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摩訶止観 (摩訶止觀)


摩訶止觀卷第一(下)

摩訶止観 巻第一(下)

隋天台智者大師說

隋の天台智者大師の説

門人灌頂記

弟子灌頂記

「觀佛相好發心」者:若見如來父母生身,身相昞著,明了得處,輝麗灼爍,毘首羯磨所不能作,勝轉輪王相好纏絡,世間希有,天上天下無如佛,十方世界亦無比。願我得佛,齊聖法王,我度眾生,無數無央。是為「見應佛相好,上求下化,發菩提心」。

「仏の相好を見て心を発す」とは: もし如来の父母から生まれた身を目にすれば、その身の相は明らかに輝き、はっきりと見え、美しく燦然と輝き、毘首羯磨(びしゅかつま)といえども作りえず、転輪王の相好を超えて纏わり絡みつく。世にも稀であり、天上天下に仏に並ぶものはなく、十方世界にもまた比べるものはない。 「願わくば、我も仏となり、聖なる法王に齊(ひと)しく、衆生を限りなく済度せん」と。 これが「応身の仏の相好を見て、上に菩提を求め下に衆生を化し、菩提心を発す」というのである。

若見如來,知如來無如來;若見相好,知相好非相好。如來及相皆如虛空,空中無佛,況復相好?見如來非如來,即見如來;見相非相,即見諸相。願我得佛齊聖法王,我度眾生無數無央。是為見勝應相好,上求下化,發菩提心。

もし如来を見るならば、如来に「如来という実体」がないと知りなさい。もし相好を見るならば、相好は「相好という実体」ではないと知りなさい。如来も相もすべて、虚空のようなものです。虚空の中に仏などあるはずがなく、ましてや相好があるでしょうか。如来を「如来にあらず」と見ることが、真に如来を見ることです。相を「相にあらず」と見ることが、真にすべての相を見ることです。願わくば、私は仏と等しく聖なる法の主となり、限りなく無数の衆生を救済しましょう。これこそが、勝れた応身の相好を見ることです。上に仏道を求め、下に衆生を化導し、菩提心を発するのです。

若見如來身相一切靡所不現,如明淨鏡覩眾色像,一一相好凡聖不得其邊、梵天不見其頂、目連不窮其聲。論云:「無形第一體,非莊嚴莊嚴。」願我得佛齊聖法王。是為見報佛相好,上求下化,發菩提心。

もし、如来の身相を目にすれば、その姿は全てをありのままに映し出します。それは、清らかな鏡に様々な姿が映るように、一つひとつの相好は凡夫も聖者もその限りを知ることができず、梵天でさえその頂上を見ることができず、目連でさえその声の果てを探り当てられません。経典には「形なきものこそ第一の体であり、装飾なきものが真の装飾である」と説かれています。願わくば、私も仏となり、聖なる法王と等しくなりたいと。これが報身の仏の相好を観じ、上には悟りを求め、下には衆生を救おうとして、菩提心を起こすということなのです。

若見如來,知如來智,深達罪福相,遍照於十方;微妙淨法身,具相三十二,一一相好即是實相,實相法界具足無減。願我得佛齊聖法王。是為見法佛相好,上求下化,發菩提心(云云)。

如来を見るとは、如来の智慧を知ることです。 罪と福の本質を深く悟り、その智慧は十方の世界を照らします。 微細で清らかな法身は、三十二の優れた相を備えています。 その一つ一つの相好は、そのまま真実の姿(実相)です。 真実の姿である法界は、完全で欠けることがありません。 願わくは、私は仏となり、聖なる法王と等しくなりたい。 これが「法仏の相好を見る」ことであり、上に悟りを求め、下に衆生を救う、菩提心を発すことなのです(と説かれています)。

云何「見佛種種神變發菩提心」?若見如來依根本禪,一心作一,不得眾多;若放一光,從阿鼻獄上至有頂,火光晃耀,天地洞明,日月戢重輝,天光隱不現。願我得佛,齊聖法王(云云)。

どのように「仏のさまざまな神通変化を見て発菩提心する」のか? もし如来が根本的な静けさの境地(根本禅)に依って、一つの心をもって一つの働きをなすなら、多くの働きを同時に生じることはできない。しかし、もし一筋の光を放てば、その光は地獄の最底から天上の最高処まで届き、火の光が輝き渡り、天地が明るく照らされる。その時、太陽も月もその光を隠し、天上の光もまた姿を現さない。 (このような仏の力を目の当たりにして、私はこう願う——)「どうか私も仏となり、聖なる法王と等しくなれますように」と(などと)。

若見如來依如來無生理,不以二相應諸眾生,能令眾生各各見佛獨在其前。願我得佛,齊聖法王(云云)。

もし如来を見るならば、如来の「無生」の真理に基づいて見るべきです。 二つの相(対立する見方)に執着せずに、すべての生きとし生けるものに向き合えば、 それぞれの者が、目の前にお釈迦さまだけがおられるかのように感じることができます。

私は仏となるとき、聖なる法の王である仏と等しくなりたいと願います。

若見如來依如來藏三昧正受,十方塵剎起四威儀,而於法性未曾動搖。願我得佛,齊聖法王(云云)。

もし如来を、如来蔵の三昧(深い瞑想)においてご覧になるならば、十方の無数の世界において、あらゆる立ち居振る舞い(行住坐臥)を現し示しながらも、その法性(真理の本質)は決して揺らぐことがありません。願わくば、私は仏となり、聖なる法王と等しくなれますように(云々)。

