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仏説十地経 (佛說十地經)


菩薩現前地第六之一

菩薩現前地第六

菩薩既聞諸勝行, 其心歡喜雨妙花;
放淨光明散寶珍, 供養如來稱善說。
百千天眾皆欣慶, 共在空中雨眾寶;
花鬘、纓珞及幢幡, 寶蓋、塗香咸供佛。
自在天王并眷屬, 心生歡喜在空中;
散寶成雲持供養, 讚言佛子快宣說。
無量天女空中住, 共以樂音歌讚佛;
聲中悉作如是言: 「佛語能除煩惱病,
法性本寂無諸相; 猶如虛空離分別,
超諸取著絕言道, 真實等品常清淨。
若能通達諸法性, 即於有無心不動;
為欲救世勤修行, 此佛口生真佛子。
不取眾相而行施, 本絕諸惡堅持戒,
解法無生常堪忍, 知法性離具精進,
煩惱已盡而入禪, 善達性空分別法,
具足智力能廣濟, 滅除眾惡稱大士。」
如是妙音千萬種, 讚已默然瞻仰佛;
解脫月言:「金剛藏! 以何行相入後地?」

菩薩は諸々の勝れた行いを聞くと、心に歓喜が湧き、妙なる花を雨のように降らせた。 清らかな光明を放ち、宝の珍品を散らして、如来に供養し、善説を称えた。

百千の天の衆も皆、喜びに満ち、共に空中で多くの宝を雨のように降らせた。 花の冠、瓔珞、そして幢幡、宝蓋、塗香をことごとく供え、仏に奉った。

自在天王とその眷属たちも、心に歓喜を抱き、空中にて宝を散らして雲とし、供養を捧げ、 「仏の子よ、速やかに説きたまえ」と讃嘆した。

無量の天女たちが空中に留まり、共に楽音をもって歌い、仏を讃えた。 その声の中に、皆がこのように言うのであった。 「仏の言葉は煩悩の病を除くことができ、 法性は本来寂滅であり、諸相はない。 虚空のように分別を離れ、 すべての執着を超え、言葉の道を絶ち、 真実平等の品性は常に清浄である。

もし諸法の性を通達することができれば、 有る無しに対して心が動じることはなく、 世を救わんがために勤めて修行する。 これこそ仏の口より生まれた真の仏の子である。

衆相を取らずに布施を行い、 本来、諸悪を絶ち、戒を堅持し、 法の無生を解して常に堪忍し、 法性の離れることを知り、精進を具え、 煩悩が尽きて禅に入り、 性空を善く達し、法を分別し、 智と力を具足して広く済度し、 衆悪を滅除して大士と称される。」

このような妙なる音声、千万の種類で讃嘆し終えると、黙然として仏を仰ぎ見た。 解脱月が言った。「金剛蔵よ、どのような行いの相をもって、後の地に入るのですか?」

爾時,金剛藏菩薩告眾菩薩言:「唯諸佛子!若是菩薩,第五地中所修之道善圓滿已,欲入菩薩第六地者,當以十種法平等性而入。何等為十?所謂:以一切法無相平等,以一切法無自相平等,以一切法無起平等,以一切法無生平等,以一切法寂淨平等,以一切法本來清淨平等,以一切法無戲論平等,以一切法不取、不捨平等,以一切法如幻、如夢、如影、如響、如水中月、如鏡中像、如陽焰水、如化平等,以一切法有無不二平等,以此十種法平等性入第六地。菩薩如是觀察隨瑩,隨順不逆一切諸法平等性故,通達第六現前智地。但以猛利須心而證,猶未現得無生忍門。菩薩隨行如是自性一切法時,以大悲愍為先導故,以大悲愍為增上故,為欲圓滿大悲愍故,觀諸世間合散生滅。菩薩觀此世生滅時,作是思惟:『世間所有受生施設,一切皆由我執而起,若離我執即無世間受生施設。』復作是念:『此諸異生愚癡無智執著於我,無明眩瞖之所覆蔽,求有非有隨不如理,作意馳散,奔騖僻路隨邪而行,集福非福不動諸行,而彼有情諸行所植有漏有取心之種子,復續來世生及老死,中有、後有業田攝藏。無明闇覆、愛水滋潤、我慢溉灌、見網增盛,生名色種芽,生已增長,名色長已五根流轉,諸根轉已遞互與識相對有觸,由觸相對諸受發生,自後於受欣樂名愛,愛增長取,取增生有,由有生已五蘊發生,五蘊起已於五趣中漸漸衰變,衰已失壞,衰失壞故有諸熱惱,因熱惱故一切愁歎,及苦憂惱眾苦皆集,此之一切無有集者,任運而滅亦無滅者。』菩薩如是隨順行相觀察緣起。

