行者やバラモンは、このように見、このように説く。『人が行うことは全て、原因も条件もなく、偶然に起こる』と。」
「於中若有沙門、梵志如是見、如是說,謂人所為一切皆因宿命造者,我便往彼,到已,即問:『諸賢!實如是見、如是說,謂人所為一切皆因宿命造耶?』彼答言:『爾。』我復語彼:『若如是者,諸賢等皆是殺生。所以者何?以其一切皆因宿命造故。如是,諸賢皆是不與取、邪婬、妄言,乃至邪見。所以者何?以其一切皆因宿命造故。諸賢!若一切皆因宿命造,見如真者,於內因內,作以不作,都無欲、無方便。諸賢!若於作以不作,不知如真者,便失正念、無正智,則無可以教,如沙門法如是說者,乃可以理伏彼沙門、梵志。』
もし、そこに修行者や聖者がいて、『人は何をするにも、すべて前世の因縁によって決まる』と見なし、そう説いているならば、私は彼のもとへ赴き、こう尋ねます。『諸賢よ、本当にそのように見なし、そのように説くのですか。すなわち、人が行うすべては前世の因縁によって決まると?』彼が『その通りです』と答えれば、私はさらにこう語ります。『もしそうなら、諸賢も皆、殺生をしていることになります。なぜなら、すべてが前世の因縁によって決まるからです。同様に、諸賢は皆、盗み、邪淫、嘘をつき、さらには邪見に至るまで行っていることになります。なぜなら、すべてが前世の因縁によって決まるからです。諸賢よ、もしすべてが前世の因縁によって決まると真実のままに見極めたなら、内なる因によって、為すことと為さないことに関して、欲望も方便もまったく無くなるでしょう。諸賢よ、もし為すことと為さないことについて真実のままに知らなければ、正念を失い、正智もなくなり、教えるべきものも無くなります。このように説くことこそ、修行者や聖者の教えに適い、道理をもって彼らを論破できるのです。』」
「於中若有沙門、梵志如是見、如是說,謂人所為一切皆因尊祐造者,我便往彼,到已,即問:『諸賢!實如是見、如是說,謂人所為一切皆因尊祐造耶?』彼答言:『爾。』我復語彼:『若如是者,諸賢等皆是殺生。所以者何?以其一切皆因尊祐造故。如是,諸賢皆是不與取、邪婬、妄言,乃至邪見。所以者何?以其一切皆因尊祐造故。諸賢!若一切皆因尊祐造,見如真者,於內因內,作以不作,都無欲、無方便。諸賢!若於作以不作,不知如真者,便失正念、無正智,則無可以教,如沙門法如是說者,乃可以理伏彼沙門、梵志。』
そこに、もし沙門や梵志がいて、このように見なし、このように語る——「人のなすことは全て、尊い神の創造によるものである」と——ならば、私はそのもとへ赴き、到着して問うであろう。「諸賢よ、本当にそのように見なし、そのように語るのですか——人のなすことは全て、尊い神の創造によるものだと?」と。彼らが「その通りです」と答えたなら、私はさらに彼らに言うであろう。「もしそうならば、諸賢らは皆、殺生をしていることになります。なぜなら、その全てが尊い神の創造によるからです。同様に、諸賢らは皆、不与取(盗み)や邪淫、妄語、さらには邪見をも行っていることになります。なぜなら、その全てが尊い神の創造によるからです。諸賢よ、もし全てが尊い神の創造によるものであると、あるがままに見るならば、内なる因に基づいて、為すことと為さないことに対して、全く欲求もなく、方便もないでしょう。諸賢よ、もし為すことと為さないことについて、あるがままに知らないならば、正念を失い、正智もなくなり、教えるべき道もなくなります。沙門の法がこのように説くならば、その理をもって、かの沙門や梵志を論破することができるのです。」
「於中若有沙門、梵志如是見、如是說,謂人所為一切皆無因無緣者,我便往彼,到已,即問:『諸賢!實如是見、如是說,謂人所為一切皆無因無緣耶?』彼答言:『爾。』我復語彼:『若如是者,諸賢等皆是殺生。所以者何?以其一切皆無因無緣故。如是,諸賢皆是不與取、邪婬、妄言,乃至邪見。所以者何?以其一切皆無因無緣故。諸賢!若一切皆無因無緣,見如真者,於內因內,作以不作,都無欲、無方便。諸賢!若於作以不作,不知如真者,便失正念、無正智,則無可以教,如沙門法如是說者,乃可以理伏彼沙門、梵志。』
もしそこに、修行者やバラモンがいて、このような見解を持ち、このように語る者、すなわち「人のなすことすべてには、原因も条件もない」と言う者がいたなら、私はその者のもとに行き、到着してからこう尋ねる。「諸賢よ、本当にあなたはこのような見解を持ち、このように語るのか。すなわち『人のなすことすべてには、原因も条件もない』と。」彼が「その通りです」と答えたなら、私はさらに彼に言う。「もしそうであるなら、諸賢は皆、殺生をしていることになる。なぜか。そのすべてに原因も条件もないからである。同様に、諸賢は皆、与えられていないものを取ること、邪な淫行、偽りの言葉、さらには誤った見解をも行っていることになる。なぜか。そのすべてに原因も条件もないからである。諸賢よ、もしすべてに原因も条件もなく、それを真理のままに見るならば、内なる因に基づいて、為すことと為さないことについて、まったく欲求もなく、努力もないであろう。諸賢よ、もし為すことと為さないことについて、真理のままに知らないならば、正しい念いを失い、正しい智慧もなくなり、教えるべき道もなくなる。修行者の教えに従ってこのように語るならば、まさに道理をもって、かの修行者やバラモンを打ち負かすことができるのである。」
