釋說戒篇
戒についての教え
戒即本受法體,量等塵沙,從緣舉要,且列二百五十為持犯蹊徑,使攝修之易。然恐物情懈怠,不自策勤;故黑白兩半,畢集一處,作法宣告;庶使因言省己,治行日新。雖廣略兩殊,僧別三位;一言統攝,無非淨行。故云說戒。正儀者。以普照,道安,及當時律肆,立法雖殊,多無典據;此篇所述,皆憑聖量;參詳經律,搜駮是非;題曰正儀,對簡非正。又復上云說戒,克指所說之法;下云正儀,統該能辨之緣。能所兩標,緣法雙顯故也。
戒とは、そもそも受戒の法体そのものであり、その量は塵沙に等しいのです。そこで縁に従って要点を挙げれば、まず二百五十戒を列ねて持戒と犯戒の道しるべとし、修行に取り組みやすくしています。しかし、人は懈怠に陥りやすく、自ら励み努めることがない恐れがあります。そこで黒白の二衆が半ばずつ、すべて一処に集まり、作法を行って宣告するのです。これにより、言葉によって自らを省み、修行が日々新たになることを願っています。広略の二つの違いや、僧の別の三位はあっても、一言で統べれば、すべて清らかな行いにほかなりません。そこで「説戒」というのです。正儀とは、普照や道安、また当時の律の学匠たちが、立てた法は異なっていても、その多くに典拠がなかったのに対し、この篇で述べることはすべて聖なる教えに基づいています。経と律を詳しく照らし合わせ、是非を検討し、題して「正儀」とし、正しくないものと区別したのです。また、上に「説戒」というのは、説かれる法を指し、下に「正儀」というのは、能く弁ずる縁を統べるものです。能と所の両方を標し、縁と法の双方を明らかにするという意味なのです。
注文,示正譯中。即下《三千威儀》初義,是今正用,故先舉之。言淨住者,二義釋之:一不失義,聞持無犯,體常存故;下云清淨戒住是也。二依止義,禁制三業,安住戒中;即《廣弘明集》云:淨身口意,如戒而住是也。
注文は、正しい訳を示しています。すなわち、次に挙げる『三千威儀』の初めの意味が、ここで正しく用いるものです。ですから、まずそれを挙げます。「浄住」という言葉は、二つの意味で説明されます。第一は「失わない」という意味です。聞いて保ち、犯すことがなく、その本体が常に存在するからです。後に「清浄戒住」とあるのが、これです。第二は「よりどころとする」という意味です。三業を禁じ制して、戒の中に安らかに住するのです。すなわち『広弘明集』に「身口意を浄め、戒にしたがって住する」とあるのが、これです。
廣引中,《出要律儀》。但指國語,續引《泥洹》,始是翻名。憍薩羅者,《方志》云:係中印度,周六千餘山,城周四千餘里,大信佛法等。《泥洹》。有二本,今云六卷,簡雙卷者。長養即總翻,二義是別釋。初義同上,次義即下《伽論》證得白法等。或可長對次義,養對初義。《雜含》中。梵語雖具猶訛,則知單云布薩,訛而復略。下引正音,二義分配;斷謂止惡,同上戒住;下義相對可知。國語不同,訛上兩字故。亦呼下,上是具翻;復含餘義,則有七名。初云集者,戒序云共集一處也。二云知者,即自知犯不犯等;下云從前半月至今半月中間不犯戒耶。三宜者,《戒疏》云晦望兩半折中之宜。四同者,下云十方凡聖所共同遵故。五共住者,奉慎清淨,住二種僧中,有犯者不得聞故。六云轉者,轉諸業惑,證白法故。七云常者,僧所常行,餘皆稀故。經但出名,今以意詳;引文約義,略如上釋。三千中。三譯,二同上釋。和合者,三體三相,非說不顯故。下二云義言,顯上正翻故。已上多名,總歸四種。淨住、斷、轉,止惡為名;增長、長養,生善為名;集、同、共、和,遵奉為名;知、宜、及常,從制為名。然雖多出,但準前標,止翻淨住。
