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阿毘達磨倶舎論 (阿毘達磨俱舍論)


阿毘達磨俱舍論卷第四

阿毘達磨倶舎論 巻第四

尊者世親造

尊者世親造

三藏法師玄奘奉 詔譯

三蔵法師玄奘奉詔訳

分別根品第二之二

第二品 諸根の分別(その二)

今應思擇,一切有為如相不同,生亦各異,為有諸法決定俱生、有定俱生。謂一切法略有五品:一色、二心、三心所、四心不相應行、五無為。無為無生,此中不說。今先辯色決定俱生。頌曰:

今ここで、あらゆるつくられたもの(有為法)について、その姿も異なり、生じ方もそれぞれ異なるけれども、一定して一緒に生じる法(存在)があるのか、それとも必ず一緒に生じる法があるのかを、よく考えてみるべきである。すなわち、すべての法は大きく分けて五つの種類がある。一つ目は「色(物質的現象)」、二つ目は「心(精神作用)」、三つ目は「心所(心の付随的作用)」、四つ目は「心不相応行(心と対応しない形成作用)」、五つ目は「無為(つくられざるもの)」である。無為には生じることがないので、ここでは扱わない。まず最初に、色が必ず一緒に生じることを明らかにする。ここに偈頌(ゲージュ)を示す。

欲微聚無聲, 無根有八事,
有身根九事, 十事有餘根。

欲の微細な集まりには声がなく、根がなければ八つの事柄があり、身根があれば九つの事柄、その他の根があれば十の事柄がある。

論曰:色聚極細立微聚名,為顯更無細於此者。此在欲界無聲無根,八事俱生隨一不減。云何八事?謂四大種及四所造色、香、味、觸。無聲有根諸極微聚,此俱生事或九或十。有身根聚九事俱生,八事如前,身為第九。有餘根聚十事俱生,九事如前,加眼等一。眼耳鼻舌必不離身,展轉相望處各別故。於前諸聚若有聲生,如次數增九十十一,以有聲處不離根生,謂有執受大種因起。若四大種不相離生,於諸聚中堅濕煖動,云何隨一可得非餘?於彼聚中勢用增者明了可得,餘體非無。如覺針鋒與籌合觸,如甞鹽味與麨合味。云何於彼知亦有餘?由有攝熟長持業故。有說:遇緣堅等便有流等相故,如水聚中由極冷故有煖相起,雖不相離而冷用增,如受及聲用有勝劣。有餘師說:於此聚中餘有種子未有體相,故契經說:於木聚中有種種界。界謂種子。如何風中知有顯色?此義可信,不可比知。或所合香現可取故,香與顯色不相離故。前說色界香味並無,故彼無聲有六七八,有聲有七八九俱生。此可准知,故不別說。此中言事為依體說、為依處說?若爾何過?二俱有過。若依體說,八九十等便為太少,由諸微聚必有形色,有多極微共積集故。重性輕性定隨有一,滑性澁性隨一亦然。或處有冷有飢有渴,是則所言有太少過。若依處說,八九十等便為太多,由四大種觸處攝故應說四等,是則所言有太多失。二俱無過。應知此中所言事者,一分依體說,謂所依大種;一分依處說,謂能依造色。若爾,大種事應成多,造色各別,依一四大種故。應知此中依體類說,諸四大種類無別故。何用分別如是語為?語隨欲生,義應思擇。如是已辯色定俱生。餘定俱生今次當辯。頌曰:

論で述べる。色聚(物質の集まり)は極めて微細であるため、「微聚」という名が付けられる。これは、これより微細なものは存在しないことを示すためである。この微聚は欲界にあり、声も根(感覚器官)もない場合、八つの要素が同時に生じ、どれか一つが欠けることはない。その八つとは何か。すなわち、四大種(地・水・火・風の四大元素)と四つの所造色(色・香・味・触)である。

声がなく根がある場合の極微聚は、同時に生じる要素が九つまたは十になる。身根(触覚器官)のある聚は九つの要素が同時に生じる。八つは前述の通りで、身根が九番目となる。その他の根がある聚は十の要素が同時に生じる。九つは前述の通りで、さらに眼などの一つの根が加わる。眼・耳・鼻・舌は必ず身根を離れず、互いに位置が異なるためである。

前述の諸聚に声が生じる場合、それぞれの数は九、十、十一と増える。声のある場所は根を離れて生じることはなく、すなわち「有執受」の大種に基づいて起こるからである。

四大種が互いに離れずに生じるならば、諸聚の中で堅(地)・湿(水)・煖(火)・動(風)のうち、なぜ一つだけが得られて他は得られないのか。それらの聚の中で勢い(作用)が増しているものが明らかに得られ、他のものも存在しないわけではない。例えば、針の先と籌(木の棒)が触れ合う感覚、塩の味と他の味が混ざり合う感覚のようなものである。

どうしてそこに他の要素もあると知るのか。摂(保持)・熟(成熟)・長(成長)・持(維持)の働きがあるからである。ある説では、因縁に遇えば堅などの要素に流動などの相が現れる。例えば、水の聚で極めて冷たいために煖(温かさ)の相が起こるようなものである。互いに離れていなくても冷たさの作用が増すのであり、受(感受)や声のように作用に優劣がある。

他の師は説く。「この聚の中には、他の要素は種子として存在し、まだ体相を現していない。だから経典に『木の聚の中に種々の界がある』と説かれる。界とは種子を意味する」と。

どうして風の中に顕色(目に見える色)があると知るのか。この道理は信ずることはできても、比類して知ることはできない。あるいは、合わさった香が現に取れるのであり、香は顕色と離れないからである。

前述のように色界では香・味はない。だからそこでは声がない場合、六、七、八の要素があり、声がある場合、七、八、九の要素が同時に生じる。これは類推して知られるので、別に説かない。

ここで「事」と言うのは、体(実体)に基づいて説くのか、処(場所)に基づいて説くのか。もしそうなら、どんな過失があるのか。両方に過失がある。体に基づいて説くなら、八、九、十などは少なすぎる。なぜなら、諸微聚には必ず形色があり、多くの極微が共に積集するからである。重性・軽性は必ずどちらかが伴い、滑性・澁性も同様にどちらかが伴う。あるいは、冷・飢・渇がある場所もある。そうならば、前述の数は少なすぎる過失がある。

処に基づいて説くなら、八、九、十などは多すぎる。四大種は触処に含まれるから、四つなどと説くべきであり、「八つ」などと言うのは多すぎる過失がある。

両方に過失はない。ここで言う「事」は、一部は体に基づいて説き(すなわち所依の大種)、一部は処に基づいて説く(すなわち能依の造色)と知るべきである。もしそうなら、大種の事は多くなるべきではないか。造色はそれぞれ別々であり、一つの四大種に依るからである。

ここでは体の種類に基づいて説くと知るべきである。諸大種は種類に違いがないからである。

なぜこのような言葉を分別するのか。言葉は欲に従って生じるものであり、意味はよく思考して選ぶべきである。

以上のように、色の定まった俱生(同時発生)を述べた。他の定まった俱生については、次に述べる。

偈頌に曰く、

心心所必俱, 諸行相或得。

心と心の働きは常に一緒にある。しかし、すべての行(現象)にその特徴が常にあるとは限らない。

論曰:心與心所必定俱生,隨闕一時餘則不起。諸行即是一切有為,謂色、心、心所、心不相應行。前必俱言流至於此,謂色心等諸行生時,必與有為四相俱起。言或得者,謂諸行內唯有情法與得俱生;餘法不然,是故言或。向言心所,何者是耶?頌曰:

論で述べる。心と心所(心の働き)は必ず同時に生じるものであり、どちらか一方が欠けている時には、他方も生じない。諸行とは、すなわち一切の有為法(因縁によって生じるもの)のことであり、具体的には色(物質)、心、心所、心不相応行(心と対応しない働き)を指す。先ほどの「必ず同時に」という言葉はここにも及ぶ。すなわち、色や心などの諸行が生じる時には、必ず有為の四相(生・住・異・滅)と共に生じるのである。「あるいは得(獲得)」と言うのは、諸行の中で、ただ有情(生きとし生けるもの)の法だけが得と共に生じるのであって、他の法はそうではない。それゆえに「あるいは」と言うのである。先に「心所」と言ったが、それは何であろうか。偈頌に曰く、

心所且有五, 大地法等異。

心には五つの心所があり、それぞれ大地法などと異なる。

論曰:諸心所法且有五品。何等為五?一、大地法;二、大善地法;三、大煩惱地法;四、大不善地法;五、小煩惱地法。地謂行處,若此是彼所行處,即說此為彼法地。大法地故名為大地,此中若法大地所有名大地法,謂法恒於一切心有。彼法是何?頌曰:

論にはこう述べられている。心に伴う諸々の働き(心所法)には、五つの種類がある。その五つとは何か。第一に大地法、第二に大善地法、第三に大煩悩地法、第四に大不善地法、第五に小煩悩地法である。「地」とは、その働きが生じる場所・基盤を意味する。もしあるものが、別のものの生じる場所であるならば、その場所を「その法の地」と呼ぶ。広大な法の地であるから「大地」と名づける。この大地に属する法を「大地法」と呼び、それは常にすべての心に存在する法である。では、その法とは何か。偈頌にこう示されている。

受想思觸欲, 慧念與作意,
勝解三摩地, 遍於一切心。

受・想・思・触・欲、慧・念・作意、そして勝解と三摩地——これらの心の働きは、あらゆる心に共通して現れるものです。

論曰:傳說:如是所列十法,諸心剎那和合遍有。此中受謂三種領納:苦、樂、俱非,有差別故。想謂於境取差別相。思謂能令心有造作。觸謂根境識和合生,能有觸對。欲謂希求所作事業。慧謂於法能有簡擇。念謂於緣明記不忘。作意謂能令心警覺。勝解謂能於境印可。三摩地謂心一境性。諸心心所異相微細,一一相續分別尚難,況一剎那俱時而有。有色諸藥色根所取,其味差別尚難了知,況無色法唯覺慧取。如是已說十大地法。大善法地名大善地,此中若法大善地所有名大善地法,謂法恒於諸善心有。彼法是何?頌曰:

論では次のように述べています。伝承によれば、以上に列挙した十の法は、心のすべての刹那に和合して遍く存在しています。

このうち「受」とは三種の領納をいいます。すなわち「苦」「楽」「倶非」であり、区別があるからです。

「想」とは、対象に対して区別の相を取ることです。

「思」とは、心に造作を起こさせることです。

「触」とは、根と境と識との和合によって生じ、触対することができることです。

「欲」とは、なすべき事業を希求することです。

「慧」とは、法に対して簡択することができることです。

「念」とは、対象を明記して忘れないことです。

「作意」とは、心を警覚させることです。

「勝解」とは、対象に対して印可することができることです。

「三摩地」とは、心の一境性です。

心と心所との異なる相は微細であって、一つ一つが相続するなかで分別することさえ難しいのです。ましてや一刹那に同時に存在するものを分別することは、なおさら難しいのです。

色あるもろもろの薬は色根によって取られますが、その味の区別さえも知りがたいのです。ましてや無色の法はただ覚慧によってのみ取られるのですから、なおさらです。

以上のように、十大地法についてすでに説きました。

大善法地を大善地といいます。このうち、法が大善地に属するものを大善地法と名づけます。すなわち、その法が常に諸々の善心にあるものをいうのです。

その法とは何でしょうか。頌には次のようにいいます。

信及不放逸, 輕安捨慚愧,
二根及不害, 勤唯遍善心。

信と不放逸(気を抜かないこと)、軽安(心身の安らぎ)と捨(こだわらないこと)、慚(恥じる心)と愧(罪を恥じる心)、

これら二つの根(信と不放逸)と不害(他を傷つけないこと)、そして精進(努力)は、すべて善い心に広く働くものである。

論曰:如是諸法唯遍善心。此中信者令心澄淨。有說:於諦寶業果中現前忍許故名為信。不放逸者,修諸善法離諸不善法。復何名修?謂此於善專注為性。餘部經中有如是釋。能守護心名不放逸。輕安者謂心堪任性。豈無經亦說有身輕安耶?雖非無說,此如身受應知亦爾,如何可立此為覺支?應知此中身輕安者身堪任性。復如何說此為覺支?能順覺支故無有失。以身輕安能引覺支心輕安故。於餘亦見有是說耶?有,如經說:喜及順喜法名喜覺支。瞋及瞋因緣名瞋恚蓋。正見、正思惟、正勤名慧蘊。思惟及勤雖非慧性,隨順慧故亦得慧名,故身輕安順覺支故得名無失。心平等性、無警覺性說名為捨。如何可說於一心中有警覺性、無警覺性?作意與捨二相應起。豈不前說諸心心所其相微細難可了知。有雖難了,由審推度而復可知。此最難知,謂相違背而不乖反。此有警覺於餘則無,二既懸殊有何乖反?若爾,不應同緣一境,或應一切皆互相應。如是種類所餘諸法,此中應求,如彼理趣,今於此中應知亦爾。慚、愧二種如後當釋。二根者,謂無貪、無瞋,無癡善根慧為性,故前已說在大地法中,不重說為大善地法。言不害者,謂無損惱。勤謂令心勇悍為性。如是已說大善地法。大煩惱法地名大煩惱地,此中若法大煩惱地所有名大煩惱地法,謂法恒於染污心有。彼法是何?頌曰:

論では次のように説かれる。これらの法はすべて善心にのみ遍く存在する。その中の「信」とは、心を清らかに澄ませるものである。ある師は説く、「諦・宝・業果において現前に忍び許すことを『信』と名づける」と。「不放逸」とは、諸々の善法を修し、諸々の不善法を離れることである。では「修」とは何か。それは善に対して専心し、集中することを本性とする。他の部派の経典には、次のような解釈もある。「心を守り保つことを不放逸と名づける」と。「軽安」とは、心が堪え忍ぶ性質(心堪任性)をいう。身の軽安も経に説かれているではないか。確かに説かれてはいるが、これは「身の受」と同じように理解すべきである。では、どうしてこれを覚支と立てることができるのか。ここでいう身の軽安とは、身体が堪え忍ぶ性質のことである。さらに、どうしてこれを覚支と説くのか。覚支に順ずるからであり、過失はない。身の軽安が覚支の心の軽安を引き起こすからである。他にもこのような説き方があるだろうか。ある。例えば経に説く。「喜びおよび喜びに順ずる法を喜覚支と名づける」「瞋および瞋の因縁を瞋恚蓋と名づける」「正見・正思惟・正勤を慧蘊と名づける」と。思惟や勤は慧の性質ではないが、慧に随順するから慧という名を得る。同様に、身の軽安も覚支に順ずるから、その名を得ることに過失はない。心の平等性と無警覚性を「捨」と名づける。では、どうして一つの心に警覚性と無警覚性が同時に存在すると言えるのか。作意と捨は二つが相応して生起するのである。先に、諸々の心・心所はその相が微細で了知し難いと説いたではないか。たとえ了知し難くても、深く推し量ることによって知ることができる。しかしこの中で最も知り難いのは、相違して背き合いながらも乖反しないことである。これには警覚があり、他には警覚がない。両者がこれほど懸け離れていても、何の乖反があろうか。もしそうならば、同じ境を縁とすべきではないか、あるいはすべてが互いに相応すべきではないか。このような種類の他の法については、ここで求めるべきである。あの道理に従えば、今ここでも同様に理解すべきである。「慚」と「愧」の二つは後で詳しく解釈する。二根とは、無貪・無瞋のことである。無癡の善根は慧を本性とするので、先に大地法中に説かれた。ゆえに重ねて大善地法として説かないのである。「不害」とは、損ない悩ませることがないことである。「勤」とは、心を勇猛で悍ましいものにすることを本性とする。以上、大善地法を説き終えた。大煩惱法の地を大煩惱地と名づけ、この地に存在するすべての法を大煩惱地法と名づける。すなわち、常に染汚心に存在する法である。その法とは何か。偈頌に曰く、

