觀相門第四
第四観相門
復次,一切法空。何以故?
さらに、すべての存在は本質的に空である。それはなぜか。
有為及無為, 二法俱無相;
以無有相故, 二法則皆空。
有為と無為、 二つの法にはいずれも相がなく、 相がないがゆえに、 二つの法はともに空である。
有為法不以相成。
有為の法は、相によって成立するのではない。
問曰:「何等是有為相?」
問うていう、「どのようなものが有為の相であるのか。」
答曰:「萬物各有有為相,如牛,以角、峯、垂𩑶、尾端有毛,是為牛相。如瓶,以底平、腹大、頸細、脣麁,是為瓶相。如車,以輪、軸、轅、軛,是為車相。如人,以頭、目、腹、脊、肩、臂、手、足,是為人相。如是生、住、滅,若是有為法相者,為是有為?為是無為?」
そこで答えて言った。「万物にはそれぞれ有為の相があります。たとえば牛は、角や峰、垂れた喉、尾の先に毛があることで牛の相とされます。瓶は、底が平らで腹が大きく、首が細く、口が粗いことで瓶の相とされます。車は、輪や軸、轅や軛があることで車の相とされます。人は、頭や目、腹や背、肩や腕、手や足があることで人の相とされます。このように、生・住・滅がもし有為法の相であるならば、それは有為なのでしょうか、それとも無為なのでしょうか。」
問曰:「若是有為有何過?」
問い:もしこれが有為であるなら、どのような過ちがあるのか。
答曰:
お答えしますと、
「若生是有為, 復應有三相;
若生是無為, 何名有為相?
もし「生」が形づくられるものなら、 そこにはまた三つの相があるはずだ。 もし「生」が形づくられないものなら、 どうして「形づくられたものの相」と言えるだろうか。
「若生是有為者,即應有三相,是三相復應有三相,如是展轉則為無窮。住、滅亦爾。若生是無為者,云何無為與有為作相?離生、住、滅,誰能知是生?復次,分別生、住、滅故有生,無為不可分別,是故無生、住、滅亦爾。生、住、滅空故,有為法空;有為法空故,無為法亦空,因有為故有無為;有為、無為法空故,一切法皆空。」
もし「生」が有為(作られたもの)であるなら、生・住・滅という三相があるはずです。そしてその三相のそれぞれにもまた三相があるはずで、そうなると際限なく続いてしまいます。住と滅についても同じです。
もし「生」が無為(作られないもの)であるなら、どうして無為が有為の相となることができるでしょうか。生・住・滅を離れて、誰が「これは生だ」と知ることができるでしょうか。
さらに、生・住・滅を分別するから生があるのです。無為は分別することができません。ですから生・住・滅がないということも、同じように言えるのです。
生・住・滅が空であるから、有為法も空です。有為法が空であるから、無為法もまた空です。有為によって無為があるからです。有為も無為も空であるから、すべての法はみな空なのです。
問曰:「汝說三相復有三相,是故無窮,生不應是有為者。今當說:
問い:あなたは三相にまた三相があると言う。それでは際限がなくなり、「生」は有為であるべきではない。ここで説くべきは:
「生生之所生, 生於彼本生;
本生之所生, 還生於生生。
生まれたものから生まれるものは、もとの生まれから生まれます。 もとの生まれから生まれるものは、また生まれたものから生まれます。
「法生時,通自體七法共生:一、法,二、生,三、住,四、滅,五、生生,六、住住,七、滅滅。是七法中,本生除自體,能生六法;生生能生本生,本生還生生生,是故三相雖是有為而非無窮。住、滅亦如是。」
法が生じるとき、自体を含めた七つの法が共に生じます。一に法、二に生、三に住、四に滅、五に生生、六に住住、七に滅滅です。この七つの法のうち、本生は自体を除いて六つの法を生じることができます。生生は本生を生じ、本生はまた生生を生じるので、この三相は有為でありながら無限に続くことはありません。住と滅も同じです。
答曰:
お答えしますと、
「若謂是生生, 還能生本生,
生生從本生, 何能生本生?
もし「生まれたものが、さらに生を生み出す」と言うのなら、 すなわち生まれたものが本来の生を生み出すことになる。 しかし、生まれたものは本来の生から生じたのだから、 どうして本来の生を生み出すことができようか。
「若謂生生能生本生,本生不生生生,生生何能生本生?
もし「生じるものが、もとになる生を生じさせることができる」と言うならば、もとになる生は生じるものを生じさせないのに、どうして生じるものが、もとになる生を生じさせることができようか。
「若謂是本生, 能生彼生生,
本生從彼生, 何能生生生?