若見如來與諸神變無二無異,如來作神變、神變作如來;無記化化、化復作化,不可窮盡,皆不可思議,皆是實相而作佛事。願我得佛,齊聖法王(云云)。

もし私が如来の現す神変(神通による変化)と、如来そのものとが、まったく同じであり、別のものでも異なるものでもないのを見るならば――すなわち、如来が神変を起こし、神変が如来となる。また、記録もなく変化し続けるもの(無記化化)が、さらに変化(化)を生み出し、その変化がまた変化を生む、と果てしなく続いていく。そのすべては思い計ることさえできず、すべては真実の姿(実相)であり、それによって仏の教えの働きがなされている――そのように願うには、私が仏となるにあたり、聖なる法の王(聖法王)と同等の境地に達したいものである。

云何「聞種種法發菩提心」?或從佛及善知識,或從經卷,聞生滅一句,即解世、出世法,新新生滅、念念遷移;戒慧解脫,寂靜乃真。願我得佛,能說淨道(云云)。

どうして「さまざまな教えを聞いて菩提心を起こす」というのでしょうか。 あるいは仏や善知識から、あるいは経典から、「生じたり滅したりする」という一節を聞いて、即座に世俗の法も出世間の法も理解し、すべてが新たに生じては消え、一瞬一瞬うつろっていくことを知ります。戒や智慧、解脱といったものは、静けさの中にこそ真実があると気づきます。 「どうか、私も仏となり、清らかな道を説くことができますように」と願うのです。

或聞生滅,即解四諦皆不生不滅,空中無刺,云何可拔?誰苦、誰集、誰修、誰證?畢竟清淨,能所寂然。願我得佛,能說淨道(云云)。

あるいは「生と滅」について聞けば、たちまち四つの真理(四諦)がすべて生じもせず滅しもしないと理解する。空の中には刺さったとげなどなく、いったい何を抜き去るというのだろうか。誰が苦しみ、誰が苦しみを集め、誰が道を修め、誰が悟りを証するというのか。ついには清らかであり、主体的な修行者も対象となる境地も静かに消え去っている。願わくば、私は仏となり、清らかな教えを説くことができるように。

或聞生滅,即解生滅對不生滅為二,非生滅非不生滅為中。中道清淨,獨拔而出生死、涅槃之表。願我得佛,能為眾生說最上道,獨拔而出,如華出水、如月處空(云云)。

ある者は「生と滅」について聞き、すぐに「生と滅」は「不生と不滅」と対立するものだと理解します。 しかし、生も滅もせず、不生も不滅でもない状態が「中道」です。この中道は清らかで、生死(輪廻)や涅槃(悟りの境地)という対立を超えて、独自に抜け出ています。 私は仏になったなら、すべての人々にこの最上の教えを説き、彼らもまた、水から出る蓮の花や、空にある月のように、清らかに際立って存在できるようにしたいと願います。

或聞生滅,即解生滅、不生滅、非生滅非不生滅,雙照生滅、不生滅。即一而三;即三而一,法界祕密,常樂具足。願我得佛,能為眾生說祕密藏,如福德人執石成寶、執毒成藥(云云)。

ある人は「生滅」と聞けば、即座に「生滅」「不生滅」「生滅でもなく不生滅でもない」を理解し、生滅と不生滅の両方を同時に照らし見る。 これは「一即三、三即一」であり、法界の秘密が常に楽を具足していることを示す。 願わくは、私は仏となり、衆生のためにこの秘密の蔵を説くことができますように。 それはあたかも、福徳ある人が石を握れば宝となり、毒を握れば薬となるようなものです。

若聞無生,謂二乘無三界生,菩薩未無生。若聞無生,謂三乘皆無三界生。若聞無生,二乘非分,但在菩薩。菩薩先無分段生,次無變易生。若聞無生,一無生一切無生。

「無生」と聞いて、二乗(声聞・縁覚)は三界に生まれることがないと理解し、菩薩にはまだ無生が備わっていないと考える人がいる。

「無生」と聞いて、三乗(声聞・縁覚・菩薩)すべてが三界に生まれることがないと理解する人もいる。

また、「無生」と聞いて、二乗にはそれが当てはまらず、菩薩だけにあると考える人もいる。菩薩はまず分段の生死(三界での輪廻による生まれ変わり)を超え、次に変易の生死(修行者の微細な変化による生死)も超える。

さらに、「無生」と聞いて、一つの無生がすべての無生である(一即一切)と理解する人もいる。

若聞無量一句,例如此。若聞無量,謂二乘方便道、四諦、十六諦等,以為無量。若聞無量,二乘自用伏惑,不能化他;菩薩用此無量,自去惑,亦化他。若聞無量,謂二乘無分,但在菩薩。菩薩用斷界內塵沙,亦伏界外塵沙。若聞無量,謂二乘無分,但在菩薩。菩薩用斷界內外塵沙,亦伏無明。若聞無量,但在菩薩。菩薩用伏斷無明。

「無量」と聞けば、例えば次のように解釈する。 「無量」と聞けば、それは二乗(声聞・縁覚)のための方便の道、四諦、十六諦などを指し、これらを無量と見なす。 「無量」と聞けば、二乗は自らのためにこれを用いて煩悩を抑えるが、他者を教え導くことはできない。菩薩はこの無量を用いて、自らの煩悩を除き、他者をも教え導く。 「無量」と聞けば、二乗にはその分はなく、菩薩だけにあるものとされる。菩薩はこれを用いて、三界内の塵沙の惑を断ち、さらに三界外の塵沙の惑をも抑える。 「無量」と聞けば、二乗にはその分はなく、菩薩だけにあるものとされる。菩薩はこれを用いて、三界内外の塵沙の惑を断ち、さらに無明の惑をも抑える。 「無量」と聞けば、それは菩薩だけにあるものとされる。菩薩はこれを用いて、無明の惑を抑え、また断ち切る。

