釋標宗篇
一部之文,兼該三藏。文體正意,唯歸戒律。故當標出正宗,顯彰勝德。使夫學者投心有所,功不虛費。故以此篇冠于卷首。標即訓指,宗即是戒。問:下列四種,何者是宗?答:若就別論,唯法為宗;下云宗體,或云法體,宗法互舉,別指何疑。若約通論,四竝是宗,良由戒法總餘三故。言顯德者,廣引教相,贊述戒功,令知本受,專勤守護。即下科云順戒則三寶住持,辨比丘事,至文可見。自昔章記,竝以標宗科為僧體,甚失文意,如後攻之。今明此篇指示學宗,激勵持奉;通貫諸篇,總發三行。是以《尼鈔》題云勸學。準彼驗此,方見聖心。學者臨文,彌須用意;提携開誘,最所精詳;必欲智眼開明,學路無壅;此而不達,餘竝徒然。勉夫!注有二意。一是開章,以此篇中不別分故。二即釋題,由是二門合之為目,恐人不曉,故注釋之。
この一文は、三蔵全体を網羅し、その文体と真意は、ひたすら戒律に帰する。ゆえに、正しい宗旨を掲げ、優れた徳を明らかに示すべきである。そうすれば、学ぶ者も心を寄せるべきところを知り、その努力が無駄にならない。このため、この篇を巻頭に置く。「標」とは指し示すことであり、「宗」とは戒のことである。問う:以下に挙げる四種のうち、どれが宗旨か。答える:別に論ずれば、ただ法のみが宗旨である。後に「宗体」あるいは「法体」とあるのは、宗と法を互いに挙げており、別に何を指すか疑うことはない。通じて論ずれば、四つすべてが宗旨である。なぜなら、戒法は他の三つを総括するからである。「徳を顕す」とは、広く教えの相を引き、戒の功徳を讃え述べて、本来受け持ったものを知らせ、専心に守り励ますことである。すなわち、後の科段に「戒に順えば三宝は住持し、比丘の事を弁ず」とあるのは、文を見れば明らかである。昔からの章記は、みな標宗科を僧の体としているが、これは文意を大きく損なっており、後でこれを論じる。今ここで明らかにするのは、この篇が学ぶべき宗旨を示し、戒を持ち奉ることを励ますものであり、諸篇を通じて貫き、三つの行いを総じて発するものであるということである。このため『尼鈔』には「勧学」と題されている。それに準えてこれを検証すれば、聖人の心が見えてくる。学ぶ者はこの文に臨むとき、とりわけ心を留めるべきである。導き開くことは、最も詳しく精緻に行うべきであり、智慧の眼を開き明らかにし、学ぶ道を塞がれないようにしたいのであれば、これを理解しなければ、他のすべては徒労である。努めよ!注には二つの意味がある。一つは章を開くことであり、この篇の中では別に分けていないからである。二つは題を解釈することであり、この二つの門を合わせて題としているため、人が理解しないことを恐れて、注釈を加えたのである。
歎教文中。律字是法,海下並喻。今先出喻,然後合法。初三字明竪深,次句明橫廣;雖下二句,明容而不雜;騰下二句,明逸而不濫。沖亦訓深,漸漸深入,莫窮底故。通萬象者,天地萬物,皆蒙潤故。包含等者,百川所歸故。不宿屍者,性清潔故。騰岳等者,勢蕩逸故。岳喻其高,雲喻其動,喻中喻故。潮不過者,涌有時故。法合中,初合竪深。遠古諸佛、三乘聖賢,由戒資成,至于現未展轉無窮。故《戒疏》云:前聖果圓,後賢因滿;引生來業,展轉住持;眾生無盡,戒亦無竭。即戒本云:如過去諸佛,及以未來者,現在諸世尊,皆共尊敬戒是也。二合橫廣。三義釋之。初明遍境者,十方法界依正二報,情非情類,無非戒故。二約禁業者,三業四儀,施為舉動,三千八萬,皆聖制故。三約資行者,萬行由生,眾善所住,三聖道成,率由戒檢故。合第三中。戒法弘通,九道師訓;人收七眾,趣該非畜(本宗通受五八。)攝濟不遺,故云無外。然則或違重禁,教所不容;五眾則坌污清流,必加擯罰;其餘則入道無益,永障出家;若論治擯,實通諸篇;然對死屍,須約四重;即律序云:譬如有死屍,大海不容受,為疾風所漂,棄之於岸上。諸作惡行者,猶如彼死屍,眾所不容受,以是當持戒。合第四者。謂止作持犯,隨緣興制;詮相浩博,喻若波濤。然篇聚重輕,犯緣具闕;定犯不犯,纖毫不差;眾別行相,施造有儀;如非成敗,無容濫託。如潮有信,法喻彌彰。律云海有八奇特法:一一切眾流皆往投之;二常不失潮限;三五大河皆投於海而失本名;四五大河及天雨盡歸於海,無有增減;五海水盡醎,同為一味;六不受死屍;七多出珍寶;八大形者所居。此中略舉,未必全同;如戒本序,但明二德;必欲強配,臨文自裁。
歎教の文中に「律」の字は法であり、「海」の下は並べて喩えである。今まず喩えを出し、その後法に合わせる。初めの三字は縦の深さを明らかにし、次の句は横の広さを明らかにする。「雖下」の二句は、容れて混ざらないことを明らかにし、「騰下」の二句は、逸脱せず濫りないことを明らかにする。「沖」もまた深さを訓じ、次第に深く入り、底を窮め尽くせないゆえである。「通萬象者」とは、天地万物が皆潤いを受けるゆえである。「包含等者」とは、百川が帰するところであるゆえである。「不宿屍者」とは、性質が清潔であるゆえである。「騰岳等者」とは、勢いが激しく逸脱するゆえである。「岳」はその高さを喩え、「雲」はその動きを喩え、喩えの中の喩えである。「潮不過者」とは、湧き上がるに時があるゆえである。
法に合わせる中で、初めは縦の深さに合わせる。遠い昔の諸仏、三乗の聖賢は、戒によって資え成り、現在未来に至るまで展転して窮まりがない。故に『戒疏』に云う:「前の聖は果が円満し、後の賢は因が満ちる。来たるべき業を引き起こし、展転して住持する。衆生は尽きず、戒もまた尽きることがない」。即ち戒本に云う:「過去の諸仏の如く、及び未来の者、現在の諸世尊、皆共に戒を尊敬す」これである。二つ目は横の広さに合わせる。三つの義によってこれを解釈する。初めに遍く境に及ぶことを明らかにする。十方の法界、依報と正報の二報、情あるものと非情の類、戒でないものはないゆえである。二つ目に業を禁ずることを約する。三業と四儀、施為と挙動、三千八万、皆聖人の制定であるゆえである。三つ目に行いを資えることを約する。万行はこれより生じ、衆善の住するところ、三聖の道が成るのは、すべて戒によって検められるゆえである。
第三に合わせる中で。戒法は弘く通じ、九道の師の訓えである。人は七衆を収め、趣は非情と畜生を含む(本宗では五戒八戒を通じて受ける。)摂め済わすことに漏れがなく、故に「外なし」と云う。しかしながらもし重い禁戒に違背すれば、教えは容れない。五衆は清らかな流れを汚し、必ず擯罰を加える。その他の者は入道に益なく、永遠に出家を妨げられる。もし治め擯くことを論ずれば、実に諸篇に通じる。しかし死屍に対しては、必ず四重を約する。即ち律序に云う:「譬えば死屍有るが如し、大海は容れて受けず、疾風によって漂わされ、岸に棄てられる。諸の悪行を作す者は、猶お彼の死屍の如し、衆は容れて受けず、以て是の故に戒を持たんとす」。
第四に合わせるとは。止作持犯を謂い、縁に随って制を興す。相を詮するは浩博で、波濤に喩える。しかし篇聚の重軽、犯縁の具闕、犯と不犯を定めることは、繊毫も差し違わない。衆別の行相、施造に儀有り、是非の成敗、濫りに託することを容れず。潮に信有るが如く、法と喩えは弥(いよいよ)彰(あきらか)である。律に云う:海には八つの奇特の法有り。一には一切の衆流皆これに投ず。二には常に潮限を失わず。三には五大河皆海に投じて本名を失う。四には五大河及び天の雨尽く海に帰して増減無し。五には海水尽く鹹(しおから)く、同じく一味と為す。六には死屍を受けず。七には多く珍宝を出す。八には大形の者の住むところ。此の中に略して挙ぐ、必ずしも全く同じからず。戒本序の如く、ただ二徳を明らかにす。必ず強いて配当せんと欲すれば、文に臨んで自ら裁くべし。
勸持中,初科,明出家之人所務唯二:一須稟戒,二當學道。初中,上句標人。凡謂非一。廁預者,對下沐心,即指身口。佛法深妙,有信得入,故曰玄門。克下,示所學。克猶必也。清禁即戒法。戒防七業,故不容非。二學道中。初句標人。正道清澄,洗沐塵垢,故喻如水。慕下,明所修。慕即志念。出要即指定慧。定靜慧明,不隨塵欲,故無染世。上約三學,事理業惑,相對以明。乃知出家之士,義無偏學;專事昧道,未異凡流;樂道忘事,何由修證?上是對明三學。故下,合示兩利,初二句正示。德益時者,外用無非,住持生善,成利他也。超塵網者,寡欲絕累,成自利也。良下,推其所以。上二句顯利他之功,本由淨戒;下二句明自利之德,實因定慧。法即是戒,道即定慧。
勧めの中の最初の項目では、出家した人の務めは二つだけであることを明らかにしています。一つは戒律を受け継ぎ守ること、二つは道を学ぶことです。
最初の戒律の項目では、上の文句で対象となる人を示しています。「凡」とは一人だけではないことを意味します。「廁預」とは、下の「沐心」に対応し、身体と言葉を指しています。仏法は深遠で微妙であり、信仰があれば入ることができるので、「玄門」と言います。「克下」では、学ぶべきことを示しています。「克」は必ずという意味です。「清禁」とは戒律の法のことです。戒律は七つの業を防ぐので、非を許さないのです。
二つ目の道を学ぶ項目では、最初の文句で対象となる人を示しています。正しい道は清らかで澄んでおり、塵や垢を洗い流すので、水にたとえられています。「慕下」では、修めるべきことを明らかにしています。「慕」とは志すことです。「出要」とは定と慧を指しています。定は静かであり、慧は明るく、塵や欲望に従わないので、世に染まることがないのです。
上では三つの学びについて、事と理、業と惑を対比させて明らかにしています。これによって、出家した人は偏った学びをしてはならないことが分かります。ただ事に専念して道を忘れれば、凡夫と変わらず、道を楽しんで事を忘れれば、どうして修行して証を得ることができるでしょうか。上では三つの学びを対比させて明らかにしました。
したがって、下では両方の利益を合わせて示しています。最初の二つの文句が正しく示しています。「徳益時」とは、外に向かってすべてが道理にかなっており、住持して善を生じさせ、他を利益することです。「超塵網」とは、欲望を少なくして煩わしさを断ち切り、自らを利益することです。「良下」では、その理由を推し量っています。上の二つの文句は、他を利益する功徳が清らかな戒律によることを示し、下の二つの文句は、自らを利益する徳が定と慧によることを明らかにしています。「法」とは戒律のこと、「道」とは定と慧のことです。
敘不學中,初料,上二句標人。澆末是時。淺識者,無所解故。庸見者,同塵俗故。雖下,示庸淺之相。先且分定;初二句,明學寡;次二句,明行薄。又次二句,明情疎;復次二句,明志塞。局下至體之,明言論鄙俗。名參者,無實德故。緇服即黑色衣。不依律者,違聖教故。疎野者,無所拘故。真要與下真趣,竝指前三學。封猶閉也。守株喻其愚也。(《韓子》曰:宋人有耕者,見田中株,兔走觸之,折頸而死。因釋耕守株,冀復得兔。)志即是心。絕通望者,無所見也。就言論中,初二句謂無稽實。局塞也。之猶於也。首即頭也。此句躡上生下。次四句明混同流俗。事即所說之事。研下,舉積學比況。闇託,謂不達前事,冥然為之。體即解也。
学ばない者たちについて、まず初めに、上の二句はその人々を示しています。末世という時代において、浅い見識の者は理解する術がなく、凡庸な見解の者は世俗と同化してしまうからです。「雖下」は、その凡庸で浅はかな様を示しています。
まず分けて説明します。最初の二句は学びが乏しいことを、次の二句は行いが薄いことを明らかにします。さらに次の二句は情けが疎遠であることを、また次の二句は志が塞がれていることを示します。
「局下」から「體之」までは、言論が卑俗であることを明らかにしています。「名參」とは、実質的な徳がないことを指します。「緇服」は黒い衣のことです。律に依らない者は、聖なる教えに背いているからです。「疎野」とは、何にも束縛されないことを意味します。
「真要」と下の「真趣」は、ともに前述の三つの学びを指しています。「封」は閉ざすことです。「守株」は愚かさをたとえたものです。(『韓子』に言う:宋の国に農夫がいた。田の中に切り株があり、兎が走ってきてそれにぶつかり、首を折って死んだ。それを見て農具を置き、切り株のそばで待ち、再び兎が来るのを期待した。)
