阿毘達磨俱舍論卷第六
阿毘達磨倶舎論 巻第六
尊者世親造
尊者世親造
三藏法師玄奘奉 詔譯
三蔵法師玄奘奉詔訳
分別根品第二之四
第二之四 根品分別
如是已說不相應行。前言生相生所生時,非離所餘因緣和合,此中何法說為因緣?且因六種,何等為六?頌曰:
すでに不対応行について述べました。先に「生相が生ずるものを生ずるとき」と言いましたが、これは他の因縁の和合を離れては起こりません。では、この中で何を因縁と呼ぶのでしょうか。まず因には六種あります。その六種とは何か。偈頌で示します。
能作及俱有, 同類與相應,
遍行并異熟, 許因唯六種。
能作因と俱有因、同類因と相応因、遍行因と異熟因、この六つの因があると認められる。
論曰:因有六種,一能作因、二俱有因、三同類因、四相應因、五遍行因、六異熟因,對法諸師許因唯有如是六種。且初能作因相云何?頌曰:
論じて曰く、因には六つの種類がある。第一に能作因、第二に俱有因、第三に同類因、第四に相応因、第五に遍行因、第六に異熟因である。対法の諸師は、因はただこの六種のみであると認めている。さて、最初の能作因の特徴とはどのようなものか。偈頌に曰く、
除自餘能作。
その他にも、自ら以外のものが作り出すことはできない。
論曰:一切有為唯除自體,以一切法為能作因,由彼生時無障住故。雖餘因性亦能作因,然能作因更無別稱,如色處等總即別名。豈不未知諸漏當起,由已知故諸漏不生,智於漏生能為障礙;日光能障現覩眾星。如何有為唯除自體,以一切法為能作因?應知此生時,彼皆無障住,故彼於此是能作因。若於此生,彼能為障而不為障,可立為因。譬如國人以其國主不為損害,咸作是言:我因國主而得安樂。若於此生彼無障用,設不為障何得為因?且如涅槃及不生法,普於一切有為生中;那落迦等有情相續於無色界諸蘊生中,有如非有無能障用,雖無障用而亦為因,如無力國王,亦得如前說。此即通說諸能作因,就勝為言非無生力。如眼色等於眼識等,生飲食於身種等於牙等。有作是難:若一切法無障住故皆能作因,何緣諸法非皆頓起?一殺生時,何緣一切非如殺者皆成殺業?此難不然。但由無障,許一切法為能作因,非由於生有親作力。有餘師說:諸能作因皆於果生有能作力。且涅槃等於眼識生,云何名為有能作力?意識緣彼為境而生或善或惡,因此意識後時眼識次第得生,展轉因故。彼涅槃等於眼識生有能作力,如是餘法由此方隅展轉應知有能生力。如是已說能作因相。第二俱有因相云何?頌曰:
論によれば、すべての有為法は、自ら自身を除いて、一切の法が「能作因」となる。なぜなら、それらの法が生起する際に、障害となるものが存在しないからである。他の因の性質もまた能作因となり得るが、能作因には特別な呼称はなく、例えば色処などのように、総称がそのまま別名となるのである。
「はたして、未だ知られていない煩悩が将来生じようとするとき、すでに知られているがゆえに煩悩は生じない。智は煩悩の生起に対して障害となり得る。日光は顕現している星々を見ることを妨げる。それならば、どうして有為法は自ら自身を除いて、一切の法が能作因となり得ようか?」
応じて知るべきである。この法が生起するとき、それらの法はすべて障害となることなく存在する。ゆえに、それらはこれに対して能作因となるのである。もしこの法の生起に対して、それらが障害となり得るのに障害としないならば、因として成立し得る。例えば、国民がその国王が害を加えないことをもって、皆「我々は国王のおかげで安楽を得ている」と言うようなものである。もしこの生起に対してそれらに障害の働きがなく、仮に障害としないとしても、どうして因となり得ようか。
たとえば涅槃や不生の法は、普遍的に一切の有為法の生起において、那落迦などの有情の相続や無色界の諸蘊の生起において、あたかも非有であるかのように、障害の働きがない。障害の働きがなくても、それらもまた因となる。力のない国王であっても、前述のように言えるのである。
これは総じて諸々の能作因を説くものである。殊勝の観点から言えば、生起の力がないわけではない。例えば眼と色が眼識などに対して、食物と飲み物が身体に対して、種子が芽などに対して有するように。
ある者はこう難じる:「もし一切の法が障害となることなく存在するから皆能作因となり得るならば、なぜ諸法は皆同時に生起しないのか。一人が殺生するとき、なぜ一切の者が殺者と同じように殺業を成就しないのか。」
この難は正しくない。ただ障害がないことによって、一切の法が能作因であると許されるのであって、生起に対して親しい作用力を持つからではない。
他の師たちは説く:「諸々の能作因は皆、果の生起に対して能作の力を持つ。たとえば涅槃などは眼識の生起に対して、どうして能作の力を持つと言えるのか。意識がそれらを所縁として生起し、あるいは善、あるいは不善となる。この意識によって後に眼識が次第に生起する。展転の因によるのである。それらの涅槃などは眼識の生起に対して能作の力を持つ。このように他の法も、この方隅によって展転して、生起の力を持つと応じて知るべきである。」
かくのごとく能作因の相を説き終えた。
第二に、倶有因の相はどうであるか。偈頌に曰く、
俱有互為果, 如大相所相,
心於心隨轉。
俱有は互いに果となる。 大なる相と所相とのごとく、 心は心に随って転じます。
論曰:若法更互為士用果,彼法更互為俱有因。其相云何?如四大種更互相望為俱有因,如是諸相與所相法心與心隨轉亦更互為因。是則俱有因由互為果遍攝有為法,如其所應。法與隨相非互為果,然法與隨相為俱有因,非隨相於法。此中應辯。何等名為心隨轉法?頌曰:
論にはこう述べられている。もし諸法が互いに作用の結果をもたらし合うならば、それらの法は互いに共存の因となる。その関係はどのようなものか。例えば、四大種が互いに見合って共存の因となるように、同様に、諸々の相と相により表される法、心と心に随って転ずるものもまた互いに因となる。これこそが共存の因であり、互いに結果をもたらし合うことによって、あらゆる存在の法を、その理に応じて包括するのである。法と随相は互いに結果をもたらし合うことはないが、法は随相に対して共存の因となり、随相は法に対して因となることはない。ここで明らかにすべきことがある。どのようなものを心に随って転ずる法と呼ぶのか。偈頌にこうある。
心所二律儀, 彼及心諸相,
是心隨轉法。
心所には二つの律儀があり、それは心とともに様々な相を現す。これらは心に従って働く法である。
論曰:一切所有心相應法,靜慮無漏二種律儀,彼法及心之生等相,如是皆謂心隨轉法。如何此法名心隨轉?頌曰:
由時果善等。
時に、善などの果実によって〔存在するのである〕。
論曰:略說由時果等善等,故說此法名心隨轉。且由時者,謂此與心一生住滅及墮一世。由果等者,謂此與心一果異熟及一等流。應知此中前一後一,顯俱顯共其義不同。由善等者,謂此與心同善、不善、無記性故。由此十因名心隨轉。此中心王極少猶與五十八法為俱有因,謂十大地法彼四十本相、心八本隨相,名五十八法。五十八中除心四隨相,餘五十四為心俱有因。有說:為心因唯十四法,謂十大地法并心本相。此說非善。所以者何?違《品類足論》所說故。如彼論言:或有苦諦以有身見為因,非與有身見為因,除未來有身見及彼相應法生老住非常諸餘染污苦諦。或有苦諦以有身見為因,亦與有身見為因,即所除法。有餘師不誦及彼相應法。迦濕彌羅國毘婆沙師言:彼文必應作如是誦,或應准義知說有餘,諸由俱有因故成因彼必俱有。或有俱有非由俱有因故成因,謂諸隨相各於本法,此諸隨相各互相對。隨心轉法隨相於心,此諸隨相展轉相對。一切俱生有對造色展轉相對,少分俱生無對造色展轉相對。一切俱生造色大種展轉相對,一切俱生得與所得展轉相對。如是等諸法雖名俱有,而非由俱有因故成因,非一果異熟及一等流故。得與所得非定俱行,或前或後或俱生故。如是一切理且可然,而諸世間種等芽等極成因果相生事中,未見如斯同時因果,故今應說。云何俱起諸法聚中有因果義?豈不現見燈焰燈明芽影同時亦為因果。此應詳辯:為即燈焰與明為因、為由前生因緣和合焰明俱起?餘物障光明而有影現,如何說此影用芽為因?理不應然,隨有無故。善因明者說因果相,言若此有無,彼隨有無者,此定為因,彼定為果。俱有法中一有一切有、一無一切無,理成因果。俱起因果理且可然,如何可言互為因果?即由前說,此亦無違。若爾,如前所說造色互不相離,應互為因。如是造色與諸大種心隨相等與心等法皆不相離,應互為因。若謂如三杖互相依住,如是俱有法因果義成。此應思惟,如是三杖為由俱起相依力住?為由前生因緣合力令彼三杖俱起住耶?又於彼中亦有別物繩鉤地等連持令住,此亦有餘同類因等,是故俱有因義得成。如是已說俱有因相。第三同類因相云何?頌曰:
論に曰く、簡略に説けば、時・果等・善等によって、この法を「心隨転」と名づける。時に由るとは、この心と一生・一住・一滅し、また一世に堕することを謂う。果等に由るとは、この心と一果の異熟及び一等流を有することを謂う。知るべし、此の中の前の一と後の一は、俱と共とのその義が異なることを顕す。善等に由るとは、この心と同善・不善・無記の性なるが故に。此の十因によって「心隨転」と名づく。此の中の心王は極めて少なくとも、なお五十八法と俱有因と為る。所謂、十の大地法、彼の四十の本相、心の八の本隨相を、五十八法と名づく。五十八の中、心の四隨相を除く、余の五十四は心の俱有因と為る。或る説あり:心の因と為るは唯十四法なり。所謂、十の大地法并びに心の本相なり。此の説は善からず。何を以っての故に。『品類足論』の所説に違するが故に。彼の論に言うが如し、或る苦諦は有身見を以って因と為すも、有身見と因と為すに非ず。未来の有身見及び彼の相応法の生・老・住・無常を除く、諸の余の染汚苦諦。或る苦諦は有身見を以って因と為し、亦た有身見と因と為す。即ち所除の法なり。余の師あり、及び彼の相応法を誦せず。迦濕彌羅国の毘婆沙師、言く:彼の文は必ず応に是くの如く誦すべきなり。或いは義に准じて、余有りと説くを知るべきなり。諸の俱有因の故に因と成る者は、彼は必ず俱有なり。或いは俱有なれども俱有因の故に因と成るに非ず。謂わゆる諸の隨相の各々本法に於ける、此の諸隨相の各々互いに対す。隨心転法の隨相の心に於ける、此の諸隨相の展転相互に対す。一切の倶生の有対造色は展転相互に対す、少分の倶生の無対造色は展転相互に対す。一切の倶生の造色大種は展転相互に対す、一切の倶生の得と所得は展転相互に対す。是くの如き等の諸法は、俱有と名づくと雖も、而も俱有因の故に因と成るに非ず。一果の異熟及び一等流に非ざるが故に。得と所得とは定んで俱行せず、或は前、或は後、或は倶生するが故に。是くの如き一切の理は且く然る可し。而るに諸世間の種等・芽等の極成せる因果の相生の事の中に、未だ是くの如き同時の因果を見ず。故に今応に説くべし。云何が俱起の諸法聚の中に因果の義有る。豈に現に見ざるや、燈焔・燈明・芽・影の同時に亦た因果と為ることを。此れは応に詳かに弁ずべし。即ち燈焔は明と因と為るや、為に由りて前生の因縁和合して焔・明俱起するや。余の物、光を障えて影を現ずる有り。云何が此の影を説いて芽を用て因と為すを得ん。理に応に然る可からず。隨って有無の故に。善く因明を解する者は因果の相を説く。若し此れ有り無きに、彼れ隨いて有り無し。此れ定んで因と為り、彼れ定んで果と為る。俱有の法の中、一有れば一切有り、一無ければ一切無し。理に因と果と成る。俱起の因果は理に且く然る可し。云何が互いに因と果と為ると言うを得ん。即ち前の説に由りて、此れ亦た違無し。若し爾らば、前の所説の如く造色の互いに相離れざるは、応に互いに因と為るべし。是くの如き造色と諸大種、心隨相等と心等法とは、皆な相離れず、応に互いに因と為るべし。若し謂く、三杖の互いに依りて住するが如く、是くの如く俱有法の因果の義成ると。此れは応に思惟すべし。是くの如き三杖は、為に俱起の相依の力に由りて住するや。為に前生の因縁の合力に由りて彼の三杖を俱起して住せしむるや。又た彼の中に亦た別物の縄・鉤・地等の連持して住せしむる有り。此れ亦た余の同類因等有り。是の故に俱有因の義、得て成ず。是くの如く已に俱有因の相を説けり。第三の同類因の相は云何。頌に曰く:
同類因相似, 自部地前生,
道展轉九地, 唯等勝為果,
加行生亦然, 聞思所成等。
同类の因は相似し、自部の地より前に生ず。道は展転して九地に及び、ただ等しく勝れたる者のみを果と為す。加行より生ずるも亦た然り、聞・思・修所成の等の如し。
論曰:同類因者,謂相似法與相似法為同類因,謂善五蘊與善五蘊展轉相望為同類因,染污與染污、無記與無記五蘊相望應知亦爾。有餘師說:淨無記蘊五是色果,四非色因。有餘師說:五是四果,色非四因。有餘師說:色與四蘊相望展轉皆不為因。又一身中羯剌藍位,能與十位為同類因。頞部曇等九位,一一皆除前位與餘為因,若對餘身同類十位,一一皆與十位為因。由此方隅外麥稻等,自類自類應廣思擇。若不許色為色同類因,彼執便違本論文所說。故本論說:過去大種、未來大種因增上等。為諸相似於相似法皆可得說為同類因?不爾。云何?自部自地唯與自部自地為因,是故說言自部自地。部謂五部,即見苦所斷乃至修所斷。地謂九地,即欲界為一靜慮、無色八。此中見苦所斷法還與見苦所斷為同類因非餘,如是乃至修所斷還與修所斷法為同類因非餘。於中一一,若欲界地還與欲界為同類因,初靜慮地與初靜慮為同類因,乃至有頂與有頂地為同類因;異地相望皆無因義。又此非一切。何者?謂前生唯諸前生與後相似生未生法為同類因。云何知然?本論說故。如《發智論》說:云何同類因?謂前生善根與後生自界善根及彼相應法為同類因。如是過去與餘二世,過去現在與未來等皆應廣說。然即彼論作是問言:若法與彼法為因,或時此法與彼非因耶?彼即答言:無時非因者,此依俱有、相應、異熟三因密說,故無有過。有謂未來正生位法定能與彼為同類因,是故彼文依最後位密作是答無時非因。彼於所難非為善釋。以未來法正生位前非同類因,後方成故。又若爾者,彼復問言:若法與彼法為等無間,或時此法與彼非等無間耶?彼即答言:若時此法未至已生。若如彼釋,應亦答言無時非緣,如何乃答若時此法未至已生。然彼復釋,為現二門,如彼處說,此亦應爾;如此處說,彼亦應爾。如是作文獲何功德?唯顯論主非善於文。是故應知前釋為善。若爾,何故《品類足》說:或有苦諦以有身見為因,非與有身見為因,除未來有身見及彼相應苦諦諸餘染污苦諦。或有苦諦以有身見為因,亦與有身見為因,即所除法。彼文應說,除未來有身見相應苦諦。設有如彼說,由義應知非。復云何通《施設足論》?彼說諸法四事決定,所謂因、果、所依、所緣。應知彼文,因者謂能作、俱有、相應、異熟因。果者,謂增上、士用、異熟果。所依者謂眼等六根。所緣者謂色等六境。若爾,同類因應本無而有,許故無過。約位非體,由和合作用位果非體果。若同類因未來世有,如異熟因,當有何過?未來若有,本論應說。本論唯說能取與果諸同類因,故無有失。無如是義,以同類因引等流果此未來有,理必不然,無前後故。不應已生法為未生等流,如過去法非現在果。勿有果先因後過失故,未來世無同類因。若爾,異熟因應未來非有,不應異熟果因前及俱故。未來世法無前後故,無如是失,不相似故。謂同類因與果相似,若無前後應互為因,既互為因應互為果,互為因果與理相違。非異熟因與果相似,雖離前後而無上過,故同類因就位建立未來非有,若異熟因就相建立未來非無。言同類因唯自地者,定依何說?定依有漏。若無漏道展轉相望一一皆與九地為因,謂未至定、靜慮中間、四本靜慮、三本無色,九地道諦皆互為因。所以者何?此於諸地皆如客住不墮界攝,非諸地愛執為己有,是故九地道雖地不同而展轉為因,由同類故。然唯得與等勝為因,非為劣因,加行生故。且如已生苦法智忍還與未來苦法智忍為同類因,是名為等。又即此忍復能與後從苦法智至無生智為同類因,是名為勝。如是廣說,乃至已生諸無生智唯與等類為同類因,更無勝故。又諸已生見道修道及無學道,隨其次第與三二一為同類因。又於此中諸鈍根道與鈍及利為同類因。若利根道唯利道因,如隨信行及信勝解時解脫道,隨其次第與六四二為同類因。若隨法行及見至非時解脫道,隨其次第與三二一為同類因。諸上地道為下地因。云何名為或等或勝?由因增長及由根故。謂見道等下下品等,後後位中因轉增長。雖一相續中無容可得隨信隨法行二道現起,而已生者為未來因。為唯聖道但與等勝為同類因?不爾。云何?餘世間法加行生者亦與等勝為因非劣。加行生法其體云何?謂聞所成、思所成等。等者等取。修所成等,因聞思修所生功德,名彼所成,加行生故唯與等勝為因非劣。如欲界繫,聞所成法能與自界聞思所成為同類因,非修所成因,欲界無故。思所成法與思所成為同類因,非聞所成因,以彼劣故。若色界繫聞所成法,能與自界聞修所成為同類因,非思所成因,色界無故。修所成法唯與自界修所成法為同類因,非聞所成因,以彼劣故。無色界繫修所成法,唯與自界修所成法為同類因,非聞思所成因,以無故劣故。如是諸法復有九品,若下下品為九品因,下中八因,乃至上上唯上上因,除前劣故。生得善法九品相望展轉為因,染污亦爾。無覆無記總有四種,謂異熟生、威儀路、工巧處、化心俱品,隨其次第,能與四三二一為因。又欲界化心有四靜慮果,非上靜慮果下靜慮果因,非加行因得下劣果,如勤功力種稻麥等。勿設劬勞而無所獲。因如是義,故有問言:頗有已生諸無漏法非未生位無漏法因?有,謂已生苦法智品於未生位苦法忍品,又一切勝於一切劣。頗有一身諸無漏法前所定得非後生因?有,謂未來苦法忍品於後已生苦法智品,以果必無在因前故,或同類因未來無故。頗有前生諸無漏法非後已起無漏法因?有,謂前生勝無漏法於後已起劣無漏法,如退上果下果現前。又前已生苦法智得,於後已生苦法忍得非同類因,以彼劣故。如是已說同類因相。第四相應因相云何?頌曰:
論にはこう述べられている。同じ種類の因(同類因)とは、似た性質のものが、同じく似た性質のものに対して原因となることである。例えば、善の五蘊は善の五蘊に対して互いに同類因となり、煩悩に汚されたもの同士、また善でも悪でもない無記の五蘊同士も、同じように互いに同類因となると考えるべきである。
ある学者はこう説く。「清らかで無記の五蘊のうち、色蘊は五つの果であり、他の四蘊にとっては因ではない」と。別の学者はこう説く。「五蘊は四つの果であり、色蘊は四蘊の因ではない」と。また別の学者はこう説く。「色蘊と他の四蘊は、互いにいずれも因となることはない」と。
さらに、同じ身体の中でも、羯剌藍(受精直後の状態)の段階は、後の十の段階に対して同類因となる。頞部曇(胎児の初期形態)などの九つの段階は、それぞれ前の段階を除いて、残りの段階に対して因となる。もし他の身体に対してであれば、同様の十の段階は、それぞれが十の段階すべてに対して因となる。このようにして、外界の麦や稲なども、同じ種類のもの同士が互いに因となることを広く考察すべきである。
もし色蘊が色蘊の同類因ではないと主張するなら、その考えは根本論典の文に反することになる。なぜなら根本論典には「過去の大種は、未来の大種にとって因となり、増上(作用)となる」と説かれているからである。
