摩訶止觀卷第一(上)
摩訶止観 巻第一(上)
隋天台智者大師說
隋の天台智者大師の説
門人灌頂記
弟子灌頂記
止觀明靜,前代未聞。智者,大隋開皇十四年四月二十六日,於荊州玉泉寺,一夏敷揚、二時慈霔,雖樂說不窮,纔至「見境」,法輪停轉,後分弗宣。然挹流尋源,聞香討根。論曰:「我行無師保。」經云:「受莂於定光。」書言:「生知者上,學而次良。」法門浩妙,為天真獨朗?為從藍而青?行人若聞《付法藏》,則識宗元。
止観明らかにして静寂なること、これまで聞いたことがない。智者大師は、大隋の開皇十四年四月二十六日、荊州の玉泉寺において、一夏にわたって経を説き、昼夜を問わず慈悲の雨を降り注がれた。喜んで説法すること尽きることがなかったが、ちょうど「見境」に至ったところで法輪の回転は止まり、後半の部分は明かされなかった。しかしながら、流れを汲んで源を尋ね、香りを嗅いで根を探るように、論には「我が行いに師も保もなし」とあり、経には「定光仏の前で授記を受けた」とあり、書には「生まれながらに知る者は上、学んでから優れるのはそれに次ぐ」とある。法門は広大で妙なるものであるが、それは天から自然に独り明らかになるものだろうか?それとも藍の葉から藍色が出るように、学びによって得られるものだろうか?修行者が『付法蔵』を聞けば、宗派の根源を識ることができるだろう。
大覺世尊積劫行滿,涉六年以伏見,舉一指而降魔。始鹿苑,中鷲頭,後鶴林,法付大迦葉。迦葉八分舍利,結集三藏,法付阿難。阿難河中入風三昧,四派其身,法付商那和修。修手兩甘露、現五百法門,法付毱多。多在俗得三果,受戒得四果,法付提迦多。多登壇得初果,三羯磨得四果,法付彌遮迦。迦付佛馱難提。提付佛馱蜜多。多授王三歸,降伏算者,法付脇比丘。比丘出胎髮白,手放光取經,法付富那奢。奢論勝馬鳴,剃髮為弟子。鳴造《賴吒和羅妓》,妓音演無常、苦、空,聞者悟道,法付毘羅。羅造《無我論》,論所向處邪見消滅,法付龍樹。樹生生身、龍成法身,法付提婆。婆鑿天眼施萬肉眼,法付羅睺羅。羅識鬼名書,降伏外道,法付僧佉難提。提說偈試羅漢,法付僧佉耶奢。奢遊海見城說偈,法付鳩摩羅馱。馱見萬騎,記馬色、得人名、分別衣,法付闍夜那。那為犯重人作火坑,令入懺悔,坑成池,罪滅,法付盤馱。馱付摩奴羅。羅分恒河為二分,自化一分,法付鶴勒夜那。那付師子。師子為檀彌羅王所害,劍斬流乳。
大覚世尊は、長い劫の修行を経て満ち足り、六年の修行により見性を成就し、一指を挙げて魔を降伏させた。 まず鹿苑で、次に鷲頭山で、最後に鶴林において法を大迦葉に付嘱した。 迦葉は仏舎利を八分し、三蔵を結集して、法を阿難に付けた。 阿難は河の中に入り風三昧に入って、その身を四つに分け、法を商那和修に付けた。 商那和修は両手に甘露を授け、五百の法門を現じて、法を毱多に付けた。 毱多は在家で三果を得、受戒して四果を得、法を提迦多に付けた。 提迦多は登壇して初果を得、三羯磨により四果を得、法を弥遮迦に付けた。 弥遮迦は法を仏駄難提に付けた。 仏駄難提は法を仏駄蜜多に付けた。 仏駄蜜多は王に三帰を授け、算者を降伏させて、法を脇比丘に付けた。 脇比丘は胎を出てから髪が白く、手から光を放って経を取り、法を富那奢に付けた。 富那奢は論議で馬鳴に勝り、その頭を剃って弟子とした。 馬鳴は『頼吒和羅妓』を作り、その妓楽の音色で無常・苦・空を演じ、聞いた者は悟りを得た。法を毘羅に付けた。 毘羅は『無我論』を作り、その論の及ぶところでは邪見が消え去った。法を龍樹に付けた。 龍樹は生まれながらの身を龍とし、法身を成就した。法を提婆に付けた。 提婆は天眼を穿ち、万の肉眼を施した。法を羅睺羅に付けた。 羅睺羅は鬼の名を書いた書を知り、外道を降伏させた。法を僧佉難提に付けた。 僧佉難提は偈を説いて羅漢を試した。法を僧佉耶奢に付けた。 僧佉耶奢は海を遊覧して城を見て偈を説いた。法を鳩摩羅駄に付けた。 鳩摩羅駄は万騎を見て、馬の色を記し、人の名を得、衣服を分別した。法を闍夜那に付けた。 闍夜那は重罪を犯した者のために火の穴を作り、その中で懺悔させた。すると穴は池となり、罪は滅した。法を盤駄に付けた。 盤駄は法を摩奴羅に付けた。 摩奴羅は恒河を二分し、自らその一分を教化した。法を鶴勒夜那に付けた。 鶴勒夜那は法を師子に付けた。 師子は檀弥羅王によって害され、剣で斬られたが、血の代わりに乳が流れた。
付法藏人,始迦葉,終師子,二十三人。末田地與商那同時取之,則二十四人。諸師皆金口所記,並是聖人,能多利益。昔王不立厩於寺,立厩於屠,況好世值聖,寧無益耶?又婆羅門貨髑髏,孔達者、半者、不者,達者起塔禮供得生天。聞法之要,功德若此,佛為此益,付法藏也。
法を伝えた人々は、初めに迦葉、終わりに師子に至る、二十三人である。 末田地と商那を同時に加えると、二十四人となる。 これらの師たちは皆、釈迦の金口(仏の言葉)によって予言された、聖なる人々であり、多くの人々を利益することができる。 昔、ある王は寺院に馬小屋を設けず、屠殺場に馬小屋を設けた。 ましてや、よい世の中に聖者に出会うならば、利益がないことがあろうか。 また、あるバラモンが髑髏を売っていた。孔が通じているもの、半分通じているもの、通じていないものがあったが、孔が通じている髑髏には塔を建てて礼拝し供養したところ、天に生まれることができた。 教えの要点を聞くだけでも、功徳はこのようである。 仏はこのような利益の為に、法を付属して蔵に納めさせたのである。
此之止觀,天台智者說己心中所行法門。智者生,光滿室,目現雙瞳。行法華經懺,發陀羅尼,代受法師講金字《般若》。陳、隋二國宗為帝師。安禪而化,位居五品。故經云:「施四百萬億那由他國人,一一皆與七寶,又化令得六通,不如初隨喜人百千萬倍。」況五品耶?文云:「即如來使,如來所使,行如來事。」《大經》云:「是初依菩薩。」
この止観とは、天台智者が自らの心の中で修行した法門を述べたものです。智者が生まれた時、部屋中に光が満ち、両目には二つの瞳がありました。法華経の懺法を行い、陀羅尼を発し、代理で法師の金字の『般若経』の講義を受けました。陳・隋の両国の帝師として崇められました。静かに坐禅を組んで入滅し、その位は五品に達しました。ゆえに経典には「四百億那由他の人々に施しをし、一人ひとりに七宝を与え、さらに彼らを導いて六通を得させても、最初の随喜者に百千万倍も及ばない」とあります。ましてや五品の位に達した者はなおさらです。また文には「すなわち如来の使いであり、如来に遣わされて、如来の働きを行う者である」と説かれています。『大経』には「これは初依の菩薩である」とあります。
智者師事南岳,南岳德行不可思議,十年專誦,七載方等,九旬常坐,一時圓證,大小法門朗然洞發。南岳事慧文禪師,當齊高之世獨步河淮,法門非世所知,履地戴天莫知高厚。文師用心一依《釋論》,論是龍樹所說,《付法藏》中第十三師。智者《觀心論》云:「歸命龍樹師。」驗知龍樹是高祖師也。
智者は南岳を師として仰ぎました。南岳の徳行は不可思議であり、十年間ひたすら経典を誦し、七載にわたって方等三昧を修め、九十日間常に坐禅し、一瞬のうちに円満な悟りを開かれました。大小の法門が明らかに、あるがままに顕れ出ました。
南岳は慧文禅師に師事され、斉の時代には黄河・淮水地方に並ぶ者なく、その法門は世に知られることなく、天を戴き地を踏みながらも、その高さや深さを知る者はおりませんでした。
慧文禅師の修行の心は全て『大智度論』に依っており、この論は龍樹菩薩が説かれたものです。『付法蔵因縁伝』によれば龍樹は第十三祖に当たります。
智者大師は『観心論』で次のように述べておられます。「龍樹の師に帰命します。」これにより、龍樹が高祖師であることが確かめられます。
疑者云:「《中論》遣蕩,《止觀》建立,云何得同?」然天竺注論凡七十家,不應是青目而非諸師。又《論》云:「因緣所生法,我說即是空,亦為是假名,亦是中道義。」(云云)。
ある人が疑問を述べました。「『中論』は否定して打ち砕く教えであり、『摩訶止観』は肯定して教えを打ち立てるものです。どうして同じだと言えるのでしょうか?」 しかし、天竺(インド)には『中論』の注釈書が七十家もあり、青目の解釈だけを正しいとして、他の師たちの解釈を否定するのは誤りです。 また、『中論』にはこう説かれています。「因縁によって生じるすべてのものは、私はそれを『空』であると説き、またそれは『仮の名』であり、さらに『中道』の意味でもある」と。
天台傳南岳三種止觀:一、漸次,二、不定,三、圓頓,皆是大乘,俱緣實相,同名止觀。「漸」則初淺後深,如彼梯隥;「不定」前後更互,如金剛寶置之日中;「圓頓」初後不二,如通者騰空。為三根性,說三法門、引三譬喻。略說竟,更廣說。