若聞無作一句,例亦如此。若聞無作,謂非佛、天、人、修羅所作;二乘證此無作。《思益》云:「我等學於無作,已作證得,而菩薩不能證得(云云)」。若聞無作,謂三乘皆能證得。若聞無作,謂非二乘境界,況復凡夫?菩薩破權無作,證實無作。若聞無作,謂即權無作證實無作。若得此意,隨聞一句,通達諸句,乃至一切句、一切法而無障礙(云云)。

「無作」と聞く場合も、これと同じように理解すべきです。「無作」と聞けば、それは仏、天、人、修羅によって作られたものではないと捉えます。二乗(声聞・縁覚)はこの無作を証得します。『思益経』には「我らは無作を学び、すでにそれを証得した。しかし菩薩はそれを証得することができない」と説かれています。

「無作」と聞いて、三乗(声聞・縁覚・菩薩)みな証得できると捉えることもあります。「無作」と聞いて、それは二乗の境地ですらなく、まして凡夫には及ばない、と捉えることもあります。菩薩は仮の無作を破り、真実の無作を証得します。

「無作」と聞いて、すなわち仮の無作をもって真実の無作を証得する、と捉えることもあります。もしこの意味を会得すれば、一句を聞くだけで全ての句に通じ、さらにはあらゆる句、あらゆる法に滞りなく通じるのです。

夫一說眾解,是義難明,更約《論》偈重說之。若言「因緣所生法,我說即是空」者,既言「因緣所生」,那得即空?須析因緣盡,方乃會空,呼方空為即空。「亦名假名」者,有為虛弱,勢不獨立,假眾緣成;賴緣故假,非施權之假。「亦名中道義」者,離斷常名「中道」,非「佛性中道」。若作如此解者,雖三句皆空,尚不成即空,況復即假、即中?此生滅四諦義也。

ある人々が一つの説法を聞いて多くの解釈を生むため、その意味は理解しがたい。そこで、さらに『論』の偈に依って改めて説き明かそう。

もし「因縁によって生じる諸法、私はこれを空と説く」と言うならば、「因縁によって生じた」と既に説いている以上、どうしてすぐに「空」であり得ようか。因縁を尽くして分析して初めて「空」に至るのであり、そのような「空」を「即空」と呼ぶのである。 「また仮名と名づく」とは、有為のものは虚ろで弱く、独立して存在し得ず、多くの因縁に頼って成り立つ。因縁に依存するから「仮」なのであり、方便として仮に立てた「仮」ではない。 「また中道の義と名づく」とは、断見と常見を離れるから「中道」と呼ぶのであり、「仏性の中道」ではない。

もしこのように解釈するならば、三つの句がいずれも「空」を説くものではあるが、まだ「即空」にすら至っていない。まして「即仮」や「即中」に至ることはありえない。 これこそが、生滅の四諦の意味するところである。

若因緣所生法,不須破滅,體即是空,而不得即假、即中。設作假、中,皆順入空。何者?諸法皆即空,無主我故;假亦即空,假施設故;中亦即空,離斷常二邊故。此三番語雖異,俱順入空。退,非二乘析法;進,非別非圓,乃是三獸渡河,共空之意耳。

因縁によって生じるすべてのものは、 わざわざ壊したり滅ぼしたりしなくても、 その本体はすでに「空」そのものです。 そして、この「空」は、かりそめの姿(仮)であり、 同時に究極の真実(中)でもあります。 たとえ「仮」や「中」と表現しても、 すべては「空」の理解に導かれます。 なぜなら、すべてのものはすぐに「空」だからです。 そこには「私」という実体がないからです。 「仮」もすぐに「空」です。 なぜなら、それは仮に立てられたものにすぎないからです。 「中」もすぐに「空」です。 なぜなら、永遠・断滅の両極端を離れているからです。 この三つの言葉は異なっていても、 すべては「空」を理解する方向へと導いています。 これは、声聞・縁覚(二乗)が行うような要素に分解して分析する方法とは異なります。 また、菩薩の別教や円教の立場とも異なり、 まさに、三匹の獣が川を渡って同じ「水」を踏むように、 すべてが共に「空」であることの意味を示しているのです。

若謂即空、即假、即中者,三種邐迤,各各有異。三語皆空者,無主故空、虛設故空、無邊故空;三種皆假者,同有名字故假;三語皆中者,中真、中機、中實,故俱中。此得別失圓(云云)。

もし「即空・即仮・即中」と言うならば、この三つは順序立てて並べられ、それぞれに違いがあります。三つすべてを空という場合、主体がないから空、仮に設けられたものだから空、限りがないから空です。三つすべてを仮という場合、いずれも名前があるから仮です。三つすべてを中という場合、中の真理、中の機縁、中の実相であるから、すべて中です。これは別教の理解を得るものの、円教の理解を失っています(云云)。

若謂即空、即假、即中者,雖三而一,雖一而三,不相妨礙。三種皆空者,言思道斷故;三種皆假者,但有名字故;三種皆中者,即是實相故。但以空為名,即具假、中;悟空,即悟假、中。餘亦如是。當知聞於一法,起種種解,立種種願,即是種種發菩提心。此亦可解。