すべての似た性質のものが、似た性質のものに対して同類因となると言えるだろうか。そうではない。なぜか。自分自身の部類と自分自身の境地にのみ因となるのであり、それゆえ「自部自地」と説くのである。「部」とは五つの部類、すなわち苦諦を見て断たれるものから、修道によって断たれるものまでである。「地」とは九つの境地、すなわち欲界を一つとし、静慮(禅定)と無色界の八つである。
この中で、苦諦を見て断たれる法は、また苦諦を見て断たれる法に対してのみ同類因となり、他のものに対してはならない。このようにして、修道によって断たれる法も、また修道によって断たれる法に対してのみ同類因となるのである。その一つ一つについて、欲界のものであれば欲界に対して同類因となり、初静慮のものであれば初静慮に対して同類因となり、このようにして有頂(最上の境地)のものであれば有頂に対して同類因となる。異なる境地のもの同士は、互いに因となることはない。
また、これはすべてのものに当てはまるわけではない。どういうことか。過去に生じたものだけが、後に生じる類似の未生の法に対して同類因となるのである。どうしてそう知るのか。根本論典に説かれているからである。例えば『発智論』にこうある。「同類因とは何か。過去に生じた善根が、後に生じる同じ界の善根およびそれと相応する法に対して同類因となることである」。このように、過去のものは残りの二世(現在・未来)に対して、また過去・現在のものは未来などに対して、広く説かれるべきである。
しかしながら、その論の中でこう問われている。「もしある法が他の法にとって因であるなら、時にこの法が他の法にとって因でなくなることがあるだろうか」。それに対して「因でなくなる時はない」と答えられている。これは俱有因・相応因・異熟因の三つの因に基づいて密かに説かれたものであり、それゆえ過失はないのである。
ある者はこう言う。「未来に正に生じようとしている法は、必ず他の法に対して同類因となることができる。だからあの文は、最後の段階に基づいて密かに『因でなくなる時はない』と答えたのである」と。しかし、その者は難問に対してうまく説明していない。なぜなら、未来の法が正に生じようとしている時よりも前は同類因ではなく、後に初めて因となるからである。
また、もしそうであるなら、次のようにも問われるだろう。「もしある法が他の法にとって等無間(等しい間断なき縁)であるなら、時にこの法が他の法にとって等無間でなくなることがあるだろうか」。それに対して「この法がまだ生じ終わっていない時である」と答えられている。もし彼(先の学者)の解釈の通りなら、「因でなくなる時はない」と答えるべきであろう。どうして「この法がまだ生じ終わっていない時である」と答えたのであろうか。
しかしながら、彼(論主)はさらに解釈して、「二つの教えの門を示すためである。あの場所で説かれたように、ここでもそう説くべきであり、ここで説かれたように、あそこでもそう説くべきである」と述べている。このように文を作って何の功徳があるだろうか。ただ論主が文章を巧みに扱えないことを示すだけである。それゆえ、前の解釈が正しいと知るべきである。
もしそうなら、なぜ『品類足論』にこう説かれているのか。「ある苦諦は有身見を因としているが、有身見にとって因とはなっていない。未来の有身見およびそれと相応する苦諦を除いた、他のすべての煩悩に汚染された苦諦である。ある苦諦は有身見を因としていると同時に、また有身見にとって因ともなっている。すなわち、先に除外されたものである」と。その文は「未来の有身見と相応する苦諦を除いて」と言うべきであろう。たとえそう説かれたとしても、その意味によって「そうではない」と知るべきである。
さらに『施設足論』の説をどう解釈すべきか。そこでは「すべての法には四つの事柄が決定されている。すなわち因・果・所依・所縁である」と説かれている。その文において、因とは能作因・俱有因・相応因・異熟因を指し、果とは増上果・士用果・異熟果を指し、所依とは眼などの六根を指し、所縁とは色などの六境を指すと知るべきである。
もしそうなら、同類因は本来なかったものが後に生じることになるが、これを許しても過失はない。なぜなら、位(時点)に基づいて説かれているのであり、体(本質)に基づいて説かれているのではないからである。和合して作用する時の位が果なのであり、体そのものが果なのではない。
もし同類因が未来にも存在するとするなら、例えば異熟因のように、どんな過失があるだろうか。未来に存在するなら、根本論典にも説かれるべきであろう。しかし根本論典は、ただ果を取ることができる同類因についてのみ説いているのであり、それゆえ過失はない。しかし、そのような意味はない。なぜなら、同類因が等流果を引き起こすとしても、それが未来に存在するというのは、道理として決して正しくない。前後の区別がないからである。すでに生じた法が、未生の法に対する等流果となるべきではない。例えば、過去の法が現在の法の果となることがないように。果が因より先にあり、因が後にあるという過失があってはならないからである。それゆえ、未来には同類因は存在しない。
もしそうなら、異熟因も未来には存在しないことになるのではないか。なぜなら、異熟果は因の前と同時に存在することはないからである。しかし、未来の法には前後の区別がないので、そのような過失はない。なぜなら、異熟因は果と似ていないからである。すなわち、同類因は果と似ている。もし前後がないなら、互いに因となるべきであり、互いに因となるなら互いに果となるべきである。互いに因果となるのは道理に反する。しかし、異熟因は果と似ていないので、前後を離れても上記の過失はない。それゆえ、同類因は位(時点)に基づいて成立し、未来には存在しないのである。一方、異熟因は相(性質)に基づいて成立し、未来にも存在しないわけではない。
「同類因は自分自身の境地にのみ働く」というのは、必ず何に基づいて説かれているのか。必ず有漏(煩悩に染まったもの)に基づいて説かれている。もし無漏の道(悟りの実践)であれば、互いに全て九つの境地に対して因となる。すなわち、未至定・静慮中間・四つの根本静慮・三つの根本無色界、これら九つの境地の道諦は、すべて互いに因となるのである。なぜなら、これらの道はすべての境地において客人のように留まり、特定の境地に属するものではないからである。九つの境地の愛執がこれを自己のものとして執着することがないからである。それゆえ、九つの境地の道は、その境地が異なっていても、同じ種類であるがゆえに互いに因となるのである。
しかしながら、同じかそれ以上に優れたものにのみ因となり、劣ったものに対して因となることはない。なぜなら、加行(努力の実践)によって生じるものだからである。例えば、すでに生じた苦法智忍は、まだ生じていない未来の苦法智忍に対して同類因となる。これを「等しい」と名付ける。また、この忍は後に続く苦法智から無生智に至るまでのものに対しても同類因となる。これを「勝れている」と名付ける。このように広く説かれる。ついには、すでに生じた無生智は、ただそれと等しい種類のものにのみ同類因となり、それ以上に勝れたものがないからである。
また、すでに生じた見道・修道・無学道は、その順序に従って、それぞれ三つ・二つ・一つのものに対して同類因となる。さらに、この中で、鈍根の道は鈍根と利根の両方に対して同類因となり、利根の道は利根の道にのみ因となる。例えば、随信行・信勝解・時解脱の道は、その順序に従って、それぞれ六つ・四つ・二つのものに対して同類因となる。随法行・見至・非時解脱の道は、その順序に従って、それぞれ三つ・二つ・一つのものに対して同類因となる。
様々な上位の境地の道は、下位の境地の因となる。どのようにして「等しい」または「勝れている」と名付けるのか。因が増長することによって、また根によってである。すなわち、見道などの下下品などのものは、後の段階において因が次第に増長するのである。一つの相続の中では、随信行と随法行の二つの道が同時に現れることはあり得ないが、すでに生じたものは未来のものに対して因となるのである。
聖道だけが、同じか勝れたものにのみ同類因となるのであろうか。そうではない。どういうことか。他の世間の法で加行(努力)によって生じるものも、同じか勝れたものに対して因となり、劣ったものに対して因となることはない。
加行によって生じる法の体(本質)とは何か。聞所成(聴聞によって成就したもの)・思所成(思索によって成就したもの)などである。「など」とは修所成(禅定修行によって成就したもの)をも含む。聞・思・修によって生じる功徳を「それらによって成就したもの」と名付け、加行によって生じるがゆえに、同じか勝れたものにのみ因となり、劣ったものに対して因となることはない。
例えば、欲界に属する聞所成の法は、自分の界の聞所成と思所成に対して同類因となるが、修所成の因とはならない。欲界には(修所成が)ないからである。思所成の法は思所成に対して同類因となるが、聞所成の因とはならない。それは前者が劣っているからである。もし色界に属する聞所成の法であれば、自分の界の聞所成と修所成に対して同類因となるが、思所成の因とはならない。色界には(思所成が)ないからである。修所成の法は、ただ自分の界の修所成の法にのみ同類因となり、聞所成の因とはならない。それは前者が劣っているからである。無色界に属する修所成の法は、ただ自分の界の修所成の法にのみ同類因となり、聞所成・思所成の因とはならない。それらが存在せず、かつ劣っているからである。