天台大師は南岳から三種の止観を伝えられました。第一に漸次、第二に不定、第三に円頓です。これらはいずれも大乗の教えであり、すべて実相を対象とし、同じく止観と名付けられています。「漸」とは初めは浅く、後になるほど深くなることで、それは階段のようなものです。「不定」とは前後が入れ替わることで、ちょうど金剛宝を太陽の光に置いたときのように、輝きが一定しない様子にたとえられます。「円頓」とは初めと後ろが区別なく一つであることで、あたかも神通力を得た人が空中を自由に飛び回るようなものです。この三種の根機の持ち主のために、三つの法門を説き、三つの譬えを用いて示されました。以上が概略の説明です。ここからさらに詳しく述べていきましょう。
「漸」,初亦知實相,實相難解,漸次易行。先修歸戒,翻邪向正,止火血刀,達三善道。次修禪定,止欲、散網,達色、無色定道。次修無漏,止三界獄,達涅槃道。次修慈悲,止於自證,達菩薩道。後修實相,止二邊偏,達常住道。是為初淺後深漸次止觀相。
「だんだんと」というのは、初めは実相を知ることを目指しますが、実相は理解が難しく、段階を踏めば修行しやすいという意味です。まず初めに、帰依と戒律を修めて、邪な考えを正しい方向へと向け、火・血・刀の三悪道を避けて、三善道に至ります。次に、禅定を修めて、欲や散乱の網を止め、色界・無色界の定の道に達します。次に、無漏の智慧を修めて、三界の牢獄を止め、涅槃の道に達します。次に、慈悲を修めて、自己の悟りに安住することを止め、菩薩の道に達します。最後に、実相を修めて、二つの極端な見解を止め、常住の道に達します。これが、初めは浅く、後には深くなる、段階を踏んだ止観のあり方です。
「不定」者,無別階位,約前漸後頓,更前更後,互淺互深;或事或理,或指「世界」為「第一義」,或指「第一義」為「為人」、「對治」;或息觀為止,或照止為觀,故名不定止觀。疑者云:「教境名同,相頓爾異。」然同而不同,不同而同。漸次中六,善惡各三,無漏總中三,凡十二不同,從多為言,故名不定。此章同大乘、同實相,同名止觀,何故名為辯差?然同而不同,不同而同。漸次中九不同,不定中四不同,總有十三不同,從多為言,故名不同耳。「一切聖人皆以無為法而有差別」即其義也。
「不定」とは、段階の区別が固定されておらず、漸次と頓、前と後、浅いものと深いものの間を自在に行き来することを指します。事もあれば理もあり、「世界」を「第一義」とする場合もあれば、「第一義」を「為人」「対治」とする場合もあります。また、観想を止めて止観にしたり、止観を照らして観想にしたりするため、不定止観と呼ばれます。
疑問に思う人もいるでしょう。「教えの内容と境地の名前は同じなのに、そのありようは突然異なるのはなぜか」と。しかし、同じでありながら同じでなく、同じでなくとも同じなのです。漸次の中には六種類、善と悪にそれぞれ三種類ずつ、無漏の総合には三種類あり、合わせて十二の違いがありますが、多い方に従って言えば、故に不定と名付けます。
この章では、大乗と共通し、実相と共通し、止観と名前も同じです。ではなぜ「違いを弁別する」と名付けるのでしょうか。しかし、同じでありながら同じでなく、同じでなくとも同じなのです。漸次の中には九つの違い、不定の中には四つの違いがあり、合わせて十三の違いがあります。多い方に従って言えば、故に異なるというのです。「すべての聖者は無為の法によって差別がある」という言葉が、まさにその意味です。
「圓頓」者,初緣實相,造境即中,無不真實。繫緣法界,一念法界,一色一香無非中道。己界及佛界、眾生界亦然。陰入皆如,無苦可捨;無明、塵勞即是菩提,無集可斷;邊、邪皆中正,無道可修;生死即涅槃,無滅可證。無苦、無集,故無世間;無道、無滅,故無出世間。純一實相,實相外更無別法。法性寂然名「止」,寂而常照名「觀」。雖言初後,無二無別,是名「圓頓止觀」。
「円頓」とは、最初に実相を縁じ、境を造ればすなわち中道であり、真実でないものは何もありません。法界に縁を繋ぎ、一念が法界であり、一つの色、一つの香りも中道でないものはありません。自己の領域も仏の領域も、衆生の領域も同様です。五陰も十二入も皆そのまま真如であり、捨てるべき苦はありません。無明や煩悩の塵労はそのまま菩提であり、断つべき集はありません。辺見や邪見も皆中正であり、修めるべき道はありません。生死はそのまま涅槃であり、証すべき滅はありません。苦もなく集もないゆえに、世間はありません。道もなく滅もないゆえに、出世間もありません。純一なる実相のみであり、実相のほかに別の法はありません。法性が寂然としているのを「止」と呼び、寂然としながら常に照らしているのを「観」と呼びます。初めや後と言っても、二つではなく区別もありません。これを「円頓止観」と名づけます。
「漸」與「不定」置而不論,今依經更明圓頓。如了達甚深妙德賢首曰:「菩薩於生死,最初發心時,一向求菩提,堅固不可動。彼一念功德,深廣無崖際,如來分別說,窮劫不能盡。」此菩薩聞圓法、起圓信、立圓行、住圓位、以圓功德而自莊嚴、以圓力用建立眾生。
「漸」と「不定」はここでは取り上げず、経典に基づいて「円頓」を明らかにします。例えば、甚深なる妙徳を悟りきった賢首菩薩は言いました。 「菩薩が生死のなかで、最初に発心したときから、ひたすらに菩提を求め、その心は堅固で動じることがない。 その一つの念の功徳は、深く広く果てしなく、如来が説き分けても、長き劫を尽くしても語り尽くせない。」
この菩薩は、円かな教えを聞き、円かな信心を起こし、円かな行いを立て、円かな位に住み、円かな功徳をもって自らを飾り、円かな力をもって衆生を導き立てるのです。
云何「聞圓法」?聞「生死即法身」、「煩惱即般若」、「結業即解脫」。雖有三名而無三體,雖是一體而立三名,是三即一相,其實無有異。法身究竟,般若解脫亦究竟。般若清淨,餘亦清淨。解脫自在,餘亦自在。聞一切法亦如是,皆具佛法,無所減少,是名「聞圓法」。
「円満な教えを聞く」とは、どのようなものでしょうか。「生死そのものが法身(真理の体)である」「煩悩そのものが般若(智慧)である」「業の結びつきそのものが解脱(自由)である」と聞くことです。三つの名前があるけれども、実体は三つではありません。一つの体でありながら三つの名前が立てられているのです。この三つは一つの姿であり、実際には異なるものではありません。法身が究極のものであるなら、般若も解脱もまた究極です。般若が清らかであるなら、他の二つもまた清らかです。解脱が自在であるなら、他の二つもまた自在です。あらゆる事柄についても同様に聞き、すべてが仏の教えを備えていて、欠けたところが何もないこと、これを「円満な教えを聞く」と言います。
云何「圓信」?信一切法即空即假即中,無一二三而一二三,無一二三是遮一二三,而一二三是照一二三,無遮無照皆究竟、清淨、自在。聞深不怖,聞廣不疑,聞非深非廣意而有勇,是名「圓信」。
「円信」とは何か。すべての現象は、即座に空であり、即座に仮であり、即座に中であると信じることである。一も二も三もなく、しかも一であり二であり三である。「一・二・三がない」とは、一・二・三という枠組みを超えることであり、「しかも一・二・三である」とは、そのまま一・二・三として照らし出すことである。超えることも照らすこともなく、すべてが究極的に清らかで自在である。深い教えを聞いても怖れず、広い教えを聞いても疑わず、深くも広くもない教えを聞いても、心に勇気が湧く。これを「円信」という。
云何「圓行」?一向專求無上菩提,即邊而中,不餘趣向,三諦圓修。不為無邊所寂、有邊所動,不動不寂直入中道,是名「圓行」。
「円行」とはどのようなものか。ひたすら無上の悟りを求め、表面の区別にとどまらずそのまま真実の働き(中道)を生きること。それ以外の方向には向かわず、三つの真理(空・仮・中)を欠けることなく実践すること。無限なるものに心を静められず、有限なるものに動かされることもなく、動じもせず静まりもせず、そのまま中道に入る。これを「円行」という。
云何「入圓位」?入初住時,一住一切住,一切究竟,一切清淨,一切自在,是名「圓位」。
「円位に入る」とはどういうことか。初住(最初の段階)に入るとき、一つの住が全ての住を満たし、すべてが究極へと至り、すべてが清らかで、すべてが自在となる。これを「円位」と名付ける。
云何「圓自在莊嚴」?彼經廣說自在相,或於此根入正受,或於彼根起出說,或於一根雙入出,或於一根不入出,餘一一根亦如是。或於此塵入正受,或於彼塵起出說,或於一塵雙入出,或於一塵不入出,餘一一塵亦如是。或於此方入正受,或於彼方起出說,或於一方雙入出,或於一方不入出。或於一物入正受,或於一物起出說,或於一物雙入出,或於一物不入出。若委說者,秖於一根一塵即入即出、即雙入出、即不入出,於正報中一一自在,於依報中亦如是,是名「圓自在莊嚴」。譬如日光周四天下,一方中,一方旦,一方夕,一方夜半,輪迴不同,秖是一日而四處見異,菩薩自在亦如是。