『出要律儀』を広く引用していますが、これはただ中国語を指しているだけで、続いて『泥洹経』を引いてから、ようやく訳語が示されます。憍薩羅について、『方志』にはこう説かれています。中インドに属し、周囲は六千余りの山があり、城の周囲は四千余里で、仏法を大いに信仰している、と。『泥洹経』には二つの本があり、今ここで六巻本と言っているのは、双巻本を除いたものです。「長養」はすなわち総合的な訳語で、二つの意味は別々の解釈です。最初の意味は上述と同じで、次の意味は下の『伽論』に説かれる「白法を証得する」などにあたります。あるいは「長」を次の意味に、「養」を最初の意味に対応させることもできます。『雑含経』の中では、サンスクリット語が完全であってもなお訛りがあるので、ただ「布薩」とだけ言う場合は、訛りであり、しかも略されていることがわかります。下に正しい音を引用し、二つの意味を振り分けています。「断」とは悪を止めることをいい、上述の「戒住」と同じです。下の意味は相対的に理解できます。中国語が異なるため、上の二文字が訛っているのです。また下を呼び、上は完全な訳語であり、さらに他の意味を含むので、七つの名があります。第一に「集」とは、戒序に「共に一処に集まる」とあるとおりです。第二に「知」とは、すなわち自分が犯したか犯していないかを自覚することなどで、下には「前の半月から今の半月の中間に戒を犯さなかったか」とあります。第三に「宜」とは、『戒疏』に「晦と望の両半月の折り合いの宜しき」とあるとおりです。第四に「同」とは、下に「十方の凡聖が共に遵う」とあるとおりです。第五に「共住」とは、清浄を慎んで守り、二種の僧の中で住むことで、犯した者は聞くことができないからです。第六に「転」とは、諸々の業惑を転じて、白法を証するからです。第七に「常」とは、僧が常に行うもので、他は皆まれだからです。経にはただ名が出ているだけで、今は意をもって詳しく述べています。文を引き意味を約せば、概ね以上のとおりです。三千の中に、三つの訳があり、二つは上述と同じです。「和合」とは、三体三相が説かれなければ現れないからです。下の二つは義と言い、上の正しい訳を明らかにするためです。以上多くの名は、総じて四種に帰します。「浄住・断・転」は、悪を止めることを名とします。「増長・長養」は、善を生ずることを名とします。「集・同・共・和」は、遵奉を名とします。「知・宜・及・常」は、制に従うことを名とします。しかし多くの名が出ていますが、ただ前の標に準じれば、ただ「浄住」と訳すだけです。
會通中,《俱舍》。明八戒皆云受布薩護,故云名也。名即是召。次引《了論》。戒護兩分,會同《俱舍》。二論言護,名義頗同;布薩與戒,華梵互舉,事同名異。後引律者。律中二十犍度,第二即〈說戒犍度〉;後〈五百結集〉中,迦葉敘波離結集,乃云〈布薩犍度〉;即知前標說戒,後云布薩,前後互舉,故云即也。此句正指同前篇目。問:為布薩翻說戒耶?且布薩自翻淨住,戒乃梵語尸羅;既非對翻,云何律論二名互顯。問:何以不云布薩正儀耶?思之可解。(學者多昧,故當曲釋。)