このような様々な法には九つの品類がある。もし下下品であれば、九つの品すべての因となり、下中品であれば八つの品の因となり、ついには上上品はただ上上品のみの因となる。前に劣ったものを除くからである。
生得善(生まれながらの善)の法は、九つの品類が互いに因となる。煩悩に汚染されたものも同様である。
無覆無記(覆いのない無記)には、全く四つの種類がある。すなわち異熟生・威儀路・工巧処・化心と俱の品である。その順序に従って、それぞれ四つ・三つ・二つ・一つのものに対して因となる。
また、欲界の化心には四つの静慮の果があるが、上位の静慮の果が下位の静慮の果の因となることはない。なぜなら、加行の因が下劣な果を得ることはないからである。例えば、力を尽くして稲や麦を植えるように、もし努力をしても何も得られないということがあってはならないからである。
このような理由から、次のような問いがある。「すでに生じた無漏の法で、まだ生じていない位の無漏の法の因とならないものがあるだろうか」。ある。すなわち、すでに生じた苦法智の品は、まだ生じていない位の苦法忍の品に対して因とならない。また、すべての勝れたものは、すべての劣ったものに対して因とならない。
「一つの身体の中の様々な無漏の法で、以前に必ず得られるべきと定められたものが、後に生じるものの因とならないことがあるだろうか」。ある。すなわち、未来の苦法忍の品は、後に生じる苦法智の品に対して因とならない。なぜなら、果は必ず因より後にあり、因より前にはないからである。または、同類因は未来には存在しないからである。
「すでに生じた様々な無漏の法で、後に生じる無漏の法の因とならないものがあるだろうか」。ある。すなわち、前に生じた勝れた無漏の法は、後に現れる劣った無漏の法に対して因とならない。例えば、上位の果から退いて下位の果が現れるような場合である。また、前に生じた苦法智の得は、後に生じる苦法忍の得に対して同類因とはならない。それは、後者が劣っているからである。
このようにして、同類因の特徴を説き終えた。
第四に、相応因の特徴はどうであろうか。偈頌にこうある。
相應因決定, 心心所同依。
相応の因は決定されており、心と心所は同じ所依を持つ。
論曰:唯心心所是相應因。若爾,所緣行相別者,亦應更互為相應因。不爾,所緣行相同者乃可得說為相應故。若爾,異時所緣行相同者應說為相應因。不爾,要須所緣行相及時同者乃相應故。若爾,異身所緣行相及時同者應說相應,如眾同觀初月等事,為以一言總遮如是眾多妨難,故說同依。謂要同依心心所法,方得更互為相應因。此中同言顯所依一,謂若眼識用此剎那眼根為依,相應受等亦即用此眼根為依,乃至意識及相應法同依意根,應知亦爾。相應因體即俱有因,如是二因義何差別?由互為果義立俱有因,如商侶相依共遊險道。由五平等共相應義立相應因,即如商侶同受同作食等事業,其中闕一皆不相應,是故極成互為因義。如是已說相應因相。第五遍行因相云何?頌曰:
論で述べる。心と心所(心の働き)だけが相応因(対応する原因)である。もしそうなら、所縁(対象)と行相(捉え方)が異なるものも、互いに相応因となるべきではないか。いや、そうではない。所縁と行相が同じであるときにのみ、相応(対応)と説けるからである。では、時間が異なっても所縁と行相が同じなら、相応因と説くべきではないか。いや、そうではない。所縁・行相・時間がすべて同時であることが必要だからである。では、身体が異なっていても所縁・行相・時間が同じなら、相応と説くべきではないか。例えば、多くの人々が同時に新月の月を観るような場合である。このような多くの難点を一挙に遮るために、「同じ依(よりどころ)」と説くのである。すなわち、同じ依を持つ心と心所のみが、互いに相応因となるのである。ここで「同じ」という言葉は、依が一つであることを示す。例えば、眼識がこの刹那の眼根を依として用いるなら、それに対応する受(感受)などもまた、この同じ眼根を依として用いる。意識とそれに対応する法も、意根を同じく依とすることも、同様に知るべきである。相応因の本体は、俱有因(共存する原因)と同じである。では、この二つの因の意味にどんな違いがあるのか。互いに結果となるという意味で俱有因を立てる。例えば、商人たちが互いに頼り合って共に危険な道を旅するようなものである。五つの平等(所依・所縁・行相・時・事)が共に相応するという意味で相応因を立てる。すなわち、商人たちが同じ苦楽を共にし、同じ食事などの仕事を共にするようなものである。その中の一つでも欠ければ、どちらも相応しない。それゆえ、互いに因となるという意味は完全に成立するのである。このようにして相応因の特徴を説き終えた。第五の遍行因(すべてに行き渡る原因)の特徴はどうか。偈頌に曰く、
遍行謂前遍, 為同地染因。
遍行とは、前述のすべてに及ぶことをいう。同じ境地の煩悩の原因となるからである。
論曰:遍行因者,謂前已生遍行諸法,與後同地染污諸法為遍行因。遍行諸法,隨眠品中遍行義處當廣分別。此與染法為通因故,同類因外更別建立。亦為餘部染法因故,由此勢力餘部煩惱及彼眷屬亦生長故。聖者身中諸染污法,豈亦用此為遍行因?迦濕彌羅國毘婆沙師說:一切染污法,見所斷為因。故《品類足》說如是言:云何見所斷為因法?謂諸染污法及見所斷法所感異熟。云何無記為因法?謂諸無記有為法及不善法。或有苦諦以有身見為因,非與有身見為因,廣說乃至,除未來有身見及彼相應法生老住無常諸餘染污苦諦。若爾,云何通《施設足論》說?如彼論說:頗有法是不善唯不善為因耶?有,謂聖人離欲退最初已起染污思,依未斷因密作是說。見所斷法雖是此因,而由已斷故廢不說。如是已說遍行因相。第六異熟因相云何?頌曰:
論じて曰く、遍行因とは、以前にすでに生じた遍行の諸法が、後の同じ地にある染汚の諸法に対して遍行因となることをいう。遍行の諸法については、随眠品の中の遍行の義処で詳しく分別されるであろう。これは染法に対して通因となるため、同類因の外にさらに別に立てられるのである。また、他の部の染法の因ともなる。この勢力によって、他の部の煩悩およびその眷属も生長するからである。聖者の身の中の諸染汚法も、どうしてこれを用いて遍行因とすることができるだろうか。迦湿弥羅国の毘婆沙師はこう説く。「すべての染汚法は、見所断を因とする」と。ゆえに『品類足論』はこのように説く。「何をもって見所断を因とする法というのか。いわゆる諸染汚法および見所断の法が感ずる異熟果である。何をもって無記を因とする法というのか。いわゆる諸無記の有為法および不善法である。あるいは苦諦は有身見を因とすることがあっても、有身見と因となることはない。広説すれば、未来の有身見およびその相応の法の生・老・住・無常を除いた、その他の諸染汚の苦諦に至るまでである。」もしそうならば、どうして『施設足論』の説を会通するのか。かの論に説くようには、「はたして不善でありながら、ただ不善のみを因とする法があるか。ある。いわゆる聖者が欲を離れて退失したとき、最初にすでに起こした染汚の思である」と。未断の因に依って密かにこの説を作したのである。見所断の法はたとえこの因であるが、すでに断ぜられたことによって廃して説かないのである。かくのごとく遍行因の相を説き終えた。第六の異熟因の相はどうであろうか。頌に曰く、
異熟因不善, 及善唯有漏。
異熟の因は不善、及び善にして、唯だ有漏(煩悩に染まったもの)のみである。
論曰:唯諸不善及善有漏是異熟因,異熟法故。何緣無記不招異熟?由力劣故,如朽敗種。何緣無漏不招異熟?無愛潤故,如貞實種無水潤沃。又非繫地,如何能招繫地異熟?餘法具二,是故能招,如貞實種、水所沃潤。異熟因義如何可了?為異熟之因名異熟因?為異熟即因名異熟因?義兼兩釋,斯有何過?若異熟之因名異熟因,聖教不應言異熟生眼。若異熟即因名異熟因,聖教不應言業之異熟。兩釋俱通,已如前辯。所言異熟其義云何?毘婆沙師作如是釋:異類而熟是異熟義,謂異熟因唯異類熟。俱有等因唯同類熟,能作一因兼同異熟,故唯此一名異熟因。熟果不應餘因所得,果具二義方得熟名:一由相續轉變差別其體得生,二由隨因勢力勝劣時有分限。非彼俱有、相應二因所生果體,要由相續轉變差別方乃得生,由取果時即與果故。又非能作同類、遍行三因之果,亦由隨因勢力勝劣、時有分限,由善惡等窮生死邊果數數生、時無限故。由此但應作如是釋。變異而熟是異熟義,不應但異簡別餘因。於欲界中有時一蘊為異熟因共感一果,謂有記得及彼生等。有時二蘊為異熟因共感一果,謂善不善身業語業及彼生等。有時四蘊為異熟因共感一果,謂善不善心心所法及彼生等。於色界中有時一蘊為異熟因共感一果,謂有記得、無想等至及彼生等。有時二蘊為異熟因共感一果,謂初靜慮善有表業及彼生等。有時四蘊為異熟因共感一果,謂非等引善心心所及彼生等。有時五蘊為異熟因共感一果,謂是等引心心所法并隨轉色及彼生等。無色界中有時一蘊為異熟因共感一果,謂有記得、滅盡等至及彼生等。有時四蘊為異熟因共感一果,謂一切善心心所法及彼生等。有業唯感一處異熟,謂感法處,即命根等。若感意處,定感二處,謂意與法。若感觸處應知亦爾。若感身處,定感三處,謂身觸法。感色香味應知亦爾。若感眼處定感四處、謂感眼處及身觸法。感耳鼻舌應知亦爾。有業能感或五或六或七或八或九或十或十一處,業或少果或多果故。如外種果或少或多,種果少者如穀麥等,種果多者如蓮石榴諾瞿陀等。有一世業三世異熟,無三世業一世異熟,勿設劬勞果減因故。有一念業多念異熟,無多念業一念異熟,此中所以如上應知。然異熟果無與業俱,非造業時即受果故。亦非無間,由次剎那等無間緣力所引故。又異熟因感異類果必待相續方能辦故。如是六因定居何世?因居世定。義雖已說而未頌攝,故應重辯。頌曰:
論に曰く、ただ諸々の不善と、善ではあるが有漏であるものだけが異熟因です。異熟の法であるからです。なぜ無記は異熟を招かないのでしょうか。力が劣っているからです。朽ち果てた種のようなものです。なぜ無漏は異熟を招かないのでしょうか。愛に潤されないからです。堅固で充実した種に水の潤いがないようなものです。また、繋地でないものが、どうして繋地の異熟を招くことができるでしょうか。他の法は二つを具えているので、招くことができるのです。堅固で充実した種が水に潤されるようなものです。異熟因の意味はどうすれば理解できるでしょうか。異熟の因を異熟因と名付けるのでしょうか。異熟すなわち因を異熟因と名付けるのでしょうか。意味は二つの解釈を兼ねますが、これに何の過失があるでしょうか。もし異熟の因を異熟因と名付けるなら、聖教に「異熟生の眼」と言うべきではありません。もし異熟すなわち因を異熟因と名付けるなら、聖教に「業の異熟」と言うべきではありません。二つの解釈はともに通じます。すでに前述の通りに論じました。言うところの異熟とは、その意味はどのようなものでしょうか。毘婆沙師はこのように解釈します。異類にして熟する、これが異熟の意味です。すなわち異熟因だけが異類として熟します。俱有などの因はただ同類として熟します。能作の一因は同類と異類の熟を兼ねます。ゆえにただこの一つのみを異熟因と名付けます。熟した果は他の因によって得られるべきではありません。果は二つの意味を具えて初めて熟という名を得ます。一つには相続の転変の差別によってその体が生じること、二つには因の勢力の勝劣に従って時に分限があることです。かの俱有と相応の二因によって生じた果の体は、必ずしも相続の転変の差別によって初めて生じるのではありません。果を取る時すなわち果を与えるからです。また、能作・同類・遍行の三因の果は、必ずしも因の勢力の勝劣に従って時に分限があるのではありません。善悪などが生死の辺を窮めるまで果が数々生じ、時に限りがないからです。これによってただこのように解釈すべきです。変異にして熟する、これが異熟の意味です。ただ「異」のみで他の因を簡別すべきではありません。欲界の中では、時に一蘊が異熟因となって共に一果を感じます。すなわち有記得とその生などのことです。時に二蘊が異熟因となって共に一果を感じます。すなわち善不善の身業・語業とその生などのことです。時に四蘊が異熟因となって共に一果を感じます。すなわち善不善の心心所法とその生などのことです。色界の中では、時に一蘊が異熟因となって共に一果を感じます。すなわち有記得、無想等至とその生などのことです。時に二蘊が異熟因となって共に一果を感じます。すなわち初静慮の善有表業とその生などのことです。時に四蘊が異熟因となって共に一果を感じます。すなわち非等引の善心心所とその生などのことです。時に五蘊が異熟因となって共に一果を感じます。すなわちこれ等引の心心所法ならびに随転の色とその生などのことです。無色界の中では、時に一蘊が異熟因となって共に一果を感じます。すなわち有記得、滅尽等至とその生などのことです。時に四蘊が異熟因となって共に一果を感じます。すなわち一切の善心心所法とその生などのことです。ある業はただ一処の異熟のみを感じます。すなわち法処を感じます。すなわち命根などです。もし意処を感ずるなら、必ず二処を感じます。すなわち意と法です。もし触処を感ずるなら、まさにそのように知るべきです。もし身処を感ずるなら、必ず三処を感じます。すなわち身・触・法です。色・香・味を感ずるなら、まさにそのように知るべきです。もし眼処を感ずるなら、必ず四処を感じます。すなわち眼処ならびに身・触・法を感ずることです。耳・鼻・舌を感ずるなら、まさにそのように知るべきです。ある業は五あるいは六、あるいは七、あるいは八、あるいは九、あるいは十、あるいは十一処を感ずることができます。業の果が少なかったり多かったりするからです。たとえば外の種の果が少なかったり多かったりするようなものです。種の果が少ないものは穀麦などのようなものです。種の果が多いものは蓮・石榴・諾瞿陀などのようなものです。ある一世の業は三世の異熟があります。三世の業が一世の異熟であることはありません。いたずらに労苦を設けても果が因より減るからです。ある一念の業は多念の異熟があります。多念の業が一念の異熟であることはありません。ここでの理由は上述の通りに知るべきです。しかし異熟果は業と俱に存在することはありません。業を造る時にすぐに果を受けるのではないからです。また無間でもありません。次の刹那などの無間縁の力に引かれるからです。また異熟因は異類の果を感ずるのに、必ず相続を待って初めて成し遂げるからです。このように六因は定まって何世に居るのでしょうか。因の居る世は定まっています。意味はすでに説かれましたが、まだ頌にまとめられていません。ゆえに重ねて論ずべきです。頌に曰く。
遍行與同類, 二世三世三。
遍行と同類は、二世・三世・三にわたる。
論曰:遍行、同類唯居過現,未來世無,理如前說。相應、俱有、異熟三因,於三世中皆悉遍有。頌既不說能作因所居,義准應知通三世非世。已說六因相別世定。何等為果對彼成因?頌曰:
論にはこう述べられている。遍行因と同類因は、ただ過去と現在にのみ存在し、未来世には存在しない。その道理は先に述べた通りである。相応因、俱有因、異熟因の三つの因は、三世のすべてにわたって遍く存在する。頌では能作因の所在については述べられていないが、その意味から推し量るに、能作因は三世と非世(三世を超えたもの)の両方に通じると知るべきである。すでに六つの因のそれぞれの相と世における定まりを説いた。では、どのような果がこれらの因に対応するのか。頌に曰く、
果有為離繫, 無為無因果。
もしも「果」が因に縛られて離れることがあれば、それは無為ではなく、因果の理を超えたものはない。
論曰:如本論說:果法云何?謂諸有為及與擇滅。若爾,無為許是果故則應有因,要對彼因乃可得說此為果故。又此無為許是因故亦應有果,要對彼果乃可得說此為因故。唯有為法有因有果,非諸無為。所以者何?無六因故、無五果故。何緣不許諸無間道與離繫果為能作因?於生不障立能作因,無為無生道何所作?若爾,誰果?果義如何?謂是道果,道力得故。若爾,道果應唯是得,道於得有能,非於擇滅故。不爾,於得於擇滅中,道之功能有差別故。云何於得道有功能?謂能生故。云何於滅道有功能?謂能證故。由此理故,道雖非滅因,而可得說擇滅為道果。既諸無為無增上果,如何可說為能作因?以諸無為於他生位不為障故立能作因。然無果者,由離世法無能取果與果用故。經部師說:無為非因,無經說因是無為故,有經說因唯有為故。何處經說?如有經說:諸因諸緣能生色者皆是無常。無常因緣所生諸色如何是常?廣說乃至識亦如是。若爾,無為亦應不與能緣識等作所緣緣。唯說能生故得作所緣緣,謂經唯說諸因諸緣能生識者皆是無常,不說一切為識緣者皆是無常,故不成難。豈不亦說唯能生因是無常故,不撥無為唯不障故為能作因。有契經中說無為法為所緣緣,無契經中說無為法為能作因故。不應立為唯不障因性,雖無經說亦無處遮。又無量經今已隱沒,云何定判無經說耶?若爾,何法名為離繫?即本論中所說擇滅。豈不先問:何謂擇滅?答是離繫。今問何法名為離繫?答是擇滅。如是二答更互相依,於此自性竟不能顯,故應別門開顯自性。此法自性實有離言,唯諸聖者各別內證,但可方便總相說言是善是常,別有實物名為擇滅亦名離繫。經部師說:一切無為皆非實有,如色受等別有實物,此所無故。若爾,何故名虛空等?唯無所觸說名虛空,謂於闇中無所觸對,便作是說此是虛空。已起隨眠生種滅位,由簡擇力餘不更生,說名擇滅。離簡擇力,由闕緣故餘不更生,名非擇滅,如殘眾同分中夭者餘蘊。餘部師說:由慧功能隨眠不生,名為擇滅。隨眠緣闕後苦不生不由慧能,名非擇滅。離簡擇力此滅不成,故此不生即擇滅攝。有說:諸法生已後無,自然滅故,名非擇滅。如是所執非擇滅體應是無常,未滅無故。豈不擇滅擇為先故,先無後有應亦無常,非擇為先方有擇滅。如何擇滅亦是無常?所以者何?非先有擇後未生法方有不生。何者不生?本來自有,若無簡擇諸法應生,簡擇生時法永不起。於此不起,擇有功能,謂於先時未有生障,今為生障非造不生。若唯不生是涅槃者,此經文句當云何通?經言:五根若修若習若多修習,能令過去未來現在眾苦永斷。此永斷體即是涅槃,唯於未來有不生義非於過現,豈不相違?雖有此文而不違義。此經意說,緣過現苦煩惱斷故名眾苦斷。如世尊言:汝等於色應斷貪欲,貪欲斷時便名色斷及色遍智,廣說乃至識亦如是。過現苦斷義亦應然。設有餘經言斷過去未來現在諸煩惱者,准前理釋,義亦無違。或此經中別有意趣,過去煩惱謂過去生所起煩惱,現在煩惱謂現在生所起煩惱。如愛行中十八愛行,過去世起者依過去生說,未來現在應知亦爾。如是二世所起煩惱,為生未來諸煩惱故,於現相續引起種子,此種斷故彼亦名斷。如異熟盡時亦說名業盡,未來眾苦及諸煩惱,由無種故畢竟不生,說名為斷。若異此者,過去現在何緣須斷?非於已滅及正滅時,須設劬勞為令其滅。若無為法其體都無,何故經說:所有諸法,若諸有為若諸無為,於中離染最為第一。如何無法可於無中立為第一?我亦不說諸無為法其體都無,但應如我所說而有。