阿毘達磨俱舍論卷第二
阿毘達磨倶舎論 巻第二
尊者世親造
尊者世親造
三藏法師玄奘奉 詔譯
三蔵法師玄奘奉詔訳
分別界品第一之二
分別界品第一の二
復次於前所說十八界中,幾有見、幾無見?幾有對、幾無對?幾善、幾不善、幾無記?頌曰:
次に、先に述べた十八界のうち、どれが「有見」(見ることができる)で、どれが「無見」(見ることができない)か。どれが「有対」(障礙がある)で、どれが「無対」(障礙がない)か。どれが「善」で、どれが「不善」で、どれが「無記」(善でも不善でもない)か。これを示すために、偈頌で述べる。
一有見謂色, 十有色有對,
此除色聲八, 無記餘三種。
一つの見解としては「色」を指す。十の有色有対(色と形を持つもの)のうち、この色・声を除いた八つは、無記(善悪の区別がない)であり、残りの三つは別のものである。
論曰:十八界中色界有見,以可示現此彼差別。由此義准,說餘無見。如是已說有見無見。唯色蘊攝十界有對,對是礙義。此復三種:障礙、境界、所緣異故。障礙有對,謂十色界。自於他處被礙不生,如手礙手或石礙石或二相礙。境界有對,謂十二界法界一分諸有境法於色等境,故《施設論》作如是言:有眼於水有礙非陸,如魚等眼。有眼於陸有礙非水,從多分說,如人等眼。有眼俱礙,如畢舍遮、室獸摩羅及捕魚人、蝦蟇等眼。有俱非礙,謂除前相。有眼於夜有礙非晝,如諸蝙蝠鵂鶹等眼。有眼於晝有礙非夜,從多分說,如人等眼。有眼俱礙,如狗野干馬豹豺狼猫狸等眼。有俱非礙,謂除前相。此等名為境界有對。所緣有對,謂心心所於自所緣。境界、所緣復有何別?若於彼法此有功能,即說彼為此法境界。心心所法執彼而起,彼於心等名為所緣。云何眼等於自境界所緣轉時說名有礙?越彼於餘此不轉故。或復礙者是和會義,謂眼等法於自境界及自所緣和會轉故。應知此中唯就障礙有對而說,故但言十有色有對,更相障故。由此義准說餘無對。若法境界有對,亦障礙有對耶?應作四句。謂七心界法界一分諸相應法是第一句。色等五境是第二句。眼等五根是第三句。法界一分非相應法是第四句。若法境界有對,亦所緣有對耶?應順後句,謂若所緣有對,定是境界有對。有雖境界有對而非所緣有對,謂眼等五根。此中大德鳩摩邏多作如是說:
論に曰きます。十八界のうち、色界は有見であり、これとあれの区別を示すことができるからです。この道理にもとづいて、残りのものは無見であると説かれます。これで有見と無見については説き終わりました。
ただ色蘊に含まれる十界が有対であり、「対」とは妨げ、すなわち「礙」の意味です。これはさらに三種あります。障礙・境界・所縁が異なるからです。
障礙有対とは、十の色界をいいます。それ自らは他処に妨げられて生じず、たとえば手が手を妨げ、石が石を妨げ、あるいは両者が互いに妨げ合うようなものです。
境界有対とは、十二界と法界の一分、すなわち境をもつすべての法が、色などの境に対してはたらくことをいいます。それゆえ『施設論』に次のように説かれています。
水では妨げられるが陸では妨げられない眼があり、魚などの眼がそれです。陸では妨げられるが水では妨げられない眼があり、多くについて言えば、人間などの眼がそれです。どちらでも妨げられる眼があり、畢舍遮・室獣摩羅や漁をする人・蝦蟇などの眼がそれです。どちらでも妨げられないものは、前の場合を除いたものです。
夜には妨げられるが昼には妨げられない眼があり、もろもろの蝙蝠・鵂鶹などの眼がそれです。昼には妨げられるが夜には妨げられない眼があり、多くについて言えば、人間などの眼がそれです。どちらでも妨げられる眼があり、犬・野干・馬・豹・豺狼・猫狸などの眼がそれです。どちらでも妨げられないものは、前の場合を除いたものです。これらを境界有対と名づけます。
所縁有対とは、心と心所が自らの所縁に対してそうであることをいいます。
境界と所縁にはどんな違いがあるのでしょうか。もしある法に対してこれがはたらきをもつならば、それをその法の境界と説きます。心と心所の法がそれを執って生じるとき、それを心などに対して所縁と名づけます。
なぜ眼などは、自らの境界・所縁にはたらくとき「有対(妨げがある)」と名づけられるのでしょうか。それを越えて他のものに対してははたらかないからです。
あるいはまた「礙」とは和会(出会い)の意味であり、眼などの法が自らの境界および自らの所縁と和会してはたらくからです。
ここではただ障礙有対についてのみ説いていると知るべきです。それゆえただ十の有色は有対である、互いに妨げ合うからである、とだけ述べられています。この道理にもとづいて、残りのものは無対であると説かれます。
もしある法が境界有対であるなら、また障礙有対でもあるのでしょうか。四句に分けて答えるべきです。
すなわち、七心界と法界の一分の諸々の相応の法が第一句です。色などの五境が第二句です。眼などの五根が第三句です。法界の一分の非相応の法が第四句です。
もしある法が境界有対であるなら、また所縁有対でもあるのでしょうか。後句に従うべきです。すなわち、もし所縁有対であるなら、必ず境界有対です。境界有対でありながら所縁有対でないものがあり、それは眼などの五根です。
ここで大徳鳩摩邏多は次のように説いています。
是處心欲生, 他礙令不起,
應知是有對, 無對此相違。
ここで心が生じようとしても、他が妨げて生じさせないならば、これは有対であると知るべきである。無対はこれと相反する。
此是所許。如是已說有對無對。於此所說十有對中,除色及聲餘八無記,謂五色根、香、味、觸境,不可記為善不善性,故名無記。有說:不能記異熟果故名無記。若爾,無漏應唯無記。其餘十界通善等三,謂七心界與無貪等相應名善,貪等相應名為不善,餘名無記。法界若是無貪等性相應等起擇滅名善,若貪等性相應等起名為不善,餘名無記。色界聲界若善不善心力等起身語表攝,是善不善,餘是無記。已說善等。十八界中幾欲界繫、幾色界繫、幾無色界繫?頌曰:
これは認められるところです。このように、有対と無対についてすでに説きました。ここで説かれた十の有対のうち、色と声を除いた残りの八つは無記です。すなわち、五つの色根と、香・味・触という境は、善とも不善とも記すことができないため、無記と名づけます。ある説では、異熟果を記すことができないため無記と名づけるといいます。もしそうならば、無漏はただ無記であるべきです。残りの十界は善など三つに通じます。すなわち、七つの心界は無貪などと相応するものを善と名づけ、貪などと相応するものを不善と名づけ、残りを無記と名づけます。法界は、もし無貪などの性と相応し、等起し、択滅であるならば善であり、もし貪などの性と相応し、等起するならば不善と名づけ、残りを無記と名づけます。色界と声界は、もし善不善の心力が等起して身語表に摂められるならば善不善であり、残りは無記です。善などについてはすでに説きました。十八界のうち、いくつが欲界に繋がれ、いくつが色界に繋がれ、いくつが無色界に繋がれるのでしょうか。頌に曰く。
欲界繫十八, 色界繫十四,
除香味二識, 無色繫後三。
欲界には十八の法が結びつき、色界には十四の法が結びつく。香りや味、そして二つの識(嗅覚と味覚)を除いたものである。無色界には、後の三つの法だけが結びつく。
論曰:繫謂繫屬,即被縛義。欲界所繫具足十八,色界所繫唯十四種,除香味境及鼻舌識。除香味者,段食性故,離段食欲方得生彼。除鼻舌識,無所緣故。若爾,觸界於彼應無,如香味境段食性故,彼所有觸非段食性。若爾,香味類亦應然,香味離食無別受用,觸有別用持根衣等,彼離食欲香味無用,有根衣等故觸非無。有餘師說:住此依彼靜慮等至見色聞聲,輕安俱起有殊勝觸攝益於身,是故此三生彼靜慮猶相隨逐,香味不爾,故在彼無。若爾,鼻舌彼應非有,如香味境彼無用故。不爾,二根於彼有用,謂起言說及莊嚴身。若為嚴身及起說用,但須依處,何用二根?如無男根亦無依處,二根無者依處亦無。於彼可無男根依處,彼無用故。鼻舌依處彼有用故,離根應有。有雖無用而有根生,如處胞胎定當死者。有雖無用而非無因,彼從何因得有根起?於根有愛發殊勝業。若離境愛,於根定然,彼離境貪應無鼻舌。或應許彼男根亦生,若謂不生由醜陋者,陰藏隱密何容醜陋?又諸根生非由有用,若有因力無用亦生。男根於彼雖為醜陋,設許有因於彼應起,男根非有,鼻舌應無。若爾,便違契經所說:彼無支缺,不減諸根。隨彼諸根應可有者,說為不減。何所相違?若不許然男根應有。如是說者,鼻舌二根於彼非無,但無香味,以六根愛依內身生,非依境界而得現起。其男根愛依婬觸生,婬觸彼無,男根非有,故於色界十八界中,唯十四種理得成立。無色界繫唯有後三,所謂意、法及意識界,要離色欲於彼得生,故無色中無十色界。依緣無故五識亦無,故唯後三無色界繫。已說界繫,十八界中幾有漏、幾無漏?頌曰:
論で述べるに、繫とは繫屬、すなわち束縛されるという意味である。欲界に繫屬するものは十八界全てを具える。色界に繫屬するものは十四種のみであり、香・味の境と鼻・舌の識を除く。香・味を除くのは、これらが段食の性質を持つからである。段食への欲を離れて初めてそこに生まれることができる。鼻・舌の識を除くのは、所縁がないからである。もしそうなら、觸界はそこに存在すべきではないだろう。香・味の境と同じく段食の性質を持つからである。しかし、そこにある觸は段食の性質ではない。もしそうなら、香・味も同様であるべきだろう。香・味は食べることを離れれば別の受用がないが、觸には別の用途があり、身體や衣などを支える。彼らは食べる欲を離れていても、香・味に用途はなく、根や衣などがあるので、觸は無くならないのである。他の師はこう説く。ここに住して、彼の靜慮等至に依って色を見、聲を聞き、輕安と共に起こる殊勝な觸が身を攝益する。それゆえ、この三つは彼の靜慮に生まれてもなお相續して隨逐する。香・味はそうではないので、彼の處には存在しない。もしそうなら、鼻・舌は彼に存在すべきではないだろう。香・味の境のように、そこでは用途がないからである。そうではない。二根はそこに用途がある。すなわち、言說を起こし、身を莊嚴することである。もし身を莊嚴し、言說を起こすためなら、ただ依處があれば足りる。何のために二根が必要なのか。男根がなくても依處もないように、二根がなければ依處もない。彼の處には男根の依處があってはならない。そこでは用途がないからである。鼻・舌の依處はそこに用途があるので、根がなくてもあるべきである。たとえ用途がなくても根が生じることがある。例えば、胎內にいるが必ず死ぬことが定まっている者のように。たとえ用途がなくても、無因ではない。彼は何の因によって根を起こすのか。根に愛があって殊勝な業を發する。もし境への愛を離れるなら、根には必ずそうである。彼らは境への貪を離れているので、鼻・舌を持つべきではないだろう。あるいは、男根もまた生じるべきであると許すべきだろう。もし生じないのは醜陋だからだと說くなら、陰藏は隱密であって、どうして醜陋であろうか。また、諸根の生は用途によるのではない。もし因の力があれば、用途がなくても生じる。男根は彼の處では醜陋であっても、もし因を許すなら、そこに起こるべきである。男根はなく、鼻・舌はないべきである。もしそうなら、契経の說くところに違背するのではないか。彼は支缺がなく、諸根を減じないと。彼の諸根に應じてあるべきものを說いて「減じない」とする。何が違背するのか。もしこれを許さないなら、男根はあるべきである。このように說く者によれば、鼻・舌の二根は彼の處にないことはない。ただ香・味がないだけである。六根の愛は內身に依って生じ、境に依って現起するのではないからである。男根の愛は婬觸に依って生じ、婬觸はそこにないので、男根はない。それゆえ、色界の十八界のうち、ただ十四種のみが成立するという道理が得られる。無色界に繫屬するものはただ後の三つのみであり、すなわち意・法及び意識界である。色への欲を離れて初めてそこに生まれることができるので、無色には十色界がない。依と緣がないので五識もなく、ただ後の三つのみが無色界に繫屬する。すでに界の繫屬を說いた。十八界のうち、いくつが有漏であり、いくつが無漏であるか。頌に曰く、
意法意識通, 所餘唯有漏。
意と法と識が通じるとき、残るものはただ煩悩のみ。
論曰:意及意識道諦攝者,名為無漏,餘名有漏。法界若是道諦無為,名為無漏,餘名有漏。餘十五界唯名有漏。如是已說有漏無漏。十八界中幾有尋有伺、幾無尋唯伺、幾無尋無伺?頌曰:
論曰:意と意識が道諦に含まれるものは、無漏と呼ばれ、その他は有漏とされる。法界についても、道諦や無為に属するものは無漏と呼ばれ、その他は有漏とされる。残りの十五界は、すべて有漏にのみ分類される。このようにして、有漏と無漏の区別を述べた。十八界の中で、いくつが有尋有伺であり、いくつが無尋唯伺であり、いくつが無尋無伺であるか。偈頌は次のように述べる。
五識唯尋伺, 後三三餘無。
五識には唯、尋と伺があり、後の三つは三つのものを持ち、その他には何もない。
論曰:眼等五識有尋有伺,由與尋伺恒共相應,以行相麁外門轉故、顯義決定,故說唯言。後三謂是意、法、意識,根、境、識中各居後故。此後三界皆通三品,意界、意識界及相應法界,除尋與伺。若在欲界初靜慮中有尋有伺,靜慮中間無尋唯伺,第二靜慮以上諸地乃至有頂無尋無伺。法界所攝非相應法,靜慮中間伺亦如是。尋一切時無尋唯伺,無第二尋故、但伺相應故。伺在欲界初靜慮中三品不收,應名何等?此應名曰無伺唯尋,無第二伺故、但尋相應故。由此故言有尋伺地有四品法:一有尋有伺,謂除尋伺餘相應法。二無尋唯伺,謂即是尋。三無尋無伺,謂即一切非相應法。四無伺唯尋,謂即是伺。餘十色界尋伺俱無,常與尋伺不相應故。若五識身有尋有伺,如何得說無分別耶?頌曰:
論の中で述べられている。眼・耳・鼻・舌・身の五つの識には、尋(粗い心の働き)と伺(細かい心の働き)が常に伴っている。それらの働きは粗く、外の対象に向かって作用するからであり、その意味が明確であることから「のみ」という言葉が用いられている。
後の三つとは、意・法・意識を指す。これは根・境・識のそれぞれにおいて最後に位置するからである。この後の三界(意界・意識界・法界)はすべて三つの品(段階)に通じる。意界・意識界およびそれに相応する法界は、尋と伺を除く。
欲界と初禅の地では、尋と伺の両方がある(有尋有伺)。中間禅では尋がなく伺だけがある(無尋唯伺)。第二禅以上の諸地から有頂天に至るまで、尋も伺もない(無尋無伺)。
法界に含まれる非相応法については、中間禅においても伺も同様に(無尋唯伺である)。
尋は常に尋がなく伺だけがある状態である。なぜなら、第二の尋が存在せず、ただ伺と相応するだけだからである。
伺が欲界と初禅の地にある場合、三品(有尋有伺・無尋唯伺・無尋無伺)のいずれにも収まらない。これは何と呼ぶべきか。これは「伺がなく尋だけがある」と名づけるべきである。なぜなら、第二の伺が存在せず、ただ尋と相応するだけだからである。
これによって、「尋と伺のある地には四種の品がある」と言われる。
一つ目は「尋も伺もある」-尋と伺を除いた他の相応法である。
二つ目は「尋がなく伺だけがある」-これはすなわち尋そのものである。
三つ目は「尋も伺もない」-これはすなわち一切の非相応法である。
四つ目は「伺がなく尋だけがある」-これはすなわち伺そのものである。
残りの十の色界(五つの感官と五つの感官対象)には、尋も伺もまったくない。常に尋や伺と相応しないからである。
もし五識の身に尋と伺があるならば、どうして「分別がない」と言えるのであろうか。頌(偈)に曰く、
說五無分別, 由計度隨念,
以意地散慧, 意諸念為體。
五つの無分別が説かれる。 それは計度と随念とによるものであり、 意地の散慧と意の諸念とを本体とする。
論曰:傳說,分別略有三種:一自性分別、二計度分別、三隨念分別。由五識身雖有自性而無餘二,說無分別,如一足馬名為無足。自性分別體唯是尋,後心所中自當辯釋。餘二分別如其次第。意地散慧諸念為體,散謂非定。意識相應散慧,名為計度分別。若定若散意識相應諸念,名為隨念分別。如是已說有尋伺等。十八界中幾有所緣、幾無所緣?幾有執受、幾無執受?頌曰:
論によれば、分別には大きく三つの種類があると伝えられている。第一に自性分別(物事の本質に基づく分別)、第二に計度分別(推し量りによる分別)、第三に随念分別(記憶に基づく分別)である。
五識(五感)は自性分別はあるが、残りの二つはないため、「無分別」と説かれる。これは、一本足の馬を「足がない」と呼ぶようなものである。
自性分別の本質は「尋」(こころの働き)だけであり、後の心所の説明で詳しく述べるであろう。
残りの二つの分別は、順に次のように説明される。意地における散心の慧(智慧)がその体である。ここで「散」とは定まっていないこと、つまり禅定ではない状態を指す。意識に対応する散心の慧を「計度分別」と呼ぶ。
また、定にある場合も散にある場合も、意識に対応する「念」(記憶の働き)を「随念分別」と呼ぶ。
以上のように、尋と伺についての説明を終えた。
十八界のうち、どれが所縁(対象)を持ち、どれが所縁を持たないのか?どれが執受(心によって保持されること)を持ち、どれが執受を持たないのか?