「空であり、仮であり、中である」という場合、三つでありながら一つであり、一つでありながら三つであり、互いに妨げ合うことはありません。三つすべてが空であるとは、言葉や思考を超えているからです。三つすべてが仮であるとは、単なる名称に過ぎないからです。三つすべてが中であるとは、そのまま真実の姿(実相)だからです。ただ“空”という名で表しても、そこには“仮”と“中”が備わっています。“空”を悟れば、即座に“仮”と“中”も悟ることになります。他の二つも同様です。したがって、一つの法(真理)を聞いて、さまざまな理解が生まれ、さまざまな願いを立てること、それがまさにさまざまな菩提心を発することであると知るべきです。このこともまた理解できるでしょう。

其淨土、徒眾、修行、法滅、受苦、起過等,發菩提心,例前可解,不復委記。

その浄土、人々の集い、修行の在り方、法の滅び、苦しみ、過ちの起こりなどについては、菩提心を発することを例として前に記した通り解せられるので、ここでは詳しく記さない。

上來所說既多,今以三種止觀結之。然法性尚非一法,云何以三、四推之?今言一二三四,說法性是所迷,苦集是能迷;能迷有輕重,所迷有即離。約界內外分別,即有四種苦集;約根性取理,即有一二三四不同(云云)。若界內鈍人迷真重,苦集亦重;利人迷真輕,苦集亦輕。界外利鈍輕重亦如是。

以上に述べた内容は多くに及びますが、ここで三種の止観(しかん)をもって総括します。ただし、法性(ほっしょう)はそもそも一つの法(もの)ですらないのに、どうして三や四で推し量れるでしょうか。ここで一、二、三、四と述べるのは、法性が迷われる対象であり、苦・集(く・じゅう)が迷う主体であるからです。迷う主体には軽重があり、迷われる対象には即(即ち一体であること)と離(離れていること)があります。界(三界)の内外によって分ければ、四種の苦・集があり、根機(こんき)の性質によって理を取る様子に、一・二・三・四の違いがあるのです(云々)。もし界内(三界内)の鈍根(どんこん)の人が真理に迷うことが重ければ、苦・集も重く、利根(りこん)の人が真理に迷うことが軽ければ、苦・集も軽くなります。界外(三界外)の利根・鈍根における軽重も、これと同じです。

法性是所解,道滅是能解,所解有「即」、「離」,能解有「巧」、「拙」。界內鈍人所解「離」,能解則「拙」;利人所解「即」,能解亦「巧」。界外利鈍,即、離、巧、拙,亦如是。所以者何?事理既殊,昏惑亦甚。譬如父子,兩謂路人,瞋打俱重。瞋以譬集,打以譬苦。若謂煩惱即法性,事理相即,苦集則輕;實非骨肉,兩謂父子,瞋打則薄。麁細、枝本、通別、遍不遍、難易等,亦如是。或云界內苦集底滯為重;界外升出為輕。或界內皮惑故為淺;界外肉惑故為深。或言界內隨他意故為拙;界外隨自意故為巧。或言界內稱機故為巧;界外不稱機故為拙。或言界內有能所故為麁;界外無能所故為細。或言界內小道極在化城故為細;界外大道極在寶所故為麁。或言界內客塵故為枝;界外同體故為本。或言界內在初故為本;界外在後故為枝。或言界內小、大共故為通;界外獨在大故為別。或言界內偏故為小、淺,故為別;界外圓故為大,無隔故為通。或言界內短故為不遍;界外周法界故為遍。或言界內在一切賢聖共故為遍;界外獨在大緣故為不遍。或言界內用二乘方便故為難斷;界外但依無礙慧故為易斷。

法性とは解かれるべきものであり、道と滅とは解く力です。解かれるべきものには「即(そのまま同じであること)」と「離(離れていること)」があり、解く力には「巧み」と「拙い」があります。 世界の内側(三界)にいる鈍い人の解く対象は「離」であり、その解く力は「拙い」ものです。利根な人の解く対象は「即」であり、その解く力も「巧み」です。 世界の外側にいる人たちの利根・鈍根による「即」と「離」、「巧み」と「拙い」の関係も、これと同じです。 なぜならば、事(現象)と理(本質)がすでに異なれば、迷いや苦しみもさらに激しくなるからです。 たとえて言うなら、親子でありながら互いを他人だと思い込んでいる場合、怒りも叩くこともひどくなります。怒りは「集(苦しみの原因)」に、叩くことは「苦」にたとえられます。 もし煩悩がそのまま法性であると知り、事と理が一体であると悟れば、苦と集は軽くなります。実際には血のつながりがないのに、互いを親子と思い込んでいれば、怒りや叩くことは軽くなります。 粗い・細かい、枝・根元、共通・個別、普遍・非普遍、難しい・易しいなどの区別も、これと同じように考えることができます。 あるいは、世界の内側の苦と集は底に滞っているので重く、世界の外側は上に抜け出しているので軽いと言われます。 あるいは、世界の内側の煩悩は皮膚のようなものなので浅く、世界の外側の煩悩は肉のようなものなので深いと言われます。 あるいは、世界の内側は他者の意向に従うものなので拙く、世界の外側は自己の意向に従うものなので巧みであると言われます。 あるいは、世界の内側は相手の機根に合わせるので巧みであり、世界の外側は機根に合わないので拙いと言われます。 あるいは、世界の内側には能(主体)と所(客体)の区別があるので粗く、世界の外側には能所の区別がないので細かいと言われます。 あるいは、世界の内側の小さな道は化城(仮の目的地)で終わるので細かく、世界の外側の大きな道は宝所(真の悟り)に至るので粗いと言われます。 あるいは、世界の内側の煩悩は客塵(外から来る塵)のようなものなので枝であり、世界の外側の煩悩は同体(本来の体と同じ)なので根元であると言われます。 あるいは、世界の内側が初めにあるので根元であり、世界の外側が後にあるので枝であると言われます。 あるいは、世界の内側は小乗と大乗の両方に共通するので普遍的であり、世界の外側は大乗のみに独自にあるので個別的であると言われます。 あるいは、世界の内側は偏っているので小さく浅く、個別的であり、世界の外側は円満なので大きく、隔てがないので普遍的であると言われます。 あるいは、世界の内側は短いので普遍的ではなく、世界の外側は法界全体に及ぶので普遍的であると言われます。 あるいは、世界の内側はすべての聖者・賢者が共通して持つものなので普遍的であり、世界の外側は大乗の縁を持つ者だけに独自にあるので普遍的ではないと言われます。 あるいは、世界の内側は二乗の方便を用いるので断ち難く、世界の外側はただ無礙の智慧に依るので断ち易いと言われます。

