觀有果無果門第二
「結果があるか、ないかを見る門」その二
復次,諸法不生。何以故?
また、すべての物事(法)は生じることがありません。なぜでしょうか?
先有則不生, 先無亦不生,
有無亦不生, 誰當有生者?
すでに有るならば生じない、 すでに無いならば生じない、 有るとも無いとも言えないならば生じない。 では、いったい何が生じるというのか。
若果因中先有則不應生,先無亦不應生,先有無亦不應生。
結果がすでに原因の中に存在しているなら、それは生じるはずがありません。存在していない場合も、生じるはずがありません。存在すると同時に存在しない場合も、生じるはずがありません。
何以故?若果因中先有而生,是則無窮。如果先未生而生者,今生已復應更生。何以故?因中常有故。從是有邊復應更生,是則無窮。
なぜなら、もし結果が原因の中にすでに存在していて、それが生じるのだとすれば、それは無限に続くことになるからです。もし結果がすでに存在していたのではなく、新たに生じるのだとすれば、今すでに生じたものは、さらにまた生じなければならないはずです。なぜなら、原因の中には常に存在しているからです。このことから、すでにあるものからさらにまた生じなければならず、それは無限に続くことになります。
若謂生已更不生,未生而生者,是中無有生理;是故先有而生,是事不然。
もし「すでに生じたものが再び生じることはない」と言い、「まだ生じていないものが生じる」と言うなら、そこには生じるという道理はありません。したがって、「まず存在してから生じる」ということは、成り立ちません。
復次,若因中先有果,而謂未生而生、生已不生者,是亦二俱有而一生一不生,無有是處。
また、原因の中にすでに結果があるのに、「まだ生じていないものが生じるのであって、すでに生じたものは生じない」と言うなら、これもまた両方ともすでにあるのに、一方は生じ、一方は生じないということになり、そのような道理は成り立ちません。
復次,若未生定有者,生已則應無。何以故?生、未生共相違故;生未生相違故,是二作相亦相違。
次に、もし生じていない定が存在するならば、生じた後には存在しないはずである。なぜなら、生じたものと生じていないものは互いに相容れないからである。生じたものと生じていないものは相容れないので、この二つの作用のあり方もまた相容れない。
復次,有與無相違,無與有相違,若生已亦有、未生時亦有者,則生、未生不應有異。何以故?若有生,生已亦有、未生亦有,如是生、未生有何差別?生、未生無差別,是事不然,是故有不生。
次に、「有」と「無」は相容れず、「無」と「有」も相容れません。もし生じたものにも「有」があり、まだ生じていないものにも「有」があるのなら、生じたものと未生のものに違いはないはずです。なぜでしょうか。もし「有」が生じるなら、生じたものにも「有」があり、未生のものにも「有」があるのですから、そのように生じたものと未生のものにどんな区別があるでしょうか。生じたものと未生のものに区別がないということは、成り立ちません。したがって、「有」は生じないのです。
復次,有已先成,何用更生?如作已不應作,成已不應成,是故有法不應生。
また、すでに存在しているものは、なぜ改めて生じる必要があるでしょうか。たとえば、すでに作ったものは再び作るべきではなく、すでに完成したものは再び完成させるべきではありません。したがって、存在するものは生じるべきではないのです。
復次若有生,因中未生時果應可見,而實不可見;如泥中瓶、蒲中席,應可見而實不可見,是故有不生。
また、もし何かが生じるとして、原因の中にまだ生じていない時点で結果が見えるはずだが、実際には見えない。たとえば、泥の中に瓶が、蒲の中に席が見えるはずなのに、実際には見えない。だからこそ、「生じない」ということが成り立つ。
