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  1. 十二門論 (十二門論)
  2. 1 観因縁門 (1 觀因緣門)
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十二門論 (十二門論)


觀因緣門第一

観因縁門 第一

龍樹菩薩造

龍樹菩薩による

姚秦三藏鳩摩羅什譯

姚秦三蔵法師鳩摩羅什訳

說曰:今當略解摩訶衍義。

では、これから大乗の教えの要点を、簡潔に説明しましょう。

問曰:「解摩訶衍者,有何義利?」

問う:「大乗の教えを理解することには、どのような利益があるのでしょうか?」

答曰:「摩訶衍者,是十方三世諸佛甚深法藏,為大功德利根者說。末世眾生薄福鈍根,雖尋經文不能通達。我愍此等欲令開悟,又欲光闡如來無上大法,是故略解摩訶衍義。」

お答えします。「摩訶衍とは、十方三世の諸仏が説かれた深遠なる法の宝庫であり、大いなる功徳を積み、利根の者に対して説かれたものです。末法の世の衆生は福徳薄く、根が鈍いため、経文を探し求めても理解することができません。私はこのような人々を憐れみ、悟りを開かせたいと願い、また、如来の無上の大法を広く明らかにしたいと願っています。それゆえに、摩訶衍の意義を簡略に解き明かすのです。」

問曰:「摩訶衍無量無邊不可稱數,直是佛語尚不可盡,況復解釋演散其義?」

お尋ねします。「大乗の教えは量り知れず、数え切れないほど広大です。仏陀の言葉そのものでさえ、すべてを語り尽くすことはできません。ましてや、それを解釈し、その意味を広げて説くことなど、どうしてできるでしょうか?」

答曰:「以是義故,我初言略解。」

「その理由で、私は最初に『少し理解できた』と申し上げました。」

問曰:「何故名為摩訶衍?」

問い:「なぜこれを摩訶衍と呼ぶのですか?」

答曰:「摩訶衍者,於二乘為上,故名大乘;諸佛最大,是乘能至,故名為大;諸佛大人乘是乘故,故名為大;又能滅除眾生大苦、與大利益事,故名為大;又觀世音、得大勢、文殊師利、彌勒菩薩等,是諸大士之所乘故,故名為大;又以此乘能盡一切諸法邊底,故名為大;又如《般若經》中佛自說摩訶衍義無量無邊,以是因緣,故名為大。」

答えて言う。「大乗とは、二乗(声聞乗・縁覚乗)よりも優れているゆえに、大乗と名づけられる。諸仏は最も偉大であり、この乗り物によってその境地に至ることができるゆえに、大いなる乗り物と呼ばれる。諸仏や偉大な人々がこの乗り物に乗られるゆえに、大乗と呼ばれる。また、衆生の大きな苦しみを滅ぼし、大きな利益を与えることができるゆえに、大乗と呼ばれる。観世音菩薩、大勢至菩薩、文殊師利菩薩、弥勒菩薩などの、偉大な菩薩方の乗り物であるゆえに、大乗と呼ばれる。さらに、この乗り物は一切の法の究極の境地を極め尽くすことができるゆえに、大乗と呼ばれる。また、『般若経』の中で仏自らが説かれたように、大乗の意義は量り知れず限りない。これらの因縁によって、大乗と呼ばれるのである。」

大分深義,所謂空也。若能通達是義,即通達大乘,具足六波羅蜜,無所障礙,是故我今但解釋空。解釋空者,當以十二門入於空義。

空の深い意味について、詳しく説明しよう。その空の道理を真に理解できるならば、大乗の教えを悟り、六波羅蜜を完全に成就し、何の障りもなくなるであろう。それゆえ、私は今、ただ空についてのみ説き明かすのである。

空を解き明かすには、十二の門を通じて、その真義に入っていくのがよい。

初是因緣門,所謂:

そもそもの始まりは「因縁の門」です。すなわち、

眾緣所生法, 是即無自性;
若無自性者, 云何有是法?

様々な縁によって生じるものは、それ自体に変わらない本質(自性)はありません。 もし自性が無いのであれば、どうして「このもの」と言えるような実体が存在するのでしょうか。

眾緣所生法有二種:一者內,二者外。眾緣亦有二種:一者內,二者外。外因緣者,如泥團、輪繩、陶師等和合,故有瓶生;又如縷繩、機杼、織師等和合,故有疊生;又如治地、築基梁、椽、泥、草、人功等和合,故有舍生;又如酪器、鑽搖、人功等和合,故有酥生;又如種子、地、水、火、風、虛空、時節、人功等和合,故有芽生;當知外緣等法皆亦如是。內因緣者,所謂無明、行、識、名色、六入、觸、受、愛、取、有、生、老死,各各先因而後生。如是內外諸法皆從眾緣生,從眾緣生故,即非是無性耶!

縁によって生じる法には二種類ある。一つは内、もう一つは外である。また、縁にも二種類ある。一つは内、もう一つは外である。

外の因縁とは、例えば泥の塊、轆轤の紐、陶工などが結びつくことで壺が生じるようなものである。また、糸や紐、機織り機、織工などが結びつくことで布が生じるようなものである。また、土地を整え、基礎や梁、垂木、土、藁、人の作業などが結びつくことで家が生じるようなものである。また、酪器と撹拌、人の作業などが結びつくことで酥(バター)が生じるようなものである。また、種子と地、水、火、風、虚空、時節、人の作業などが結びつくことで芽が生じるようなものである。このように、外の縁などの諸法もすべてこれと同じであると知るべきである。

内の因縁とは、いわゆる無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死であり、それぞれ先に原因があって後に生じるのである。このように、内も外も諸法はすべて縁によって生じるのである。縁によって生じるからこそ、それは無性(実体がない)ではないと言えるではないか!