「志」は心そのものです。「絶通望」とは、何も見えない状態を指します。言論について言えば、最初の二句は確かな根拠がないことを意味します。「局塞」は閉ざされていることです。「之」は「於」と同じです。「首」は頭のことです。この句は前を受け、次を生み出しています。
次の四句は、流俗と混ざり合っていることを明らかにしています。「事」とは語られる内容のことです。「研下」は、積み重ねた学びを比較しています。「闇託」とは、前の事柄を理解せず、闇雲に行うことです。「體」は理解することです。
彰過中四,初明濫教。所行違制,妄謂依律,故云濫委。法司即律宗。律實不然,愚者謂是,故為彼亂。即世學者說律訓人。自貿椹衣,言遵王制;夜粥晏齋,謂是隨方。非時噉飯,妄言未必長惡;貪飲藥酒,便言有病療治;不學愚僧,傳為口實。誣聖亂法,豈復過是!來者有識,慎勿隨邪。肆下,次明專任。肆,恣也。順己情者,非制而制,曰縱。違我意者,是制便斷,名奪。事既非法,人有不從,即以威武抑而挫之。所謂持戒比丘,反遭治擯,乃至羅漢亦被打罵,即其事也。暴謂兇惡,剋即侵害。尚非下,三舉況。俗節即世禮,禮以節人故也。孔子云:非禮勿視,非禮勿聽,非禮勿言,非禮勿動。《曲禮》曰:傲不可長,欲不可縱。是則儒典動必合禮,不容縱傲。安有出世道人,反成肆恣,故云也。致令下,四彰損。上句明塞學路,次句明滅法律,下二句傷歎。磐謂大石。《周易困卦》云:困于石,據于蒺蔾。(注云:石之為物,堅而不納者也。)喻上庸流濫為師首,妄行非法;則使來蒙解行不進,如困于石。若復不學,恥墮無知,如據蒺蔾,此謂進退不可之象。世途擊目,豈不昭然。羈,居宜反,馬絆也。䩛,毘必反,車束也。此二即乘駕之要物。律為住持中最,故以比焉。
まず、四つの過ちのうち、最初に「濫教」について説明します。行いが戒律に反しているのに、それを「律に従っている」と誤解しているため、「濫委」と呼ばれます。法司とは律宗のことです。律の本来のあり方とは異なるのに、愚かな者がそれを正しいと思い込むことで、律の教えが乱されます。つまり、世間の学者が律を説いて人を導くとき、自分勝手に僧衣を身につけ「王の定めに従っている」と言い、夜に粥を飲み朝食を遅らせて「その土地の習慣に従っている」と言い、決められた時間外に食事をして「必ずしも悪を長じるとは限らない」と妄言し、薬酒を貪って飲み「病気を治療するためだ」と言い訳します。学ばない愚かな僧たちは、これを口実にします。聖人を欺き法を乱すこと、これ以上のものはありません。後に続く識者は、邪なものに従わぬよう慎みなさい。
次に「専任」について説明します。肆とは、気ままにふるまうことです。自分の都合の良いことは、定められていないのに定めたようにして放任し、これを「縦」と言います。自分の意に反することは、定められているのに断ち切って、これを「奪」と言います。事がすでに法に背いているのに、人が従わなければ、武力で抑えつけて挫こうとします。いわゆる戒律を守る比丘が、かえって罰せられ追放され、さらには阿羅漢でさえ打たれ罵られるという事態が、これにあたります。暴とは凶悪なこと、剋とは侵害することです。
次に「挙況」を三つ挙げます。俗節とは世間の礼儀のことで、礼は人を節度あるものにするからです。孔子は言いました。「礼に合わないものは見ず、礼に合わないものは聞かず、礼に合わないものは言わず、礼に合わないものは行わない」と。『曲礼』には「傲慢は長じてはならず、欲望は放任してはならない」とあります。つまり儒教の経典では、行動は必ず礼に合致し、傲慢や放任は許されません。ましてや、世俗を超えた修行者が、かえって気ままにふるまうことがあってよいはずがなく、故にこう言われるのです。
最後に「損」を明らかにします。上の句は学びの道を塞ぐことを、次の句は法と律を滅ぼすことを示し、下の二句は嘆き悲しみを表します。磐とは大きな石のことです。『周易』の困卦には「石に困り、蒺蔾に拠る」とあります。(注釈には「石というものは、堅くて受け入れないものである」とあります。)これは、上に立つ凡庸な者が師としてふさわしくないのにその地位に就き、みだりに法に背く行いをすることで、後に続く未熟な者の理解と実践が進まなくなり、石に閉じ込められたようになることをたとえています。もしさらに学ばなければ、無知に堕ちることを恥じて、蒺蔾の上に座るようなもの、つまり進退窮まる様子です。世の道筋が目に映るなら、それは明らかではないでしょうか。羈(き)とは馬の手綱、䩛(ひつ)とは車を縛る革ひものことです。この二つは乗り物を操るのに欠かせないものです。律は仏法を保ち支えるものの中で最も重要であるため、これにたとえられるのです。
舉興替中。初句語通上下,前敘淺識故替,後勸深崇必興。次句囑於後學。復下,顯益。佛智朗然,故喻如日。法能摧展業惑,故喻如輪。苟得其人,則三寶重興;反前覆墜,故云再也。
興廃の道を説く中で、初めの句は前後の文脈を通じており、前半では浅い理解ゆえの衰退を述べ、後半では深く尊ぶことによる必ずや興隆を勧めている。次の句は後学の人々に託されている。さらにその下では、利益が明らかにされている。仏の智慧は明るく輝くので、太陽にたとえられる。法は業と煩悩を打ち砕くことができるので、車輪にたとえられる。もし適切な人を得れば、三宝は再び興隆する。前に述べた覆墜(衰退)とは反対の状態になるので、「再び」と言うのである。
正明中,初科。望下〈釋相〉,故云略指。宗即是法,證題不疑。令下,示意。興謂發心,建即立行。識體進行,成因感果,故云有託。如後結文。
【正明】の初めの科です。 下の〈釋相〉を見渡すため、「略指」と述べています。 「宗」とはすなわち法であり、題を証して疑いはありません。 下に示して意を伝えています。 「興」とは発心を起こすこと、「建」とは行を立てることです。 体を識り行を進め、因を成して果を感ずるゆえ、「有託」と述べています。 後の結文の通りです。
領受中,初文為二,先示法體。上句明戒法有濟物之能,下句明戒體為立行之本。器即是機。大小凡聖道俗七部上中下心,皆獲得故。趣謂歸趣。體能生行,行還護體;以行望體,體為所歸。故知比丘以體為本,領受少差,畢身虛喪;一生大事,可不慎乎!而下,次明得失,初明得者。準受戒中必具五緣,方發戒品:一能受有五(一是人道,二諸根具,三身器淨,四出家相具,五得少分法。),二所對有六(一界,二僧,三數滿,四盡集,五白四法,六資緣具。),三發心乞戒,四心境相當,五事成究竟。今以善淨一句,對收一三;稱緣一句,即收第二;方克一句,即收第四五。克猶遂也。若下,次明失,初三句明緣乖不得。即反五緣。不待全差,少乖即失,故云毫微。徒虛也。將下,彰無戒之過。上一句失自利,下二句失利他。
領受について、初めの文は二つに分けられます。まず法の本体を示します。
上の句は、戒法が衆生を救う力を持つことを明らかにし、下の句は、戒体が修行を立てる根本であることを明らかにしています。「器」とは機根のことです。大小の凡夫や聖者、出家者や在家者、七衆の上中下の心、すべてが戒を得ることができるからです。「趣」とは帰趣、つまり向かうところを意味します。本体は修行を生み出し、修行はまた本体を守る。修行から本体を見れば、本体は帰する所となります。ですから、比丘は戒体を根本とし、領受に少しでも誤りがあれば、一生を無駄にすることになります。一生の大事ですから、慎重でなければなりません。
以下、次に得失を明らかにします。まず得ることについて述べます。戒を受けるには必ず五つの縁が整っていなければならず、その上で戒の徳が発現します。一に、受ける者に五つの条件があること(一つは人間であること、二つは諸根が具わっていること、三つは身器が清浄であること、四つは出家の相が具わっていること、五つは少分の法を得ていること。)、二に、対するものに六つの条件があること(一つは結界、二つは僧伽、三つは人数が満ちていること、四つは全員が集まっていること、五つは白四羯磨の法、六つは資縁が具わっていること。)、三に、戒を乞う心を発すること、四に、心と境が相応していること、五に、事が成就して究竟すること。ここで「善く清浄なる一句」は、第一と第三の条件に対応し、「縁に称する一句」は第二の条件を収め、「方に克つ一句」は第四と第五の条件を収めます。「克つ」とは遂げるという意味です。
「若し」以下、次に失うことを明らかにします。初めの三句は、縁がそろわなければ得られないことを述べています。つまり五縁に反するからです。すべてが欠けるのを待たず、少しでもそろわなければ失うので、「毫微」と言います。「徒に虚し」とは無駄になることです。
「将に」以下は、戒がないことの過ちを明らかにします。上の一句は自利を失うことを、下の二句は利他を失うことを表しています。
結誥中,初二句指所誥人。清身謂志樂建修。圓果即心期極證。無下一句,誡輕易。必下,教用意。專志者,有所詣也。攝慮者,無異想也。契謂心會前法,入即納法歸心。滯,礙也。故下,引證。即《涅槃》十八卷,彼云:云何念戒?菩薩思惟有戒不破不漏不壞不雜(不破即四重,不壞即餘戒;不漏不雜,即重輕方便,此依北遠疏。),雖無形色而可護持(非色);雖非觸對,善修方便,可得具足(非心);諸佛菩薩之所讚歎,是大方等大涅槃因。此證重心領納,有戒何疑。
結誥の文中、初めの二句は、戒を授けられる人を指しています。「清身」とは、修行を志し楽しむことを言い、「円果」とは、究極の悟りを心に期すことです。「無下」の一句は、軽々しく扱ってはならないと戒めています。「必下」は、心を込めることを教えています。「専志」とは、目指すところがあること、「摂慮」とは、他の思いがないことです。「契」とは、心で前の法を会得することで、「入」とは、法を心に納め帰することです。「滞」とは、妨げのことです。「故下」は、証拠を引いています。すなわち『涅槃経』第十八巻に、次のようにあります。云何が戒を念ずるか。菩薩は思惟するに、戒は破られず、漏れず、壊れず、雑ぜられず(「不破」は四重戒を指し、「不壊」はその他の戒を指す。「不漏不雑」は、重罪と軽罪の方便を指す。これは北遠の疏に依る。)、形や色はなくとも護持できる(色ではない)。触れて対するものではないが、善く方便を修めれば、具足できる(心ではない)。諸仏菩薩の称賛するところであり、これが大方等大涅槃の因である。これは、重んじる心で受け入れれば、戒があることに何の疑いがあろうか、と証しています。
徵釋中,初科;上二字,徵上所受,發下開章。但下,釋意。初敘廣;且下,示要。初中,上二句據法明廣。五、八、十、具,四位不同;或約業者,七支種類也;或從制者,重輕篇聚也。軼(徒結反,又音逸。),車相交過,喻其多貌。次二句約心明廣。即上四位各有三品。若下二句,就境明廣。情及非情,不可數故。示要中。樞即門樞,亦取要義。欲達四科,先須略示。聖人制教名法,納法成業名體,依體起護名行,為行有儀名相。有云未受名法,受已名體;今謂不然。法之為義,貫徹始終,安有受已不得名法。須知下三從初得號,是故一一皆得稱戒。或可竝以法字貫之,方顯體及行相,非餘泛善。問:所以唯四,不多少者?答:攝修始終,無缺剩故。隨成一行,四義整足;言有次第,行不前後。問:法之與體,同異云何?答:《業疏》云:體者戒法所依之本。是則法為能依,體是所依,不可云同。又云:戒體者,所謂納聖法於心胸,即法是所納之戒體。據此不可云異。應知言法未必是體,言體其必是法。不即不離,非同非異。問:行相何異?答:三業分之。
【釈義のうち、初めの科段】「徴釈中」の「中」とは、釈義全体を指す。初めの科段は、「上二字」つまり「徴釈」の二字は、前文で受けられた「戒法」を引き出し、これから開く章段を発するものである。「但下」以下は、その意味を釈する。
【初めに広大さを述べる】「且下」以下は、要義を示す。初めの「広大さを述べる」うち、「初中」つまり初めの二句「戒法広大、遍該生境」は、法に基づいて広大さを明らかにする。五戒・八戒・十戒・具足戒、この四つの位は同じではない。あるいは業(行為)について言えば、七支(身三・口四)の種類である。あるいは制戒(制定された戒)から言えば、重い罪・軽い罪、篇(波羅夷等の大篇)・聚(衆学等の小篇)である。「軼」(徒結反、また逸と読む)とは、車が交差して通り過ぎることで、その多い様子を譬えたものである。次の二句「心量周遍、潜密難知」は、心に基づいて広大さを明らかにする。つまり、上記の四つの位にはそれぞれ上品・中品・下品の三品がある。「若下」の二句「境量無邊、情非情境」は、境(対象)について広大さを明らかにする。有情(生き物)および非情(物)は、数えることができないからである。
