分別界品第一
分別界品 第一
諸一切種諸冥滅, 拔眾生出生死泥,
敬禮如是如理師, 對法藏論我當說。
諸々のあらゆる種類の無明を滅し、衆生を生死の泥濘から引き上げたもうた、そのような理にかなった師に敬礼しつつ、今ここに阿毘達磨の論を説きましょう。
論曰:今欲造論,為顯自師其體尊高超諸聖眾,故先讚德方申敬禮。諸言所表謂佛世尊,此能破闇故稱冥滅。言一切種諸冥滅者,謂滅諸境一切品冥。以諸無知能覆實義及障真見,故說為冥。唯佛世尊得永對治,於一切境一切種冥,證不生法故稱為滅。聲聞獨覺雖滅諸冥,以染無知畢竟斷,故非一切種。所以者何?由於佛法極遠時處及諸義類無邊差別,不染無知猶未斷故。已讚世尊自利德滿,次當讚佛利他德圓。拔眾生出生死泥者,由彼生死是諸眾生沈溺處故,難可出故,所以譬泥。眾生於中淪沒無救,世尊哀愍隨授所應,正法教手拔濟令出。已讚佛德,次申敬禮。敬禮如是如理師者,稽首接足故稱敬禮。諸有具前自他利德,故云如是。如實無倒教授誡勗,名如理師。如理師言顯利他德,能方便說如理正教,從生死泥拔眾生出,不由威力與願神通。禮如理師欲何所作?對法藏論我當說者,教誡學徒故稱為論。其論者何?謂對法藏。何謂對法?頌曰:
論に曰く、今まさに論を造らんと欲す。自らの師がその体において尊く、諸々の聖衆を超えていることを顕すがために、まず徳を讃えてから敬礼を述べるのである。「諸」と言う言葉が表すところは、仏世尊である。この方は闇を破ることができるので、「冥滅」と称する。「一切種の諸冥滅」と言うのは、諸々の境における一切の品の冥を滅することを謂う。諸々の無知は実義を覆い、真見を妨げるので、「冥」と説くのである。ただ仏世尊のみが永く対治を得て、一切の境・一切の種の冥に対して、不生の法を証するがゆえに「滅」と称するのである。声聞や独覚は諸々の冥を滅すると雖も、染污の無知が究竟に断たれているがゆえに、一切種ではない。それは何故か。仏法の極めて遠い時処や、諸々の義類の無辺の差別に対して、不染污の無知がまだ断たれていないからである。すでに世尊の自利の德が満ちていることを讃えた。次に仏の利他の德が円満であることを讃えるべきである。衆生を生死の泥から救い上げるとは、その生死は諸々の衆生が沈み溺れるところであり、出がたいがゆえに、泥に譬えるのである。衆生はその中で淪沒して救いがないが、世尊は哀愍して、その應ずる所に隨って、正法の教えの手を授けて、救い拔いて出でしめるのである。すでに仏德を讃えた。次に敬礼を述べる。このような如理の師に敬礼するとは、頭を低くして足に接するので「敬礼」と称するのである。諸々の、前に述べた自利利他を具える者は、「如是」という。如實にして倒錯なく教授・誡勗することを、「如理の師」と名づける。「如理の師」という言葉は利他の德を顕すものであり、方便をもって如理の正教を説き、生死の泥から衆生を拔き出でしめるのであって、威力や願力や神通によるのではない。如理の師に礼して何をせんと欲するのか。対法蔵の論を我が説かんとは、学徒を教誡するがゆえに「論」と称するのである。その論とは何か。謂く、対法蔵である。何を対法と謂うのか。頌に曰く、
淨慧隨行名對法, 及能得此諸慧論。
浄慧に随い行くものを対法と名づけ、及びこれ(浄慧)を得るための諸々の慧の論(もまた対法と名づける)。
論曰:慧謂擇法,淨謂無漏,淨慧眷屬名曰隨行。如是總說無漏五蘊名為對法,此則勝義阿毘達磨。若說世俗阿毘達磨,即能得此諸慧及論。慧謂得此有漏修慧、思聞生得慧及隨行。論謂傳生無漏慧教。此諸慧論是彼資糧,故亦得名阿毘達磨。釋此名者,能持自相故名為法。若勝義法唯是涅槃,若法相法通四聖諦,此能對向或能對觀,故稱對法。已釋對法。何故此論名對法藏?頌曰:
攝彼勝義依彼故, 此立對法俱舍名。
あの勝義に依り、それに基づくがゆえに、これを対法倶舎と名づける。
論曰:由彼對法論中勝義入此攝故,此得藏名。或此依彼、從彼引生,是彼所藏,故亦名藏。是故此論名對法藏。何因說彼阿毘達磨?誰復先說阿毘達磨,而今造論恭敬解釋?頌曰:
論にはこう述べられている。あの対法論の中の勝義がこの論に収められているから、これに蔵という名がつくのである。または、これはあれに依拠し、あれから引き出されて生まれたものであり、あれに蔵されているものであるから、これも蔵という名がつく。それゆえ、この論は対法蔵という名である。では、なぜあの阿毘達磨を説くのか。また、誰が最初に阿毘達磨を説いたのか。それゆえに、今この論を造って恭しく解釈するのか。偈頌にこうある。
若離擇法定無餘, 能滅諸惑勝方便,
由惑世間漂有海, 因此傳佛說對法。
もしも智慧の選択を離れるならば、この世に他に方便はない。智慧の選択を離れなければ、諸々の煩悩を滅する最上の方法である。煩悩によって世間は迷いの海に漂う。ゆえにこの智慧を説くために、仏は対法(教え)を説かれたと伝えられる。
論曰:若離擇法,無勝方便能滅諸惑。諸惑能令世間漂轉生死大海,因此傳佛說彼對法,欲令世間得擇法故。離說對法,弟子不能於諸法相如理簡擇。然佛世尊處處散說阿毘達磨,大德迦多衍尼子等諸大聲聞結集安置。猶如大德法救所集無常品等鄔拕南頌,毘婆沙師傳說如此。何法名為彼所簡擇,因此傳佛說對法耶?頌曰:
論曰:真理の選択を離れては、諸々の煩悩を滅ぼす優れた手段はない。煩悩は世の中の者たちを生死の大海に漂わせ流転させる。それゆえ、仏がその対法(アビダルマ)を説かれたと伝えられているのは、世の中の者たちに真理の選択を得させるためである。対法の説法を離れては、弟子たちは諸法の相を真理に基づいて簡別することができない。しかし、仏世尊はところどころに散在してアビダルマを説かれた。大徳カータヤーヤニプトラ(迦多衍尼子)などの大声聞たちがこれを結集して安置したのである。ちょうど大徳ダルマトラータ(法救)が編纂した無常品などのウダーナ頌のようなものである。毘婆沙師はこのように伝えている。何という法が彼らによって簡別され、それゆえ仏が対法を説かれたと伝えられるのか。頌に曰く、
有漏無漏法, 除道餘有為,
於彼漏隨增, 故說名有漏。
無漏謂道諦, 及三種無為,
謂虛空二滅, 此中空無礙。
擇滅謂離繫, 隨繫事各別,
畢竟礙當生, 別得非擇滅。
有漏と無漏の法について、道を除いた他の有為法には、煩悩が随って増長するので、これを有漏と名づける。無漏とは道諦および三種の無為法を指す。すなわち虚空と二種の滅である。そのうち虚空は障害がないことをいう。択滅とは繫縛を離れることであり、繫縛される対象に応じてそれぞれ別個である。究竟的に未来の生起を妨げるが、択滅とは別に得られるものを非択滅という。
論曰:說一切法略有二種,謂有漏、無漏。有漏法云何?謂除道諦,餘有為法。所以者何?諸漏於中等隨增故。緣滅道諦,諸漏雖生而不隨增,故非有漏。不隨增義,隨眠品中自當顯說。已辯有漏。無漏云何?謂道聖諦及三無為。何等為三?虛空、二滅。二滅者何?擇、非擇滅。此虛空等三種無為及道聖諦,名無漏法。所以者何?諸漏於中不隨增故。於略所說三無為中,虛空但以無礙為性,由無障故色於中行。擇滅即以離繫為性,諸有漏法遠離繫縛證得解脫,名為擇滅。擇謂簡擇,即慧差別,各別簡擇四聖諦故。擇力所得滅名為擇滅,如牛所駕車名曰牛車,略去中言故作是說。一切有漏法同一擇滅耶?不爾。云何?隨繫事別。謂隨繫事量,離繫事亦爾。若不爾者,於證見苦所斷煩惱滅時,應證一切所斷諸煩惱滅。若如是者,修餘對治則為無用。依何義說滅無同類?依滅自無同類因義亦不與他,故作是說,非無同類。已說擇滅。永礙當生得非擇滅,謂能永礙未來法生。得滅異前,名非擇滅。得不因擇,但由闕緣。如眼與意專一色時,餘色聲香味觸等謝。緣彼境界五識身等住未來世畢竟不生,由彼不能緣過去境,緣不具故得非擇滅。於法得滅應作四句。或於諸法唯得擇滅,謂諸有漏過現生法。或於諸法唯非擇滅,謂不生法無漏有為。或於諸法俱得二滅,謂彼不生諸有漏法。或於諸法不得二滅,謂諸無漏過現生法。如是已說三種無為。前說除道,餘有為法是名有漏。何謂有為?頌曰:
論に曰く、説一切法には、大まかに二種類がある。すなわち「有漏」と「無漏」である。
有漏法とは何か。道諦を除いた、その他の有為法のことである。なぜならば、諸々の煩悩がその中に等しく随順して増長するからである。滅諦と道諦を縁として、諸々の煩悩は生じることはあっても、そこに随順して増長することはない。ゆえに有漏ではないのである。「随順して増長しない」という意味については、「随眠品」の中で自ずから詳しく説かれるであろう。
以上、有漏について論じ終えた。
無漏とは何か。道聖諦と三つの無為法である。三つとは何か。虚空と二つの滅である。二つの滅とは何か。「択滅」と「非択滅」である。この虚空などの三つの無為法と道聖諦を、無漏法と名付ける。なぜならば、諸々の煩悩がその中に随順して増長しないからである。
先に略説した三つの無為法のうち、虚空はただ「礙がない」ことを自性とする。障礙がないがゆえに、色がその中を動くことができるのである。
択滅とは、「繫縛を離れること」を自性とする。諸々の有漏法が繫縛を遠く離れて解脱を証得することを、択滅と名付ける。「択」とは「簡択」すなわち慧の種類のことであり、四聖諦をそれぞれに簡択することによる。この択の力によって得られる滅を択滅と名付ける。ちょうど牛が引く車を「牛車」と名付けるように、中間の言葉を略してこのように説くのである。
一切の有漏法は同じ一つの択滅を持つのであろうか。いや、そうではない。どうしてか。繫縛される事柄に随って異なるからである。すなわち繫縛される事柄の量に随って、繫縛を離れる事柄の量もまた同じである。もしそうでないならば、見苦所断の煩悩の滅を証得する時、一切の所断の煩悩の滅をも証得すべきことになる。もしそのようであるならば、その他の対治法を修することは無意味となってしまう。どのような意味に基づいて「滅には同類がない」と説くのか。滅はそれ自体として同類因の意味を持たず、また他の法に同類因として働くこともないという意味に基づいて、このように説くのである。決して同類の滅が存在しないという意味ではない。
以上、択滅について論じ終えた。
未来に生ずるであろう法を永遠に妨げて、非択滅を得る。すなわち、未来の法の生を永遠に妨げることができる。このように得られる滅は択によって得られる滅とは異なるので、非択滅と名付ける。この得は択によって得られるのではなく、ただ因縁が欠けることによる。例えば、眼と意が一つの色に専念している時、その他の色・声・香・味・触などは消え去る。それらの境界を縁とする五識身などは未来の世に留まり、永遠に生ずることがない。なぜならば、それらは過去の境界を縁することができないからである。縁が具わらないがゆえに、非択滅を得るのである。
法について滅を得ることには、四句で分別すべきである。
ある法については、ただ択滅のみを得る。すなわち、諸々の有漏であり過去・現在・未来に生ずる法である。
ある法については、ただ非択滅のみを得る。すなわち、生じない法であり無漏の有為法である。
ある法については、二つの滅をともに得る。すなわち、生じない諸々の有漏法である。
ある法については、二つの滅を得ない。すなわち、諸々の無漏であり過去・現在・未来に生ずる法である。
このようにして、三つの無為法について論じ終えた。
先に「道諦を除いた、その他の有為法を有漏と名付ける」と説いた。では、有為とは何か。頌に曰く、
又諸有為法, 謂色等五蘊,
亦世路言依, 有離有事等。
また、さまざまな因縁によって生じる現象(有為法)とは、色などの五蘊(心身を構成する五つの要素)を指します。これらはまた、世間の移り変わる道(世路)や、言葉のよりどころ(言依)、清らかな境地を離れる性質(有離)、執着の対象となる存在(有事)などとも呼ばれます。
論曰:色等五蘊,謂初色蘊乃至識蘊。如是五法具攝有為,眾緣聚集共所作故。無有少法一緣所生,是彼類故。未來無妨,如乳如薪。此有為法亦名世路,已行正行當行性故,或為無常所吞食故。或名言依,言謂語言,此所依者即名俱義。如是言依具攝一切有為諸法。若不爾者,應違《品類足論》所說。彼說言依十八界攝。或名有離,離謂永離,即是涅槃,一切有為有彼離故。或名有事,以有因故,事是因義。毘婆沙師傳說如此。如是等類是有為法差別眾名,於此所說有為法中。頌曰:
論で述べられている。色・受・想・行・識の五蘊、すなわち初めに色蘊、最後に識蘊がある。これらの五つの法は、あらゆる有為法を包括する。なぜなら、それらは多くの条件(縁)が集まって共に作り出されたものだからである。たった一つの条件によって生じる法は、微塵たりとも存在しない。それらはすべて同類のものであるからだ。未来の法についても妨げはない。例えば、乳や薪のようなものである。
この有為法はまた「世路」とも呼ばれる。すでに行われたもの、まさに行われているもの、これから行われるべきものという性質を持つからである。あるいは、無常に飲み込まれるものであるからである。
また「言依」とも呼ばれる。言とは言葉であり、これが依拠するものとは、言葉と共にある意味内容である。このように言依は、あらゆる有為法を包括的に含む。もしそうでなければ、『品類足論』の説に反することになるだろう。その論では、言依は十八界に含まれると説かれているからである。
また「有離」とも呼ばれる。離とは永遠の離脱、すなわち涅槃を意味する。あらゆる有為法は、その涅槃への離脱を持つからである。
また「有事」とも呼ばれる。原因を持つからである。「事」とは原因という意味である。毘婆沙師たちはこのように伝えている。
以上のようなものが、有為法の様々な別名である。このように説かれた有為法について、頌で示すと次の通りである。
有漏名取蘊, 亦說為有諍,
及苦集世間, 見處三有等。
有漏(煩惱を伴うもの)を「取蘊(執着の対象となる五蘊)」と名づけ、また「有諍(争いを有するもの)」とも説く。さらに、これは「苦」であり「集(苦の原因)」であり、「世間」であり、「見處(誤った見解の拠り所)」であり、「三有(三つの生存界)」などとも呼ばれる。
論曰:此何所立?謂立取蘊亦名為蘊。或有唯蘊而非取蘊,謂無漏行。煩惱名取,蘊從取生故名取蘊,如草穅火。或蘊屬取故名取蘊,如帝王臣。或蘊生取故名取蘊,如花果樹。此有漏法亦名有諍,煩惱名諍,觸動善品故、損害自他故、諍隨增故,名為有諍。猶如有漏亦名為苦,違聖心故。亦名為集,能招苦故。亦名世間,可毀壞故、有對治故。亦名見處,見住其中隨增眠故。亦名三有,有因有依三有攝故。如是等類是有漏法。隨義別名,如上所言。色等五蘊名有為法。色蘊者何?頌曰:
論で述べるには、ここで何を立てるのか。いわゆる「取蘊」を立てて、それもまた「蘊」と名づけるのである。あるいは、ただ「蘊」だけであって「取蘊」ではないものもある。それは無漏の行(修行の実践)である。煩悩を「取」と名づけ、蘊はその取から生じるから「取蘊」と名づけるのである。たとえば、草や殻(もみがら)から生じる火のようなものである。あるいは、蘊が取に属するから「取蘊」と名づけるのである。たとえば、帝王に従う臣下のようなものである。あるいは、蘊が取を生じさせるから「取蘊」と名づけるのである。たとえば、花や果実を生じさせる木のようなものである。この有漏の法はまた「有諍」とも名づけられる。煩悩を「諍」と名づけ、善い品々を動かし損なうからであり、自他を損なうからであり、諍がそれに随って増長するからである。ゆえに「有諍」と名づけるのである。また、有漏は「苦」とも名づけられる。聖者の心に背くからである。また「集」とも名づけられる。苦を招き寄せるからである。また「世間」とも名づけられる。壊れうるものであり、対治されるべきものがあるからである。また「見処」とも名づけられる。見がその中に住し、随って増長し、眠るからである。また「三有」とも名づけられる。因があり、依があり、三有に摂せられるからである。このように等しい種類のものは、すべて有漏の法である。その意味に従って別の名があるのは、先に述べたとおりである。色などの五蘊を「有為法」と名づける。では、色蘊とは何か。偈頌に曰く、
