圓滿一切相現觀品第五之一(攝《般若》第二會三七卷〈不可得品〉至五二卷〈習近品〉)
第五之一 一切相現觀円満の章(『般若』第二会三七巻〈不可得品〉より五二巻〈習近品〉までを収録)
(丁二)廣釋四加行,分二:(戊一)自在因果、(戊二)堅固因果。初中又二:(己一)自在因一切相加行、(己二)果頂加行。初中又二:(庚一)一切相加行總建立、(庚二)從順解脫分釋生起次第。初中有三:(辛一)一切相加行自性、(辛二)修加行之德失、(辛三)加行之性相。初又分二:(壬一)智相差別、(壬二)明勝加行。初又分二:(癸一)略標、(癸二)廣釋。今初。
一切智差別, 行相為能相, 由三種智故, 許行相為三。
一切智には違いがあり、その行相が特徴となる。三種の智があるから、行相も三つと認められる。
總修三智行相慧所攝持之菩薩瑜伽,即一切相加行之相。界從大乘資糧道乃至最後心。修三智隨一行相慧所攝持之菩薩瑜伽,即菩薩能治品智相之相。界從大乘資糧道乃至最後心。
菩薩瑜伽は、三智の行相をすべて修め、慧によって支えられたものであり、これが一切相加行の相である。その範囲は、大乗の資糧道から最後の心(最終の瞬間)に至るまでである。三智のいずれかの行相に随って修め、慧によって支えられた菩薩瑜伽は、菩薩の対治すべき品と智の相に関するものであり、これが能治品智相の相である。その範囲も、大乗の資糧道から最後の心に至るまでである。
了知四諦上無常第十六行相一切智之諸差別,由善現起對治執五蘊常等所治品之能治行相,而摧伏彼執等之菩薩瑜伽,為此所說能修對治之能相。此能對治之行相,許有三種,由三智決定故。
ここで説かれる「能修対治の能相(対治法を修するための特徴)」とは、菩薩の瑜伽(ヨーガの実践)が、四諦の上にある無常という第十六の行相(観察の仕方)を用いて、五蘊が常であると執着するなどの所治品(対治されるべきもの)を打ち破るために、よく現起する対治の行相のことである。この対治の行相は、三智によって決定されることから、三種類あると認められる。
(癸二)廣釋分三:(子一)一切智相、(子二)道相智相、(子三)一切相智相。今初。
(癸二)廣說分三:(子一)一切智之相、(子二)道相智之相、(子三)一切相智之相。今說初者。
始從無邊相, 乃至無動相, 三諦各有四, 道中說十五。
無辺の相から始まり、動かない相に至るまで、三つの真理にはそれぞれ四つの側面があり、道の中で十五が説かれる。
從經云「如是般若波羅蜜多是無邊波羅蜜多,就苦諦無常相,」至云「如是般若波羅蜜多是無動波羅蜜多,說道諦無動相。」此諸經文,於前三諦各說四相,於道諦上說十五相,共說一切智二十七種相。前三諦各有四相者,謂苦無常、勝義無生、遠離異體我、自我分別不能屈伏。如其次第,即苦諦無常、苦、空、無我四相。生苦之愛因勝義無住、集勝義如虛空、尋伺勝義不可說、感後有之受愛緣勝義無名。如其次第,即集諦因、集、生、緣四相。滅勝義無行、靜緣不可奪、妙解脫無盡、離垢之滅無生。如其次第,即滅諦滅、靜、妙、離四相。道諦說十五者,分為三種,屬煩惱障無漏對治、屬所取分別所知障有漏對治,及彼無漏對治。初有四相,謂現證無作者補特伽羅我之菩薩見道,是道諦相。如是現證無知者補特伽羅我,無移轉者補特伽羅我,無調伏煩惱補特伽羅我之菩薩見道。如其次第,即道諦上道、理、行、出四相。所知障有漏對治有五相,謂外境無自性如夢、外境勝義無生如響、外境無滅如影像、外境本來寂靜如陽燄、外境自性湼槃如幻事。此是大乘修道五後得智。所知障無漏對治有六相,謂現證所執外境無染、外境無淨、無習氣薰染、無差別戲論、無味著智德之慢、已得不退之無動轉相。此是菩薩見道現證無所取之六根本智。