【要義を示す】「示要中」。「樞」とは門の枢(とぼそ、戸の回転軸)であり、やはり要義を取っている。四科(法・体・行・相)を通達しようとするならば、まず略示する必要がある。聖人が教えを制定したものを「法」という。法を受け入れて業を成すものを「体」という。体に依って護持を起こすものを「行」という。行を行うための儀則があるものを「相」という。ある説では、未受戒のものを「法」といい、受戒したものを「体」という。今はそうではないとする。法という言葉の意味は、始めから終わりまで貫徹しているのであって、受戒した後に法と呼ばれないことがあろうか。知るべきである、下の三つ(体・行・相)は初めの「法」からその名を得るのであり、それゆえ一つ一つすべて「戒」と称することができるのである。あるいは、すべてを「法」という字で貫いてみるならば、初めて「体」および「行・相」が、他のありふれた善ではないことが明らかになる。
問:なぜ四つだけで、多くも少なくもないのか。 答:修行の始めから終わりまでを摂め、欠けることも余ることもないからである。一つの行が成るに随って、四つの義が整って足りる。言葉には次第があるが、行いには前後がない。
問:「法」と「体」とは、同じか異なるか。 答:『業疏』に云う、「体とは、戒法の依る所の本である」と。これによれば、法は能依(依る側)であり、体は所依(依られる側)であるから、同じとは云えない。また云う、「戒体とは、いわゆる聖法を心胸に納めることであり、すなわち法は所納の戒体である」と。これによれば、異なるとは云えない。知るべきである、法と言っても必ずしも体ではなく、体と言えばそれは必ず法である。即でも
戒法中,初文二,初標示。語猶敘也。直下,正明。法雖兩通,不能委辨;但從聖論,故云直也。必,定也。軌成者,示法義也。出離道者,聖所證也;〈釋相〉科為聖道本基,即同此意。要下,出從聖所以。然此但示法之功力,文不明指何者是法,意令學者得而得之。
戒法の解説において、最初の文章は二つの部分に分かれます。最初は標示です。「語猶敘也」とは、言葉で説明するという意味です。
「直下」とは、まっすぐに正しく明らかにすることを指します。法は二つの側面がありますが、詳しく論じることはできません。聖者の教えに従うからこそ、「直」と言うのです。
「必」は、確かにという意味です。「軌成者」は、法の意義を示しています。「出離道者」は、聖者が悟った道です。〈釋相〉の項目ではこれを聖なる道の根本としていますが、ここでも同じ意味です。
「要下」とは、聖者に従う理由を示しています。しかし、これはただ法の効力を示しているだけで、文章では具体的にどの法を指すか明記していません。これは学ぶ者が自ら理解して得るようにという意図です。
次科,初二句躡前。今下,正示。已成者,初果已上所修三學,名聖道故。今雖在凡,亦名聖法,因中果號也。
次に、前の科を引き継いで、最初の二句は前文を受けて述べています。今、以下に正しく示します。すでに成就したものとは、初果以上の修行者が修める三学を指し、聖なる道だからです。今は凡夫であっても、これも聖なる法と呼ばれ、因の中に果の名があるのです。
三中,初明立志,上二句明慕近事。背俗向道,得事解脫,在凡因故。下二句明希遠果。斷惑證理,即理解脫,是聖果故。累即三界結使,外謂二種涅槃。又可上約身儀異世,下據心行清昇。必下,勸令早學。言必預者,不得臨時故。此心者,即上近遠二心。隨人者,任機優劣故。乃下,示相應。初句納法為體,次句依體起行。行必兼相,四種備焉。故下,結名。以依體起持,名隨行故。
三つの段階のうち、初めは志を立てることを明らかにします。上の二句は近き事を慕うことを明らかにします。俗世を背にして道に向かうこと、事の解脱を得ること、凡夫の因となるゆえです。下の二句は遠き果を希うことを明らかにします。惑いを断じて理を証すること、すなわち理の解脱、これ聖者の果となるゆえです。累とはすなわち三界の結使、外とは二種の涅槃をいいます。また、上は身の儀礼をもって世に異なることに約し、下は心の行いをもって清く昇ることに据えます。必ず下は、早く学ぶよう勧めます。必ず預かると言うは、臨時に得られざるゆえです。この心とは、すなわち上の近遠二つの心です。人に随うとは、機根の優劣に任せるゆえです。乃ち下は、相応を示します。初めの句は法を納めて体とし、次の句は体に依って行いを起こします。行いは必ず相を兼ね、四種備わります。故に下は、名を結びます。体に依って持戒を起こすをもって、随行と名づけるゆえです。
戒體中,初科為二,初指餘文。通論即宗論,非別解故;如《成實》、《婆沙》、《雜心》、《俱舍》等。所發即無作。今下,標今意。相謂心之相狀。
戒の本体について、初めに二つの科段に分けます。まず第一は、他の経文を指し示す部分です。これは一般的な論議であり、特定の解釈ではないからです。例えば『成実論』『婆沙論』『雑心論』『倶舎論』などがこれにあたります。ここで説かれるのは「無作」の戒です。
次に、「今下」では、今ここで論じようとする意図を示します。「相」とは、心のありさま、状態を指します。
正示中三,初二句示戒量。法界者,十界依正也。塵沙者,喻其多也。二諦者,佛所立教也。此謂約境顯戒,故云等法。以已下,正明心相。初句立誓盡一形壽,次句通包禮敬陳詞身口二業;善下,明屏絕妄念;測下,明心法相應。測思者,成業之本,得戒之因;三品心中,隨發何等。明慧者,反照心境,如理稱教,而非倒想妄緣前境。或以四字別解者,測謂發心,思即緣境,明謂有記,慧即檢察。上明用心,下明合法。由上起心,必須遍緣塵沙等境;法從境制,量亦普周;心隨法生,法廣心遍;心法相應,函蓋相稱,故云冥會。冥,暗;會,合也。法猶在境,以心對望,故云前法;下云彼法,義亦同然。以此下,明納體,初二句躡上冥會。於下,明法隨心起。法是無情,由心緣故,還即隨心;故三羯磨時,初動於境,次集於空,後入於心;法依心故,名為法體。領下,示體所在。若據當分,體是非心;不顯所依,體與心異。今言在心,乃取圓意,即指藏識為所依處。此之二句,正示無作;昔人反云此是作體,安有心中但領作耶!問:若是無作,即是所發,何以前文指如通論?答:此中但言領納在心,不明所納是色非色。故指如彼,〈釋相〉廣明。問:前云正顯能領心相,豈非作戒?答:此謂以作顯無作耳。問:何不直示無作,而明心相者?答:能領之心,發體正要。獨茲曲示,餘竝無文。若乃考得法之元由,決所受之成否;苟迷此旨,餘復何言。或無記妄緣,或泛爾餘善;一生罔象,畢世遲疑;無戒滿洲,聖言有旨。故茲提示,義不徒然。
正しく示す中三、初めの二句は戒の量を示す。「法界」とは、十界の依報・正報である。「塵沙」とは、その多さを喩えたものである。「二諦」とは、仏の立てられた教えである。これは境に約して戒を顕わすことを謂い、故に「等法」と云う。「以」以下は、正しく心の相を明かす。初句は一形寿を尽くす誓いを立て、次句は礼敬と陳詞の身口二業を通じて包む。「善」以下は、妄念を屏絶することを明かす。「測」以下は、心と法が相応することを明かす。「測思」とは、業を成す根本であり、戒を得る因である。三品の心中、いずれを発するに随う。「明慧」とは、心境を反照し、理に如く教えに称し、倒想妄縁の前境に非ざることである。あるいは四字を別に解する者あり、「測」は発心を謂い、「思」は即ち境を縁り、「明」は有記を謂い、「慧」は即ち検察である。上は用心を明かし、下は合法を明かす。上より心を起こすは、必ず遍く塵沙等の境を縁ぜねばならず、法は境より制し、量も亦普く周し、心は法に随って生じ、法広く心遍く、心法相応し、函蓋相称するが故に「冥会」と云う。「冥」は暗く、「会」は合うなり。法は猶境に在り、心を以て対望するが故に「前法」と云う。下に「彼法」と云うも、義亦同じ。これに「以」以下は、納体を明かす。初めの二句は上に躡って冥会す。「於」以下は、法が心に随って起こることを明かす。法は無情なり、心の縁うるに由るが故に、還って即ち心に随う。故に三羯磨の時、初めは境に動き、次は空に集まり、後は心に入る。法は心に依るが故に、名づけて「法体」と為す。「領」以下は、体の所在を示す。若し当分に据うれば、体は心に非ず。依る所を顕わさず、体と心と異なる。今「心に在り」と云うは、乃ち円意を取り、即ち蔵識を指して依る所の処と為す。この二句は、正しく無作を示す。昔の人は反って云う、これは作体なりと。安んぞ心中に但だ作を領するのみあらんや。問う、若し是れ無作ならば、即ち是れ発する所なり。何ぞ以前の文は通論を指す如きや。答う、此の中に但だ領納して心に在ると言うのみにして、納する所の色・非色なることを明かさず。故に彼を指す如く、〈釈相〉に広く明かす。問う、前に云う「正しく能領の心相を顕わす」とは、豈に作戒に非ざらんや。答う、これは以て作を以て無作を顕わすことを謂うのみ。問う、何ぞ直ちに無作を示さずして、心相を明かす者や。答う、能領の心は、体を発する正要なり。独り茲に曲しく示す、余は並びに文無し。若し乃ち法を得る元由を考へ、受くる所の成否を決せんとせば、苟も此の旨に迷わば、余復何をか言わん。或は無記妄縁し、或は泛爾たる余善に、一生罔象として、畢世疑いを遲らし、戒無き洲に満ち、聖言に旨有り。故に茲に提示し、義徒然ならず。
戒行中三,初躡前科。必下,示行相。方便有二,即教行也。教謂律藏,必依師學;行謂對治,唯在己修;由本興心,稟教期行以為受體;今還如體而學而修。文明檢察,似偏約行;然離過對治,非學不立;廣修之語,理必兼含。檢察即心,心即行體;準疏具三,能憶、能持、能防;一心三用,無非順受,方成隨行,此謂能察;身口威儀即所察。此二句,須明成就二持,遠離兩犯。而云身口,且據麁非;約準今宗,義通三業。上云檢察,正示修行;下云慕聖,明其標志。克,猶定也。崇,重也。前聖,通目三乘已成道者。持下,結示名義。持心即行。後起順前,示隨行義。下引經證。文如前引,但易具足為清淨耳;具足無缺,即清淨故。
戒行の三つの段階のうち、最初は前段階を踏まえることです。必ず次に、行いの様相を示します。方便には二つあり、すなわち教えと行いです。教えとは律蔵を指し、必ず師に依って学びます。行いとは対治を指し、ただ自分自身で修めるものです。本来の心を起こし、教えを受け、行いを期して受ける体となります。今、その体に従って学び、修めます。文面では検査と観察に重点を置き、行いに偏っているように見えますが、過ちを離れ対治するには、学びなくしては成り立ちません。広く修めるという言葉には、理も兼ね備えているはずです。検査と観察はそのまま心であり、心は行いの体です。疏に基づけば三つを備え、よく思い出し、よく保ち、よく防ぐことです。一つの心に三つの働きがあり、すべてを受容に順うことで、初めて随行が成り立ちます。これが能察です。身と口の威儀は所察です。この二句は、二つの持戒を成就し、二つの犯戒を遠ざけることを明らかにする必要があります。身と口と言うのは、粗い過ちに限った話ですが、現在の宗派に照らせば、その意味は三業に通じます。上で検査と観察と言ったのは、正しく修行を示すためです。下で聖を慕うと言うのは、その標識を明らかにするためです。克は定めること、崇は重んじることを意味します。前聖とは、三乗において既に道を成した者を広く指します。持の下には、名義を結んで示します。心を持ち行うことが行いです。後に起こるものが前に順うこと、これが随行の意味を示します。下に経文を引いて証とします。文は前に引いたものと同じですが、具足を清浄に置き換えただけです。具足して欠けることがなければ、それが清浄だからです。
戒相中二,初即承前。隨下,正示。問:〈釋相篇〉中,以戒本為相,與此異者?答:此約行明,彼就法辨。然則行必循法,法必軌行。文云動則稱法,豈不明乎!
戒相の説明は二つに分けられます。最初の部分は前文を受けたものです。「随下」からは、正式な説明が始まります。
問:『釈相篇』では、戒本を戒相としていますが、ここでは違うのはなぜですか?