「『円満自在の荘厳』とは何か。あの経典では、自在の様相が広く説かれている。すなわち、ある根(感覚器官)において静かな瞑想に入り、別の根において説法を起こし、あるいは一つの根で同時に入定と出定を行い、あるいは一つの根で入定も出定もしない。他のすべての根も同様である。また、ある対象(塵)において静かな瞑想に入り、別の対象において説法を起こし、あるいは一つの対象で同時に入定と出定を行い、あるいは一つの対象で入定も出定もしない。他のすべての対象も同様である。また、ある世界において静かな瞑想に入り、別の世界において説法を起こし、あるいは一つの世界で同時に入定と出定を行い、あるいは一つの世界で入定も出定もしない。また、ある物において静かな瞑想に入り、ある物において説法を起こし、あるいは一つの物で同時に入定と出定を行い、あるいは一つの物で入定も出定もしない。
詳しく言えば、ただ一つの根や一つの対象において、入定と出定を同時に行い、あるいは入定も出定もしないということがある。正報(迷いの主体)において、一つ一つが自在であり、依報(迷いの環境)においても同様である。これを『円満自在の荘厳』という。
例えば、太陽の光が全天を照らす時、ある場所では朝、ある場所では夕方、ある場所では夜半となり、時間は異なって巡るが、ただ一つの太陽が四つの異なる場所で異なって見えるように、菩薩の自在もまた同様である。」
云何「圓建立眾生」?或放一光,能令眾生得即空即假即中益,得入出、雙入出、不入出益,歷行住坐臥語默作作亦如是。有緣者見,如目覩光;無緣不覺,盲瞽常闇。故舉龍王為譬,竪遍六天、橫亘四域,興種種雲、震種種雷、耀種種電、降種種雨,龍於本宮不動不搖,而於一切施設不同。菩薩亦如是,內自通達即空即假即中,不動法性而令獲種種益、得種種用,是名「圓力用建立眾生」。初心尚爾,況中、後心?如來殷勤稱歎此法,聞者歡喜。常啼東請,善財南求,藥王燒手,普明刎頭,一日三捨恒河沙身,尚不能報一句之力,況兩肩荷負百千萬劫,寧報佛法之恩?一經一說如此,餘經亦然。
「『円かに衆生を建立する』とは何か。」 あるいは一つの光を放つことで、衆生に「即空・即仮・即中」の利益を得させ、また「出」「入」「双入出」「不入出」の利益を得させる。行住坐臥や語黙作作のすべての行いもまた同様である。縁ある者は見て、まるで目で光を見るようであり、縁なき者は気づかず、盲人のように常に闇の中にある。 故に竜王の譬えを挙げよう。竜王は縦に六天に遍く、横に四域にわたって、様々な雲を起こし、様々な雷を鳴らし、様々な電を光らせ、様々な雨を降らせる。しかし竜自身は本宮に在って動くことも揺れることもなく、一切の施しは異なっているのである。 菩薩もまた同じである。内に自ら「即空・即仮・即中」を悟っており、法性を動かさずして、衆生に様々な利益を得させ、様々な働きを得させる。これを「円力用をもって衆生を建立する」と名づける。 初心の者でさえそうである。まして中・後の心においてはなおさらである。如来は熱心にこの法を称賛され、聞く者は皆歓喜する。常啼菩薩は東に請い、善財童子は南に求め、薬王菩薩は手を焼き、普明菩薩は首を刎ね、一日に三度、恒河沙の身を捨てるとしても、まだ一句の力にも報いることができない。ましてや両肩で百千万劫にわたって荷負しても、どうして仏法の恩に報いることができようか。 一経一説がこのようである。他の経典もまた同じである。
疑者云:「餘三昧願聞誠證。」然經論浩博,不可委引,略舉一兩。
質問する人が言いました。「四種の三昧のうち残り三つの三昧について、その確かな証拠をぜひお聞かせください。」しかし、経典や論書は広大で詳細に引用することはできませんので、簡潔に一、二の例を挙げましょう。
《淨名》云:「始坐佛樹力降魔,得甘露滅覺道成,三轉法輪於大千,其輪本來常清淨,天人得道此為證,三寶於是現世間。」此即漸教之始也。又云:「佛以一音演說法,眾生隨類各得解,或有恐怖或歡喜,或生厭離或斷疑,斯則神力不共法。」此證不定教也。又云:「說法不有亦不無,以因緣故諸法生,無我無造無受者,善惡之業不敗亡。」此證頓教也。
『浄名経』にこうある。「初めて仏の樹の下に座り、力をもって降魔し、甘露の滅を得て覚道を成じ、大千世界に三転法輪を行ず。その輪は本来常に清浄であり、天人は道を得てこれを証とする。三宝はここに世に現れた。」これは漸教の始まりを証するものである。また、こうある。「仏は一音をもって法を説きたもう。衆生はその類に従って各々理解を得る。ある者は恐怖し、ある者は歓喜し、あるいは厭離を生じ、あるいは疑いを断つ。これはすなわち如来の神力、他に共ならざる法である。」これは不定教を証するものである。また、こうある。「法は有とも説かず、無とも説かない。因縁のゆえに諸法は生ずる。我もなく、造る者もなく、受ける者もない。しかし善悪の業は敗れず滅びない。」これは頓教を証するものである。
《大品》云:「次第行、次第學、次第道。」此證漸也。又云:「以眾色裹摩尼珠,置之水中,隨物變色。」此證不定也。又云:「從初發心即坐道場,轉法輪度眾生。」此證頓也。
『大品経』にはこう説かれています。 「順を追って修行し、順を追って学び、順を追って道を歩む」――これは漸修を示す教えです。 また、こうも説かれています。 「様々な色でマニの宝珠を包み、水の中に置けば、その周りのものに応じて色を変える」――これは不定の教えを示しています。 さらに、こうも説かれています。 「最初に発心したその場で、そのまま悟りの座につき、法輪を転じて衆生を救済する」――これは頓悟の教えを示しています。
《法華》云:「如是之人應以此法漸入佛慧。」此證漸也。又云:「若不信此法,於餘深法中示教利喜。」此證不定也。又云:「正直捨方便,但說無上道。」此證頓也。
『法華経』にはこうある。「このような人は、この教えによって徐々に仏の智慧に入るべきである。」これは漸の証明である。また言う。「もしこの教えを信じなければ、他の深遠な教えの中で示し教え、利益を与え喜ばせる。」これは不定の証明である。さらに言う。「まっすぐに方便を捨てて、ただ無上の道を説く。」これは頓の証明である。
《大經》云:「從牛出乳,……乃至醍醐。」此證漸也。又云:「置毒乳中,乳即殺人,乃至置毒醍醐,醍醐殺人。」此證不定也。又云:「雪山有草名曰忍辱,牛若食者即得醍醐。」此證頓也。
『大経』にこう説かれています。「牛から乳が出て……最後には醍醐(だいご)に至る」。これは漸(少しずつ進むこと)の例えです。また、こうも説かれています。「乳の中に毒を入れれば、乳で人が死ぬ。同様に、醍醐に毒を入れれば、醍醐で人が死ぬ」。これは不定(一定しないこと)の例えです。さらに、こう説かれています。「雪山に忍辱(にんにく)という名の草がある。牛がこれを食べると、すぐに醍醐を得る」。これは頓(とん、一挙に悟ること)の例えです。
《無量義》云:「佛轉法輪,微渧先墮,淹諸欲塵,開涅槃門,扇解脫風,除世熱惱,致法清涼。次降十二因緣雨,灑無明地,掩邪見光。後澍無上大乘,普令一切發菩提心。」此證漸也。
「無量義経」にはこう説かれている。「仏が法輪を転ずると、まず微かな滴が落ちて、様々な欲望の塵を潤し、涅槃の門を開き、解脱の風を送って、世の中の熱悩を除き、法の清涼をもたらす。次に十二因縁の雨を降らせて、無明の地に注ぎ、邪見の光を覆い隠す。そして最後に無上の大乗を注ぎ、全ての者に菩提心を起こさせるのである。」これは、教えが段階的に示されることを証している。
《華嚴》曰:「娑伽羅龍車軸雨海,餘地不堪。」為上根性說圓滿修多羅,二乘如聾如瘂。《淨名》曰:「入瞻蔔林不嗅餘香,入此室者但聞諸佛功德之香。」《首楞嚴》曰:「擣萬種香為丸,若燒一塵具足眾氣。」《大品》曰:「以一切種智知一切法,當學般若波羅蜜。」《法華》曰:「合掌以敬心,欲聞具足道。」《大經》曰:「譬如有人在大海浴,當知是人已用諸河之水。」《華嚴》曰:「譬如日出,先照高山,次照幽谷,次照平地。」平地,不定也;幽谷,漸也;高山,頓也。
『華厳経』に曰く、「娑伽羅龍の車軸のような雨は大海以外の地では受け止められない」。これは上根の者のために円満な修多羅を説くものであり、二乗はあたかも聾や唖のようである。『維摩経』に曰く、「瞻蔔林に入れば他の香りを嗅がず、この室に入ればただ諸仏の功徳の香りを聞く」。『首楞厳経』に曰く、「万種の香を擣いて丸とし、もし一塵を焼けば衆気を具足す」。『大品般若経』に曰く、「一切種智をもって一切法を知らんと欲せば、まさに般若波羅蜜を学ぶべし」。『法華経』に曰く、「合掌して敬心をもって、具足の道を聞かんと欲す」。『大般涅槃経』に曰く、「たとえば人が大海で沐浴するようなもの、当に知るべし、この人はすでに諸河の水を用いたことを」。『華厳経』に曰く、「たとえば日の出のごとし、まず高山を照らし、次に幽谷を照らし、次に平地を照らす」。平地は不定なり、幽谷は漸なり、高山は頓なり。
上來皆是金口誠言,三世如來所尊重法。過去過去,久遠久遠,邈無萠始;現在現在,無邊無際;未來未來,展轉不窮。若已、今、當不可思議,當知止觀諸佛之師。以法常故,諸佛亦常,樂、我、淨等亦復如是。如是引證,寧不信乎?