経典にこう説かれています。「この般若波羅蜜多は限りのない波羅蜜多であり、苦諦について無常の相を知る」から始まり、「この般若波羅蜜多は動じない波羅蜜多であり、道諦について動じない相を説く」に至るまで、これらの経文は、最初の三つの諦(苦諦・集諦・滅諦)についてはそれぞれ四つの相を説き、道諦については十五の相を説いて、合わせて一切知の二十七種の相を明かしています。
最初の三つの諦にそれぞれ四つの相があるとは、次の通りです。苦諦については、無常・苦・空・無我の四相です。すなわち、苦は無常であり、勝義においては生じることがなく、自己と別個の実体という我から遠く離れ、自己に対する分別によって打ち負かされることがない、という相です。
集諦については、因・集・生・縁の四相です。すなわち、苦を生む愛執の因は勝義において住することなく、集は勝義において虚空の如くであり、尋伺(こころの働き)は勝義において説くことができず、後有を感ずる受の愛執の縁は勝義において名づけることができない、という相です。
滅諦については、滅・静・妙・離の四相です。すなわち、滅は勝義において行(つくりごと)がなく、静は縁によって奪われることがなく、妙なる解脱には尽きることがなく、汚れを離れた滅は生じることがない、という相です。
道諦に十五の相を説くとは、これを三種に分けます。煩悩障に対する無漏の対治、所取の分別に対する所知障の有漏の対治、およびその所知障に対する無漏の対治です。
初めの四相は、次の通りです。作者(つくり手)としての補特伽羅我(人という実体)が存在しないことを現に証悟する菩薩の見道は、これが道諦の道の相です。同様に、知者としての補特伽羅我が存在しないこと、移り変わる者としての補特伽羅我が存在しないこと、煩悩を調伏する者としての補特伽羅我が存在しないことを現に証悟する菩薩の見道は、それぞれ道理の相・行の相・出離の相に対応します。
所知障の有漏の対治には五つの相があります。外境は自性なく夢の如し、外境は勝義において生じることなく響きの如し、外境は滅することがなく影像の如し、外境は本来寂静であり陽炎の如し、外境は自性において涅槃であり幻事の如し、というものです。これらは大乗の修道における五つの後得智です。
所知障の無漏の対治には六つの相があります。すなわち、執着される外境には染めがなく、外境には清浄もなく、習気による薰染もなく、差別の戲論もなく、智慧の徳に対する味着の慢心もなく、すでに得た不退転の動じない相を現に証悟する、というものです。これは菩薩の見道において、所取のないことを現証する六つの根本智です。
(子)二道相智相。
二つの道についての智慧の相(特徴)についてお話しします。
於因道及苦, 滅中如次第, 說彼有八七, 五及十六相。
因と道と苦について、 滅の中において、順に、 それらには八、七、 五、そして十六の相があると説かれる。
道相智有三十六相,謂如其次第緣集諦因之道相智有八相、緣道諦有七、緣苦諦有五、緣滅諦有十六,是經中所說故。初緣集諦有八者,謂大乘見道身中現證無我之智,遠離染著欲塵之欲、於彼不執著而住、寂滅樂後有愛相。如其次第,即集諦之因相上,愛境界欲、愛不離貪、樂後有愛之對治。又如是智,現證無貪著境、無瞋恚境、無愚痴境,即集相上貪瞋癡之對治。又如是智,現證無非理作意之煩惱境,即生相上執著常樂我淨等之對治。又如是智,現證無自在有情相,即緣相上執著自在有情之對治。第二緣道諦有七者,謂於無量有情啟開解脫道之道智相、啟開之理須不繫生死湼槃二邊之道智相,此二是道相。了知法界無離壞之道智相、了知之理須現證無取著聲聞獨覺道永離戲論之道智相,此二是理相。