その時、金剛蔵菩薩は諸菩薩に告げて言った。「仏子たちよ、もし菩薩が第五地において修めるべき道を善く円満し終え、菩薩の第六地に入ろうとするならば、十種の法の平等性によって入るべきである。いかなるものが十か。すなわち、一切の法は無相であるという平等性、一切の法は自相がないという平等性、一切の法は起こることがないという平等性、一切の法は生じることがないという平等性、一切の法は寂静であるという平等性、一切の法は本来清浄であるという平等性、一切の法は戯論がないという平等性、一切の法は取らず捨てないという平等性、一切の法は幻のごとく、夢のごとく、影のごとく、響きのごとく、水中の月のごとく、鏡中の像のごとく、陽炎の水のごとく、化現のごとくであるという平等性、一切の法は有と無が不二であるという平等性、この十種の法の平等性をもって第六地に入るのである。菩薩はこのように観察し、心を磨き、一切の諸法の平等性に随順して逆らわないがゆえに、第六の現前智地に通達する。しかし、まだ鋭利な智慧の心をもって証するのみで、無生法忍の境地を現に得るには至らない。菩薩がこのような一切の法の自性に随って行じるとき、大悲の思いを先導とし、大悲の思いを増上縁とし、大悲の思いを円満せんがために、世間の集まりと散じ、生じと滅することを観るのである。菩薩がこの世の生滅を観るとき、このように思惟する。『世間におけるすべての生を受けるという施設は、一切みな我執によって起こる。もし我執を離れるならば、世間において生を受けるという施設はない。』さらにこのように念ずる。『これらの異生(凡夫)たちは愚かで智慧がなく、我に執着し、無明という眼翳に覆い隠され、有るものではないものを求め、理にかなわないままに作意して心を散乱させ、邪な道を駆け巡り、福・非福・不動の諸々の行を積み集める。そして、それらの有情たちは、諸行によって植え付けられた有漏で執取する心の種子が、さらに来世の生と老死を引き継ぎ、中有・後有という業の田に蔵されるのである。無明の闇に覆われ、愛の水に潤され、我慢によって灌漑され、邪見の網によって増盛させられて、名色という種の芽が生じ、生じた後は増長し、名色が成長すると五根が流転し、諸根が転じた後は互いに識と相対して触が生じ、触によって相対して諸々の受が発生する。その後、受に対して欣楽することを愛といい、愛が増長すると取となり、取が増長すると有となり、有が生じたために五蘊が発生し、五蘊が起こると五趣の中で次第に衰え変じ、衰えた後は失壊し、衰え失壊するがゆえに諸々の熱悩があり、熱悩を因として一切の愁歎および苦憂悩、衆苦がことごとく集まる。この一切には、集める者もなく、任運に滅するが、滅する者もない。』菩薩はこのように随順して行相を観察し、縁起を観るのである。