如是等種種互說,今若結之,則易可解。若作淺深輕重者,漸次觀意也。若作一實四諦不分別者,圓觀意也。若作更互輕重者,不定觀意也。皆是大乘法相,故須識之。若見此意,即知三種:漸次顯是、不定顯是、圓頓顯是(云云)。

このように様々な説が互いに語られているが、ここでまとめれば、理解しやすくなる。もし浅深・軽重の区別を立てるなら、それは漸次の観法の意である。もし一実四諦として区別しないなら、それは円満な観法の意である。もし互いに軽重を交えるなら、それは不定の観法の意である。いずれも大乗の法の形相であるから、必ず識別しなければならない。この意味を理解すれば、三つの捉え方、すなわち「漸次に顕れる真理」「不定に顕れる真理」「円頓に顕れる真理」があることが分かる(云々)。

問:集既有四,苦果何二?

問:集(苦しみの原因)には四つの種類があるのに、なぜ苦しみの結果は二つだけなのですか?

答:惑隨於解,集則有四;解隨於惑,但感二死。例如小乘,惑隨於解,則有見諦思惟;若解隨於惑,但是一分段生死耳。

答えよう。迷いが悟りに従う場合、その集まりには四つの種類がある。悟りが迷いに従う場合は、ただ二つの死を感じるだけである。例えば小乗において、迷いが悟りに従うならば、見諦と思惟がある。もし悟りが迷いに従うならば、それはただ一分段生死に過ぎないのである。

問:苦集可是因緣所生法,道滅何故爾?

問う、苦と集は因縁によって生じる法であるが、道と滅はなぜそうであるのか?

答:苦集是所破,道滅是能破。能破從所破得名,俱是因緣生法。故《大經》云:「因滅無明,則得熾然三菩提燈。」亦是因緣也。

答え:苦と集は破られるべきものであり、道と滅は破る力を持つものです。破る力は破られるものによってその名を得ており、共に因縁によって生じる法です。ゆえに『大般涅槃経』には、「無明を滅するがゆえに、燃え盛る三菩提の灯明を得る」とあります。これもまた因縁なのです。

問:法性是所迷,何故二,何故四?

質問:法性は迷われる対象であるが、なぜ「二」と言い、なぜ「四」と言うのか?

答:法性隨權實,是故二;法性隨根緣,是故四。若見此意,例見相、聞法,乃至起過,例作四種,分別廣說(云云)。

答えよう。法性(ものごとの真実のすがた)は、権(仮の教え)と実(真実の教え)にしたがうゆえに、二種となる。法性は、さらに人々の素質や縁にしたがうゆえに、四種となる。もしこの意味を理解すれば、見える形や聞こえる教えに至るまで、さらには過ちを起こすことまで、すべて同じように四種に分類して、詳しく説明できるのである(と説かれた)。

○中、約弘誓顯是者,前推法性、聞法等,其義已顯,為未了者更約四弘。又四諦中,多約「解」明上求下化;四弘中,多約「願」明上求下化。又四諦中,通約「三世佛」明上求下化;四弘中,多約「未來佛」明上求下化。又四諦中,多約「諸根」明上求下化;四弘中,專約「意根」明上求下化。如此分別令易解,得意者不俟也。

○中では、弘誓に約してこれを明かす者について述べます。前に法性を推し、法を聞くことなどを挙げましたが、その意義はすでに明らかです。まだ理解しない者のために、さらに四弘に約して述べるのです。また四諦の中では、多くは「解」に約して上求と下化を明かしますが、四弘の中では、多くは「願」に約して上求と下化を明かします。また四諦の中では、通じて「三世の仏」に約して上求と下化を明かしますが、四弘の中では、多くは「未来の仏」に約して上求と下化を明かします。また四諦の中では、多くは「諸根」に約して上求と下化を明かしますが、四弘の中では、もっぱら「意根」に約して上求と下化を明かします。このように分別することで理解しやすくなりますので、意義を会得した者は待つ必要はありません。

夫心不孤生,必託緣起。意根是因,法塵是緣,所起之心是所生法。此根、塵,能、所,三相遷動,竊起竊謝,新新生滅,念念不住,睒爍如電耀,遄疾若奔流。色泡、受沫、想炎、行城、識幻,所有依報——國土、田宅、妻子、財產,一念喪失,倏有忽無。三界無常,一篋偏苦,四山合來,無逃避處,唯當專心戒定智慧,竪破顛倒,橫截死海,超度有流。