以上はすべて仏の確かな教えであり、三世の如来が尊ぶ法です。過去は過ぎ去り、はるか遠く、その始まりは知れません。現在は尽きることなく、未来は未来へと広がり続けて止みません。もし過去、現在、未来がすでに不可思議であるならば、止観こそ諸仏の師であると知るべきです。法が永遠であるがゆえに、諸仏もまた永遠であり、楽・我・浄なども同じく永遠です。このように証拠を引いているのですから、どうして信じないことがありましょうか。
既信其法,須知三文:《次第禪門》合三十卷,今之十軸,是大莊嚴寺法慎私記;不定文者,如《六妙門》,以不定意歷十二禪、九想、八背、觀練熏修、因緣、六度,無礙旋轉縱橫自在,此是陳尚書令毛喜請智者出此文也;圓頓文者,如灌頂荊洲玉泉寺所記十卷是也。雖有三文,無得執文而自疣害。論云:「若見若不見般若,皆縛皆脫。」文亦例然。
すでにその法を信じたなら、三つの経典について知らねばなりません。 『次第禅門』は合わせて三十巻あり、現在の十軸は大荘厳寺の法慎が私的に記録したものです。 不定の経典とは、例えば『六妙門』のようなものです。不定の意によって十二因縁、九想観、八背捨、観練熏修、因縁、六波羅蜜などを経めぐり、自在に回転し、縦横無尽に説かれています。これは陳の尚書令・毛喜が智者大師に請うて著されたものです。 円頓の経典とは、灌頂が荊州の玉泉寺で記録した十巻を指します。 この三つの経典があっても、これらに固執して自らを縛ってはなりません。 経典は言っています。「見ると見ないとに関わらず、般若は縛りにもなり、解脱にもなる」と。経典の文もまた同じことです。
疑者云:「『諸法寂滅相,不可以言宣。』《大經》云:『生生不可說,乃至不生不生不可說。』若通若別,言語道斷,無能說無所說。身子云:『吾聞解脫之中無有言說,故吾於此不知所云。』《淨名》云:『其所說者無說無示,其聽法者無聞無得。』斯人不能說,斯法不可說,而言示人?」
疑問を抱く人が言う。「『諸法は寂滅の相であり、言葉で宣べ伝えることはできない』とある。また『大経』には『生生は説くべからず、乃至、不生不生も説くべからず』と説かれている。たとえ通途の教えであれ、別途の教えであれ、言語の道は断たれており、説く者もなく、説かれるものもない。舎利弗は『私は解脱の中には言葉による説明はないと聞いている。ゆえに私はこのことについて何を述べてよいか分からない』と言った。『維摩経』には『その説くところには説くことも示すこともなく、その法を聞く者には聞くことも得ることもない』とある。この人は説くことができず、この法は説くことができないのに、どうして人に示すと言うのか?」
然但引一邊,不見其二。《大經》云:「有因緣故,亦可得說。」《法華》云:「無數方便,種種因緣,為眾生說」又云:「以方便力故,為五比丘說」。若通若別,皆可得說。《大經》云:「有眼者為盲人說乳。」此指真諦可說。《天王般若》云:「總持無文字,文字顯總持。」此指俗諦可說。又如來常依二諦說法。《淨名》云:「文字性離,即是解脫。」即說是無說。《大經》云:「若知如來常不說法,是即多聞。」此指不說而是說也。《思益》云:「佛及弟子常行二事,若說若默。」《法華》云:「去來坐立,常宣妙法,如注大雨。」又云:「若欲求佛道,常隨多聞人;善知識者是大因緣,所謂化導令得見佛。」《大經》云:「空中雲雷生象牙上華。」何時一向無說?
しかし、一方だけを取り上げて、その反対側を見ないのは誤りです。『大般涅槃経』には「因縁があるならば、説くこともできる」とあり、『法華経』には「無数の方便、さまざまな因縁によって、衆生のために説く」とあり、また「方便力をもって、五比丘のために説いた」とあります。通じるにせよ、個別にせよ、いずれも説くことは可能です。『大般涅槃経』には「目のある者は、目の見えない人に乳のことを語る」とあり、これは真諦(絶対の真理)が説けることを指します。『天王般若経』には「総持(陀羅尼)は文字を超えるが、文字が総持を顕す」とあり、これは俗諦(世俗の真理)が説けることを指します。また、如来は常に二諦に依って説法されます。『維摩経』には「文字の本性は離れており、それがすなわち解脱である」とあり、これは「説くこと」が「説かないこと」であることを示します。『大般涅槃経』には「如来が常に説法しないことを知るならば、それがすなわち多聞である」とあり、これは「説かないこと」が「説くこと」であることを示します。『思益梵天所問経』には「仏と弟子は常に二つの行い、すなわち説法と沈黙を行う」とあり、『法華経』には「行くにも、来るにも、坐るにも、立つにも、常に妙法を宣べ、大雨の注ぐがごとし」とあり、また「もし仏道を求めんと欲せば、常に多聞の人に従え。善知識は大いなる因縁であり、すなわち教化して導き、仏を見ることを得させる」とあります。『大般涅槃経』には「空中の雲雷が象牙の上に花を生じさせる」とあります。一体、いつから全面的に説かないということがありましょうか。
若競說默,不解教意,去理逾遠。離說無理,離理無說,即說無說,無說即說,無二無別,即事而真。大悲憐愍一切無聞,如月隱重山,舉扇類之;風息太虛,動樹訓之。今人意鈍,玄覽則難;眼依色入,假文則易。若封文為害,須知文非文,達一切文非文非不文,能於一文得一切解。為此義故,以三種文作達一門也。已略說緣起竟。
もし「語る」と「沈黙」を対立させて論じるなら、教えの真意を理解しておらず、真理からますます遠ざかる。語りを離れて理はなく、理を離れて語りはない。語りはすなわち沈黙であり、沈黙はすなわち語りである。この二つは異ならず、別なることもなく、物事そのままに真実である。
大いなる慈悲は、すべての無知な者たちを憐れむ。それは、月が幾重もの山陰に隠れるとき、扇を掲げてそれを示すようなものであり、大空から風がやんだとき、木々を揺らして教えるようなものである。現代の人は根機が鈍く、深遠な真理を直接見極めるのは難しい。目は色に依存して入るため、文字に仮託すれば理解しやすい。
もし文字にとらわれることが害となるなら、文字が文字でないことを知らねばならない。そして、あらゆる文字が文字ではなく、また文字でないのでもないことを悟り、一つの文字から一切の理解を得ることができるのである。この意味によって、三種の文字をもって一つの門に達することを示す。
以上、縁起について簡略
○今當開章為十:一、大意,二、釋名,三、體相,四、攝法,五、偏圓,六、方便,七、正觀,八、果報,九、起教,十、旨歸。十是數方,不多不少。始則標期在茶,終則歸宗至極,善始令終總在十章中矣。
これから十章に分けて解説します。 第一・大意(全体の趣旨)、第二・釋名(名称の解釈)、第三・體相(本質と形)、第四・攝法(教えの包含)、第五・偏圓(偏った教えと完全な教え)、第六・方便(仮の手段)、第七・正觀(正しい観法)、第八・果報(修行の結果)、第九・起教(教えの起こり)、第十・旨歸(根本的な帰着点)です。 十という数字は過不足なく、ちょうどよい数です。 第一で目指すところを示し、第十で究極の帰結に至ります。 良い始まりから良い終わりまで、すべてをこの十章にまとめました。
生起者,專「次第」十章也。至理寂滅,無生無生者、無起無起者,有因緣故,十章通是生起。別論前章為生,次章為起。緣由、趣次亦復如是。所謂無量劫來癡惑所覆,不知無明即是明,今開覺之,故言「大意」。既知無明即明,不復流動,故名為「止」;朗然大淨,呼之為「觀」。既聞名得體,體即攝法,攝於偏圓,以偏圓解,起於方便。方便既立,正觀即成。成正觀已,獲妙果報。從自得法,起教教他,自他俱安,同歸常寂。秖為不達無生無起,是故生起。既了無生無起,心行寂滅,言語道斷,寂然清淨。
「生起」というのは、専らこの『次第』の十章について述べたものです。究極の真理は静寂であり、生もなく、生じるものもなく、起もなく、起こるものもありません。しかし因縁があるがゆえに、十章すべてがこの「生起」を説くものとなっています。
別に章ごとに見れば、前の章を「生」とし、次の章を「起」とします。その趣旨や順序もまた同様です。
すなわち、無量の劫の間、無明に覆われ、無明そのものが実は明(智慧)であることを知らなかった。今、これを開き悟らせるため、最初に「大意」を説くのです。
無明がすなわち明であると知れば、もはや流れ動くことはありません。これを「止」と名づけます。そして、朗らかに清らかになることを「観」と呼びます。
その名を聞いてその本体を得れば、その本体はすでにすべての法を含み、偏った教えと円満な教えの両方を収めています。偏円の理解をもって方便を起こし、方便が確立すれば、正しい観が成就します。
正しい観を成就した後には、素晴らしい果報を得ます。自ら法を得たことから、教えを起こして他者に教え、自他ともに安らぎ、共に常なる静寂へと帰っていくのです。
ただ、無生・無起を悟らなかったがゆえに、このように「生起」を説く必要があったのです。無生・無起をすでに理解すれば、心の行いは静寂となり、言葉の道は絶たれ、静かに清らかとなるのです。
分別者,十章功德如囊中有寶,不探示人,人無見者。今十章,幾真、幾俗、幾非真非俗?幾聖說、聖默、非說非默?幾定、幾慧、幾非定慧?幾目、足、幾非目足?幾因、果、非因果?幾自、他、非自他?幾共、不共、非共非不共?幾通、別、非通別?幾廣、略、非廣略?幾橫、竪、非橫竪?如是等種種,應自在作問。
分別する者よ、十章の功徳は、袋の中に宝があるようなもので、取り出して人に示さなければ、誰もそれを見ることはできない。
さて、この十章について、どれが真実であり、どれが世俗であり、どれが真実でも世俗でもないのか。 どれが聖者の言葉であり、どれが聖者の沈黙であり、どれが言葉でも沈黙でもないのか。 どれが定(瞑想)であり、どれが慧(智慧)であり、どれが定でも慧でもないのか。 どれが目であり、どれが足であり、どれが目でも足でもないのか。 どれが因であり、どれが果であり、どれが因でも果でもないのか。 どれが自己であり、どれが他者であり、どれが自己でも他者でもないのか。 どれが共通であり、どれが独自であり、どれが共通でも独自でもないのか。 どれが通(普遍)であり、どれが別(特殊)であり、どれが通でも別でもないのか。 どれが広(詳細)であり、どれが略(簡潔)であり、どれが広でも略でもないのか。 どれが横(水平的)であり、ど
初八章即俗而真,果報一章即真而俗,旨歸章非真非俗。正觀聖默,餘八章聖說,旨歸非說非默。正觀一分是定,餘八章及一分是慧,旨歸非定非慧。大意至正觀是因,果報是果,旨歸非因非果。前八章自行,起教化他,旨歸非自非他。大意至起教是目,方便至果報是足,旨歸非目非足。大意至正觀共,果報、起教不共,旨歸非共非不共。大意一通,八章別,旨歸非通非別。大意略,八章廣,旨歸非廣非略。體相竪,餘八橫,旨歸非橫非竪。
初めの八章は「俗のままで真(真理)」を示し、果報の章は「真のままで俗」を示し、旨帰章は「真でもなく俗でもない」ことを示す。 正観と聖黙は聖なる沈黙、残りの八章は聖なる説法、旨帰は説法でも沈黙でもない。 正観の一部は定(瞑想)、残りの八章と一部は慧(智慧)、旨帰は定でも慧でもない。 大意から正観までは因(原因)、果報は果(結果)、旨帰は因でも果でもない。 前の八章は自己の修行、起教は他者を教化する、旨帰は自己でも他者でもない。 大意から起教までは目(指標・方向)、方便から果報までは足(実践・手段)、旨帰は目でも足でもない。 大意から正観までは共通、果報と起教は不共通、旨帰は共通でも不共通でもない。 大意は一つの総論、八章は各論、旨帰は総論でも各論でもない。 大意は簡略、八章は詳細、旨帰は簡略でも詳細でもない。 体相は縦の関係、残りの八章は横の関係、旨帰は横でも縦でもない。
料簡者,問:略指、大意,同異云何?答:通則名異意同,別則略指三門,大意在一頓。
「料簡」についての問い:略示と大意は、どのように同じで、どのように異なるのか? 答え:広く見れば、名前は異なるが意味は同じである。細かく見れば、略示は三つの門を指し示し、大意は一つの頓悟に集約される。
問:約顯教論顯觀,亦應約祕教論密觀?
