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title: "肇論略註 · 搜玄第六"
description: "《肇论略注》是明代高僧德清对东晋僧肇《肇论》所作的注释。德清为晚明四大高僧之一，精通佛学与儒学，其注疏融合了禅宗与华严思想，深入阐释了《肇论》中的般若空观、物不迁论等核心教义。该书以清晰简明的语言解析了僧肇关于中观哲学的论述，成为研究中国佛教思想史的重要文献。作为汉传佛教经典注释的代表作之一，《肇论略注》既保留了僧肇原著的思辨深度，又体现了明代佛教的诠释特色，在佛教义学发展史上具有承前启后的地位。"
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## 肇論略注卷六

> 『肇論略注』巻六

明匡山沙門憨山釋　德清　述

搜玄第六

> 玄義を探求する 第六

此承無名言「涅槃之道妙出有無」，故名家搜之。搜，尋求也。

> この「無名」を受けて、「涅槃の道は、有と無を超えた妙なる境地である」と言われています。そのため、名相(けいしょう)を立てる人々はこれを探し求めます。「搜」とは、求めるという意味です。

有名曰：論自云「涅槃既不出有無，又不在有無」引論意，不在有無，則不可於有無得之矣；不出有無，則不可離有無求之矣。求之無所，便應都無。

此名家按蹟興疑也。上云「良以有無之數」等，是不出有無也。前云「果出有無」等，是不在有無也。以不在故，不可即而得之矣；不出，則不可離而求之矣。於即離之間求之，而所求不可得，便應都無。豈以斷滅為妙道乎？

> これは「有名」と「無名」の区別にこだわって疑問を抱くという意味である。上文で「そもそも有無の理は…」と言うのは、有無の枠を出ていないことを示す。前に「果報は有無を超えている」と言うのは、有無の中にはないことを示す。有無の中にないから、即座に捉えることはできず、有無の枠を出ていないから、それから離れて求めることもできない。即と離の間で求めても、求めるものは得られず、それならばすべて無であるべきだ。しかし、だからといって断滅を妙道とするわけにはいかないのである。

然復不無其道。其道不無，則幽途可尋。所以千聖同轍，未嘗虗返者也。其道既存，而曰「不出不在」，必有異旨。可得聞乎？

> しかし、その道が無いわけではありません。道が無いのであれば、深遠なる道筋をたどることはできません。だからこそ、多くの聖者たちが同じ道を歩み、無駄に帰ってきた者はいないのです。その道が確かに存在するにもかかわらず、「出でず、在らず」と言われるのには、必ず特別な意味があるはずです。その意味を伺うことはできるでしょうか？

既云不出不在，然又不無其道，是則妙道可尋，足知千聖一軌、同歸一極，未嘗虗返者也。然其道既存，則有所可指；而曰不出不在，使人趣向無所。必有異旨，可得聞乎。

> 「出ずるにもあらず、在るにもあらず」と言いながら、その道が無いわけではない。これこそが妙なる道であり、探求するに足るものなのだ。これにより、千人の聖人も同じ軌道を歩み、同じ究極の境地に帰着するのであって、決して無駄に還った者はいないことがよくわかる。しかし、その道が既に存在する以上、指し示すことのできる何かがあるはずである。にもかかわらず、「出ずるにもあらず、在るにもあらず」と言うならば、人は帰趨するところがなくなる。そこには必ず別の深い意図があるはずだ。それを聞くことができるでしょうか。