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成実論 (成實論)


明業因品第一百二十

明業因品 第百二十

論者言:已略說諸業。業是受身因緣,身為苦性,故應滅之。欲滅此身,當斷其業,以因滅故果亦滅。故知因形有影,形滅則影滅。是故若欲滅苦,當勤精進斷此業因。

論者(論師)が言います。すでに諸々の業について概略を説きました。業は身体を受ける因縁であり、身体は苦を本性とするものですから、滅すべきです。この身体を滅しようと欲するならば、その業を断つべきです。因が滅するがゆえに果もまた滅するからです。それゆえ、形があれば影があることを知ります。形が滅すれば影も滅します。したがって、もし苦を滅しようと欲するならば、よく精進してこの業の因を断つべきです。

問曰:從業受身是事應明。所以者何?或有人言身從波羅伽提生,有言從自在天生,或言從大人生,或言從自然生,是故應說因緣。云何知從業生耶?答曰:是事已種種因緣破,當知從業受身。又萬物有種種雜類,當知因亦差別,如見粟麥等異知種不同。自在天等無差別故,當知非因;業有無量差別,故受種種身。又諸善人皆信因業受身。所以者何?是人常行施戒忍等善法,離殺生等諸不善法,故知從業受身。又若因業受身,是則可返,得真智故邪智則斷,邪智斷故貪恚等諸煩惱斷,諸煩惱斷故能起後身業亦斷,是則可返;自在等因中則不可返,以自在等不可斷故,故知從業受身。又現見果與因相似,如從麥生麥、從稻生稻,如是從不善業得不愛報、從善業得愛報;自在等因中無此相似,是故業為身本,非自在等。又今現見萬物皆從業生,以惡業故受打捕繫閉鞭杖死等諸苦,善業因緣受名聞利養等樂,隨意愛語者得隨意受報,故知從業受身,非自在等。又世間人自知萬物從業因生,故起稼穡等業,亦為施戒忍等諸福德業,無有閑坐而從自在望所欲者,故知從業得報。又若人雖說因自在等,而猶依諸業,謂自苦身及受齋等,故知以業為因。又若事不現應隨他教,謂聖人所行,一切賢聖皆依戒等善法,知從業因有世間故;若離戒等亦無聖人,無有聖教違背業者,故知從業受身。又行戒等諸善業故,能成神通變化等事,故知以業為因。又地獄等諸惡趣中瞋惱等多,故知由瞋惱等有諸惡道,如樹上見果知樹是因,故知業為身本。又惡道中癡等力強,當知煩惱是惡道因,一切不善皆由癡故。又生諸惡道多、生善處少,眼見殺等惡行者多、行善者少,故知殺等事是惡道因。又殺等事,善人所呵棄而不為,善人必知殺等有惡果故呵棄不為,若知無惡果,何故棄耶?又諸善人心若起惡即勤制止,以懼惡報故,當知殺等必有惡報;若不爾者,應隨意所作是最為樂,則殺可食眾生、奪他財物、婬犯他妻是亦皆樂,以懼來世苦故遠離斯事,故知從業有身。又修習正智盡有漏業則不受身,故知業是其本。又阿羅漢雖有諸有漏業,修正智故業則不集,故知業為身因,身因滅故身亦滅。又知四諦故依諦煩惱永不復起,以不起故則無有身。智者如是思惟則欲知四諦,故知業為身因。又若因緣不具則不受身,如地乾種焦則一切牙不生,如是識處地無愛水潤、業種為真智所焦,後身牙則不生。智者知是事故,欲乾識處地、焦業種子,則勤加精進,故知業是受身因緣。業論竟。

問い:業から身を受けるということは、この事は明らかにされるべきです。なぜでしょうか。ある人は身は波羅伽提(プラジャーパティ)から生じると言い、ある人は自在天から生じると言い、ある人は大人(マハートマン)から生じると言い、ある人は自然から生じると言います。それゆえ因縁を説くべきです。どうして業から生じると知るのでしょうか。

答え:この事はすでに種々の因縁によって破られました。業から身を受けると知るべきです。また万物には種々の雑多な類があり、それによって因もまた差別があると知るべきです。粟や麦などが異なるのを見て、種が同じでないと知るようなものです。自在天などには差別がないので、因ではないと知るべきです。業には無量の差別があるので、種々の身を受けるのです。

