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  1. 阿毘達磨倶舎論 (阿毘達磨俱舍論)
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阿毘達磨倶舎論 (阿毘達磨俱舍論)


分別世品第三之一

第三品 世間の分別(一)

已依三界分別心等。今次應說,三界是何?各於其中處別有幾?頌曰:

三界について心などを分類しましたが、次に三界とは何か、その中にそれぞれいくつの場所があるのかを説明しましょう。

**偈頌**:

地獄傍生鬼, 人及六欲天,
名欲界二十, 由地獄洲異。
此上十七處, 名色界於中,
三靜慮各三, 第四靜慮八。
無色界無處, 由生有四種,
依同分及命, 令心等相續。

地獄、餓鬼、畜生、人間、そして六欲天—— これらを合わせて欲界の二十の場所と呼ぶ。 それは地獄の種類や大陸の違いによる。

その上の十七の場所を色界と呼び、 その中で、前三つの静慮にはそれぞれ三つ、 第四の静慮には八つの場所がある。

無色界には特定の場所はなく、 生まれる種類によって四つに分かれる。 同じ種類の衆生としての性質と寿命によって 心などの働きが続いていく。

論曰:地獄等四及六欲天并器世間,是名欲界。六欲天者,一、四大王眾天;二、三十三天;三、夜摩天;四、覩史多天;五、樂變化天;六、他化自在天。如是欲界處別有幾?地獄洲異,故成二十。八大地獄,名地獄異。一等活地獄、二黑繩地獄、三眾合地獄、四號叫地獄、五大叫地獄、六炎熱地獄、七大熱地獄、八無間地獄。言洲異者,謂四大洲:一南贍部洲、二東勝身洲、三西牛貨洲、四北俱盧洲。如是十二并六欲天、傍生、餓鬼處成二十。若有情界從自在天至無間獄,若器世界乃至風輪,皆欲界攝。此欲界上處有十七,謂三靜慮處各有三,第四靜慮處獨有八,器及有情總名色界。第一靜慮處有三者,一梵眾天、二梵輔天、三大梵天。第二靜慮處有三者,一少光天、二無量光天、三極光淨天。第三靜慮處有三者,一少淨天、二無量淨天、三遍淨天。第四靜慮處有八者,一無雲天、二福生天、三廣果天、四無煩天、五無熱天、六善現天、七善見天、八色究竟天。迦濕彌羅國諸大論師皆言:色界處但有十六。彼謂:即於梵輔天處有高臺閣,名大梵天,一主所居非有別地,如尊處座四眾圍繞。無色界中都無有處,以無色法無有方所,過去未來無表無色不住方所,理決然故。但異熟生,差別有四:一空無邊處、二識無邊處、三無所有處、四非想非非想處,如是四種名無色界。此四非由處有上下,但由生故勝劣有殊。復如何知彼無方處?謂於是處得彼定者,命終即於是處生故。復從彼沒生欲色時,即於是處中有起故。如有色界一切有情,要依色身心等相續。於無色界受生有情,以何為依心等相續?對法諸師說彼心等依眾同分及與命根而得相續。若爾,有色有情心等,何不但依此二相續?有色界生此二劣故。無色此二因何故強?彼界二從勝定生故,由彼等至能伏色想。若爾,於彼心等相續,但依勝定,何用別依?又今應說,如有色界受生有情同分命根依色而轉,無色此二以何為依?此二更互相依而轉。有色此二何不相依?有色界生此二劣故。無色此二因何故強?彼界此二種,從勝定生故。前說彼定能伏色想,是則還同心相續難。或心心所唯互相依,故經部師說無色界心等相續無別有依。謂若有因未離色愛引起心等,所引心等與色俱生依色而轉。若因於色已得離愛,厭背色故,所引心等非色俱生不依色轉。何故名為欲等三界?能持自相故名為界。或種族義,如前已釋。欲所屬界說名欲界,色所屬界說名色界,略去中言故作是說,如胡椒飲如金剛環。於彼界中色非有故名為無色。所言色者,是變礙義,或示現義。彼體非色立無色名,非彼但用色無為體。無色所屬界,說名無色界,略去中言,喻如前說。又欲之界名為欲界,此界力能任持欲故。色無色界應知亦然。此中欲言為說何法?略說段食婬所引貪。如經頌言:

論曰:地獄など四つの苦しみの世界と六つの欲界天、さらに器世間を合わせて、これを欲界という。六つの欲界天とは、第一に四大王衆天、第二に三十三天、第三に夜摩天、第四に覩史多天、第五に楽変化天、第六に他化自在天である。

このような欲界の場所は、いくつに分けられるのか。地獄と洲とが異なるため、二十となる。八つの大地獄を地獄の種類とする。第一は等活地獄、第二は黒縄地獄、第三は衆合地獄、第四は号叫地獄、第五は大叫地獄、第六は炎熱地獄、第七は大熱地獄、第八は無間地獄である。

洲の種類とは、四大洲のことである。第一は南贍部洲、第二は東勝身洲、第三は西牛貨洲、第四は北俱盧洲である。これら十二(八大地獄と四大洲)に、六つの欲界天と傍生・餓鬼の世界を加えると、二十となる。

有情の世界が自在天から無間地獄に至るまで、そして器世界が風輪に至るまで、すべて欲界に含まれる。

この欲界の上には十七の場所がある。すなわち、三つの静慮の段階にはそれぞれ三つの場所があり、第四静慮には特に八つの場所がある。これらの器世界と有情世界を総称して色界という。

第一静慮の三つの場所とは、第一に梵衆天、第二に梵輔天、第三に大梵天である。第二静慮の三つの場所とは、第一に少光天、第二に無量光天、第三に極光浄天である。第三静慮の三つの場所とは、第一に少浄天、第二に無量浄天、第三に遍浄天である。第四静慮の八つの場所とは、第一に無雲天、第二に福生天、第三に広果天、第四に無煩天、第五に無熱天、第六に善現天、第七に善見天、第八に色究竟天である。

しかし、カシミールの高名な論師たちは皆、色界の場所は十六しかないと言う。彼らは、梵輔天の中に高い楼閣があり、それを大梵天と名付ける。これは一人の主だけが住み、別々の土地があるわけではない。ちょうど、尊い方が座に着くと、四つの集団が周りを囲むようなものである。

無色界には場所が全くない。なぜなら、無色のものには位置や方向がなく、過去や未来の無表も無色も場所に留まらないからであり、これは道理から明らかである。しかし、異熟によって生まれるものとして、四つの違いがある。第一に空無辺処、第二に識無辺処、第三に無所有処、第四に非想非非想処である。これら四つを無色界と名付ける。この四つは、場所による上下があるからではなく、生まれることによって勝れたり劣ったりする違いがあるのである。

どうして、そこに場所や方向がないと知ることができるのか。そこにその境地を得た者が、命を終えると、まさにその場所に生まれるからである。また、そこから死んで欲界や色界に生まれる時も、まさにその場所から中有が生じるからである。

例えば、色界のすべての有情は、色の身体と心などが継続するための基盤を必要とする。無色界に生まれる有情は、何を基盤として心などが継続するのか。アビダルマの論師たちは、その心などは衆同分と命根に依存して継続すると説く。

もしそうなら、色界の有情の心などは、なぜこれら二つだけに依存して継続しないのか。色界の生では、これら二つが劣っているからである。では、無色界ではなぜこれら二つが強いのか。あの世界のこれら二つは、勝れた禅定から生まれるからである。その禅定は、色の表象を抑えることができるからである。