不分別實有之道智相、此須現證無限量法性之道智相,此二是行相。無實滯礙之道智相,即是出相。第三緣苦諦有五者,謂五取蘊剎那壞故是無常相、行苦性故是苦相、遠離異體之作者故是空相、無補特伽羅之我性故是無我相、實體空故是無相相。第四緣滅諦有十六者,謂離煩惱之滅,有內空、外空、內外空三相。靜相中,有空空、大空、勝義空、有為空、無為空、畢竟空、無際空、無散空八相。妙相,即本性空相。出離相中,有一切法空、自相空、不可得空三相。唯出離相者,謂無性自性空一相。此就十六種有法,而明十六種離垢法性之滅諦。如是道相智三十六種相。集諦相是就能治所治門中說,道諦相就所立與能立門中說,苦諦相就自相共相門中說,滅諦相是就勝利門中說。
道相智には三十六の相があります。すなわち、順に従って集諦・因諦を縁じる道相智には八相、道諦を縁じるものには七相、苦諦を縁じるものには五相、滅諦を縁じるものには十六相があると、経典の中で説かれています。
まず、集諦を縁じる八相について。大乗の見道において無我を現に悟る智慧は、欲望の対象に対する執着を離れ、それに執着せずに安住し、楽に対する愛着である「后有愛」の相を遠離しています。順に従って、これは集諦の因相における「愛境界欲」「愛不離貪」「楽后有愛」への対治となります。
また、この智慧は、貪りの対象なく、瞋りの対象なく、痴りの対象のないことを現に悟ります。これは集相における貪・瞋・痴への対治です。
さらに、この智慧は、理にかなわない作意という煩悩の対象のないことを現に悟ります。これは生相における常・楽・我・浄などへの執着への対治です。
そして、この智慧は、自在な有情という相のないことを現に悟ります。これは縁相における自在な有情への執着への対治です。
第二に、道諦を縁じる七相について。無量の有情のために解脱の道を開き示す道智の相、そしてその開示の理が生死と涅槃の両辺に縛られない道智の相、この二つが「道相」です。法界が壊れたり離れたりすることがないと了知する道智の相、そしてその了知の理が声聞・独覚の道に執着せず、戯論を離れることを現に悟る道智の相、この二つが「理相」です。実有として分別しない道智の相、そしてこれは限量のない法性を現に悟ることを要する道智の相、この二つが「行相」です。実に滞りや障りがない道智の相、これが「出相」です。
第三に、苦諦を縁じる五相について。五取蘊が刹那ごとに壊れるから無常相、行苦の性質を持つから苦相、異なる自己主体を離れているから空相、補特伽羅の我性がないから無我相、実体が空であるから無相相となります。
第四に、滅諦を縁じる十六相について。煩悩を離れた滅には、内空・外空・内外空の三相があります。静相には、空空・大空・勝義空・有為空・無為空・畢竟空・無際空・無散空の八相があります。妙相とは、本性空の相です。出離相には、一切法空・自相空・不可得空の三相があります。そして、ただ出離相のみとされるのが、無性自性空の一相です。このように十六種の有法に関して、十六種の垢を離れた法性としての滅諦が明かされます。
以上が道相智の三十六種の相です。集諦の相は能治・所治の観点から説かれ、道諦の相は所立と能立の観点から説かれ、苦諦の相は自相と共相の観点から説かれ、滅諦の相は勝利の観点から説かれています。
(子三)一切相智相。
あらゆる事物の本質を見通す智慧の特質とは。
始從四念住, 究竟諸佛相, 道諦隨順中, 由三智分別。
弟子及菩薩, 諸佛如次第, 許為三十七, 卅四三十九。
まず四念住から始まり、ついには諸仏の姿に至るまで、道諦に沿って、三つの智慧によって区別される。