心はひとりでに生じるものではなく、必ず縁起によって起こります。意根は因であり、法塵は縁であり、そこに生じる心は所生の法です。この根と塵、能と所という三相が移り動き、ひそかに起こってはひそかに消え、新しく生まれては新しく滅び、念念に常住することなく、稲妻のように閃き輝き、奔流のように速く過ぎ去ります。色は泡のごとく、受は沫のごとく、想は炎のごとく、行は城のごとく、識は幻のごとくであり、すべての依報——国土、田宅、妻子、財産——も、一念のうちに失われ、たちまち有って忽ち無くなります。三界は無常であり、一つの篋に偏って苦しみがあり、四つの山が迫り来れば逃れる場所はありません。ただひたすらに心を戒・定・智慧に専注し、縦に顛倒を破り、横に死の海を断ち切り、有の流れを超え渡るべきです。

經言:「我昔與汝等不見四真諦,是故久迴轉。」火宅如此,云何耽湎縱逸嬉戲?是故慈悲起四弘誓,拔苦與樂。如釋迦之見耕墾,似彌勒之觀毀臺,即其義也。以明了四諦,故非九縛;起四弘誓,故非一脫。是為非縛非脫發真正菩提心,顯是義明矣。

経典にはこう説かれています。「私とあなた方は、これまで四諦の真理を見ることができなかった。そのために長く生死を巡り続けてきたのだ」と。火宅がこのようなものであるのに、どうして溺れふけって放逸に遊びふけることができましょうか。それゆえ慈悲をもって四弘誓願を起こし、苦しみを抜き取り楽しみを与えるのです。釈迦が田を耕す人々をご覧になったこと、弥勒が壊れた台をご覧になったことは、まさにこの意味にほかなりません。四諦を明らかに悟ったがゆえに九つの束縛にはとどまらず、四弘誓願を起こしたがゆえに一つの解脱にとどまることもないのです。これがすなわち、縛られもせず解脱にもとどまらない、真実の菩提心を起こすということです。この意味が明らかになったのです。