問い:顕教に基づいて「顕(あらわ)な観想」を論じるならば、同様に、密教に基づいて「密(ひそ)かな観想」を論じるべきではないでしょうか。
答:既分顯祕,今但明顯,不說祕。
答え:教えは、顕教と密教に分けられます。ここでは、顕教についてのみ明らかにし、密教については説きません。
問:分門可爾,任論得不?
質問:修行の分野ごとに分けることは可能ですが、自由に論じることはできるのでしょうか?
答:或得或不得。教是上聖被下之言,聖能顯祕兩說,凡人宣述秖可傳顯不能傳祕。聽者因何作觀?或得者,六根淨位,能以一妙音遍滿三千界,隨意悉能至,則能傳祕教。若修觀者,發所修顯法,不發不修者,發宿習人得論密觀。
ある者は得て、ある者は得ない。教えとは、上聖が下の者に示す言葉である。聖人は顕密の二説を示し得るが、凡人が述べ伝えるならば、顕(けん)のみを伝え、密(みつ)は伝えられない。聞く者は何に基づいて観(かん)を起こすのか。「得る」とは、六根清浄の位にあり、一つの妙音で三千世界に満ち渡り、思いのままにどこへでも至る力を得て、密教を伝えられる者である。観を修する者は、修する顕法を発する。発さず修せざる者は、過去世の習いを発する者に、密観が論じられる。
問:初淺後深是漸觀,初深後淺是何觀相?
質問:初めは浅く後で深くなるのは徐々に進む観方ですが、初めは深く後で浅くなるのはどのような観方なのでしょうか?
答:是不定觀。
答え:これは不定の観察です。
問:初後俱淺是何觀相?
問う、「初めも後も浅いとは、どのような観相か。」
答:小乘意,非三止觀相也。
答え:これは小乗の考えであり、三止観の相ではありません。
問:小乘亦是佛說,何意言非?若言非者,不應言漸。
質問:小乗(しょうじょう)もまた仏の教えだとされています。それなのに、なぜ「小乗は仏の教えではない」と言うのですか?もし「そうではない」と言うのなら、「次第に教えを説いた」とも言うべきではないはずです。
答:既分大小,小非所論。今言漸者,從微至著之漸耳。小乘初後俱不知實相,故非今漸也。
答え:すでに大乗と小乗に分かれている以上、小乗はここで論じる対象ではない。 ここで言う「漸」とは、微細なものから顕著なものへと至る「漸次」のことである。 小乗は修行の初めも後も、共に実相を知ることがない。よって、ここで言う「漸」には当たらないのである。
問:示三文者,文是色,色是門、為非門?若是門者,色是實相,更何所通?若非門者,云何而言「一色一香皆是中道」?
質問:「三文を示す」とは、文は色であり、色は門であるのか、それとも門ではないのか? もし門であるならば、色は実相であるのに、さらに何を通すというのか? もし門でないならば、なぜ「一つの色、一つの香りもすべて中道である」と言うのか?
答:文、門並是實相,眾生多顛倒,少不顛倒,以文示之,即於文達文、非文、非文非不文。文是其門,於門得實相故。文是其門,門具一切法,即門、即非門、即非門非不門。
答えます。文字もその門も、どちらも真実の姿そのものです。しかし、多くの人は誤った見方にとらわれており、正しい見方をしている人はまれです。そこで、文字を用いて真実を示すと、人々は文字を通じて、文字は文字であり、文字は文字ではなく、文字でもなく文字でないものでもないと悟るのです。文字は門であり、その門によって真実の姿を得るからです。門はすべての法を具えています。それゆえ、門であり、門ではなく、門でも門でないものでもないのです。
○解釋者,釋十章也。初釋大意,囊括始終,冠戴初後,意緩難見。今撮為五,謂發大心、修大行、感大果、裂大網、歸大處。云何發大心?眾生昏倒不自覺知,勸令醒悟,上求下化。云何行大行?雖復發心,望路不動,永無達期,勸牢強精進,行四種三昧。云何感大果?雖不求梵天,梵天自應,稱揚妙報,慰悅其心。云何裂大網?種種經論開人眼目,而執此疑彼、是一非諸,聞雪謂冷乃至聞鶴謂動。今融通經論,解結出籠。云何歸大處?法無始終,法無通塞。若知法界,法界無始終、無通塞,豁然大朗,無礙自在。生起五略,顯於十廣(云云)。
○これを解釈するとは、十章について解き明かすことである。まず大意を述べれば、全体を最初から最後まで包み込み、初めと終わりを貫いて掲げるが、その意味は緩やかで分かりにくい。そこで今、これを五つにまとめる。すなわち、大きな心を起こすこと、大きな行いを修めること、大きな果報を受けること、大きな網を裂くこと、大きなところに帰することである。
どのように大きな心を起こすのか。生きとし生けるものは、迷いや逆転に覆われて自ら気づかない。そこで彼らを目覚めさせ、上には仏道を求め、下には衆生を教化するよう促すのである。
どのように大きな行いを修めるのか。たとえ心を起こしても、道を望みながら動かずにいれば、永遠に到達の時はない。そこで、しっかりと強く精進し、四種の三昧を実践せよと励ますのである。
どのように大きな果報を受けるのか。梵天(清らかな天界)を求めなくとも、梵天はおのずから応じ、尊い報いを称え示して、その心を慰め悦ばせるのである。
どのように大きな網を裂くのか。様々な経典や論書は人の目を開くものであるが、あるものを執り別のものを疑い、一つを正しいとし他を非として、雪を聞いて冷たいといい、はては鶴を聞いて動くというようなことがある。今、経論を融通して理解し、結び目を解いて籠から出るのである。
どのように大きなところに帰するのか。法には始まりも終わりもなく、法には滞りも通じもない。もし法界を知れば、法界は始まりも終わりもなく、通じも滞りもなく、わっと大きく明らかとなり、妨げなく自在となるのである。このように五つの概略を生み起こし、十の広がりを示すのである(云々)。
○就發心更為三:初、方言,次、簡非,後、顯是。「菩提」者,天竺音也,此方稱「道」。「質多」者,天竺音,此方言「心」,即慮知之心也;天竺又稱「污栗馱」,此方稱是草木之心也;又稱「矣栗馱」,此方是積聚精要者為心也。
菩提心について、さらに三つに分けて説明する。第一に、言葉の意味を述べ、第二に誤った理解を除外し、第三に正しい意味を示す。「菩提」はサンスクリット語であり、この国では「道」と訳される。「質多(チッタ)」はサンスクリット語で、この国では「心」と訳され、それは考えることや知ることのできる心である。また、サンスクリット語では「汚栗馱(ヴリッダ)」とも言い、これは草木の芯のような心を指す。さらに「矣栗馱(フリダヤ)」とも呼ばれ、これは善いものや大事なものを集めて蓄えた中心を「心」としているのである。
今簡非者,簡積聚、草木等心,專在慮知心也。道亦有通有別,今亦簡之,略為十。
ここでいう「心」とは、集まったものや草や木などの心ではなく、専ら考え、知るはたらきを持つ心を指します。「道」にも広い意味と狭い意味がありますが、ここでは特に区別して、大きく十にまとめました。
若其心念念專貪瞋癡,攝之不還、拔之不出,日增月甚,起上品十惡如五扇提羅者,此發地獄心、行火途道。
もしも心が一瞬一瞬、ひたすら貪欲・瞋恚・愚痴に執着し、それをつかまえても戻らず、抜こうとしても抜き出せず、日に日に増し、月ごとに甚だしくなり、五扇提羅(ごせんだいら)のような上品な十の悪業を起こすならば、これは地獄の心を起こし、火の道(地獄界)を歩むことになる。
若其心念念欲多眷屬,如海吞流、如火焚薪,起中品十惡如調達誘眾者,此發畜生心、行血途道。
もし心が瞬間ごとに多くの仲間や従者を欲しがり、まるで海が流れを飲み込むかのように、あるいは火が薪を焼き尽くすかのように欲求が尽きず、中程度の十の悪行を起こして、あたかも提婆達多(だいばだった)が人々を惑わしたように行うならば、これは畜生の心を起こし、血の道(血塗られた迷いの道)を歩むことになるのです。