もしそうなら、あの世界の心などの継続は、勝れた禅定だけに依存すればよく、なぜ別の基盤が必要なのか。

さらに、今説明すべきことがある。例えば、色界に生まれる有情の衆同分と命根は、色を基盤として働く。無色界のこれら二つは、何を基盤とするのか。これら二つは互いに依存して働く。では、色界のこれら二つは、なぜ互いに依存しないのか。色界の生では、これら二つが劣っているからである。では、無色界ではなぜこれら二つが強いのか。あの世界のこれら二つは、勝れた禅定から生まれるからである。先に、その禅定が色の表象を抑えることができると言った。これは、心などの継続の問題と同じ難しさに戻る。

あるいは、心と心所は互いにのみ依存する。だから、経量部の師たちは、無色界の心などの継続には別の基盤はないと説く。もし、原因があって色への愛着を離れていないときに心などが生じれば、その心などは色と共に生じ、色を基盤として働く。もし、色への愛着をすでに離れ、色に背を向けているなら、その心などは色と共に生じず、色を基盤として働かない。

なぜ、欲界・色界・無色界と名付けるのか。自らの特徴を保つから「界」という。あるいは、種族という意味である。先にすでに説明した通りである。欲望に属する界を欲界と言い、色に属する界を色界と言う。中間の言葉を省略して、このように言う。例えば、胡椒の飲み物や金剛の腕輪のようなものである。あの界には色がないから、無色界と名付ける。言うところの「色」とは、変化して妨げるという意味、あるいは示し現すという意味である。その本体に色がないので、無色界という名を立てるのであって、色がないことだけを本体とするのではない。無色に属する界を無色界と言い、中間の言葉を省略する。たとえは先と同じである。

また、欲望の界を欲界と言う。この界は欲望を保持する力があるからである。色界・無色界も同様であると知るべきである。

ここで言う「欲望」とは、何を説くのか。簡潔に言えば、食べ物や性交によって生じる貪りである。経典の偈頌にあるように、

世諸妙境非真欲, 真欲謂人分別貪,
妙境如本住世間, 智者於中已除欲。

世の中のあらゆる美しい対象は、それ自体が真の欲望ではありません。<br>真の欲望とは、人が心の中で分別し執着することです。<br>たとえ美しい対象がこの世にそのまま存在していても、<br>智慧ある人は、その中で執着の心をすでに取り除いているのです。

邪命外道便詰尊者舍利子言:

外道(げどう)が舎利子(しゃりし)尊者の言葉を非難しました。

若世妙境非真欲, 說欲是人分別貪,
比丘應名受欲人, 起惡分別尋思故。

もし世の素晴らしい対象が真の欲でないならば、 欲とは人が分別し執着することだと説かれている。 比丘は「欲を受ける人」と呼ばれるべきである、 それは悪しき分別と妄想を起こすからである。

時舍利子反質彼言:

そこで舎利子が彼にこう尋ね返した。

若世妙境是真欲, 說欲非人分別貪,
汝師應名受欲人, 恒觀可意妙色故。

もし世の中の素晴らしい対象が本当に欲望ならば、 欲望とは人間の分別による執着ではない、と説かれている。 あなたの師は「欲望を受ける人」と呼ばれるべきだ、 常に好ましい美しい色を観察しているから。

若法於彼三界現行,此法即說三界繫不?不爾。云何於中隨增三界貪者是三界繫?此中何法名三界貪?謂三界中各隨增者,今此所言同縛馬答。猶如有問縛馬者誰?答言馬主。即彼復問馬主是誰?答言縛者。如是二答皆不令解。今此所言不同彼答,謂於前說欲界諸處未離貪者,貪名欲貪,此所隨增名欲界繫。於前所說色無色中,隨其所應當知亦爾。或不定地貪名欲貪,此所隨增名欲界繫。諸靜慮地貪名色貪,此所隨增名色界繫。諸無色地貪名無色貪,此所隨增名為無色界繫。於欲化心上如何起欲貪?從他所聞,或自退失生愛味故。或觀化者自在勢力,於彼化心生貪愛故。若心能化香味二法,此能化心是欲界繫,色界心不能化作香味故。如是三界唯有一耶?三界無邊如虛空量,故雖無有始起有情,無量無邊佛出於世,一一化度無數有情令證無餘般涅槃界而不窮盡猶若虛空。世界當言云何安住?當言傍住,故契經言:譬如天雨滴如車軸,無間無斷從空下澍。如是東方無間無斷無量世界或壞或成,如於東方,南西北方亦復如是,不說上下。有說亦有上下二方,餘部經中說十方故。色究竟上復有欲界,於欲界下有色究竟。若有離一欲界貪時,諸欲界貪皆得滅離。離色無色應知亦爾。依初靜慮起通慧時,所發神通但能往至自所生界梵世非餘,所餘通慧應知亦爾。已說三界。五趣云何?頌曰:

三界において、ある法が現れ作用する場合、その法は三界に束縛されていると言えるのでしょうか?そうではありません。では、どのような場合に、三界の貪欲が増長するものが三界に束縛されていると言うのでしょうか。ここで、三界の貪欲とは何を指すのでしょうか。それは、三界それぞれにおいて増長するものを言います。ここで述べられていることは、いわゆる「馬を縛る者」の問答のようなものです。例えば、「馬を縛っているのは誰か」と問えば「馬の主である」と答え、さらに「馬の主とは誰か」と問えば「縛っている者である」と答えるようなものです。これらの二つの答えは、いずれも相手を理解させることができません。しかし、ここで述べられていることは、そのような答え方とは異なります。すなわち、先に述べた欲界の諸々の場所において、貪欲を離れていない者の貪欲を「欲貪」と言い、これが増長するものを「欲界に束縛されている」と言います。先に述べた色界、無色界についても、それぞれに応じて同じように理解すべきです。あるいは、定まっていない境地における貪欲を「欲貪」と言い、これが増長するものを「欲界に束縛されている」と言います。諸々の静慮の境地における貪欲を「色貪」と言い、これが増長するものを「色界に束縛されている」と言います。諸々の無色の境地における貪欲を「無色貪」と言い、これが増長するものを「無色界に束縛されている」と言います。

では、欲界の変化した心に対して、どのように欲貪が生じるのでしょうか。それは、他人から聞いたり、自ら退失して愛着の味わいを生じることによります。あるいは、変化させた者の自在な勢力を観察して、その変化した心に対して貪愛を生じることによります。もし、心が香りと味という二つの法を変化させることができるなら、この変化させる心は欲界に束縛されています。なぜなら、色界の心は香りと味を変化させることができないからです。

このように、三界はただ一つだけなのでしょうか。三界には限りがなく、虚空の量のようなものです。そのため、最初から存在する有情はないものの、無量無辺の仏が世に現れ、一人ひとりが無数の有情を教化して、完全な涅槃の境地に入らせても、尽きることはありません。あたかも虚空のようなものです。世界はどのように安住していると言うべきでしょうか。横に広がって安住していると言うべきです。それゆえ経典には、次のように説かれています。「例えば、天の雨が車軸のように、絶え間なく空から降り注ぐように、東の方にも絶え間なく無量の世界が壊れたり成ったりしている。南、西、北の方も同様である。ただし、上下については説かれていない」と。上下の二方も存在すると説く者もあります。他の部派の経典では十方について説かれているからです。色究竟天の上にはさらに欲界があり、欲界の下には色究竟天があります。もし一つの欲界の貪欲を離れるならば、諸々の欲界の貪欲はすべて滅び離れます。色界、無色界についても、同じように理解すべきです。

最初の静慮に基づいて神通の智慧を起こす時、発する神通は、ただ自身が生まれた世界の梵世に至ることができるだけで、他の世界には至れません。他の神通の智慧についても、同じように理解すべきです。