次、秖觀根塵相對,一念心起,能生、所生無不即空。妄謂心起,起無自性、無他性、無共性、無無因性。起時,不從自、他、共、離來;去時、不向東、西、南、北去。此心不在內、外、兩中間,亦不常自有,但有名字,名之為心。是字不住,亦不「不住」,不可得故。生即無「生」,亦無「無生」,有無俱寂。凡愚謂有,智者知無,如水中月,得喜失憂;大人去取,都無欣慘。鏡像幻化亦如是。
《思益》云:「苦無生,集無和合,道不二,滅不生。」《大經》云:「解苦無苦,而有真諦,乃至解滅無滅,而有真諦。」集既即空,不應如彼渴鹿,馳逐陽焰。苦既即空,不應如彼癡猴,捉水中月。道既即空,不應言:「我行即空、不行不即空。」如筏喻者,法尚應捨,何況非法?滅既即空,不應言:「眾生壽命,誰於此滅而證彼滅。」生死即空,云何可捨?涅槃即空,云何可得?
經言:「我不欲令無生法中有修道,若四念處乃至八聖道。我不欲令無生法中有得果,若須陀洹乃至阿羅漢。」依例亦應言:「我不欲令無生法中有色受想行識,我不欲令無生法中有貪欲瞋恚癡。」但愍念眾生,興誓願,拔兩苦,與二樂。以達苦集空,故非九縛;達道滅空,故非一脫。是為非縛非脫發真正菩提心,顯是義明矣。
秖觀根塵,一念心起,心起即假。假名之心,為迷解本,謂四諦有無量相。三界無別法,唯是一心作。心如工畫師,造種種色。心構六道,分別校記,無量種別,謂如是見、愛是界內輕重集相,界外輕重集相。如是生死是分段輕重苦相,界外輕重苦相。
還翻此心而生於解。譬如畫師洗蕩諸色、塗以墡彩。所謂觀身不淨,乃至觀心無常,如是道品紆通化城。觀身身空,乃至觀心心空。空中無無常,乃至無不淨。如是道品直通化城。觀身無常,無常即空,乃至觀身法性非常非無常、非空非不空,乃至觀心亦如是。如是道品紆通寶所。觀身法性非淨非不淨,雙照淨不淨;乃至觀心法性常無常、雙照常無常。如是道品直通寶所。
是人見諦滅,名須陀洹;是人思惟滅,名三果。是人見滅,名見地;是人思滅,名薄、名離、名已辦,乃至侵習,名辟支佛。是人見思滅,名十住;塵沙滅,名十行、十迴向;無明滅,名十地、等覺、妙覺。是人見思、塵沙滅,名十信;無明滅,名十住、十行、十迴向、十地、等覺、妙覺。
分別十六門道滅不同及一切恒沙佛法,分別校計,不可說、不可說,如觀掌果無有僻謬,皆從心生,不餘處來。觀此一心能通不可說心;不可說心能通不可說法;不可說法能通不可說非心非法。觀一切心,亦復如是。
九縛凡夫不覺不知,如大富盲兒坐寶藏中,都無所見;動轉罣礙,為寶所傷。二乘熱病,謂諸珍寶是鬼虎龍蛇,棄捨馳走,竛竮辛苦五十餘年。雖縛脫之殊,俱貧如來無上珍寶。起大慈悲誓願,拔苦與樂,是為非縛非脫發真正菩提心,顯是義明矣。
次、根塵相對,一念心起,即空即假即中者,若根若塵,並是法界,並是畢竟空,並是如來藏,並是中道。云何即空?並從緣生,緣生即無主,無主即空。云何即假?無主而生即是假。云何即中?不出法性,並皆即中。當知一念即空即假即中,並畢竟空,並如來藏,並實相。非三而三,三而不三;非合非散,而合而散,非非合非非散;不可一異而一異。譬如明鏡,明喻即空,像喻即假,鏡喻即中。不合不散,合散宛然;不一二三,二三無妨。此一念心,不縱不橫,不可思議。非但己爾,佛及眾生亦復如是。
《華嚴》云:「心、佛及眾生,是三無差別。」當知己心具一切佛法矣。《思益》云:「愚於陰界入,而欲求菩提,陰界入即是,離是無菩提。」《淨名》曰:「如來解脫,當於眾生心行中求。」「眾生即菩提,不可復得;眾生即涅槃,不可復滅。」「一心既然,諸心亦爾,一切法亦爾。」《普賢觀》云:「毘盧遮那遍一切處。」即其義也。當知一切法即佛法,如來法界故。
若爾,云何復言「遊心法界如虛空」?又言「無明、明者,即畢竟空」?此舉「空」為言端,空即不空,亦即非空非不空。又言「一微塵中有大千經卷」;「心中具一切佛法,如地種,如香丸」者,此舉「有」為言端。有即不有,亦即非有非不有。又言「一色一香無非中道」,此舉「中道」為言端。即中而邊,即非邊非不邊,具足無減。勿守語害圓、誣罔聖意。
若得此解,根塵一念心起,根即八萬四千法藏;塵亦爾,一念心起,亦八萬四千法藏。佛法界、對法界、起法界,無非佛法。生死即涅槃,是名苦諦。一塵有三塵,一心有三心;一一塵有八萬四千塵勞門,一一心亦如是。貪瞋癡亦即是菩提,煩惱亦即是菩提,是名集諦。翻一一塵勞門,即是八萬四千諸三昧門,亦是八萬四千諸陀羅尼門,亦是八萬四千諸對治門,亦成八萬四千諸波羅蜜。無明轉即變為明,如融氷成水,更非遠物,不餘處來,但一念心普皆具足。如如意珠,非有寶,非無寶。若謂無者即妄語;若謂有者即邪見。不可以心知,不可以言辯。眾生於此不思議、不縛法中,而思想作縛;於無脫法中,而求於脫。是故起大慈悲,興四弘誓,拔兩苦,與兩樂,故名「非縛非脫發真正菩提心」。
前三皆約四諦為語,今約法藏、塵勞、三昧、波羅蜜,其義宛然。
問:前簡非,併言非;今顯是,何故併言是?
答:所言併是者,皆非縛非脫,故言併是,通皆上求故。又次第漸入到實,故言併是。又實難知,借權顯實,故言併是。此三番擬世界悉檀,言併是也。又權不攝實,實則攝權,欲令攝顯易見,故言併是。此一番擬為人悉檀,故言是也。又一菩提心,一切菩提心,若不說者,不知一切,故言併是。此一番擬對治悉檀明是。若究竟而論,前三是約權,後一約實。譬如良醫有一祕方總攝諸方,阿伽陀藥功兼諸藥,如食乳糜更無所須,一切具足,如如意珠。權實顯是,其義可知。又一是者,一大事因緣故。云何為「一」?一實不虛故,一道清淨故,一切無礙人,一道出生死故。云何為「大」?其性廣博多所含容,大智、大斷,大人所乘,大師子吼,大益凡聖,故言為大。「事」者,十方三世佛之儀式,以此自成佛道,以此化度眾生,故名為事。「因緣」者,眾生以此因感佛,佛以此緣起應,故言因緣。又「是」者,不可言三,不可言一,不可言非三非一,而言三一,故名「不可思議是」也。又「是」者,非作法,非佛、非天、人、脩羅所作。常境無相,常智無緣。以無緣智緣無相境;無相之境相無緣之智。智境冥一,而言境智,故名「無作」也。又「是」者,如《文殊問經》云:「破一切發,名發菩提心;常隨菩提相,而發菩提心。」又「無發而發,無隨而隨。」又「過一切破,過一切隨,雙照破隨,名發菩提心。」如此三種不一不異,如理如事,如非理非事,故名為是。