問曰:「果雖先有,以未變故不見。」
問い:果実はすでに存在していても、まだ変化していないので見えないのです。
答曰:「若瓶未生時瓶體未變故不見者,以何相知言泥中先有瓶?為以瓶相有瓶?為以牛相、馬相故有瓶耶?若泥中無瓶相者,亦無牛相、馬相,是豈不名無耶?是故汝說因中先有果而生者,是事不然。復次,變法即是果者,即應因中先有變。何以故?汝法因中先有果故。若瓶等先有,變亦先有,應當可見而實不可得,是故汝言未變故不見,是事不然。若謂未變不名為果,則果畢竟不可得。何以故?是變先無,後亦應無,故瓶等果畢竟不可得。若謂變已是果者,則因中先無,如是則不定:或因中先有果,或先無果。」
答えていう。「もし瓶がまだ生じていないとき、瓶の本体がまだ変化していないので見えないというなら、何を手がかりに、泥の中に前もって瓶があると言えるのか。瓶の形によって瓶があるのか。牛の形や馬の形によって瓶があるのか。もし泥の中に瓶の形がなければ、牛の形も馬の形もない。これは無ではないのか。だから、あなたが『原因の中に前もって結果があり、それが生じる』と言うのは、間違っている。
さらに、変化したものがすなわち結果であるなら、原因の中に前もって変化があるはずだ。なぜか。あなたの説では、原因の中に前もって結果があるからだ。もし瓶などが前もってあるなら、変化も前もってあるはずで、見えるはずなのに、実際には見つけられない。だから、『まだ変化していないので見えない』というあなたの言葉は間違っている。
もし変化していないものは結果と呼ばないというなら、結果は結局まったく得られない。なぜか。その変化は前にはなく、後にもないはずだから、瓶などの結果は結局まったく得られない。もし変化したものが結果であるというなら、原因の中には前もって無かったことになる。そうなると一定しない。原因の中に前もって結果があることもあれば、前もって無いこともあるからだ。」
問曰:「先有變,但不可得見。凡物自有有而不可得者,如物或有近而不可知;或有遠而不可知;或根壞故不可知;或心不住故不可知;障故不可知;同故不可知;勝故不可知;微細故不可知。近而不可知者,如眼中藥。遠而不可知者,如鳥飛虛空高翔遠逝。根壞故不可知者,如盲不見色、聾不聞聲、鼻塞不聞香、口爽不知味、身頑不知觸、心狂不知實。心不住故不可知者,如心在色等則不知聲。障故不可知者,如地障大水、壁障外物。同故不可知者,如黑上墨點。勝故不可知者,如有鍾鼓音,不聞捎拂聲。細微故不可知者,如微塵等不現。如是諸法雖有,以八因緣故不可知。汝說因中變不可得、瓶等不可得者,是事不然。何以故?是事雖有,以八因緣故不可得。」
問い:変化はもともと存在するが、ただ見ることができないだけだ、と言うのか。およそ物には、存在しながら認識できないものがある。たとえば、物が近くにあって知りえない場合、遠くにあって知りえない場合、感覚器官が壊れているために知りえない場合、心が集中していないために知りえない場合、障りがあるために知りえない場合、同じであるために知りえない場合、勝っているために知りえない場合、あまりに微細なために知りえない場合がある。近くにあって知りえないものとは、たとえば目に入った薬である。遠くにあって知りえないものとは、たとえば鳥が虚空を高く飛び遠くへ去っていくようなものである。感覚器官が壊れているために知りえないものとは、たとえば盲人が色を見ず、聾者が音を聞かず、鼻が詰まった者が香りを嗅がず、舌が鈍った者が味を知らず、体が麻痺した者が触れられず、心が狂った者が実相を知らないようなものである。心が集中していないために知りえないものとは、たとえば心が色などにとらわれていると音が聞こえないようなものである。障りがあるために知りえないものとは、たとえば大地が大水をさえぎり、壁が外の物をさえぎるようなものである。