『會通』の中で、『倶舎論』には、八斎戒はみな「布薩護を受く」と説かれています。それゆえ「名」というのです。名とはすなわち召し示すことばです。次に『了論』を引きます。戒と護の二つに分けて、『倶舎論』と一致させています。二つの論が「護」と言うのは、名と義とがかなり同じです。布薩と戒とは、漢語と梵語とで互いに挙げており、事は同じで名が異なるのです。後に律を引くのは、律の中の二十犍度では、第二がすなわち〈説戒犍度〉であり、後の〈五百結集〉の中では、迦葉が波離の結集を述べて、そこで〈布薩犍度〉と言っています。すなわち、前には説戒と標し、後には布薩と言い、前後で互いに挙げていることが分かります。それゆえ「即」というのです。この句は、まさに前の篇目と同じであることを指しています。問い:布薩は説戒と訳すのでしょうか。そもそも布薩はみずから浄住と訳し、戒は梵語の尸羅です。すでに対訳ではないのに、どうして律と論の二つの名が互いに示し合うのでしょうか。問い:なぜ布薩正儀と言わないのでしょうか。よく考えれば分かるはずです。(学者の多くが迷っているので、詳しく説明すべきです。)
敘意中,初顯教益,上二句標歎。下二句釋成,上句約時顯功。正像語略,理須兼末;即下云:云何得知佛法久住等。下句約法明用。以同遵故,清淨和合,餘法可行,下云攝僧根本之教是也。
次科,初四句先示情見。滿,猶厭也。希作者,如結界受懺等,數為即半月常行。比下,正斥,初二句斥慢易。良下,推所以。日染者,常所習故;屢聞者,一月兩說,故屢數也。以此下,結歎。情即妄緣,逐物流變;愛此惡彼,貴希賤數。寄此一事,足見凡情,故云可知。彼時尚爾,豈況於今!僧寺雖多,行之彌寡。縱有行處,事不獲已。豈非宿業,生值斯時,念道之流,願須珍敬。
三中,初敘古,二顯今。初中,先列諸本。齊即南齊蕭子良,生封竟陵王,死諡文宣王。在家布薩者,或五戒八戒,或云菩薩戒;其文已亡,不可尋矣。(或云即《淨住子》二十卷也。)普照,《指歸》云:遍尋傳記,詢訪名公,未知何代人。道安者,晉高僧,製僧尼軌範,為三例:一行香定座上經上講之法,二常日六時行道飲食唱時法,三布薩差使悔過等法,天下寺舍皆準行之;廣敘德業,備如《梁傳》。但下,評量得失;上二句示古差殊,下二句顯今縱奪。意解,即所見也。心相,謂處事也。顯今中。云經意者,語通三藏,皆得名經;下引諸部律文大小經論等。(例如下云:各誦經中清淨偈文,出《僧祇》,即目律為經。)所聞謂世中相傳。重謂對前諸本。撰次即目綴文。
生起中,初嗟時示意;故下,指前標後。敦遇,有本作敦勵。先引勸勉,即前云凡情易滿等。
引諸文中,《善見》。上二句比丘問佛,下句即佛答詞。《伽論》,初明斷惡。上云諸惡,通指十業;下諸煩惱,不出二惑。受字寫誤,論作有愛,即示惑體。證下,次明生善。白法者,通於凡聖;凡則事淨,聖則理顯。究竟梵行,唯局極聖。又下,省己悔露。即是清淨。故下續引《母論》,顯之。
開章中,標分。僧別兩位,料簡不同。僧是本制,四人已上作法誦戒;別即緣開,對首心念,但陳三說。又下四門:一二通僧別,第四唯局僧,第三有通局;如鳴鐘眾具,制通一人;行籌告令,唯局僧耳。