若例此義,無作、不可思議、一大事因緣等諸法門,皆言破,皆言隨,皆言非破非隨,雙照破隨。又前三是上中下智所觀;後一是上上智所觀。前三是共;後一是不共。前三淺、近、曲;後一深、遠、直(云云)。前三是小中大;後一是大中大、上中上、圓中圓、滿中滿、實中實、真中真、了義中了義、玄中玄、妙中妙、不可思議中不可思議。
若能如此簡非顯是,體權識實而發心者,是一切諸佛種。譬如金剛從金性生,佛菩提心從大悲起,是諸行先。如服阿娑羅藥,先用清水,諸行中最;如諸根中,命根為最;佛正法正行中,此心為最。如太子生具王儀相,大臣恭敬,有大聲名;如迦陵頻伽鳥,㲉中鳴聲已勝諸鳥。
此菩提心有大勢力,如師子筋弦,如師子乳,如金剛槌,如那羅延箭;具足眾寶,能除貧苦如如意珠。雖小懈怠,小失威儀,猶勝二乘功德。舉要言之,此心即具一切菩薩功德,能成三世無上正覺。若解此心,任運達於止觀。無發無礙即是觀,其性寂滅即是止。止觀即菩提,菩提即止觀。
《寶梁經》云:「比丘不修比丘法,大千無唾處,況受人供養?六十比丘悲泣白佛:『我等乍死,不能受人供養。』佛言:『汝起慚愧心,善哉!善哉!』一比丘白佛:『何等比丘能受供養?』佛言:『若在比丘數,修僧業,得僧利者,是人能受供養。四果、四向是僧數,三十七品是僧業,四果是僧利。』比丘重白佛:『若發大乘心者,復云何?』佛言:『若發大乘心,求一切智,不墮數,不修業,不得利,能受供養。』比丘驚問:『云何是人能受供養?』佛言:『是人受衣用敷大地,受摶食若須彌山,亦能畢報施主之恩。』」當知小乘之極果不及大乘之初初。
又《如來密藏經》說:「若人父為緣覺而害、盜三寶物、母為羅漢而污、不實事謗佛、兩舌間賢聖、惡口罵聖人、壞亂求法者、五逆初業之瞋、奪持戒人物之貪、邊見之癡,是為『十惡』惡者。若能知如來說因緣法,無我、人、眾生、壽、命,無生、無滅、無染、無著,本性清淨;又於一切法知本性清淨,解知信入者,我不說是人趣向地獄及諸惡道果。何以故?法無積聚,法無集惱,一切法不生不住,因緣和合而得生起,起已還滅。若心生已滅,一切結使亦生已滅。如是解,無犯處。若有犯、有住,無有是處。如百年闇室,若然燈時,『闇』不可言:『我是室主,住此久。』而不肯去。燈若生,闇即滅,其義亦如是。」此經具指前四菩提心。若知如來說因緣法,即指初菩提心;若無生無滅,指第二菩提心;若本性清淨,指第三菩提心;若於一切法知本性清淨,指第四菩提心。初菩提心已能除重重十惡,況第二、第三、第四菩提心耶?行者聞此勝妙功德,當自慶幸,如闇處伊蘭,得光明栴檀。
問:因緣語通,何意初觀獨當其名?
答:以最初當名耳。又因緣事相,初觀為便。若言生滅者,即別後三。例有通別,而從別受名耳。
○約六即顯是者,為初心是,後心是?
答:如《論》焦、炷,非初不離初,非後不離後。若智信具足,聞一念即是。信故不謗,智故不懼,初後皆是。若無信,高推聖境,非己智分;若無智,起增上慢,謂己均佛,初後俱非。為此事故,須知六即,謂理即、名字即、觀行即、相似即、分真即、究竟即。此六即者,始凡終聖。始凡故,除疑怯;終聖故,除慢大(云云)。
理即者,一念心即如來藏理。「如」故即空,「藏」故即假,「理」故即中;三智一心中具,不可思議。如上說「三諦一諦、非三非一」;一色一香、一切法、一切心亦復如是。是名「理即是菩提心」,亦是「理即止觀」。即寂名「止」;即照名「觀」。
名字即者,理雖即是,日用不知,以未聞三諦,全不識佛法,如牛羊眼,不解方隅。或從知識,或從經卷,聞上所說一實菩提,於名字中通達解了,知一切法皆是佛法。是為「名字即菩提」,亦是「名字止觀」。若未聞時,處處馳求。既得聞已,攀覓心息,名「止」;但信法性,不信其諸,名為「觀」。
觀行即是者,若但聞名口說,如蟲食木,偶得成字,是蟲不知是字、非字,既不通達,寧是菩提?必須心觀明了,理慧相應,所行如所言,所言如所行。《華首》云:「言說多不行,我不以言說,但心行菩提。」此心口相應,是觀行菩提。《釋論》四句評聞慧具足,如眼得日,照了無僻。觀行亦如是,雖未契理,觀心不息。如《首楞嚴》中「射的喻」。是名「觀行菩提」,亦名「觀行止觀」。恒作此想名「觀」;餘想息名「止」(云云)。
相似即是菩提者,以其逾觀逾明,逾止逾寂,如勤射隣的,名「相似觀慧」。一切世間治生產業不相違背,所有思想籌量,皆是先佛經中所說,如六根清淨中說。圓伏無明名「止」;似中道慧名「觀」(云云)。
分真即者,因相似觀力入銅輪位,初破無明,見佛性,開寶藏,顯真如,名「發心住」;乃至「等覺」,無明微薄,智慧轉著,如從初日至十四日,月光垂圓,闇垂盡。若人應以佛身得度者,即八相成道;應以九法界身得度者,以普門示現,如經廣說。是名「分真菩提」,亦名「分真止觀」、「分真智斷」。
究竟即菩提者,等覺一轉,入於妙覺,智光圓滿不復可增,名「菩提果」。大涅槃斷,更無可斷,名「果果」。等覺不通,唯佛能通,過茶無道可說,故名「究竟菩提」,亦名「究竟止觀」。總以譬譬之,譬如貧人,家有寶藏而無知者,知識示之,即得知也;耘除草穢而掘出之,漸漸得近;近已藏開,盡取用之。合六喻可解(云云)。
問:《釋論》五菩提意云何?
答:《論》竪判別位,今竪判圓位。會之,「發心」對「名字」;「伏心」對「觀行」;「明心」對「相似」;「出到」對「分真」;「無上」對「究竟」。又用彼名,名「圓位」,「發心」是「十住」;「伏心」是「十行」。
問:住已斷,行云何伏?
答:此用真道伏。例如小乘破見名「斷」;思惟名「伏」。「明心」是「十迴向」;「出到」是「十地」;「無上」是「妙覺」。又從十住具五菩提,乃至妙覺究竟五菩提。故《地義》云:「從初一地具諸地功德。」即其義也。
問:何意約圓說六即?
答:圓觀諸法,皆云「六即」。故以圓意約一切法,悉用六即判位。餘不爾,故不用之。當其教用之,胡為不得?而淺近非教正意也。
然上來簡非,先約苦諦,升沈世間簡耳;次約四諦,智曲拙淺近簡耳;次約四弘行願;次約六即位,展轉深細,方乃顯是。故知明月神珠,在九重淵內驪龍頷下,有志、有德,方乃致之。豈如世人,麁淺浮虛,競執瓦、石、草、木,妄謂為寶。末學膚受,太無所知!
摩訶止觀卷第一(下)

第一(上)
第二(上)

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