癡逸怠不信, 惛掉恒唯染。

愚かさと怠け、そして怠慢、不信。心は沈み、散り乱れて、常に汚れに満ちている。

論曰:此中癡者所謂愚癡,即是無明無智無顯。逸謂放逸,不修諸善,是修諸善所對治法。怠謂懈怠,心不勇悍,是前所說勤所對治。不信者謂心不澄淨,是前所說信所對治。惛謂惛沈。對法中說:云何惛沈?謂身重性、心重性,身無堪任性、心無堪任性,身惛沈性、心惛沈性,是名惛沈。此是心所。如何名身?如身受言,故亦無失。掉謂掉舉,令心不靜。唯有如是六種,名大煩惱地法。豈不根本阿毘達磨中說有十種大煩惱地法,又於彼論不說惛沈。何者十?謂不信、懈怠、失念、心亂、無明、不正知、非理作意、邪勝解、掉舉、放逸。天愛!汝今但知言,至不閑意旨。意旨者何?謂失念、心亂、不正知、非理作意、邪勝解,已說彼在大地法中,不應重立為大煩惱地法。如無癡善根慧為體故,非大善地法,彼亦應爾。即染污念名為失念,染污等持名為心亂,諸染污慧名不正知,染污作意勝解名為非理作意及邪勝解故說。若是大地法亦大煩惱地法耶?應作四句。第一句,謂受、想、思、觸、欲。第二句,謂不信、懈怠、無明、掉舉、放逸。第三句,謂如前說念等五法。第四句,謂除前相。有執邪等持非即是心亂,彼作四句與此不同。又許惛沈通與一切煩惱相應,不說在大煩惱地法。於誰有過?有作是言:應說在此,而不說者順等持故。彼謂諸有惛沈行者速發等持,非掉舉行。誰惛沈行非掉舉行?誰掉舉行非惛沈行?此二未嘗不俱行故。雖爾,應知隨增說行。雖知說行隨用偏增,而依有體建立地法,故此地法唯六義成,此唯遍染心俱起非餘故。如是已說大煩惱地法。大不善法地名大不善地,此中若法大不善地所有名大不善地法,謂法恒於不善心有。彼法是何?頌曰。

論では次のように述べられている。ここで「癡」とは、いわゆる愚かさであり、すなわち無明・無智・無顯である。「逸」は放逸を意味し、諸々の善を修しないことであり、善を修することの対治法である。「怠」は懈怠を意味し、心が勇ましくなく、先に述べた精進の対治法である。「不信」とは、心が清らかに澄んでいないことであり、先に述べた信の対治法である。「惛」は惛沈を意味する。対法(アビダルマ)の中で説かれている:どのようなものが惛沈か。身体の重さ、心の重さ、身体の無堪任性、心の無堪任性、身体の惛沈性、心の惛沈性、これを惛沈と名付ける。これは心所である。どうして「身」と名付けるのか。身体に関する感覚を受けるように言うのと同様で、それゆえに誤りはない。「掉」は掉挙を意味し、心を静かならざらしめる。ただこの六種類のみがあり、大煩惱地法と名付けられる。根本アビダルマには十種の大煩惱地法があると説かれているのではないか。また、その論では惛沈については説かれていない。その十とは何か。すなわち、不信・懈怠・失念・心乱・無明・不正知・非理作意・邪勝解・掉挙・放逸である。天愛よ、汝はただ言葉を知るのみで、その意旨を理解していない。意旨とは何か。すなわち、失念・心乱・不正知・非理作意・邪勝解は、すでに大地法中に説かれているので、重ねて大煩惱地法として立てるべきではない。例えば、無癡の善根は慧を体とするがゆえに、大善地法ではないのと同じで、それらも同様である。すなわち、染汚した念を失念と名付け、染汚した等持を心乱と名付け、諸々の染汚した慧を不正知と名付け、染汚した作意と勝解を非理作意および邪勝解と説くのである。もし大地法であって大煩惱地法でもあるのか。四句で答えるべきである。第一句は、受・想・思・触・欲である。第二句は、不信・懈怠・無明・掉挙・放逸である。第三句は、先に説いた念等の五法である。第四句は、前述以外のものである。ある者は、邪等持は心乱とは同一ではないと執するが、その者の四句はこれとは異なる。また、惛沈は一切の煩惱と相応すると認められながら、大煩惱地法の中に説かれていない。誰に過失があるのか。ある者はこう言う:これはここに説かれるべきであるが、説かれないのは等持に順ずるからである。彼らは言う、諸々の惛沈の行を持つ者は速やかに等持を発するが、掉挙の行を持つ者はそうではないと。誰が惛沈の行を持ちながら掉挙の行を持たないのか。誰が掉挙の行を持ちながら惛沈の行を持たないのか。この二つは常に共に起こり、決して別々ではないのである。それにもかかわらず、随って増長するものに基づいて行を説くべきであると知るべきである。行の説は用の偏りに随うと知るが、有体に基づいて地法を建立するので、この地法はただ六つのみという義が成立する。これはただ染汚心に遍く共に起こり、それ以外にはないからである。このようにして大煩惱地法は説かれた。大不善地法について。大不善地と名付けられるものがあり、この中で、もし法が大不善地に属するものを大不善地法と名付ける。すなわち、恒に不善心に存在する法である。その法とは何か。頌に曰く。

唯遍不善心, 無慚及無愧。

唯不善心に遍くして、慚(はじ)と愧(はじ)もない。

論曰:唯二心所但與一切不善心俱,謂無慚、愧,故唯二種名此地法。此二法相如後當辯。如是已說大不善地法。小煩惱法地名小煩惱地,此中若法小煩惱地所有名小煩惱地法,謂法少分染污心俱。彼法是何?頌曰:

論で述べられているように、ただ二つの心作用(心所)だけが、すべての不善心と共に現れる。それは「無慚(はじを知らないこと)」と「無愧(おそれがないこと)」である。したがって、この二つのみがこの地の法とされる。この二つの法の特徴については、後で詳しく説明するであろう。以上のように、「大不善地法」については述べ終えた。

「小煩惱地」という名前は、小さな煩悩の領域を意味する。ここで、もしある法が小煩惱地に属するならば、それを「小煩惱地法」と呼ぶ。すなわち、心の汚れ(染污心)と共に現れる、ごく一部の法のことである。その法とは何か。偈頌(頌)で示そう。

忿覆慳嫉惱, 害恨諂誑憍,
如是類名為, 小煩惱地法。

忿・覆・慳・嫉・悩、 害・恨・諂・誑・憍、 このような類を名づけて、 小煩悩地の法とします。

論曰:如是類法唯修所斷,意識地起、無明相應、各別現行,故名為小煩惱地法。此法如後隨煩惱中當廣分別。如是已說五品心所。復有此餘不定心所,惡作、睡眠、尋、伺等法,此中應說。於何心品有幾心所決定俱生?頌曰:

論じて曰く、このような類の法はただ修所断のみであり、意識の地に起こり、無明と相応し、それぞれ別々に現行する。それゆえ小煩悩地の法と名づけます。この法については、後に随煩悩の中で広く分別するでしょう。このようにすでに五品の心所を説きました。さらにこれ以外に不定の心所があり、悪作・睡眠・尋・伺などの法があります。ここで説くべきです。どの心品にいくつの心所が決定して倶生するのでしょうか。頌に曰く。

欲有尋伺故, 於善心品中,
二十二心所, 有時增惡作。
於不善不共, 見俱唯二十,
四煩惱忿等, 惡作二十一,
有覆有十八, 無覆許十二,
睡眠遍不違, 若有皆增一。

欲界には尋と伺とがあるため、善心の分類の中では、 二十二の心所が働き、ときに悪作が加わります。 不善心のうち不共のものと、見と倶なるものには、ただ二十があり、 四つの煩悩と忿などでは、悪作を加えて二十一、 有覆の心では十八、無覆の心では十二とされます。 睡眠はすべてに妨げとならず、あれば皆それぞれに一つを加えます。

論曰:且欲界中心品有五,謂善唯一。不善有二,謂不共無明相應及餘煩惱等相應。無記有二,謂有覆無記及無覆無記。然欲界心定有尋伺故,善心品必二十二心所俱生,謂十大地法、十大善地法,及不定二,謂尋與伺。非諸善心皆有惡作,有時增數至二十三。惡作者何?惡所作體名為惡作。應知此中緣惡作法說名惡作,謂緣惡作心追悔性,如緣空解脫門說名為空,緣不淨無貪說為不淨。又見世間約所依處說能依事,如言一切村邑國土皆來集會。惡作即是追悔所依,故約所依說為惡作。又於果體假立因名,如說此六觸處應知名宿作業。若緣未作事,云何名惡作?於未作事亦立作名,如追悔言我先不作如是事業,是我惡作。何等惡作說名為善?謂於善惡不作作中心追悔性。與此相違名為不善。此二各依二處而起,若於不善不共心品,必有二十心所俱生,謂十大地法、六大煩惱地法、二大不善地法,并二不定,謂尋與伺。何等名為不共心品?謂此心品唯有無明,無有所餘貪煩惱等。於不善見相應心品,亦有二十心所俱生,名即如前不共品說。非見增故有二十一,以即於十大地法中慧用差別說為見故。言不善見相應心者,謂此心中或有邪見、或有見取、或戒禁取。於四不善貪、瞋、慢、疑煩惱心品,有二十一心所俱生,二十如不共,加貪等隨一。於前所說忿等相應隨煩惱品,亦二十一心所俱生,二十如不共,加忿等隨一。不善惡作相應心品,亦二十一心所俱生,謂即惡作第二十一。略說不善不共及見相應品中唯有二十,餘四煩惱及隨煩惱相應品中有二十一。若於無記有覆心品唯有十八心所俱生,謂十大地法、六大煩惱地法,并二不定,謂尋與伺。欲界無記有覆心者,謂與薩迦耶見及邊執見相應,此中見不增,應知如前釋。於餘無記無覆心品,許唯十二心所俱生,謂十大地法并不定尋伺。外方諸師欲令惡作亦通無記,此相應品便有十三心所俱起。應知睡眠與前所說一切心品皆不相違,通善不善無記性故。隨何品有即說此增,謂二十二至二十三,若二十三至二十四。不善無記如例應知。已說欲界心所俱生諸品定量,當說上界。頌曰:

論じて曰く、まず欲界の心には品が五つあります。すなわち善はただ一つです。不善は二つあり、不共無明と相応するものと、その他の煩悩などと相応するものです。無記は二つあり、有覆無記と無覆無記です。しかし欲界の心には必ず尋と伺があるため、善心の品には必ず二十二の心所が共に生じます。すなわち十の大地法、十の大善地法、および不定の二つ、尋と伺です。すべての善心に必ず悪作があるわけではなく、時に数が増えて二十三になることがあります。悪作とは何でしょうか。悪く作られたものの本体を悪作と名づけます。ここでは悪作を対象とするものを悪作と説くと知るべきです。すなわち悪作を対象とする心の追悔の性質であり、空を対象とする解脱門を空と名づけ、不浄を対象とする無貪を不浄と説くようなものです。また世間では、依拠する所について、それに依る事を説くのを見ます。たとえば「すべての村や邑や国土が皆集まってきた」と言うようなものです。悪作はすなわち追悔の依拠するところですから、依拠するところについて悪作と説くのです。また果の本体に仮に因の名を立てます。たとえば「この六つの触処は宿作業と知るべきである」と説くようなものです。もし未だ作さない事を対象とするならば、どうして悪作と名づけるのでしょうか。未だ作さない事にもまた「作」の名を立てます。たとえば追悔して「私は先にこのような事業を行わなかった、これが私の悪作である」と言うようなものです。どのような悪作を善と名づけるのでしょうか。善悪をなすこと、なさないことについての心の追悔の性質です。これと相違するものを不善と名づけます。この二つはそれぞれ二つの処に依って起こります。もし不善の不共心の品においては、必ず二十の心所が共に生じます。すなわち十の大地法、六の大煩悩地法、二の大不善地法、および二の不定、尋と伺です。何を不共心の品と名づけるのでしょうか。この心の品にはただ無明のみがあり、その他の貪などの煩悩がないものです。不善の見と相応する心の品においても、また二十の心所が共に生じ、その名は先の不共の品で説いたとおりです。見が増すからといって二十一があるのではなく、すなわち十の大地法の中で慧の働きの違いによって見と説くからです。不善の見と相応する心と言うのは、この心の中に、あるいは邪見があり、あるいは見取があり、あるいは戒禁取があるものです。四つの不善である貪・瞋・慢・疑の煩悩の心の品においては、二十一の心所が共に生じます。二十は不共の場合と同じで、貪などのいずれか一つを加えます。先に説いた忿などの相応する随煩悩の品においても、また二十一の心所が共に生じます。二十は不共の場合と同じで、忿などのいずれか一つを加えます。不善の悪作と相応する心の品においても、また二十一の心所が共に生じます。すなわち悪作が第二十一です。略して説けば、不善の不共および見と相応する品の中にはただ二十のみがあり、残りの四つの煩悩および随煩悩と相応する品の中には二十一があります。もし無記の有覆心の品においては、ただ十八の心所が共に生じます。すなわち十の大地法、六の大煩悩地法、および二の不定、尋と伺です。欲界の無記の有覆心とは、有身見および辺執見と相応するものをいいます。ここでは見は増えません。先の解釈のように知るべきです。その他の無記の無覆心の品においては、ただ十二の心所が共に生じると認められます。すなわち十の大地法および不定の尋と伺です。外方の諸師は悪作もまた無記に通じさせようと望み、この相応する品には十三の心所が共に起こるとします。睡眠は先に説いたすべての心の品と皆相違しないと知るべきです。善・不善・無記の性に通じるからです。どの品に有るかに随って、すなわちこれを増と説きます。二十二から二十三まで、もし二十三から二十四までです。不善と無記も例のように知るべきです。すでに欲界の心所が共に生じる諸品の定量を説きました。次に上界を説くべきです。頌に曰く。

初定除不善, 及惡作睡眠,
中定又除尋, 上兼除伺等。

初禅の定では不善と 悪作・睡眠を除き、 中間の定ではさらに尋を除き、 上の定では伺なども除きます。

論曰:初靜慮中於前所說諸心所法,除唯不善、惡作、睡眠,餘皆具有。唯不善者,謂瞋煩惱,除諂、誑、憍所餘忿等及無慚愧。餘皆有者,如欲界說。中間靜慮除前所除,又更除尋,餘皆具有。第二靜慮以上乃至無色界中除前所除,又除伺等。等者顯除諂、誑,餘皆如前具有。經說:諂誑極至梵天,眾相依故,上地無有。以大梵王處自梵眾,忽被馬勝苾芻問言:此四大種當於何位盡滅無餘?梵王不知無餘滅位,便矯亂答:我於此梵眾是大梵,自在作者、化者、生者、養者,是一切父。作是語已,引出眾外諂言愧謝,令還問佛。如是已說於諸界地諸心品中心所數量,今次當說於前所辯諸心所中少分差別。無慚無愧、愛之與敬差別云何?頌曰:

論じて曰く、初静慮においては、前に説いたもろもろの心所の法のうち、ただ不善と悪作と睡眠を除き、その余はみな具わっています。ただ不善とは、瞋の煩悩をいい、諂・誑・憍を除いたその余の忿など、および無慚・無愧を除きます。その余はみな具わるとは、欲界で説いたのと同じです。中間静慮では、前に除いたものを除き、さらに尋を除き、その余はみな具わっています。第二静慮以上、ないし無色界においては、前に除いたものを除き、さらに伺などを除きます。「など」とは諂・誑を除くことを示し、その余はみな前と同じく具わっています。経に説いています。諂と誑は極めて梵天にまで至りますが、諸々の相が相依るがゆえに、上の地には有りません。大梵王が自らの梵衆の中にいる時、ふいに馬勝苾芻に問われました。「この四大種は、どの位において尽き滅して余りがなくなるのでしょうか。」梵王は無余滅の位を知らなかったので、そこで偽り乱れて答えました。「私はこの梵衆において大梵であり、自在の作者であり、化者であり、生者であり、養者であり、一切の父です。」こう語り終えてから、梵衆の外に連れ出し、諂んで愧謝し、仏に還って問うようにさせました。このように、すでに諸々の界地において諸心品の中の心所の数量を説きました。今次に、前に弁じたもろもろの心所のうちの少分の差別を説くべきです。無慚と無愧、愛と敬の差別はどうでしょうか。頌に曰く。

無慚愧不重, 於罪不見怖,
愛敬謂信慚, 唯於欲色有。

無慚愧で重んじる心がなく、 罪に対して恐れを抱かないこと、 愛敬とはすなわち信と慚であり、 ただ欲界と色界にのみ存在します。

論曰:此中無慚無愧別者,於諸功德及有德者,無敬無崇、無所忌難、無所隨屬,說名無慚,即是恭敬所敵對法。為諸善士所訶厭法說名為罪,於此罪中不見怖畏說名無愧。此中怖言,顯非愛果能生怖故。不見怖言欲顯何義?為見而不怖名不見怖、為不見彼怖名不見怖?若爾何失?二俱有過。若見而不怖應顯智慧,若不見彼怖應顯無明。此言不顯見與不見,何所顯耶?此顯有法是隨煩惱為彼二因,說名無愧。有餘師說:於所造罪自觀無恥名曰無慚,觀他無恥說名無愧。若爾,此二所觀不同,云何俱起?不說此二一時俱起別觀自他。然有無恥,觀自時勝說名無慚。復有無恥,觀他時增說為無愧。慚愧差別翻此應知,謂翻初釋有敬有崇、有所忌難、有所隨屬說名為慚,於罪見怖說名為愧。翻第二釋,於所造罪自觀有恥說名為慚,觀他有恥說名為愧。已說無慚無愧差別。愛敬別者,愛謂愛樂,體即是信。然愛有二:一有染污、二無染污。有染謂貪,如愛妻子等。無染謂信,如愛師長等。有信非愛,謂緣苦集信。有愛非信,謂諸染污愛。有通信愛,謂緣滅道信。有非信愛,謂除前三相。有說:信者忍許有德,由此為先方生愛樂,故愛非信。敬謂敬重,體即是慚,如前解慚謂有敬等。有慚非敬,謂緣苦集慚。有通慚敬,謂緣滅道慚。有說:敬者有所崇重,由此為先方生慚恥,故敬非慚。望所緣境補特伽羅,愛敬有無應作四句。有愛無敬,謂於妻子共住門人等。有敬無愛,謂於他師有德貴人等。有愛有敬,謂於自師父母伯叔等。無愛無敬,謂除前三相。如是愛敬欲色界有,無色界無。豈不信慚大善地法無色亦有?愛敬有二,謂緣於法補特伽羅,緣法愛敬通三界有。此中意說緣補特伽羅者,故欲色有,無色界無。如是已說愛敬差別。尋、伺、慢、憍差別云何?頌曰:

論に曰く、このうち無慚と無愧の区別とは、もろもろの功徳および功徳ある者に対して、敬う心もなく尊ぶ心もなく、憚るところもなく、従うところもないことを、無慚と名づけます。これは恭敬と敵対する法です。もろもろの善き人々によって呵責され厭われる法を罪と名づけ、この罪に対して怖畏を見ないことを無愧と名づけます。ここで「怖」と言うのは、愛しくない果を生じることができるので怖れを生じる、という意味を示しています。「見れども怖れず」と言うのは何の意味を示そうとしているのでしょうか。見ていながら怖れないことを「不見怖」と名づけるのか、それともその怖れを見ないことを「不見怖」と名づけるのか。もしそうなら、どのような過失があるでしょうか。どちらにも過ちがあります。もし見ていながら怖れないのなら智慧を示すことになり、もしその怖れを見ないのなら無明を示すことになります。この言葉は見ることと見ないことを示すのではなく、何を示しているのでしょうか。これは、ある法が随煩悩であり、それら二つの因となることを示して、無愧と名づけます。ある師は説きます。造った罪に対して自ら顧みて恥じないことを無慚と名づけ、他を顧みて恥じないことを無愧と名づける、と。もしそうなら、この二つは顧みる対象が異なるのに、どうして同時に起こるのでしょうか。この二つが一時にともに起こり、別々に自と他を顧みるとは説きません。しかし、恥じない心があり、自らを顧みることが勝っているときを無慚と名づけます。また、恥じない心があり、他を顧みることが増しているときを無愧と名づけます。慚と愧の区別は、これと逆であると知るべきです。すなわち、最初の解釈を逆にすれば、敬う心があり尊ぶ心があり、憚るところがあり従うところがあることを慚と名づけ、罪に対して怖れを見ることを愧と名づけます。第二の解釈を逆にすれば、造った罪に対して自ら顧みて恥じることを慚と名づけ、他を顧みて恥じることを愧と名づけます。すでに無慚と無愧の区別を説きました。愛と敬の区別とは、愛とは愛楽をいい、その体はすなわち信です。しかし愛には二つあります。一つは染汚れた愛、二つは染汚れのない愛です。染汚れたものとは貪であり、妻子などを愛するようなものです。染汚れのないものとは信であり、師長などを敬愛するようなものです。信であって愛でないものとは、苦と集を対象とする信です。愛であって信でないものとは、もろもろの染汚れた愛です。信と愛を通じるものとは、滅と道を対象とする信です。信でも愛でもないものとは、前三つの相を除いたものです。ある師は説きます。信とは徳を認め許すことであり、これに先立たれて初めて愛楽が生じるので、愛は信ではない、と。敬とは敬重をいい、その体はすなわち慚であり、先に解釈したように慚とは敬う心などがあることをいいます。慚であって敬でないものとは、苦と集を対象とする慚です。慚と敬を通じるものとは、滅と道を対象とする慚です。ある師は説きます。敬とは崇め重んじることであり、これに先立たれて初めて慚恥の心が生じるので、敬は慚ではない、と。対象となる境と人に対して、愛と敬の有無について四句を作るべきです。愛はあるが敬はないものとは、妻子や共に住む門人などに対するものです。敬はあるが愛はないものとは、他の師や功徳ある貴人などに対するものです。愛もあり敬もあるものとは、自分の師や父母や伯叔などに対するものです。愛もなく敬もないものとは、前三つの相を除いたものです。このように愛と敬は欲界と色界にはあり、無色界にはありません。まさか信と慚という大善地の法が無色界にもあるのに、ないのではないか、と思われるでしょうか。愛と敬には二つあり、法を対象とするものと人を対象とするものです。法を対象とする愛と敬は三界に通じてあります。ここでは人を対象とするものを意味しているので、欲界と色界にはあり、無色界にはないのです。このようにすでに愛と敬の区別を説きました。尋・伺・慢・憍の区別はどのようなものでしょうか。頌に曰く。

尋伺心麁細, 慢對他心舉,
憍由染自法, 心高無所顧。

尋と伺は心の粗さ細かさであり、 慢は他に対して心を高く掲げることであり、 憍は自らの法に染まることによって、 心が高ぶり顧みるものがなくなることです。

論曰:尋伺別者,謂心麁細,心之麁性名尋,心之細性名伺。云何此二一心相應?有作是釋:如冷水上浮以熟酥,上烈日光之所照觸,酥因水日非釋非凝。如是一心有尋有伺,心由尋伺不遍細麁,故於一心俱有作用。若爾,尋伺是麁細因,非麁細體,如水日光是凝釋,日體非凝釋。又麁細性相待而立,界地品別上下相形,乃至有頂應有尋伺。又麁細性無別體類,不可依之以別尋伺。復有釋言:尋伺二法是語言行,故契經言:要有尋伺方有語言,非無尋伺此語言行。麁者名尋,細者名伺,於一心內別法是麁、別法是細,於理何違?若有別體類,理實無違;然無別體類,故成違理,一體類中無容上下俱時起故。若言體類亦有差別,應說體類別相云何。此二體類別相難說,但由上下顯其別相,非由上下能顯別相,一一類中有上下故。由是應知,尋伺二法定不可執一心相應。若爾,云何契經中說:於初靜慮具足五支。具五支言就一地說,非一剎那,故無有過。如是已說尋伺差別。慢憍別者,慢謂對他心自舉性,稱量自他德類差別,心自舉恃𣣋蔑於他故名為慢。憍謂染著自法為先,令心傲逸無所顧性。有餘師說:如因酒生欣舉差別說名為醉,如是貪生欣舉差別說名為憍。是謂慢憍差別之相。如是已說諸心心所品類不同俱生異相。然心心所於契經中隨義建立種種名想,今當辯此名義差別。頌曰:

論の言葉:尋と伺の区別とは、すなわち心の粗さと細かさのことです。心の粗い性質を尋と呼び、心の細やかな性質を伺と呼びます。では、この二つはどのようにして一つの心と相应するのでしょうか。ある説によれば、冷たい水の上に熟酥を浮かべ、その上を強い日光が照らすとき、酥は水と日の光によって溶けもせず固まりもしないようなものです。同じように、一つの心に尋も伺もあり、心は尋と伺とによって粗さにも細かさにも偏らないため、一つの心に同時に両方の働きがあるのです。もしそうならば、尋と伺は粗さと細かさの原因であり、粗さと細かさそのものではないことになります。ちょうど水と日光が凝固と溶解の原因であり、日の光そのものが凝固や溶解ではないのと同じです。また、粗さと細かさという性質は互いに対比して成り立つものであり、界や地の区別、品の違いによって上下が相対的に形作られるならば、有頂天に至るまで尋と伺があるはずです。また、粗さと細かさという性質には別個の本体や類別があるわけではないので、それによって尋と伺を区別することはできません。別の説によれば、尋と伺の二つの法は語言の行であるため、経典に「必ず尋と伺があってこそ語言があり、尋と伺なしにこの語言の行はない」と説かれています。粗いものを尋と呼び、細かいものを伺と呼び、一つの心の中で別の法が粗く、別の法が細かいとして、道理に何の反する所があるでしょうか。もし別個の本体や類別があるならば、道理上確かに反しません。しかし別個の本体や類別がないので、道理に反することになり、一つの本体や類別の中に上下が同時に起こることはありえないのです。もし本体や類別にも差別があると言うならば、本体や類別の別相がどのようなものかを説くべきです。この二つの本体や類別の別相は説き難く、ただ上下によってその別相を表すだけであって、上下によって別相を表すことができるのではなく、一つ一つの類の中に上下があるからです。したがって知るべきです。尋と伺の二つの法は、必ず一つの心と相应すると執着してはなりません。では、なぜ経典に「初静慮には五支が具わっている」と説かれているのでしょうか。「五支が具わっている」という言葉は一つの地について説かれたものであり、一刹那についてではないので、過ちはありません。以上のように尋と伺の区別を説きました。慢と憍の区別とは、慢とは他に対して心が自ら高ぶる性質であり、自他の徳や類の差別を秤量して、心が自ら恃み誇り他を軽蔑することを慢と名づけます。憍とは自らの法に染着することを先として、心を傲逸にし顧みる所のない性質です。またある師は説きます。酒によって欣び高ぶる差別が生じるのを酔と名づけるように、貪りによって欣び高ぶる差別が生じるのを憍と名づけるのです。これが慢と憍の区別の相です。以上のように、諸々の心と心所の品類が異なり、俱に生じる異なる相を説きました。しかし心と心所は経典の中で義に随って種々の名想を建立しています。今ここでこの名前と意味の差別を論じましょう。頌に曰く:

心意識體一, 心心所有依,
有緣有行相, 相應義有五。

心と意と識の本体は一つであり、 心と心所には依るところがあり、 対象があり、現れ方もあり、 相応するという意味には五つがあります。

論曰:集起故名心,思量故名意,了別故名識。復有釋言:淨不淨界種種差別故名為心,即此為他作所依止故名為意,作能依止故名為識。故心、意、識三名所詮,義雖有異而體是一。如心意識三名所詮義異體一,諸心心所名有所依所緣、行相相應亦爾,名義雖殊而體是一。謂心心所皆名有所依,託所依根故。或名有所緣,取所緣境故。或名有行相,即於所緣品類差別等起行相故。或名相應,等和合故。依何義故名等和合?有五義故,謂心心所五義平等故說相應,所依所緣行相時事皆平等故。事平等者,一相應中如心體一,諸心所法各各亦爾。已說心心所廣分別義。心不相應行何者是耶?頌曰:

論じて曰く、集まり起こるという意味から心と名づけ、思い量るという意味から意と名づけ、了別するという意味から識と名づけます。また別の解釈によれば、浄・不浄の界に種々の差別があるという意味から心と名づけ、まさにこれが他に対して所依となるという意味から意と名づけ、能依となるという意味から識と名づけます。したがって心・意・識という三つの名称が示す内容は、その意味には違いがあっても、その本体は一つです。心・意・識の三名が示す内容に意味の違いがありながら本体が一つであるように、さまざまな心と心所が「有所依」「有所縁」「有行相」「相応」と名づけられる場合もまた同様で、名称と意味に違いがあっても本体は一つです。すなわち、心と心所はすべて有所依と名づけられます。所依の根に託しているからです。あるいは有所縁と名づけられます。所縁の境を取るからです。あるいは有行相と名づけられます。まさに所縁の品類の差別などに対して行相を起こすからです。あるいは相応と名づけられます。等しく和合しているからです。どのような意味によって等和合と名づけるのでしょうか。五つの意味があるからです。すなわち心と心所には五つの意味が平等であるため、相応と言います。所依・所縁・行相・時・事がすべて平等だからです。事が平等であるとは、一つの相応の中で心の本体が一つであるように、もろもろの心所の法もそれぞれがまたそのようであるということです。すでに心と心所について広く分別する意味を説きました。心不相応行とは何でしょうか。頌に曰く、

心不相應行, 得非得同分,
無想二定命, 相名身等類。

心不相応行は、得・非得・同分、 無想・二つの定・命根、 相・名身などの類です。

論曰:如是諸法心不相應,非色等性,行蘊所攝,是故名心不相應行。於中且辯得非得相。頌曰:

論じて言う。このように、これらの法は心と相応せず、色などの性質でもなく、行蘊に含まれるものであります。それゆえ、心不相応行と名づけます。その中で、まず得と非得の相について論じましょう。頌に言います。

得謂獲成就, 非得此相違,
得非得唯於, 自相續二滅。

得とは成就を得ることをいい、得ないとはこれに相反するものです。 得と非得は、ただ自らの相続において、二つの滅に関してのみ成り立ちます。

論曰:得有二種,一者未得已失今獲、二者得已不失成就,應知非得與此相違。於何法中有得非得?於自相續及二滅中。謂有為法若有墮在自相續中有得非得,非他相續,無有成就他身法故。非非相續,無有成就非情法故。且有為法決定如是,無為法中唯於二滅有得非得。一切有情無不成就非擇滅者,故對法中傳說如是:誰成無漏法?謂一切有情,除初剎那具縛聖者及餘一切具縛異生,諸餘有情皆成擇滅。決定無有成就虛空,故於虛空不言有得,以得無故非得亦無。宗明得非得,相翻而立故。諸有得者亦有非得,義准可知,故不別釋。何緣知有別物名得?契經說故。如契經言:聖者於彼十無學法,以生以得以成就故,已斷五支,乃至廣說。若爾,非情及他相續亦應成就。所以者何?契經說故。如契經說:苾芻當知,有轉輪王成就七寶,乃至廣說。此中自在說名成就,謂轉輪王於彼七寶有自在力,隨樂轉故。此既自在說名成就,餘復何因知有別物?許有別物有何非理?如是非理,謂所執得無體可知,如色聲等或貪瞋等;無用可知,如眼耳等,故無容有別物名得。執有別物,是為非理。若謂此得亦有作用,謂作所得諸法生因,是則無為應無有得。又所得法未得已捨,界地轉易及離染故。彼現無得,當云何生?若俱生得為生因者,生與生生復何所作?又非情法應定不生。又具縛者,下中上品煩惱現起差別應無,得無別故。若由餘因有差別者,即應由彼諸法得生,得復何用?故彼所言得有作用,謂作所得諸法生因,理不成立。誰言此得作法生因?若爾,此得有何作用?謂於差別為建立因。所以者何?若無有得,異生聖者起世俗心,應無異生及諸聖者建立差別。豈不煩惱已斷、未斷有差別故,應有差別?若執無得,如何可說煩惱已斷及與未斷?許有得者斷未斷成,由煩惱得離未離故。此由所依有差別故,煩惱已斷未斷義成。謂諸聖者見修道力,令所依身轉變異本,於彼二道所斷惑中無復功能令其現起。猶如種子火所焚燒,轉變異前無能生用。如是聖者所依身中無生惑能名煩惱斷。或世間道損所依中煩惱種子亦名為斷,與上相違名為未斷。諸未斷者說名成就,諸已斷者名不成就,如是二種但假非實。善法有二:一者不由功力修得、二者要由功力修得,即名生得及加行得。不由功力而修得者,若所依中種未被損名為成就,若所依中種已被損名不成就。謂斷善者由邪見力損所依中善根種子應知名斷,非所依中善根種子畢竟被害說名為斷。要由功力而修得者,若所依中彼法已起生彼功力自在無損說名成就,與此相違名不成就。如是二種亦假非實。故所依中唯有種子未拔未損增長自在,於如是位立成就名,無有別物。此中何法名為種子?謂名與色於生自果所有展轉隣近功能,此由相續轉變差別。何名轉變?謂相續中前後異性。何名相續?謂因果性三世諸行。何名差別?謂有無間生果功能。然有處說,若成就貪便不能修四念住者。彼說:耽著貪煩惱者,不能厭捨,故名成就。由隨耽著貪愛時分,於四念住必不能修。如是成就遍一切種,唯假非實。唯遮於此名不成就,亦假非實。毘婆沙師說:此二種皆有別物實而非假。如是二途皆為善說。所以者何?不違理故、我所宗故。已辯自性,差別云何?且應辯得。頌曰:

論じて曰く、得には二種あります。一つは未だ得ず、すでに失い、今まさに獲得すること。二つはすでに得て失わず、成就することです。非得はこれと相反するものと知るべきです。どのような法に得と非得があるのでしょうか。自己の相続と二つの滅においてです。すなわち有為法が自己の相続に属している場合には得と非得があり、他人の相続にはありません。他身の法を成就することはないからです。また非相続でもありません。非情の法を成就することはないからです。ただ有為法は必ずこの通りであり、無為法の中ではただ二つの滅にのみ得と非得があります。すべての有情は非択滅を成就しない者はありません。それゆえ対法の中に次のように伝えられています。誰が無漏法を成就するのか。それはすべての有情です。ただし初刹那の具縛の聖者と、その他のすべての具縛の異生を除きます。その他の有情は皆、択滅を成就します。虚空を成就する者は決定してありません。それゆえ虚空については得があると言いません。得がないからには非得もありません。宗は得と非得を明らかにし、相に対して立てられるからです。得ある者には非得もまたあります。意味から推し量って知ることができるので、別に解釈しません。何の理由で得という別の物があると知るのでしょうか。契経に説かれているからです。契経に言う通りです。聖者はかの十無学法を、生じ、得、成就するがゆえに、すでに五支を断じ、乃至広説します。もしそうなら、非情および他相続もまた成就するはずです。なぜなら、契経に説かれているからです。契経に説く通りです。苾芻よ、知るべきです。転輪王は七宝を成就し、乃至広説します。ここでは自在を成就と言います。転輪王はかの七宝に対して自在の力があり、楽しみに随って転ずるからです。これが自在を成就と言うのなら、他に何の理由で別の物があると知るのでしょうか。別の物があると認めて何の不合理があるのでしょうか。そのような不合理があります。いわゆる執着する得は、体を知ることができません。色声などのように、あるいは貪瞋などのように。また作用を知ることができません。眼耳などのように。それゆえ別の物が得と名づけられることはありえません。別の物があると執着するのは、不合理です。もしこの得にも作用があると言うなら、すなわち所得の諸法の生因となると言うなら、それなら無為には得がないはずです。また所得の法が未だ得ず已に捨てられ、界地が転易し、および離染するからです。それが現に得がなければ、どうして生じるのでしょうか。もし倶生の得が生因であるなら、生と生生はまた何の作用をするのでしょうか。また非情の法は必ず生じないはずです。また具縛の者には、下中上品の煩悩が現起する差別がないはずです。得に別がないからです。もし他の因によって差別があるなら、すなわちそれによって諸法が生じるはずです。得に何の用があるのでしょうか。それゆえ彼の言う、得に作用があり、所得の諸法の生因となると言うのは、道理が成立しません。誰がこの得が法の生因となると言うのでしょうか。もしそうなら、この得には何の作用があるのでしょうか。すなわち差別に対して建立の因となります。なぜなら、もし得がなければ、異生と聖者が世俗の心を起こすとき、異生および諸聖者の建立の差別がないはずです。煩悩がすでに断じられたか未だ断じられていないかの差別があるから、差別があるはずではないでしょうか。もし得がないと執着するなら、どうして煩悩がすでに断じられたか未だ断じられていないと言えるのでしょうか。得があると認める者は、断と未断が成立します。煩悩の得が離れているか離れていないかによります。これは所依に差別があるから、煩悩がすでに断じられたか未だ断じられていないかの意味が成立します。すなわち諸聖者は見修道の力によって、所依の身を転変させて本と異ならせ、かの二道で断じられた惑の中に、もはや機能がなくしてそれを現起させます。ちょうど種子が火に焚かれて、転変して前と異なり、生じる作用がないようなものです。このように聖者の所依の身中に惑を生じる能がなく、煩悩が断じられたと名づけます。あるいは世間道が所依を損じ、その中の煩悩の種子もまた断と名づけます。上と相違するものを未断と名づけます。未だ断じない者を成就と説き、すでに断じた者を不成就と名づけます。この二種はただ仮であり実ではありません。善法に二つあります。一つは功力によらずして修得するもの、二つは必ず功力によって修得するもので、すなわち生得と加行得と名づけます。功力によらずして修得するものは、所依の中に種が未だ損じられていないなら成就と名づけ、所依の中に種がすでに損じられているなら不成就と名づけます。すなわち善を断じた者は邪見の力によって所依の中の善根の種子を損じ、断と名づけるべきと知るべきです。所依の中の善根の種子が畢竟して害されたのを断と名づけるのではありません。必ず功力によって修得するものは、所依の中にかの法がすでに起こり、かの功力を生じて自在にして損なわれないなら成就と名づけ、これと相違するものを不成就と名づけます。この二種もまた仮であり実ではありません。それゆえ所依の中にただ種子が未だ抜かれず未だ損じられず増長し自在である、このような位に成就の名を立てるのであって、別の物はありません。ここで何の法を種子と名づけるのでしょうか。すなわち名と色が自果を生じるすべての展転隣近の功能であり、これは相続の転変差別によります。何を転変と名づけるのでしょうか。相続の中の前後の異性です。何を相続と名づけるのでしょうか。因果性の三世の諸行です。何を差別と名づけるのでしょうか。間断なく果を生じる功能があることです。しかしある処に説いています。もし貪を成就すれば、すなわち四念住を修することができないと。それは説きます。貪の煩悩に耽著する者は、厭捨することができない、それゆえ成就と名づけます。貪愛に耽著する時分に随って、四念住を必ず修することができないからです。このように成就は一切種に遍じますが、ただ仮であり実ではありません。ただこれを遮するものを不成就と名づけ、また仮であり実ではありません。毘婆沙師は説きます。この二種には皆、別の物が実としてあり、仮ではないと。このように二つの道は皆、善説です。なぜなら、道理に違わないから、我が宗であるからです。すでに自性を弁じました。差別はどうでしょうか。まず得を弁じるべきです。頌に曰く。

三世法各三, 善等唯善等,
有繫自界得, 無繫得通四,
非學無學三, 非所斷二種。

三世の法にはそれぞれ三つがあり、 善などの法はただ善などであるにとどまります。 有繋の法は自界によって得られ、 無繋の法は四通によって得られます。 非学・無学は三つであり、 非所断は二つの種類があります。

論曰:三世法得各有三種,謂過去法有過去得、有未來得、有現在得,如是未來及現在法各有三得。又善等法得唯善等,謂善不善及無記法,如其次第,有善不善無記三得。又有繫法得唯自界,謂欲色界無色界法,如其次第唯有欲色無色三得。若無繫法得通四種,謂無漏法總而言之得有四種,即三界得及無漏得。別分別者,非擇滅得,通三界繫。若擇滅得,色無色繫及與無漏。道諦得,唯無漏故。無繫法得,有四種。又有學法得唯有學,若無學法得唯無學,非學非無學得有差別,謂此法得總說有三,別分別者一切有漏及三無為皆名非學非無學法。且有漏法唯有非學非無學得,非擇滅得。及非聖道所引擇滅得亦如是,若有學道所引擇滅得即有學,若無學道所引擇滅得即無學。又見修所斷法,如其次第有見修所斷得。非所斷法得有差別,謂此法得總說有二,別分別者,諸無漏法名非所斷,非擇滅得唯修所斷。若非聖道所引擇滅得亦如是。聖道所引擇滅之得及道諦得,皆非所斷。前雖總說三世法各三,今應簡別其中差別相。頌曰:

論じて曰く、三世の法の得にはそれぞれ三種があります。すなわち過去の法には過去の得があり、未来の得があり、現在の得があります。このように未来と現在の法にもそれぞれ三つの得があります。また善などの法の得はただ善などに限られます。すなわち善・不善および無記の法には、その順に従って善・不善・無記の三つの得があります。また繋に属する法の得はただ自界のみです。すなわち欲界・色界・無色界の法には、その順に従ってただ欲・色・無色の三つの得があるだけです。もし繋に属さない法の得であれば四種に通じます。すなわち無漏の法には、総じて言えば四種の得があります。つまり三界の得と無漏の得です。個別に分別すれば、非択滅の得は三界の繋に通じます。もし択滅の得であれば、色界・無色界の繋および無漏に通じます。道諦の得はただ無漏のみです。したがって繋に属さない法の得には四種があります。また有学の法の得はただ有学のみであり、もし無学の法の得であればただ無学のみです。非学非無学の得には区別があります。すなわちこの法の得は、総じて説けば三つあります。個別に分別すれば、一切の有漏および三つの無為は皆、非学非無学法と名づけられます。そして有漏の法にはただ非学非無学の得と非択滅の得があるだけです。また非聖道に引き起こされた択滅の得も同様です。もし有学道に引き起こされた択滅の得であれば有学であり、もし無学道に引き起こされた択滅の得であれば無学です。また見所断と修所断の法には、その順に従って見所断と修所断の得があります。非所断の法の得には区別があります。すなわちこの法の得は、総じて説けば二つあります。個別に分別すれば、諸々の無漏の法は非所断と名づけられ、非択滅の得はただ修所断のみです。もし非聖道に引き起こされた択滅の得も同様です。聖道に引き起こされた択滅の得および道諦の得は、皆、非所断です。前に総じて三世の法にそれぞれ三つあると説きましたが、今ここでその中の差別相を簡別すべきです。頌に曰く。

