次第門第二
次第門第二
問:門有十二,何故初辨因緣?答:關中舊釋云,因緣者蓋是萬動之統號、造極之所由,所由既彰則虛宗可階、統號既顯則起作易泯,是以作者標為題首演而破之。演而破之,非唯斷常斯寂,亦乃教無不通,敢是希宗對教無不兼通,通由此法,所以為門。然此釋言巧意深,難可加也。今更數義以顯成之。一者因緣義總為佛法大宗,迷因緣一切皆迷、悟因緣則無法不悟,是以因緣在十二之初,自後諸門皆從因緣內而離出之。二者從因緣入於實相,其言易顯,是故初明因緣。又因緣具上四義,謂所破義、所申義、通理義、發觀義。破因緣病則無病不破,是破義周。問:云何無病不破?答:申因緣則破性義,復破因緣則破假義;破性名破世諦病,破因緣名破假病。一切病不出性假,故無病不破也。無教不申者,佛法正是因緣,故無教不申。通理發觀前已明之。如有無等門無所申義,故不在論初也。次觀有果無果門者,前品窮法於緣,緣無生果之能。縱今緣能生果,為先有而生?先無而生?為亦有亦無而生?有不須生,無不可生,半有同有、半無同無,以此三關求果無生,因悟實相,故以為門。觀緣門者,初門窮檢無生、次門縱求不得。惑者復謂:經辨四緣能生萬物,不應都空。是故以略廣二關求果無從,故以為門。又初門總明因緣空、次門別檢因不可得、次門別求緣義無蹤。觀相門者,對教之徒雖聞總別求果無蹤,復謂萬像各有相貌。是故今云有為無為並皆無相,故以為門。觀有相無相門者,前門明無通相,此門辨無別相,故以為門。觀一異門者,重開一異撿通別二相無蹤,故以為門。有無門者,重就有無求通相無蹤,故以為門。觀性門者,萬法有二:一相、二性。上求相無蹤,今檢性不得,故以為門。觀因果門者,自上八門破因不能生果,今此一門明無因不能生,故以為門。觀作者門者,自上來九門檢無所作之法,今此一章求人無蹤,故以為門。觀三時門者,自上已來求人法無蹤,但破前因後果及因果一時,未說前果後因;今明三時都無,故以為門。觀生門者,論首以來撿異法之生,今此一門撿即法有生。異之與即生義無蹤,為令菩薩得無生忍,是故最後辨觀生門。此略示一途生起次第,至後當委述之。門雖十二,不出三空。初有三門,求有法不得,名為空門;次有六門,求相無蹤,謂無相門;後有三門,求起作無蹤,即無作門。有人疑:不應用二空釋論,蓋是順人背論。有此疑心,若諦尋文旨,顯在論文。論云「大分深義所謂空也」,此空是實相之異名、般若之別稱。又智度論云。涅槃城有三門:謂空、無相、無作,故遊三門入於涅槃。此論從十二門以入於空,空即涅槃。《中論》云「諸法實相名為涅槃」,又《般若》云「諸法甚深者,謂空、無相、無願。」今欲明甚深義,故辨三門。問:三空淺深不?答:具二義。一無淺深,求一切有不得,名為空門;撿萬化相貌無蹤,名為無相門;求一切起作不得,名無作門。是以十二門一一皆云一切法空。二約緣淺深,求有不得名為空門,或者乃不執有遂取空相,次求空相無蹤名無相門。空門除有、無相破無,此二泯竟猶有作意,則觀猶未泯,故次泯於觀,則外內並𱷒、緣觀俱寂,義乃圓備。
問:門に十二有り。何を以て初めに因緣を辨ずるや。答:關中の舊釋に云く、「因緣とは抑も萬動の統號、造極の所由なり。所由既に彰はれば則ち虛宗に階す可く、統號既に顯はれば則ち起作も易く泯ぶ。是を以て作者題と爲して首に標し、演べて之を破る。演べて之を破るは、唯斷と常とが斯に寂ぶのみに非ず、亦た教として通ぜざる無し。敢て是の希宗、教に對すれば兼ねて通ぜざる無し。通ずるは此の法に由る。所以に門と爲す。」然るに此の釋は言巧みに意深く、加う可きこと難し。今更に數義を以て之を顯成せん。一者、因緣の義は總じて佛法の大宗と爲る。因緣に迷へば一切皆迷ひ、因緣に悟れば法として悟らざるは無し。是を以て因緣は十二の初に在り。自後、諸門皆因緣の內より離出するなり。二者、因緣より實相に入るは、其の言顯はし易し。是を以て初めに因緣を明かす。又、因緣は具に上の四義を有す。謂ふ所の破る所の義、申す所の義、理に通ずる義、觀を發する義なり。