「これが本当の生(しょう)を生み出すと言うなら、 その生(しょう)から生まれたものが、さらに生を生み出すことになる。 本来の生がそこから生じたのなら、 どうして生が生を生み出すことができようか。
「若謂本生能生生生,生生生已還生本生,是事不然。何以故?生生法應生本生,是故名生生;而本生實自未生,云何能生生生?
もし「本生が生生を生じる」と言うならば、生生を生じ終えてまた本生を生じるということは、これは成り立たない。なぜか。生生という法は本生を生じるはずであり、それゆえ生生と名づける。しかし本生は実にまだ自ら生じていない。どうして生生を生じることができようか。
「若謂生生生時能生本生者,是事亦不然。何以故?
「もし、生じるものが生じるときに、それ自身の生じることを生じさせることができると言うならば、これもまたそうではありません。なぜでしょうか。
「是生生生時, 或能生本生;
生生尚未生, 何能生本生?
生まれるものが生じるとき、 それが生むものをも生み出すことがあるかもしれない。 しかし、生まれるもの自身がまだ生じていないなら、 どうして生むものをも生み出すことができようか。
「是生生生時,或能生本生,而是生生自體未生,不能生本生。
生まれるということが、まさに生じようとする時、あるいはすでに生じたものを生じさせることができるかもしれない。しかし、その生まれるということ自体がまだ生じていないのであれば、すでに生じたものを生じさせることはできない。
「若謂是生生生時,能自生亦生彼;如燈然時,能自照亦照彼。是事不然。何以故?
もし「生まれるということは、生まれる瞬間に、自らを生み出し、また他をも生み出すことができる。ちょうど灯に火がつくとき、自らを照らし、また他をも照らすようなものである」と言うならば、このことは成り立たない。なぜか。
「燈中自無闇, 住處亦無闇,
破闇乃名照, 燈為何所照?
灯そのものに闇はなく、灯のある場所にも闇はありません。 闇を破ることを「照らす」と言うのなら、いったい灯は何を照らすのでしょうか。
「燈體自無闇,明所住處亦無闇。若燈中無闇,住處亦無闇,云何言燈自照亦能照彼?破闇故名為照,燈不自破闇,亦不破彼闇,是故燈不自照亦不照彼。是故汝先說燈自照亦照彼,生亦如是自生亦生彼者,是事不然。」
灯そのものには闇がありません。灯の明かりがあるところにも闇はありません。もし灯の中に闇がなく、灯のあるところにも闇がないのなら、どうして「灯は自分を照らし、また他をも照らす」と言えるでしょうか。闇を破ることを照らすというのです。しかし灯は自分の闇を破るのではなく、他者の闇も破りません。ですから灯は自分を照らすこともなく、他を照らすこともありません。したがって、あなたが先に「灯は自分を照らし、また他を照らす。生も同じように、自分を生み、また他を生む」と言ったことは、成り立ちません。
問曰:「若燈然時能破闇,是故燈中無闇、住處亦無闇。」
問いかけます。「灯りがともるとき、暗闇を破ることができる。だから灯りの中にも暗闇はなく、その場所にも暗闇はないのです。」
答曰:
お答えしますと、
「云何燈然時, 而能破於闇?
此燈初然時, 不能及於闇。
灯がともるとき、どうして闇を破ることができるのでしょうか。 この灯がともり始めたとき、まだ闇に届いてはいません。
「若燈然時不能到闇,若不到闇不應言破闇。復次:
灯がともるとき、闇に届くことはできない。もし闇に届かないのなら、闇を破ったと言うべきではない。さらに、
「燈若不及闇, 而能破闇者,
燈在於此間, 則破一切闇。
灯が闇に届かなくても、闇を破ることができるなら、 灯がここにあるだけで、すべての闇を破ることになるはずだ。
「若謂燈雖不到闇而力能破闇者,此處然燈應破一切世間闇,俱不及故。而實此間然燈不能破一切世間闇,是故汝說燈雖不及闇而力能破闇者,是事不然。
たとえ「灯は闇に届かなくても、その力で闇を破ることができる」と言うとしても、ここで灯をともせば、すべての世間の闇を破ることになるはずです。しかし、届かないからです。実際、ここで灯をともしても、すべての世間の闇を破ることはできません。ですから、「灯は闇に届かなくても、その力で闇を破ることができる」というあなたの説は、成り立ちません。
「復次,
次に、
「若燈能自照, 亦能照於彼,
闇亦應如是, 自蔽亦蔽彼。
もし灯が自らを照らし、また他をも照らすことができるなら、 闇もまた同じように、自らを覆い、また他をも覆うはずである。
「若謂燈能自照亦照彼,闇與燈相違,亦應自蔽亦蔽彼。若闇與燈相違,不能自蔽亦不蔽彼,而言燈能自照亦照彼者,是事不然,是故汝喻非也。
もし灯が自分を照らし、また他のものも照らすと言うなら、闇と灯は相反するのだから、闇もまた自分を覆い、また他のものも覆うはずです。もし闇と灯が相反して、自分を覆うこともできず他のものも覆うことができないのなら、それなのに灯が自分を照らしまた他のものも照らすと言うのは、このことは成り立ちません。だからあなたのたとえは正しくないのです。
「如生能自生亦生彼者,今當更說:
もし生じるものが、自らを生じさせ、また他をも生じさせるというのなら、ここでさらに説くことにしよう。
「此生若未生, 云何能自生?