時節中,初科。若約三日,諸部通制;及食前後,亦出《僧祇》;今以前三全出《十誦》,故總列之;下引諸文會釋。後二唯出本宗,故下皆標《四分》。
別釋中,初文,前引《四分》示同。布薩日,通含三日。問:三日隨用得否?答:世多執諍,未善祖意。若謂通得者,《業疏》那云:十四為俗說法授歸,十六為難開延未可常準。若唯執十五者,疏文那云:三皆通正,隨用開得;必用二日,七非檢勘,何非所收?二皆有妨。然疏中但恐世人常用餘日,意欲剋取十五為定,故別分之;至於有緣通用,不名非法。亦猶自恣雖通三日,鈔取十六為定;非謂餘日不得,可以相例。下引《五分》顯異。《四分》亦同。引此文者,欲取十五為常度故;疏云:前二為俗,則說法授歸;後一為道,則淨心說戒是也。
第二。即約中齋以分前後。又但制前,後皆通故。所以不擇晝夜者,既制侵早,日夕可知故。律中,恐明相現,開略說戒,則通夜明矣。
增減中,初引緣起。《業疏》云:外界鬪諍,不自消殄,反來清眾,塵染何疑。佛下,引開法,初明減前。由避諍人,不待十五;向前二日,故云減也。然十四本是正日;亦為諍緣,故入減中。若十六來,十五日說;由是正日,不名為減。若下,明增後。諍人入界,不得說故;延過兩半,故云增也。文有四節,初明即時潛避,未須增也。令入浴者,眾僧出界,使不知故。若下,是第一增。白僧者,作單白法。又下,即第二增。疏云:兇惡不忍,本界未和;故來異住,望同清蕩等。亦須單白。若下,開與同法。心本非和,恐廢眾事,且令同作,故云強也。是則減為二日,增亦二半;增減皆二,在文可解。
斥古中。彼據《善見》、《十誦》幾時住世之文,便云不增至三;以三半不說,法即滅故。初示律開限。諒無他意,但恐僧事停廢耳。亦下,遮濫述。律下,引文破,初本律二文。拘睒彌者,因比丘鬪諍故。言佛在者,顯法非滅也。何妨下,縱彼所計;一國可爾,而非都滅。高勝比丘為長者門師,長者臨終,將寶藏付之云:候我二子長大,與其好者;他日付弟,兄生怨心,來告阿難;阿難疑之,經六布薩不與同法;後阿難問:高勝具陳父意,阿難云:汝吉羅不犯。次引《僧祇》。即弗迦羅聚落比丘妬蘭若比丘有名利,彼十四來,語云十五說,待彼去後說;明日來,云昨日已說,汝叛布薩得罪,我不與汝共食,如是經二十年,故云相嫌等。然彼二文,非謂不說;用此質前,文似非類;一往且望不同法邊,得云不說耳。
非時和中,初引緣。即拘睒彌國鬪諍破為二部,後非時於舍衛和合,故佛開之;疏云:二眾歡心,同崇淨教,說不待期故也。以下,釋開所以,初示僧義。今下,敘其不和。反顯須和,以明開說之意。不同見戒者,因諍法相,即見不同;廢布薩事,是戒不同。然戒和者,言通受隨;今約隨行說戒以論。(有本或無戒字。)
雜法中。此門廣引諸教,雜顯事相;欲顯下科行事儀軌,並有準據,下為點之。
作相中。文云不時者,謂不同時。下指前篇,謂唱令打犍槌等。
行籌中,初科,引《十誦》文,初通明二眾緣起。若下,別示下眾同利,初正明。言不往者,謂正羯磨時,身不預眾也。《四分》下,次引證,初引本律。即法同沙彌。若下,引《涅槃》。明形同沙彌。
次科《五分》中,前示製法。並五指者,謂中人五指相並,當五寸也。拳一肘,謂尺八也。(舒手則二尺故。)然不明物體,今時多以竹木為之。客來下,明行法。和合若干,總合數也。
三中。梵名,準《聲論》翻之。疏云:舍羅草名,以為籌計。