すでに三界について説きました。では、五つの趣とは何でしょうか。偈頌で示します。

於中地獄等, 自名說五趣,
唯無覆無記, 有情非中有。

地獄などの世界においては、 「五趣」と自ら名づけて説かれるが、 これらはすべて無覆無記であり、 有情であって中有ではない。

論曰:於三界中說有五趣,即地獄等如自名說,謂前所說地獄、傍生、鬼及人、天是名五趣。唯於欲界有四趣全,三界各有天趣一分。為有三界非趣所攝,而於界中說有五趣?有,謂善染外器中有,雖是界性而非趣攝。五趣體唯無覆無記,若異此者趣應相雜,於一趣中具有五趣業煩惱故。五趣唯是有情數攝,體非中有。《施設足論》作如是說:四生攝五趣,非五攝四生。不攝者何?所謂中有。《法蘊足論》亦作是言:眼界云何?謂四大種所造淨色是眼,眼根、眼處、眼界。地獄、傍生、鬼、人、天趣,修成中有。契經亦簡中有異趣。是何契經?謂《七有經》。彼說七有,謂地獄有、傍生有、餓鬼有、天有、人有、業有、中有。彼經中說五趣及因并趣方便,故趣唯是無覆無記,其理極成。簡業有因,異諸趣故。迦濕彌羅國誦如是契經:尊者舍利子作是言:具壽!若有地獄諸漏現前故,造作增長順地獄受業,彼身語意曲穢濁故,於㮏落迦中受五蘊異熟,異熟起已名那落迦,除五蘊法,彼那落迦都不可得。故趣唯是無覆無記。若如是者,《品類足論》當云何通?彼說五趣一切隨眠所隨增故。彼說五趣續生心中容有五部一切煩惱趣及入心。總說為趣,無相違失。譬如村落及村落邊總名村落。有說:趣體亦通善染。然《七有經》簡業有者,非別說故,定非彼攝。如五濁中煩惱與見別說為濁,非別說故,彼見定非煩惱所攝。如是業有雖亦是趣,為顯趣因,是故別說。若爾,中有亦應是趣。不爾,趣義不相應故。趣謂所往,不可說言中有是所往,即死處生故。若爾,無色亦應非趣,即於死處而受生故。既爾,中有名中有,故不應名趣。二趣中故名為中有,此若趣攝非中間故,是則不應說名中有。然彼尊者舍利子言異熟起已名地獄者,說異熟起方名地獄,非說地獄唯是異熟。然復說言,除五蘊法彼那落迦不可得者,為遮實有能往諸趣補特伽羅故作是說,非遮餘蘊故作是言。毘婆沙師說:趣唯是無覆無記。有說:一向是異熟生。有餘師言:亦通長養。即於三界及五趣中,如其次第識住有七。其七者何?頌曰:

論曰:三界の中に五趣があると説く。すなわち地獄などであり、その名の通り、先に述べた地獄・傍生・鬼・人・天を五趣と名付ける。欲界にはこの五趣が全て揃い、三界それぞれに天趣の一部がある。三界の中に、趣に含まれないものがありながら、それでも界の中に五趣があると説くのはなぜか。答え:善・染汚の外なる器と中有は、界の性質を持ちながらも趣には含まれない。五趣の本体は無覆無記のみである。もしそうでなければ、趣は互いに混ざり合うことになる。なぜなら、一つの趣の中に五趣の業と煩悩が存在するからである。五趣は有情の数にのみ含まれ、その本体は中有ではない。

『施設足論』はこう述べている。「四生は五趣を摂するが、五は四生を摂さない。摂されないものとは何か。すなわち中有である。」『法蘊足論』もまたこう言う。「眼界とは何か。四大種によって作られた浄色が眼であり、眼根、眼処、眼界である。地獄・傍生・鬼・人・天趣の修成と中有である。」契経もまた、中有が趣とは異なることを明確にしている。どの契経か。すなわち『七有経』である。そこでは七つの有を説く。すなわち地獄有・傍生有・餓鬼有・天有・人有・業有・中有である。その経の中では、五趣とその原因、そして趣への方便を説いている。したがって、趣は無覆無記のみであり、その道理は極めて成立している。業有(原因)を除外して、諸々の趣とは異なるものとしているのである。

カシミールの国の人々は、次のような契経を誦する。尊者舎利子がこう言った。「具寿よ、もしも地獄の諸々の漏が現前する故に、順地獄受の業を造り成長させるならば、その者の身・語・意は曲がり、汚れ、濁っている故に、捺落迦の中で五蘊の異熟が生じる。異熟が生じた後、それを那落迦と名付ける。五蘊の法を除いて、その那落迦は決して得られない。」したがって、趣は無覆無記のみなのである。

もしそうならば、『品類足論』の次の説はどう理解すべきか。そこでは「五趣の全ては、一切の随眠によって随って増長される」と説く。あの論では、五趣の続生する心の中には、五部の一切の煩悩と趣に入る心が含まれると説く。これらをまとめて趣と呼ぶのであって、矛盾はない。例えば、村落と村落の辺りを合わせて総じて村落と呼ぶようなものである。

ある説には、趣の本体は善や染汚にも通じると言う。しかし、『七有経』が業有を除外したのは、別に説かれているからであって、その故に業有は必ずしも趣に含まれないと決定するわけではない。例えば、五濁の中で煩悩と見を別々に濁と説くが、別に説かれているからといって、その見が必ずしも煩悩に含まれないわけではないのと同じである。このように、業有もまた趣ではあるが、趣の原因を示すために別に説かれたのである。

もしそうなら、中有もまた趣であるべきではないか。そうではない。趣の意味に合わないからである。趣とは「赴くところ」を意味する。中有は「赴くところ」と言うことはできない。なぜなら、死んだその場所で生まれるからである。もしそうなら、無色界もまた趣ではないことになる。死んだその場所で受生するからである。しかし実際には、中有は「中有」と名付けられているので、趣と呼ばれるべきではない。二つの趣の間にある故に中有と名付けられる。これがもし趣に含まれるなら、中間にあるものではなくなる。したがって、中有と名付けるべきではないのである。

しかし、あの尊者舎利子が「異熟が生じた後、それを地獄と名付ける」と言ったのは、異熟が生じて初めて地獄と名付けるのであって、地獄が異熟のみであると言っているのではない。さらに「五蘊の法を除いて、その那落迦は決して得られない」と言ったのは、実に諸々の趣に赴くことのできる補特伽羅が存在するという見解を遮るためにこのように述べたのであって、他の蘊を遮るために言ったのではない。

毘婆沙師はこう言う。「趣は無覆無記のみである。」ある説には「専ら異熟生である」と言う。さらに別の論師は「長養にも通じる」と言う。すなわち、三界および五趣において、その順序に従って識住は七つある。その七つとは何か。頌に曰く、

身異及想異, 身異同一想,
翻此身想一, 并無色下三,
故識住有七, 餘非有損壞。

身体が異なり、想いも異なる。 身体は異なるが、想いは同じである。 この反対に、身体と想いが一つである場合、 そして無色界の下の三つの領域がある。 だからこそ、識の住処は七つあり、 それ以外は損なわれているため、識の住処とはならない。