如說此聲有先非有、有後非有,不可非有說為有故有義得成。說有無為,應知亦爾。有雖非有而可稱歎,故諸災橫畢竟非有名為離染。此於一切有非有中最為殊勝,為令所化深生欣樂,故應稱歎此為第一。若無為法唯非有者,無故不應名滅聖諦?且言聖諦其義云何?豈不此言屬無倒義。聖見有無皆無顛倒,謂聖於苦見唯是苦,於苦非有見唯非有,此於聖諦義有何違?如何非有而可立為第三聖諦?第二無間聖見及說,故成第三。若無為法其體唯無,空涅槃識應緣無境。此緣無境亦無有過,辯去來中當應思擇。若許無為別有實體,當有何失?復有何德?許便擁護毘婆沙宗是名為德,若有可護,天神定知自當擁護。然許實有,明虛妄計是名為失。所以者何?此非有體可得如色受等,亦非有用可得如眼耳等。又若別有,如何可立彼事之滅第六轉聲?由滅與事非互相屬,此彼相望非因果故。唯遮彼事,第六可成,彼事之無名為滅故。滅雖別有,而由彼事或得斷時方得此滅,可言此滅屬於彼事。何因此滅定屬此得?如契經言:苾蒭獲得現法涅槃。如何非有可言獲得?由得對治便獲永違煩惱,後有所依身故名得涅槃。復有聖教能顯涅槃唯以非有為其自性,謂契經言:所有眾苦皆無餘斷,各別捨棄盡、離染滅、靜息永沒。餘苦不續不取不生,此極寂靜、此極美妙,謂捨諸依及一切愛盡、離染滅,名為涅槃。云何不許言不生者依此無生故言不生?我等見此第七轉聲,於證滅有都無功力。何意故說依此無生?若依此言屬已有義,應本不生,涅槃常故。若依此言屬已得義,是則應許依道之得,故唯依道或依道得令苦不生。汝應信受。由此善釋經說喻言,如燈焰,涅槃心解脫亦爾。此經意說,如燈涅槃,唯燈焰謝,無別有物。如是世尊心得解脫,唯諸蘊滅,更無所有。阿毘達磨亦作是言:無事法云何?謂諸無為法。言無事者,謂無體性。毘婆沙師不許此釋。若爾,彼釋事義云何?彼言事者略有五種:一自性事,如有處言:若已得此事,彼成就此事。二所緣事,如有處言:一切法智所知隨其事。三繫縛事,如有處言:若於此事愛結所繫,彼於此事恚結繫耶?四所因事,如有處言:有事法云何?謂諸有為法。五所攝事,如有處言:田事宅事妻子等事。今於此中說因名事,顯無為法都無有因,是故無為雖實有物,常無用故無因無果。總論已竟。於諸果中應說何果何因所得?頌曰:
論じて曰く、本論の説のごとく、果の法とは何でしょうか。それはもろもろの有為と択滅とです。もしそうならば、無為は果であると認められる以上、因があるはずです。その因に対してこそ、これを果と言うことができるからです。またこの無為は因であると認められる以上、果もあるはずです。その果に対してこそ、これを因と言うことができるからです。ただ有為の法のみが因あり果ありであり、もろもろの無為はそうではありません。なぜでしょうか。六因がないからであり、五果がないからです。なぜもろもろの無間道が離繫果に対して能作因となることを認めないのでしょうか。生じることを妨げないものを能作因と立てるのであれば、無為には生がなく、道は何の働きをするのでしょうか。もしそうならば、誰の果なのでしょうか。果の意味はどのようなものでしょうか。それは道の果であり、道の力によって得られるからです。もしそうならば、道の果はただ「得」だけであるはずです。道は「得」に対して力があるのであり、択滅に対してではないからです。そうではありません。「得」に対しても択滅に対しても、道の機能には区別があるからです。どのように「得」に対して道に機能があるのでしょうか。生じさせることができるからです。どのように滅に対して道に機能があるのでしょうか。証することができるからです。この理により、道は滅の因ではないけれども、択滅が道の果であると言うことはできるのです。もろもろの無為に増上果がない以上、どうして能作因と言うことができるのでしょうか。もろもろの無為は他のものが生じる位において障げとならないから、能作因と立てるのです。しかし果がないのは、世法を離れているため、果を取る機能と果を与える働きがないからです。経部の師は説きます。無為は因ではない。無為が因であると説く経がないからであり、因はただ有為のみであると説く経があるからです。どこにその経の説があるのでしょうか。ある経に説かれているとおりです。もろもろの因、もろもろの縁で色を生じるものは、みな無常である。無常の因縁によって生じたもろもろの色が、どうして常でありえましょうか。広く説けば識についても同様です。もしそうならば、無為もまた、能縁の識などに対して所縁縁とならないはずです。ただ「生じる」と説かれているから所縁縁となりうるのです。すなわち経にはただ、もろもろの因、もろもろの縁で識を生じるものはみな無常であると説かれているのであって、すべて識の縁となるものはみな無常であるとは説かれていません。ですから反論にはなりません。ただ能生の因が無常であると説かれているからといって、無為がただ障げないだけで能作因であることを否定するわけではありません。ある経典には無為法が所縁縁であると説かれ、無為法が能作因であると説く経典はありません。ですから、ただ障げないだけの因性と立てるべきではありません。経に説かれていないとはいえ、どこにも否定されてはいません。また無量の経が今すでに隠没しています。どうして経に説かれていないと断定できるのでしょうか。もしそうならば、何を離繫と名づけるのでしょうか。すなわち本論に説かれる択滅です。そもそも先に問うたではありませんか。何を択滅と言うか、と。答えは、それは離繫です。今、何を離繫と名づけるかと問うています。答えは、それは択滅です。このように二つの答えが互いに依存し合い、ここではその自性をどうしても示すことができません。ですから別の門によって自性を開顕すべきです。この法の自性は実に言を離れており、ただもろもろの聖者がそれぞれ内証するのみで、ただ方便として総相を説いて、それは善であり常であり、別に実物があり、これを択滅とも名づけ離繫とも名づけると言うことができます。経部の師は説きます。一切の無為はみな実有ではなく、色や受などのように別に実物があるわけではなく、それがないからです。もしそうならば、どうして虚空などと名づけるのでしょうか。ただ触れるところのないものを虚空と名づけます。すなわち闇の中で触れ対するものがないとき、これは虚空であると言うのです。すでに随眠が生じて種が滅する位において、簡択の力によって残りがもはや生じないことを択滅と名づけます。簡択の力を離れ、縁が欠けているために残りがもはや生じないことを非択滅と名づけます。たとえば残りの衆同分の中で夭折した者の残りの蘊のようにです。他の部の師は説きます。慧の功能によって随眠が生じないことを択滅と名づけます。随眠の縁が欠け、後に苦が生じないのは慧の力によるものではなく、非択滅と名づけます。簡択の力を離れてこの滅が成り立たないから、この不生は択滅に摂められます。ある説では、もろもろの法が生じた後に無くなり、自然に滅するから、非択滅と名づけるといいます。このように執された非択滅の体は、無常であるはずです。まだ滅していないときは無いからです。そもそも択滅は択を先とするから、先に無く後に有り、これもまた無常であるはずではないでしょうか。択を先として初めて択滅があるのです。どうして択滅もまた無常なのでしょうか。なぜなら、先に択があって後に未生の法が不生となるのではありません。何が不生なのでしょうか。本来から自ら有るのです。もし簡択がなければもろもろの法は生じるはずです。簡択が生じるとき、法は永遠に起こりません。この不起に対して、択に功能があります。すなわち先の時には生の障げがなかったのに、今は生の障げとなるのであり、不生を作るのではありません。もしただ不生であることが涅槃であるならば、この経の文句はどう解釈すべきでしょうか。経に言います。五根をもし修め、もし習い、もし多く修習すれば、過去未来現在の衆苦を永遠に断つことができる、と。この永断の体がすなわち涅槃であり、ただ未来に不生の義があるのであって、過去現在にはないのです。どうして矛盾しないのでしょうか。この文があっても義に違反しません。この経の意は、過去現在の苦の煩悩が断たれるがゆえに衆苦が断たれると説くのです。世尊が言われたとおりです。あなたがたは色に対して貪欲を断つべきであり、貪欲が断たれるとき、色が断たれ、色の遍智が得られたと名づけられる。広く説けば識についても同様です。過去現在の苦が断たれる義もまた同様であるべきです。たとえ他の経に、過去未来現在のもろもろの煩悩を断つと説いてあっても、前の理に準じて解釈すれば、義に違反しません。あるいはこの経には別の意趣があります。過去の煩悩とは過去生に起こった煩悩であり、現在の煩悩とは現在生に起こった煩悩です。愛行の中の十八愛行のように、過去世に起こったものは過去生に依って説かれ、未来現在もまた同様と知るべきです。このように二世に起こった煩悩は、未来のもろもろの煩悩を生じるために、現在の相続に種子を引起します。この種が断たれるゆえに、それもまた断たれると名づけます。異熟が尽きるときに業が尽きたとも説くようなものです。未来の衆苦およびもろもろの煩悩は、種がないゆえに畢竟して生じず、断たれると名づけます。もしこれと異なるならば、過去現在は何のために断つ必要があるのでしょうか。すでに滅したものやまさに滅しつつあるものに対して、それを滅させるためにわざわざ労苦を設ける必要はありません。もし無為法の体がまったく無いならば、なぜ経に説かれているのでしょうか。すべてのもろもろの法、もろもろの有為ともろもろの無為、その中で離染が最も第一である、と。