「復次,菩薩作是思惟:『以勝義相於諦無知名為無明,無明所作業果名行,行為依止初心名識,與識俱生餘四取蘊說為名色,名色增長說為六處,根、境與識三事和合名有漏觸,俱生名受,於受味著名為渴愛,渴愛增長是名為取,從取起有漏業名為有,業等流諸蘊起名為生,蘊熟為老,蘊壞名死,臨死欲壞愚迷之者有貪戀故心熱名愁,由愁發語號嘷喟歎,五根相對不悅名苦,意識相對不悅名憂,憂苦所生吁嗞名惱,純大苦對如是增成,於中永無作者、受者。』復作是念:『由執作者方有作用;既無作者,以勝義諦作用亦無。』即此菩薩作是思惟:所言三界,此唯是心,如來於此分別演說十二有支,皆依一心如是而立。何以故?若於事中貪欲相應,心起是識事即是行,於行迷惑是即無明,行與無明及心共生是謂名色,名色增長是謂六處,六處分是謂觸,觸共生是受,受用之時無厭是愛,愛逼攝受不捨是取,彼有支生起是有,有所起名生,生熟為老,老壞為死。此中無明有二種所作:一、所緣故迷惑有情;二、為諸行生起與因。諸行亦有二種所作:一、能生起未來異熟;二、為於識生起與因。識亦有二種所作:一、能續有;二、為名色生起與因。名色亦有二種所作:一、互相資助;二、為六處生起與因。六處亦有二種所作:一、能現示自境差別;二、為於觸生起與因。觸亦有二種所作:一、能觸所緣;二、為於受生起與因。受亦有二種所作:一、能領納愛、非愛境及二相違;二、為於愛生起與因。愛亦有二種所作:一、令可染事中染著;二、為於取生起與因。取亦有二種所作:一、能續雜染;二、為於有生起與因。有亦有二種所作:一、令後有異趣現前;二、為於生生起與因。生亦有二種所作:一、能起諸蘊;二、為於老生起與因。老亦有二種所作:一、令諸根有衰變異;二、共死會合生起與因。死亦有二種所作:一、能壞諸行;二、非遍知斷。

さらに、菩薩はこのように思惟する。「勝義の相において、真実を知らないことを無明という。無明によって生じる業とその果報を行という。行を依り所として生じる最初の心を識という。識とともに生じる他の四つの執着の集まりを名色という。名色が成長することを六処という。根、境、識の三つのものが和合し、漏れのある状態で触れることを有漏触という。それとともに生じるのを受という。受の味わいに執着することを渇愛という。渇愛が増大することを取という。取から漏れのある業が起こることを有という。業の流れに従って諸蘊が生じることを生という。蘊が熟することを老という。蘊が壊れることを死という。死に臨んで壊れゆくものに、愚かで迷える者は貪り愛着するゆえに心が熱することを愁という。愁によって発せられる言葉を号嘷喟歎という。五根が相対して不快であることを苦という。意識が相対して不快であることを憂という。憂と苦から生じる嘆きを悩という。純粋な大きな苦しみがこのように増大し、その中に永遠に作者も受者も存在しない。」

また、このように思う。「作者を執着するからこそ作用があるのである。作者が存在しないならば、勝義諦において作用もまた存在しない。」この菩薩はさらに思惟する。「いわゆる三界とは、これただ心のみである。如来はこれについて十二の有支を分別して説き、すべて一つの心に依ってこのように立てられたのである。なぜならば、もし事柄において貪欲と相応して心が起こるならば、それが識であり、事柄がすなわち行である。行に対して迷うことがすなわち無明である。行と無明、および心がともに生じることを名色という。名色が成長することを六処という。六処が分かれることを触という。触とともに生じるのを受という。受を用いるときに飽き足りないことを愛という。愛が迫って摂受し、捨てないことを取という。それらの有支が生じ起こることを有という。有から起こることを生という。生が熟することを老という。老いて壊れることを死という。