若其心念念欲得名聞,四遠八方稱揚欽詠,內無實德,虛比賢聖,起下品十惡如摩犍提者,此發鬼心、行刀途道。
もし心の一念ごとに名声を求め、四方八方から称賛され、敬われたいと願いながら、内に真実の徳はなく、空しく聖者や賢者に自分を重ね合わせるならば、それは下品の十悪を起こす者、例えばマーカンディヤのような者である。これは鬼の心を発し、刀の道を歩む道である。
若其心念念常欲勝彼,不耐下人、輕他珍己,如鴟高飛下視,而外揚仁義禮智信,起下品善心、行阿脩羅道。
もし心が常に「他者に勝ちたい」と念じ、人に従うことを嫌い、他人を軽んじて自分を重んじ、まるで鳶が高く飛んで下を見下ろすかのように振る舞いながら、表面だけは仁・義・礼・智・信を掲げるならば、それは下品な善心を起こし、阿修羅の道を行くことになる。
若其心念念欣世間樂,安其臭身、悅其癡心,此起中品善心、行於人道。
もし心が常に世俗の楽しみを求め、自分の汚れた身体を安心させ、愚かな心を喜ばせるなら、これが中程度の善い心を起こし、人道に生きることとなる。
若其心念念知三惡苦多、人間苦樂相間、天上純樂,為天上樂關六根不出、六塵不入,此上品善心、行於天道。
心が、一念ごとに三悪道の苦しみの多さを知り、人間界の苦楽が入り混じっていることを知り、天上の純粋な楽しみを知って、その天上の楽しみのために六根を閉ざして外に出さず、六塵を入れないようにするならば、これが上品の善心であり、天道に進む行いである。
若其心念念欲大威勢,身口意纔有所作,一切弭從,此發欲界主心、行魔羅道。
もし心が一瞬ごとに大きな威力を求め、身体・言葉・心のわずかな行いがすべて思いのままになることを望むなら、これは欲界の主を志す心であり、魔道を歩む行いである。
若其心念念欲得利智辯聰,高才勇哲,鑒達六合,十方顒顒,此發世智心、行尼犍道。
もし心の一つ一つが利口さや知恵、弁舌の才を求め、高い才能や勇気ある哲人となり、世界の隅々を見渡して十方に名を轟かせようと願うなら、それは世俗の知恵を求める心であり、尼犍道(ジャイナ教)の行いです。
若其心念念五塵六欲,外樂蓋微,三禪樂如石泉,其樂內重,此發梵心、行色無色道。
もしその心が、刹那ごとに五つの感覚の対象(五塵)や六つの欲望(六欲)に執着し、外の楽しみはすでに薄れ、第三禅定の喜びは岩清水のように静かで内面的に深いものであれば、これは清らかな心(梵心)を起こし、色界・無色界の修行の道を歩むこととなる。
若其心念念知善惡輪環,凡夫耽湎,賢聖所呵,破惡由淨慧,淨慧由淨禪,淨禪由淨戒,尚此三法如飢如渴,此發無漏心、行二乘道。
心が刹那ごとに善悪の循環をはっきりと認識し、凡夫はそれに溺れ、聖賢はそれを戒める。悪を破るのは清らかな智慧によるものであり、清らかな智慧は清らかな禅定によるものであり、清らかな禅定は清らかな戒律によるものである。この三つの法を、飢え渇くように求める。これが無漏の心を発し、二乗の道を歩むことである。
若心若道其非甚多,略言十耳。或開上合下,或開下合上,令十數方足而已。舉一種為語端,強者先牽。如論云:「破戒心墮地獄,慳貪心墮餓鬼,無慚愧心墮畜生。」即其義也。或先起非心,或先起是心,或是非並起,譬象、魚、風並濁池水,象譬外,魚譬內,風譬並起。又象譬諸非,自外而起;魚譬內觀羸弱,為二邊所動;風譬內外合雜,穢濁混和。
心や道について言えば、その種類は非常に多いが、簡潔に言えば十種に過ぎない。ある時は上を開いて下と合わせ、ある時は下を開いて上と合わせ、ただ十の数が揃えば十分である。その中の一つを取り上げて話の糸口とし、力の強いものが先に引っ張っていく。例えば『論』に「戒を破る心は地獄に堕ち、慳貪の心は餓鬼に堕ち、無慚愧の心は畜生に堕ちる」とあるのが、その意味である。ある時は先に非の心が起こり、ある時は先に是の心が起こり、ある時は是と非が同時に起こる。例えば、象・魚・風が一緒に池の水を濁らせるようなものだ。象は外(外部からの要因)に譬え、魚は内(内部の要因)に譬え、風は両者が同時に起こることに譬える。さらに、象は様々な非が外から起こることに譬え、魚は内観が弱くて二辺(両極端)に揺れ動くことに譬え、風は内外が入り混じり、濁りが混ざり合うことに譬える。
又九種是生死,如蠶自縛;後一是涅槃,如麞獨跳,雖得自脫,未具佛法,俱非故雙簡。前九是世間,不動不出;後一雖出,無大悲,俱非,雙簡也。有為無為、有漏無漏、善惡、染淨、縛脫、真俗等種種法門亦如是。
また、九種は生死であり、まるで蚕が自ら糸を紡いで縛るようなものです。後の一は涅槃であり、鹿が独りで跳ねるように、悟りを得て自らを脱しても、まだ完全な仏の教えを具えてはいません。そのため、両者ともに否定されるのです。前の九つは世間であり、動かず出ることもありません。後の一つは出るものの、大きな慈悲がなく、やはり両者ともに否定されます。
有為・無為、有漏・無漏、善・悪、染・浄、縛・脱、真・俗などの様々な教えの分類も、また同じように理解すべきです。
又九法約世間苦諦,後一非苦諦,雖非苦諦,曲拙灰近,故雙非,簡却。次、有為有漏約集諦,後一非集諦,雖非集諦,曲近灰拙,亦雙非,簡也。次、善惡染淨約道諦,後一是道諦,雖是道諦亦如前簡。次、縛脫真俗約滅諦,後一雖是滅諦亦如前簡。
次に、九つの法は世間の苦諦に該当し、最後の一つは苦諦ではありません。苦諦ではないものの、曲がりくねっていて拙く、灰のように冷たく近しいため、両方に該当しないと除外されます。次に、有為で有漏であることは集諦に該当し、最後の一つは集諦ではありません。集諦ではないものの、曲がりくねっていて近しく、灰のように冷たく拙いため、これもまた両方に該当しないと除外されます。次に、善悪や染浄は道諦に該当し、最後の一つは道諦です。道諦であっても、前述のように除外されます。次に、束縛と解脱、真実と世俗は滅諦に該当し、最後の一つは滅諦であっても、やはり前述のように除外されます。
若得此意,歷一切根塵、三業、四儀,生心動念皆此觀察,勿令濁心得起。設起速滅,如有明眼人能避險惡道,世有聰明人能遠離眾惡。初心行者若見此意,堪為世間而作依止。
もしこの心が得られたならば、あらゆる六根・六塵・三業・四儀を経験するとき、心が動き思いが生じるたびに、このように観察しなさい。けがれた心を起こさせてはいけません。もし起こってしまったら、すぐに消し去りなさい。ちょうど目の明るい人が危険な悪道を避けられるように、世の中の賢い人があらゆる悪から遠ざかることができるように。修行を始めたばかりの人がこの心がけを得れば、世の中のよりどころとなるにふさわしいでしょう。
問:行者自發心、他教發心?
問い:修行者は自らの発心ですか、それとも他者に教えられて発心するのですか?
答:自、他、共、離,皆不可,但是感應道交而論發心耳。如子墮水火,父母騷擾救之。
答え:自分自身から、他人から、両方から、あるいはこれらを離れて――いずれの立場からも、発心を論じることはできません。ただ、感応道交に基づいてのみ、発心は語られるのです。それは、まるで子どもが水や火に落ちた時、親が心を騒がせて救いに行くようなものです。
《淨名》云:「其子得病,父母亦病。」《大經》云:「父母於病子,心則偏重。」動法性山、入生死海,故有病行、嬰兒行,是名感應發心也。
『浄名経』(維摩経)にはこう説かれています。「その子が病めば、父母もまた病む」。また『大経』(大無量寿経)にはこうあります。「父母は病の子に対して、心を特に重く傾ける」。法性の山を動かし、生死の海に入る。ゆえに「病行」や「嬰児行」がある。これを「感応発心」というのです。
《禪經》云:「佛以四隨說法,隨樂、隨宜、隨治、隨義。」將護彼意,說悅其心;附先世習,令易受行;觀病輕重,設藥多少;道機時熟,聞即悟道。豈非隨機感應利益?