色者唯五根, 五境及無表。
色とは、ただ五つの感覚器官(五根)、五つの感覚対象(五境)、そして無表(こころの中で表に現れない働き)のみを指す。
論曰:言五根者,所謂眼、耳、鼻、舌、身根。言五境者,即是眼等五根境界,所謂色、聲、香、味、所觸。及無表者,謂無表色。唯依此量立色蘊名。此中先應說五根相。頌曰:
論じて曰く、「五根」とは、すなわち眼・耳・鼻・舌・身の五つの根のことである。「五境」とは、すなわち眼などの五根がその対象とする境界であり、すなわち色・声・香・味・触れるもののことである。「および無表」とは、無表色を指す。ただこの量によってのみ色蘊という名が立てられる。この中で、まず五根の特徴を説くべきである。偈頌に曰く、
彼識依淨色, 名眼等五根。
彼の識は浄らかな色に依って、眼などの五根と名付けられる。
論曰:彼謂前說色等五境,識即色、聲、香、味、觸識。彼識所依五種淨色,如其次第,應知即是眼等五根。如世尊說:苾芻當知,眼謂內處,四大所造淨色為性。如是廣說。或復彼者,謂前所說眼等五根,識即眼、耳、鼻、舌、身識。彼識所依五種淨色,名眼等根,是眼等識所依止義。如是便順《品類足論》。如彼論說:云何眼根?眼識所依淨色為性。如是廣說。已說五根。次說五境。頌曰:
色二或二十, 聲唯有八種,
味六香四種, 觸十一為性。
色にはあるいは二十、声にはただ八種あり、味には六種、香りには四種、触れられるものには十一种が本質としてある。
論曰:言色二者,一顯、二形。顯色有四:青、黃、赤、白,餘顯是此四色差別。形色有八,謂長為初不正為後。或二十者,即此色處復說二十,謂青、黃、赤、白、長、短、方、圓、高、下、正、不正、雲、煙、塵、霧、影、光、明、闇。有餘師說,空一顯色,第二十一。此中正者謂形平等,形不平等名為不正,地水氣騰說之為霧,日焰名光,月星火藥寶珠電等諸焰名明,障光明生於中餘色可見名影,翻此為闇。餘色易了故今不釋。或有色處有顯無形,謂青、黃、赤、白、影、光、明、闇。或有色處有形無顯。謂長等一分身表業性。或有色處有顯有形,謂所餘色。有餘師說:唯光明色有顯無形,現見世間青等色處有長等故。如何一事具有顯形?由於此中俱可知故。此中有者是有智義,非有境義。若爾,身表中亦應有顯智。已說色處,當說聲處。聲唯八種,謂有執受或無執受大種為因,及有情名、非有情名差別為四,此復可意及不可意差別成八。執受大種為因聲者,謂言手等所發音聲。風林河等所發音聲,名無執受大種為因。有情名聲謂語表業,餘聲則是非有情名。有說:有聲通有執受及無執受大種為因,如手鼓等合所生聲。如不許一顯色極微二四大造,聲亦應爾。已說聲處,當說味處。味有六種,甘、醋、醎、辛、苦、淡別故。已說味處,當說香處。香有四種:好香、惡香、等不等香,有差別故。本論中說香有三種:好香、惡香及平等香。已說香處,當說觸處。觸有十一,謂四大種、滑性、澁性、重性、輕性及冷、飢、渴。此中大種後當廣說。柔軟名滑。麁強為澁。可稱名重。翻此為輕。煖欲名冷。食欲名飢。飲欲名渴。此三於因立果名故,作如是說。如有頌言:
論じて曰く、「色」には二種類ある。一つは「顕色(見える色)」、二つは「形色(形の色)」である。
顕色には四種ある。青、黄、赤、白である。他の顕色は、これら四色の変化したものに過ぎない。
形色には八種ある。長いものを初めとし、正しくない形を最後とする。
あるいは二十種と言う場合もある。すなわち、この色処について更に二十種を説く。青、黄、赤、白、長、短、方、円、高、下、正、不正、雲、煙、塵、霧、影、光、明、闇である。
他の師の説では、虚空の一顕色を加えて第二十一とする。
ここで「正」とは形が均整がとれていることを言い、形が不均整なことを「不正」と言う。地や水の気配が立ち上るのを「霧」と言う。太陽の炎を「光」と言い、月、星、火、薬、宝、珠、電などの炎を「明」と言う。光が遮られて生じる、その中で他の色が見える状態を「影」と言い、その反対を「闇」と言う。
他の色は理解しやすいので、ここでは説明しない。
あるいは、顕色はあるが形色のない色処もある。青、黄、赤、白、影、光、明、闇である。
あるいは、形色はあるが顕色のないものもある。長い等の一部の身体の表業の性質である。
あるいは、顕色も形色もあるものもある。その他の色である。
他の師の説では、ただ光と明の色のみが顕色だけで形色がないと言う。現に世間では青等の色処に長い等があるのを見るからである。
どうして一つの物事に顕色と形色の両方があり得るのか。この中に両方が共に知られ得るからである。
ここで「有る」とは知る智慧があるという意味であり、境が存在するという意味ではない。もしそうならば、身体の表業の中にもまた顕色を知る智慧があるべきであろう。
色処を説き終えたので、声処について説くべきである。
声はただ八種ある。執受された大種または執受されない大種を因とするもの、および有情の名である声、非有情の名である声の差別によって四種となり、これが更に可意と不可意の差別によって八種となる。
執受された大種を因とする声とは、言葉や手などによって発せられる音声である。風、林、河などによって発せられる音声は、執受されない大種を因とするものと名付けられる。
有情の名である声とは、語の表業を言う。その他の声は、非有情の名である。
ある説では、声には執受された大種と執受されない大種の両方を因とするものがあると言う。例えば手と太鼓などが合わさって生じる音である。
一つの顕色の極微が二つの四大種によって造られることを許さないように、声もまた同様であるべきである。
声処を説き終えたので、味処について説くべきである。
味には六種ある。甘、酢、鹹(しょっぱい)、辛、苦、淡(あっさり)の区別があるからである。
味処を説き終えたので、香処について説くべきである。
香には四種ある。好香、悪香、等香、不等香の区別があるからである。
本論の中では香に三種あると説く。好香、悪香、および平等香である。
香処を説き終えたので、触処について説くべきである。
触には十一種ある。四大種、滑性、澁性、重性、軽性、および冷、飢、渇である。
この中の大種については、後で詳しく説くであろう。
柔らかいことを「滑」と言い、粗く強いことを「澁」と言う。量ることができるのを「重」と言い、その反対を「軽」と言う。
暖かさを欲することを「冷」と言い、食べ物を欲することを「飢」と言い、飲み物を欲することを「渇」と言う。
これら三つは、因の上に果の名を立てるので、このように説くのである。例えば次の偈頌があるように。
諸佛出現樂, 演說正法樂,
僧眾和合樂, 同修勇進樂。
諸仏の出現は楽しみであり、正しい法を説くことも楽しみである。僧団が和合するのは楽しみであり、共に修行に励むのも楽しみである。
於色界中無飢渴觸,有所餘觸。彼界衣服,別不可稱,聚則可稱。冷煖於彼雖無能損而有能益。傳說如此。此中已說多種色處。有時眼識緣一事生,謂於爾時各別了別。有時眼識緣多事生,謂於爾時不別了別,如遠觀察軍眾山林、無量顯形珠寶聚等。應知耳等諸識亦爾。有餘師說:身識極多緣五觸起,謂四大種,滑等隨一。有說:極多總緣一切十一觸起。若爾,五識總緣境故,應五識身取共相境非自相境。約處自相,許五識身取自相境非事自相,斯有何失?今應思擇,身舌二根兩境俱至,何識先起?隨境強盛彼識先生;境若均平舌識先起,食飲引身令相續故。已說根境及取境相,無表色相今次當說。頌曰:
色界の中には飢えや渇きの感覚はなく、他の触れ合い(感触)は存在します。その界の衣服は、個々には測れませんが、集めれば測ることができます。冷たさや温かさは、その界では害になることはありませんが、益になることはあります。このように伝えられています。ここでは、すでに様々な種類の色処(色の領域)が説かれました。