散華中,《五分》初明開俗。比丘不得,即明制道,初句制自散。彼律,因諸比丘以華散高座比丘,居士譏言,如王大臣,佛因制之。若白衣下,次制受散。謂雖開受,不得墮衣。當拂去者,乖道相也。座上無苦,無上過也。比丘下,三開自散。前制供人,此開嚴處。前皆因引,此文正用。
淨水物中,初引《僧祇》三節,初明淨手。當先淨者,文似說戒師,今即行籌人。香汁浴之者,上是淨水,此即香湯,二並淨手。誦下,二明置籌。此開數戒,與前不同。雜碎文句,即戒條也;《多論》云:十二年前常說一偈;今說五篇,名為雜碎。五百對一部數則過倍,七百對二部猶多百餘;此謂籌數宜多,不必限定故也。若下,三明所須眾具。誰應下,即預差三人。或容施物,須人呪願;下《五分》中,即令維那為之;此方事稀,故不行耳。《四分》中。眾具同上。但明年少具辨,上座處分;尊卑之任,不相亂也。
次人法中,初科《僧祇》文為四,初明所誦法。而言律者,舉教目行,即戒本也。誦二部者,準〈安居〉中,即第四律師。問:僧說尼戒何益?答:本受體中總發得故;又為尼所依,須教授故。若下,明能誦人。上座說者,德居物尊,發言誠重;在座誡勅,聽者依承;次遷無人,方聽能者。今時多差新戒,深乖教意。高臘恃尊,懷慚不誦。豈知替補佛處,傳弘任重乎。為下,簡聽眾。彼部通禁五名,《四分》得語下聚;以下眾有犯,通結吉故。此謂二師指教,非謂得聞戒也。問:戒本偈序列三篇名,下眾得聞者?答:略舉總名,不說條目故。若說下,制恭謹,上二句誡聽眾。不覆頭者,應開有病。不覆肩者,西土敬儀,此方不爾。應下,示行籌。下指唱法,即如上列。
次科中,《五分》雜明有七,初簡能說。誦戒取德臘,秉法選堪能,故須二人也。疏云:上座昬朽,秉御是難;依文誡約,有同佛世是也。今則年少誦戒,上座羯磨,都相反也。若彼高座識達是非,依律自秉。必涉疑昧,須擇堪能,不必上座。說戒下,制所聽。慢相極多,且列七種。並犯嚴刑,人猶不畏。智首律師每臨說戒,合掌危坐;晤恩法師𣈅然自感,竝至畢席,僧傳明載。下愚慢法,同坐同聞;尚不免過,從何取益!請披佛誡,豈不省非。上座下,明遣忘。若諸下,明移日。謂三日內也。諸下,明作餘法。應下,明說儀。至下,明三日所為不同。下引《四分》以彰部別。律云:諸比丘欲歌詠聲說法,佛言聽,後有一比丘過差歌詠聲說法;佛聞已,告曰:汝莫如是說法,乃至過差歌詠聲說法,有五過失:一自生貪著音聲;二令聞者貪著音聲;三令聞者習學;四俗人生慢心,不恭敬;五靜處思惟,但緣音聲以亂禪思。故知本宗亦不全許。今指為廢教,意是不取,即用序中第四師義也。(今時誦者引弄音聲,文句不顯;人不樂聞,反生輕悔,何啻五過,宜準今文自說為善;必非過差,隨用兩得。)
三中,初制供養知法之人。說下,教誦者預習。
三正說儀,總示中,初明通用他部。下引《五分》、《僧祇》並《阿含》、《華嚴》。而下,明所據古本。準此應有多本,二師尤長,用為綱骨。即下諸偈不標經律者是也。然事容繁闕,不可全依,故云餘則等。
初中三,前明處所。理下,定床座,初二句判定。言準承者,令依中國也。中下,次示國土不同。中國用床者,如露敷脫脚等戒也。類即例也,綴下讀之。此間古者,西晉時,五品已上及州牧,得坐床。大夫謂上大夫,中下大夫亦無。皆席地者,古禮皆然;至今北地其風不絕。洎晉室罹亂,至于東晉,節制無準,故通庶人。今下,三評品可不,初二句指時用。亦下,縱許。然下,奪歸。言不便者,或由坐立乖相難知;或受籌跪地,事須上下。今多在床互跪,全非敬儀;屢見愚僧斜身倚靠,高竪一膝而受籌者;事乖正則,慚致澆訛;故《尼鈔》中明入堂已,即斥僧尼床上禮佛,亦其意也。隨下,囑令斟酌。準〈釋相〉中,地卑濕處,開床設禮,榰脚八寸,餘則不聽。容有此緣,不可一定,故令隨處。