『禅経』にはこう説かれています。「仏は四つの随順によって法を説く。すなわち、楽しみに随い、状況に随い、治療に随い、意味に随う」と。 相手の心を大切に守り、その心が喜ぶように説く。 前世の習慣に寄り添い、修行を容易に受け入れ実践できるようにする。 病の軽重を見極め、薬の量を調整する。 教えを受ける縁が熟したとき、聞けばすぐに悟りを得る。 これこそ、まさに機に応じて感応し利益をもたらすということではないだろうか。
《智度》論「四悉檀」,世法間隔名「世界」,隨其堪能名「為人」。兩悉檀與四隨同,亦是感應意也。
『智度論』に説かれる「四悉檀」のうち、世間のあり方をそのまま世界という。また、相手の能力に合わせて説くのを「為人」という。この二つの悉檀は、四随と同じであり、これもまた感応の意味である。
更引論「五復次」:一、明菩薩種種行故說《般若波羅蜜經》;二、令菩薩增念佛三昧故;三、說跋致相貌故;四、拔弟子惡邪故;五、說第一義故說《般若波羅蜜經》。此五復次與四隨、四悉皆不異,又與五因緣同。
さらに『大論』に「五つの復次」が説かれている。第一に、菩薩の様々な行いを明らかにするために『般若波羅蜜経』を説く。第二に、菩薩に念仏三昧を増進させるため。第三に、不退転の位の姿を説くため。第四に、弟子たちの誤った邪見を除くため。第五に、第一義を説くために『般若波羅蜜経』を説く。これらの五つの復次は、四随・四悉檀と異なることはなく、また五因縁とも同じである。
若不隨機,惱他故說,於彼無益。若大悲雷雨,得從微之著。論云:「真法及說者,聽眾難得故。」如是則生死非有邊非無邊,實相非難非易、非有非無,此名「真法」;能如此說聽,名「真說聽」。有三悉檀益,名「有邊」;第一義益名「非有邊非無邊」。故知緣起能辦大事,則感應意也。然四隨、四悉、五緣名異,意義則同。今說之四隨是大悲應益,悉檀是憐愍遍施,蓋左右之異耳。言「因緣」者,或「因於聖、緣於凡」,或「因於凡、緣於聖」,則感應道交。當知三法,言味相符則意同。
もし機根に合わせず、他者を悩ませるために説くならば、その人にとって益はない。大悲の雷雨のようにして、微かなものから顕著なものへと至るのである。論に云う「真の法と説く者、聴く衆は得難きが故に」と。かくの如くして、生死は有辺でもなく無辺でもなく、実相は難でもなく易でもなく、有でもなく無でもない。これを「真の法」と名づける。このように説き聴くことを、「真の説法・聴法」と名づける。
三種の悉檀の益を「有辺」と名づけ、第一義の益を「非有辺非無辺」と名づける。故に知る、縁起が大事を成し遂げるならば、これが感応の意である。
しかし、「四随」「四悉檀」「五縁」は名は異なれど、その意義は同じである。今、説くところの「四随」は大悲による応化の益であり、「悉檀」は憐れみをもって遍く施すことであり、表裏の違いに過ぎない。「因縁」というのは、あるいは「聖に因り、凡に縁る」、あるいは「凡に因り、聖に縁る」ことであり、すなわち感応道交である。まさに知るべきである。この三つの法は、言葉の味わいが合致すれば、その意味は同じである。
隨「樂欲」偏語,修因所尚;「世界」偏語,受報間隔,蓋因果之異耳。「便宜」者,選法以擬人;「為人」者,觀人以逗法,此乃欣赴不同耳。
「楽欲」という言葉は修行の因として大切にされることであり、「世界」という言葉はその報いとして現れる隔たりを表しています。これは因果の違いにほかなりません。 「便宜」とは、相手に合わせて法を選ぶこと、「為人」とは、人の様子を見て法を示すことです。これは人々の向かう方向が異なるからにほかなりません。
又五因緣者,眾生信樂為因,佛說一法一切法,大菩提心也,於經是「樂欲」,於論是「世界」;眾生有大精進勇猛,佛說一行一切行,則四三昧於經是「便宜」,於論是「為人」;眾生有平等大慧為因,感佛說一破一切破,獲勝果報及通經論,於經論俱是「對治」;眾生有佛智眼為因,感佛說一究竟一切究竟,得說旨歸寂滅,於經論俱是「第一義」也。
さらに、五つの因縁について述べます。まず、衆生が真理を信じ楽しむ心を持っていることを因として、仏は「一つの法が全ての法である」と説かれます。これは大菩提心のことです。経典ではこれを「樂欲」と言い、論書では「世界」と言います。次に、衆生に大きな精進と勇猛心があることを因として、仏は「一つの行が全ての行である」と説かれます。これは四種の三昧のことです。経典では「便宜」と言い、論書では「為人」と言います。また、衆生に平等な大いなる智慧があることを因として、仏は「一つの破砕が全てを破砕する」と説かれ、勝れた果報と経論の理解を得させます。これを経典・論書ともに「対治」と言います。さらに、衆生に仏の智慧の眼があることを因として、仏は「一つの究竟が全ての究竟である」と説かれ、教えの趣旨は寂滅に帰すると説かれます。これを経典・論書ともに「第一義」と言います。
又五緣、五復次者,菩提心是諸行本,論舉種種行,蓋枝本之異耳;四三昧是通修,念佛是別修,蓋通別之異耳;勝報備說「依正」、「習果」、「報果」,跋致偏舉「習果」入位之相,蓋雙隻之異耳;除經論疑滯者,經論是起疑執處,拔弟子惡邪者是起過人,人處異耳;「本末究竟等」與「第一義」名同易見所以不異,是為義同。
また五つの因縁、五つの復次について述べます。菩提心はあらゆる修行の根本であり、論が様々な行を挙げるのは、枝葉と根本の違いに過ぎません。四つの三昧は共通の修行であり、念仏は別の修行ですが、これも共通と別異の違いに過ぎません。優れた報いについては「依報・正報」「習果・報果」を詳しく説き、不退転については「習果」にのみ焦点を当てて位に入る相を示しますが、これは総合的と部分的という違いに過ぎません。経論の疑いや滞りを除くという点は、経論が疑いや執着を起こす場であり、弟子の邪悪な誤りを抜くことは過ちを起こす人に関するもので、人と場所の違いに過ぎません。「本末究竟等」と「第一義」は名称が同じで理解しやすいため、異ならないことが明らかであり、これは意味が同じであるということです。
又聖說多端,或次說或不次說,或具說或不具說,或雜說或不雜說;眾生稟益不同,或次益不次益,或具益不具益,或雜益不雜益。或四悉檀成五緣、五緣成四悉;或四悉成一因緣、一因緣成一悉;或一一因緣皆具四悉、四悉具五緣。如是等種種互相成顯,還以三止觀結之,可以意知。又以一止觀結之,發菩提心即是觀,邪僻心息即是止。
また、聖者の教えには多くの違いがある。順序立てて説かれることもあれば、順序を追わずに説かれることもある。詳しく説かれることもあれば、簡潔に説かれることもある。混ざり合って説かれることもあれば、混ざらずに説かれることもある。人々が受ける利益も一様ではない。順序に従って利益を得る者もいれば、順序を経ずに得る者もいる。詳しい利益を得る者もいれば、簡潔な利益を得る者もいる。混ざり合った利益を得る者もいれば、混ざらない利益を得る者もいる。
あるいは、四つの方便(四悉檀)が五つの因縁(五縁)を形成し、五つの因縁が四つの方便を形成することもある。あるいは、四つの方便が一つの因縁となり、一つの因縁が一つの方便となる。あるいは、一つ一つの因縁がすべて四つの方便を備え、四つの方便が五つの因縁を備えることもある。
このように、さまざまなものが互いに影響し合い、明らかにし合っているが、最終的には三つの止観(三止観)をもってまとめられる。これは智慧をもって理解すべき
又五略秖是十廣,初五章秖是發菩提心一意耳;方便、正觀秖是四三昧耳;果報一章秖明違順,違即二邊果報,順即勝妙果報;起教一章轉其自心利益於他,或作佛身,施權實,或作九界像,對揚漸頓、轉漸頓、弘通漸頓;旨歸章秖是同歸大處祕密藏中。故知略廣意同也。
また、五略は十広にほかならない。初めの五章は菩提心を発すという一つの意味に集約される。方便と正観は、四種三昧に尽きる。果報の章は違順を示すものであり、違するならば二辺(有無など)の果報、順するならば勝妙の果報となる。起教の章は、自らの心を転じて他を利益することを説き、あるいは仏身となって権実(方便と真実)の教えを施し、あるいは九界の姿をとって、漸頓(次第と頓悟)の教えを示し、これを回向し、弘通する。旨帰の章は、すべてが大処秘密蔵に帰一することを明かす。かくの如く、略と広の意は同じであると知るべきである。
○顯是更為三:初、四諦,次、四弘,後、六即。四諦名相出《大經.聖行品》,謂生滅、無生滅、無量、無作。
ここでは、さらに三つの教えを示します。第一に四諦、第二に四弘誓願、第三に六即です。
四諦の名称と形相は『大般涅槃経・聖行品』に示されており、それは生滅四諦、無生滅四諦、無量四諦、無作四諦の四つです。
「生滅」者,苦集是世因果,道滅出世因果。苦則三相遷移,集則四心流動,道則對治易奪,滅則滅有還無。雖世、出世,皆是變異,故名「生滅四諦」也。
「生滅」とは、苦と集はこの世における原因と結果であり、道と滅はこの世を超えた原因と結果です。苦とは、すべてのものが三つの相(生・住・滅)にしたがって移り変わること。集とは、四つの心(貪・瞋・癡・慢など)が絶えず動き続けること。道とは、それらを対処し、改めること。滅とは、あるものをなくし、無に還すことです。この世のものであれ、この世を超えたものであれ、すべては移り変わるものであるため、「生滅の四諦」と呼ばれます。
「無生」者,苦無逼迫,一切皆空,豈有空能遣空?即色是空,受想行識亦復如是,故無逼迫相也。「集無和合相」者,因果俱空,豈有因空與果空合?歷一切貪瞋癡亦復如是。道不二相,無能治所治,空尚無一,云何有二耶?法本不然,今則無滅,不然不滅,故名「無生四諦」也。
「無生」とは、苦しみに迫られることがなく、すべてが空であるということです。空によって空を追い払うことなどできましょうか。色(物質)がそのまま空であり、受・想・行・識もまた同様です。だからこそ、苦しみに押しつぶされるという性質は存在しないのです。 「集(苦しみの原因)には和合する性質がない」とは、原因も結果も共に空であり、原因の空と結果の空が結びつくことなどありえません。貪りや怒り、無知のすべてにおいてもまた、これと同じです。 道は二つのものとして対立する性質を持たず、対治するものと対治されるものも存在しません。空ですら一つもないのですから、ましてや二つなどありえましょうか。 もともと法は生じておらず、今も滅することはありません。生じず、滅しないことから、「無生の四諦」と名付けられるのです。
「無量」者,分別校計苦有無量相,謂一法界苦尚復若干,況十法界?則種種若干,非二乘若智若眼所能知見,乃是菩薩所能明了。謂地獄種種若干差別,鈹剝、割截、燒煮、剉切,尚復若干不可稱計,況復餘界種種色、種種受想行識,塵沙海渧寧當可盡?故非二乘知見,菩薩智眼乃能通達。