偈頌にこう説かれる。
七心法界半, 有所緣餘無,
前八界及聲, 無執受餘二。
七つの心法と法界の半分は、 所縁(対象)を持つが、残りは持たない。 前の八つの界と声は、 執受されないが、残りの二つは執受される。
論曰:六識意界及法界攝諸心所法,名有所緣,能取境故。餘十色界及法界攝不相應法,名無所緣,義准成故。如是已說有所緣等。十八界中九無執受,前七心界及法界全,此八及聲皆無執受。所餘九界各通二門,謂有執受、無執受故。眼等五根住現在世名有執受,過去未來名無執受。色香味觸住現在世不離五根名有執受,若住現在非不離根過去未來名無執受。如在身內除與根合,髮毛爪齒大小便利洟唾血等,及在身外地水等中色香味觸,雖在現世而無執受。有執受者,此言何義?心心所法共所執持攝為依處名有執受,損益展轉更相隨故。即諸世間說有覺觸,眾緣所觸覺樂等故。與此相違名無執受。如是已說有執受等。十八界中幾大種性、幾所造性?幾可積集、幾非積集?頌曰:
論では、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)と意界、そして法界に含まれる心所法(心の働き)は、所縁(対象)を持つと説かれています。これらは対象を捉えることができるからです。一方、残りの十の色界(五つの感覚器官と五つの感覚対象)と、法界に含まれる不相応法(心や物質のどちらにも属さない法)は、所縁を持たないと説かれています。これは、その意味から明らかだからです。このように、所縁を持つか持たないかについて述べました。
十八界のうち、九つは執受(心によって執持され感覚を伴うこと)がありません。前の七つの心界(六識と意界)と法界全体、これら八つと声(音)は執受がありません。残りの九つの界は、両方の性質を備えています。すなわち、執受がある場合とない場合があるのです。眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官は、現在に存在するときは執受があり、過去や未来に属するときは執受がありません。色・香・味・触(触れるもの)は、現在に存在し五つの感覚器官から離れていないときは執受があり、現在に存在しても感覚器官から離れている場合や、過去や未来に属する場合は執受がありません。例えば、身体の内部で感覚器官と結びついていないもの——髪・毛・爪・歯・大小便・涙・鼻水・血など——や、身体の外の地・水などの中にある色・香・味・触は、現在に存在しても執受がありません。では、「執受がある」とはどういう意味でしょうか。心と心所法が共に執持し、依存する拠り所として捉えていることを「執受がある」といいます。それは、損益が互いに影響し合い、相伴って起こるからです。世間の人々が「感覚がある」というのは、様々な条件が触れ合うことで、楽などの感覚が生じるからです。これと反対の性質を「執受がない」といいます。このように、執受があるかどうかについて述べました。
十八界のうち、どれが大種(四大元素:地・水・火・風)の性質を持ち、どれが所造(大種から生じた物質)の性質を持つのでしょうか。また、どれが積集(積み重なりを成す)でき、どれが積集できないのでしょうか。この問いに答えるための偈頌(要約の詩)を示します。
觸界中有二, 餘九色所造,
法一分亦然, 十色可積集。
触界には二つのものが含まれ、残りの九つは色によって作られる。 法の一部も同様であり、十の色は積み集めることができる。
論曰:觸界通二,謂大種及所造。大種有四,謂堅性等。所造有七,謂滑性等,依大種生故名所造。餘九色界唯是所造,謂五色根、色等四境。法界一分無表業色亦唯所造。餘七心界法界一分,除無表色俱非二種。尊者覺天作如是說:十種色處唯大種性。彼說不然,契經唯說堅等四相為大種故。此四大種唯觸攝故,非堅濕等眼等所取,非色聲等身根所覺,是故彼說理定不然。又契經說:苾芻當知,眼謂內處四大種所造淨色,有色無見有對,乃至身處廣說亦爾。苾芻當知,色謂外處四大種所造,有色有見有對。聲謂外處四大種所造,有色無見有對。香味二處,廣說亦爾。觸謂外處,是四大種及四大種所造,有色無見有對。如是經中唯說觸處攝四大種,分明顯示餘有色處皆非大種。若爾,何故契經中言謂於眼肉團中若內各別堅性堅類,乃至廣說。彼說不離眼根肉團有堅性等,無相違過。《入胎經》中唯說六界為士夫者,為顯能成士夫本事,非唯爾所,彼經復說六觸處故。又諸心所應非有故,亦不應執心所即心,以契經言想受等心所法依止心故。又亦說有貪心等故。由此如前所說諸界大種所造,差別義成。如是已說大種性等。十八界中,五根、五境十有色界是可積集,極微聚故。義准餘八非可積集,非極微故。如是已說可積集等。十八界中,幾能斫、幾所斫?幾能燒、幾所燒?幾能稱、幾所稱?頌曰:
論じて曰く、触界は二つに通じます。すなわち大種と所造です。大種には四つがあり、堅性などです。所造には七つがあり、滑性などです。大種に依って生じるので所造と呼ばれます。残りの九つの色界はただ所造のみです。すなわち五色根と色などの四境です。法界の一分である無表業色もまたただ所造のみです。残りの七つの心界と法界の一分は、無表色を除いて、いずれも二種のいずれでもありません。尊者覚天はこのように説いています。十種の色処はただ大種性のみであると。その説は正しくありません。契経にはただ堅など四つの相を大種と説いているからです。この四大種はただ触に摂められるからです。堅湿などは眼などに取られるものではなく、色声などは身根に覚えられるものではありません。したがってその説は道理として必ず正しくありません。また契経に説いています。苾芻よ、当に知るべし、眼とは内処であり、四大種によって造られた浄色であり、有色にして無見にして有対である、乃至、身処も広く説くことまた同じです。苾芻よ、当に知るべし、色とは外処であり、四大種によって造られたものであり、有色にして有見にして有対です。声とは外処であり、四大種によって造られたものであり、有色にして無見にして有対です。香と味の二処も、広く説くことまた同じです。触とは外処であり、四大種と四大種によって造られたものであり、有色にして無見にして有対です。このように経の中ではただ触処が四大種を摂めることだけを説いており、残りの有色処はすべて大種ではないことを分明に示しています。もしそうなら、なぜ契経の中に、眼の肉団の中において、内の各別の堅性・堅類、乃至、広く説く、と言っているのでしょうか。それは眼根の肉団を離れずして堅性などがあると説いているのであり、矛盾する過ちはありません。『入胎経』の中でただ六界のみを士夫と説いているのは、士夫を成り立たせる根本の事柄を顕すためであり、ただそれだけではありません。その経はさらに六触処を説いているからです。また諸々の心所は存在しないはずもなく、心所がすなわち心であると執着すべきでもありません。契経に想・受などの心所法は心に依止すると言っているからです。また貪心などがあるとも説いています。これによって、前述した諸界の大種・所造の区別の意味が成り立ちます。このようにすでに大種性などについて説きました。十八界の中で、五根と五境の十の有色界は積集することができます。極微が集まったものだからです。道理から推して、残りの八つは積集することができません。極微ではないからです。このようにすでに積集などについて説きました。十八界の中で、いくつが能く斫り、いくつが所斫でしょうか。いくつが能く焼き、いくつが所焼でしょうか。いくつが能く称り、いくつが所称でしょうか。頌に曰く。
謂唯外四界, 能斫及所斫,
亦所燒能稱, 能燒所稱諍。
所谓仅外四界,能砍与所砍,亦所烧能称,能烧所称诤。
論曰:色香味觸成斧薪等,此即名為能斫所斫。何法名斫?薪等色聚相逼續生,斧等分隔令各續起,此法名斫。身等色根不名所斫,非可全斷令成二故。非身根等可成二分,支分離身則無根故。又身根等亦非能斫,以淨妙故如珠寶光。如能斫所斫體唯外四界,所燒能稱其體亦爾,謂唯外四界名所燒能稱。身等色根亦非二事,以淨妙故如珠寶光。聲界總非,不相續故。能燒所稱有異諍論,謂或有說:能燒所稱體亦如前,唯外四界。或復有說:唯有火界可名能燒,所稱唯重。如是已說能所斫等。十八界中幾異熟生、幾所長養、幾等流性、幾有實事、幾一剎那?頌曰:
論にはこう説く。色・香・味・触によって斧や薪などが成り立つ。これを能斫(切る側)・所斫(切られる側)と名づける。では、何を「斫」と言うのか。薪などの色の集まりが互いに押し合い、続いて生じるのを、斧などが分け隔てて、それぞれ別々に続いて生じさせる。この働きを「斫」と言う。身体や根(感覚器官)は「所斫」とは呼ばない。なぜなら、完全に断ち切って二つにできるものではないからだ。身体の根などは二分することができない。なぜなら、四肢が体から離れると、もはや根(感覚)が存在しないからである。また、身体の根などは「能斫」でもない。清らかで微細だからである。ちょうど宝珠の光が清らかなように。能斫・所斫の本質は、外の四界(地・水・火・風)だけにある。所焼(焼かれる側)・能称(量られる側)もその本質も同じである。すなわち、外の四界だけが所焼・能称と名づけられる。身体の根などは、この二つの働きにも該当しない。清らかで微細だからである。ちょうど宝珠の光が清らかなように。声の界は、まったくこれらに含まれない。連続して生じることがないからである。能焼・能称については、異なる論争がある。ある者はこう説く。「能焼・能称の本質も、先ほどの能斫・所斫と同じように、外の四界だけである」と。また、ある者はこう説く。「火界だけが能焼であり、所称は重さだけである」と。以上のように、能斫・所斫などについて説いた。
十八界の中で、どれが異熟生(業の報いとして生じるもの)か、どれが所長養(育てられて保たれるもの)か、どれが等流性(同類の流れとして続くもの)か、どれが有実事(実在の事物を持つもの)か、どれが一刹那(ただ一瞬だけ存在するもの)か。
頌で示そう。
內五有熟養, 聲無異熟生,