答:ここでは修行の面から説明し、あちらでは法の面から区別しているからです。しかし、修行は必ず法に従い、法は必ず修行の規範となります。経文に「行動は法にかなうべき」とあるのは、まさにこのことを明らかにしているのです。
顯德中,初科,初至能盡,結前文也;直引下,生後意也。初文,上三句結歎。出道本依,對下成果,即約修因以論。本依,即基址義。宗極者,法身由成故,轉為果德故,眾聖敬護故;即如戒本,三世諸佛皆共尊敬,聖賢稱譽等。故下,示標宗意。表,首也。知下,明開悟。佩,持也。下下,明自他益。自餘下,明住持益。功德下,結示無窮。生後中。直引者,更無自說,使生信故。令下,稱美後學,使堅持故。或可從初至有在為結前,知自下即生後。結前同上釋。就生後中,初至能盡,即敘德;直下,明引顯,即題中顯德二字。聖說者,下引大小經律論,或是佛說,或餘人說,無非聖故;又可雖通餘人,還述佛意,是則聖說唯在如來。詳,審也。諸,之也。
顕徳の初めの科において、「初めより能く尽くすに至るまで」は、前文を結ぶものであり、「直ちに引き下す」は、後の意を生じさせるものである。初めの文の上の三句は、結びと称賛である。道の本依を出だすことは、下の成果に対し、即ち修因に約して論ずる。本依とは、すなわち基址の義である。宗極とは、法身がこれによって成るゆえに、果徳に転じるゆえに、衆聖が敬護するゆえにである。即ち戒本の如く、三世の諸仏皆共に尊敬し、聖賢が称誉するなどである。故に下に、標宗の意を示す。表とは、首なり。知る下に、開悟を明らかにす。佩とは、持つことなり。下下に、自他の益を明らかにす。自余の下に、住持の益を明らかにす。功德の下に、結示して窮まりなきを示す。生後の中。直ちに引くとは、更に自説なく、信を生ぜしむるが故なり。令する下に、後学を称美し、堅持せしむるが故なり。或いは初めより「有り在り」に至るまでを結前とし、「自ら知る」より下を即ち生後とすべきなり。結前は同じく上に釈す。生後の中に就いては、初めより「能く尽くす」に至るまで、即ち徳を叙し、「直ちに」より下、引顕を明らかにす。即ち題中の「顕徳」の二字なり。聖説とは、下に大小の経律論を引き、或いは仏の説くところ、或いは余人の説くところ、聖に非ざるは無きが故なり。又た、余人に通ずるも、還って仏意を述ぶれば、是れ則ち聖説は唯如来に在り。詳とは、審らかにす。諸とは、これなり。
引證中,初科,前約違順開章。比丘事者,通於眾別。言翻種者,戒為脫苦因,受反增故。種字去呼。苦業,即惡因也。但下,敘廣標略。言經論者,律在其中。一化者,始於成道,終至唱滅,中間教法,無不引之;故言一化,亦名一期。
初めに、違反と順守の二つに分けて章を立てる。比丘の事柄は、僧団全体と個別の両方に通じる。「種」と訳すのは、戒が苦しみから解脱する因となるが、受けてもかえって増えるからである。「種」の字は去声で読む。苦しみの業、すなわち悪い因のことである。ただし、以下では広く述べて略して標す。「経論」と言うのは、律もその中に含まれる。「一化」とは、成道から始まり、入滅を告げるまで、その間の教えをすべて引き合いに出すことである。ゆえに「一化」と言い、また「一期」とも言う。
小乘經中,初科,《般泥洹經》。東晉法顯所翻本。彼因魔王請佛涅槃,佛即許之。阿難悲惱,三請世尊住壽一劫。佛說偈云:我所說諸法,即是汝等師;又云:汝等勤精進,如我在無異。今取經意,文有少異。《遺教》。文見卷首。論釋云:示現波羅提木叉是修行大師故,示現人法住持相似故。等者,如諸經佛臨滅時,阿難請問四事。第二問云:佛滅度後,以誰為師?佛言:以戒為師。(初問依何而住?令依四念處住。三問經首安何語?令安如是我聞等。四問治惡性比丘,令默擯治之。)
小乗経典の最初の区分にある『般泥洹経』は、東晋の法顕によって翻訳されたものです。その経典では、魔王が仏に涅槃に入ることを請い、仏はそれに応じられました。阿難は悲しみ悩み、三度にわたって世尊に一劫の間寿命を留められるよう懇願しました。その時、仏は偈を説かれました:「私が説いた諸々の法こそが、あなた方の師である」と。また、「あなた方は精進に励みなさい、私がここにいるのと同じように」とも説かれました。ここでは経典の趣旨を取り、文言を少し変えてお示しします。
『遺教経』の文は巻頭にあります。論釈には、「波羅提木叉(戒律)こそが修行の大師であることを示し、人と法が住持する様子が似ていることを示すためである」とあります。「等」とは、諸経典において仏が臨終の際、阿難が四つのことを尋ねたことを指します。第二の問いは、「仏が滅度された後、誰を師とすべきでしょうか?」というものでした。仏は「戒を師としなさい」と答えられました。(第一の問いは「何に依って住むべきか?」であり、四念処に依って住むようにと示されました。第三の問いは「経典の冒頭にどのような言葉を置くべきか?」であり、「如是我聞」などを置くようにと示されました。第四の問いは「悪性の比丘をどう治めるか?」であり、黙って排斥して治めるようにと示されました。)
二中。發趣者,發謂起行,趣謂所期。萬行舉其大數。宗是尊義主義。萬行之中,戒為尊主。所以然者,有多義故。一由資始故,二有期誓故,三有本體故,四攝境遍故,五止作統故。餘行無此,故為卑為賓耳。故下,引證。《古記》云:即《善生經》,然與戒本序語意相涉。上句總彼兩句,故云等也。戒以足喻,頗符發趣之義。然從權意,且指人天;須知所趣實通五乘,如前已辨。
第二に。発趣とは、発は行いを起こすことを意味し、趣は目指すところを意味します。数多くの修行の中から、その大きな数を挙げています。宗は尊ぶべき主たる意味です。万行の中において、戒律は尊い主となります。なぜなら、いくつかの理由があるからです。第一に、修行の始まりとなる資糧だからです。第二に、誓いと期限があるからです。第三に、本質的な体があるからです。第四に、対象を広く含むからです。第五に、止めることと行うことを統べるからです。他の修行にはこれがなく、従って従属的で補助的なものとなります。したがって、以下に引用して証明します。《古記》に云う:すなわち『善生経』ですが、しかし戒本の序文の語意と関連があります。上の句はその二句を総括しているので、「等」と云うのです。戒律を足に例えるのは、発趣の意味にかなり合致しています。しかし、方便の意から、とりあえず人天を指しています。目指すところが実際には五乗に通じることを知るべきで、前にすでに弁明した通りです。
三中,初舉喻。地有二義:一能生,二能持。兩引《遺教》,止得初義。上云諸善,通漏無漏及動不動。下云定慧須約聖道,唯在無漏及不動耳。又下,次引律文,雙示二義。即本律〈說戒揵度〉中文。而言經者,名通三藏,皆佛語故。(舊云:《善生經》者,檢彼無文。)先引文。即下,喻合。經云行根,即能生故。上三約喻,則初師、二足、三地。合法者,初是軌物,二即攝行,三能生功德。
三つのうち、まず初めに譬えを挙げます。「地」には二つの意味があります。一つは「生み出す力」、もう一つは「支える力」です。二度『遺教経』を引用していますが、これは最初の「生み出す力」の意味だけを得ています。上で言う「諸善」は、煩悩を伴うものも伴わないものも、動じるものも動じないものも、すべてを含みます。下で言う「定慧」は聖なる道に限定し、煩悩を離れたものと動じないものだけを指します。次に、律の文を引いて、二つの意味を同時に示します。これは元の律の〈説戒揵度〉の中の文です。「経」と言っているのは、三蔵すべてに通じる名称で、すべて仏の言葉だからです。(古くは『善生経』と言っていましたが、それを調べてもその文は見当たりません。)まず文を引用します。次に、譬えと合致させます。経に「行根」とあるのは、生み出す力があるからです。上の三つを譬えに当てはめると、最初は師、次は両足、三番目は地です。法に合致させるなら、最初は規範を示すもの、次は行いを統べるもの、三番目は功徳を生み出す力です。
小乘論中,《成實》三喻。柱喻依持,郭喻防禦,印喻為人所信。初言道品,即是慧學。次第增深,隨有所見,故如樓觀,即三十七品。四念處(一身不淨,二受是苦,三心無常,四法無我。破四顛倒,即是念處。)、四正勤(一已生惡令斷,二未生惡不生,三未生善令生,四已生善令增長,於正道中勤行故也。)、四如意足(一欲,二精進,三心,四思惟。所願皆得,故名如意。)、五根(一信,二精進,三念,四定,五慧。竝取能生,故名為根。)、五力(即上五根,望能壞有漏不善故名力。)、七覺分(一擇法,二精進,三喜,四除,五捨,六定,七念。無學實覺,七事能到,故名覺分。)、八正道(一見,二思惟,三語,四業,五命,六精進,七念,八定。八竝離邪為正,能通涅槃名道。)。二禪定者,顯是定學。定以防心,抑制妄動,故喻如城。即同《遺教》喻堤塘也,謂四禪四空定及餘無漏諸禪三昧。戒為郭者,郭謂外城。三入眾者,即屬戒學;謂羯磨說戒二種僧中,具戒清淨方可預故。下二句結勸。
小乗の論書の中で、『成実論』には三つの譬えがあります。柱の譬えは依り持つこと、城壁の譬えは防ぎ守ること、印の譬えは人に信じられることを表します。
最初に「道品」と言うのは、すなわち慧学のことです。次第に深まり、それに応じて見えてくるものがあるので、楼閣のようなもの、つまり三十七品です。四念処(一に身は不浄、二に受は苦、三に心は無常、四に法は無我。四つの倒見を破るのが念処です。)、四正勤(一にすでに生じた悪を断たせる、二にまだ生じていない悪を生じさせない、三にまだ生じていない善を生じさせる、四にすでに生じた善を増長させる。正道の中で勤め行うからです。)、四如意足(一に欲、二に精進、三に心、四に思惟。願うことがすべて叶うので、如意といいます。)、五根(一に信、二に精進、三に念、四に定、五に慧。いずれも生じさせる力を持つので、根といいます。)、五力(上の五根と同じです。有漏の不善を壊すことができるという点で力といいます。)、七覚分(一に択法、二に精進、三に喜、四に除、五に捨、六に定、七に念。無学の真実の覚りに、この七つの事柄によって到達できるので、覚分といいます。)、八正道(一に見、二に思惟、三に語、四に業、五に命、六に精進、七に念、八に定。八つすべてが邪を離れて正しく、涅槃に通じることができるので道といいます。)。
二つ目の禅定は、定学であることを示しています。定は心を防ぎ、妄動を抑えるので、城に譬えられます。これは『遺教経』の堤防の譬えと同じで、四禅・四空定およびその他の無漏の諸禅三昧を指します。
戒が城壁であるというのは、城壁とは外郭のことです。三つ目の「衆に入る」とは、すなわち戒学に属します。羯磨と説戒の二種の僧伽の中に、具足戒を清浄に保っている者だけが参加できるからです。
下の二句は結びと勧めです。
《解脫論》,第二〈分別戒品〉。指令尋之,今為略引。彼云:若人有戒。為有戒故,成就無畏;榮顯親友,聖所憐愍,是親友依,是善莊嚴,是領諸行,是功德處,是供養處,是可責同學處,於諸善法不畏不退,成就一切意願清淨,雖死不忘,成伏解脫樂方便,如是無邊戒功德。
『解脱論』、第二「戒律の分別について」。指示に従い探し求め、今ここに簡潔に引用する。それにはこうある:もし人が戒律を持つならば。戒律を持つがゆえに、無畏を成就する。栄え輝き、親しい友となり、聖者たちから憐れみを受ける。それは親しい友のよりどころであり、善き飾りであり、すべての行いを導くものであり、功徳の集まる場所であり、供養を受けるに値する場所であり、共に学ぶべき模範となる場所である。すべての善い法に対して恐れず退かず、一切の願いを清浄に成就する。たとえ死んでも忘れず、解脱の楽しみを得るための手段を成し遂げる。このように、戒律の功徳は限りない。
《毘婆沙論》,初中。初句牒所受,下列四義。尸羅,梵言,此翻為戒。今以梵語,猶含多義,故反釋之。
『毘婆沙論』の冒頭部分です。最初の文で受け取った内容を掲げ、その下に四つの意味を列挙しています。「尸羅」はサンスクリット語で、ここでは「戒」と訳されます。今、サンスクリット語を用いるのは、まだ多くの意味を含んでいるため、逆に解釈しているのです。
次科,初明尸羅。義含九種,故須皆以尸羅二字貫之。冷、池、纓、鏡、頭,此五從喻;夢、習、定、勢,此四從法。又第四明生定,鏡頭喻發慧,餘六當體是戒。又六中,初明體,二是所感,三即牽行,池謂滅惑,纓謂德彰,勢謂功勝。破戒熱是因中結業,三惡熱是果上受苦。纓絡者,論明世纓老少中年有好不好,戒纓則常好。如鏡者,鏡明則像現;戒淨,無我理顯。無我字,祖師加之。威勢中,初舉聖以明。如來德懾魔軍,威伏外道;若親在眾,破僧不成;強狠眾生,見即歸命。餘下,引事以證。論云:罽賓國有龍名阿利那,受性暴惡;住處近僧伽藍,數為暴害。時有五百羅漢共集,以禪定神力而不能遣;後有一人不入禪定,直彈指語言:賢善遠此處去,龍即遠去。諸羅漢問之。彼云:我不以禪定力,直以謹慎於戒;守護輕戒,猶如重禁。文中但以下,即引彼答,但束其詞耳。如頭者,頭則具納六塵,戒則總收眾善,故以喻焉。論中備對六塵,今舉初後,略其中間,故云乃至。今引足之,謂聞名身等義,嗅覺意華(即七覺支),甞出離無事寂靜三菩提味(三菩提翻正覺),覺禪定解脫等觸。苦是三界果相,故如色也。色陰等者,即餘四陰,論云:知總相別相。(總即心色。五陰則色總心別,十二入則心總色別,十八界心色俱別。)二守信者。以違本受,則為無信。三行,四器,二並從喻。