「我所自知、自覺法,為汝說者,若沙門、梵志,若天、魔、梵及餘世間皆無能伏,皆無能穢,皆無能制。云何我所自知、自覺法為汝說,非為沙門、梵志,若天、魔、梵及餘世間所能伏、所能穢、所能制?謂有六處法,我所自知、自覺為汝說,非為沙門、梵志,若天、魔、梵及餘世間所能伏、所能穢、所能制。復有六界法,我所自知、自覺為汝說,非為沙門、梵志,若天、魔、梵及餘世間所能伏、所能穢、所能制。
私が自ら悟り、自ら知った法をあなたに説こう。それを、修行者や聖職者、天や悪魔、梵天、そしてこの世のどんな者も、覆すことはできない。穢すこともできない。支配することもできない。 では、どのような法が、それらすべての者に覆されず、穢されず、支配されないのか。 それは、六つの認識の場(六処)に関する法である。これを私は自ら悟り、あなたに説く。これは修行者や聖職者、天や悪魔、梵天、そして世の中のどんな者も覆すことができず、穢すことができず、支配することができない。 さらに、六つの元素(六界)に関する法がある。これもまた、私が自ら悟り、あなたに説く法であり、同様に、いかなる者も覆すこと、穢すこと、支配することはできない。
「云何六處法,我所自知、自覺為汝說?謂眼處,耳、鼻、舌、身、意處,是謂六處法,我所自知、自覺為汝說也。云何六界法,我所自知、自覺為汝說?謂地界,水、火、風、空、識界,是謂六界法,我所自知、自覺為汝說也。
では、私が自ら知り、悟った「六つの場所」の教えとは何でしょうか。それは、眼の場所、耳の場所、鼻の場所、舌の場所、身体の場所、心の場所です。これらが「六つの場所」の教えであり、私が自ら知り、悟ってあなた方に説いたものです。 では、私が自ら知り、悟った「六つの要素」の教えとは何でしょうか。それは、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素、空の要素、識の要素です。これらが「六つの要素」の教えであり、私が自ら知り、悟ってあなた方に説いたものです。
「以六界合故,便生母胎,因六界便有六處,因六處便有更樂,因更樂便有覺。比丘!若有覺者便知苦如真,知苦習、知苦滅、知苦滅道如真。云何知苦如真?謂生苦、老苦、病苦、死苦、怨憎會苦、愛別離苦、所求不得苦、略五盛陰苦,是謂知苦如真。云何知苦習如真?謂此愛受當來有,樂欲共俱,求彼彼有,是謂知苦習如真。云何知苦滅如真?謂此愛受當來有,樂欲共俱,求彼彼有斷無餘、捨、吐、盡、無欲、滅、止、沒,是謂知苦滅如真。云何知苦滅道如真?謂八支聖道,正見乃至正定,是為八,是謂知苦滅道如真。比丘!當知苦如真,當斷苦習,當苦滅作證,當修苦滅道。若比丘知苦如真,斷苦習,苦滅作證,修苦滅道者,是謂比丘一切漏盡,諸結已解,能以正智而得苦際。」
「六界が集まることによって、母の胎内に宿るのです。六界があるから六処があり、六処があるから接触があり、接触があるから感受(覚)があります。
比丘(修行者)よ、感受のある者は、苦しみをあるがままに知り、苦しみの原因をあるがままに知り、苦しみの消滅をあるがままに知り、苦しみの消滅に至る道をあるがままに知ります。
では、どのように苦しみをあるがままに知るのでしょうか? それは、生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみ、嫌なものと出会う苦しみ、愛するものと別れる苦しみ、望んでも得られない苦しみ、要約すれば五つの執着のまとまり(五取蘊)の苦しみ、これらをあるがままに知ることです。これを『苦しみをあるがままに知る』と言います。
では、どのように苦しみの原因をあるがままに知るのでしょうか? それは、この渇愛(愛)が、再び生まれ変わることを引き起こし、喜びと欲望を伴い、あちこちに執着することです。これを『苦しみの原因をあるがままに知る』と言います。
では、どのように苦しみの消滅をあるがままに知るのでしょうか? それは、この渇愛が、再び生まれ変わることを引き起こし、喜びと欲望を伴い、あちこちに執着することを、残りなく捨て、手放し、吐き出し、尽くし、欲を離れ、滅ぼし、止み、沈み消えることです。これを『苦しみの消滅をあるがままに知る』と言います。
では、どのように苦しみの消滅に至る道をあるがままに知るのでしょうか? それは、八つの支分からなる聖なる道(八正道)、すなわち正しい見解から正しい禅定に至るまでの八つです。これを『苦しみの消滅に至る道をあるがままに知る』と言います。
比丘よ、あなたがたは苦しみをあるがままに知り、苦しみの原因を断ち切り、苦しみの消滅を自ら実証し、苦しみの消滅に至る道を修めるべきです。
もし比丘が、苦しみをあるがままに知り、苦しみの原因を断ち切り、苦しみの消滅を実証し、苦しみの消滅に至る道を
佛說如是。彼諸比丘聞佛所說,歡喜奉行。
このように仏は説かれました。比丘たちは仏の説かれたことを聞き、喜んでお受け取りになりました。
度經第三竟(千一百八十四字)
第三の経が終わりました(千百八十四字)