八無礙等流, 亦異熟生性,
餘三實唯法, 剎那唯後三。
内なる五つのものは異熟(過去の業の結果)によって養われるが、声は異熟によって生じるものではない。八つの無礙(さまたげのないもの)は等流(同類の原因から生じる結果)であり、また異熟からも生じる性質を持つ。残りの三つの実(実際の法)はただ法のみであり、刹那(一瞬の間)に限られるのは、ただ後の三つのみである。
論曰:內五即是眼等五界。有異熟生及所長養無等流者,離異熟生及所長養,無別性故。異熟因所生名異熟生,如牛所駕車名曰牛車,略去中言故作是說。或所造業至得果時變而能熟,故名異熟。果從彼生,名異熟生。彼所得果與因別類,而是所熟,故名異熟。或於因上假立果名,如於果上假立因名。如契經說:今六觸處,應知即是昔所造業。飲食資助眠睡等持勝緣所益,名所長養。有說:梵行亦能長養。此唯無損,非別有益。長養相續常能護持異熟相續,猶如外郭防援內城。聲有等流及所長養無異熟生。所以者何?隨欲轉故。若爾,不應《施設論》說善修遠離麁惡語故,感得大士梵音聲相。有說:聲屬第三傳故,雖由彼生而非異熟。謂從彼業生諸大種,從諸大種緣擊發聲。有說:聲屬第五傳故,雖由彼生而非異熟。謂彼業生異熟大種,從此傳生長養大種,此復傳生等流大種此乃生聲。若爾,身受從業所生大種生故,應非異熟。若受如聲,便違正理。八無礙者,七心法界此有等流異熟生性。同類遍行因所生者是等流性,若異熟因所引生者名異熟生,諸無礙法無積集故非所長養。餘謂餘四:色、香、味、觸,皆通三種,有異熟生、有所長養、有等流性。實唯法者,實謂無為,以堅實故。此法界攝故,唯法界獨名有實。意、法、意識名為後三,於六三中最後說故。唯此三界有一剎那,謂初無漏苦法忍品,非等流故名一剎那。此說究竟非等流者,餘有為法無非等流。苦法忍相應心名意界、意識界,餘俱起法名為法界。如是已說異熟生等。今應思擇,若有眼界先不成就今得成就亦眼識耶?若眼識界先不成就今得成就亦眼界耶?如是等問,今應略答。頌曰:
論じて曰く、内の五とは、すなわち眼などの五界です。異熟生と所長養があり、等流はありません。異熟生と所長養を離れては、別の性質がないからです。異熟の因から生じたものを異熟生といいます。牛が引く車を牛車と名づけるように、中間の言葉を省略してこのように説いたのです。あるいは、造った業が果を得る時に変じて熟することができるので、異熟と名づけます。果がそれから生じるので、異熟生と名づけます。そこで得た果は因とは別の類であり、しかも熟したものであるので、異熟と名づけます。あるいは、因の上に仮に果の名を立てることは、果の上に仮に因の名を立てるようなものです。契経に説く通りです。今の六触処は、まさに昔に造った業であると知るべきです。飲食に資助され、睡眠や等持などの勝れた縁に益されたものを、所長養と名づけます。ある説によると、梵行もまた長養することができるといいます。これはただ損なわないだけであって、別に益があるわけではありません。長養の相続は常に異熟の相続を護持することができ、ちょうど外郭が内城を防ぎ援けるようなものです。声には等流と所長養があり、異熟生はありません。なぜでしょうか。欲に随って転じるからです。もしそうなら、《施設論》に善く遠離を修め、麁悪語を離れた故に、大士の梵音声相を感得すると説くべきではありません。ある説によると、声は第三伝に属する故に、彼から生じても異熟ではありません。すなわち、彼の業から諸大種が生じ、諸大種から縁が撃って声を発するのです。ある説によると、声は第五伝に属する故に、彼から生じても異熟ではありません。すなわち、彼の業が異熟大種を生じ、これから伝生して長養大種を生じ、これまた伝生して等流大種を生じ、これが声を生じるのです。もしそうなら、身受は業から生じた大種から生じる故に、異熟ではないはずです。もし受が声のようであれば、正理に違反します。八無礙とは、七心法界です。これには等流と異熟生の性があります。同類遍行因から生じたものは等流性であり、もし異熟因に引かれて生じたものは異熟生と名づけます。諸無礙法は積集がない故に所長養ではありません。余とは余の四つ、すなわち色、香、味、触です。皆、三種に通じます。異熟生があり、所長養があり、等流性があります。実唯法とは、実とは無為をいい、堅実である故です。この法界に摂められる故に、唯法界だけが有実と名づけます。意、法、意識を後三と名づけます。六三の中で最後に説かれる故です。唯この三界だけが一刹那を持ちます。すなわち初の無漏の苦法忍品は、等流ではない故に一刹那と名づけます。これは究竟にして等流でないものを説きます。余の有為法は等流でないものはありません。苦法忍に相応する心を意界、意識界と名づけ、余の倶起の法を法界と名づけます。このようにすでに異熟生などを説きました。今、思択すべきです。もし眼界が先に成就せず今成就を得るなら、また眼識でしょうか。もし眼識界が先に成就せず今成就を得るなら、また眼界でしょうか。このような問いに、今、略して答えるべきです。頌に曰く。
眼與眼識界, 獨俱得非等。
眼と眼識の世界は、それぞれ単独で生じることも、共に生じることもない。
論曰:獨得者,謂或有眼界先不成就今得成就非眼識,謂生欲界漸得眼根,及無色沒生二三四靜慮地時。或有眼識先不成就今得成就非眼界,謂生二三四靜慮地眼識現起,及從彼沒生下地時。俱得者,謂或有二界先不成就今得成就,謂無色沒生於欲界及梵世時。非者俱非,謂除前相。等謂若有成就眼界亦眼識耶?應作四句。第一句者,謂生二三四靜慮地眼識不起。第二句者,謂生欲界未得眼根及得已失。第三句者,謂生欲界得眼不失,及生梵世若生二三四靜慮地正見色時。第四句者,謂除前相。如是眼界與色界。眼識與色界得成就等如理應思,為攝如是所未說義,是故頌中總復言等。如是已說得成就等。十八界中幾內、幾外?頌曰:
論じて曰く、独得とは、あるいは眼界が先には成就していなかったが今成就する場合で、眼識ではないものをいう。すなわち欲界に生まれて漸く眼根を得る場合、および無色界から没して第二・第三・第四静慮地に生まれる時である。あるいは眼識が先には成就していなかったが今成就する場合で、眼界ではないものをいう。すなわち第二・第三・第四静慮地に生まれて眼識が現起する場合、およびそれらの地から没して下の地に生まれる時である。俱得とは、あるいは二つの界が先には成就していなかったが今成就する場合をいう。すなわち無色界から没して欲界および梵世に生まれる時である。非とは、俱に非ず、すなわち前の相を除いたものである。等とは、もし眼界を成就するならば眼識もまた成就するか、ということである。四句を作るべきである。第一句とは、第二・第三・第四静慮地に生まれて眼識が起こらない場合である。第二句とは、欲界に生まれてまだ眼根を得ていない場合、および得てすでに失った場合である。第三句とは、欲界に生まれて眼を得て失わない場合、および梵世に生まれた場合、あるいは第二・第三・第四静慮地に生まれてまさに色を見る時である。第四句とは、前の相を除いたものである。このように眼界と色界、眼識と色界との得成就なども、道理にしたがって考えるべきである。このように説かれなかった義を摂めるために、それゆえ頌の中で総じてまた等と言うのである。このように得成就などについてはすでに説いた。十八界の中で、いくつが内で、いくつが外か。頌に曰く。
內十二眼等, 色等六為外。
内の十二処とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根を指し、外の十二処とは、色・声・香・味・触・法の六境を指します。
論曰:六根、六識十二名內,外謂所餘色等六境。我依名內,外謂此餘。我體既無,內外何有?我執依止故,假說心為我。故契經說:
論じて言う。六根と六識の十二のものを「内」と名づけ、「外」とは、それ以外の色などの六つの境界(対象)をいう。私は「内」という名に依って、「外」とはこれ以外のものをいう。私の本体がすでにないのなら、内も外もどうしてあるだろうか。我執(私という思い込み)のよりどころであるから、仮に心を「私」と説くのである。それゆえ経典にはこう説かれている。
由善調伏我, 智者得生天。
善く自分を調え整えた者は、賢者は天に生まれることができる。
世尊餘處說調伏心,如契經言:
世尊は他の場所で、心を調えることについて説かれました。例えば経典の中で次のように言われています。
應善調伏心, 心調能引樂。
心をよく調え、心を制御するならば、その心は楽をもたらす。
故但於心假說為我。眼等為此所依親近,故說名內。色等為此所緣踈遠,故說名外。若爾,六識應不名內,未至意位非心依故。至意位時不失六識界,未至意位亦非越意相。若異此者,意界唯應在過去世,六識唯在現在未來,便違自宗許十八界皆通三世。又若未來現在六識無意界相,過去意界亦應不立,相於三世無改易故。已說內外。十八界中幾是同分、幾彼同分?頌曰:
そこで、ただ心に対して仮に「我」と説くのである。眼などはこれ(心)の所依として近しいものであるから、「内」と説くのである。色などはこれ(心)の所縁として遠いものであるから、「外」と説くのである。もしそうであるならば、六識は「内」と名づけるべきではない。未だ意の位に至らなければ、心の所依ではないからである。意の位に至った時には、六識の界を失うことはない。未だ意の位に至らなくても、また意の相を越えることはない。もしこれと異なるならば、意界はただ過去世にのみ存在し、六識はただ現在と未来にのみ存在することになり、自宗が十八界はすべて三世に通ずると許すことに反するであろう。また、もし未来・現在の六識に意界の相がなければ、過去の意界もまた成立しないはずである。というのは、相は三世にわたって変改することがないからである。すでに内外を説いた。十八界のうち、いくつが同分であり、いくつが彼同分であるか。頌に曰く、
法同分餘二, 作不作自業。
法力はすべて同じであり、残りの二つも同じ。 自らの業を作ることも、作らないことも、同じである。