論曰:契經中說,有色有情身異想異,如人一分天,是第一識住。一分天者,謂欲界天及初靜慮,除劫初起。言身異者,謂彼色身種種顯形,狀貌異故。彼由身異,或有異身,故彼有情說名身異。言想異者,謂彼苦樂不苦不樂想差別故。彼由想異,或有異想,故彼有情說名想異。有色有情身異想一,如梵眾天謂劫初起,是第二識住。所以者何?以劫初起,彼諸梵眾起如是想:我等皆是大梵所生。大梵爾時亦起此想:是諸梵眾皆我所生。同想一因故名想一。大梵王身其量高廣,容貌威德言語光明衣冠等事,一一皆與梵眾不同,故名身異。經說:梵眾作是念言:我等曾見如是有情長壽久住,乃至起願:云何當令諸餘有情生我同分?於彼正起此心願時,我等便生彼同分內。梵眾何處曾見梵王?有餘師言:住極光淨,從彼天沒來生此故。云何今時不得第二靜慮,而能憶念彼地宿住事耶?若彼已得第二靜慮,云何緣大梵猶起戒禁取?有餘師說:住中有中,彼住中有中,無長時住義,以於受生無障礙故。如何梵眾可作念言:我等曾見如是有情長壽久住。是故梵眾即住自天,憶念此生前所更事,謂先見彼長壽久住,後重見時起如是念。有色有情身一想異,如極光淨天,是第三識住。此中舉後兼以攝初,應知具攝第二靜慮。若不爾者,彼少光天、無量光天何識住攝?彼天顯形狀貌不異,故名身一。樂非苦樂二想交參,故名想異。傳說彼天厭根本地喜根,已起近分地捨根現前;厭近分地捨根,已起根本地喜根現前。如富貴人厭欲樂已便受法樂,厭法樂已復受欲樂。豈不遍淨想亦應然?非遍淨天曾有厭樂,以樂寂靜曾無厭時;喜則不然,擾動心故。經部師說:有餘契經釋彼天中有想異義,謂極光淨有天新生,未善了知世間成壞。彼見下地火焰洞然,見已便生驚怖厭離:勿彼火焰燒盡梵宮令彼皆空上侵我處。彼極光淨有舊生天,已善了知世間成壞,便慰喻彼驚怖天言:淨仙淨仙。勿怖勿怖。昔彼火焰燒盡梵宮,令其皆空即於彼滅。彼於火焰有來不來想及怖不怖想故名想異,非由有樂非苦樂想有交參故得想異名。有色有情身一想一,如遍淨天,是第四識住。唯有樂想故名想一。初靜慮中由染污想故言想一,第二靜慮由二善想故言想異,第三靜慮由異熟想故言想一,下三無色名別,如經即三識住是名為七。此中何法名為識住?謂彼所繫五蘊四蘊,如其所應是名識住。所餘何故非識住耶?於餘處皆有損壞識法故。餘處者何?謂諸惡處第四靜慮及與有頂。所以者何?由彼處有損壞識法,故非識住。何等名為損壞識法?謂諸惡處有重苦受能損於識,第四靜慮有無想定及無想事,有頂天中有滅盡定能壞於識,令相續斷故非識住。復說:若處餘處有情心樂來止,若至於此不更求出,說名識住。於諸惡處,二義俱無。第四靜慮心恒求出,謂諸異生求入無想,若諸聖者樂入淨居或無色處,若淨居天樂證寂滅,有頂昧劣故非識住。如是分別七識住已。因茲復說九有情居。其九者何?頌曰:

論に曰きます。契経の中に説かれています。「有色の有情で、身は異なり想も異なるものがあり、人と天の一部のようなものがこれに当たります。これが第一の識住です。」「一部の天」とは、欲界の天と初静慮を指し、劫初に生じたものは除きます。「身が異なる」とは、それらの色身に種々の顕形があり、状貌が異なるからです。それらの有情は身が異なることにより、あるいは異なる身があることにより、「身異」と名づけられます。「想が異なる」とは、それらの苦・楽・不苦不楽の想に差別があるからです。それらの有情は想が異なることにより、あるいは異なる想があることにより、「想異」と名づけられます。

有色の有情で、身は異なり想は一つであるもの、たとえば梵衆天の劫初に生じたもののようなものが、第二の識住です。なぜでしょうか。劫初に生じたとき、それらの梵衆はこのように考えます。「われらは皆、大梵によって生まれた」と。大梵もそのとき、このように考えます。「これらの梵衆は皆、われによって生まれた」と。一つの因について同じ想を起こすので、「想一」と名づけます。大梵王の身は、その量は高く広く、容貌・威徳・言語・光明・衣冠などの事は、一つ一つが梵衆とは異なります。それゆえ「身異」と名づけます。

経に説いています。梵衆はこのように念じます。「われらはかつて、このような有情が長寿で久しく住んでいるのを見た」と。さらには願いを起こします。「どうすれば他の有情をわれらの同分に生じさせることができるだろうか」と。彼らがまさにこの心願を起こすとき、われらは彼らの同分の中に生まれます。梵衆はどこで梵王を見たのでしょうか。ある師は言います。「極光浄天に住み、その天から没してここに生まれたからです」と。なぜ今、第二静慮を得ていないのに、その地の宿住の事を憶念できるのでしょうか。もし彼らがすでに第二静慮を得ているなら、なぜ大梵を縁としてなお戒禁取を起こすのでしょうか。

ある師は説きます。「中有に住んでいます」と。彼らが中有に住むというのは、長く住むという意味はありません。受生に障礙がないからです。どうして梵衆が「われらはかつて、このような有情が長寿で久しく住んでいるのを見た」と念じることができるのでしょうか。それゆえ梵衆は自天に住み、この生の前に経験した事を憶念します。すなわち、先に彼の長寿久住を見て、後に再び見たときに、このような念を起こすのです。

有色の有情で、身は一つで想は異なるもの、たとえば極光浄天のようなものが、第三の識住です。ここでは後を挙げて初を兼ねて摂しています。第二静慮を完全に摂むことを知るべきです。もしそうでなければ、あの少光天・無量光天はどの識住に摂められるのでしょうか。それらの天は顕形・状貌が異ならないので、「身一」と名づけます。楽と非苦楽の二つの想が交参するので、「想異」と名づけます。

伝えられるところによれば、それらの天は根本地の喜根に厭き、すでに近分地の捨根を起こして現前にしています。近分地の捨根に厭き、すでに根本地の喜根を起こして現前にしています。富貴の人が欲楽に厭きて法楽を受け、法楽に厭きてまた欲楽を受けるようなものです。遍浄天の想もまたそのようであるべきではないでしょうか。遍浄天にはかつて厭楽があったのではありません。楽が寂静であるため、かつて厭く時がなかったのです。喜はそうではありません。心を擾動させるからです。

経部師は説きます。「他の契経に、それらの天の中に想異の義を釈したものがあります。極光浄天に新たに生まれた天があり、まだ世間の成壊をよく了知していません。彼は下地の火焔が洞然としているのを見て、見てから驚怖し厭離を生じます。『あの火焔が梵宮を焼き尽くして空にして、上にわれらの処を侵さないように』と。極光浄天に旧生の天があり、すでに世間の成壊をよく了知しており、驚怖した天を慰めていいます。『浄仙よ、浄仙よ。怖れるな、怖れるな。かつてあの火焔は梵宮を焼き尽くして空にし、まさにそこで滅した』と。彼は火焔について来る・来ないの想、および怖れる・怖れないの想を持つので、想異と名づけます。楽・非苦楽の想が交参するから想異の名を得るのではありません」と。

有色の有情で、身は一つで想も一つであるもの、たとえば遍浄天のようなものが、第四の識住です。ただ楽想のみがあるので「想一」と名づけます。初静慮では染汚想によるので「想一」といい、第二静慮では二つの善想によるので「想異」といい、第三静慮では異熟想によるので「想一」といいます。下の三無色は名が別であり、経に説くところによれば、これらが三識住です。これらを七と名づけます。

