---
title: "成實論 · 61 立有數品"
description: "成实论由印度高僧诃梨跋摩所著，鸠摩罗什于姚秦时期译成汉文，是小乘佛教向大乘过渡的重要论典。该论以四谛为核心，系统阐述苦、集、灭、道真谛，批判说一切有部观点，主张人法二空思想。其内容涵盖五蕴分析、业报理论及修行次第，结构严谨，逻辑清晰，被视为部派佛教思想的集大成者。在中国佛教史上，成实论曾形成成实学派，对南北朝佛学发展影响深远，为三论宗等宗派提供了理论基础，是研究早期佛教哲学的重要文献。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmbmc20p5009hl404bg34izsl"
---

### 立有數品第六十一

> 第六十一品 立有數品

問曰：心異、心數法異。所以者何？心心數法共相應故，若無心數則無相應；而實有相應，故知有心數法。汝意若謂心與餘心相應，是事不然。所以者何？經中說心獨行遠逝、寢藏無形。是中但遮同性，雖與心數共行，猶名為獨行。如說比丘獨處，雖有虫獸，以無類故亦名獨處。故知心不與餘心相應，而實有相應，故知有數。又心七界一入一陰所攝，心數法一界一入三陰所攝。又心是依處，數法依止。如經中說：是心數法皆依心行。又若無心數則無五陰，是則不可。又此二生異，從二生心，從三生數。如經中說：因眼緣色生眼識，三事和合名觸，觸因緣生受。又說：名色集故識集，觸集故受集。又心數法與所依相應，同共一緣，在一世中，心不如是。以是差別，故知心異、心數法異。又四依中說，依智不依識。智若是識，云何言依？故知智非識也。又佛自說心數法名，謂從心生、依止心故，名為心數。又佛不說此義：唯獨有心而無心數。他人亦可言：但有數而無心。汝若以名字破數，我亦以名字破心。又所作異故諸法相異，如水能浸漬、火能焚燒。如是受等所作異故，知有異相。又諸經中說：心中生覺，故知心數異心，不應心中自生心故。又如說心垢故眾生垢、心淨故眾生淨，若但是心，則垢淨無因，是人不以無明故垢、慧明故淨，應自垢自淨，此則不可，是故有心數法。

> 問い：心と心数法（心の働き）は別のものである。なぜなら、心と心数法は互いに相応（対応・結びつき）するからである。もし心数法がなければ相応することはない。しかし実際には相応があるのだから、心数法が存在すると知るべきである。 もしあなたが「心は他の心と相応する」と考えるなら、それは正しくない。なぜなら、経典に「心は独り行き、遠く去り、眠り、隠れ、形がない」と説かれているからである。ここではただ同じ性質のものと結びつかないことを示しているのであって、心数法と共に働いても「独り行く」と呼ばれるのである。例えば、比丘が独りでいるといっても、虫や獣がいても同類がいなければ「独りでいる」と言うのと同じである。したがって、心は他の心とは相応せず、しかし実際には相応するものがあるのだから、心数法が存在すると知るべきである。 また、心は七つの界・一つの入・一つの陰に含まれるが、心数法は一つの界・一つの入・三つの陰に含まれる。また、心はよりどころとなり、心数法はそれに依りどころとするものである。経典に「これらの心数法はすべて心に依って働く」と説かれている通りである。 また、もし心数法がなければ五陰も存在しないことになり、それはあり得ない。また、これら二つは生じる因が異なる。心は二つの因から生じ、心数法は三つの因から生じる。経典に「眼と色を縁として眼識が生じ、三つの者が和合して触となり、触を因として受が生じる」と説かれている。また「名色が集まるから識が集まり、触が集まるから受が集まる」とも説かれている。 また、心数法はそのよりどころである心と相応し、同じ対象を共有し、同じ刹那の中にある。しかし心はそのようではない。このような違いがあるから、心と心数法は別のものであると知るべきである。 また、四依の中で「智に依って識に依らない」と説かれている。もし智が識であるなら、どうして「智に依る」と言えるだろうか。したがって、智は識ではないと知るべきである。 また、仏は自ら心数法の名前を説かれた。心から生じ、心に依りどころとするから「心数法」と呼ぶのである。また、仏は「ただ心だけがあって心数法はない」とは説かれなかった。他の人も「ただ心数法だけがあって心はない」と言えるだろう。もしあなたが名前によって心数法を否定するなら、私も名前によって心を否定することができる。 また、働きが異なるから、さまざまな法は異なる相を持つのである。水は浸し潤し、火は燃やし焼くようなものである。このように受などの働きが異なるから、異なる相があると知るべきである。 また、諸経典に「心の中から覚が生じる」と説かれている。したがって、心数法は心とは別のものであると知るべきである。心の中から心自身が生じることはないからである。 また、「心が汚れているから衆生は汚れ、心が清らかだから衆生は清らかである」と説かれている。もし心だけしかないなら、汚れや清らかさの原因がなくなってしまう。その人は無明によって汚れるのでもなく、智慧によって清らかになるのでもなく、自ずから汚れ自ずから清らかになるということになる。それはあり得ない。したがって、心数法は存在するのである。