弟子、菩薩、そして仏の順に、それぞれ三十七、三十四、三十九の修行法が認められている。
從念住相乃至佛相分為三聚,謂隨順聲聞弟子所有者三十七,隨順菩薩所有者三十四,唯佛所有者三十九。如是分為三智之理,謂隨順三類補特伽羅身中之道諦分為三智故。
念住の相から仏の相に至るまで、三つの集まりに分けられます。すなわち、声聞の弟子たちに随順するものは三十七あり、菩薩に随順するものは三十四あり、仏だけに属するものは三十九あります。このように三つの智慧に分ける理屈は、三種類の修行者(補特伽羅)の身の中にある道諦に随順して、三つの智慧に分けるからです。
宣說一切相智之相時,何故宣說共聲聞獨覺菩薩之相耶?由一切相智攝盡一切聖人之智德種類,故無過失。
一切相智の相を説くときに、なぜ声聞・独覚・菩薩に共通する相をも説くのか。一切相智がすべての聖者の智慧と徳の種類をすべて含み尽くしているからであり、それゆえに過失はないのである。
此中分三:隨順聲聞弟子所有一切智相、隨順菩薩所有道相智相、一切相智不共相。初者謂以慧觀察有漏身不淨、受是苦、心無常、法無我之別相,及觀察無常、苦、空、無我皆真實空之共相,安住正念,即四念住。其自性謂緣身、受、心、法四事,各修別、共二相。念慧隨一之入道現觀,為入四諦之取捨而修也。不善已生令斷、未生令不生,善已生令增長、未生令生之四正斷,自性謂於能治所治勇悍取捨之精進入道現觀,為斷已生不善等而修也。依止欲三摩地、依止精進、依止心三摩地、依止簡擇諸法之觀三摩地觸證心一境性之四神足,自性謂對治五過失修八斷行所得三摩地入道之現觀。五過失者,謂懈怠、忘教授、沈掉、不作行、作行。八斷行者,謂懈怠對治之信、欲、勤、安,忘教授對治之正念,沈掉對治之正知,不作行對治之作行,作行對治之不作行,此為變化種種相而修也。深忍諦理之信、勇悍取捨之精進、不忘所緣行相之念、心一境性之三摩地、簡擇實性之慧根,是為五根,自性謂於引生自果聖道能自在轉加行道煖位以上之信等五法,為速證聖諦及速圓滿加行道而修。深信四諦之信,趣證四諦之精進,不忘所緣行相之念,心一境性之三摩地,簡擇四諦相之慧力,是為五力,自性謂加行道忍位以上之信等五法,所為與根同。專緣四諦不散亂支謂念,自體支謂擇法,出離支謂精進,饒益身心勝利支謂喜,無染污支謂輕安,安住支謂定,自性支謂捨,是七菩提分,自性謂見道所得之念等七法。為斷見所斷及速圓滿滅道而修見道以上根本智見,在後得時以觀察慧簡擇諸法名為正見,欲為他說發起言語之尋名正思惟,語業清淨之智名正語,身業清淨之智名正業,身語二業清淨之智名正命,斷修所斷勇悍精進名正精進,任持不忘奢摩他所緣之念名正念,於念所取境專注之三摩地名正定,是為八聖道支,自性謂發生自果聖道之因聖者身中之智,見道未生令生,已生為令圓滿而修。如是七聚三十七法,諸聲聞弟子亦有,菩薩亦修,由一切智道相而說也。此七聚法界限,若如《俱舍》,初聚立於資糧道,次四聚立於煖等四加行位,聖道支立為見道,菩提分立為修道。若依《集論》,初三聚如其次第在下中上三資糧道,中二聚在加行,後二聚如其次第在見道修道。
ここで三種類に分けられる。すなわち、声聞の弟子に随順する一切智の相、菩薩に随順する道相智の相、そして一切相智の不共の相である。
初めのものは、智慧をもって有漏の身体は不浄であると観じ、受は苦であり、心は無常であり、法は無我であるという別々の相を観じ、また無常・苦・空・無我がすべて真実において空であるという共相を観じて、正念に安住することを四念住という。その自性は、身・受・心・法の四つの事柄を対象として、それぞれ別相と共相の二つを修習することである。念あるいは慧のいずれかによる入道の現観であり、四諦の取捨に入るために修習するものである。