「無量」とは、苦しみの相には無数の種類があることを分別し計算すると、一つの法界(一つの世界)の苦しみさえもこれほど多くあるのに、ましてや十の法界(十の世界)においては、さらに様々で数えきれないものがあります。これは声聞や縁覚の智慧や眼では知り見ることができず、菩薩だけが明らかに理解できるものです。すなわち、地獄には様々な区別があり、鋭い刃で皮を剥ぎ、体を切り裂き、焼き煮え、細かく刻むなど、その苦しみの種類も計り知れません。ましてや他の世界の様々な色や、様々な感受・想像・作用・認識など、塵や砂のように無数で、海の一滴のように尽きることのないものを、どうして計り尽くせるでしょうか。ゆえに、これは声聞や縁覚の知見の及ぶところではなく、菩薩の智慧と眼だけが悟り通せるものなのです。
又集有無量相,謂貪欲瞋癡,種種心,種種身口,集業若干。身曲影斜、聲喧響濁,菩薩照之不謬耳。
また、集(しゅう)には無量の相がある。すなわち貪欲・瞋恚・愚痴、さまざまな心、さまざまな身と口、積み重なる業の数々である。身が曲がれば影は傾き、声が騒がしければ響きは濁る。しかし菩薩はそれらを照らし、誤りなく見極めるのである。
又道有無量相,謂析體、拙巧、方便、曲直、長短、權實,菩薩精明而不謬濫。
また、有るや無きやの無量の相があるという。すなわち、分析と一体、拙さと巧みさ、方便と直截、曲がりとまっすぐ、長さと短さ、仮の教えと真実の教えである。菩薩はこれらの諸相を明らかに見極め、誤ることなく、濫りに用いることもない。
又滅有無量相,如是方便能滅見諦,如是方便能滅思惟,各有若干正助,菩薩洞覽無毫差也。又即空方便正助若干皆無若干;雖無若干而分別若干,無謬無亂。又如是方便能析滅四住;又如是方便能體滅四住;如是方便能滅塵沙;如是方便能滅無明。雖種種若干,彼彼不雜。又三悉檀分別故有若干,第一義悉檀則無若干。雖無若干,從多為論,故名若干,稱「無量四諦」也。
さらに、滅には無量の相がある。このような方便をもって見諦を滅し、このような方便をもって思惟を滅する。それぞれに様々な正助があり、菩薩はそのすべてを明らかに見通し、わずかな誤差もない。
また、空においては、方便の正助の様々も、すべて「様々」ではない。様々ではないにもかかわらず、様々を分別し、誤りも混乱もない。
また、このような方便は四住を分析して滅し、このような方便は四住を体得して滅し、このような方便は塵沙を滅し、このような方便は無明を滅する。様々な種類があるが、それらは互いに混ざり合うことはない。
また、三悉檀による分別があるから様々があり、第一義悉檀には様々はない。様々ではないが、多い方に従って論じるので様々と名づけ、「無量四諦」と呼ぶのである。
「無作四諦」者,皆是實相,不可思議,非但第一義諦無復若干,若三悉檀及一切法無復若干,此義可知,不復委記。
「無作四諦」とは、すべてが実相そのものであり、思いはかることもできず、言葉で説明することもできない。第一義諦だけでなく、さまざまな相対的な真理や、あらゆる現象そのものにも、もはや区別や差異はない。この意味はおのずと理解できるものであり、ここで詳しく書き記す必要はない。
若以四諦竪對諸土,有增有減,同居有四,方便則三,實報則二,寂光但一。若橫敵對者,同居生滅,方便無生滅,實報無量,寂光無作(云云)。
四つの真理(四諦)を縦に 様々な浄土に当てはめてみると、 その数には増減があります。 - 凡聖同居土には四つすべての真理がある。 - 方便有余土には三つの真理がある。 - 実報無障礙土には二つの真理がある。 - 常寂光土には一つの真理だけがある。
また、横に直接対応させてみると、 - 凡聖同居土は「生滅」の四諦(苦しみの原因を断ち切る教え)に、 - 方便有余土は「無生滅」の四諦(生滅を超えた境地)に、 - 実報無障礙土は「無量」の四諦(無限の教え)に、 - 常寂光土は「無作」の
又總說名四諦,別說名十二因緣。苦是識、名色、六入、觸、受、生、老死七支;集是無明、行、愛、取、有等五支;道是對治、因緣、方便;滅是無明滅乃至老死滅。
さらに総じて言えば四諦と呼ばれ、別々に言えば十二因縁と呼ばれる。苦とは識・名色・六入・触・受・生・老死の七支である。集とは無明・行・愛・取・有の五支である。道とは対治・因縁・方便である。滅とは無明の滅から老死の滅に至るまでである。
故《大經》開四「四諦」,亦開四「十二因緣」。下智觀故得聲聞菩提,中智觀故得緣覺菩提,上智觀故得菩薩菩提,上上智觀故得佛菩提。
それゆえに『大経』では、四つの「四諦」を説き、さらに四つの「十二因縁」を開示しています。智慧の低い者がこれを観じることで声聞の悟りを得、中程度の智慧の者が観じることで縁覚の悟りを得、高い智慧の者が観じることで菩薩の悟りを得、最上の智慧の者が観じることで仏の悟りを得るのです。
又《中論》偈云「因緣所生法」即是生滅;「我說即是空」是無生滅;「亦名為假名」是無量;「亦名中道義」是無作。又解:「因緣」即集,「所生」即苦,「滅苦方便」是道,「苦集盡」是滅。又偈言因緣:「因緣即無明,所生法即行、名色、六入等。」故文云:「為利根弟子說十二因緣不生不滅相」,指前二十五品;「為鈍根弟子說十二因緣生滅相」,指後兩品。當知論偈總說,即四種四諦;別說,即四種十二因緣也。已分別四「四諦」竟。
また『中論』の偈に「因縁所生法」は生滅であり、「我說是即空」は無生滅、「亦名為仮名」は無量、「亦名中道義」は無作であると説かれている。別の解釈では、「因縁」は集を、「所生」は苦を、「滅苦方便」は道を、「苦集尽」は滅を指す。さらに偈の「因縁」とは無明を指し、「所生法」とは行(ぎょう)、名色(みょうしき)、六入(ろくにゅう)などを指す。よって経典には「利根の弟子のために、十二因縁の不生不滅の相を説く」とあり、これは前二十五品を指す。「鈍根の弟子のために、十二因縁の生滅の相を説く」とあり、これは後の二品を指す。知るべきである、この論の偈は総説としては四種の四諦を、別説としては四種の十二因縁を表している。以上で四種の「四諦」の区別を終える。
諸經明種種發菩提心,或言推種種理發菩提心,或覩佛種種相發菩提心,或覩種種神通,或聞種種法,或遊種種土,或覩種種眾,或見修種種行,或見種種法滅,或見種種過,或見他受種種苦而發菩提心。略舉十種為首廣說(云云)。
様々な経典には、様々な発菩提心の方法が説かれています。 例えば、様々な真理を考え抜くことで菩提心を起こすこと、仏の様々な姿を見て菩提心を起こすこと、様々な神通力を見て、あるいは様々な教えを聞いて、様々な浄土を巡って、様々な人々を見て、様々な修行の実践を見て、様々な教えが滅びゆく様子を見て、様々な過ちを見て、そして他の人々が様々な苦しみを受けているのを見て菩提心を起こすことです。 ここでは大まかに十種を例に挙げて広く説かれています(云々)。
「推理發心」者:法性自天而然,集不能染,苦不能惱,道不能通,滅不能淨。如雲籠月,不能妨害;却煩惱已,乃見法性。經言:「滅非真諦,因滅會真。」滅尚非真,三諦焉是?煩惱中無菩提,菩提中無煩惱。是名「推生滅四諦上求佛道下化眾生發菩提心」。
「推論によって発心する」とは、法性は自ずから天然であり、集諦がこれを染めることもなく、苦諦が悩ますこともなく、道諦が通じさせることもなく、滅諦が清めることもない、ということです。あたかも雲が月を覆っても、月そのものを害することができないのと同じです。煩悩を滅し去った後に、はじめて法性を見るのです。経典に「滅は真諦にあらず、滅によって真に会する」と説かれています。滅ですら真実の諦(真理)ではないのに、ましてや三諦(苦・集・道)が真理であるはずがありましょうか。煩悩の中に菩提はなく、菩提の中に煩悩はありません。これを「生滅の四諦を推論し、上で仏道を求め、下で衆生を教化する、発菩提心」というのです。
「推無生四諦發心」者:法性不異苦集,但迷苦集失法性。如水結為水,無別水也。達苦集無苦集,即會法性。苦集尚是,何況道滅?經言:「煩惱即是菩提,菩提即是煩惱。」是名「推無生四諦上求下化發菩提心」。
「無生の四諦に推して発心する」とは、法性は苦集と異なるものではない。ただ、苦集に迷うことで法性を見失うのである。例えば、水が氷に変わっても、水そのものは別にあるわけではない。苦集を悟り、苦集には実体がないと知れば、すなわち法性にかなう。苦集でさえ法性そのものなのだから、ましてや道滅はなおさらである。経典に「煩悩すなわち菩提、菩提すなわち煩悩」とあるのは、これを「無生の四諦に推して上求菩提・下化衆生の菩提心を起こす」と名づけるのである。
「推無量」者:夫法性者名為實相,尚非二乘境界,況復凡夫?出二邊表,別有淨法,如《佛藏經》十喻(云云)。是名「推無量四諦上求下化發菩提心」。
「推無量」とは——そもそも法性を実相と名づけるが、これは二乗(声聞・縁覚)の悟りの境地ですらなく、ましてや凡夫の及ぶところではない。二つの極端(有無など)の彼方に、別に清らかな法が存在する。それは『仏蔵経』の十のたとえ(云云)に説かれる通りである。これを「無量の四諦によって上は菩提を求め、下は衆生を救おうと発心する」というのである。
「推無作」者:夫法性與一切法無二無別,凡法尚是,況二乘乎?離凡法更求實相,如避此空,彼處求空。即凡法是實法,不須捨凡向聖。經言:「生死即涅槃,一色一香皆是中道。」是名「推無作四諦上求下化發菩提心」。
「無作を推す」とは、法性(真理そのものの性質)とあらゆる存在とは、別々のものではなく、違いもありません。凡夫の世界の法(現象)でさえそうなのですから、ましてや声聞や縁覚の教えにおいてはなおさらです。凡夫の法から離れて、別に真実の相(実相)を求めようとするのは、まるで、この空(くう)を避けて、別の場所で空を探すようなものです。凡夫の法こそが、そのまま真実の法なのですから、凡夫の世界を捨てて聖なる境地に向かう必要はありません。経典にも「生死(迷いの世界)そのものが涅槃(悟りの世界)であり、一つの色、一つの香りにもすべて中道(偏りのない真理)が備わっている」と説かれています。これを「無作の四諦(苦・集・滅・道)の上に仏の智慧を求め、下に民衆を救おうとする菩提心を発す」と名付けるのです。
若推一法,即洞法界,達邊到底,究竟橫竪,事理具足,上求下化備在其中,方稱發菩提心。菩提名「道」,道能通到橫竪彼岸,名「發心波羅蜜」。故於推理委作淺深,事理周遍。下去,法法例爾。
もし一つの法(真理)を深く探求すれば、そのまま法界(あらゆる存在の領域)を明らかにし、その果てに達し、究極まで行き渡ります。縦にも横にも、事実と道理の両方が完全に備わり、上に悟りを求め、下に衆生を救う働きがその中にすべて含まれます。これを「発菩提心」と呼びます。「菩提」とは「道」という意味で、この道は縦横の彼方(彼岸)に通じるものです。そのため、これを「発心波羅蜜(悟りへの完成)」と言います。
ですから、推理(真理の探求)において、それぞれの浅い深い段階をしっかりと詳しく示し、事実と道理がすべての面に及ぶようにするのです。これ以降、一つ一つの法(教え)もすべて、この例に従います。
摩訶止觀卷第一(上)
摩訶止観 巻第一(上)