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肇論略註 (肇論略注)


後秦長安釋僧肇作

後秦の長安にて、釈僧肇が著す。

苻堅有國,據關中,號為大秦;暨姚萇篡立,亦號為秦,故史以前、後別之。萇崩,其子興嗣國。什師譯經,當興之時,故公稱後秦。按公傳略云:「法師僧肇,京兆人,幼家貧,為人傭書,遂博觀子史。志好虗玄,每以老莊為心要。既而歎曰:『美則美矣,然其栖神冥累之方,猶未盡善。』後見舊《維摩經》,歡喜頂受,乃曰:『始知所歸矣。』因此出家,年二十為沙門,名震三輔。什公在姑臧,肇走依之。什與語,驚曰法中龍象也。及歸關中,詳定經論,四方學者輻輳而至,設難交攻。肇迎刃而解,皆出意表。著般若無知論,什覽之曰:『吾解不謝子,文當相揖耳。』傳其論至匡山,劉遺民以似遠公,公拊髀歎曰未曾有也。復作物不遷等論,皆妙盡精微。秦主尤重其筆札,傳布中外。年三十二而卒,當時惜其早世云。」

苻堅は国を有し、関中を拠点として大秦と称した。その後、姚萇が簒奪して即位し、やはり秦と称したため、歴史では前秦・後秦と区別している。萇が崩御すると、その子の興が国を継いだ。鳩摩羅什が経典を翻訳したのは、興の時代であるため、僧肇公は後秦の人と称される。

公の伝記によれば、「法師僧肇は京兆の人で、幼い頃は家が貧しく、人のために書写をして生計を立てていたが、やがて諸子百家や史書を広く学んだ。虚玄を志し、常に老子や荘子を心の要とした。しかし後に嘆いて言った。『美しいことは美しいが、精神を安らかにし、煩悩を断つ方法としては、まだ十分ではない』。その後、古い『維摩経』に出会い、歓喜して頂戴し、『ようやく帰依すべき道を知った』と言った。これにより出家し、二十歳で沙門となり、その名は三輔に響き渡った。什公が姑臧にいた時、肇は走って彼に師事した。什が彼と語り、驚いて『法の中の龍象である』と言った。関中に帰ってからは、経論を詳細に定め、四方の学者たちが集まり、難問を次々と投げかけたが、肇は刃を迎えるようにして解き明かし、皆その意表を突いた。『般若無知論』を著すと、什はそれを見て『私の理解は君に劣らないが、文章の点では君に一礼したい』と言った。この論が匡山に伝わると、劉遺民が慧遠公に似ていると言い、遠公は腿を叩いて嘆き、『かつてないものだ』と言った。さらに『物不遷論』などを著し、いずれも精微を極めて妙であった。秦の君主は特に彼の筆跡を重んじ、内外に伝え広めた。三十二歳で亡くなり、当時の人々はその早世を惜しんだという」。


總標題目
宗本義

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