眾具中。令準前者,即上《僧祇》、《四分》。
白告中。準下略法,令於小食時白。上座白者,律文正制。今下當時所行,令準用也。今時維那白已,上座依下略法中文,復加勸勉,亦可準行。然策眾之語,當隨機要,激動時情,不必謹誦。指〈僧網〉者,前云每至說晨,令知事點檢僧數,眾主上座親自按行等。
集僧中,別科,前明盡集。不局等者,即大小同行法;下約二處集,即是別法;兩明其相,意令通曉。若猶下,明檢校。
次科中,初明集處。即在堂外行立。應下,明說偈。即須大眾同聲說之。若云打鐘人說者,合在前明,豈待集至堂前方令說耶!又《業疏》云:律令舊住淨人下位打者,此召僧法制,非具道者所為;必無二人,方聽兼助;必使淨人,令說何益;又文中顯言聞鐘偈,豈是能打耶!(有人執本緣起是阿難鳴鐘時說,便云此偈是打者說;又輒改聞為鳴,委如別。)破下諸偈詞,相承不解;人雖誦之,多迷文理,略為科釋。聞鐘二偈,初偈明事用,後偈明所期。初中,上半明功,下半顯用。四魔強盛,能障善道,故有力也;欲相侵害,故如怨也。結即三界見思;盡無餘者,即無學極果也。上句修因,下句證果。後偈中,上半明所集之意,下半明能集之願。聞法人者,總凡聖也。雲集者,喻其奔赴也。
入堂中,初示儀式有三:初禮敬,次說偈,三就坐。偈中,上半偈明自行成就,次一句明眾行無違,末句自眾兩具方成法事。自行中,上句受體無缺,下句隨行無犯。(大眾字,有本作清淨。)如下,次誡侮慢。如上即〈雜法〉中。極教者,若取制之深極,則指律文;若約教之終極,即指《涅槃》;彼云:我不滅度,半月一來。遺謂佛之遺誡。言根本者,望餘法事,皆是枝條。有人於此妄立歡喜偈者,若言表淨,前偈已具,何勞重述;若是陳過,有犯自當懺露,豈但乞僧歡喜而已;習俗日深,苦諫不捨;知非遷善,未見其人。
第五與前第二相濫。以意通之,前約預辨,今此眾集;始將入堂,有同持獻;方合科次,則非重疊。此間不爾,多是預安,故難通曉。後進更詳。以物席地,為藉眾器也。僧中設者,明是後安也。
六明行事,盥洛中,初明出眾。三五人者,今則一人維那行籌唱告,四人兼助行湯水等。具威儀者,謂安詳恭謹,不必設禮。(今時出眾各禮三拜,復座展坐具已,還來取物,並非正儀。)次維那淨手。持下,上座盥掌。準文,維那為之;今多年少,義亦無爽。取下,上座浴籌。各說偈者,合眾同音;今並維那獨唱,事訛變也。偈中,上半聖凡和合,明所集也;下半法事利生,示所為也。維那自浴者,《尼鈔》云:今時多是上座浴籌,此非敬儀;據理年老,代浴無損,今須準用。
行水中。令一年少者,今須二人行湯水,二人行淨巾。偈文,上句歎水德。一清淨,二不臭,三輕,四冷,五軟,六美,七飲時調適,八飲已無患。次句顯事用。外則德水以盥掌垢,內則道水以滌心塵。第三句自行成立,末句化他同已。盥,公玩反。
行巾中。左右手者,取其順便。及下,因點湯巾同上法也。
湯偈中,初句明事用,已下寄事表法以立要誓。次二句遠期果德。上句法身,具兼理事二種;一句二德,可解。末句攝生同證,即自他兩利。會即證也。法界差別,同歸一體,故云融也。又解:淨水表斷惡,復是因行;香湯表修善,故祈果德。前因後果,並兼利生。