どうして無いものに、無の中で第一と立てることができるのでしょうか。私もまた、もろもろの無為法の体がまったく無いとは説きません。ただ私の説くように有るとすべきです。たとえばこの声は先には非有であり、後には非有であると言うように、非有をもって有りと説くことはできませんが、有の義は成り立ちます。無為が有ると説くのも同様と知るべきです。有は非有でありながら称嘆することができるから、もろもろの災横が畢竟して非有であることを離染と名づけます。これは一切の有と非有の中で最も殊勝であり、化される者たちに深く欣楽を生じさせるために、これを第一と称嘆すべきです。もし無為法がただ非有であるならば、無いゆえに滅聖諦と名づけるべきではないでしょう。そもそも聖諦の義とは何でしょうか。この言葉は無倒の義に属するのではありませんか。聖者は有も無もみな顛倒がないと見ます。すなわち聖者は苦に対してただ苦なりと見、苦の非有に対してただ非有なりと見ます。これが聖諦の義に何の違反があるでしょうか。どうして非有でありながら第三聖諦と立てることができるのでしょうか。第二は無間にして聖見かつ聖説であるゆえに、第三が成り立つのです。もし無為法の体がただ無であるならば、空涅槃識は無境を縁じるはずです。この無境を縁じることもまた過ちはありません。去来を弁じる中で思択すべきです。もし無為に別に実体があると認めるならば、どのような過失があるでしょうか。またどのような功徳があるでしょうか。認めるならば毘婆沙の宗を擁護することになり、これが功徳です。もし護るべきものがあるならば、天神は必ず知って自ら護るでしょう。しかし実有を認めることは、明らかに虚妄の計であり、これが過失です。なぜなら、これは色や受などのように有体として得られるものではなく、眼や耳などのように有用として得られるものでもないからです。またもし別に有るならば、どうしてその事の滅を第六転声と立てることができるのでしょうか。滅と事は互いに属するものではなく、これと彼は相望んで因果ではないからです。ただその事を遮るとき、第六が成り立ちます。その事の無を滅と名づけるからです。滅は別に有っても、その事によってあるいは断を得るときに初めてこの滅が得られ、この滅はその事に属すると言うことができます。何によってこの滅は定めてこの得に属するのでしょうか。経に言うとおりです。苾蒭は現法涅槃を得た、と。どうして非有を得たと言えるのでしょうか。対治を得ることによって永遠に煩悩に違背し、後に依る身体があるゆえに涅槃を得たと名づけます。また涅槃はただ非有をもってその自性とすることを示す聖教があります。すなわち経に言います。すべての衆苦は皆無余に断たれ、各別に捨てられ、尽き、離染し、滅し、静息し、永く没し、余の苦は続かず取らず生じない。これ極めて寂静、これ極めて美妙なるは、もろもろの依を捨て、一切の愛が尽き、離染し滅するを涅槃と名づける、と。どうして不生と言う者は、この無生に依るゆえに不生と言うことを認めないのでしょうか。私たちはこの第七転声が、滅を証するのにまったく功力がないと見ます。何の意によってこの無生に依ると説くのでしょうか。もしこの言葉によって已に有るという義に属するならば、本来不生であるべきです。涅槃は常だからです。もしこの言葉によって已に得たという義に属するならば、これならば道に依る得を認めるべきです。ですからただ道に依り、あるいは道の得に依って苦を不生とさせるのです。あなたは信受すべきです。これによって経に説かれた喻えをよく解釈できます。灯焰のように、涅槃も心解脱もまた同様です、と。この経の意は、灯が涅槃するとき、ただ灯焰が謝するだけで別に物があるわけではないと言います。このように世尊の心得解脱も、ただもろもろの蘊が滅するのみで、さらに何もありません。阿毘達磨にもまたこのように言います。無事法とは何か。もろもろの無為法です、と。無事と言うのは、体性がないことです。毘婆沙師はこの解釈を認めません。もしそうならば、彼の事の義の解釈はどのようなものでしょうか。彼は言います。事には略して五種があります。一に自性事、たとえばあるところに言う、すでにこの事を得たならば、彼はこの事を成就すると。二に所縁事、たとえばあるところに言う、一切法智の知るところはその事に随うと。三に繋縛事、たとえばあるところに言う、もしこの事に愛結に繋がれるならば、彼はこの事に恚結に繋がれるか、と。四に所因事、たとえばあるところに言う、有事法とは何か。もろもろの有為法です、と。五に所摂事、たとえばあるところに言う、田の事、宅の事、妻子などの事、と。今ここでは因を事と名づけ、無為法にはまったく因がないことを示します。ですから無為は実に物がありながら、常に用がないゆえに因なく果もないのです。総論はすでに終わりました。もろもろの果の中で、どの果が何の因によって得られるかを説くべきです。頌に曰く。
後因果異熟, 前因增上果,
同類遍等流, 俱相應士用。
後の因果は異熟(報いとしての結果)をもたらし、前の因は增上(より高次の力)の果を生む。同類の因は等流(同じ種類の流れ)の果を生じ、俱(共に)あり相応するものは士用(働きによる結果)をもたらす。
論曰:言後因者,謂異熟因,於六因中最後說故,初異熟果此因所得。言前因者,謂能作因,於六因中最初說故,後增上果此因所得。增上之果,名增上果。唯無障住,有何增上?即由無障得增上名。或能作因亦有勝力,如十處界於五識身,諸有情業於器世界,耳等對於眼識生等,亦有展轉增上生力,聞已便生欣見欲故。此等增上,如應當思。同類、遍行得等流果,此二因果皆似因故。俱有相應得士用果,非越士體有別士用,即此所得名士用果。此士用名為目何法?即目諸法所有作用,如士用故得士用名,如世間說鴉足藥草醉象將軍。為唯此二有士用果、為餘亦然?有說:餘因亦有此果,唯除異熟,由士用果與因俱生或無間生,異熟不爾。有餘師說:此異熟因亦有隔越遠士用果,譬如農夫所收果實。異熟等果其相云何?頌曰:
論に曰く、「後の因」とは異熟因を指す。六因の中で最後に説かれるからである。最初の異熟果はこの因によって得られる。「前の因」とは能作因を指す。六因の中で最初に説かれるからである。後の増上果はこの因によって得られる。増上の果であるから、増上果と名づける。ただ障害がないだけなのに、何の増上があるのか。すなわち障害がないことによって増上の名を得るのである。あるいは能作因にも勝れた力がある。例えば十処・十界が五識身に対して、諸々の有情の業が器世界に対して、耳などが眼識の生起に対して、また展転して増上する生ずる力がある。聞いてから欣見の欲を生じるからである。これらの増上は、理に応じて思うべきである。同類因と遍行因は等流果を得る。これらの二つの因と果は、いずれも因に似ているからである。俱有因と相応因は士用果を得る。士の体を越えて別の士用があるわけではない。すなわちこれによって得られるものを士用果と名づける。この士用の名は何の法を指すのか。すなわち諸法の有する作用を指すのである。士用の如くであるから士用果と名づける。世間で「烏足薬草」「酔象」「将軍」と言うのと同じである。ただこの二つの因だけが士用果を持つのか、それとも他の因も同様に持つのか。ある師は説く、「他の因にもこの果がある。ただ異熟因を除く。士用果は因と俱に生じ、あるいは無間で生じるが、異熟果はそうではないからである」。また他の師は説く、「この異熟因にも隔越した遠い士用果がある。例えば農夫が収穫する果実のようなものである」。異熟果などのその相は如何。頌に曰く、
異熟無記法, 有情有記生,
等流似自因, 離繫由慧盡。
若因彼力生, 是果名士用,
除前有為法, 有為增上果。
異熟無記の法は、有情の有記として生じる。 等流果は自らの因に似ている。離繫果は慧によって尽きる。 もし因の力によって生じたならば、その果を士用果と名づける。 過去の有為法を除いた、有為の増上果である。
論曰:唯於無覆無記法中有異熟果。為此亦通非有情數、唯局有情?為通等流及所長養?應知唯是有記所生,一切不善及善有漏能記異熟,故名有記。從彼後時異熟方起,非俱無間,名有記生。如是名為異熟果相。非有情數亦從業生,何非異熟?以共有故。謂餘亦能如是受用。夫異熟果必無有餘共受用義,非餘造業餘可因斯受異熟果。其增上果亦業所生,何得共受?共業生故。似自因法名等流果,謂似同類、遍行二因。若遍行因亦得等流果,何不許此即名同類因?此果但由地等染故,與因相似不由種類,若由種類果亦似因,此果所因乃名同類。故作是問:若是同類因亦遍行因耶?應作四句。第一句者,非遍行法為同類因。第二句者,他部遍法為遍行因。第三句者,自部遍法為遍行因。第四句者,除前諸相。由慧盡法名離繫果。滅故名盡,擇故名慧,即說擇滅名離繫果。若法因彼勢力所生,即說此法名士用果。如因下地加行心力上地有漏無漏定生,及因清淨靜慮心力變化心生,如是等類擇滅應言由道力得。諸有為法,除前已生,是餘有為之增上果。士用、增上二果何殊?士用果名唯對作者,增上果稱通對此餘。如匠所成,對能成匠,具得士用、增上果名;對餘非匠,唯增上果。於上所說六種因中,何位何因取果與果?頌曰:
論に曰く、ただ無覆無記法の中にのみ異熟果がある。では、これは非情の衆生にも通じるのか、それともただ有情に限られるのか?また、等流果や長養にも通じるのか?知るべきである、異熟果はただ有記によって生じるものである。すなわち、一切の不善法及び善の有漏法は、異熟を記別することができるがゆえに「有記」と名づける。それらから後の時になって初めて異熟が生じるのであり、同時でもなく無間でもないことから「有記生」と名づけるのである。これを異熟果の相とする。