次に、戒について説明します。まず「尸羅」の意味ですが、九つの種類を含んでいるため、すべて「尸羅」という二字で貫かれています。「冷」「池」「纓」「鏡」「頭」の五つは喩えから、「夢」「習」「定」「勢」の四つは法から来ています。また、第四の「定」は禅定を生じさせることを明らかにし、「鏡」と「頭」の喩えは智慧を発揮することを表し、残りの六つはそのまま戒そのものです。さらに、この六つの中で、最初の「体」は戒の本質を明らかにし、二番目の「所感」は戒によって得られるものを示し、三番目の「牽行」は戒が行為を導くことを意味します。「池」は煩悩を滅ぼすこと、「纓」は徳が顕れること、「勢」は功徳が勝れていることを表します。戒を破る熱さは因の中での業を結ぶことであり、三悪道の熱さは果の上で苦しみを受けることです。「纓絡」については、世間の纓は老若男女によって良し悪しがありますが、戒の纓は常に良いものです。「鏡」のように、鏡が明るければ像が現れるように、戒が清らかであれば無我の理が明らかになります。「無我」という字は、祖師が加えたものです。「威勢」の中で、最初に聖者を挙げて説明しています。如来の徳は魔軍を威圧し、威光は外道を伏せます。もし如来が衆の中にいれば、僧伽を破壊することはできません。強情な衆生も、如来を見れば帰依します。以下は、事柄を引用して証明しています。論によれば、罽賓国に阿利那という名の龍がいて、性質が暴虐でした。住処は僧伽藍に近く、しばしば暴害を加えました。時に五百人の羅漢が集まり、禅定の神力を用いても追い払うことができませんでした。後に一人の者が禅定に入らず、ただ指を弾いて「賢善よ、ここから遠く去れ」と言うと、龍はすぐに遠く去りました。諸羅漢が彼に尋ねると、彼は「私は禅定の力ではなく、ただ戒を慎んで守り、軽い戒も重い禁戒のように守っただけです」と答えました。文中では、ただ以下を引用し、その言葉をまとめただけです。「頭」のように、頭は六塵をすべて受け入れ、戒はすべての善を総括するので、この喩えを用いています。論では六塵に対して詳しく述べていますが、ここでは最初と最後を挙げ、中間を省略しているので「乃至」と言っています。今、それを補足すると、名声や身体などの意味を聞き、覚りの華を嗅ぎ(すなわち七覚支)、離脱・無事・寂静の三菩提の味を味わい(三菩提は正覚と訳す)、禅定や解脱などの触れを覚えます。苦は三界の果の相であるので、色のようです。「色陰など」とは、残りの四陰を指し、論では「総相と別相を知る」とあります(総とは心と色。五陰では色が総で心が別、十二入では心が総で色が別、十八界では心と色がともに別)。二番目の「守信」は、本来の受戒に違反すれば無信となることを意味します。三番目の「行」と四番目の「器」は、ともに喩えから来ています。
覆釋中。瞿沙,《師資傳》云:五十二餘師之數,善能說法。彼以別義釋上尸羅,故論取之。如下,舉喻。行下,合法。即同戒本護戒足也。通前共為十義。
覆釈の中で。瞿沙は、『師資伝』に言う:五十二の余師の数、よく法を説くことができる。彼は別の意味で上の尸羅を釈し、故に論はこれを取る。下の如く、譬えを挙げる。行の下、法に合す。即ち戒本の戒足を護るに同じ。前に通じて共に十義と為す。
大乘經,《華嚴》有多譯。今引晉譯六十卷者。即第八〈明法品〉文,文有四段。彼云:菩薩摩訶薩教化眾生發菩提心,是故能令佛寶不斷。開示甚深諸妙法藏,是故能令法寶不斷。具足受持威儀教法,是故能令僧寶不斷。(此初段也。)復次,悉能讚歎一切大願,是故能令佛寶不斷。分別解說十二緣起,是故能令法寶不斷;行六和敬,是故能令僧寶不斷。(即第二段。)復次,下佛種子於眾生田,生正覺芽,是故能令佛寶不斷。不惜身命護持正法,是故能令法寶不斷。善御大眾,心不憂悔,是故能令僧寶不斷。(即第三段。)今鈔上五句竝摘僧寶中文。初二句明別行,次句即眾行,後二句明攝眾。行必依法,故無憂悔。去來已下,即第四段總結中文。三世佛法奉順無違,則護三寶故。
大乗経典である『華厳経』には、いくつかの翻訳があります。ここでは、晋代に訳された六十巻本を引用します。それは第八の「明法品」の文章で、四つの段落からなっています。
そこにはこう説かれています。 菩薩摩訶薩は衆生を教化して菩提心を発起させ、それゆえに仏宝が絶えることがないようにする。深遠な妙なる法蔵を開示し、それゆえに法宝が絶えることがないようにする。威儀と教法を具足して受け持ち、それゆえに僧宝が絶えることがないようにする。(これが最初の段落です。)
さらに、すべての大願をことごとく讃嘆することができ、それゆえに仏宝が絶えることがないようにする。十二縁起を分別して解き明かし、それゆえに法宝が絶えることがないようにする。六和敬の行を実践し、それゆえに僧宝が絶えることがないようにする。(これが第二の段落です。)
さらに、衆生の田に仏の種子を下し、正覚の芽を生じさせ、それゆえに仏宝が絶えることがないようにする。身命を惜しまずに正法を護持し、それゆえに法宝が絶えることがないようにする。大衆を善く統御し、心に憂い悔いがなく、それゆえに僧宝が絶えることがないようにする。(これが第三の段落です。)
今、この『鈔』では上の五つの句を引用し、僧宝に関する文章から抜き出しています。初めの二句は別行を明らかにし、次の句は衆行を明らかにし、後の二句は衆生を摂取することを明らかにしています。行いは必ず法に依るので、憂い悔いはありません。「去来已下」以下は、第四の段落の総括の文章です。三世の仏法に奉順して違背せず、それゆえに三宝を護持するのです。
《大集》,引彼十九〈護法品〉文。初引菩薩請詞。五滓,阻史反,濁也。言五濁者,一劫濁(劫濁無別體,但四濁聚於此時,《悲華》云:從減劫人壽二萬歲時為劫濁三。),二見濁(五利使),三煩惱濁(五鈍使),四眾生濁(亦無別體,攪前利鈍果報,立此假名。),五命濁(連持色心,摧年促壽。)。如餘土者,引他為例以申請意。佛言止止!佛自知時;因緣未出,則不預制;由不即制,故云後許。
『大集経』は、その中の第十九「護法品」の文を引用している。まず菩薩の請願の言葉を引く。「五滓」は、阻史の反切で、濁りの意。五濁というのは、一に劫濁(注:劫濁には別の実体はなく、ただ四つの濁りがこの時に集まること。『悲華経』には、減劫に入り人の寿命が二万歳の時を劫濁の始まりとするとある)、二に見濁(注:五つの利使)、三に煩悩濁(注:五つの鈍使)、四に衆生濁(注:これも別の実体はなく、前の利使と鈍使の果報をかき集めて立てられた仮の名)、五に命濁(注:色と心を連ね持ち、年を奪い寿命を縮めること)である。「如餘土者」は、他の国土を例に引いて請願の意を明らかにする。仏は言われた、「止めよ、止めよ。仏は自ら時を知っている。因縁が熟していなければ、予め制することはない」。直ちに制しなかったので、後に許すと言われたのである。
薩遮尼犍,即外道名,以為經題。廣如第二,今略引之。彼明佛在欝闍延城。時有大薩遮尼犍子,與八十八千萬尼犍子遊行諸國,教化眾生(此竝大權示化),次至欝闍城。時國主嚴熾王問尼犍子:如來相好莊嚴之身,以何為本?從何為始?尼揵答言:一切功德助道之行,舉要言之,以戒為本,持戒為始。續云:若不持戒等,如鈔所引。破戒墮獄。畜是別報,故云不得。又畜為下趣,而復疥癩,猶故不得。欲明毀戒尚無劣報,以勵持者必加勝功。(野干,應法師云:形色青黃如狗,群行夜鳴如狼。)
サッチャ・ニガンタとは、外道の名であり、これをもって経典の題名としている。詳細は第二巻に述べられているが、ここでは簡略に引用する。それによれば、仏がウッジャヤニー城におられた時のことである。大サッチャ・ニガンタ子が、八十八千万のニガンタ子たちと共に諸国を巡り、衆生を教化していた(これらはすべて大いなる権現による示現である)。次にウッジャヤニー城に至った時、国王の厳熾王がニガンタ子に尋ねた。「如来の相好荘厳なる御身は、何を根本とし、何から始まるのでしょうか」。ニガンタ子は答えて言った。「一切の功徳と助道の行いを、要約して言えば、戒を根本とし、戒を持つことから始まります」。続けて、「もし戒を持たなければ」などと、写本に引用されている通りである。戒を破れば地獄に堕ちる。畜生は別の報いであるから、「得られない」と言う。また畜生は下等な趣であり、さらに疥癬に冒されているので、やはり得られない。戒を毀れば劣った報いさえ得られないことを明らかにし、戒を持つ者を励まして必ず優れた功徳を加えんとするのである。(野干について、応法師は言う:形と色は青黄色で狗のようであり、群れをなして夜に鳴く、狼のようである。)
《月燈經》中偈文,彼經不出,未詳所以。上半偈明俗貴道賤。色謂儀貌,族即貴姓。多聞謂足學。無戒即無智;畜無此二,故舉比之。下半明俗輕道重,反上二句。卑謂形陋,下即賤姓。人中尊貴,故名勝士。以色族是世俗妄法,戒智乃出世真道,故非比倫。
『月燈経』の偈文について、この経典には出てこないため、詳しい理由は分かりません。前半の偈は、世俗の貴さと仏道の軽んじられる様を説いています。「色」とは容姿のことであり、「族」とは高貴な家柄を指します。「多聞」とは学識豊かなことです。戒律がなければ智慧もない。家畜にはこの二つがないので、それに例えています。後半の偈は、世俗の軽さと仏道の尊さを説き、前半の二句と反対の意味を持ちます。「卑」とは姿形の醜さ、「下」とは卑しい家柄を指します。人々の中で最も尊いので、勝れた人と呼ばれます。容姿や家柄は世俗の妄執に過ぎず、戒律と智慧こそが世を超えた真実の道であるため、比べるものではないのです。
《涅槃經》有南北二本,此引北本第十七〈梵行品〉文。今但括意,文少不等。初二句舉因果索機;必下,示修證之法。若下,出其違行;我亦下,遮其受經。所以然者。經明眾生佛性,如雜血乳;停搆煎煖,乃出醍醐。佛性亦爾,為煩惱雜;三學修治,漸至佛果。欲斷煩惱,先須止業。止業之要,豈過戒律。今時濫染大乘,便言不拘不檢,無持無犯,何善何罪。師徒傳妄,作惡無窮。又云:持戒人天果報。請詳佛語,宜息邪情。況《華嚴》圓頓上乘,《涅槃》終窮極唱;金言猛勵,可不信乎!
『涅槃経』には南北二つの版本があり、ここでは北本の第十七「梵行品」の文を引用しています。今は大意をまとめるだけで、原文とは多少異なります。最初の二句は因果と機根を示し、「必」以下は修行と証得の方法を示しています。「若」以下はその行いに背くことを述べ、「我亦」以下はその経を受けることを遮っています。その理由は、経典が明らかにしているように、衆生の仏性は血と乳が混ざったようなものであり、攪拌し煎じることで初めて醍醐味が現れるからです。仏性も同様に煩悩に混ざっており、戒・定・慧の三学で修治し、次第に仏果に至るのです。煩悩を断つには、まず業を止める必要があります。業を止める要諦は、戒律に勝るものはありません。今の時代、大乗を濫用して、拘束も検束もなく、持戒も犯戒もなく、何が善で何が罪かと軽んじる風潮があります。師弟が誤りを伝え、悪をなすことは限りありません。また、持戒は人天の果報に過ぎないと言う者もいます。どうか仏の言葉を詳しく見つめ、邪な思いを静めてください。ましてや『華厳経』は円頓の上乗であり、『涅槃経』は究極の教えです。仏の言葉は厳しく励ましています。どうして信じないことがありましょうか。
《華嚴》偈,上句示功。無上菩提者,以果彰因也。次句勸修。下半偈明聖所歎。以順教故。故下,祖師示意。望前已引,故言重也。
『華厳経』の偈において、上の句は功徳を示しています。「無上菩提」とは、果によって因を明らかにするものです。次の句は修行を勧めています。下の半偈は聖者が称賛されることを明らかにしています。それは教えに従うからです。故に下に、祖師が意味を示されています。前にすでに引用したことを踏まえ、重ねて言われたのです。
大乘論,《智論》釋《般若經》,具云《大智度論》。今引第十四。文為五段,初二句舉果總勸。大利如上二經。一切下,二敘功勸。諸德根及下善法處,同前大地喻也。出家要者,同前《華嚴》文也。如下,舉世二物,喻令護惜。又下,三約無戒損失勸,上舉三喻。若下,法合。好果語通五乘,對前大利,須指佛果。若棄下,四舉無益苦行勸。文列諸外道法。袈裟語通,或即外道服,或可外道僣著袈裟;如販賣戒,外道與跋難陀袈裟相易,為戒緣起。或可通名不受佛戒之人,不專外道。人雖下,五約現報勸,初明生前報。上二句標持人。香聞下三句,即戒本中名譽樂;香喻美德外揚,為他所聞。所願一句,即利養樂。此謂戒德所感,非求而得之。持戒下,次明臨終報。準《俱舍》中,人命終時,三大次解;火大解時,令心躁悶,翻睛吐沫;水大解時,形體洪腫,筋脈爛壞。(此相必受惡報。)風大解時,瞥爾命終,不知不覺;地大堅重,不能解也。(生時由此三大,支節連持。此三既散,支節即死。故云解也。)今取最後,故舉風大;能解支節,故喻如刀。(或云風輕利故,或云楚痛如刀傷故。)心不怖者,淨業熏習,正念現前;毀戒惡露,懷憂心怖。
大乗論の『智論』は『般若経』を解釈し、正式名称は『大智度論』です。ここでは第十四巻を引用します。文章は五つの段落に分かれ、最初の二句は結果を示して全体を勧めています。大きな利益は先の二経典に述べられた通りです。
「一切」以下は、功徳を述べて勧める第二段落です。諸々の善根やそれ以下の善法の境地は、先の大地の喩えと同じです。出家の要諦は、先の『華厳経』の文と同じです。
「如下」では、世の中の二つの物を挙げて、大切に守るよう喩えています。「又下」の第三段落は、戒律がないことによる損失を説いて勧め、上に三つの喩えを挙げています。「若下」は、法を合わせて説明します。良い果報という言葉は五乗に通じますが、先の大きな利益に対しては、仏果を指す必要があります。
「若棄下」の第四段落は、無益な苦行を捨てるよう勧めています。文には諸々の外道の法が列挙されています。袈裟という言葉は広く通用し、あるいは外道の衣服を指し、あるいは外道が勝手に袈裟を着用することを意味します。例えば、戒律を売買するような外道が跋難陀と袈裟を交換したことが、戒律の縁起となりました。あるいは、広く仏の戒律を受けない人々を指し、外道に限りません。