ここにおいて、無明には二種類の働きがある。一つは、対象となる縁によって有情を迷わせること。二つは、諸行を生じ起こす因となること。諸行にも二種類の働きがある。一つは、未来の異熟を生じ起こすこと。二つは、識を生じ起こす因となること。識にも二種類の働きがある。一つは、有を継続させること。二つは、名色を生じ起こす因となること。名色にも二種類の働きがある。一つは、互いに資け助け合うこと。二つは、六処を生じ起こす因となること。六処にも二種類の働きがある。一つは、自らの境の差別を現し示すこと。二つは、触を生じ起こす因となること。触にも二種類の働きがある。一つは、対象となる縁に触れること。二つは、受を生じ起こす因となること。受にも二種類の働きがある。一つは、愛する境、愛さない境、およびその二つに相反する境を領納すること。二つは、愛を生じ起こす因となること。愛にも二種類の働きがある。一つは、染まるべき事柄に染着させること。二つは、取を生じ起こす因となること。取にも二種類の働きがある。一つは、雑染を継続させること。二つは、有を生じ起こす因となること。有にも二種類の働きがある。一つは、後の有を異なる趣に現前させること。二つは、生を生じ起こす因となること。生にも二種類の働きがある。一つは、諸蘊を起こさせること。二つは、老を生じ起こす因となること。老にも二種類の働きがある。一つは、諸根に衰え変わる異状を生じさせること。二つは、死と会合して生じ起こす因となること。死にも二種類の働きがある。一つは、諸行を壊すこと。二つは、遍く知られず断たれないことである。」

「復次,於中無明緣行者,無明緣性,謂行不斷復有扶助。行緣識者,於行緣性,謂識不斷復有扶助。識緣名色者,於識緣性,謂名色不斷復有扶助。名色緣六處者,名色緣性,謂六處不斷復有扶助。六處緣觸者,六處緣性,謂觸不斷復有扶助。觸緣受者,於觸緣性,謂受不斷復有扶助。受緣愛者,於受緣性,謂愛不斷復有扶助。愛緣取者,於愛緣性,謂取不斷復有扶助。取緣有者,於取緣性,謂有不斷復有扶助。有緣生者,於有緣性,謂生不斷復有扶助。生緣老死者,於生緣性,謂老死不斷復有扶助。無明滅故行滅者,由於無明緣性無故,諸行斷滅更無扶助。行滅故識滅者,由於諸行緣性無故,識亦斷滅更無扶助。識滅故名色滅者,由於識緣性無故,名色斷滅更無扶助。名色滅故六處滅者,由於名色緣性無故,六處斷滅更無扶助。六處滅故觸滅者,由於六處緣性無故,觸亦斷滅更無扶助。觸滅故受滅者,由於觸緣性無故,受亦斷滅更無扶助。受滅故愛滅者,由於受緣性無故,愛亦斷滅更無扶助。愛滅故取滅者,由於愛緣性無故,取亦斷滅更無扶助。取滅故有滅者,由於取緣性無故,有亦斷滅更無扶助。有滅故生滅者,由於有緣性無故,生亦斷滅更無扶助。生滅故老死滅者,由於生緣性無故,老死斷滅更無扶助。

また、ここにおいて無明を縁として行がある場合、無明が縁となる性質によって、行は途切れることなく、さらに支えがある。行を縁として識がある場合、行が縁となる性質によって、識は途切れることなく、さらに支えがある。識を縁として名色がある場合、識が縁となる性質によって、名色は途切れることなく、さらに支えがある。名色を縁として六処がある場合、名色が縁となる性質によって、六処は途切れることなく、さらに支えがある。六処を縁として触がある場合、六処が縁となる性質によって、触は途切れることなく、さらに支えがある。触を縁として受がある場合、触が縁となる性質によって、受は途切れることなく、さらに支えがある。受を縁として愛がある場合、受が縁となる性質によって、愛は途切れることなく、さらに支えがある。愛を縁として取がある場合、愛が縁となる性質によって、取は途切れることなく、さらに支えがある。取を縁として有がある場合、取が縁となる性質によって、有は途切れることなく、さらに支えがある。有を縁として生がある場合、有が縁となる性質によって、生は途切れることなく、さらに支えがある。生を縁として老死がある場合、生が縁となる性質によって、老死は途切れることなく、さらに支えがある。