論曰:法同分者,謂一法界唯是同分。若境與識定為所緣,識於其中已生生法,此所緣境說名同分。無一法界不於其中已正當生無邊意識,由諸聖者決定生心,觀一切法皆為無我。彼除自體及俱有法,餘一切法皆為所緣。如是所除亦第二念心所緣境,此二念心緣一切境無不周遍,是故法界恒名同分。餘二者,謂餘十七界皆有同分及彼同分。何名同分、彼同分耶?謂作自業、不作自業。若作自業名為同分,不作自業名彼同分。此中眼界於有見色已正當見名同分眼,如是廣說,乃至意界各於自境應說自用。迦濕彌羅國毘婆沙師說:彼同分眼但有四種,謂不見色已正當滅及不生法。西方諸師說有五種:謂不生法復開為二,一有識屬、二無識屬,乃至身界應知亦然。意彼同分唯不生法。色界為眼已正當見名同分色,彼同分色亦有四種,謂非眼見已正當滅及不生法,廣說乃至觸界亦爾。各對自根應說自用,應知同分及彼同分。眼若於一是同分,於餘一切亦同分。彼同分亦如是,廣說乃至意界亦爾。色即不然,於見者是同分,於不見者是彼同分。所以者何?色有是事,謂一所見亦多所見,如觀月舞相撲等色。眼無是事,謂一眼根二能見色,眼不共故,依一相續建立同分及彼同分。色是共故,依多相續建立同分及彼同分。如說色界,聲香味觸應知亦爾。聲可如色。香味觸三至根方取,是不共故,一取非餘。理應如眼等,不應如色說。雖有是理而容有共。所以者何?香等三界於一及餘,皆有可生鼻等識義。眼等不然,故如色說。眼等六識同分彼同分生不生法故,如意界說。云何同分、彼同分義?根境識三更相交涉故名為分,或復分者是已作用,或復分者是所生觸,同有此分故名同分。與此相違名彼同分,由非同分與彼同分種類分同,名彼同分。已說同分及彼同分。十八界中幾見所斷、幾修所斷、幾非所斷?頌曰:
論じて言う。法同分とは、一法界がただ同分のみであることをいう。もし境と識が定めて所縁と為すならば、識はその中において已に生じ生ずる法あり、この所縁の境を同分と名づける。一法界として、その中に已・正・當の三時において無辺の意識を生ぜざるはなし。諸の聖者は決定して心を生じ、一切の法を観じて皆無我と為す。彼は自体及び俱有法を除き、余の一切の法は皆所縁と為す。かくの如く除かれたものも亦た第二念の心の所縁の境なり。この二念の心は一切の境に縁ずること、周遍せざるはなし。是の故に法界は恒に同分と名づく。余の二者とは、謂く余の十七界は皆同分及び彼同分有り。何をか同分・彼同分と名づくると謂う。謂く自業を作す・自業を作さざるなり。若し自業を作さば同分と名づけ、自業を作さざれば彼同分と名づく。此の中、眼界は有見色に対して已・正・當に見ることを同分眼と名づく。かくの如く広説し、乃至意界に至るまで各々自境に対して応に自用を説くべし。迦湿彌羅国の毘婆沙師は説く。彼同分眼は但だ四種有り。謂く色を見ず已に正に當に滅す及び不生法なり。西方の諸師は説く。五種有り。謂く不生法を復た開いて二と為す。一には識の属する有り、二には識の属する無し。乃至身界に至るまで応に知るべし、亦然なり。意の彼同分は唯だ不生法のみ。色界は眼に為に已・正・當に見ることを同分色と名づく。彼同分色も亦た四種有り。謂く眼に見られず已に正に當に滅す及び不生法なり。広説し乃至触界に至るまで亦た爾なり。各々自根に対して応に自用を説き、応に知るべし、同分及び彼同分を。眼は若し一に於いて同分ならば、余の一切に於いても亦た同分なり。彼同分も亦た是の如し。広説し乃至意界に至るまで亦た爾なり。色は即ち然らず。見る者に於いては同分、見ざる者に於いては彼同分なり。所以は何ん。色は是の事有り、謂く一所見も亦た多所見なり。月を見、舞を見、相撲を見る等の色の如し。眼は是の事無し、謂く一眼根の二の能見色あること無し。眼は共ならざるが故に、一相続に依りて同分及び彼同分を建立す。色は是れ共なるが故に、多相続に依りて同分及び彼同分を建立す。色界を説くが如く、声・香・味・触も応に知るべし、亦た爾なり。声は色の如くすべし。香・味・触の三は根に至りて方に取り、是れ不共なるが故に、一の取は余に非ず。理に応に眼等の如くすべし、色の説くが如くすべからず。是の理有りと雖も而も容に共なること有り。所以は何ん。香等の三界は一に於いても及余に於いても、皆鼻等識を生ずべき義有り。眼等は然らず。故に色の説くが如くす。眼等の六識は同分・彼同分の生・不生法の故に、意界の説くが如し。云何が同分・彼同分の義なる。根・境・識の三更に相交渉することを故に分と名づく。或いは復た分とは是れ已に作用す。或いは復た分とは是れ所生の触なり。同じく此の分有ることを故に同分と名づく。此れと相違することを彼同分と名づく。同分に非ずして彼同分と種類分同じきことを由るが故に、彼同分と名づく。已に同分及び彼同分を説く。十八界の中、幾らは見所断、幾らは修所断、幾らは非所断なる。頌に曰く、
十五唯修斷, 後三界通三,
不染非六生, 色定非見斷。
十五は唯だ修によって断じ、後の三は三界に通じて三あり、 不染は六生にあらず、色は定んで見断にあらず。
論曰:十五界者,謂十色界及五識界。唯修斷者,此十五界唯修所斷。後三界者,意界、法界及意識界。通三者,謂此後三界各通三種。八十八隨眠及彼俱有法并隨行得,皆見所斷,諸餘有漏皆修所斷,一切無漏皆非所斷。豈不更有見所斷法,謂異生性及招惡趣身語業等,此與聖道極相違故。雖爾,此法非見所斷,略說彼相,謂不染法非六生色,定非見斷。其異生性是不染污,無記性攝,已離欲者斷善根者猶成就故。此異生性若見所斷,苦法忍位應是異生。六謂意處,異此而生名非六生,是從眼等五根生義,即五識等。色謂一切身語業等。前及此色,定非見斷。所以者何?非迷諦理親發起故。如是已說見所斷等。十八界中幾是見、幾非見?頌曰:
論に曰く、十五界とは、十の色界と五つの識界を指します。ただ修断のみであるとは、この十五界はただ修(修行)によって断たれるものだけであるということです。後の三界とは、意界、法界、意識界です。三つに通じるとは、この後の三界がそれぞれ三種に通じることを指します。八十八の随眠とそれと俱有する法ならびに随行の得は、すべて見によって断じられるものであり、その他の有漏はすべて修によって断じられ、一切の無漏はすべて断じられるものではありません。さらに見によって断じられる法があるのではないか、すなわち異生性や悪趣を招く身業・語業などがそれであり、これらは聖道と極めて相違するからです。そうではあっても、この法は見によって断じられるものではありません。その相を略して説けば、不染の法と六生ならざる色は、必ず見によって断じられるものではないということです。その異生性は不染汚であり、無記性に摂められ、すでに欲を離れた者も善根を断じた者もなお成就しているからです。この異生性が見によって断じられるものであるならば、苦法忍の位は異生であるはずです。六とは意処であり、これと異なって生じるものを非六生と名づけ、これは眼などの五根から生じるという意味であり、すなわち五識などです。色とは一切の身業・語業などを指します。前のものとこの色は、必ず見によって断じられるものではありません。なぜでしょうか。諦理を迷わす直接の起因ではないからです。このようにすでに見によって断じられるものなどについて説きました。十八界のうち、いくつが見であり、いくつが非見でしょうか。頌に曰く。
眼法界一分, 八種說名見,
五識俱生慧, 非見不度故。
眼見色同分, 非彼能依識,
傳說不能觀, 彼障諸色故。
眼界一分を「見」と名づけ、 八種の説は「見」と呼ばれる。 五識とともに生じる慧は、 見にはあらず——度する能わざるがゆえに。
眼は色を見るは、同分にして、 彼の能依の識に非ず。 伝えに曰く、観ずること能わず、 彼の障、諸の色を覆うがゆえに。
論曰:眼全是見,法界一分八種是見,餘皆非見。何等為八?謂身見等五染污見、世間正見、有學正見、無學正見。於法界中此八是見,所餘非見。身見等五,隨眠品中時至當說。世間正見,謂意識相應善有漏慧。有學正見,謂有學身中諸無漏見。無學正見,謂無學身中諸無漏見。譬如夜分晝分有雲無雲,覩眾色像明昧有異,如是世間諸見有染無染。學無學見,觀察法相明昧不同。何故?世間正見唯意識相應,以五識俱生慧不能決度故,審慮為先決度名見。五識俱慧無如是能,以無分別是故非見。准此,所餘染無染慧及諸餘法非見應知。若爾,眼根不能決度,云何名見?以能明利觀照諸色故亦名見。若眼見者,餘識行時亦應名見。非一切眼皆能現見。誰能現見?謂同分眼與識合位能見非餘。若爾,則應彼能依識見色非眼。不爾,眼識定非能見。所以者何?傳說,不能觀障色故,現見壁等所障諸色則不能觀。若識見者,識無對故,壁等不礙應見障色。於被障色眼識不生,識既不生如何當見?眼識於彼何故不生?許眼見者眼有對故,於彼障色無見功能。識與所依一境轉故,可言於彼眼識不生。許識見者何緣不起?眼豈如身根境合方取而言有對故不見彼耶?又頗胝迦、瑠璃、雲母、水等所障云何得見?是故不由眼有對故,於彼障色無見功能。若爾,所執眼識云何?若於是處光明無隔,於彼障色眼識亦生。若於是處光明有隔,於彼障色眼識不生。識既不生,故不能見。然經說眼能見色者,是見所依,故說能見。如彼經言:意能識法。非意能識,以過去故。何者能識?謂是意識。意是識依,故說能識。或就所依說能依業,如世間說床座言聲。又如經言:眼所識色可愛可樂。然實非此可愛樂色是眼所識。又如經說:梵志當知,以眼為門唯為見色。故知眼識依眼門見。亦不應言門即是見,豈容經說以眼為見唯為見色?若識能見誰復了別?見與了別二用何異?以即見色名了色故,譬如少分慧名能見亦能簡擇。如是少分識名能見亦能了別。有餘難言:若眼能見,眼是見者,誰是見用?此言非難,如共許識是能了別,然無了者。了用不同,見亦應爾。有餘復言:眼識能見,是見所依故,眼亦名能見。如鳴所依故,亦說鍾能鳴。若爾,眼根識所依,故應名能識。無如是失。世間同許眼識是見,由彼生時說能見色,不言識色。毘婆沙中亦作是說:若眼所得、眼識所受說名所見。是故但說眼名能見,不名能識。唯識現前說能識色,譬如說日名能作晝。經部諸師有作是說:如何共聚楂掣虛空眼色等緣生於眼識?此等於見孰為能所?唯法因果實無作用,為順世情假興言說,眼名能見、識名能了,智者於中不應封著。如世尊說:方域言詞不應堅執,世俗名想不應固求。然迦濕彌羅國毘婆沙宗,說眼能見、耳能聞、鼻能嗅、舌能嘗、身能覺、意能了。於見色時,為一眼見、為二眼見?此無定准。頌曰:
論じていうには、眼根はすべて見る作用である。法界の一部である八種は見であり、その他はすべて見ではない。八種とは何か。すなわち、身見などの五つの染汚された見、世間の正見、有学の正見、無学の正見である。法界の中でこの八種は見であり、その他は見ではない。
身見などの五つは、随眠品のところで詳しく述べられるだろう。世間の正見とは、意識と相応する善なる有漏の慧のことである。有学の正見とは、有学の身中にある諸々の無漏の見のことである。無学の正見とは、無学の身中にある諸々の無漏の見のことである。
たとえば、夜と昼、雲があるときとないときで、多くの色の像を見る明暗に違いがあるように、この世間の諸々の見にも染汚されたものと染汚されていないものがある。学と無学の見は、法の相を観察するときの明瞭さに違いがある。
なぜか。世間の正見はただ意識と相応するだけである。なぜなら、五識と共に生じる慧は、決断し推度することができないからである。審らかに慮ることが先にあって、決断することを見と名づける。五識と共に生じる慧には、そのような働きがない。無分別であるから、見ではないのである。
これに準じて、その他の染汚され、染汚されていない慧や、その他の諸法は見ではないと知るべきである。もしそうならば、眼根は決断という働きがないのに、なぜ見と名づけるのか。明瞭に諸々の色を観照することができるからであり、それゆえに見とも名づけるのである。
もし眼が見るならば、他の識が働いているときにも、また見ると名づけるべきではないか。すべての眼が、現に見ることができるわけではない。誰が現に見ることができるのか。すなわち、同分の眼で、識と合している位置にあるものが見ることができるのであって、その他は見ることができないのである。
もしそうならば、それに依っている能依の識が色を見るのであって、眼が見るのではないのではないか。そうではない。眼識は決して能見ではない。なぜならば、伝えられるところによれば、眼識は障礙された色を観ることができないからである。すなわち、壁などに遮られた諸々の色を現に見ることができないのである。
もし識が見るのならば、識には対するものがないから、壁などによって障げられることなく、障礙された色を見るはずである。しかし、遮られた色に対しては、眼識は生じない。識がすでに生じないのならば、どのようにして見ることができようか。
眼識は、なぜそこにおいて生じないのか。もし眼が見ると許すならば、眼には対するものがあるから、その障られた色に対して見る機能がない。識は所依と一境を転ずるから、そこにおいて眼識が生じないと言うことができる。もし識が見ると許すならば、なぜ生じないのか。
眼は、身根が境と合してはじめて取るように、それゆえに対するものがあるから、その色を見ないと言うことができるのか。また、頗胝迦(クリスタル)、瑠璃、雲母、水などによって遮られたものは、なぜ見ることができるのか。ゆえに、眼に対するものがあるからといって、その障られた色に対して見る機能がないわけではないのである。
もしそうならば、主張される眼識はどのようなものであるのか。もしあるところに光明に隔たりがなければ、その障られた色に対して眼識も生じる。もしあるところに光明に隔たりがあれば、その障られた色に対して眼識は生じない。識がすでに生じないのであるから、見ることができないのである。
しかし、経典には「眼が色を見る」と説かれているが、これは見るための所依であるから「能見」と説かれているのである。たとえば、その経典に「意が法を識る」とあるが、これは意が識るのではない。なぜなら、意は過去のものであるから。何が識るのか。すなわち意識である。意は識の依処であるから「能識」と説かれる。
あるいは、所依をもって能依の働きを説くのである。たとえば、世間で「床座が音声を言う」と言うように。また、経典に「眼によって識られる色は愛しく楽しいものである」とあるが、しかし実に、この愛しく楽しい色は眼識によって識られるのではない。
また、経典に「梵志よ、知るべきである。眼を門として、ただ色を見るためにある」と説かれている。ゆえに、眼識は眼門に依って見るのであると知るべきである。また、「門すなわち見である」と言うべきでもない。まさに、経典が「眼をもって見て、ただ色を見るためにある」と説くことを許すだろうか。
もし識が見ることができるならば、誰がさらに了別するのか。見と了別の二つの働きは、何が異なるのか。すなわち、色を見ることを色を了別すると名づける。たとえば、少分の慧を「能見」と名づけ、また簡択することができると名づけるように。このように、少分の識を「能見」と名づけ、また了別することができると名づける。
他の者が難じていうには、もし眼が見ることができるならば、眼は見る者である。誰が見る働きであるのか。この言葉は難ではない。たとえば、共に許されるように、識は能了別であり、しかし了別する者はない。了別の働きが異なるように、見もまたそうであるべきである。
他の者はさらにいわく、眼識が見るのである。見るための所依であるから、眼もまた能見と名づけられる。たとえば、鳴くことの所依であるから、鐘も鳴くと言われるように。もしそうならば、眼根は識の所依であるから、「能識」と名づけられるべきではないか。
そのような失はない。世間では同じく、眼識は見であると許している。それゆえ、それが生じるときに「色を見る」と言い、「色を識る」とは言わない。毘婆沙の中でもまた、このように説いている。「もし眼に得られ、眼識に受けられるならば、これを見ると説かれる」と。ゆえに、ただ眼だけを能見と名づけ、能識とは名づけない。ただ識が現前して、「色を識る」と説かれるのである。たとえば、「日が昼を作る」と説かれるようなものである。
経部の諸師はこのように説く。「どのようにして共に集まり、虚空を掻くように、眼色などの縁が生じて眼識となるのか。これらにおいて、見ることに何が能であり所であるのか。ただ法と因果のみが実在し、作用はないのである。世間の情に従って、仮に言説を興して、眼を能見と名づけ、識を能了と名づけるのである。智者はこの中において、執着すべきではない。世尊が説かれたように、「方域の言詞に堅く執着すべきではなく、世俗の名想に固く求めるべきではない」と。
しかし、迦湿彌羅国の毘婆沙宗は、眼が能見であり、耳が能聞であり、鼻が能嗅であり、舌が能嘗であり、身が能覚であり、意が能了であると説く。
色を見るとき、一方の眼で見るのか、両方の眼で見るのか。これには定まった基準はない。頌にいう。
或二眼俱時, 見色分明故。
或いは二つの眼が同時に、物の色をはっきりと見ることができる。
論曰:阿毘達磨諸大論師咸言:或時二眼俱見,以開二眼見色分明,開一眼時不分明故。又開一眼觸一眼時,便於現前見二月等,閉一觸一此事則無,是故或時二眼俱見。非所依別識成二分,住無方故不同礙色。若此宗說眼見耳聞乃至意了,彼所取境根正取時,為至不至?頌曰:
論じて曰く、阿毘達磨の諸大論師は皆、次のように述べています。ある時には二つの眼がともに見るのであって、二つの眼を開いて見れば色がはっきりと見え、一つの眼だけを開いた時には、はっきりと見えないからです。また、一方の眼を開き、他方の眼に触れる時には、目の前に二つの月などを見ますが、一方を閉じ他方に触れるというこの事は、そのようにはなりません。したがって、ある時には二つの眼がともに見るのです。所依が別々であるからといって、識が二つに分かれるのではなく、住する所に方角がないからであり、障碍となる色とは異なるのです。もしこの宗で、眼が見、耳が聞き、さらには意が了知すると説くならば、それらの取るべき境を根がまさに取る時、そこに至るのでしょうか、至らないのでしょうか。頌に曰く。
眼耳意根境, 不至三相違。
眼と耳と意の根とその対象は、到達しないという点で三つとも矛盾しています。
論曰:眼耳意根取非至境,謂眼能見遠處諸色,眼中藥等則不能觀。耳亦能聞遠處聲響,逼耳根者則不能聞。若眼耳根唯取至境,則修定者應不修生天眼、耳根,如鼻根等。若眼能見不至色者,何故不能普見一切遠有障等不至諸色?如何磁石吸不至鐵,非吸一切不至鐵耶?執見至境亦同此難。何故不能普見一切眼藥籌等至眼諸色?又如鼻等能取至境,然不能取一切與根俱有香等。如是眼根雖見不至而非一切,耳根亦爾。意無色故,非能有至。有執:耳根通取至境及不至境,自耳中聲亦能聞故。所餘鼻等三有色根,與上相違唯取至境。如何知鼻唯取至香?由斷息時不嗅香故。云何名至?謂無間生。又諸極微為相觸不?迦濕彌羅國毘婆沙師說不相觸。所以者何?若諸極微遍體相觸,即有實物體相雜過。若觸一分,成有分失,然諸極微更無細分。若爾,何故相擊發聲?但由極微無間生故。若許相觸,擊石拊手體應相糅。不相觸者,聚色相擊云何不散?風界攝持故令不散。或有風界能有壞散,如劫壞時。或有風界能有成攝,如劫成時。云何三根由無間生名取至境?即由無間名取至境,謂於中間都無片物。又和合色許有分故,相觸無失。由許此理,毘婆沙文義善成立。故彼問言:諸是觸物為是觸為因故生?為非觸為因故生?諸非觸物為問亦爾。彼就此理為不定答,有時是觸為因生於非觸,謂和合物正離散時。有時非觸為因生於是觸,謂離散物正和合時。有時是觸為因生於是觸,謂和合物復和合時。有時非觸為因生於非觸,謂向遊塵同類相續。尊者世友說:諸極微相觸即應住至後念。然大德說:一切極微實不相觸,但由無間假立觸名。此大德意應可愛樂。若異此者,是諸極微應有間隙。中間既空,誰障其行許為有對?又離極微無和合色,和合相觸即觸極微。如可變礙,此亦應爾。又許極微若有方分,觸與不觸皆應有分。若無方分,設許相觸亦無斯過。又眼等根,為於自境唯取等量,速疾轉故,如旋火輪見大山等?為於自境通取等量不等量耶?頌曰:
論じて曰く、眼・耳・意の根は至らない境を取ると。すなわち眼は遠くの諸々の色を見ることができますが、眼中の薬などは見ることができません。耳もまた遠くの音響を聞くことができますが、耳根に迫ったものは聞くことができません。もし眼・耳の根がただ至る境のみを取るのであれば、定を修める者は天眼・天耳の根を修めるべきではないことになります。鼻根などのように。もし眼が至らない色を見ることができるのであれば、なぜ普遍的に一切の遠くにある障壁などの至らない諸々の色を見ることができないのでしょうか。ちょうど磁石が至らない鉄を吸い寄せるように、一切の至らない鉄を吸い寄せるのではないのでしょうか。至る境を見ると執着する場合も同じ難点があります。なぜ普遍的に一切の眼薬や籌などの眼に至る諸々の色を見ることができないのでしょうか。また鼻などが至る境を取ることができるように、しかし一切の根と俱にある香などを取ることはできません。このように眼根は至らないものを見るといっても一切ではなく、耳根もまた同様です。意は色がないため、至ることがあるはずがありません。ある執着によれば、耳根は至る境と至らない境を通じて取ると。自らの耳の中の声も聞くことができるからです。残りの鼻などの三つの有色根は、上述と相反し、ただ至る境のみを取ります。どうして鼻がただ至る香のみを取ると知ることができるのでしょうか。息を断つとき香を嗅がないからです。どうして至ると名づけるのでしょうか。間断なく生じるからです。また諸々の極微は相触するのでしょうか。迦湿弥羅国の毘婆沙師は相触しないと説きます。なぜでしょうか。もし諸々の極微が全体で相触するならば、すなわち実物の体が雑じり合う過失があるからです。もし一分だけ触れるならば、分があるという過失になりますが、しかし諸々の極微にはさらに細分がありません。それならばなぜ相撃して声を発するのでしょうか。ただ極微が間断なく生じるからです。もし相触することを認めるならば、石を撃ち手を打つとき体が混じり合うはずです。相触しないならば、聚色が相撃してなぜ散らないのでしょうか。風界が摂持するから散らないのです。あるいは風界が壊散させることもでき、劫が壊れるときのようです。あるいは風界が成摂させることもでき、劫が成るときのようです。どうして三根が間断なく生じることによって至る境を取ると名づけるのでしょうか。すなわち間断がないことによって至る境を取ると名づけ、その中間にはまったく片物もないからです。また和合色は分があることを認めるため、相触しても過失はありません。この理を認めることによって、毘婆沙の文義は善く成立します。それゆえかの問いに言います。諸々の触れる物は触れるものを因として生じるのか、触れないものを因として生じるのかと。諸々の触れない物についても問いは同様です。かれはこの理について不定の答えをします。あるときは触れるものを因として触れないものが生じ、和合物がまさに離散するときです。あるときは触れないものを因として触れるものが生じ、離散物がまさに和合するときです。あるときは触れるものを因として触れるものが生じ、和合物が再び和合するときです。あるときは触れないものを因として触れないものが生じ、向かう遊塵が同類相続するときです。尊者世友は説きます。諸々の極微が相触するならば、すなわち後念まで住するはずであると。しかし大徳は説きます。一切の極微は実に相触せず、ただ間断がないことによって仮に触という名を立てるにすぎないと。この大徳の意は愛楽されるべきです。もしこれと異なるならば、これらの極微には間隙があるはずです。中間がすでに空であるのに、誰がその行を障えて有対と認めるのでしょうか。また極微を離れて和合色はなく、和合が相触するならばすなわち極微に触れるのです。可変礙のように、これもまた同様であるはずです。また極微に方分があると認めるならば、触れると触れないとにかかわらず分があるはずです。もし方分がなければ、仮に相触を認めてもこの過失はありません。また眼などの根は、自らの境についてただ等量のみを取るのか、速疾に転じるため、旋火輪のように大山などを見るのでしょうか。それとも自らの境について等量・不等量を通じて取るのでしょうか。頌に曰く。
應知鼻等三, 唯取等量境。
鼻など三つの識は、等しい量の境だけを取ると知るべきです。
論曰:前說至境鼻等三根,應知唯能取等量境。如根微量,境微亦然,相稱合生鼻等識故。眼耳不定,謂眼於色有時取小如見毛端,有時取大如暫開目見大山等,有時取等如見蒲桃。如是耳根,聽蚊雷等所發種種小大音聲,隨其所應小大等量。意無質礙,不可辯其形量差別。云何眼等諸根極微安布差別?眼根極微在眼星上傍布而住,如香荾花清澈映覆令無分散。有說:重累如丸而住,體清澈故,如頗胝迦不相障礙。耳根極微居耳穴內旋環而住,如卷樺皮。鼻根極微居鼻頞內背上面下,如雙爪甲。此初三根橫作行度處無高下,如冠花鬘。舌根極微布在舌上,形如半月。傳說:舌中如毛端量,非為舌根極微所遍。身根極微遍住身分,如身形量。女根極微形如鼓𣞙,男根極微形如指𩎽。眼根極微有時一切皆是同分,有時一切皆彼同分,有時一分是彼同分餘是同分。乃至舌根極微亦爾。身根極微定無一切皆是同分,乃至極熱捺落迦中猛焰纏身,猶有無量身根極微是彼同分。傳說:身根設遍發識身應散壞,以無根境各一極微為所依緣能發身識。五識決定積集多微,方成所依所緣性故。即由此理亦說極微名無見體,不可見故。如前所說識有六種,謂眼識界乃至意識,為如五識唯緣現在意識通緣三世非世,如是諸識依亦爾耶?不爾,云何?頌曰:
論じて曰く、前に説いたように、境に至るまでの鼻などの三根は、ただ等量の境を取ることができると知るべきです。根の微量に応じて、境の微もまた同様であり、互いに相応して合わさり、鼻などの識を生じるからです。眼と耳は不定であり、眼は色に対して、ある時は小さなものを見る場合、たとえば毛の先を見るように、ある時は大きなものを取る場合、たとえばしばらく目を開いて大山などを見るように、ある時は等しいものを取る場合、たとえば蒲桃を見るようにあります。このように耳根は、蚊や雷などが発する種々の小さな音声や大きな音声を聞き、それに応じて小・大などの量に従います。意には質礙がなく、その形や量の違いを区別することはできません。どのようにして眼などの諸根の極微が安布される違いがあるのでしょうか。眼根の極微は眼の星の上に横に並んで住し、香荾花が清らかに映し覆って分散させないようなものです。ある説では、重ねて丸のように住し、体が清らかであるため、頗胝迦のように互いに障碍しないといいます。耳根の極微は耳の穴の中に旋環して住し、巻いた樺皮のようです。鼻根の極微は鼻の頞の内に住し、背が上を向き面が下を向き、二つの爪のようです。これら初めの三根は横に行度を作し、処に高下がなく、冠の花鬘のようです。舌根の極微は舌の上に布かれ、形は半月のようです。伝説では、舌の中に毛の先ほどの量があり、舌根の極微が遍くするのではないといいます。身根の極微は身分に遍く住し、身の形量のようです。女根の極微は形が鼓のようであり、男根の極微は形が指のようです。眼根の極微は、ある時はすべてが同分であり、ある時はすべてが彼の同分であり、ある時は一分が彼の同分で残りは同分です。ないし舌根の極微もまた同様です。身根の極微は定めてすべてが同分であることはなく、ないし極熱の捺落迦の中では猛焰が身を纏っても、なお無量の身根の極微が彼の同分であります。伝説では、身根がもし遍く識を発すれば身は散壊するはずですが、根と境がそれぞれ一極微を所依と所縁として身識を発することができるからです。五識は決定して多くの微を積集して、初めて所依・所縁の性を成すからです。すなわちこの道理によっても、極微は無見の体と名づけられ、見ることができないからです。前に説いたように識には六種があり、眼識界ないし意識といい、五識がただ現在のみを縁とするように、意識は三世と非世を通じて縁とするのか、そのように諸識の依もまた同様でしょうか。そうではありません。どのようでしょうか。頌に曰く。
後依唯過去, 五識依或俱。
後には唯だ過去に依りますが、五識の依はあるいは倶にもなります。
論曰:意識唯依無間滅意,眼等五識所依或俱,或言表此亦依過去。眼是眼識俱生所依,如是乃至身是身識俱生所依,同現世故。無間滅意是過去依。此五識身所依各二,謂眼等五是別所依,意根為五通所依性,故如是說。若是眼識所依性者,即是眼識等無間緣耶?設是眼識等無間緣者,復是眼識所依性耶?應作四句。第一句,謂俱生眼根。第二句,謂無間滅心所法界。第三句,謂過去意根。第四句,謂除所說法。乃至身識亦爾,各各應說自根。意識應作順前句答,謂是意識所依性者,定是意識等無間緣。有是意識等無間緣,非與意識為所依性,謂無間滅心所法界。何因識起俱託二緣,得所依名在根非境?頌曰:
論じて曰く、意識はただ無間滅意にのみ依ります。眼などの五識が依るものは、あるいは倶に生じるものであり、「あるいは」という言葉は、これが過去にも依ることを表しています。眼は眼識と倶に生じる所依であり、同じように身に至るまで、身は身識と倶に生じる所依であり、同じく現世であるからです。無間滅意は過去の依です。この五識の身の所依はそれぞれ二つあり、眼など五つは別々の所依であり、意根は五つに共通の所依となる性質です。それゆえこのように説きます。もし眼識の所依となる性質であるならば、それはすなわち眼識などの無間縁でしょうか。仮に眼識などの無間縁であるならば、また眼識の所依となる性質でしょうか。ここでは四句を作って答えるべきです。第一句は、倶に生じる眼根です。第二句は、無間滅した心所法の界です。第三句は、過去の意根です。第四句は、説かれたものを除いた諸法です。身識に至るまでも同様で、それぞれが自らの根について説かれるべきです。意識については、前の句に従う答を作るべきです。すなわち意識の所依となる性質であるならば、必ず意識などの無間縁です。意識などの無間縁でありながら、意識に対して所依となる性質ではないものがあり、それは無間滅した心所法の界です。なぜ識が起こるのに倶に二つの縁に託るのに、所依という名を得るのは根においてであって境においてではないのでしょうか。頌に曰く。