非情の衆生もまた業から生じるが、なぜ異熟果ではないのか?共有であるからである。すなわち、他の者もまた同様に受用しうるからである。そもそも異熟果は、必ず他の者と共に受用するという義はない。すなわち、他の者が業を造ったとしても、他の者がその業によって異熟果を受けるということはないのである。その増上果もまた業から生じるが、どうして共に受けることができようか?共業によって生じるからである。
自己の因に似た法を等流果と名づける。すなわち、同類因と遍行因に似ることをいう。もし遍行因もまた等流果を得るならば、どうしてこれを即ち同類因と名づけないのか?この果はただ地などの染汚によって因と相似するのであり、種類によるのではない。もし種類によって果もまた因に似るならば、この果の所因を乃ち同類と名づけるのである。
そこで問う:もし同類因ならば、これも遍行因であるか?四句で答えるべきである。第一句とは、非遍行法が同類因となること。第二句とは、他部の遍行法が遍行因となること。第三句とは、自部の遍行法が遍行因となること。第四句とは、前の諸相を除くことである。
慧によって法を尽くすことを離繫果と名づける。滅するがゆえに「尽」と名づけ、択ぶがゆえに「慧」と名づける。すなわち択滅を離繫果と名づけるのである。
もし法がその力によって生じるならば、すなわちこの法を士用果と名づける。例えば、下地の加行心力によって上地の有漏・無漏の定が生じること、及び清浄な静慮の心力によって変化心が生じることなどの類いである。択滅は道力によって得られるといい、これも士用果に含まれる。
一切の有為法は、前にすでに生じたものを除いて、その他の有為の増上果である。
士用果と増上果の二つの果は何が異なるのか?士用果の名はただ作者に対してのみであり、増上果の称はこの他のものにも通じる。例えば、匠が作ったものは、能作の匠に対しては士用果と増上果の二つの名を具えるが、他の匠でない者に対してはただ増上果のみである。
先に説いた六種の因の中において、どの位でどの因が果を取り、果を与えるのか?頌に曰く、
五取果唯現, 二與果亦然,
過現與二因, 一與唯過去。
五取の果はただ現在のみであり、 二は果を与えることも同様です。 過去と現在は二つの因に与え、 一はただ過去にのみ与えます。
論曰:五因取果唯於現在,定非過去,彼已取故;亦非未來,彼無用故。亦應如是說,能作因非定有果,故此不說。俱有、相應與果亦爾,唯於現在,由此二因取果與果必俱時故。同類、遍行二因與果通於過現,過去可然。如何現在與等流果?有等流果無間生故。若果已生,因便過去,名已與果,不應更與。善同類因有時取果而非與果,應作四句。第一句者,謂斷善根時最後所捨得。第二句者,謂續善根時最初所得得,應說爾時續者前得。第三句者,謂不斷善根於所餘諸位。第四句者,謂除前相。又於不善同類因中亦有四句。第一句者,謂離欲貪時最後所捨得。第二句者,謂退欲貪時最初所得得,應說爾時退者前得。第三句者,謂未離欲貪於所餘諸位。第四句者,謂除前相。有覆無記同類因中亦有四句,於阿羅漢得時、退時、未得及餘,如理應說。無覆無記同類因中有順後句,謂與果時必亦取果。或時取果而非與果,謂阿羅漢最後諸蘊,約有所緣剎那差別。善同類因亦有四句。第一句者,謂善心無間起染無記心。第二句者,謂與上相違。第三句者,謂善心無間還起善心。第四句者,謂除前相。不善心等如其所應,亦有四句,准例應說。取果、與果其義云何?能為彼種故名取果,正與彼力故名與果。異熟與果唯於過去,由異熟果無與因俱及無間故。復有餘師,前五果外別說四果:一安立果,謂如水輪為風輪果,乃至草等為大地果。二加行果,謂如無生智等遠為不淨等果。三和合果,謂如眼識等為眼根等果。四修習果,謂如化心等為諸靜慮果。如是四果皆是士用、增上果攝。說因果已。復應思擇,此中何法幾因所生?法略有四,謂染污法、異熟生法、初無漏法、三所餘法。餘法者何?謂除異熟餘無記法,除初無漏諸餘善法。如是四法,頌曰:
論で述べられています。五つの因が果を取りるのは、ただ現在のみであり、過去は決してありません。なぜなら、そこではすでに取り終えているからです。また未来でもありません。そこではその働きがないからです。また、能作因は必ずしも果があるとは限らないので、ここでは述べないと、同じように言うべきです。俱有因と相応因が果を取るのもまた同様で、ただ現在のみです。この二つの因は果を取ることと果を与えることが必ず同時だからです。同類因と遍行因の二つの因が果を取ることと与えることは、過去と現在に通じます。過去はあり得ます。現在はどうして等流果を与えることができるのでしょうか?等流果は間断なく生じるからです。もし果がすでに生じたならば、因は過去となり、すでに果を与えたと言われ、再び与えるべきではありません。善の同類因には、ときに果を取っても果を与えないことがあります。四句で表現すべきです。第一句は、善根を断つ時の最後に捨てる所得です。第二句は、善根を続ける時の最初に得る所得であり、その時、続ける者は前の得を言うべきです。第三句は、善根を断たない時の残りの位です。第四句は、前の相を除いたものです。また不善の同類因の中にもまた四句があります。第一句は、欲貪から離れる時の最後に捨てる所得です。第二句は、欲貪に退く時の最初に得る所得であり、その時、退く者は前の得を言うべきです。第三句は、欲貪から離れていない時の残りの位です。第四句は、前の相を除いたものです。有覆無記の同類因の中にもまた四句があり、阿羅漢を得る時、退く時、得ていない時、その他の時について、理に従って説くべきです。無覆無記の同類因には順後の句があります。すなわち、果を与える時は必ずまた果を取ります。あるいは、ときに果を取っても果を与えないことがあり、それは阿羅漢の最後の諸蘊について、所縁のある刹那の差別に関してです。善の同類因にもまた四句があります。第一句は、善心が間断なく染汚の無記心を起こすことです。第二句は、上と相違することです。第三句は、善心が間断なくまた善心を起こすことです。第四句は、前の相を除いたものです。不善心などもその所応に従って、また四句があると、例に従って説くべきです。果を取ることと果を与えることの意味は何でしょうか?その種となることができるから、果を取ると名付け、正にその力を与えるから、果を与えると名付けます。異熟果はただ過去にのみ果を与えます。なぜなら、異熟果は因と同時または無間に存在することがないからです。また、他の師たちは、前の五つの果の他に別に四つの果を説きます。一に安立果、すなわち水輪が風輪の果であるなどのように、草などが大地の果であるまでです。二に加行果、すなわち無生智などが遠く不浄観などの果であることです。三に和合果、すなわち眼識などが眼根などの果であることです。四に修習果、すなわち化心などが諸々の静慮の果であることです。このような四つの果はみな士用果と増上果に含まれます。因果を説き終えました。さらに思択すべきです。ここでどの法が幾つの因によって生じるのでしょうか?法はおおまかに四つあります。すなわち、染汚法、異熟生法、最初の無漏法、三つの残りの法です。残りの法とは何でしょうか?すなわち、異熟を除いた残りの無記法、最初の無漏を除いた残りの善法です。この四つの法について、偈頌で述べます。
染污異熟生, 餘初聖如次,
除異熟遍二, 及同類餘生,
此謂心心所, 餘及除相應。
煩悩に染まった異熟(報いとして生じたもの)によって生じるものは、他の初めて聖道を得た者においては、順に次のように説かれる。すなわち、異熟と遍行の二つを除き、また同じ種類の他の生を除く。これは心と心所について言うのであり、他のもの(色など)は除かれ、また相应するものも除かれる。
論曰:諸染污法,除異熟因,餘五因生。異熟生法,除遍行因,餘五因生。三所餘法,雙除異熟、遍行二因,餘四因生。初無漏法,雙除前二及同類因,餘三因生。如是四法,為說何等?謂心心所不相應行及色四法。復幾因生?如心心所所除因外及除相應,應知餘法從四三二餘因所生。此中染污異熟生法,餘四因生。三所餘法,餘三因生。初無漏法,餘二因生。一因生法,決定無有。
論で述べられている。あらゆる煩悩に染まった法は、異熟因を除いた五つの因によって生じる。異熟として生じる法は、遍行因を除いた五つの因によって生じる。その他の三つの法(染汚でも異熟でもない法)は、異熟因と遍行因の両方を除いた四つの因によって生じる。最初の無漏の法は、先の二つの因(異熟因と遍行因)に加えて同類因も除いた三つの因によって生じる。
では、これらの四種の法とは具体的に何を指すのか。それは、心・心所・不相応行・色の四つの法である。そして、これらはさらにいくつの因によって生じるのか。心・心所について挙げられた除かれる因に加えて、相応因も除くべきことを知るべきである。すなわち、残りの法(不相応行と色)は、四つの因、三つの因、二つの因によって生じることがそれぞれの場合に応じて理解される。
このうち、染汚であり異熟として生じる法は、残りの四つの因によって生じる。その他の三つの法(染汚でも異熟でもない法)は、残りの三つの因によって生じる。最初の無漏の法は、残りの二つの因によって生じる。ただ一つの因だけで生じる法というものは、決して存在しないのである。
說一切有部俱舍論卷第六
説一切有部倶舎論 巻第六