同じであるために知りえないものとは、たとえば黒いものの上に墨の点を落としたようなものである。勝っているために知りえないものとは、たとえば鐘や太鼓の音があれば、それを払う音が聞こえないようなものである。微細なために知りえないものとは、たとえば微塵などが現れないようなものである。このように、もろもろの法は存在していても、これら八つの理由によって知ることができない。あなたが「原因の中に変化は得られず、瓶なども得られない」と言うのは、そうではない。なぜか。それらの事柄は存在していても、八つの理由によって得られないのである。
答曰:「變法及瓶等果,不同八因緣不可得。何以故?若變法及瓶等,果極近不可得者,小遠應可得;極遠不可得者,小近應可得;若根壞不可得者,根淨應可得;若心不住不可得者,心住應可得;若障不可得者,變法及瓶法無障應可得;若同不可得者,異時應可得;若勝不可得者,勝止應可得;若細微不可得者,而瓶等果麁應可得。若瓶細故不可得者,生已亦應不可得。何以故?生已、未生細相一故,生已、未生俱定有故。」
答えていう。「変化したものや瓶などの結果は、八つの理由によってでなければ得られない、ということではない。なぜか。もし変化したものや瓶などの結果が、極めて近くにあって得られないのなら、少し遠ければ得られるはずである。極めて遠くにあって得られないのなら、少し近ければ得られるはずである。もし感覚器官が壊れていて得られないのなら、感覚器官が清らかなら得られるはずである。もし心が定まっていなくて得られないのなら、心が定まっていれば得られるはずである。もし障害があって得られないのなら、変化したものや瓶には障害がないのだから得られるはずである。もし同じであるために得られないのなら、異なる時には得られるはずである。もし勝れているために得られないのなら、勝れたものが止まれば得られるはずである。もし細かすぎて得られないのなら、瓶などの結果は粗いのだから得られるはずである。もし瓶が細かいために得られないのなら、生じた後もまた得られないはずである。なぜか。生じた後もまだ生じていない時も、細かいという相は一つだからである。生じた後もまだ生じていない時も、ともに定まって有るからである。」
問曰:「未生時細,生已轉麁,是故生已可得,未生不可得。」
問いかけます。「まだ生じていない時は細かく、生じてしまえば粗くなる。だから生じたものは捉えられ、まだ生じていないものは捉えられないのです。」
答曰:「若爾者,因中則無果。何以故?因中無麁故。又、因中先無麁,若因中先有麁者,則不應言細,故不可得;今果是麁,汝言細故不可得,是麁不名為果。今果畢竟不應可得而果實可得,是故不以細故不可得。如是有法因中先有果,以八因緣故不可得,先因中有果,是事不然。
お答えします。「もしそうならば、原因の中には結果は存在しないことになります。なぜなら、原因の中には粗いものが無いからです。また、原因の中に最初から粗いものが無いのであれば、もし原因の中に最初から粗いものが有るならば、それは細かいと言うべきではないからです。したがって得ることはできません。今、結果は粗いものであり、あなたは細かいから得られないと言いますが、その粗いものは結果とは言えません。今、結果は結局のところ得られるはずがないのに、結果は実際に得られます。だからこそ、細かいから得られないのではありません。このように、あるものは原因の中に最初から結果が有るとし、八つの因縁によって得られないとしますが、最初から原因の中に結果が有るということは、この事は正しくありません。」
「復次,若因中先有果生者,是則因、因相壞,果、果相壞。何以故?如疊在縷,如果在器,但是住處,不名為因。何以故?縷、器非疊,果因故。若因壞,果亦壞,是故縷等非疊等因。因無故,果亦無。何以故?因因故有果成,因不成,果云何成?