隨根變識異, 故眼等名依。
根に随って識が変わるため、眼などは依(よりどころ)と名づけられます。
論曰:眼等即是眼等六界,由眼等根有轉變故。諸識轉異,隨根增損識明昧故。非色等變令識有異,以識隨根不隨境故。依名唯在眼等非餘。何緣色等正是所識而名眼識,乃至意識不名色識乃至法識?頌曰:
論に曰く、眼などはすなわち眼などの六界です。眼などの根に変転があるため、諸識も転じて異なります。根に従って識の明昧が増減するからです。色などの変化が識を異ならせるのではなく、識は根に従うものであって境に従うものではないからです。名に依れば、ただ眼などにのみあり、その他にはありません。なぜ色などはまさしく識の対象であるのに、眼識と名づけ、あるいは意識といい、色識あるいは法識と名づけないのでしょうか。頌に曰く、
彼及不共因, 故隨根說識。
それゆえ、その根に応じて識を説かれます。
論曰:彼謂前說眼等名依,根是依故隨根說識。及不共者,謂眼唯自眼識所依,色亦通為他身眼識及通自他意識所取,乃至身觸應知亦爾,由所依勝及不共因故識得名。隨根非境,如名鼓聲及麥牙等。隨身所住眼見色時,身眼色識地為同不?應言此四或異或同,謂生欲界,若以自地眼見自地色,四皆自地。若以初靜慮眼見欲界色,身色欲界、眼識初定。見初定色,身屬欲界、三屬初定。若以二靜慮眼見欲界色,身色欲界、眼屬二定、識屬初定。見初定色,身屬欲界、眼屬二定、色識初定。見二定色,身屬欲界、眼色二定、識屬初定。如是若以三四靜慮地眼見下地色或自地色,如理應思。生初靜慮,若以自地眼見自地色,四皆同地見欲界色,三屬初定、色屬欲界。若以二靜慮眼見初定色,三屬初定、眼屬二定。見欲界色,身識初定、色屬欲界、眼屬二定。見二定色,身識初定、眼色二定。如是若以三四靜慮地眼見自地色或下上色,如理應思。如是生二三四靜慮,以自他地眼見自他地色,如理應思。餘界亦應如是分別。今當略辯此決定相。頌曰:
論じて曰く、彼は前の説で眼などの名称は依であると述べています。根が依であるため、根に随って識を説くのです。また不共については、眼はただ自らの眼識の拠り所であり、色は他者の眼識や自他の意識の対象にも通じることを示します。乃至、身と触についても同様と知るべきです。拠り所が勝れていることと不共の因とによって識は名を得ます。根に随うのであって対象によるのではありません。ちょうど鼓の音や麦の芽などの名のようにです。身に随って住し、眼が色を見るとき、身・眼・色・識の地は同じでしょうか。この四つはまたは異なり、または同じであると言うべきです。すなわち欲界に生まれた者が、自地の眼で自地の色を見るならば、四つとも自地です。もし初静慮の眼で欲界の色を見るならば、身と色は欲界、眼と識は初定です。初定の色を見るならば、身は欲界に属し、三つは初定に属します。もし二静慮の眼で欲界の色を見るならば、身と色は欲界、眼は二定、識は初定に属します。初定の色を見るならば、身は欲界に属し、眼は二定、色と識は初定に属します。二定の色を見るならば、身は欲界に属し、眼と色は二定、識は初定に属します。このように、もし三静慮・四静慮の地の眼で下地の色や自地の色を見るならば、道理に従って考えるべきです。初静慮に生まれた者が、もし自地の眼で自地の色を見るならば、四つとも同じ地です。欲界の色を見るならば、三つは初定に属し、色は欲界に属します。もし二静慮の眼で初定の色を見るならば、三つは初定に属し、眼は二定に属します。欲界の色を見るならば、身と識は初定、色は欲界に属し、眼は二定に属します。二定の色を見るならば、身と識は初定、眼と色は二定です。このように、もし三静慮・四静慮の地の眼で自地の色や下・上の色を見るならば、道理に従って考えるべきです。このように、二静慮・三静慮・四静慮に生まれた者が、自他の地の眼で自他の地の色を見る場合も、道理に従って考えるべきです。他の界についても同様に分別すべきです。今、まさにこの決定の相を略して弁じましょう。頌に曰く。
眼不下於身, 色識非上眼,
色於識一切, 二於身亦然。
如眼耳亦然, 次三皆自地,
身識自下地, 意不定應知。
眼は身より下にあるのではなく、色識は眼より上にあるのではありません。 色は識に対していっさいがそうであり、二についても身に対しても同様です。 眼と耳についても同様であり、続く三つはみな自地に属します。 身識は自下地に属し、意は定まらないと知るべきです。
論曰:身眼色三皆通五地,謂在欲界四靜慮中,眼識唯在欲界初定。此中眼根望身生地,或等或上終不居下。色識望眼等下非上,下眼不能見上色故、上識不依下地眼故。色望於識通等上下,色識於身如色於識。廣說耳界應知如眼,謂耳不下於身,聲識非上耳,聲於識一切。二於身亦然,隨其所應廣如眼釋。鼻舌身三總皆自地,於中別者,謂身與觸其地必同。識望觸身或自或下,自謂若生欲界初定,生上三定謂之為下。應知意界四事不定,謂意有時與身識法四皆同地,有時上下。身唯五地,三通一切。於遊等至及受生時,隨其所應或同或異,如後定品當廣分別。為捨繁文故今未辯,前後再述用少功多。傍論已周,應辯正論。今當思擇,十八界中誰六識內幾識所識?幾常、幾無常?幾根、幾非根?頌曰。
論じて曰く、身・眼・色の三つは皆、五地に通じます。すなわち欲界と四静慮の中にありますが、眼識はただ欲界と初定にのみ存在します。ここで眼根と、それが生じる身体の地とを比べると、等しいかあるいは上のいずれかであり、決して下に位置することはありません。色と識を眼と比べると、等しいか下であり、上ではありません。下の眼は上の色を見ることができないからであり、上の識は下の地の眼に依存しないからです。色と識の関係は等・上・下のいずれにも通じ、色と識の身体に対する関係は、色の識に対する関係と同じです。詳しくは耳界についても眼と同じであると知るべきです。すなわち耳は身より下ではなく、声と識は耳より上ではなく、声は識に対してすべてに通じます。この二つ(耳と声)の身に対する関係もまた同様であり、それぞれの対応に従って広く眼の場合と同じように解釈します。鼻・舌・身の三つはすべて自地に属しますが、その中で区別されるのは、身と触とはその地が必ず同じであるということです。識と触・身を比べると、自地か下のいずれかです。自地とは、欲界や初定に生まれた場合をいい、上の三定に生まれることを下といいます。意界は四つの事柄について定まらないと知るべきです。すなわち意はある時には身・識・法の四つとすべて同じ地にあり、ある時には上であったり下であったりします。身はただ五地のみですが、三つは一切に通じます。遊等至や受生の時には、それぞれの対応に従って同じであったり異なったりします。後の定品において詳しく分別するでしょう。繁雑な文を省くために今は説きませんが、前後で再び述べることで少ない労力で多くの功を得ます。傍論はすでに周りましたので、正論を論じるべきです。今、思択すべきは、十八界の中で、六識のうち幾つの識によって識られるところとなるか、幾つが常で幾つが無常か、幾つが根で幾つが非根か、です。頌に曰く。
五外二所識, 常法界無為,
法一分是根, 并內界十二。
五つの外なる二つの所識と、常に法界の無為とは、 法の一分はこれ根であり、あわせて内の界の十二です。
論曰:十八界中色等五界,如其次第眼等五識各一所識,又總皆是意識所識。如是五界各六識中二識所識。由此准知,餘十三界一切唯是意識所識,非五識身所緣境故。十八界中無有一界全是常者,唯法一分無為是常,義准無常法餘餘界。又經中說二十二根,謂眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根、女根、男根、命根、樂根、苦根、喜根、憂根、捨根、信根、勤根、念根、定根、慧根、未知當知根、已知根、具知根。阿毘達磨諸大論師,皆越經中六處次第,於命根後方說意根,有所緣故。如是所說二十二根,十八界中內十二界法一分攝。法一分者,命等十一、後三一分,法界攝故。內十二者,眼等五根如自名攝,意根通是七心界攝,後三一分意意識攝,女根、男根即是身界一分所攝。如後當辯。義准所餘,色等五界法界一分皆體非根。
論じていう:十八界のうち、色などの五つの界は、その順番どおりに眼などの五つの識それぞれ一つの認識対象であり、また全体として意識の認識対象でもあります。このように五つの界は、それぞれ六つの識のうち二つの識によって認識されます。これに準じて知られるように、残りの十三界はすべてただ意識によってのみ認識され、五つの識の身体が対象とする境ではないからです。十八界のうち、まったく常である界は一つもなく、ただ法の一分である無為だけが常であり、その意味から推しはかれば、無常である法は残りの残りの界であるとわかります。また経の中には二十二根が説かれています。すなわち眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根、女根、男根、命根、楽根、苦根、喜根、憂根、捨根、信根、勤根、念根、定根、慧根、未知当知根、已知根、具知根です。阿毘達磨の諸大論師は、みな経の中の六処の次第を越えて、命根の後に意根を説いています。所縁があるからです。このように説かれた二十二根は、十八界のうち内の十二界と法の一分に含まれます。法の一分とは、命など十一と後の三つの一分であり、法界に含まれるからです。内の十二とは、眼などの五根はそれぞれの名のとおりに含まれ、意根は通じて七つの心界に含まれ、後の三つの一分は意と意識に含まれ、女根と男根はすなわち身界の一分に含まれます。後のところで詳しく論じるべきです。その意味から推しはかれば、残りの色などの五界と法界の一分は、みな本体が根ではないとわかります。
說一切有部俱舍論卷第二
説一切有部倶舎論 巻第二