ここで何の法を識住と名づけるのでしょうか。それらの所繋の五蘊・四蘊が、それに応じて識住と名づけられます。残りのものはなぜ識住ではないのでしょうか。他の処には皆、識を損壊する法があるからです。他の処とは何でしょうか。諸悪処・第四静慮および有頂を指します。なぜでしょうか。それらの処には識を損壊する法があるので、識住ではありません。何を識を損壊する法と名づけるのでしょうか。諸悪処には重い苦受があり、識を損なうことができます。第四静慮には無想定および無想事があり、有頂天の中には滅尽定があり、識を壊して相続を断たせます。それゆえ識住ではありません。

また説きます。もし処において、他の処の有情が心に楽んで来止し、ここに至ってさらに出でんと求めないならば、識住と名づけます。諸悪処では、二つの義がともにありません。第四静慮では心が常に出でんと求めます。すなわち、諸の異生は無想に入ることを求め、諸の聖者は浄居または無色処に入ることを楽しみ、浄居天は寂滅を証することを楽しみます。有頂は昧劣であるため、識住ではありません。

このように七識住を分別しました。これによってさらに九有情居を説きます。その九つとは何でしょうか。頌に曰きます。

應知兼有頂, 及無想有情,
是九有情居, 餘非不樂住。

知っておくべきだ──有頂天と、無想有情も含めて、 これらが九つの有情の住処である。 その他は、住みたがらない者たちの場所ではない。

論曰:前七識住及第一有、無想有情,是名為九,諸有情類唯於此九欣樂住故立有情居。餘處皆非,不樂住故。言餘處者,謂諸惡處,非有情類自樂居中,惡業羅剎逼之令住故。彼如牢獄不立有情居。第四靜慮除無想天,餘非有情居,如識住中釋。前所引經說七識住,復有餘經說四識住。其四者何?頌曰:

論じて曰く、先に挙げた七識住と第一有(有頂天)、そして無想有情を合わせて九つとする。これらを有情居という。あらゆる有情は、ただこの九つの場所にのみ喜んで留まるからである。その他の場所は該当しない。そこに留まることを好まないからである。「その他の場所」とは、諸々の悪趣を指す。そこは有情が自ら喜んで留まる場所ではなく、悪業という羅刹が強制的に住まわせるのである。あたかも牢獄のようであり、有情居とはしない。第四静慮は、無想天を除けば、他は有情居ではない。その理由は識住の解釈と同じである。先に引用した経典では七識住を説いたが、さらに別の経典では四識住を説いている。その四つとは何か。偈頌に曰く、

四識住當知, 四蘊唯自地,
說獨識非住, 有漏四句攝。

四つの識の住処(四識住)とは、 すなわち四蘊がそれぞれの領域にあることを知るべきである。 「識のみ」は住処ではないと説かれ、 有漏のものは四つの句によってまとめられる。

論曰:如契經言:識隨色住,識隨受住,識隨想住,識隨行住,是名四種。如是四種其體云何?謂隨次第有漏四蘊。又此唯在自地非餘,識所依著,名識住故。非於異地色等蘊中識隨愛力依著於彼。如何不說識為識住?由離能住立所住故。非能住識可名所住,如非即王可名王座。或若有法識所乘御,如人船理說名識住。非識即能乘御自體,是故不說識為識住。毘婆沙師所說如是。若爾,何故餘契經言:於識食中有喜有染,有喜染故識住其中、識所乘御。又如何言前七識住五蘊為體?雖有是說,而於生處所攝蘊中不別分析,總生喜染故。識轉時亦名識住,非獨說識。然色等蘊一一能生種種喜染令識依著,獨識不然,故言非住。是故於此四識住中識非識住,於餘可說。又佛意說,此四識住猶如良田,總說一切有取諸識猶如種子,不可種子立為良田。仰測世尊教意如是。又法與識可俱時生,為識良田可立識住。識蘊不爾,故非識住。如是所說七種四種,識住雖殊而皆有漏。為七攝四、四攝七耶?非遍相攝。可為四句。謂審觀察應知二門體互寬陿得成四句,或有七攝非四攝等。第一句者,謂七中識。第二句者,謂諸惡處、第四靜慮及有頂中,除識餘蘊。第三句者,七中四蘊。第四句者,謂除前相。於前所說諸界趣中,應知其生略有四種。何等為四?何處有何?頌曰:

論じて言う。経典に「識は色に随って住し、識は受に随って住し、識は想に随って住し、識は行に随って住す」と説かれている。これが四種である。では、この四種の本体とは何か。それは、順に従って有漏の四蘊である。また、これは自地にのみあり他地にはない。識が依って執着するものを識住というからである。異なる地の色等の蘊の中に、識が愛の力に随って依って執着することはないのである。

なぜ識そのものを識住と説かないのか。能住を離れて所住を立てるからである。能住である識を所住と呼ぶことはできない。例えば、王そのものを王の座とは呼ばないのと同じである。あるいは、もし法があって識がそれに乗って御するなら、人が船に乗るのと同じ理で、それを識住と名づける。識が自らを乗って御することはないので、識を識住と説かないのである。毘婆沙師の説はこの通りである。

もしそうなら、なぜ他の経典に「識食の中に喜びや染まりがあり、喜びや染まりがあるがゆえに識はその中に住し、識はこれに乗って御する」と説かれているのか。また、なぜ「前七識住は五蘊を体とする」と説かれているのか。このような説はあるが、生まれる場所に含まれる蘊の中で別々に分析せず、総合的に喜びや染まりを生じるからである。識が転じるときも識住と名づけられるのであり、単独で識だけを言うのではない。しかし、色等の蘊は一つ一つが様々な喜びや染まりを生じて識を依らせ執着させるが、識だけはそうではないので、住にあらずと言うのである。ゆえに、この四識住の中では識は識住ではなく、他のものについては識住と言えるのである。

また、仏の意図は、この四識住を良田にたとえ、総じて一切の取ある諸識を種子にたとえ、種子を良田と立てることはできないと説かれているのである。このように世尊の教えの意図を推し量るのである。

また、法と識は同時に生じることができ、識の良田となるので識住と立てることができる。識蘊はそうではないので、識住ではないのである。

このように説かれた七種と四種は、識住としての違いはあるものの、いずれも有漏である。では、七種が四種を含むのか、四種が七種を含むのか。互いに完全に含み合うわけではない。四句とすることができる。すなわち、よく観察すれば、二つの門はその体の広狭が異なるので四句が成り立つことがわかる。あるいは七に含まれて四に含まれないものもある等である。

第一句とは、七の中の識である。 第二句とは、諸々の悪処、第四静慮、および有頂の中の、識を除いた残りの蘊である。 第三句とは、七の中の四蘊である。 第四句とは、前のものを除いた残りである。

前に説いた諸々の界や趣の中では、その生には概ね四種があることを知るべきである。どのような四種か。どこにどのようなものがあるのか。偈頌に言う。

於中有四生, 有情謂卵等,
人傍生具四, 地獄及諸天,
中有唯化生, 鬼通胎化二。

生き物の生まれ方には四種類ある。 卵生、胎生、湿生、化生である。 人間と畜生(動物)はこの四種類すべてを持つ。 地獄の衆生と天人は、化生だけである。 中有(死後、次の生に至るまでの中間状態)は、ただ化生のみである。 餓鬼は、胎生と化生の二種類がある。

