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title: "雜阿含經 · 32"
description: "雜阿含經是佛教早期經典之一，由劉宋時期譯師求那跋陀羅翻譯為漢文。該經屬於原始佛教阿含部，記錄了佛陀與弟子間的對話，內容涵蓋四聖諦、八正道、緣起法等核心教義，被視為研究原始佛教思想的重要文獻。雜阿含經在佛教經典中地位崇高，與長阿含、中阿含、增一阿含並列為四阿含，是南傳佛教巴利語尼柯耶的對應漢譯版本。該經語言簡練，教義樸實，反映了佛陀時代的修行方法與解脫之道，為後世佛教各派共同尊奉的基礎經典。"
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### （三二）

> 第三十二章

如是我聞：

> このように私は聞きました。

一時，佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時，尊者舍利弗在耆闍崛山。

> ある時、お釈迦様は王舎城の迦蘭陀竹園におられました。その時、尊者舎利弗は耆闍崛山におられました。

時，有長者子名輸屢那，日日遊行，到耆闍崛山，詣舍利弗所，頭面禮足，却坐一面。

> ある時、輸屢那という長者の息子がいました。彼は毎日のように遊び歩き、耆闍崛山にやって来て、舎利弗のもとを訪れました。頭を地につけて足を礼拝し、一歩下がって座につきました。

時，舍利弗告輸屢那：「若沙門、婆羅門於色不如實知，色集不如實知，色滅不如實知，色味不如實知，色患不如實知，色離不如實知故，不堪能超越色。若沙門、婆羅門於受、想、行、識不如實知，識集不如實知，識滅不如實知，識味不如實知，識患不如實知，識離不如實知故，此沙門、婆羅門不堪能超越識。

> その時、舎利弗は輸屢那に告げました。 「もし沙門や婆羅門が、物質について真実のままに知らず、物質の生起について真実のままに知らず、物質の滅について真実のままに知らず、物質の味わいについて真実のままに知らず、物質の危険について真実のままに知らず、物質からの離脱について真実のままに知らないならば、その者は物質を超えることができません。 同様に、もし沙門や婆羅門が、感受、表象、形成、識について真実のままに知らず、識の生起について真実のままに知らず、識の滅について真実のままに知らず、識の味わいについて真実のままに知らず、識の危険について真実のままに知らず、識からの離脱について真実のままに知らないならば、その沙門や婆羅門は識を超えることができません。

「若沙門、婆羅門於色、色集、色滅、色味、色患、色離如實知，此沙門、婆羅門堪能超越色。若沙門、婆羅門於受、想、行、識、識集、識滅、識味、識患、識離如實知，此沙門、婆羅門堪能超越識。

> もし、沙門や婆羅門が、色について、色の生起、色の滅尽、色の味わい、色の危険、色からの離脱をありのままに知るならば、その沙門や婆羅門は色を超越することができるでしょう。 もし、沙門や婆羅門が、受・想・行・識について、それらの生起、滅尽、味わい、危険、離脱をありのままに知るならば、その沙門や婆羅門は識を超越することができるでしょう。

「輸屢那！於汝意云何？色為常、為無常耶？」

> スナンダよ、あなたはどう思いますか？色は常なるものですか、それとも無常なるものですか？

答言：「無常。」

> 「無常です。」

「無常者，為苦耶？」

> 「無常であるものは、苦しみであると言えるでしょうか？」

答言：「是苦。」

> 答えて言う：「これは苦しみです。」

「輸屢那！若色無常、苦，是變易法，聖弟子於中寧有是我、異我、相在不？」

> ウルナよ、もし色が無常であり、苦であり、変化する法であるなら、聖なる弟子はその中に「これが我である」「これは我とは異なる」「これは我の中にある」などと執着するだろうか？

答言：「不也。」

> いいえ、違います。

「輸屢那！於汝意云何？如是受、想、行、識為常、為無常？」

> 「ウルナよ、あなたはどう思いますか？このような感受、表象、形成作用、識別作用は、常住ですか、それとも無常ですか？」

答言：「無常。」

> 「無常です。」

「若無常者，是苦耶？」

> もしそれが無常なら、それは苦なのですか？

答言：「是苦。」

> お答えになりました：「これは苦しみです。」

「輸屢那！若無常、苦，是變易法，聖弟子於中寧有是我、異我、相在不？」答言：「不也。」

> ウルナーよ、もしそれが無常であり、苦であり、変わりゆくものであるなら、聖なる弟子はそれに対して「これが私である」「これは私と異なるものである」「これは私の中にある」「これは私の外にある」などと考えるでしょうか？答えは「いいえ」です。

「輸屢那！當知色，若過去、若未來、若現在，若內、若外，若麁、若細，若好、若醜，若遠、若近，於一切色不是我、不異我、不相在，是名如實知。

> ウルナよ、よく聞きなさい。 物質的なものは、過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、内側のものであれ、外側のものであれ、粗大なものであれ、微細なものであれ、美しいものであれ、醜いものであれ、遠くのものであれ、近くのものであれ、あらゆる物質的なものについて、「これは私ではない」「これは私と別のものでもない」「これは私の中にあるものでも、私がそれの中にあるものでもない」と、ありのままに知ること。これを真実を知るというのです。

「輸屢那！受、想、行、識，若過去、若未來、若現在，若內、若外，若麁、若細，若好、若醜，若遠、若近，於一切識不是我、不異我、不相在，是名如實知。

> ウルナよ、受・想・行・識は、過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、内にあるものであれ、外にあるものであれ、粗いものであれ、細やかなものであれ、好ましいものであれ、好ましくないものであれ、遠いものであれ、近いものであれ、すべての識において、それは私ではありません、私とは別のものでもありません、私の中に在るのでも、私がそれの中に在るのでもありません。これを、ありのままに知ることと言います。

「輸屢那！聖弟子於此五受陰正觀非我、非我所。如是正觀，於諸世間無所攝受；無攝受者，則無所著；無所著者，自得涅槃：『我生已盡，梵行已立，所作已作，自知不受後有。』」

> ウルナよ、聖なる弟子はこの五つの感受の集まりを、私ではない、私のものでもないと正しく観察します。このように正しく観察するとき、彼はあらゆる世間の事物に執着することがなくなります。執着がなければ、それらに縛られることもありません。縛られることがなくなれば、自ら涅槃を得るのです。『私の生は尽きた。清らかな行いは完成した。なすべきことは成し遂げた。もはやこの世に再び生まれることはないと自ら知る』と。

時，長者子輸屢那聞舍利弗所說，歡喜踊躍，作禮而去。

> その時、長者の子である輸屢那は舎利弗の説法を聞き、歓喜して踊り上がり、礼をして立ち去りました。

## 雜阿含經卷第一

> 雑阿含経 巻第一