また、もし原因の中にすでに結果が存在して生じるというなら、それでは原因は原因としてのあり方を失い、結果は結果としてのあり方を失うことになります。なぜでしょうか。たとえば布が糸の中にあり、果物が器の中にあるようなもので、それはただの置き場所にすぎず、原因とは言えません。なぜでしょうか。糸や器は布や果物ではないからです。もし原因が壊れれば結果もまた壊れます。したがって糸などは布などの原因ではありません。原因がなければ結果もまたありません。なぜでしょうか。原因が原因であることによって結果が成り立つのであり、原因が成り立たなければ、結果がどうして成り立つでしょうか。
「復次,若不作不名果,縷等因不能作疊等果。何以故?如縷等不以疊等住故能作疊等果,如是則無因無果。若因果俱無,則不應求因中若先有果、若先無果。
また、もし作られないものは結果と呼ばれないのなら、糸などの原因は布などの結果を作ることはできません。なぜでしょうか。糸などは布などとして存在しているわけではないのに、布などの結果を作ることができるからです。そうなると、原因も結果もないことになります。もし原因と結果の両方がないのなら、原因の中に結果がもともとあるのか、もともとないのかを求めるべきではありません。
「復次,若因中有果而不可得,應有相現,如聞香知有華、聞聲知有鳥、聞笑知有人、見烟知有火、見鵠知有池。如是因中若先有果,應有相現;今果體亦不可得,相亦不可得,如是當知因中先無果。
次に、もし原因の中に結果がすでにあるのにそれが認識できないのなら、何らかの兆候が現れるはずです。たとえば、香りを聞けば花があると知り、声を聞けば鳥がいると知り、笑い声を聞けば人がいると知り、煙を見れば火があると知り、白鳥を見れば池があると知るようなものです。同じように、原因の中にまず結果があるのなら、何らかの兆候が現れるはずです。しかし今、結果そのものも認識できず、その兆候も認識できません。ですから、原因の中にはもともと結果はないのだと知るべきです。
「復次,若因中先有果生,則不應言因縷有疊、因蒲有席。若因不作,他亦不作。如疊非縷所作,可從蒲作耶?若縷不作,蒲亦不作,可得言無所從作耶?若無所從作,則不名為果。若果無,因亦無,如先說。是故從因中先有果生,是則不然。
次に、もし原因の中にすでに結果が存在して生じるのであれば、「縷(いと)によって疊(ぬの)ができる」「蒲(がま)によって席ができる」と言うべきではありません。もし原因が作らず、他もまた作らないのなら、疊が縷によって作られたものではないのに、蒲から作ることができるでしょうか。もし縷が作らず、蒲もまた作らないのであれば、「どこからも作られない」と言えるでしょうか。もしどこからも作られないのであれば、それは結果とは言えません。もし結果がなければ、原因もまたないことになり、先に説いたとおりです。したがって、「原因の中にすでに結果が存在して生じる」というのは、正しくありません。
「復次,若果無所從作,則為是常,如涅槃性。若果是常,諸有為法則皆是常。何以故?一切有為法皆是果故。若一切法皆常,則無無常;若無無常,亦無有常。何以故?因常有無常、因無常有常,是故常無常二俱無者,是事不然。是故不得言因中先有果生。
次に、もし結果が何ものからも生じないのなら、それは常であり、涅槃の性質のようである。もし結果が常であるなら、すべての有為法もまた常であるはずだ。なぜなら、すべての有為法は結果だからである。もしすべての法が常であるなら、無常は存在しない。もし無常が存在しないなら、常もまた存在しない。なぜなら、常によって無常があり、無常によって常があるからである。したがって、常と無常の両方が存在しないということはありえない。だから、因の中に最初から結果が存在するとは言えないのである。
「復次,若因中先有果生,則果更與異果作因,如疊與著為因,如席與障為因。如車與載為因,而實不與異果作因,是故不得言因中先有果生。若謂如地先有香,不以水灑,香則不發;果亦如是,若未有緣會,則不能作因。是事不然,何以故?如汝所說,可了時名果,瓶等物非果。何以故?可了是作,瓶等先有非作,是則以作為果。是故因中先有果生,是事不然。
次に、もし原因の中にすでに結果が存在して生じるというなら、その結果はさらに別の結果に対して原因となるはずです。たとえば、重ねた布が衣服の原因となるように、あるいは敷物が覆いの原因となるように、また車が積載の原因となるように。しかし実際には、別の結果に対して原因となることはありません。だからこそ、「原因の中にすでに結果が存在して生じる」とは言えないのです。