論曰:謂有情類卵生、胎生、濕生、化生,是名為四。生謂生類。諸有情中雖餘類雜,而生類等。云何卵生?謂有情類生從卵㲉是名卵生,如鵝孔雀鸚鵡鴈等。云何胎生?謂有情類生從胎藏是名胎生,如象馬牛猪羊驢等。云何濕生?謂有情類生從濕氣是名濕生,如虫飛蛾蚊蚰蜒等。云何化生?謂有情類生無所託是名化生,如那落迦、天、中有等,具根無缺支分頓生,無而欻有故名為化。人傍生趣各具四種。人卵生者,謂如世羅鄔波世羅生從鶴卵,鹿母所生三十二子,般遮羅王五百子等。人胎生者,如今世人。人濕生者,如曼馱多遮盧鄔波遮盧,鴿鬘菴羅衛等。人化生者,唯劫初人。傍生三種,共所現見。化生如龍揭路荼等。一切地獄、諸天、中有,皆唯化生。鬼趣唯通胎化二種。鬼胎生者,如餓鬼女白目連云:

論じられています。衆生には、卵生・胎生・湿生・化生の四つの生まれ方があるといいます。これが四生です。「生」とは生類のことです。様々な衆生の中には、他の種類が混ざることもありますが、生まれ方の種類はこの四つにまとめられます。

卵生とは何でしょうか。有情が卵殻から生まれることを卵生といいます。例えば、鵞鳥、孔雀、鸚鵡、雁などです。

胎生とは何でしょうか。有情が胎内から生まれることを胎生といいます。例えば、象、馬、牛、豚、羊、驢馬などです。

湿生とは何でしょうか。有情が湿気から生まれることを湿生といいます。例えば、虫、飛蛾、蚊、蚰蜒などです。

化生とは何でしょうか。有情が寄託するものなく生まれることを化生といいます。例えば、地獄の者、天、中有などです。これらは器官が完全で欠けるところがなく、身体の部分が一度に生じます。無かったものが忽然と現れることから「化」といいます。

人間と畜生の生類は、それぞれ四つの生まれ方を備えています。人間の卵生とは、例えばシェーラとウパシェーラが鶴の卵から生まれたこと、鹿母が三十二子を生んだこと、バンチャーラ王の五百子などです。人間の胎生とは、例えば現在の世人です。人間の湿生とは、例えばマンダートリ、チャール、ウパチャール、鳩の鬘、アンバーパーリーなどです。人間の化生とは、劫の初めの人だけです。

畜生では三つの生まれ方が一般的に見られます。化生の例としては、竜やガルダなどです。

全ての地獄の者、天、中有は、ただ化生のみです。

鬼趣は胎生と化生の二種類のみです。鬼の胎生とは、例えば餓鬼女が目連にこう言ったことによります。

我夜生五子, 隨生皆自食,
晝生五亦然, 雖盡而無飽。

私は夜に五人の子を産みましたが、 彼らは生まれながらに自分で食べます。 昼間にまた五人生まれても同じで、 どんどん食べ尽くしても満たされることはありません。

一切生中何生最勝?應言最勝唯是化生。若爾,何緣後身菩薩得生自在而受胎生?現受胎生有大利故,謂為引導諸大釋種親屬相因令入正法。又引餘類令知菩薩是輪王種生敬慕心,因得捨邪趣於正法。又令所化生增上心:彼既是人,能成大義;我曹亦爾,何為不能因發正勤專修正法?又若不爾,族姓難知,恐疑幻化為天為鬼。如外道論矯設謗言:過百劫後當有大幻出現於世噉食世間。故受胎生息諸疑謗。有餘師說:為留身界故受胎生,令無量人及諸異類一興供養千返生天及證解脫。若受化生無外種故,身纔殞逝無復遺形,如滅燈光即無所見。若人信佛有持願通能久留身,此不成釋因論生論。若化生身如滅燈光死無遺者,何故契經說化生揭路荼取化生龍為充所食?以不知故為食取龍,不說充飢。斯有何失?或龍未死暫得充飢,死已還飢。暫食何咎!於四生內何者最多?唯化生。何以故?三趣少分及二趣全、一切中有皆化生故。此中何法說名中有?何緣中有非即名生?頌曰:

あらゆる生存の中で、どの生まれが最も優れているのでしょうか?答えは「化生」が最も優れている、と言うべきです。では、なぜ最後の身を生きる菩薩は自在に生まれることができるのに、胎生を受けるのでしょうか?それは、胎生を受けることには大きな利点があるからです。すなわち、多くの釈迦族の親族たちを導き、彼らを正しい教えに入れるためです。また、他の人々に菩薩が転輪聖王の家系に生まれたことを知らせ、敬慕の心を起こさせ、それによって邪を捨てて正しい教えに向かわせるためです。さらに、教化する者たちに向上心を起こさせます。「彼は人間でありながら、このような大きな業を成し遂げた。我々も人間である。どうしてそれができないはずがあるだろうか」と、彼らに奮起させ、正しい精進によって正しい教えを修行させるためです。もしそうでなければ、菩薩の出自がはっきりせず、幻化によって天や鬼のように見えるかもしれないと疑われる恐れがあります。例えば、外道の論者が偽って「百劫を過ぎた後に、世に大いなる幻が現れ、世の中のものを食べ尽くすだろう」と誹謗するように。ですから、胎生を受けることによって、このような疑いや誹謗を鎮めるのです。別の師はこう言います。「身体の遺物を残すために胎生を受ける。無量の人々や様々な種類の生き物が、一度の供養によって千回も天に生まれ、あるいは解脱を得るようにするためである。もし化生であれば、外側の種がないため、身体が滅びれば遺体は残らず、灯が消えれば何も見えなくなるようなものである。」もし人が、仏には願いを成就させる神通力があって、長く身体を留めておくことができると信じるならば、この説明は十分なものではないという論が起こり得ます。もし化生の身体が灯が消えるように死んで遺体が残らないのなら、なぜ経典には化生の金翅鳥が化生の龍を捕まえて食べると説かれているのでしょうか?それは、龍が食物であると知らずにただ捕まえたからであり、飢えを満たすためではないと言えるでしょう。あるいは、龍が死んでいなければ一時的に飢えを満たすことができ、死んだ後は再び飢えるのです。一時的に食べることの何が問題でしょうか。この四つの生まれの中で、どれが最も多いのでしょうか?それは、ただ化生だけです。なぜなら、三つの生存の一部分と二つの生存の全部、そしてすべて中有は化生だからです。ここで言う中有とは何であり、なぜ中有は生まれと呼ばれないのでしょうか?偈頌に曰く、

死生二有中, 五蘊名中有,
未至應至處, 故中有非生。

生死の二つの状態(生有と死有)の間にあるもの、 これを五蘊の集まりから成る「中有(ちゅうう)」と呼ぶ。 まだ行くべき場所に至っていないため、 この中有は「生」とは言えないのである。

論曰:於死有後、在生有前,即彼中間有自體起,為至生處故起此身,二趣中間故名中有。此身已起,何不名生?生謂當來所應至處,依所至義建立生名。此中有身其體雖起而未至彼,故不名生。何謂當來所應至處?所引異熟究竟分明,是謂當來所應至處。有餘部說:從死至生處容間絕,故無中有。此不應許。所以者何?依理教故。理教者何?頌曰:

論じて曰く、死有の後、生有の前、その中間に、自らの体が生じる。生まれるべき場所に至るために、この身が起こるのであり、二つの趣(生存状態)の中間であることから「中有」と名づける。この身はすでに生じているのに、なぜ「生」と呼ばないのか。「生」とは、未来において至るべき場所を指す。至るべきという意味に基づいて「生」の名が立てられる。この中有の身は、その体が生じていても、まだその場所に至っていない。それゆえ「生」とは呼ばないのである。では、未来において至るべき場所とは何か。それは、引き起こされた異熟の果報が、はっきりと分明に現れることである。これを「未来において至るべき場所」という。他の部派には、「死から生への間には、途切れることがあり得るので、中有は存在しない」と説くものがある。しかし、これは認めるべきではない。なぜならば、道理と教えに基づくからである。その道理と教えとは何か。偈頌に示される。