時には、眼識が一つの対象に縁って生じることがあります。それは、その時に各々を別々に認識する場合です。時には、眼識が多くの対象に縁って生じることがあります。それは、その時に区別して認識しない場合で、遠くから軍団や山林、無数の色や形の宝珠の集まりなどを観察するような場合です。耳識などの他の識も同様であると知るべきです。
他の師たちはこう説きます。身識は、最大で五つの触(感触)に縁って生じる、すなわち四大種と、滑らかさなどの中の一つであると。また、ある説では、最大で、すべての十一の触をまとめて縁って生じるとも言います。もしそうならば、五識は対象を総合的に縁するのだから、五識は共相の対象を取るのであり、自相の対象を取るのではないはずです。
しかし、処としての自相については、五識が自相の対象を取ると認めますが、事としての自相ではないとすれば、何の欠点があるでしょうか。ここで考えるべきことは、身根と舌根の二つの根に、両方の対象が同時に至った場合、どの識が先に生じるかです。対象が強く盛んな方に従って、その識が先に生じます。対象が均等であれば、舌識が先に生じます。なぜなら、飲食は身を引き継がせて相続させるからです。
すでに根と対象、そして対象を取る相を説きました。無表色の相について、次に説くべきです。偈頌は次の通りです。
亂心無心等, 隨流淨不淨,
大種所造性, 由此說無表。
乱れた心や心のない状態など、流れに従って清らかにも不浄にもなる。大きな元素から作られた性質によって、これが無表(形なきもの)と説かれる。
論曰:亂心者,謂此餘心。無心者,謂入無想及滅盡定。等,言顯示不亂有心。相似相續說名隨流。善與不善名淨不淨。為簡諸得相似相續,是故復言大種所造。毘婆沙說:造是因義,謂作生等五種因故。顯立名因,故言由此。無表雖以色業為性如有表業,而非表示令他了知,故名無表。說者顯此是師宗言,略說表業及定所生善不善色名為無表。既言無表大種所造,大種云何?頌曰:
論に曰く、「亂心」とは、この他の心を指す。「無心」とは、無想定および滅盡定に入っている状態を指す。「等」の言葉は、亂れていない有心の狀態を示すために置かれたものである。相似が相續して、これを「隨流」と名づける。善と不善とを、それぞれ「淨」と「不淨」と名づける。諸々の「得」が相似相續であることを簡別するために、さらに「大種所造」と言うのである。毘婆沙は説く、「造」とは因の意味であり、すなわち生・等の五種の因を作すことを指す。名を立てる因を示すために、「由此」と言うのである。無表は、その體が表業のように色業であっても、他者に知らしめるための表示ではないから、「無表」と名づけるのである。「說者」とは、この宗の師の言であることを示す。略して、表業および定によって生じる善不善の色を「無表」と名づける。すでに「無表は大種所造なり」と言うが、では大種とは何か。頌に曰く、
大種謂四界, 即地水火風,
能成持等業, 堅濕煖動性。
論曰:地、水、火、風能持自相及所造色,故名為界,如是四界亦名大種,一切餘色所依性故、體寬廣故。或於地等增盛聚中形相大故,或起種種大事用故。此四大種能成何業?如其次第能成持、攝、熟、長四業,地界能持,水界能攝,火界能熟,風界能長。長謂增盛或復流引。業用既爾,自性云何?如其次第即用堅、濕、煖、動為性,地界堅性,水界濕性,火界煖性,風界動性。由此能引大種造色,令其相續生至餘方,如吹燈光,故名為動。《品類足論》及契經言:云何名風界?謂輕等動性。復說輕性為所造色,故應風界動為自性,舉業顯體故亦言輕。云何地等?地等界別。頌曰:
論に曰く、地・水・火・風は、自らの性質と、それによって作られる物質(色法)を保ち持つことができる。そのため「界」と名づける。これら四つの界は「大種」とも呼ばれる。なぜなら、すべての他の物質のよりどころとなる性質であり、その体は広大であるからである。あるいは、地などの要素が増大・集積したものの中では、その形相が大きいからであり、あるいは種々の大きな働きを起こすからである。
この四大種はどんな働きをするのか。その順に従えば、支える・包む・熟させる・成長させる、という四つの働きを成就する。地界は支え、水界は包み、火界は熟させ、風界は成長させる。「成長」とは、増大・充実すること、あるいは流れに沿って引き伸ばすことをいう。
働きがこのようであるならば、その自らの性質はどうか。その順に従えば、堅さ・湿り・温かさ・動きを用いて性質とする。地界は堅さの性質、水界は湿りの性質、火界は温かさの性質、風界は動きの性質である。このことによって、大種が作られた物質(色法)を引き起こし、それらを相続して他の場所に生じさせることができる。ちょうど風が灯火の光を吹き動かすようなものである。そのため「動」と名づける。
『品類足論』および経典にはこう説かれている。「何をもって風界というのか。すなわち軽く動く性質である」と。また、軽さの性質は作られた物質(色法)であるとも説かれている。それゆえ、風界は動きを自らの性質とすべきであり、その働きを示すことによって、その体をも示すために「軽い」とも言うのである。
どのように地などがあるのか。地などの界には区別がある。頌に曰く——
地謂顯形色, 隨世想立名;
水火亦復然, 風即界亦爾。
地とは、見える形や色のこと。 世間の習慣に従って名前が付けられた。 水や火も同じように、 風もまた、その要素として同様である。
論曰:地謂顯形,色處為體,隨世間想假立此名。由諸世間相示地者,以顯形色而相示故。水火亦然。風即風界,世間於動立風名故。或如地等隨世想名,風亦顯形,故言亦爾。如世間說黑風團風,此用顯形表示風故。何故此蘊無表為後說為色耶?由變壞故。如世尊說:苾芻當知,由變壞故名色取蘊。誰能變壞?謂手觸故即便變壞。乃至廣說。變壞即是可惱壞義,故義品中作如是說:
論じて言う。地とは顕色と形色を指し、色処をその体とする。世間の思いに従って、仮にこの名を立てる。諸々の世間が地を示す時、顕色と形色によって示すからである。水や火も同じである。風はすなわち風界であり、世間が動きに対して風の名を立てるからである。あるいは地などのように世間の思いに従った名であり、風もまた顕色と形色であるから、「亦た爾の如し」と言う。世間が「黒い風」「塊の風」と言うように、これは顕色と形色をもって風を表すからである。なぜこの蘊においては無表を後とし、色と言うのか。壊れ変わるからである。世尊が説くように「苾芻よ、知るべし。壊れ変わるが故に色取蘊と名づく」と。誰が壊れ変えられるのか。すなわち手で触れれば、すぐに壊れ変わる。乃至、広く説く。壊れ変わるとは、すなわち悩ましく壊され得るという意味である。故に義品において、このように説くのである。
趣求諸欲人, 常起於希望,
諸欲若不遂, 惱壞如箭中。
趣求諸欲の人、常に希望を起す、 諸欲もし遂げずんば、惱壞すること箭に中のごとし。
色復云何?欲所惱壞,欲所擾惱變壞生故。有說:變礙故名為色。若爾,極微應不名色,無變礙故。此難不然。無一極微各處而住,眾微聚集變礙義成。過去未來應不名色,此亦曾當有變礙故;及彼類故,如所燒薪,諸無表色應不名色。有釋:表色有變礙故,無表隨彼亦受色名。譬如樹動影亦隨動。此釋不然,無變礙故。又表滅時無表應滅,如樹滅時影必隨滅。有釋:所依大種變礙,故無表業亦得色名。若爾,所依有變礙故,眼識等五應亦名色。此難不齊。無表依止大種轉時,如影依樹光依珠寶。眼等五識依眼等時則不如是,唯能為作助生緣故。此影依樹光依寶言,且非符順毘婆沙義。彼宗影等顯色極微,各自依止四大種故。設許影光依止樹寶,而無表色不同彼依,彼許所依大種雖滅,而無表色不隨滅故。是故所言未為釋難。復有別釋彼所難言:眼識等五所依不定,或有變礙謂眼等根,或無變礙謂無間意,無表所依則不如是,故前所難定為不齊,變礙名色理得成就。頌曰:
では、「色」とは何か。欲による悩まし苦しめられ、壊れ乱されることから生じるものである。あるいは、形をなし妨げ合う(変礙)ことから「色」と名づけられる、と説く者もある。もしそうならば、極微(最小の物質粒子)は、形をなし妨げることがないので「色」と名づけるべきではない、という難がある。しかし、この難は正しくない。なぜなら、一つ一つの極微がばらばらに存在するのではなく、多くの極微が集まって初めて形をなし妨げる性質が成立するからである。また、過去や未来のものは「色」と名づけるべきではない、という難もあるが、これも過去や未来にも形をなし妨げる性質があった、あるいはあるであろうし、またそれと同じ種類のものであるからである。例えば、燃やされる薪のようなものである。さらに、無表色(意思の力による目に見えない業)は「色」と名づけるべきではない、という難もある。ある者はこう釈する。「表色(身体や言葉に現れた行い)が形をなし妨げる性質を持つので、無表色もそれに従って『色』と名づけられる。例えば、木が動けば影も動くようなものである。」しかし、この釈も正しくない。無表色には、そもそも形をなし妨げる性質がないからである。また、表色が滅すれば無表色も滅するはずである。例えば、木が滅すれば影も必ず滅するように。また、ある者はこう釈する。「無表色のよりどころとなる四大種(地・水・火・風)が形をなし妨げる性質を持つので、無表の業もまた『色』と名づけられるのである。」もしそうならば、そのよりどころが形をなし妨げる性質を持つがゆえに、眼識などの五つの識もまた「色」と名づけられるべきであろう。この難は、同等ではない。なぜなら、無表色が四大種に依って働くときは、影が木に依り、光が宝石に依るようなものであるが、眼などの五つの識が眼などに依るときはそのようではなく、ただ生じるのを助ける縁となるにすぎないからである。しかし、「影が木に依り、光が宝石に依る」というこのたとえは、毘婆沙の教義に必ずしもかなっていない。彼らの宗派では、影や光は顕色(目に見える色)の極微であり、それぞれが四大種に依っていると説くからである。たとえ影や光が木や宝石に依ると認めたとしても、無表色はそのように依るのではない。彼らは、よりどころとなる四大種が滅んでも、無表色はそれに従って滅しないと認めているからである。ゆえに、この説は難を解消したことにはならない。さらに別の者が、先ほどの難に対してこう釈する。「眼識などの五つの識のよりどころは一定しない。あるいは形をなし妨げる性質の眼などの根に依り、あるいは形をなし妨げる性質のない無間意(直前の心)に依る。しかし無表色のよりどころはそのようではない。ゆえに先ほどの難は定めて同等ではない。形をなし妨げる性質を『色』と名づけるという道理は成就するのである。」そこで、偈頌にこう示す。
此中根與境, 許即十處界。
ここで、根(感覚器官)と境(対象)は、十処と十界と認められる。
論曰:此前所說色蘊性中,許即根境為十處界,謂於處門立為十處。眼處色處廣說乃至身處觸處。若於界門立為十界,眼界色界廣說乃至身界觸界。已說色蘊并立處界,當說受等三蘊處界。頌曰:
論曰:先ほど述べた色蘊の性質の中では、まさに根と境を十の処・界と認めています。すなわち、処の側面から見れば十処が成立します。眼処・色処から広く説いて、身処・触処に至るまでです。また、界の側面から見れば十界が成立します。眼界・色界から広く説いて、身界・触界に至るまでです。すでに色蘊について述べ、処と界も立てました。次に、受・想・行の三蘊について、処と界を説くべきです。偈頌に曰く、
受領納隨觸, 想取像為體,
四餘名行蘊, 如是受等三,
及無表無為, 名法處法界。
受は領納し、觸に隨う。 想は像を取るを體と為す。 四餘を行蘊と名づく。このように受・想・觸の三つ、 及び無表・無為を、法處・法界と名づく。
論曰:受蘊謂三,領納隨觸,即樂及苦、不苦不樂。此復分別成六受身,謂眼觸所生受乃至意觸所生受。想蘊謂能取像為體,即能執取青黃長短、男女怨親、苦樂等相。此復分別成六想身,應如受說。除前及後色、受、想、識,餘一切行名為行蘊。然薄伽梵於契經中說六思身為行蘊者,由最勝故。所以者何?行名造作,思是業性造作義強,故為最勝。是故佛說若能造作有漏有為名行取蘊。若不爾者,餘心所法及不相應,非蘊攝故應非苦集,則不可為應知應斷。如世尊說:若於一法未達未知,我說不能作苦邊際。未斷未滅說亦如是。是故定應許除四蘊餘有為行皆行蘊攝。即此所說受、想、行、蘊,及無表色、三種無為,如是七法於處門中立為法處,於界門中立為法界。已說受等三蘊處界,當說識蘊并立處界。頌曰:
論によると、受蘊とは三種を指す。すなわち、触に随って領納すること、つまり楽、苦、苦でも楽でもないものである。これをさらに分別すると六種の受身となる。すなわち、眼触から生じる受から意触から生じる受までである。想蘊とは、像を取ることを体とするものである。すなわち、青、黄、長、短、男、女、怨、親、苦、楽などの相を執取するものである。これをさらに分別すると六種の想身となり、受と同様に説くべきである。前後の色、受、想、識を除いた、残りのすべての行を名づけて行蘊とする。しかし、世尊は経典の中で六思身を行蘊と説かれたが、これは最も優れたものを取ったからである。なぜならば、行とは造作を意味し、思は業の性質であり、造作の意味が強いからである。ゆえに最も優れている。それゆえ、仏は「有漏有為を造作することができるものを名づけて行取蘊とする」と説かれた。もしそうでなければ、残りの心所法および不相応行は、蘊に含まれないので、苦集であるべきではなく、応知、応断であるべきではない。世尊が説かれたように、「もし一つの法についても未だ達せず未だ知らなければ、苦の辺際を作ることはできない」と。未だ断ぜず未だ滅していない場合も同様に説かれる。それゆえ、必ず四蘊を除いた残りの有為行がすべて行蘊に含まれると許すべきである。今ここで説かれた受、想、行の三蘊、および無表色、三種の無為、これら七法は、処の門の中では法処と立てられ、界の門の中では法界と立てられる。すでに受などの三蘊の処界を説いたので、次に識蘊を説き、処界を立てるべきである。偈頌に曰く、
識謂各了別, 此即名意處,
及七界應知, 六識轉為意。
識とは、それぞれのものを認識することであり、これを意処と名づける。また、七つの識界において、六識が意に転じることを知るべきである。
論曰:各各了別彼彼境界,總取境相故名識蘊。此復差別有六識身,謂眼識身至意識身。應知如是所說識蘊,於處門中立為意處。於界門中立為七界,謂眼識界至意識界,即此六識轉為意界。如是此中所說五蘊,即十二處并十八界,謂除無表,諸餘色蘊即名十處,亦名十界。受想行蘊、無表、無為總名法處,亦名法界。應知識蘊即名意處,亦名七界,謂六識界及與意界。豈不識蘊唯六識身,異此說何復為意界?更無異法。即於此中頌曰:
論に曰く、それぞれの認識がそれぞれの対象を個別に識別し、対象の全体像を捉えることから「識蘊」と名付ける。この識蘊にはさらに区別があり、六つの識身がある。すなわち、眼識身から意識身までである。ここで説かれた識蘊は、処の部門では意処と立てられ、界の部門では七つの界と立てられる。すなわち、眼識界から意識界までであり、この六識が転じて意界となるのである。このように、ここで説かれた五蘊は、すなわち十二処と十八界に相当する。すなわち、無表を除いた残りの色蘊は十処とも呼ばれ、十界とも呼ばれる。受蘊・想蘊・行蘊、無表、無為を総称して法処と呼び、また法界とも呼ぶ。識蘊はすなわち意処であり、また七界とも呼ばれる。すなわち、六識界と意界である。識蘊はただ六識身のみであり、これ以外に別の法があるわけではない。なぜ意界をさらに立てるのか。ここには別の法は存在せず、ただこの中において偈頌で示される。