もし「たとえば大地にもともと香りがあって、水をまかなければ香りが現れないように、結果も同じで、縁が集まらなければ原因として働けない」と言うなら、これも正しくありません。なぜでしょうか。あなたの言うように、認識できる段階のものを結果と呼ぶなら、瓶などの物は結果ではありません。なぜなら、認識できるものは作られたものであり、瓶などはもともと存在していて作られたものではないからです。そうなると、作られたものを結果とすることになります。したがって、「原因の中にすでに結果が存在して生じる」ということは、正しくないのです。
「復次,了因但能顯發,不能生物,如為照闇中瓶故然燈,亦能照餘臥具等物;為作瓶故和合眾緣,不能生餘臥具等物,是故當知非先因中有果生。
また、了因はただ顕発することができるだけで、物を生み出すことはできません。たとえば、暗闇の中の瓶を照らすために灯をともすと、その灯は他の寝具なども照らすことができます。しかし、瓶を作るために多くの縁を合わせても、他の寝具などを作ることはできません。したがって、もとの因の中にすでに果があるから果が生じるのではない、と知るべきです。
「復次,若因中先有果生,則不應有今作、當作差別。而汝受今作、當作,是故非先因中有果生。
また、もし原因の中にすでに結果があるのに生じるというなら、現在の行為と未来の行為に区別があるはずがない。しかしあなたは現在の行為と未来の行為を認めている。だから、原因の中にすでに結果があって生じるというのは正しくない。
「若謂因中先無果而果生者,是亦不然。何以故?若無而生者,應有第二頭、第三手生。何以故?無而生故。」
もし「原因の中に果がまだなくて、のちに果が生じる」と言うなら、これも正しくありません。なぜでしょうか。もし無いものが生じるのなら、二つ目の頭や三本目の手が生じることになるはずです。なぜでしょうか。無いものが生じるからです。
問曰:「瓶等物有因緣,第二頭、第三手無因緣,云何得生?是故汝說不然。」
問い尋ねる。「瓶などの物には因縁があるが、第二の頭や第三の手には因縁がない。どうして生じることができようか。だからあなたの説は正しくない。」
答曰:「第二頭、第三手及瓶等果,因中俱無。如泥團中無瓶,石中亦無瓶,何故名泥團為瓶因,不名石為瓶因?何故名乳為酪因、縷為疊因,不名蒲為因?
お答えします。「第二の頭や第三の手、また瓶などの結果は、原因の中にはどれも存在しません。たとえば、泥の塊の中に瓶はなく、石の中にも瓶はありません。それなのに、なぜ泥の塊は瓶の原因と呼ばれ、石は瓶の原因と呼ばれないのでしょうか。なぜ乳は酪の原因と呼ばれ、糸は布の原因と呼ばれ、ガマは原因と呼ばれないのでしょうか。」
「復次,若因中先無果而果生者,則一一物應生一切物,如指端應生車、馬、飲食等;如是縷不應但出疊,亦應出車、馬、飲食等物。何以故?若無而能生者,何故縷但能生疊,而不生車、馬、飲食等物?以俱無故。若因中先無果而果生者,則諸因不應各各有力能生果。如須油者要從麻取,不笮於沙;若俱無者,何故麻中求,而不笮沙?若謂曾見麻出油、不見從沙出,是故麻中求而不笮沙。是事不然。何以故?若生相成者,應言餘時見麻出油、不見沙出,是故於麻中求,不取沙;而一切法生相不成,故不得言餘時見麻出油,故麻中求,不取於沙。
また、もし原因の中に結果がもともと存在しないのに結果が生じるのであれば、一つ一つのものからすべてのものが生じるはずです。たとえば、指の先から車や馬や食べ物などが生じるはずです。同じように、糸からは布だけが出るのではなく、車や馬や食べ物なども出るはずです。なぜでしょうか。もし存在しないものから生じることができるなら、なぜ糸からは布だけが生じて、車や馬や食べ物などは生じないのでしょうか。どちらも存在しないからです。もし原因の中に結果がもともと存在しないのに結果が生じるのであれば、それぞれの原因がそれぞれの力で結果を生じることはできないはずです。たとえば、油が欲しい人は麻から取り出し、砂を絞ったりはしません。もしどちらも存在しないなら、なぜ麻から求め、砂を絞らないのでしょうか。もし「以前に麻から油が出るのを見たことがあり、砂から油が出るのを見たことがない。だから麻から求め、砂を絞らないのだ」と言うなら、それは正しくありません。なぜでしょうか。もし生じるという性質が成り立つなら、「別の時に麻から油が出るのを見て、砂から出るのを見ない。だから麻から求め、砂からは取らない」と言えるでしょう。しかし、すべてのものに生じるという性質が成り立たないので、「別の時に麻から油が出るのを見たから、麻から求め、砂からは取らない」と言うことはできないのです。