如穀等相續, 處無間續生,
像實有不成, 不等故非譬。
一處無二並, 非相續二生,
說有健達縛, 及五七經故。

穀物などのように連続して起こる現象も、 その場所においては、間断なく生じる。

しかし、実在する像のように固定したものは成立しない。 等しくないからであり、譬えとはならないのだ。

一つの場所に二つのものが同時に存在することはなく、 連続するものでも二つが同時に生じることはない。

「健達縛(ガンダルヴァ)」があり、 また「五つの経典」や「七つの経典」によって説かれているからである。

論曰:且依正理中有非無。現見世間相續轉法,要處無間剎那續生。且如世間穀等相續,有情相續理亦應然,剎那續生處必無間。豈不現見有法續生,而於其中處亦有間?如依鏡等從質像生。如是有情死有生有,處雖有間何妨續生?實有諸像理不成故,又非等故為喻不成。謂別色生說名為像,其體實有理所不成。設成非等,故不成喻。言像不成故非喻者,以一處所無二並故。謂於一處鏡色及像並見現前,二色不應同處並有,依異大故。又陿水上兩岸色形,同處一時俱現二像。居兩岸者互見分明,曾無一處並見二色,不應謂此二色俱生。又影與光未嘗同處,然曾見鏡懸置影中,光像顯然現於鏡面,不應於此謂二並生。或言一處無二並者,鏡面月像謂之為二,近遠別見如觀井水,若有並生如何別見?故知諸像於理實無。然諸因緣和合勢力令如是見,以諸法性功能差別難可思議。已辯不成所以非喻。言非等故亦非喻者,以質與像非相續故。謂質與像非一相續,唯依鏡等有像現故,像與本質俱時有故。如死生有是一相續前後無間餘處續生,質像相望無此相續,以不相似故不成喻。又所現像由二生故,謂二緣故諸像得生:一者本質、二者鏡等。二中勝者像依彼生,生有無容由二緣起,唯有死有無別勝依,故所引喻非等於法。亦不可說以外非情精血等緣為勝依性,由化生者空中欻生,於中計何為勝依性?已依正理對破彼宗從死至生處容間絕,是故中有決定非無。次依聖教證有中有,謂契經言:有有七種,即五趣有、業有、中有。若此契經彼部不誦,豈亦不誦《健達縛經》?如契經言:入母胎者要由三事俱現在前,一者母身是時調適、二者父母交愛和合、三健達縛正現在前。除中有身,何健達縛?前蘊已壞,何現在前?若此契經彼亦不誦,復云何釋《掌馬族經》?如彼經言:汝今知不?此健達縛正現前者,為婆羅門、為剎帝利、為是吠舍、為戍達羅?為東方來、為南西北?前蘊已壞不可言來,此所言來固唯中有。若復不誦如是契經,《五不還經》當云何釋?如契經說:有五不還,一者中般、二者生般、三無行般、四有行般、五者上流。中有若無,何名中般?有餘師執:有天名中,住彼般涅槃,是故名中般。是則應許有生等天;既不許然,故執非善。又經說有七善士趣,謂於前五,中般分三,由處及時近中遠故。譬如札火小星迸時,纔起近即滅,初善士亦爾。譬如鐵火小星迸時,起至中乃滅,二善士亦爾。譬如鐵火大星迸時,遠未墮而滅,三善士亦爾。非彼所執別有中天,有此時處三品差別,故彼所執定非應理。有餘復說:或壽量中間、或近天中間,斷餘煩惱成阿羅漢,是名中般。由至界位或想或尋而般涅槃,故有三品:或取色界眾同分已即般涅槃,是名第一。從是次後受天樂已方般涅槃,是名第二。復從此後入天法會乃般涅槃,是名第三。入法會已復經多時方般涅槃,是名生般。或減多壽方般涅槃非創生時,故名生般。如是所說與火星喻皆不相應。所以者何?以彼處行無差別故。又無色界亦應說有中般涅槃,由彼亦有壽量中間般涅槃故。然不說彼有中般者,如嗢拕南伽他中說:

論じて述べよう。正理に基づけば、中有は無いとは言えない。世間において、相続して転じる法が、間断なく刹那ごとに生じ続ける様子が現に見られる。例えば、世間の穀物などの相続がそうであり、有情の相続もまた道理として同じく、刹那ごとに生じ、その生じる場所には必ず間断がない。しかし、「現に、ある法が生じ続けるのに、その間に場所の隔たりがあるのではないか?」という反論もあろう。例えば、鏡などに映る像が、もとの物体から生じるような場合である。これと同じように、有情の死有と生有の間にも、場所に間隔があっても、相続して生じることは何の妨げにもならない。

しかし実際には、諸々の像は実在しないという道理が成立するため、この喩えは成り立たない。また、物事が等しくないため、喩えとして成立しないのだ。「像が実在しないから喩えにならない」というのは、一つの場所に二つのものが同時に存在できないからである。つまり、一つの場所に鏡の色と像が同時に現れることはない。なぜなら、二つの色は異なる四大から生じるため、同じ場所に共存できないからだ。また、狭い水面に両岸の色や形が同時に二つの像として現れることがあるが、両岸から見ればそれぞれ別々に見える。決して一つの場所に二つの色が同時に存在するのを見ることはなく、この二つの色が同時に生じたと主張すべきではない。

さらに、影と光は決して同じ場所に存在しない。しかし、鏡を影の中に置いた時、光が鏡面に明らかに現れるのを見ることがある。この場合、光と像が同時に生じたと主張すべきではない。また、「一つの場所に二つが同時に存在することはない」という主張に対して、例えば鏡の面と月の像を二つと見なすならば、近くから見るのと遠くから見るのとで異なり、井戸の水を見るようなものである。もし同時に存在するなら、どうして別々に見えるのだろうか?したがって、諸々の像が実際には存在しないことが知られる。しかし、諸々の因縁が和合する力によって、このように見えるのである。諸法の性質の機能の違いは計り知れないからだ。

以上のように、喩えが成立しないことが示された。「等しくないから喩えにならない」という点については、物体と像は相続しないからである。つまり、物体と像は一つの相続ではなく、鏡などによってのみ像が現れるからであり、像と元の物体は同時に存在するからである。死有と生有は一つの相続であり、前後が間断なく、他の場所に続いて生じるが、物体と像にはこのような相続はない。性質が似ていないため、喩えとして成立しないのだ。

また、現れる像は二つの原因によって生じる。つまり、諸々の像が生じるには二つの縁がある。第一に元の物体、第二に鏡などである。この二つのうち、優れた方に依って像は生じる。生有が二つの縁によって起こることはあり得ない。死有のみで、別に優れた依り所はないからである。したがって、引用された喩えは法に等しくない。

また、外部の非情である精や血などの縁を優れた依り所とすることもできない。なぜなら、化生の者は空中に忽然と生じるのであり、その場合に何を優れた依り所と数えるのだろうか?