不善がすでに生じたならばそれを断じ、未だ生じないならば生じないようにし、善がすでに生じたならばそれを増長させ、未だ生じないならば生じさせるという四正断は、その自性が、能治と所治に対して勇猛に取捨する精進による入道の現観であり、すでに生じた不善などを断ずるために修習するものである。
欲三摩地に依止し、精進に依止し、心三摩地に依止し、諸法を簡択する観の三摩地に依止して、心の一境性を触証する四神足は、その自性が、五つの過失を対治し八つの断行を修して得られる三摩地による入道の現観である。五つの過失とは、懈怠、教授を忘れること、沈没と掉挙、対治を行じないこと、行じ過ぎることである。八つの断行とは、懈怠の対治である信・欲・勤・安、教授を忘れることの対治である正念、沈没と掉挙の対治である正知、対治を行じないことへの対治である行、行じ過ぎることへの対治である不行であり、これらは様々な相を変化させて修習するものである。
真理を深く信受する信、勇猛に取捨する精進、所縁の行相を忘れない念、心の一境性である三摩地、実性を簡択する慧の根は、これらを五根という。その自性は、自らの果である聖道を引き起こすことができ、加行道の煖位以上において自在に転ずる信等の五法であり、聖諦を速やかに証得し、加行道を速やかに円満するために修習する。
四諦を深く信じる信、四諦の証得に向かう精進、所縁の行相を忘れない念、心の一境性である三摩地、四諦の相を簡択する慧の力は、これらを五力という。その自性は、加行道の忍位以上における信等の五法であり、その目的は五根と同じである。
専ら四諦に缘って散乱しない支分は念であり、自體の支分は択法であり、出離の支分は精進であり、身心を饒益する勝利の支分は喜であり、無染汚の支分は軽安であり、安住の支分は定であり、自性の支分は捨である。これらは七菩提分であり、その自性は見道において得られる念等の七法である。
見所断を断じ、滅道を速やかに円満するために、見道以上の根本智の見を修習し、後得の時には観察慧をもって諸法を簡択することを正見と名づけ、他者に説こうとして言語を発起する尋を正思惟と名づけ、語業が清浄である智慧を正語と名づけ、身業が清浄である智慧を正業と名づけ、身語二業が清浄である智慧を正命と名づけ、修所断を断ずる勇猛な精進を正精進と名づけ、奢摩他の所縁を忘れずに任持する念を正念と名づけ、念が取る所境に専注する三摩地を正定と名づける。これらを八聖道支という。その自性は、自らの果である聖道を生じる因としての聖者身中の智慧であり、見道が未だ生じないならば生じさせ、すでに生じたならば円満のために修習するものである。
このように七つの集まり、三十七の法は、声聞の弟子にもあり、菩薩も修習するものであり、一切智の道相によって説かれるものである。
この七つの集まりの法の限界について、もし『倶舎論』のようであれば、初めの集まりは資糧道に立てられ、次の四つの集まりは煖等の四加行位に立てられ、聖道支は見道に立てられ、菩提分は修道に立てられる。もし『集論』に依るならば、初めの三つの集まりは順に下・中・上の三資糧道にあり、中の二つの集まりは加行にあり、後の二つの集まりは順に見道と修道にある。