「人雖下」の第五段落は、現世の報いについて勧め、初めに生前の報いを明らかにします。上の二句は戒律を保つ人を示します。「香聞下」の三句は、戒律の根本にある名誉の楽しみです。香りは美徳が外に広がる喩えで、他者に知られることを意味します。「所願」の一句は、利養の楽しみです。これは戒徳によって感得されるもので、求めずして得られるものではありません。
「持戒下」は次に臨終の報いを明らかにします。『倶舎論』によれば、人が命を終える時、三大が次第に解けます。火大が解ける時、心を焦燥させ悶えさせ、目を反らせ泡を吐きます。水大が解ける時、体は大きく腫れ上がり、筋脈は爛れ崩れます。(この相は必ず悪報を受けることを示します。)風大が解ける時、一瞬にして命が終わり、何も知らず気づきません。地大は堅く重いため、解けることはありません。(生きている時はこの三大によって、関節がつながり保たれています。この三つが散じれば、関節は死に至ります。故に「解ける」と言うのです。)ここでは最後のものを取り上げ、風大を挙げています。関節を解くことができるため、刀に喩えています。(あるいは風が軽く鋭いため、あるいは痛みが刀で傷つけられたようであるためと言われます。)心が恐れないのは、清らかな業の薫習によって正念が現前するからです。戒律を破り悪露を抱えれば、憂いを抱え心は恐れるのです。
《地持》三十二相者,一、足下平如匳底(持戒不動,施心不移,安住實語,如須彌山。),二、足下千輻輪相(於父母所、和上師長、乃至畜生,以如法財供養供給。),三、手指纖長,四、足跟長,五、身方直(不殺不盜,於父母師長常生歡喜。),六、網縵指如白鵝王(修四攝法攝取眾生),七、手足軟(父母師長病苦時,自手洗拭捉持按摩。),八、節踝𦟛滿,九、身毛上靡(持戒間法,惠施無厭。),十、鹿王腨(專心聽法,演說正教。),十一、身圓滿如尼拘陀樹,十二、立手過膝,十三、頂有肉髻,十四、無見頂(於諸眾生不生害心,飲食知足,常樂惠施,瞻病給藥。),十五、陰藏相(見怖畏者,為作救護;見裸跣者,施與衣服,有云馬陰藏相。),十六、皮膚細軟,十七、身毛右旋(親近智者,遠離愚人,善喜問答,掃治行路。),十八、身金色,十九、常光明曜(常以衣服飲食臥具醫藥,香花燈明施人。),二十、七處滿(行施之時所珍之物,能捨不悋,不觀福田及非福田,肩臂脚各二,及頸為七。),二十一、柔軟聲(布施之時,心不生疑。),二十二、缺骨充滿,二十三、師子上身,二十四、臂𦟛纖(如法求財,以用布施,上身謂胸臆,有作師子臆是也。),二十五、四十齒白淨齊密(遠離兩舌、惡口、恚心),二十六、四牙相(於諸眾生修大慈悲),二十七、師子頰(有來求者,隨意給與。),二十八、味中上味(隨諸眾生所須之食,悉皆與之。),二十九、廣長舌(自修十善,兼化他人。),三十、梵音聲(不訟彼短,不謗正法。),三十一、目𥇒紺色(見諸怨憎生於喜心),三十二、白毫相(不隱他德,稱揚其善。)。然諸經論名數不同,如上且依《涅槃》具出。智者云:三十二相,因雖各各。論其真因,持戒精進。精進無戒,尚不得人天,況餘相耶!故知因者,須分通別;若論別因,如上所配。若論通因,皆由持戒;今從通意以彰戒德,故云無差別也。上三句推果本因。若下,舉劣況勝。以不持戒必墜三塗,所以不得人中賤報。
『地持経』に説かれる三十二相とは、次のとおりです。
一、足の裏が平らで箱の底のようであること(戒律を守って動じず、施しの心を変えず、真実の言葉に安住し、須弥山のように堅固であること。)。 二、足の裏に千本の輻(や)を持つ車輪の文様があること(父母や師匠、師長に対して、さらには畜生に至るまで、正しい方法で得た財物をもって供養し、必要なものを与えること。)。 三、指が細長いこと。 四、かかとが長いこと。 五、体がまっすぐで端正であること(殺生せず、盗みをせず、父母や師長に対して常に喜びの心を持つこと。)。 六、指の間に水かきのような膜があり、白鳥の王のように美しいこと(四摂法(布施・愛語・利行・同事)を修め、衆生を導き取ること。)。 七、手足が柔らかいこと(父母や師長が病気や苦しみにあるとき、自らの手で洗い清め、支え、マッサージをすること。)。 八、手足の関節がしまり、丸みを帯びていること。 九、体毛が上向きになびいていること(戒律を守り、教えを聞き、惜しみなく施しをすること。)。 十、鹿の王のようにふくらはぎが美しいこと(一心に教えを聞き、正しい法を説き広めること。)。 十一、体が丸みを帯び、ニグロダの木のように均整がとれていること。 十二、立ったときに手が膝を越えるほど長いこと。 十三、頭頂に肉髻(にっけい)があること。 十四、頭頂が高く、見上げても頂上が見えないこと(あらゆる衆生に対して害心を起こさず、飲食は足ることを知り、常に喜んで施しをし、病人を見ては薬を与えること。)。 十五、陰部が隠れている相(馬陰蔵相ともいう)(恐れおののく者を見れば救護し、裸足で歩む者を見れば衣服を施すこと。)。 十六、皮膚が細かく柔らかいこと。 十七、体毛が右巻きに生えていること(智者に親しみ、愚者から遠ざかり、喜んで問答し、道路を掃除し整えること。)。 十八、身体が黄金色をしていること。 十九、常に光明を放ち輝いていること(常に衣服・飲食・臥具・医薬・香・花・灯明などを人に施すこと。)。 二十、七つの部位(両肩・両腕・両足・首)が豊かに満ちていること(施しを行うとき、大切なものでも惜しむことなく捨て、福田か非福田かを区別しないこと。)。 二十一、声が柔らかく優しいこと(布施を行うとき、心に疑いを生じないこと。)。 二十二、鎖骨のくぼみがなく、満ちていること。 二十三、上半身が獅子のようにたくましいこと。 二十四、腕がしまっていて細く美しいこと(正しい方法で財を求め、それをもって布施に用いること。上半身とは胸のあたりを指し、獅子臆ともいう。)。 二十五、四十本の歯が白く清らかで、整然と並んでいること(両舌(二枚舌)、悪口、怒りの心を遠離すること。)。 二十六、四本の牙(犬歯)が際立っている相(あらゆる衆生に対して大いなる慈悲を修めること。)。 二十七、頬が獅子のように引き締まっていること(求めて来る者があれば、その望むままに与えること。)。 二十八、味覚が最も優れていること(諸々の衆生が必要とする食べ物を、すべて与えること。)。 二十九、舌が広く長いこと(自ら十善を修め、また他人をも教化すること。)。 三十、声が梵天のように清らかであること(他人の短所を言い立てず、正しい法を誹謗しないこと。)。 三十一、瞳が紺青色であること(怨み憎むべき者を見ても、喜びの心を生じること。)。 三十二、眉間に白毫(びゃくごう)があること(他人の徳を隠さず、その善行を称揚すること。)。
しかし、諸々の経論によってその名称や数は異なります。上記は、『涅槃経』に基づいて一通り挙げたものです。智者はこう言われます。「三十二相の原因はそれぞれ異なりますが、その真の原因を論じれば、戒律を守り、精進することにあります。精進があっても戒律がなければ、人天の果報さえ得られず、ましてやその他の相など得られるはずがありません。」 ですから、その原因については、通因と別因とを分けて考える必要があります。別因について論じるならば、上記のようにそれぞれの相に対応しています。通因について論じるならば、すべては戒律を守ることによるのです。ここでは通因の意味に従って戒の徳を明らかにしているので、「差別がない」と言うのです。上の三句は、果報の根本原因を推し量っています。「若し」以下は、劣ったものを挙げて優れたものを推し量っています。戒律を守らなければ必ず三悪道に堕ちるので、人間の中での卑しい報いさえ得られないのです。
《十住婆沙》。以文廣故,指而不引,今趣撮之。彼〈讚戒品〉云:菩薩如是淨持尸羅,能攝種種功德。又云:是出家人第一所喜樂處,成就諸出家者一切大利等。〈戒報品〉云:菩薩行深般若波羅蜜(尸羅清淨),若未離欲,作四天下轉輪聖王;得千輻金輪,種種珍寶莊嚴其輞,琉璃為轂,周圓十五里;百種夜叉神所共持護云云。問:如上所引,為歎菩薩戒?為聲聞戒?答:須分二意。若據通論,小不兼大,大必攝小;如《涅槃》、《大集》等。若約別論,互不相攝;今所引者,借大歎小,如《華嚴》、《十住》也。
『十住婆沙論』は、その文章が広範であるため、指摘するだけで引用はせず、ここでは要点をまとめる。その中の〈戒を讃える品〉には、菩薩がこのように清らかに戒律を守ることで、さまざまな功徳を集めることができるとある。また、出家者が最も喜び楽しむところであり、出家者としてのすべての大きな利益を成就するとも述べられている。〈戒の果報の品〉には、菩薩が深遠な般若波羅蜜を行じ、戒律が清浄であるならば、もし欲を離れていなくても、四天下の転輪聖王となり、千の輻を持つ金の輪宝を得て、さまざまな珍宝でその輪縁を飾り、瑠璃を轂とし、周囲十五里に及び、百種類の夜叉神が共に守護するとある。
問:上に引用したものは、菩薩の戒を称えるものか、それとも声聞の戒を称えるものか。
答:二つの意味に分けて考える必要がある。一般的に論じるならば、小乗は大乗を含まず、大乗は必ず小乗を含む。例えば『涅槃経』や『大集経』などがそうである。別々に論じるならば、互いに包含し合うことはない。今引用したものは、大乗を借りて小乗を称えるものであり、例えば『華厳経』や『十住経』などがそうである。
制教中。觀下諸文所歎持戒,大約有三:一者住法,二者自利利他,三者生善滅惡。用此三意尋之可知。
戒律の教えの中で、以下の諸文が称える戒律を保つことの意義は、おおよそ三つに分けられます。一つは法に安住すること、二つは自利利他を実践すること、三つは善を生み悪を滅することです。この三つの意味を手がかりに探れば、その真意が理解できるでしょう。
《僧祇》五意。初二即住法。建立即現在。久住通未來。三五是自益。四是益他。篤,厚也。
『僧祇』には五つの意味がある。最初の二つは「法に住する」こと。建立は現在を指し、久住は未来に通じる。第三と第五は自らを益すること、第四は他を益することである。篤とは、厚いという意味である。
《四分》中,初引持戒五德。上三屬自,第四即他。又一三是生善,二四即滅惡,第五可知。勝諸怨者,即四魔怨,五陰、煩惱、死及天也。又下,引制戒十利。如來隨結一戒,皆云有十種利,今舉初利。二令僧歡喜;三令僧安樂(《戒疏》云:此三明戒生眾功德。);四未信令信;五已信令增長;六難調者令調順;七慚愧者得安樂;八斷現在有漏;九斷未來有漏(此六生別人德,上二生善,下四滅惡。);十令正法久住(此一興建正法行)。
『四分律』の中で、まずは戒律を守ることの五つの徳を引用しています。最初の三つは自分自身に関わり、第四は他者に向けられます。また、一つ目と三つ目は善を生み出すこと、二つ目と四つ目は悪を滅することであり、五つ目は自ずと理解できます。諸々の怨敵に勝つとは、すなわち四つの魔の怨敵、五陰・煩悩・死・天魔のことです。
さらに続けて、戒律を制定する十の利益を引用しています。如来は一つ一つの戒を結ぶ際に、必ず十種の利益があると説かれましたが、ここでは最初の利益を挙げています。二つ目は僧伽を喜ばせること、三つ目は僧伽を安楽にすること(『戒疏』には、この三つは戒律が衆生の功徳を生み出すことを明かしているとあります。)、四つ目は未だ信じない者に信じさせ、五つ目は既に信じている者の信心を増長させ、六つ目は調伏し難い者を調伏させ、七つ目は慚愧ある者に安楽を得させ、八つ目は現在の有漏を断ち、九つ目は未来の有漏を断つこと(この六つは個人の徳を生み出し、上の二つは善を生み、下の四つは悪を滅ぼします。)、十つ目は正法を久しく住らせることです(この一つは正法の行いを興し建てることです)。
《十誦》。彼明波離別申三問,初問過去佛法,次問未來,三問今佛,竝問幾時住世。佛一一別答如文。但今總示,故云乃至等。
『十誦律』において、彼、明波離は三つの質問を別々に申し上げました。最初の質問は過去の仏法について、次の質問は未来について、三つ目の質問は現在の仏についてであり、さらに仏が世に住まれる期間についても尋ねました。仏は一つひとつ別々にお答えになりましたが、それは経文の通りです。しかし、ここでは総括して示しているため、「乃至」などと記されているのです。
《了論》解中,初定名。有下,顯益。二中。言清淨者,離染濁故。言正直者,離邪諂故。四中。始從在家,次第引至五種住處。乃至者,略天住(欲界六天)、梵住(色無色天)、聖住(三乘學人)、無餘涅槃(三乘究竟)。五中,初約三乘第論其勝。若下,明凡夫中勝。自非負識高達之士,不肖下流,豈能奉律耶!文中其中此事,皆指毘尼。
『了論』の解説において、最初にその名称を定める。以下に、利益を明らかにする。二つの中に。清浄と言うのは、染みや濁りを離れているからである。正直と言うのは、邪や諂いを離れているからである。四つの中に。まず在家から始めて、次第に五種の住処へと導く。乃至というのは、略して天住(欲界の六天)、梵住(色界・無色界の天)、聖住(三乗の学人)、無余涅槃(三乗の究竟)を指す。五つの中に、初めは三乗の次第に基づいてその優れた点を論じる。もし以下は、凡夫の中での優れた点を明らかにする。自ら識見が高く達観した士でなければ、下流を恥じない者は、どうして律を奉じることができようか。文中のこの事は、すべて毘尼を指している。
《婆論》。三藏對論以彰律勝。二中,一切佛弟子者,通該七眾。一切眾生,且指三善道。第四纓絡,即喻住持。