若生已自生, 已生何用生?
まだ生まれていないものが、どうして自分から生まれることができるでしょうか。 すでに生まれているものが自ら生まれるなら、すでに生まれたものに、どうしてまた生まれる必要があるでしょうか。
「此生未生時,應若生已生、若未生生。若未生而生,未生名未有,云何能自生?若謂生已而生,生已即是生,何須更生?生已更無生,作已更無作,是故生不自生。若生不自生,云何生彼?汝說自生亦生彼,是事不然。住、滅亦如是。
生まれる前のものが生じるとき、それはすでに生じたものとして生じるのか、まだ生じていないものとして生じるのかを検討すべきです。もしまだ生じていないものが生じるのなら、まだ生じていないとは「まだ存在していない」ということですから、どうして自ら生じることができるでしょうか。もしすでに生じたものが生じるのなら、すでに生じているものはすでに生じているのですから、なぜさらに生じる必要があるでしょうか。すでに生じたものにさらなる生はなく、すでになされたものにさらなる行為はありません。ですから、生は自らを生じることはありません。もし生が自らを生じることができないのなら、どうして他を生じることができるでしょうか。あなたが「自らを生じ、また他をも生じる」と言うのは、この理に合いません。住と滅についても同様です。
「是故生、住、滅是有為相,是事不然;生、住、滅有為相不成故,有為法空。
ですから、生・住・滅は有為の相であるというのは、そうではありません。生・住・滅が有為の相であることは成り立たないからです。それゆえ有為の法は空なのです。
「有為法空故,無為法亦空。何以故?滅有為名無為涅槃,是故涅槃亦空。
「現象あるものは空であるから、現象なきものもまた空である。なぜなら、現象あるものを滅ぼした状態を無為の涅槃と呼ぶので、涅槃もまた空なのである。」
「復次,無生、無住、無滅,名無為相;無生、住、滅則無法,無法不應作相。
次に、生じることもなく、とどまることもなく、滅することもない、これを無為の相と呼びます。生じること、とどまること、滅することがなければ、法は存在せず、法が存在しなければ、相を立てることはできません。
「若謂無相是涅槃相。是事不然。若無相是涅槃相,以何相故知是無相?若以有相知是無相,云何名無相?若以無相知是無相,無相是無,無則不可知。
「無相が涅槃の相である」と言うなら、それは正しくありません。もし無相が涅槃の相であるなら、どんな相によってそれが無相だと知ることができるでしょうか。もし有相によってそれが無相だと知るのなら、どうして無相と言えるでしょうか。もし無相によって無相だと知るのなら、無相とは無であり、無は知ることができないのです。
「若謂如眾衣皆有相,唯一衣無相,正以無相為相故,人言取無相衣,如是可知無相衣可取;如是生、住、滅是有為相,無生住滅處當知是無為相。是故無相是涅槃者,是事不然。何以故?生、住、滅種種因緣皆空,不得有有為相,云何因此知無為?汝得何有為決定相,知無相處是無為?是故汝說眾相衣中無相衣喻涅槃無相者,是事不然。又衣喻,後第五門中廣說。」
たとえば、多くの衣にはみな相があるのに、ただ一つの衣だけに相がなく、まさに無相をもって相とするがゆえに、人が無相の衣を取ると言うなら、このように無相の衣が取るべきものであることが知られる。同じように、生・住・滅は有為の相であり、生・住・滅のないところは無為の相であると知るべきである。だからといって、無相が涅槃であるというのは、そうではない。なぜか。生・住・滅のさまざまな因縁はみな空であり、有為の相を持つことはできない。どうしてそれによって無為を知ることができようか。あなたはどのような有為の決定相を得て、無相のところが無為であると知るのか。だから、あなたが多くの相ある衣の中の無相の衣を涅槃の無相にたとえるというのは、そうではない。また衣のたとえについては、後の第五門の中で詳しく説かれている。
是故有為法皆空;有為法空故,無為法亦空;有為、無為法空故,我亦空。三事空故,一切法皆空。
ですから、形づくられたものごとはすべて空です。形づくられたものごとが空であるから、形づくられないものごともまた空です。形づくられたものごとと形づくられないものごとが空であるから、私もまた空です。この三つが空であるから、すべての法はみな空なのです。