第二隨順菩薩所有道智之相。此有六類。第一對治道類,謂對治我見空解脫門,對治彼相續非理作意無相解脫門,對治願求三界為勝義應得無願解脫門。第二變化道類,謂修瑜伽師由內住有色想觀外色解脫,即有色觀色解脫;又瑜伽師由內住無色想觀外色解脫,即無色觀色解脫;勝解一切色相同一淨味解脫,即淨解脫。第三現法樂住道類,謂四無色定各從自定障解脫,即四無色解脫。又滅粗受想而解脫,即滅解脫。前三解脫名變化道者,以成就種種變化作用故。後五解脫名現法樂住道者,謂即於現法成就三摩地安樂住之作用故。第四出世間道類,差別有九。謂出世間道性之四靜慮、四無色等至,及滅盡等至。此九由前前漸次而得後後,故名九次第定。第五能斷道類,謂苦法忍、集法忍、滅法忍、道法忍,此是見道無間道所攝之四。第六成佛道類,十度,謂從布施波羅蜜多乃至般若波羅蜜多之六,更加方便波羅蜜多、願波羅蜜多、力波羅蜜多、智波羅蜜多為十。此是隨順菩薩所有道相智道三十四相。
次に、菩薩に従う道智の相について説明します。これには六つの種類があります。
第一に、対治の道に関する種類です。つまり、我への執着を対治する空解脱門、その後に続く非理作意を対治する無相解脱門、三界を求める願いが勝義において得られるべきものであると見なすことを対治する無願解脱門です。
第二に、変化の道に関する種類です。つまり、瑜伽を行う者が内に色想を住して外の色を観て解脱する「有色観色解脱」、また瑜伽を行う者が内に無色想を住して外の色を観て解脱する「無色観色解脱」、さらに一切の色相が同じ清浄な味わいであると勝解して解脱する「浄解脱」です。
第三に、現法楽住の道に関する種類です。つまり、四無色定がそれぞれ自らの定の障礙から解脱する「四無色解脱」、また粗い受と想を滅して解脱する「滅解脱」です。前三つの解脱を変化の道と呼ぶのは、様々な変化の作用を成就するからです。後五つの解脱を現法楽住の道と呼ぶのは、現世において三摩地の安楽に住する作用を成就するからです。
第四に、出世間の道に関する種類で、その区別には九つあります。つまり、出世間の道の性質を持つ四静慮、四無色等至、そして滅尽等至です。この九つは、前のものから徐々に後のものを得ていくことから、「九次第定」と呼ばれます。
第五に、能断の道に関する種類です。つまり、苦法忍、集法忍、滅法忍、道法忍であり、これらは見道の無間道に含まれる四つです。
第六に、成仏の道に関する種類で、十度とは、布施波羅蜜多から般若波羅蜜多までの六つに、さらに方便波羅蜜多、願波羅蜜多、力波羅蜜多、智波羅蜜多を加えた十です。
これが菩薩に従う道智の道における三十四の相です。
第三唯佛所有一切相智之相。有三十九。初十力者,謂知從布施感大資財是為處、感貧乏是非處之智力;知微細業異熟智力;知種種勝解智力謂樂善趣樂三乘,知世間界之自性住種及修所成種非一智力;知信等根上中下三勝非勝智力;知往增上生及决定勝一切道,及彼相違無礙著智力;知染淨智力;隨念自他往昔一切生智力;知一切眾生死生智力;知聲聞獨覺盡煩惱障、諸佛盡一切垢漏盡智力。四無畏者,自云我成正覺,無能如法攻難,謂智無所畏;為利他故宣說煩惱障所知障障礙解脫與一切智,無能如法攻難,謂說障礙法無所畏;宣說一切智等道定能出生三菩提,無能如法攻難,謂說出離道無所畏;自云我已盡一切漏,無能如法攻難,謂說自斷德圓滿無所畏。四無礙解者,謂無障礙了知諸法異名,謂法無礙解;能無障礙了知諸法自相共相,謂義無礙解;能無障礙了知諸有情語,謂詞無礙解;能無障礙了知諸法自性及行相差別,謂辨無礙解。十八不共佛法者,謂六不共行、六不共證、三不共事業、三不共智。初者謂如來不與醉象等同行,身行無失;不在稠林發無義狂呌,語行無失;不忘失所作及遲誤時等;念無失;無時不住空定;生死湼槃無勝義取捨異想;於可化所化時至未至無不觀察放捨。第二謂希求利有情之欲、樂往利所化處之精進、不忘調伏有情方便之念、於此專一之定、簡擇一切法之慧、永斷諸障之解脫,皆無退失。第三四威儀中調伏有情之身業,宣說具法具義之語業,大慈大悲等意業,皆智為先、與智俱行、智隨行轉。第四謂於過去未來現在智無障礙轉。如來相者,謂佛身如所有智,於離一切垢真如常不起定。自然相者,謂佛身盡所有智,於一切盡所有法心自在轉。正等覺相者,謂具前二分,於如所有、盡所有一切相現正等覺智。如是三智中,一切智三十七相者,謂諸聲聞以斷煩惱障為主名無煩惱漏。道相智三十四相者,謂諸菩薩不以斷煩惱障為主,假名有漏。一切相智三十九相者,謂諸佛盡斷二障故,唯是無漏。