由即六識身, 無間滅為意。
六つの識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意識)が、絶え間なく起こっては消えていく、その連続こそが「意」である。
論曰:即六識身無間滅已,能生後識故名意界,謂如此子即名餘父,又如此果即名餘種。若爾實界應唯十七或唯十二,六識與意更相攝故,何緣得立十八界耶?頌曰:
論曰:六識が途切れることなく滅した後、次の識を生み出すことができるので、これを意界と名づける。たとえば、この子が他の父と呼ばれ、この果実が他の種と呼ばれるようなものである。そうだとすれば、実際の界は十七か、あるいは十二だけでよいはずである。なぜなら六識と意は互いに含み合うからである。それなのにどうして十八界を立てることができるのか。偈頌に曰く:
成第六依故, 十八界應知。
第六の依が成立するから、十八界を理解すべきである。
論曰:如五識界別有眼等五界為依,第六意識無別所依,為成此依故說意界。如是所依能依境界,應知各六界成十八。若爾,無學最後念心應非意界,此無間滅後識不生,非意界故。不爾,此已住意性故、闕餘緣故,後識不生。此中蘊攝一切有為,取蘊唯攝一切有漏,處界總攝一切法盡。別攝如是,總攝云何?頌曰:
總攝一切法, 由一蘊處界,
攝自性非餘, 以離他性故。
一切の法を総じて摂するは、一つの蘊・処・界による。自性を摂するのであって、他のものではない。他性を離れているからである。
論曰:由一色蘊意處法界,應知總攝一切法盡。謂於諸處就勝義說,唯攝自性不攝他性。所以者何?法與他性恒相離故。此離於彼而言攝者,其理不然。且如眼根,唯攝色蘊眼處眼界苦集諦等,是彼性故不攝餘蘊餘處界等,離彼性故。若於諸處就世俗說,應知亦以餘法攝餘。如四攝事攝徒眾等,眼耳鼻三處各有二,何緣界體非二十一?此難非理。所以者何?頌曰:
類境識同故, 雖二界體一。
類境識が同じである故、二つの界もその本質は一つのものである。
論曰:類同者,謂二處同是眼自性故。境同者,謂二處同用色為境故。識同者,謂二處同為眼識依故。由此眼界雖二而一。耳鼻亦應如是安立。若爾,何緣生依二處?頌曰:
論曰:類同とは、二つの処が同じく眼の自性であることによる。境同とは、二つの処が同じく色を境とするからである。識同とは、二つの処が同じく眼識の依り所となるからである。これによって、眼界は二つであっても一つとされる。耳や鼻についても、同じように成立する。それでは、なぜ生じる依り所として二つの処があるのか。偈頌に曰く、
然為令端嚴, 眼等各生二。
しかし、端厳(端正で美しい)を成すために、目などにはそれぞれ二つが生じる。
論曰:為所依身相端嚴故,界體雖一而兩處生。若眼耳根處唯生一,鼻無二穴身不端嚴。此釋不然。若本來爾,誰言醜陋?又猫鵄等雖生二處,有何端嚴?若爾,三根何緣生二?為所發識明了端嚴。現見世間閉一目等,了別色等便不分明,是故三根各生二處。已說諸蘊及處界攝,當說其義。此蘊處界別義云何?頌曰:
論にはこう述べられている。「所依の身が相好端厳であるために、界の体は一つであるにもかかわらず、二つの場所に生じるのである。もし眼根と耳根の処にのみ一つが生じるならば、鼻には二つの穴がなくなり、身は端厳ではなくなるであろう。」この説明は正しくない。もし元々そのように生まれつきであるならば、誰が醜いと言えるだろうか。また、猫や梟などは二つの場所に生じるけれども、何の端厳があるだろうか。もしそうであるならば、三根はどのような理由で二つに生じるのか。それは、生じる認識を明瞭で端厳にするためである。現に世間では、片目を閉じるなどすると、色などを了別することが明瞭ではなくなるのを見る。それゆえに、三根はそれぞれ二つの場所に生じるのである。すでに諸々の蘊と処・界の摂属について説いた。次にその意味を説くべきである。この蘊・処・界のそれぞれの義はどのようなものか。偈頌に曰く、
聚生門種族, 是蘊處界義。
集まり生じる門や種族、これが五蕴・十二処・十八界の意味です。
論曰:諸有為法和合聚義是蘊義,如契經言:諸所有色,若過去若未來若現在、若內若外、若麁若細、若劣若勝、若遠若近,如是一切略為一聚,說名色蘊。由此聚義,蘊義得成。於此經中,無常已滅名過去、若未已生名未來、已生未謝名現在,自身名內、所餘名外。或約處辯,有對名麁、無對名細。或相待立。若言相待,麁細不成。此難不然,所待異故。待彼為麁未嘗為細、待彼為細未嘗為麁,猶如父子苦集諦等,染污名劣、不染名勝,去來名遠、現在名近,乃至識蘊應知亦然。而有差別,謂依五根名麁,唯依意根名細。或約地辯,毘婆沙師所說如是。大德法救復作是言:五根所取名麁色,所餘名細色。非可意者名劣色,所餘名勝色。不可見處名遠色,在可見處名近色。過去等色如自名顯,受等亦然,隨所依力,應知遠近麁細同前。心心所法,生長門義是處義。訓釋詞者,謂能生長心心所法故名為處,是能生長彼作用義。法種族義是界義,如一山中有多銅鐵金銀等族,說名多界。如是一身或一相續,有十八類諸法種族,名十八界。此中種族是生本義。如是眼等誰之生本?謂自種類同類因故。若爾,無為應不名界,心心所法生之本故。有說:界聲表種類義,謂十八法種類自性各別不同,名十八界。若言聚義是蘊義者,蘊應假有,多實積集共所成故,如聚如我。此難不然,一實極微亦名蘊故。若爾,不應言聚義是蘊義,非一實物有聚義故。有說:能荷重擔義是蘊義,由此世間說肩名蘊,物所聚故。或有說者:可分段義是蘊義,故世有言:汝三蘊還,我當與汝。此釋越經,經說聚義是蘊義故,如契經言:諸所有色若過去等。廣說如前。若謂此經顯過去等一一色等各別名蘊,是故一切過去色等一一實物各各名蘊。此執非理,故彼經言:如是一切略為一聚說名蘊故,是故如聚,蘊定假有。若爾,應許諸有色處亦是假有,眼等極微要多積聚成生門故。此難非理,多積聚中一一極微有因用故。若不爾者,根境相助共生識等應非別處,是則應無十二處別。然毘婆沙作如是說。對法諸師若觀假蘊,彼說極微一界一處一蘊少分;若不觀者,彼說極微即是一界一處一蘊。此應於分,假謂有分,如燒少衣亦說燒衣。何故世尊於所知境,由蘊等門作三種說?頌曰:
論に曰く、諸の有為法は和合して聚まる義、これが蘊の義である。例えば経典に説くところの「諸の所有する色、過去も未来も現在も、内も外も、麁も細も、劣も勝も、遠も近も、この一切を略して一聚と為し、これを色蘊と名づく」の如し。この聚の義により、蘊の義が成る。この経の中において、無常にして已に滅したるを過去と名づけ、未だ已に生ぜざるを未来と名づけ、已に生じて未だ謝せざるを現在と名づく。自身を内と名づけ、所余を外と名づく。或いは処に約して弁ずれば、対あるを麁と名づけ、対なきを細と名づく。或いは相待して立てるなり。若し相待を言わば、麁細成ぜず。この難は然らず、所待異なるが故に。彼を待ちては麁にして未だ嘗て細ならず、彼を待ちては細にして未だ嘗て麁ならず、猶お父子、苦集諦等の如し。染汚を劣と名づけ、不染を勝と名づけ、去来を遠と名づけ、現在を近と名づく。乃至識蘊もまた然るべしと知るべし。而して差別有り、謂く五根に依るを麁と名づけ、唯だ意根に依るを細と名づく。或いは地に約して弁ず、毘婆沙師の説く所は是の如し。大徳の法救、復た是の言をなす、五根の所取を麁色と名づけ、所余を細色と名づく。意に可からざるを劣色と名づけ、所余を勝色と名づく。見えざる処を遠色と名づけ、見ゆべき処に在るを近色と名づく。過去等の色は自名の顕わすが如し。受等もまた然り、所依の力に随いて、遠近麁細は前と同じくすべしと知るべし。心々所法の生長門たるの義、これが処の義である。訓釈の詞は、能く心々所法を生長せしむるが故に処と名づく、これ能く彼の作用を生長せしむる義なり。法の種族たるの義、これが界の義である。一山の中に多の銅鉄金銀等の族有るを、多界と説くが如し。是の如く一身或いは一相続に、十八類の諸法の種族有りて、十八界と名づく。此の中の種族は生本の義なり。