若法自性無,他性亦無,自他亦無。何以故?因他性故無自性。若謂以他性故有者,則牛以馬性有,馬以牛性有,梨以柰性有,柰以梨性有,餘皆應爾,而實不然。若謂不以他性故有,但因他故有者,是亦不然。何以故?若以蒲故有席者,則蒲、席一體,不名為他;若謂蒲於席為他者,不得言以蒲故有席。又蒲亦無自性。何以故?蒲亦從眾緣出,故無自性。無自性故,不得言以蒲性故有席,是故席不應以蒲為體。餘瓶、酥等外因緣生法,皆亦如是不可得。

もし法に自性が無く、他性も無く、自性も他性も共に無いとするならば、それはなぜか。他性に依るから自性は無いのである。もし他性によって存在すると言うならば、牛は馬の性質によって存在し、馬は牛の性質によって存在し、梨は柰の性質によって存在し、柰は梨の性質によって存在することになる。他もすべて同様であるべきだが、実際はそうではない。もし他性によって存在するのではなく、他に依って存在すると言うならば、それもまた正しくない。なぜか。もし蒲(がま)によって席が存在するならば、蒲と席は一体であり、他とは言えない。もし蒲が席にとって他であると言うならば、蒲によって席が存在するとは言えないのである。また、蒲にも自性は無い。なぜか。蒲も様々な縁によって生じたものであるから、自性は無い。自性が無いから、蒲の性質によって席が存在するとは言えない。ゆえに、席は蒲を本体とすべきではない。その他の瓶や酥(そ)など、外的な因縁によって生じる法も、すべて同様にして得ることはできないのである。

內因緣生法,皆亦如是不可得,如《七十論》中說:

内の因縁によって生じる法は、すべてこれと同じく、得ることはできません。『七十論』の中で説かれている通りです。

「緣法實無生; 若謂為有生,
為在一心中; 為在多心中?」

「縁の法には実に生じるものはない。 もし生じるものがあると言うなら、 それは一つの心の中にあるのか、 それとも多くの心の中にあるのか。」

是十二因緣法實自無生。若謂有生,為一心中有?為眾心中有?若一心中有者,因果即一時共生。又因果一時有,是事不然。何以故?凡物先因後果故。若眾心中有者,十二因緣法則各各別異,先分共心滅已,後分誰為因緣?滅法無所有,何得為因?十二因緣法若先有者,應若一心、若多心,二俱不然。

この十二因縁の法は、本来、生じるという性質を持っていません。もし「生じる」と言うなら、それは一つの心の中で生じるのでしょうか、それとも多くの心の中で生じるのでしょうか。

もし一つの心の中で生じるとすれば、原因と結果が同時に存在することになります。しかし、原因と結果が同時にあるというのは道理に合いません。なぜなら、あらゆるものは必ず原因があってから結果が生じるからです。

もし多くの心の中で生じるとすれば、十二因縁の法はそれぞれ別々のものとなり、前の部分が共に滅した後、後の部分は何を原因・縁とするのでしょうか。滅した法には何も存在しないのに、どうして原因となり得るでしょうか。

したがって、十二因縁の法が先に存在するとすれば、それは一つの心の中にあるか、多くの心の中にあるかのどちらかですが、どちらも成立しません。

是故眾緣皆空。緣空故,從緣生法亦空,是故當知一切有為法皆空。

ゆえに、すべての因縁は空である。因縁が空であるから、因縁によって生じる法もまた空である。したがって、知るべきである。すべての有為の法は空であると。

有為法尚空,何況我耶?因五陰、十二入、十八界有為法故說有我,如因可然故說有然;若陰、入、界空,更無有法可說為我,如無可然不可說然。如經說:「佛告諸比丘:『因我故有我所,若無我則無我所。』」

有為の法でさえも空であるのに、ましてや我(が)が実在するはずがありません。五蘊・十二処・十八界といった有為の法があるから、仮に「我」があると言えるのです。例えば、燃えるものがあるから「燃えている」と言えるのと同じです。もし五蘊・十二処・十八界が空であるなら、「我」と言えるものは何一つ存在しません。燃えるものがないのに「燃えている」とは言えないのと同じです。

経典にもこう説かれています。「仏が比丘たちに告げられた。『我があるから我所がある。もし我がなければ、我所もない』」と。

如是有為法空故,當知無為涅槃法亦空。何以故?此五陰滅更不生餘五陰,是名涅槃。五陰本來自空,何所滅故說名涅槃?又我亦復空,誰得涅槃?復次,無生法名涅槃,若生法成者,無生法亦應成;生法不成,先已說因緣,後當復說,是故生法不成。因生法故名無生,若生法不成,無生法云何成?

かくのごとく、有為の法は空であるから、無為の涅槃の法もまた空であると知るべきである。なぜならば、この五陰が滅して、さらに他の五陰が生じないこと、これを涅槃と名づける。しかし五陰は本来より自ら空であり、何が滅して涅槃と名づけられるのか。また我もまた空であるのに、誰が涅槃を得るのか。さらに、不生の法を涅槃と名づける。もし生の法が成立するならば、不生の法もまた成立するはずである。しかし生の法は成立しない。その因縁は前に説いた通りであり、後にまた説くであろう。ゆえに生の法は成立しない。生の法に依って不生と名づけるのであるから、生の法が成立しなければ、不生の法がどうして成立しえようか。

是故有為、無為及我皆空。

したがって、つくられたものも、つくられていないものも、そして自我も、すべては「空」であります。


序
2 觀有果無果門

CBETA コード: T1568

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