第三に、仏のみが有する一切相智の特徴は三十九種ある。最初の十力とは、布施から大きな財産が生じることを知るのは「処」であり、貧乏が生じることを知るのは「非処」であるという智力。微細な業の異熟を知る智力。種々の勝解を知る智力とは、善趣や三乗を楽むことを知ること。世間の界の自性住種や修所成種が一つではないことを知る智力。信などの根の上中下、優れている劣っているを知る智力。増上生と決定勝に至る一切の道、およびその相反するものに滞りなく通じる智力。染めと清めを知る智力。自他の過去のすべての生を随念する智力。すべての衆生の死生を知る智力。声聞や独覚は煩悩障を尽くし、諸仏はすべての垢を尽くす漏尽の智力。
四無畏とは、自ら「私は正覚を成就した」と言い、法にかなって攻撃し難詰する者がいないことを知る智の無畏。他者の利益のため煩悩障と所知障が解脱と一切智を妨げると説き、法にかなって攻撃し難詰する者がいないことを知る説障害法の無畏。一切智などの道が必ず三菩提を生じることを説き、法にかなって攻撃し難詰する者がいないことを知る説出離道の無畏。自ら「私はすでにすべての漏を尽くした」と言い、法にかなって攻撃し難詰する者がいないことを知る説自断徳円満の無畏。
四無礙解とは、すべての法の異名を滞りなく知る法無礙解。すべての法の自相と共相を滞りなく知る義無礙解。すべての有情のことばを滞りなく知る詞無礙解。すべての法の自性と行相の差別を滞りなく知る辨無礙解。
十八不共仏法とは、六つの不共の行、六つの不共の証、三つの不共の事業、三つの不共の智である。最初のものとは、如来は酔った象などと共に歩くことがなく、身の行いに過失がないこと。雑木林で無意味な叫び声をあげることがなく、語の行いに過失がないこと。なしたことや時期の遅れなどを忘れることがなく、念に過失がないこと。常に空定に住しない時がないこと。生死と涅槃について勝義の取り捨ての異なる考えがないこと。教化すべき者に対して教化すべき時が来たか来ないかを観察せずに捨ておくことがないこと。
第二のものとは、有情の利益を求める欲、利益する所に赴く精進、有情を調伏する方便を忘れない念、それに専一な定、すべての法を簡択する慧、すべての障害を永く断ずる解脱が、すべて退失することがないこと。
第三のものとは、四威儀において有情を調伏する身業、法と義を具えたことを説く語業、大慈大悲などの意業が、すべて智を先とし、智と共にあり、智に従って転ずること。
第四のものとは、過去・未来・現在について智が滞りなく転ずること。
如来の相とは、仏身が如所有智であり、すべての垢を離れた真如において常に定から起きないこと。自然の相とは、仏身が尽所有智であり、すべての尽所有の法について心が自在に転ずること。正等覚の相とは、前の二つを具え、如所有・尽所有の一切の相について正等覚の智が現れること。
このように三智の中で、一切智の三十七相とは、声聞たちが煩悩障を断ずることを主とするので「無煩悩の漏」と名づける。道相智の三十四相とは、菩薩たちが煩悩障を断ずることを主としないので、仮に「有漏」と名づける。一切相智の三十九相とは、諸仏が二障を完全に断じているので、ただ無漏のみである。
現觀莊嚴論略釋卷二
現觀莊嚴論略釈 巻二