無明が滅するので行が滅するのは、無明が縁となる性質がなくなったからであり、諸々の行は断ち滅し、もはや支えがない。行が滅するので識が滅するのは、諸々の行が縁となる性質がなくなったからであり、識もまた断ち滅し、もはや支えがない。識が滅するので名色が滅するのは、識が縁となる性質がなくなったからであり、名色は断ち滅し、もはや支えがない。名色が滅するので六処が滅するのは、名色が縁となる性質がなくなったからであり、六処は断ち滅し、もはや支えがない。六処が滅するので触が滅するのは、六処が縁となる性質がなくなったからであり、触もまた断ち滅し、もはや支えがない。触が滅するので受が滅するのは、触が縁となる性質がなくなったからであり、受もまた断ち滅し、もはや支えがない。受が滅するので愛が滅するのは、受が縁となる性質がなくなったからであり、愛もまた断ち滅し、もはや支えがない。愛が滅するので取が滅するのは、愛が縁となる性質がなくなったからであり、取もまた断ち滅し、もはや支えがない。取が滅するので有が滅するのは、取が縁となる性質がなくなったからであり、有もまた断ち滅し、もはや支えがない。有が滅するので生が滅するのは、有が縁となる性質がなくなったからであり、生もまた断ち滅し、もはや支えがない。生が滅するので老死が滅するのは、生が縁となる性質がなくなったからであり、老死は断ち滅し、もはや支えがない。

「復次,於中無明、愛、取,是謂煩惱流不斷絕;行、有是業流不斷絕;餘支是苦流不斷絕。以差別故前後際滅,是流斷絕如是三流,悉是無我,離我、我所,自性生滅猶若束蘆。

さらに、その中で無明・愛・取は、煩悩の流れが絶えないことを示します。行と有は業の流れが絶えないことを示し、残りの支(要素)は苦の流れが絶えないことを示します。これらの違いによって、過去と未来の境界が消え去り、三つの流れ(煩悩・業・苦)が断ち切られるのです。この三つの流れはすべて無我であり、「私」や「私のもの」という執着から離れています。それらは自ずと生じ、自ずと滅するものであり、まるで束ねた芦のようなものです。

「復次,所說無明緣行是前世觀待;識乃至受是現世觀待;愛乃至有是後世觀待,由是於後相續流轉。無明滅故行滅者是觀待斷絕。復由如是十二有支有三苦性:此中諸行乃至六處是行苦性;觸、受此二是苦苦性;所餘有支是壞苦性。無明滅故行滅者,是三苦性究竟斷滅。無明緣行者是則顯行,從因從緣所生之性,餘亦如是。無明滅故行滅者此則顯示,行無自性,餘亦如是。無明緣行者,是生連縛,餘亦如是。無明滅故行滅者,是滅連縛,餘亦如是。無明緣行者,是隨順有觀,餘亦如是。無明滅故行滅者,是隨順盡滅觀,餘亦如是。菩薩如是以十行相順逆觀察諸緣起法,所謂:有支相續故、入一心故、自業差別故、不相捨離故、三流不斷故、前今後世觀待理故、三苦集故、因緣所生故、生滅連縛故、觀有盡故。菩薩以是十種行相觀諸緣起,由以無我、無壽命者、無數取趣自性空寂,離作者、受者觀緣起故,空解脫門而現在前,即此菩薩彼諸有支自性滅故,究竟解脫現證住故,無少法相後生起者,由是無相解脫門而現在前。又此菩薩如是趣入空無相已,無餘願求唯除大悲,為先導故成熟有情,由是無願解脫門而現在前。菩薩如是修習此三解脫門時,離自、他想,遠離作者及受者想,離有、無想,大悲為首,於未修證諸覺分法為修證故,轉復修行,作是思惟:『由相應故有為法轉,由不相應不能流轉;由和合故有為流轉,若無和合則不流轉;我已解了諸有為法,如是多咎污染而轉,是故我今當斷相應及彼和合。然為成熟諸有情故,不應永滅一切有為。』唯諸佛子!菩薩如是,觀諸有為多咎污染,永無自性本性畢竟不生不滅。觀察此時興大悲故,不捨一切有情聚故,名無著智現前般若波羅蜜多住,以寄現故而現在前。菩薩成就如是智已,慧到彼岸住之所照,引發能引覺分眾緣,然非有住而住之。觀有為法自性寂滅不住,於彼菩提分法未圓滿。菩薩住此現前地中,名入空性三摩地而現在前。自性空性三摩地,勝義空性三摩地,最上空性三摩地,大空性三摩地,相應空性三摩地,引發空性三摩地,如理無分別空性三摩地,有顧戀空性三摩地,離不離空性三摩地,而悉現前。此菩薩如是上首於空性門,百萬三摩地而現在前,如是於無相門百萬三摩地,於無願門百萬三摩地皆現在前。