また、すべての善人はみな業によって身を受けると信じています。なぜでしょうか。その人は常に布施・戒・忍などの善法を行い、殺生などの諸々の不善法を離れているからです。それゆえ業から身を受けると知るのです。

また、もし業によって身を受けるなら、これは反転させることができます。真智を得るので邪智が断たれ、邪智が断たれるので貪・瞋などの諸煩悩が断たれ、諸煩悩が断たれるので後に身を起こす業もまた断たれ、これによって反転させることができます。自在天などの因の中では反転させることができません。自在天などは断つことができないからです。それゆえ業から身を受けると知るのです。

また、現に果と因が似ているのを見ます。麦から麦が生じ、稲から稲が生じるように、不善業からは愛しくない報いを得、善業からは愛しい報いを得ます。自在天などの因の中にはこの相似がありません。それゆえ業が身の本であって、自在天などではありません。

また、今、現に万物がみな業から生じるのを見ます。悪業によって打つ・捕らえる・繋ぐ・閉じ込める・鞭打つ・杖打つ・死などの諸々の苦を受け、善業の因縁によって名声・利養などの楽しみを受けます。思いのままに愛語する者は思いのままに報いを受けるので、業から身を受けると知るのであって、自在天などではありません。

また、世間の人は自ら万物が業の因から生じると知っているので、耕作などの業を起こし、また布施・戒・忍などの諸々の福德の業を行います。何もせず座って自在天から望みのものを得ようとする者はありません。それゆえ業から報いを得ると知るのです。

また、たとえある人が自在天などを因と説いても、なお諸々の業に依っています。自ら身を苦しめることや斎戒を受けることなどです。それゆえ業を因とすると知るのです。

また、もし事が現れないなら、他者の教えに従うべきです。聖人の行うところです。一切の賢聖はみな戒などの善法に依っています。業の因によって世間があると知るのです。もし戒などを離れれば聖人もありません。聖教で業に背くものはありません。それゆえ業から身を受けると知るのです。

また、戒などの諸々の善業を行うので、神通変化などの事を成し遂げることができます。それゆえ業を因とすると知るのです。

また、地獄などの諸々の悪趣の中には瞋や悩みなどが多いので、瞋や悩みなどによって諸々の悪道があると知ります。木の上に果を見て木が因であると知るように、業が身の本であると知るのです。

また、悪道の中では癡などの力が強いので、煩悩が悪道の因であると知るべきです。一切の不善はみな癡によるものです。

また、諸々の悪道に生まれる者は多く、善処に生まれる者は少ないです。現に殺すなどの悪行を行う者は多く、善を行う者は少ないのを見ます。それゆえ殺すなどの事が悪道の因であると知るのです。

また、殺すなどの事は、善人が呵責して捨てて行いません。善人は必ず殺すなどに悪い果があると知るので呵責して行わないのです。もし悪い果がないと知るなら、どうして捨てるでしょうか。

また、諸々の善人は心に悪が起こるとすぐに努力して制止します。悪報を恐れるからです。それゆえ殺すなどには必ず悪報があると知るべきです。もしそうでなければ、思うままに作ることは最も楽であるべきで、すなわち衆生を殺して食し、他人の財物を奪い、他人の妻を婬することがこれもみな楽であるべきです。来世の苦を恐れるのでこれらの事を遠離します。それゆえ業から身があると知るのです。

また、正智を修習して有漏の業を尽くせば身を受けません。それゆえ業がその本であると知るのです。

また、阿羅漢には諸々の有漏の業があっても、正智を修めるので業は集まりません。それゆえ業が身の因であると知り、身の因が滅するので身もまた滅するのです。

また、四諦を知るので、諦に依る煩悩は永遠に再び起こりません。起こらないので身もありません。智者はこのように思惟するので四諦を知ろうと望みます。それゆえ業が身の因であると知るのです。

また、もし因縁が具わなければ身を受けません。地が乾き種が焦げれば一切の芽が生じないように、識処の地に愛の水が潤わず、業の種が真智によって焦がされれば、後の身の芽は生じません。智者はこの事を知るので、識処の地を乾かし業の種子を焦がそうと望み、努めていっそう精進します。それゆえ業が身を受ける因縁であると知るのです。業論、終わり。


119 三業輕重品
煩惱論

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