すでに正理に基づいて彼の宗を破り、死有から生有への間に場所が間絶することがあり得ると示した。ゆえに、中有は決して無いのではない。

次に、聖教に基づいて中有が存在することを証明しよう。経典に「有には七種ある」と説かれている。すなわち、五趣有、業有、中有である。もしこの経典をその部派が誦持しないとしても、彼らは『健達縛経』をも誦持しないのだろうか?経典にこうある、「母胎に入るには、三つの事が同時に現前しなければならない。第一に母の身体が適時であること、第二に父母が愛欲の交わりをすること、第三に健達縛(乾闥婆)が正しく現前することである」。中有を除いて、何が健達縛であろうか?前の五蘊はすでに壊れているのに、何が現前するのか?もしこの経典を彼らも誦持しないなら、さらに『掌馬族経』をどう解釈するのか?その経典にこうある、「あなたは知っているか?この健達縛が正しく現前するのは、婆羅門か、刹帝利か、吠舎か、戍達羅か?東方から来るのか、南西北から来るのか?」前の五蘊はすでに壊れているので、来ると言うことはできない。ここで「来る」と言われるのは、まさに中有である。

もしこれらの経典も誦持しないなら、『五不還経』はどう解釈するのか?経典にこう説かれている、「五種の不還がある。第一に中般、第二に生般、第三に無行般、第四に有行般、第五に上流である」。中有が無ければ、何をもって中般と言うのか?ある他の論師は、「中という天があって、その天に住んで般涅槃するから、中般と名付ける」と主張する。そうであれば、生などの天も存在することを許すべきである。しかし、それは許されないから、この主張は正しくない。

また、経典には七種の善士趣が説かれている。すなわち、先の五種のうち、中般を三つに分けたもので、場所と時間が近・中・遠であることによる。たとえば、火の札から小さな火花が飛び散る時、ちょうど上がってすぐに消える。これが第一の善士である。たとえば、鉄の火から小さな火花が飛び散る時、上がって中途で消える。これが第二の善士である。たとえば、鉄の火から大きな火花が飛び散る時、遠くに落ちずに消える。これが第三の善士である。彼らが主張するような別の「中天」があるわけではない。このように時間と場所に三品の差別があるので、彼らの主張は道理に合わない。

他の者はまた、「あるいは寿命の途中で、あるいは天の近くの途中で、残余の煩悩を断じて阿羅漢となることを、中般と言う」と説明する。あるいは、界の位に至るか、あるいは想や尋によって般涅槃するので、三品がある。あるいは、色界の衆同分を取ってすぐに般涅槃する。これが第一である。それから、天の楽を受けてから般涅槃する。これが第二である。さらにその後、天の法会に入ってから般涅槃する。これが第三である。法会に入ってからさらに長い時間を経て般涅槃する。これを生般と言う。あるいは、寿命の多くの部分を減じてから般涅槃し、生まれた直後ではないから、生般と言う。

このような説明は、すべて火花の喩えと一致しない。なぜなら、その場所の行に差別がないからである。また、無色界にも中般涅槃があるべきだと言える。なぜなら、無色界にも寿命の途中で般涅槃することがあるからである。しかし、無色界に中般があると説かれないのは、ウダーナガーター(嗢拕南伽他)の中で次のように説かれているからである。

總集眾聖賢, 四靜慮各十,
三無色各七, 唯六謂非想。

聖なる賢者たちを総合すると、 四つの静慮(禅定)にはそれぞれ十の煩悩があり、 三つの無色界の境地にはそれぞれ七つ、 ただし非想非非想処だけは六つです。

故彼所執皆是虛妄。若復不誦如是等經,無上法王久已滅度,諸大法將亦般涅槃,聖教支離已成多部,其於文義異執交馳,取捨任情于今轉盛。哀哉汝等固守愚迷違理拒教,可傷之甚。諸有馮前理教為量,中有於彼實有極成。若爾,云何契經中說造極惡業度使魔羅,現身顛墜無間地獄。此經意說,彼命未捨,地獄猛焰已燒其身,因此命終受彼中有,乘茲乃墮無間地獄。由彼惡業勢力增強,不待命終苦相已至,先受現受、後受生受。何故經說:一類有情於五無間業作及增長已,無間必定生那落迦?此經意遮彼往異趣,及顯彼業定順生受。若但執文,應要具五方生地獄,非隨闕一或餘業因,便成大過。又言:無間生那落迦,應作即生不待身壞。或誰不許中有是生?那落迦名亦通中有,死有無間中有起時亦得名生,生方便故。經言無間生那落迦,不言爾時即是生有。若爾,經頌復云何通?如經頌言:

したがって、彼らの執着はすべて虚妄です。もしも、こうした経典を読誦しなければ、無上の法王はすでに久しく滅度し、諸々の大法将もまた般涅槃に入り、聖教は分裂して多くの部派となっており、その文義については異なる解釈が入り乱れ、取捨選択が恣意的に行われ、今やますます盛んになっています。哀れなことに、あなたがたは愚かさと迷いを固く守り、理に背き、教えに逆らっており、嘆かわしいことこの上ありません。かつての理と教えを基準としている者たちの中には、その中で確かに極めて成立しているものもいます。もしそうであるなら、なぜ経典には「極悪の業を造った者は、魔羅を度し、現身において無間地獄に堕ちる」と説かれているのでしょうか。この経の意図は、その者の命がまだ尽きていなくても、地獄の猛火がすでにその身を焼き、それによって命終えて中有を受け、そこから無間地獄に堕ちることを説いています。その悪業の勢力が強く増大したことにより、命終を待たずして苦しみの相がすでに現れ、まず現世での報いを受け、後に生まれてからの報いを受けるのです。なぜ経典は「ある種の有情が五無間業を造り、それを増長させたなら、無間(間をおかず)に必ず那落迦に生まれる」と説くのでしょうか。この経の意図は、その者が他の趣に生まれることを遮り、その業が必ず順生受(次の生で受ける報い)であることを示すためです。もしただ文面だけに執着するなら、五つの罪をすべて具えて初めて地獄に生まれることになり、一つ欠けたり、他の業因があっても生まれないことになってしまい、大きな過失となります。また「無間に那落迦に生まれる」と言うのは、その場で直ちに生まれ、身が壊れるのを待たないと解釈すべきでしょうか。あるいは、誰も中有が生であることを否定しないでしょうか。那落迦という名は中有にも通じます。死有の後、間をおかずに中有が生起する時もまた「生」と名づけられます。生の方便であるからです。経に「無間に那落迦に生まれる」と言うのは、その時がまさに生有であると言っているのではありません。もしそうであるなら、経の偈頌はどのように通じるのでしょうか。例えば、経の偈頌にこうあるように。

再生汝今過盛位, 至衰將近琰魔王,
欲往前路無資糧, 求住中間無所止。

あなたは、今や人生の盛りを過ぎ、衰えの時が近づいています。やがては閻魔大王のもとへと赴くことになるでしょう。前に進もうにも旅の糧はなく、この場に留まろうにも心の支えはありません。

若有中有,如何世尊言彼中間無有所止?此頌意顯彼於人中速歸磨滅無暫停義。或彼中有為至所生亦無暫停,行無礙故。寧知經意如此非餘?汝復焉知如餘非此?二責既等,何乃偏徵?二釋於經並無違害,如何偏證中有是無。凡引證言理無異趣,此有異趣為證不成。

もし中有(中間存在)が実在するならば、なぜ世尊は「その中間にはとどまるものがない」と説かれたのか。この偈頌の意図は、人間の間では速やかに滅び去り、少しの停滞もないことを示すものである。あるいは、中有が生まれるべき場所に至るまで、一瞬の停滞もなく、その進行を妨げるものがないことを意味する。どうすれば、経典の意図がこのように解釈されるのであって、他のようにではないと知ることができるのか。また、あなたはどうして、他の解釈ではなく、この解釈が正しいと知るのか。双方の非難は同等であり、なぜ一方的に問いただすのか。二つの解釈は経典にいずれも矛盾せず、どうして中有が存在しないと偏って主張できるのか。一般に引用される証拠は、理にかなっていて異なる趣旨をもたないものである。もし異なる趣旨があれば、それは

說一切有部俱舍論卷第八

説一切有部倶舎論 巻第八


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