是の如き眼等は誰の生本ぞ、謂く自種類の同類因なるが故に。若し爾らば、無為は界と名づくべからず、心々所法の生本なるが故に。或る説き、界の声は種類の義を表す、謂く十八法の種類自性各別不同なることを、十八界と名づくと。若し聚義を蘊義とせば、蘊は応に仮有なるべし、多の実積集して共に成す所なるが故に、聚の如く我の如くに。この難は然らず、一実の極微も亦た蘊と名づくが故に。若し爾らば、聚義は蘊義なりと言うべからず、一実の物に聚義有らざるが故に。或る説き、能く重担を荷うの義は蘊の義なり、此の世間に肩を蕴と名づけて、物の聚る所なるが故に。或いは説く者あり、分かつべきの義は蘊の義なり、故に世に言有り、「汝が三蘊を還さば、我当に汝に与うべし」と。此の釈は経を越えたり、経は聚義を蘊義と説くが故に、経典に説く如く「諸の所有する色、過去等」と。広説は前の如し。若し此の経は過去等の一一の色等の各別を蘊と名づくることを顕わすと謂わば、故に一切の過去色等の一一の実物は各各蘊と名づく。此の執は理に非ず、故に彼の経に言う「是の如き一切を略して一聚と為して蘊と説く」が故に、是の故に聚の如く、蘊は定めて仮有なり。若し爾らば、諸の有色処も亦是れ仮有なるべしと許すべし、眼等の極微は多の積聚を要して生門を成ずるが故に。此の難は理に非ず、多の積聚の中の一一の極微に因用有るが故に。若し爾らずんば、根境の相助して共生する識等は、応に別処に非ざるべし、則ち十二処の別有らざるべし。然るに毘婆沙は是の如く説けり。対法の諸師は、若し仮の蘊を観ぜば、彼の極微は一界一処一蘊の少分なりと説く。若し観ぜざれば、彼の極微は即ち一界一処一蘊なりと説く。此れは分に於て応にす、仮に有分と謂う、如し少衣を焼くも亦た衣を焼くと説くが如し。何が故に世尊は所 knowledge 境に於て、蘊等の門によりて三種の説を作すのか。頌に曰く、
愚根樂三故, 說蘊處界三。
愚かな者でも悟りに至れるよう、三つの教えが示されました。それは五蘊、十二処、十八界です。
論曰:所化有情有三品故,世尊為說蘊等三門。傳說:有情愚有三種,或愚心所總執為我,或唯愚色、或愚色心。根亦有三,謂利、中、鈍。樂亦三種,謂樂、略、中,及廣文故。如其次第,世尊為說蘊處界三。何緣世尊說餘心所總置行蘊,別分受想為二蘊耶?頌曰:
論(ここ)で説くには、教化されるべき有情には三つの種類があるので、世尊は「蘊」「処」「界」という三つの教えを説かれたとされる。伝えられるところによれば、有情の迷いには三種ある。すなわち、心所(心のはたらき)をすべてまとめて「我」と執着する者、ただ色(物質的なもの)のみに迷う者、または色と心の両方に迷う者である。また、根(能力)にも三種あり、鋭利・中位・鈍いとされる。さらに、好みにも三種あり、簡潔な説き方を好む者・中程度を好む者・詳細な説き方を好む者とされる。それゆえに、その順序に従って、世尊は有情のために「蘊」「処」「界」の三つの教えを説かれたのである。では、なぜ世尊は、他の心所をすべてまとめて「行蘊」に置き、特に「受」と「想」だけを分けて二つの蘊としたのであろうか。その理由を、偈頌に示す。
諍根生死因, 及次第因故,
於諸心所法, 受想別為蘊。
争いの根源は生死の原因であり、その順序と理由により、すべての心の作用の中でも、感受と表象を別々に蘊としている。
論曰:諍根有二,謂著諸欲及著諸見。此二受想,如其次第為最勝因,味受力故貪著諸欲,倒想力故貪著諸見。又生死法以受及想為最勝因,由耽著受起倒想故生死輪迴。由此二因及後當說次第因故,應知別立受想為蘊。其次第因,隣次當辯。何故無為說在處界,非蘊攝耶?頌曰:
論で述べるには、争いの根源には二つのものがある。それは、さまざまな欲望に執着することと、さまざまな見解に執着することである。この二つ、すなわち受と想は、その順序に従って、最も勝れた因となる。味わいを受ける力によって欲望に貪着し、顛倒した想いの力によって見解に貪着するからである。また、生死の法も、受と想を最も勝れた因とする。受に耽着し、顛倒した想いを起こすことによって、生死の輪廻を繰り返すからである。この二つの因と、後に述べる順序の因によって、受と想を別に蘊と立てるべきであると知るべきである。その順序の因については、次に述べよう。なぜ無為法は処と界に説かれ、蘊に含まれないのか。偈頌に示す。
蘊不攝無為, 義不相應故。
蘊には無為は含まれない。それは、無為が蘊の定義に当てはまらないからである。
論曰:三無為法不可說在色等蘊中,與色等義不相應故。謂體非色乃至非識,亦不可說為第六蘊,彼與蘊義不相應故。聚義是蘊,如前具說。謂無為法,非如色等有過去等品類差別,可略一聚名無為蘊。又言取蘊為顯染依,染淨二依蘊言所顯。無為於此二義都無,義不相應故不立蘊。有說:如瓶破非瓶,如是蘊息應非蘊,彼於處界例應成失。如是已說諸蘊廢立,當說次第。頌曰:
論の中で述べられている:三つの無為法は、色などの蘊の中にあるとは言えない。なぜなら、色などの意味とは対応しないからである。その体は色ではなく、識に至るまででもない。また、第六の蘊であるとも言えない。なぜなら、それは蘊の意味とは対応しないからである。集まりの意味が蘊であり、前に詳しく述べたとおりである。無為法は、色などが過去などの種類の区別を持つように、一つに集めて無為蘊と名付けることはできないからである。また、「取蘊」と言うのは染汚のよりどころを示すためであり、染浄の二つのよりどころは蘊という言葉によって示される。無為はこれらの二つの意味のいずれも持たないので、意味が対応しないから蘊として立てないのである。ある説には、瓶が破れたら瓶でないように、蘊が滅したら蘊でないはずだと言う。しかし、それでは処や界についても同じ過失が生じるであろう。このようにして諸蘊の立て廃止を説き終えたので、次に順序を説くべきである。偈頌に言う:
隨麁染器等, 界別次第立。
粗い汚れなどの器に従って、界の種類が順番に立てられる。
論曰:色有對故諸蘊中麁,無色中麁唯受行相,故世說我手等痛言。待二想麁,男女等想易了知故。行麁過識,貪瞋等行易了知故。識最為細,總取境相難分別故。由此隨麁立蘊次第。或從無始生死已來,男女於色更相愛樂,此由耽著樂受味故,耽受復因倒想生故,此倒想生由煩惱故,如是煩惱依識而生。此及前三皆染污識,由此隨染立蘊次第。或色如器、受類飲食、想同助味、行似厨人、識喻食者,故隨器等立蘊次第。或隨界別立蘊次第,謂欲界中有諸妙欲,色相顯了。色界靜慮有勝喜等,受相顯了。三無色中取空等相,想相顯了。第一有中思最為勝,行相顯了。此即識住,識住其中顯似世間田種次第。是故諸蘊次第如是。由此五蘊無增減過,即由如是諸次第因,離行別立受想二蘊,謂受與想於諸行中相麁生染、類食同助,二界中強故別立蘊。處界門中應先辨說六根次第,由斯境識次第可知。頌曰:
論に曰く、色は対あるが故に諸蘊の中において麁(あら)である。無色の中において麁なるは唯、受と行の相のみである。故に世間では「我が手等に痛みあり」と言う。受に待(よ)れば想は麁なり。男女等の想は了知し易きが故に。行は識よりも麁なり。貪・瞋等の行は了知し易きが故に。識は最も細(くわし)く、総じて境の相を取り、分別し難きが故に。これにより麁に随って蘊の次第を立つ。
あるいは無始の生死よりこのかた、男女は色において互いに愛楽す。これは楽受の味を耽著するが故に、受を耽著するはまた倒想に因って生ずるが故に、この倒想の生ずるは煩悩に由るが故に、かくの如き煩悩は識に依って生ず。これ及び前三は皆、染汚の識なり。これにより染に随って蘊の次第を立つ。
あるいは色は器の如く、受は飲食に類し、想は助味に同じく、行は厨人の似く、識は食者に喩う。故に器等に随って蘊の次第を立つ。