無記得俱起, 除二通變化,
有覆色亦俱, 欲色無前起。

無記は俱に起きることを得るが、 二つの通と変化とは除かれます。 有覆の色もまた俱に起こり、 欲界と色界には前に起きることはありません。

論曰:無覆無記得唯俱起,無前後生,勢力劣故。法若過去得亦過去,法若未來得亦未來,法若現在得亦現在。一切無覆無記法得皆如是耶?不爾。云何?除眼耳通及能變化。謂眼耳通慧及能變化心,勢力強故、加行差別所成辦故,雖是無覆無記性收,而有前後及俱起得。若工巧處及威儀路極數習者,得亦許爾。唯有無覆無記法得但俱起耶?不爾。云何?有覆無記色得亦爾。謂諸有覆無記表色得亦如前,但有俱起。雖有上品而亦不能發無表故勢力微劣,由此定無法前後得。如無記法得有別異,善不善得亦有異耶?亦有。云何?謂欲界繫善不善色得無前起,唯有俱生及後起得。非得如得,亦有如上品類別耶?不爾。云何?頌曰:

論じて曰く、無覆無記の得はただ俱起のみにして、前後に生ずることなし。勢力が劣っているからです。法がもし過去ならば得もまた過去であり、法がもし未来ならば得もまた未来であり、法がもし現在ならば得もまた現在です。すべての無覆無記の法の得は皆このようなのでしょうか。そうではありません。どのようでしょうか。眼耳通と能変化を除きます。眼耳通の慧と能変化の心は、勢力が強いため、加行の差別によって成辦されるため、無覆無記の性に収まっていても、前後の得と俱起の得があります。工巧処や威儀路を極めて多く習熟した者も、得はまた同様であることが認められます。ただ無覆無記の法の得だけが俱起なのでしょうか。そうではありません。どのようでしょうか。有覆無記の色の得もまた同様です。もろもろの有覆無記の表色の得もまた前述のごとくであり、ただ俱起のみです。上品があってもまた無表を発することができないため、勢力が微弱であり、それゆえ必ず法の前後の得はありません。無記法の得に別異があるように、善不善の得にもまた別異があるのでしょうか。またあります。どのようでしょうか。欲界に繋なる善不善の色の得には前起がなく、ただ俱生の得と後起の得があるのみです。非得は得のごとく、また上述のような品類の別があるのでしょうか。そうではありません。どのようでしょうか。頌に曰く。

非得淨無記, 去來世各三,
三界不繫三, 許聖道非得,
說名異生性, 得法易地捨。

非得とは、浄と無記とであり、 過去・未来・現在の三世にそれぞれ三種があり、 三界に繫(つな)がれないものにも三種があります。 聖道の非得であるものが、 異生性と名づけられると説かれます。 法を得たときや、地を易(か)えるときに捨てられます。

論曰:性差別者,一切非得皆唯無覆無記性攝。世差別者,過去未來各有三種,謂現在法決定無有現在非得,唯有過去未來非得,過去未來一一各有三世非得。界差別者,三界繫法及不繫法各三非得,謂欲界繫法有三界非得,色無色界繫及不繫亦爾。定無非得是無漏者。所以者何?由許聖道非得,說名異生性故。如本論言:云何異生性?謂不獲聖法。不獲即是非得異名,非說異生性是無漏應理。不獲何聖法名異生性?謂不獲一切,不別說故。此不獲言,表離於獲。若異此者,諸佛世尊亦不成就聲聞獨覺種性聖法,應名異生。若爾,彼論應說純言不要須說,此一句中含純義故,如說此類食水食風。有說:不獲苦法智忍及俱生法名異生性。不可難言道類智時捨此法故應成非聖,前已永害彼非得故。若爾,此性既通三乘,不獲何等名異生性?此亦應言不獲一切。若爾,此應同前有難。此難復應如前通釋。若爾,重說唐捐其功。如經部師,所說為善。經部所說其義云何?謂曾未生聖法相續分位差別名異生性。如是非得何時當捨?此法非得,得此法時或轉易地捨此非得。如聖道非得說名異生性,得此聖道時或易地便捨。餘法非得,類此應思。若非得得斷,非得非得生,如是名為捨於非得。得與非得,豈復有餘得與非得?應言此二各復有餘得及非得。若爾,豈不有無窮過?無無窮過,許得展轉更相成故。以法生時并其自體三法俱起,第一本法、第二法得、第三得得。謂相續中法得起故成就本法及與得得,得得起故成就法得,是故此中無無窮過。如是若善若染污法,一一自體初生起時并其自體三法俱起,第二剎那六法俱起,謂三法得及三得得,第三剎那十八俱起,謂於第一第二剎那所生諸法,有九法得及九得得。如是諸得後後轉增。一切過去未來煩惱及隨煩惱并生得善剎那剎那相應,俱有無始無終生死輪轉有無邊得,且一有情生死相續剎那剎那起無邊得,如是一切有情相續一一各別,剎那剎那無量無邊諸得俱起。如是諸得極多集會,無對礙故互相容受。若不爾者,一有情得虛空不容,況第二等。

論じて曰く、性の差別とは、すべての非得はみな無覆無記の性に摂められるということです。世の差別とは、過去と未来にそれぞれ三種があり、すなわち現在の法には決定して現在の非得はなく、ただ過去と未来の非得のみがあり、過去と未来のそれぞれに三世の非得があるということです。界の差別とは、三界に繋がる法と繋がらない法にそれぞれ三つの非得があり、すなわち欲界に繋がる法には三界の非得があり、色界・無色界に繋がる法および繋がらない法も同様であるということです。決定して無漏である非得はありません。なぜでしょうか。聖道の非得を認めて、これを異生性と名づけるからです。本論に言うとおりです。云何なるを異生性とするか。聖法を得ないことであると。得ないこととは、すなわち非得の異名であり、異生性が無漏であると言うのは道理に合いません。どの聖法を得ないことを異生性と名づけるのでしょうか。すべてを得ないことを言い、特に区別して説かないからです。この得ないという言葉は、得から離れていることを表しています。もしこれと異なるならば、諸仏世尊も声聞・独覚の種性の聖法を成就されないことになり、異生と名づけるべきです。もしそうならば、かの論には純という言葉を説くべきで、わざわざ説く必要はなく、この一句の中に純の意味が含まれているからです。たとえば、この類の者は水を食し風を食すと言うようなものです。ある説によれば、苦法智忍およびそれと俱生の法を得ないことを異生性と名づけます。道類智の時にこの法を捨てるからといって、非聖となるべきだと難じてはなりません。すでに前に彼の非得を永く害しているからです。もしそうならば、この性はすでに三乗に通じるので、何を得ないことを異生性と名づけるのでしょうか。これもまた、すべてを得ないと言うべきです。もしそうならば、これは前に同じ難があるはずです。この難はまた前にさかのぼって通釈すべきです。もしそうならば、重ねて説くことはいたずらにその功を無駄にします。経部師の説くところが善であるといえます。経部の説くところ、その義はどのようなものでしょうか。かつて未だ生じなかった聖法の相続の分位の差別を異生性と名づけるということです。このように、非得はいつ捨てられるのでしょうか。この法の非得は、この法を得る時に、あるいは地を転易してこの非得を捨てます。聖道の非得を異生性と名づけるように、この聖道を得る時に、あるいは地を易じて便ち捨てます。余の法の非得も、これに類して考えるべきです。もし非得の得が断じ、非得の非得が生じるならば、このようにして非得を捨てると名づけます。得と非得には、どうしてさらに余の得と非得があるのでしょうか。この二つにはそれぞれさらに余の得および非得があると言うべきです。もしそうならば、どうして無窮の過がないのでしょうか。無窮の過はありません。得が展転してさらに互いに成じ合うことを認めるからです。法が生じる時、その自体と合わせて三法が俱に起こります。第一は本法、第二は法得、第三は得得です。相続の中で法が起こるから成就し、本法および得得を成就し、得が起こるから成就し、法得を成就するので、この中に無窮の過はありません。このように、もし善なる法、もし染汚の法も、一一の自体が初めて生起する時、その自体と合わせて三法が俱に起こり、第二刹那には六法が俱に起こります。すなわち三法の得および三つの得得です。第三刹那には十八が俱に起こります。すなわち第一・第二刹那に生じた諸法に、九法の得および九つの得得があるということです。このように諸の得は後々に転増します。すべての過去・未来の煩悩および随煩悩ならびに生得の善は、刹那刹那に相応し、俱有にして無始無終の生死輪転に無辺の得があり、かつ一有情の生死相続に刹那刹那に無辺の得が起こります。このように一切の有情の相続に、一一各別に刹那刹那に無量無辺の諸得が俱に起こります。このように諸得は極めて多く集会し、対礙がないので互いに容れ合います。もしそうでなければ、一有情の得を虚空も容れないでしょう。まして第二などはなおさらです。

說一切有部俱舍論卷第四

説一切有部倶舎論 巻第四


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