また、説かれたところによれば、無明を縁として行があるというのは、前世に対する観待(関係づけ)である。識から受までは現世に対する観待であり、愛から有までは後世に対する観待である。これによって、後に相続して流転するのである。無明が滅するゆえに行が滅するというのは、観待が断絶することである。また、このような十二有支には三種の苦性がある。その中で、行から六処までは行苦の性であり、触と受のこの二つは苦苦の性であり、残りの有支は壊苦の性である。無明が滅するゆえに行が滅するというのは、この三苦の性が究竟において断滅することである。無明を縁として行があるというのは、行が因と縁から生じる性質であることを示し、他のものも同じである。無明が滅するゆえに行が滅するというのは、行に自性がないことを示し、他のものも同じである。無明を縁として行があるというのは、生の連縛であり、他のものも同じである。無明が滅するゆえに行が滅するというのは、滅の連縛であり、他のものも同じである。無明を縁として行があるというのは、有の観に随順することであり、他のものも同じである。無明が滅するゆえに行が滅するというのは、尽滅の観に随順することであり、他のものも同じである。

菩薩はこのように十の行相をもって、諸々の縁起の法を順逆に観察する。すなわち、有支が相続すること、一心に入ること、自業の差別があること、相捨離しないこと、三流が断たれないこと、前今後世の観待の理であること、三苦が集まること、因縁から生じること、生滅の連縛であること、有の尽きることを観ることである。菩薩はこの十種の行相をもって諸々の縁起を観じ、無我、無寿者、無數取趣として自性が空にして寂かであり、作者と受者を離れて縁起を観ずるがゆえに、空解脱門が現前する。すなわちこの菩薩は、それらの有支の自性が滅するゆえに、究竟の解脱を現証して安住し、わずかな法の相も後に生起しない。これによって無相解脱門が現前する。また、この菩薩はこのように空と無相に趣入したならば、余りの願い求めはなく、ただ大悲を先導として成熟有情のためのみにある。これによって無願解脱門が現前する。

菩薩はこのようにこの三解脱門を修習するとき、自と他の想いを離れ、作者及び受者の想いを遠離し、有と無の想いを離れ、大悲を首とし、未だ修証していない諸々の覚分の法を修証するために、さらに修行する。かく思惟する。「相応によって有為の法は転じ、相応しないならば流転することができない。和合によって有為は流転し、もし和合がなければ流転しない。私はすでに諸々の有為の法が、このように多くの過失と汚染をもって転ずることを理解した。それゆえ、私は今、相応とその和合を断つべきである。しかし、有情を成熟させるために、一切の有為を永く滅ぼすべきではない。」唯れ諸仏子よ!菩薩はこのように、諸々の有為が多くの過失と汚染をもち、永遠に自性がなく、本性として畢竟、不生不滅であると観ずる。この時に観察して大悲を興すゆえに、一切の有情の集まりを捨てないゆえに、無著智が現前する般若波羅蜜多の住と名づけ、寄現をもって現前するのである。

菩薩はこのような智を成就したならば、慧の彼岸に住する所照によって、覚分を引く衆縁を引き起こすが、しかし住するところに住するのではない。有為の法の自性が寂滅して住しないと観じ、その菩提分法は未だ円満していない。菩薩はこの現前地に住して、空性三摩地に入るという名が現前する。自性空性三摩地、勝義空性三摩地、最上空性三摩地、大空性三摩地、相応空性三摩地、引發空性三摩地、如理無分別空性三摩地、有顧恋空性三摩地、離不離空性三摩地が、ことごとく現前する。この菩薩はこのように上首として空性の門において、百万の三摩地が現前し、このように無相の門において百万の三摩地、無願の門において百万の三摩地が、すべて現前するのである。

佛說十地經卷第四

佛説十地経 巻第四


5 菩薩難勝地
7 菩薩遠行地

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