あるいは界の別に随って蘊の次第を立つ。謂わく、欲界の中には諸の妙欲ありて、色の相は顕了なり。色界の静慮には勝(すぐ)れたる喜等ありて、受の相は顕了なり。三無色の中には空等の相を取りて、想の相は顕了なり。第一有の中には思が最も勝れて、行の相は顕了なり。これ即ち識住なり。識は其の中に住して、世間の田と種の次第に似て顕る。是の故に諸蘊の次第は是くの如し。
これにより五蘊に増減の過なし。即ち是くの如き諸の次第の因によって、行を離れて別に受・想の二蘊を立つ。謂わく、受と想とは諸の行の中において相は麁にして染を生じ、食と助味とに類し、二界の中において強きが故に、別に蘊を立つ。
処と界の門の中においては、まず六根の次第を弁説すべきなり。これによりて境と識の次第も知るべし。
頌に曰く、
前五境唯現, 四境唯所造,
餘用遠速明, 或隨處次第。
前五つの境はただ現在(げんざい)のみであり、四つの境はただ造られたもののみである。残りは遠い、速い、明らかなものに用いられ、あるいは場所に従って順序がある。
論曰:於六根中,眼等前五唯取現境,是故先說。意境不定,三世無為,或唯取一或二三四。所言四境唯所造者,前流至此。五中前四境唯所造,是故先說。身境不定,或取大種、或取造色、或二俱取,餘謂前四。如其所應用遠速明,是故先說。謂眼耳根取遠境故,在二先說。二中眼用遠故先說,遠見山河不聞聲故。又眼用速,先遠見人撞擊鍾鼓後聞聲故。鼻舌兩根用俱非遠。先說鼻者,由速明故。如對香美諸飲食時,鼻先嗅香、舌後甞味。或於身中隨所依處上下差別說根次第,謂眼所依最居其上,次耳鼻舌身多居下,意無方處。有即依止諸根生者,故最後說。何緣十處皆色蘊攝,唯於一種立色處名?又十二處體皆是法,唯於一種立法處名?頌曰:
為差別最勝, 攝多增上法,
故一處名色, 一名為法處。
差別の上で最も優れ、多くの優れた法を摂する故に、一つの場所を名色と名づけ、一つを法処と名づける。
論曰:為差別者,為令了知境有境性種種差別,故於色蘊就差別相建立十處不總為一。若無眼等差別想名,而體是色立名色處,此為眼等名所簡別,雖標總稱而即別名。又諸色中色處最勝,故立通名。由有對故,手等觸時即便變壞。及有見故,可示在此在彼差別。又諸世間唯於此處同說為色,非於眼等。又為差別立一法處,非於一切,如色應知。又於此中攝受想等眾多法故,應立通名。又增上法,所謂涅槃,此中攝故獨立為法。有餘師說:色處中有二十種色最麁顯故,肉、天、聖慧三眼境故,獨立色名。法處中有諸法名故、諸法智故,獨立法名。諸契經中,有餘種種蘊及處界,名想可得。為即此攝?為離此耶?彼皆此攝,如應當知。且辯攝餘諸蘊名想。頌曰:
牟尼說法蘊, 數有八十千,
彼體語或名, 此色行蘊攝。
牟尼(仏陀)が説かれた法の積み重ねは、その数、八万の教えに及ぶ。それらは言葉や名前として表されるが、その本質は、色や行の積み重ねに含まれる。
論曰:諸說佛教語為體者,彼說法蘊皆色蘊攝。諸說佛教名為體者,彼說法蘊皆行蘊攝。此諸法蘊其量云何?頌曰:
論じて曰く、仏の教えを「語」を体とすると説く者にとっては、その法蘊はすべて色蘊に摂せられる。仏の教えを「名」を体とすると説く者にとっては、その法蘊はすべて行蘊に摂せられる。これらの法蘊の量はどのようなものか。頌に曰く、
有言諸法蘊, 量如彼論說;
或隨蘊等言, 如實行對治。
論曰:有諸師言:八萬法蘊一一量等《法蘊足論》,謂彼一一有六千頌,如對法中《法蘊足》說。或說:法蘊隨蘊等言一一差別數有八萬,謂蘊、處、界、緣起、諦、食、靜慮、無量、無色、解脫、勝處、遍處、覺品、神通、無諍、願智、無礙解等,一一教門名一法蘊。如實說者,所化有情有貪瞋等八萬行別,為對治彼八萬行故。世尊宣說八萬法蘊,如彼所說八萬法蘊皆此五中二蘊所攝,如是餘處諸蘊處界類亦應然。頌曰:
論の中に、こう述べられています。ある師たちは言います。「八万の法蘊は、それぞれが『法蘊足論』と同じ量である。すなわち、それぞれに六千頌がある。これは対法の中の『法蘊足』の説くとおりである。」あるいは、こう説く者もいます。「法蘊は、蘊などの教えに従って、それぞれの違いによって八万の数がある。すなわち、蘊、処、界、縁起、諦、食、静慮、無量、無色、解脱、勝処、遍処、覚品、神通、無諍、願智、無礙解など、それぞれの教えの門を一つの法蘊と名づける。」実際の説として、教化されるべき有情には、貪欲や瞋恚などの八万の行いの違いがある。その八万の行いを対治するために、世尊は八万の法蘊を説かれた。彼の説かれた八万の法蘊は、すべてこの五つのうちの二つの蘊に含まれる。このように、他の場所の諸蘊、処、界も、同じように類推されるべきである。そこで偈頌にこう言う。
如是餘蘊等, 各隨其所應,
攝在前說中, 應審觀自相。
このように、その他の蘊(蘊)なども、それぞれが相応しい形で、先に述べた教えの中に含まれている。それゆえ、自らの性質(自相)をよく観察すべきである。
論曰:餘契經中諸蘊處界,隨應攝在前所說中,如此論中所說蘊等,應審觀彼一一自相。且諸經中說餘五蘊,謂戒、定、慧、解脫、解脫智見五蘊,彼中戒蘊此色蘊攝,彼餘四蘊此行蘊攝。又諸經說十遍處等,前八遍處無貪性故,此法處攝;若兼助伴五蘊性故,即此意處法處所攝。攝八勝處應知亦爾。空、識遍處、空無邊等四無色處,四蘊性故,即此意處、法處所攝。五解脫處,慧為性故,此法處攝;若兼助伴,即此聲意法處所攝。復有二處,謂無想有情天處及非想非非想處,初處即此十處所攝,無香味故;後處即此意法處攝,四蘊性故。又《多界經》說界差別有六十二,隨其所應當知皆此十八界攝。且彼經中所說六界,地水火風四界已說,空識二界未說其相。為即虛空名為空界、為一切識名識界耶?不爾,云何?頌曰:
空界謂竅隙, 傳說是明闇;
識界有漏識, 有情生所依。
空界とは、他のものを妨げない空隙のことである。伝えるところによれば、これは明暗の本質を持つものである。識界とは、煩悩を伴う認識作用であり、有情の生命が生まれるよりどころである。
論曰:諸有門窓及口鼻等內外竅隙,名為空界。如是竅隙云何應知?傳說:竅隙即是明闇,非離明闇竅隙可取,故說空界明闇為體。應知此體不離晝夜,即此說名隣阿伽色。傳說:阿伽謂積集色,極能為礙故名阿伽。此空界色與彼相隣,是故說名隣阿伽色。有說:阿伽即空界色,此中無礙故名阿伽。即阿伽色餘礙相隣,是故說名隣阿伽色。諸有漏識名為識界,云何不說諸無漏識為識界耶?由許六界是諸有情生所依故,如是諸界從續生心至命終心恒持生故。諸無漏法則不如是。彼六界中,前四即此觸界所攝,第五即此色界所攝,第六即此七心界攝。彼經餘界如其所應,皆即此中十八界攝。
論によって述べられる。いわゆる「門」や「窓」、「口」や「鼻」などの内外の隙間は、「空界」と呼ばれる。このような隙間は、どのようにして知るべきか。伝えられるところによれば、隙間とはすなわち「明」と「闇」であり、「明」と「闇」を離れて隙間を捉えることはできない。それゆえ、空界は「明」と「闇」をその本体とすると説かれる。この本体は昼夜を離れないと知るべきであり、これが「隣阿伽色」と呼ばれる。伝えられるところによれば、「阿伽」とは「積集色」すなわち物質の集まりを意味し、極めて障害となりやすいことから「阿伽」と名付けられる。この空界の色はそれと隣接しているため、「隣阿伽色」と呼ばれる。また、ある説によれば、「阿伽」すなわち空界の色そのものであり、この中には障害となるものがなく、それゆえ「阿伽」と呼ばれる。すなわち、この阿伽色が他の障害となる色と隣接しているため、「隣阿伽色」と呼ばれる。いわゆる有漏の識は「識界」と呼ばれるが、なぜ無漏の識を識界と説かないのか。それは、六界が有情の生まれるより所と認められているからである。これらの界は、生まれ変わる心から命終わりの心に至るまで、常に生命を保ち続けるものである。無漏の法はこのようではない。その六界のうち、最初の四つはすなわちこの触界に含まれ、第五はすなわちこの色界に含まれ、第六はすなわちこの七心界に含まれる。その経典における他の界も、それぞれに応じて、すべてこの十八界に含まれる。
說一切有部俱舍論卷第一
説一切有部倶舎論 第一巻