指說偈者。世有妄行,故特點之。
斥非中。古德誦經法,須以香湯漱口;後世傳訛,乃將布薩時用。往往有者,《尼鈔》云:承香湯水時,不得𠻳口吐地;數見故別標記。
唱法,打靜中。指〈雜行篇〉。彼明取放並須埒柄,不得重響等。
正明中,初文。問監護者,準上本宗年少辨具文也;雖已先差,須白告眾。注釋收護,言通始終。今時多召收籌者,誤也。有下,刪其繁長也。注云上文具者,收護通包也。
第二召集。下云準律檢校文也。
斥異中,初科,先出古局釋。準下,示今通解。文云賢聖,理更兼凡。
次科,初出古非。前加者,謂在召集之前。亦應上云大德僧聽。《四分》下,準本宗必削。說戒自唱者,即問和簡眾也。若下,依他部可存。三律者,五、十,並同故。既唱已出,故知先遣。
後科中,初遮揀。以下,申理有二,上明不合前唱。或下,謂不得軌遣。前云:準律誠文,刪補取中,即此諸文也。
告眾中,初結前兩告。復唱未具者,一令識古法,二兼被他宗。內下,正陳所為。無諸難者,謂八難餘緣也。唱己名者,令眾委知,即《僧祇》云誰應行籌也。僧當下,祈受籌。言如法者,前《僧祇》中令脫革屣褊袒等故。囑授人即與欲者,為他傳欲,須代受籌;今人無知,多不行也。
大僧籌中,初科有三,初具儀,二說偈,三示敬。偈中,上半歎其難得,下半喜其已得。初句即三德,金剛喻法身,無礙目般若,亦即託事表法希有。次句兩難,得親遇疎,遇者不必皆得,得者必因於遇,故兩言之。如今果者,剋己為喻;《淨心觀》云:萬類之中人身難得,如《提謂經》說,今得人身難於龜木。次半偈中,上句頂戴是身,歡喜是意,口陳偈句,三業備足,即自利也。下句攝生同已。
還籌中。偈詞,初句受隨無毀,堪預捉籌;次句納籌入數,還簡體淨。堅固對受,即表持戒;喜捨對還,即表布施;疏云:不盜即施財,不殺即施無畏。或可四無量心,略舉二心,慈悲在中,義見下句。不復座者,皆須互跪;至傳香偈已,方坐聽戒。叔世怠墮,事必難依,且據受籌一時而已;必有奉法,勵己行之。
納籌中。據文上座數知,今多收者告數,理亦通得。但令上座僉知,不可全憑他語。
沙彌籌中。通前四唱,並須三說。今時一遍唱已,三唱後句,即當三說;此非正法,出自愚情。或恐延時,準後諸白,乍可一說;此告眾法,非同羯磨三一永定,單說無損。乃下,恐有大僧傳沙彌欲,故須告問;此謂界無同類,故開之耳。
六取數中,初文。可解。
次科唱法,準前《五分》,初告人數。上下,次明所為。國王父母師僧檀越,是為四恩。心依色中,名為含識,總收六道有情之眾。各誦偈者,表行淨也。經中者,經名雖通;今若唱時,宜云律中。《僧祇》:因調達破僧自說戒竟,如來聞之,便說此偈,告阿難言:非法眾已作布薩,如法人自作布薩去。初半偈明佛所制,上句自行,下句眾法。下半偈彰已合教。應猶當也,或可去呼。
小眾別行法。沙彌集處自行籌已,將付僧中,總合唱之。
七請師中。初云佛令,即前《五分》文也。
次科三,初請上座,前明維那陳請。後即上座對答。有堪不堪二答如文。出法之辭,臨機裁度,今多誦語。年少康強,亦稱老病,非所應也。即至下,二請次座。若辭下,三差能者。先預語重,疑是多寫。
三中,初明往告。若下,次示二座餘不須問。準《僧祇》者,前云若上座若大座應誦等。
四中。稽首者,頭至地也。和南,西語,《出要律儀》翻為恭敬。