『婆論』。三蔵の対論によって律の優位を明らかにする。そのうち、一切の仏弟子とは、七衆すべてを含む。一切の衆生は、とりあえず三善道を指す。第四の纓絡は、住持をたとえるものである。
《善見》五法,言相交涉。初遵稟教法,二淨僧成眾,三傳受不絕,四行業清淨,五住持久永。所以唯據五人者,能辦受戒等眾法故。所以約五千年者,論問千年已,佛法為都滅耶?答:不都滅。於千年中得三達智(通達三世);復千年中,得愛盡羅漢,無三達智;復千年中,得阿那含;復千年中,得斯陀含;復千年中,得須陀洹,學法五千歲得道;後五千年,學而不得道。萬歲後經書文字滅盡,但現剃頭有袈裟而已。
『善見律』に説かれる五つの法は、互いに関わり合っています。第一は、教えに従って教法を守ること。第二は、清らかな僧侶が集まり僧伽を成すこと。第三は、伝授が絶えることなく続くこと。第四は、修行と行いが清浄であること。第五は、教えが長く持続することです。
なぜ五人だけを基準とするかというと、五人いれば具足戒の授与などの僧伽の法事を執り行うことができるからです。
また、なぜ五千年という期間を定めるかというと、論に問うて「千年が過ぎれば、仏法は完全に滅びるのか」とあります。答えは「完全には滅びない」です。最初の千年の間には、三世を通達する三達智を得る者がいます。次の千年の間には、煩悩を尽くした阿羅漢はいますが、三達智を得る者はおりません。さらに次の千年の間には、阿那含を得る者がいます。その次の千年の間には、斯陀含を得る者がいます。最後の千年の間には、須陀洹を得る者がいます。すなわち、五千年の間は学んで悟りを得ることができるのです。その後五千年は、学んでも悟りを得ることはできません。一万年が過ぎると、経典や文字は滅び尽き、剃髪し袈裟をまとう形だけが残るのです。
《五百問》,初敘阿難懷憂。乃至者,略阿難答云世間無師。佛言下,答有三段,竝指戒即是佛。所以然者,佛有生法二身。法身復二,一理法身,即所證理顯;二事法身,即五分德圓。生身有生滅,此二法身,即是常住。故馬鳴釋於我滅後珍敬木叉云:示現不盡滅,法身常住世間,作究竟度故。是知佛本無身,全是積劫修成功德之聚;還以己德開示群生,故名為戒;當知此戒即是如來,故云若我在世無異此也。苟迷此旨,佛語何通?後學至此,宜切注意。初示親臨。法實不來,高座演說,有同來故。又言下,二顯同體,初正示。文中敬念持護,竝同於佛。如下,喻顯。飲水殺蟲者,合上任運兩得之意。智者勿責喻。又如下,三明面對。良以一聞淨戒,體用高深,即是如來不漏果德,故云見也。
『五百問』の冒頭では、阿難の憂いを描いています。つまり、阿難が「世の中に師はいない」と答えるところまでを簡略に示しています。仏の言葉からは、答えが三つの段階に分かれており、いずれも戒こそが仏であることを指し示しています。
なぜそう言えるのでしょうか。仏には生身と法身の二つの身体があります。法身はさらに二つに分けられます。一つは理法身、つまり悟りの真理が顕現したものです。もう一つは事法身、つまり五つの功徳が円満に備わったものです。生身には生滅がありますが、この二つの法身は常住不変です。
そのため、馬鳴菩薩は「我が滅後に木叉(戒)を珍重し敬え」と釈した際に、「仏は完全には滅せず、法身として常住し、世の中で究極の救済を行うためである」と示しています。これにより、仏には本来、身体などなく、すべては長い修行によって積み重ねられた功徳の集積であることがわかります。そして、自らの功徳をもって衆生を導くこと、それが戒と呼ばれるのです。この戒こそが如来そのものであると知るべきです。だから「私が在世しているのと同じことだ」と言われるのです。もしこの意味を見失えば、仏の言葉はどうして理解できるでしょうか。後の学び手たちは、ここをしっかりと心に留めておくべきです。
まず、仏が直接臨在していることを示します。法そのものは来ることはありませんが、高座で説法する姿は、あたかも仏が来たかのように見えるからです。
次に、同じ本体であることを示します。最初に正しく示します。文中の「敬念持護」は、すべて仏と同じです。以下の例えで明らかにします。「水を飲んで虫を殺す」という例えは、前の「任運に両得する」という意味に合致します。賢者は例えを責めてはなりません。
さらに以下の三つ目では、直接対面していることを明らかにします。清浄な戒を聞くことで、その本質と働きの高さ深さが理解でき、それは如来の漏れない功徳の果実に他ならないからです。だから「見る」と言われるのです。
次釋祕勝,《多論》中。又云者,對前文故。初句引問。與彼頗異,彼云契經阿毘曇不以佛在初,獨律誦以佛在初。(謂廣律戒本,竝初標世尊在某處等,經中先云如是我聞,故有是問。)今云初集,未詳聖意。以下是答,初句略答。勝謂高超餘藏,祕謂不使他聞。如下,比釋,上三句明餘藏非勝祕。不擇時處人者,彼云契經中諸弟子說法,有時釋提桓因說,佛言如是,有時化佛說。律下,彰律祕勝。唯佛說者,反上擇人也。彼云一切佛說故。在僧中者,反上擇時處也。彼云若屋中有事不得即結,必當出外。(即擇處也。)若白衣邊有事,必在眾結。(此明不對二眾,即擇時也。)故勝下合有祕字。(舊記妄解,不免委曲。)又下,引二論轉證。(上是小乘經論,下是大乘論。由轉證多論,故在此引。)功德論雙證勝祕。密即祕也。彼云:毘尼猶王者祕藏,非外官所司,故曰內藏。此戒律藏者亦爾。非沙彌清信士女所可聞見,故曰律藏。今但取意以三句括之。《莊嚴論》單證祕義。彼是偈文;若有智慧者,能堅持禁戒;愚劣不堪任,護持如是戒。(此明白衣根鈍,力所不堪,故不令聞。)
次に、秘勝を解釈する。『多論』の中に、また言うのは、前の文に対比するためである。最初の句は問いを引く。それとは少し異なり、彼は言う、経典やアビダルマは仏を最初に置かないが、律の誦出だけは仏を最初に置くと。今、初めに集めるというが、聖なる意図は詳らかでない。以下は答えで、最初の句は簡略に答える。勝とは、他の蔵より高く超えていることであり、秘とは、他の者に聞かせないことである。以下のように、比べて解釈する。上の三句は、他の蔵は勝でも秘でもないことを明かす。時・場所・人を選ばないとは、彼が言うには、経典の中では諸弟子が説法し、時に帝釈天が説き、仏が「その通りである」と言い、時に化仏が説く。律の下は、律の秘勝を明らかにする。ただ仏のみが説くとは、上の「人を選ぶ」ことと反対である。彼は言う、すべて仏が説くからである。僧の中にあるとは、上の「時・場所を選ぶ」ことと反対である。彼は言う、もし屋中に事があれば直ちに結集せず、必ず外に出る。もし白衣の側に事があれば、必ず大衆の中で結集する。故に勝の下には秘の字があるべきである。また下は、二つの論を引いてさらに証明する。『功徳論』は勝と秘の両方を証明する。密とは秘である。彼は言う、毘尼は王者の秘蔵のようであり、外の官が司るものではない、故に内蔵という。この戒律蔵もまた同様である。沙弥や清信士・女が聞き見るべきものではない、故に律蔵という。今はただ意を取って三句でまとめる。『荘厳論』は単に秘の義を証明する。彼は偈文である;もし智慧ある者は、よく禁戒を堅持し;愚かで劣る者は、任に堪えず、このような戒を護持することはできない。これは白衣が根が鈍く、力が及ばないため、聞かせないことを明かす。
違戒中。還約者,但望二教為言。然前唯各辨,此是雜明,則不同也。
戒律を犯した中で、さらに約束に反するものは、ただ二つの教えに対して言うものです。しかし、前の部分ではそれぞれを個別に説明しましたが、ここではそれらを混ぜて明らかにしているので、同じではありません。
《十誦》五滅法中。彼因長老難提白佛,正法滅後,像法時有幾非法?今但引佛答詞。初妄稱德故;二道俗反故;三乖道行故;四惡黨盛故;五善人弱故。此五滅法,竝因毀戒。云小得心者,心即是定,如五停四念也。此謂未證謂證,惑眾駭世。今時即佛,事亦同之。第二。《業疏》云:俗人無法,但專信奉,故得生天。出家有法,為世福田;乃反毀犯,妄受信施,開諸惡門,令多眾生習學放逸,故入獄也。又《阿難七夢經》中。夢出家人轉在不淨坑中,在家白衣登頭而出。佛告阿難,當來比丘嫉妬相殺,死入地獄;白衣精進,死生天上。三。如訖栗枳王夢一大象閉在室中,唯有小窓;象於室內出得大身,猶閡小尾。表釋迦弟子,捨世業出家,如擲身出;貪著名利,如閡小尾。四。如王夢眾多獼猴,以水灌一疥癩獼猴頂,立之為王。表佛弟子立破戒人為主。五中。乃至者,略凡夫持戒賢聖學人等。《法滅盡經》云:佛告阿難:吾涅槃後,五濁惡世,魔道興盛。魔作沙門,壞亂吾道。乃至菩薩辟支羅漢精進修德等眾,魔比丘咸共憎嫉,擯出,不令得住。(上竝《古記》所引,在文雖繁,甚資心行,故依錄之。況是今時目覩之事,知佛懸鑒,可自策勤。)
『十誦律』の五滅法の中で、長老の難提が仏に尋ねました。「正法が滅びた後、像法の時代には、いくつの非法が起こるでしょうか。」ここでは仏の答えの言葉だけを引用します。第一に、誤って徳を称えるため。第二に、出家者と在家者が反目するため。第三に、道の行いが乱れるため。第四に、悪の仲間が盛んになるため。第五に、善人が弱くなるため。この五つの滅法は、すべて戒律を破ることから生じます。「少し心を得る」というのは、心とは定のことで、五停心観や四念処のようなものです。これは、まだ悟りを証していないのに証したと称し、人々を惑わせ世を驚かせることを指します。今の時代にも、仏の教えに従う事柄も同じです。
第二に、『業疏』にはこうあります。「在家者には法がなく、ただ専ら信奉するだけなので、天に生まれることができる。出家者には法があり、世の福田となるべきである。それなのに、かえって戒を破り犯し、誤って信者の布施を受け、多くの悪の門を開き、多くの衆生が放逸を習い学ぶようにさせてしまうので、地獄に堕ちるのである。」また、『阿難七夢経』の中に、出家者が不浄の坑の中に転がり落ち、在家の白衣がその上に登って出て行く夢があります。仏は阿難に告げられました。「未来の比丘たちは嫉妬し合って殺し合い、死んで地獄に堕ちるであろう。在家の白衣は精進し、死んで天上に生まれるであろう。」
第三に、訖栗枳王が夢を見ました。一頭の大きな象が部屋に閉じ込められ、小さな窓だけがある。象は部屋の中から大きな体を出したが、小さな尾がまだ引っかかっている。これは釈迦の弟子たちが、世の業を捨てて出家することを表している。体を投げ出すようにして出るが、名利に執着するのは、小さな尾が引っかかっているようなものだ。
第四に、王が夢を見ました。多くの猿が一匹の疥癩の猿の頭に水を注ぎ、それを王として立てる。これは仏弟子たちが、破戒の人を主として立てることを表している。
第五の「乃至」というのは、凡夫の持戒、賢聖の学人などを省略しているのです。『法滅尽経』にはこうあります。仏が阿難に告げられました。「私が涅槃に入った後、五濁の悪世において、魔道が盛んになる。魔が沙門となって、私の道を壊し乱す。菩薩、辟支仏、阿羅漢など、精進して徳を修める者たちに対し、魔比丘たちは皆、憎み嫉み、追い出して、住まわせないであろう。」(以上はすべて『古記』に引用されているもので、文章は長いが、心の修行には大いに役立つので、ここに記録した。ましてや、これは今の時代に目の当たりにする事柄であり、仏が遠くから見通しておられたことを知り、自らを励み精進すべきである。)
五怖畏者,佛告波離文也。前四妄攝眷屬過,後一懈怠過。初云不修身戒心慧者,此句貫下讀之;一往以分,戒屬身口,慧是心觀。或可心即是定,備舉三學。此明自行既闕,必無利他故。三相,文中自列。溉水亦是損地。竝須淨語。既迷戒相,直使作之,是為滅法。
五つの怖れとは、仏が波離に説かれた教えです。前の四つは、誤って眷属を引き連れる過ちであり、後の一つは怠け心の過ちです。最初に「身・戒・心・慧を修めない」とありますが、この言葉は以下の文にも通じます。一応分けて言えば、戒は身と口に属し、慧は心の観察です。あるいは、心とは定(禅定)そのものであり、戒・定・慧の三学をすべて挙げているとも解釈できます。これは、自らの修行が欠けていれば、他を利することは必ずできないことを示しています。三つの相は、文中に自ずと列挙されています。水を注ぐこともまた地を損なう行為です。すべて清らかな言葉でなければなりません。戒の相に迷っているのに、ただやらせようとするのは、法を滅ぼすことになります。
《四分》。五種滅法,即〈增一〉文。學者深思,彌須弘護。初慢學誤他,二居上作惡,三能教慳法,四所教愚鈍,五彼此鬪諍。倣謂相效。持法即經,摩夷即論。
『四分律』。五種の滅法は、すなわち『増一阿含経』の文である。学ぶ者は深く考え、ますます広く護持すべきである。第一に、慢心して学び、他を誤らせる。第二に、上位に居ながら悪を行なう。第三に、教えることができながら法を惜しむ。第四に、教えられる者が愚鈍である。第五に、互いに争い諍う。倣うとは、互いに真似ることをいう。法を保つとは経を指し、摩夷とは論を指す。
《十誦》中。佛制比丘,五夏已前,專精律部。若達持犯,辨比丘事,然後乃可學習經論。今越次而學,行既失序,入道無由;大聖呵責,終非徒爾。又彼律云:佛見諸比丘不學毘尼,遂讚歎毘尼,面前讚歎波離持律第一。後諸上座長老比丘,從波離學律也。今時纔霑戒品,便乃聽教參禪。為僧行儀,一無所曉。況復輕陵戒檢,毀呰毘尼。貶學律為小乘,忽持戒為執相。於是荒迷塵俗,肆恣兇頑。嗜杯臠自謂通方,行婬怒言稱達道。未窮聖旨,錯解真乘。且戒必可輕,汝何登壇而受?律必可毀,汝何削髮染衣?是則輕戒全是自輕,毀律還成自毀。妄情易習,正道難聞。拔俗超群,萬中無一。請詳聖訓,能無從乎!