「復次,我今不但破一事,皆總破一切因果。若因中先有果生、先無果生、先有果無果生,是三生皆不成;是故汝言餘時見麻出油,則墮同疑因。
さらに、私は今、一つのことだけを否定するのではなく、あらゆる因果をすべて否定する。原因の中に最初から結果があるとして生じる場合も、最初は結果がなくて生じる場合も、最初から結果がありかつないとして生じる場合も、この三つの生じ方はどれも成り立たない。だから、あなたが「別の時には麻から油が出るのを見る」と言うのは、同じ疑いの因に陥っているのである。
「復次,若先因中無果而果生者,諸因相則不成。何以故?諸因若無,法何能作?何能成?若無作、無成,云何名為因?如是作者不得有所作,使作者亦不得有所作。
次に、もし先に因の中に果がなくて果が生じるのであれば、諸々の因の相は成り立たない。なぜか。諸々の因がもしなければ、法はどうして作ることができ、どうして成じることができようか。もし作ることも成じることもなければ、どうしてこれを因と名づけられようか。このように、作る者は所作を持つことができず、作らせる者もまた所作を持つことができない。
「若謂因中先有果,則不應有作、作者、作法別異。何以故?若先有果,何須復作?是故汝說作、作者、作法諸因皆不可得。因中先無果者,是亦不然。何以故?若人受作、作者分別有因果,應作是難;我說作、作者及因果皆空,若汝破作、作者及因果,則成我法,不名為難。是故因中先無果而果生,是事不然。
もし「原因の中にすでに結果がある」と言うのなら、作ること・作る者・作る方法の区別は成り立たないはずです。なぜなら、すでに結果があるのなら、どうして改めて作る必要があるでしょうか。ですから、あなたが説く作ること・作る者・作る方法といった原因は、どれも成り立ちません。また「原因の中に初めから結果がない」という考えも、これまた正しくありません。なぜなら、もし作ること・作る者を認めて因果を区別するのなら、そのように問い責めるべきですが、私は作ること・作る者・因果はすべて空であると説いています。あなたが作ること・作る者・因果を否定するなら、それは私の法を証明することになり、問い責めることにはなりません。したがって「原因の中に初めは結果がなく、後に結果が生じる」ということは、成り立ちません。
「復次,若人受因中先有果,應作是難;我不說因中先有果,故不受此難,亦不受因中先無果。
また、もし人が「原因の中に結果がもともと存在する」と主張するなら、そのように反論すべきです。私は「原因の中に結果がもともと存在する」とは言いません。だからこの反論を受けませんし、「原因の中に結果がもともと存在しない」という主張も受けません。
「若謂因中先亦有果亦無果而果生,是亦不然。何以故?有、無性相違故;性相違者,云何一處?如明闇、苦樂、去住、縛解不得同處,是故因中先有果先無果二俱不生。
「もし『原因の中に、あらかじめ果が有り、また果が無い、その両方から果が生じる』と言うならば、これもまた正しくない。なぜか。有と無の性質は互いに矛盾し合うからである。性質が矛盾し合うものを、どうして同じ一つの場所に共に存在させられようか。たとえば明るさと暗さ、苦と楽、去ることと留まること、縛られることと解き放たれることは、同じ場所に一緒には成り立たない。それゆえ、原因の中に初めから果が有るとする説も、初めは果が無いとする説も、どちらも果を生じることはないのである。」
「復次、因中先有果先無果,上有無中已破。是故先因中有果亦不生,無果亦不生,有無亦不生,理極於此。一切處推求不可得,是故果畢竟不生。果畢竟不生故,則一切有為法皆空。何以故?一切有為法,皆是因是果。
次に、因の中に果が先にあるか、先にないかについては、すでに「有」「無」の議論の中で破ってきた。したがって、因の中に果があるとしても生じないし、果がないとしても生じないし、あるともないとも言えないとしても生じない。理屈としてはここが極みである。あらゆる場所で推し求めてみても、それを見出すことはできない。だからこそ、果はついに生じないのである。果がついに生じないから、すべての有為の法はみな空である。なぜか。すべての有為の法は、みな因であり果であるからだ。
「有為空故,無為亦空。有為、無為尚空,何況我耶?」
「形あるものは空だから、形なきものもまた空である。形あるものも形なきものも空であるなら、ましてや『私』などなおさら空である。」