因緣の病を破れば則ち病として破らざるは無し。是れ破義の周なり。問:云何が病として破らざる無きや。答:因緣を申せば則ち性の義を破り、復た因緣を破れば則ち假の義を破る。性を破るを世諦の病を破ると名づけ、因緣を破るを假の病を破ると名づく。一切の病は性假を出でず。故に病として破らざる無きなり。教として申さざる無きは、佛法は正に因緣是なり。故に教として申さざる無し。理に通じ觀を發することは前已に之を明かせり。若し有無等の門の如きは申す所の義無し。故に論の初に在らざるなり。次に觀有果無果門は、前品法を緣に窮め、緣に生果の能無し。縱ひ緣能く果を生ずとも、先に有りて而も生ずるや、先に無くして而も生ずるや、亦た有も亦た無も而も生ずるや。有は生ずるを須ゐず、無は生ず可からず、半有は有に同じく、半無は無に同じ。此の三關を以て果に無生を求め、因りて實相に悟る。故に門と爲す。觀緣門は、初門は窮檢して無生、次門は縱求して得ず。惑者復た謂はく、「經は四緣能く萬物を生ずと辨ず。應に都で空なる可からず」と。是を以て略廣の二關を以て果の從く無きを求め、故に門と爲す。又、初門は總じて因緣の空を明かし、次門は別に因の得可からざるを檢し、次門は別に緣の義蹤無きを求む。觀相門は、教に對するの徒、總別に聞きて果の蹤無きを求め、復た謂はく、「萬像各々相貌有り」と。是を今、有爲無爲並びに皆相無しと云ふ。故に門と爲す。觀有相無相門は、前門は通相無きを明かし、此の門は別相無きを辨ず。故に門と爲す。觀一異門は、重ねて一異を開き、通別二相の蹤無きを檢す。故に門と爲す。有無門は、重ねて有無に就き通相の蹤無きを求む。故に門と爲す。觀性門は、萬法に二有り。一は相、二は性。上に相の蹤無きを求め、今性の得可からざるを檢す。故に門と爲す。觀因果門は、自上八門は因の果を生ぜざるを破る。今此の一門は因無くしては生ぜざるを明かす。故に門と爲す。觀作者門は、自上來九門は作る所の法無きを檢す。今此の一章は人蹤無きを求む。故に門と爲す。觀三時門は、自上已來、人法の蹤無きを求む。但だ前因後果及び因果一時を破り、未だ前果後因を說かず。今三時の都て無きを明かす。故に門と爲す。觀生門は、論首以來、異法の生を檢す。今此の一門は即法の生有ることを檢す。異と即との生義蹤無し。菩薩の無生忍を得せしめんが爲に、是を以て最後に觀生門を辨ず。此れ略く一途の生起次第を示す。後に至りて委しく述ぶ可きほどは、後に委しく述べん。門は十二と雖も、三空を出でず。初に三門有り、有法の得可からざるを求め、空門と名づく。次に六門有り、相の蹤無きを求め、無相門と謂ふ。後に三門有り、起作の蹤無きを求め、即ち無作門とす。人に疑ひ有り、「應に二空を以て論を釋す可からず。蓋し人に順ひ論に背く」と。此の疑心有らば、若し諦に文旨を尋ぬれば、顯に論文に在り。論に云く「大分の深義は所謂空なり」と。此の空は實相の異名、般若の別稱なり。又、智度論に云く「涅槃城に三門有り。謂ふ所は空、無相、無作なり。故に三門に遊びて涅槃に入る」と。此の論は十二門より以て空に入る。空は即ち涅槃なり。《中論》に云く「諸法の實相を涅槃と名づく」と。又、《般若》に云く「諸法の甚深は、謂ふ所は空、無相、無願なり」と。今、甚深の義を明かさんと欲す。故に三門を辨ず。問:三空に淺深有りや。答:二義を具す。一には淺深無し。一切の有の得可からざるを求め、空門と名づく。萬化の相貌蹤無きを檢し、無相門と名づく。一切の起作の得可からざるを求め、無作門と名づく。是を以て十二門一一皆「一切法空」と云ふ。二には緣に約して淺深あり。有の得可からざるを求め、空門と名づく。或る者は乃ち有を執せず遂に空相を取る。次に空相の蹤無きを求め、無相門と名づく。空門は有を除き、無相は無を破る。此の二泯び竟れば猶ほ作意有り。則ち觀未だ泯びず。故に次に觀を泯ぶ。則ち外內並びに寂び、緣觀俱に寂す。義乃ち圓備せり。