『十誦律』の中で、仏陀は比丘に対して、出家して五年以内は、ひたすら戒律の教えに専念するよう定められました。もし戒律の持守と違犯を理解し、比丘としての務めを弁えられるようになってから、初めて経典や論書を学ぶことができるとされています。ところが今、順序を飛び越えて学ぼうとするなら、修行の道筋は乱れ、悟りへの道も閉ざされてしまうでしょう。偉大な覚者はこれを厳しく戒められましたが、それは決して無意味なことではありません。
また、その律典にはこうあります。仏陀が比丘たちが毘奈耶(戒律)を学ばないのをご覧になり、毘奈耶を称賛され、目の前で波離尊者が戒律を第一に守る者であると讃えられました。その後、長老や上座の比丘たちは、波離尊者に戒律を学んだのです。
ところが今の時代は、わずかに戒を受けただけで、すぐに経典の教えを聞いたり、坐禅に参じたりしています。僧としての行儀作法については、何一つ知らないのです。ましてや戒律を軽んじ、毘奈耶を誹謗するなど、もってのほかです。戒律を学ぶことを小乗と貶め、戒律を守ることを形に執着すると軽視する。その結果、世俗の迷いに溺れ、凶暴で頑なな振る舞いをほしいままにしています。酒を嗜み肉を食らっても自分は道理に通じていると自称し、怒りや欲望のままに行動しても悟りの道に達したと言い張る。これは、聖なる教えの真意を究めず、真実の教えを誤って解しているのです。
もし戒律が軽んじてもよいものなら、なぜあなたは戒壇に登って戒を受けたのですか?もし律が破棄してもよいものなら、なぜあなたは髪を剃り袈裟を着たのですか?つまり、戒を軽んじることは自分自身を軽んじることであり、律を毀つことは自分自身を毀つことなのです。妄りの感情は染まりやすく、正しい道は聞き難い。俗世を抜け出し群を抜く者は
《雜含》,出第三十卷。初四句明自不學。彼文初下有始字,謂從初不學也。見下二句,明不喜他學。我下顯非,上句明佛不贊。謂縱有餘善,不可稱之。何下,示不贊之意。三塗幽暗,歷劫莫返,故云長夜。
『雑含』は第三十巻に出ています。最初の四句は、自分が学ばないことを明らかにしています。その文の初めには「始」の字があり、最初から学ばなかったことを意味します。次の二句を見ると、他人が学ぶことを喜ばないことを明らかにしています。「我」の下には非を顕わし、上の句は仏が称賛しないことを明らかにしています。たとえ他の善行があっても、称えることはできないという意味です。「何」の下には、称賛しない理由を示しています。三途は暗く、長い劫を経ても戻ることができないため、「長夜」と言います。
明衰惡中,《中含》。五衰,上四現相,下句生報。四中,上二明失利,由福薄故。三不敬者,由德尠故。四惡名者,由行穢故。耗,謂損減。
明らかに衰える悪の中には、『中含』に説かれている。五衰とは、上の四つは現世に現れる相であり、下の一句は来世に生じる報いである。四つの中、上の二つは利益を失うことを明らかにし、福が薄いことによる。三つめの不敬は、徳が少ないことによる。四つめの悪名は、行いが穢れていることによる。耗とは、損減することである。
《涅槃》,出第五〈如來性品〉。彼明或人作如是說,故斥之耳。八不淨名相,如畜寶中。如何下,是佛訶辭。以誣佛謗法,合得現報故。卷字上呼,謂曲轉也。下句指廣,彼云:若有說言,佛大慈故憐愍眾生,皆聽畜者;如是經律,悉是魔說。
『涅槃経』は、第五巻「如来性品」に出ている。そこには、ある人がこのように言ったと明記されており、それゆえにそれを退けている。八種の不浄物の名称と相(特徴)は、「畜宝」の章に詳しい。以下の「如何」以下は、仏がお叱りになった言葉である。仏を誣(し)い、法を謗(そし)る者は、現世での報いを受けるにふさわしいからである。「巻」の字は上に呼応し、曲がりくねって転じることを意味する。下の句は詳細を指し、そこにはこうある:もし、「仏は大慈悲ゆえに、衆生を憐れんで、すべての蓄えを許された」と言う者がいれば、そのような経や律は、すべて魔の説である。
《摩耶經》。彼因摩耶夫人問阿難法幾時滅?阿難次第明千五百年事,並從佛聞。彼云:始從結集,終至七百年龍樹出世,滅邪見幢,然正法炬。(非今正意,故鈔不引。)初二句八百歲事。奴下二句,九百歲事。不下一句,一千歲事。毀下,千一百歲事(又此年諸比丘如俗行媒嫁事)千二百歲中,比丘及尼作非梵行;若有子息,男為比丘,女為比丘尼(鈔略此年)。袈裟下,千三百歲事。(今時袈裟多從紫染,豈唯條白,法滅之驗矣。)貪下,千四百歲事。千五百歲,俱睒彌國三藏,與羅漢弟子互殺;惡魔外道,競破塔寺,殺害比丘;一切經藏,阿耨達龍王悉持入海,於是佛法滅盡。(此據拘睒彌一國為言。或有處說五千年,或正像各千年,末法萬年等;或六萬年七萬年等。並眾生業緣所見異耳。)
『摩耶経』において、摩耶夫人が阿難に「仏法はいつ滅びるのか」と尋ねられました。阿難は順を追って千五百年にわたる事柄を明らかにし、それはすべて仏から聞いたことでした。それによると、結集が始まり、七百年目に龍樹が出現して邪見の旗を倒し、正法のともしびをともすまでとされています。(現在の主題ではないため、ここでは引用しません。)最初の二句は八百年目の出来事です。次の二句は九百年目の出来事です。その次の一句は千年目の出来事です。その後は千百年目の出来事です(またこの年、比丘たちが在家のように縁談や結婚の仲立ちをするようになりました)千二百年目には、比丘や比丘尼が清浄な行いをせず、もし子供が生まれれば、男子は比丘に、女子は比丘尼となりました(ここでは省略します)。袈裟に関する記述は千三百年目の出来事です。(今では袈裟は紫色に染めることが多く、ただ条が白いだけではありません。これも法滅の兆しです。)貪りに関する記述は千四百年目の出来事です。千五百年目には、俱睒弥国の三蔵と羅漢の弟子が互いに殺し合い、悪魔や外道が競って塔寺を破壊し、比丘を殺害しました。一切の経蔵は阿耨達龍王がすべて海に持ち去り、こうして仏法は滅び尽きました。(これは俱睒弥国一カ国について述べたものです。ある説では五千年、あるいは正法・像法がそれぞれ千年、末法が万年などとも言われます。また六万年、七万年などともあります。これは衆生の業縁によって見え方が異なるだけです。)
《智論》,破戒文中為五,初以五喻顯其惡相。羅剎,梵語,此云速疾鬼。雖下,二明形濫體乖。若下,三因中示果。又下,四自懼惡報。上二句懼現報,下句畏來報。此據智人。往往盲愚,死而無悔。如是下,五結勸。
『智論』では、破戒の過ちを五つの譬えで示し、その悪相を明らかにしています。まず、羅刹(らせつ)という梵語は、速疾鬼(そくしつき)と訳され、素早く動く鬼を意味します。次に、形は似ていても本質は異なることを説明します。さらに、原因の中に結果が示されていることを示し、また自らの悪行による報いを恐れることを述べます。上の二句は現世の報いを恐れ、下の句は来世の報いを畏れています。これは智慧ある人を基準にしています。往々にして無知な者は、死んでも後悔しません。このように、最後に結びとして勧めを述べています。
問中,彼論前云:若於罪不罪不可得故,是時名為尸羅波羅蜜。後即問曰:若人捨惡行善,是為持戒,云何言罪不罪不可得?今鈔倒之,意使易解。答中。但引罪不可得。彼續云:罪無故,不罪亦不可得。若肉眼下二句,疑引別文,尋之未獲。彼又云:復次眾生不可得故,殺罪亦不可得;罪不可得故,戒亦不可得。何以故?以有殺罪故則有戒;若無殺罪,則亦無戒。(若體此意,方名持戒清淨。不爾,止是世福。學者聞此,豈不疑之。)
問いの中で、その論は前にこう述べています。「もし罪と無罪が得られないゆえに、その時を尸羅波羅蜜(戒律の完成)と名づける」と。その後すぐに問うています。「もし人が悪を捨てて善を行うなら、それは戒律を保つことである。どうして罪と無罪が得られないと言えるのか?」と。今、この文書では順序を逆にし、理解しやすくしています。
答えの部分では、ただ「罪が得られない」という点を引き合いに出しています。その論は続けてこう述べています。「罪がないゆえに、無罪もまた得られない」。もし肉眼で見るならば、後の二句は別の文を引用しているように疑われますが、探してもまだ見つかりません。
さらにまた、その論はこう述べています。「また、衆生が得られないゆえに、殺害の罪もまた得られない。罪が得られないゆえに、戒律もまた得られない。なぜなら、殺害の罪があるからこそ戒律があるのであり、もし殺害の罪がなければ、戒律もまたないからである」。
(もしこの意味を体得するならば、初めて戒律を清浄に保つと名づけられる。そうでなければ、ただ世間の福徳に過ぎない。学ぶ者がこれを聞いて、どうして疑わないことがあろうか。)
斥非中。非己所有,故云誦語。此名得實,宜須內省。今習律者,多用此語,指斥他宗;不知己學亦誦語耳。何以然耶?汝雖學律,律行安有?故知末世大小兩宗,皆是學語,良可悲夫!疏字平呼。文見十四,而指十五。彼此藏經分卷有異,非是筆誤。
非難は中道に反する。自分自身のものではないから、誦語(そくご)と言う。これは真実を得たという名目だが、むしろ内省すべきである。今、律を学ぶ者は、この言葉を多用して他宗を非難する。しかし、自分たちの学びもまた誦語に過ぎないことを知らない。なぜそう言えるのか?あなたは律を学んではいても、律の実践はどこにあるのか?だから、末法の世では、大乗・小乗の両宗とも、みな言葉だけを学んでいるに過ぎない。まことに悲しむべきことだ!「疏」の字は平声で読む。文は十四巻に見えるが、十五巻を指す場合もある。それぞれの蔵経によって分巻が異なるので、筆誤ではない。
《四分》。五過,亦出〈增一〉,即現當兩損。自害者,喪失世出世善故。臨終悔者,苦逼神昏,業狀競現;自知前往,必非善處;死時恐懼,於茲驗矣。
《四分律》に説かれている五つの過失は、『増一阿含経』にも示されており、現世と来世の両方に損害をもたらします。
自らを害するとは、世間的・出世間的な善を喪失することをいいます。
臨終に悔いるとは、苦しみに迫られて精神が混乱し、業の相状が次々と現れることです。自分が向かう先が決して善いところではないと自覚し、死の時に恐れおののく様子が、ここに明らかです。
不學滅法中,《十誦》十法。彼列五法中,以同義類,故合明之。文略二種。有比丘下,明初五法。上四句即第一法,無欲謂心不希望,但性昏愚不可教耳。又下一句即第二法,彼云:亦不能令他解了。不能下二句,即第三法。乃至者,略第四,彼云:有說法者,不能如法教,鬪諍相言也。不樂下,即第五。上四教授非法,下一戀著喧潰。四中,初是所教,二通能所,三四屬能教。又不隨下,即次五法。初句即第一。下略第二,彼云:不隨忍法,隨不忍法(隨情嗔怒)。不敬下,是第三法。謂見上乖儀,輒生輕傲。令後下,即第四,彼云:因上座不以法教授故。致令下,是第五。彼云:因上座命終故。上三局所教,下二通能所。好作下,即五怖畏文。彼云:一不修身戒心智,無欲鈍根。二與尼相近,捨戒還俗。三如來所說甚深修多羅等,無憐愍愛樂心。好作等如鈔。四為衣食故,捨練若入聚落。五為衣食故,多所求覓擾亂。(五皆云怖畏者,正法將滅故。鈔引第三下半。)
『滅法を学ばざる中』には、『十誦律』の十の法が説かれています。その中で五つの法が列挙されており、同じ意味の類いであるため、合わせて明らかにされています。文は二種類に略されています。
「比丘ありて」以下は、最初の五つの法を明らかにしています。上の四句がすなわち第一の法であり、「無欲」とは心に希望を持たず、ただ性質が愚かで教え導くことができないことをいいます。次の一句がすなわち第二の法であり、『十誦律』には「また他人をして理解させることができない」とあります。「不能」以下の二句がすなわち第三の法です。「乃至」は第四を略しており、『十誦律』には「説法する者がいても、法に従って教えることができず、争いや言い争いをすること」とあります。「不楽」以下がすなわち第五の法です。上の四つは法にかなわない教授であり、次の一つは喧騒に執着することです。四つの中では、最初は教えられる者、二つ目は教える者と教えられる者の両方、三つ目と四つ目は教える者に属します。
また、「不随」以下は、次の五つの法です。最初の句がすなわち第一の法です。以下は第二を略しており、『十誦律』には「忍の法に従わず、不忍の法に従う(情に任せて怒りにふけること)」とあります。「不敬」以下は第三の法です。これは、上の者の儀礼に背くのを見て、軽蔑や傲慢な心を起こすことをいいます。「令後」以下は第四の法であり、『十誦律』には「上座が法をもって教授しないため」とあります。「致令」以下は第五の法です。『十誦律』には「上座が命を終えるため」とあります。上の三つは教えられる者に限られ、下の二つは教える者と教えられる者の両方に通じます。
「好作」以下は、五つの怖畏についての文です。『十誦律』には、一に身・戒・心・智を修めず、無欲で鈍根であること。二に比丘尼に近づき、戒を捨てて還俗すること。三に如来の説かれた甚深な経典などに対して、憐れみや愛楽の心がないこと。「好作」などは『鈔』の通りです。四に衣食のために、静かな修行の場を捨てて村落に入ること。五に衣食のために多くを求め、人を煩わせ乱すこと(五つとも「怖畏」というのは、正法が滅びようとしているためです。『鈔』には第三の後半を引用しています。)。