八供養中,初文。無高座處,戒師坐上,聖僧抽下者;傳佛教誠,聖凡同稟;亦猶使者執王勅命,百官雖貴,孰敢見輕。
次利,初總列事儀。小者供養,且約出眾,故此先標;若論行事,如後所顯。若下,別釋梵唄,初引所據。出下,翻名義。如此二字,即指梵名,或剩如字。欝鞞國彼文自指,未詳何處,鞞字陛奚反。兩翻其名,單釋斷義。以意分之,斷約外緣,息據內心,則有別矣。
三中,初順灑。散下,逆灑。却行,謂倒退也。後出詞句,合在前說。彼經,佛在普光明殿放光說法,菩薩偈讚。上半指事用,下半偈申所為。
四中,初示正儀。三捻香者,供三寶也。向上座者,表代為也。次明說偈,初維那唱告。此下,點所出。下指廣者,其文已亡,不可尋也。各下,引偈詞,上半明能供,下半即所供。初中,上句託彼香事,即表法供也。慧及知見,解脫通收,則《五分》備矣。七言為句,不可妄加。(由慧得脫,由脫具知見,舉中即攝初後。)下句冥想,如彼光雲。所供中,初句明上求,下句即下化。涅槃翻寂滅,即果德也。維那下,明復位。可見。
九問,緣中,初文。言準上者,即前雜法,或令恭敬,或令直聲,或不錯謬等。(有本準上下有法字。)或可指戒本前序。下指別法,彼明禮僧互跪上座誡勅等法。此明簡眾,不唯沙彌;或尼三眾俗士瞻禮,並須遣出;及十三難三舉二滅有犯等人,三根明委,亦須簡練,或令懺露。人不知法,但遣沙彌;白衣叢聽,雜穢同聞。深乖法律,極成輕易,悲夫!
二中。若有說者,答云說欲及清淨已。
三中,召問之辭。若依古戒本云:比丘尼眾遣何人來耶?今準光師戒本而問。誰字,亦即召彼尼眾。
略法中,初科。儀法可解。
次科。尼唯長跪,僧通長互;如《三千威儀》、《圓覺》等經,並云長跪,豈唯尼耶!(舊云長跪表代尼者,謬矣。)言別德者,教尼須具十德:一、具持戒行;二、多聞;三、誦二部戒本利;四、決斷無疑;五、善能說法;六、族姓出家;七、顏貌端正;八、堪為尼說法,令尼歡喜;九、非為佛出家,被三法衣而犯重法;十、二十夏若過。(第八第十唯局教尼,名別德,餘名通德。)
三中,初受屬反白。上下,正出答法。疏云:以見不學識者,年高座首,動無法則,空遣尼還,曾不對答,識者齊恥,故具引之。初褒美大眾。何啻者,言德有餘也。若下,令傳略教也。注中,初示前。餘下,指後。即〈尼篇〉中更引《善見》、《十誦》、《僧祇》等文,尋之可見。
指廣法中。言時希者,〈尼篇〉云良由廣德難具故也。
事宗中,初科。法文斥古羯磨。言通用者,二名無異故。不了彼此者,華梵齊舉故。如〈羯磨篇〉中已明。不得下,遮濫。指過斥非,在文可見。
次科,初垂誡。示下,勸依。一律儀者,即指上誡。故下,指證。云云者,三十四卷初,因難陀布薩時不來;後來已即去,眾皆不知,白佛,因制上座法,應知十四十五日布薩若晝若夜;又當知處所,若溫室講堂林中;又應知廣誦五篇戒,下至四事及偈,餘者僧常聞;又應令人唱告時處,又應先使人掃治,誰應呪願行籌。(此制知說戒也。)又應知說戒時,檀越來;當為說法,共相勞問。(此制知說法也。)乃至第二上座亦爾,廣在彼文。
十說竟中,初科。再鳴鐘者,必無小眾,亦不須之。若下,明梵唄。即律序末後二偈:神仙五通人,造設於呪術(此舉世喻);為彼慚愧者,攝諸不慚愧(為善攝惡);如來立禁戒,半月半月說(合上喻也);已說戒利益,稽首禮諸佛(迴向歸敬)。《尼鈔》云:若不解前唄,作處世界亦得。為下,明所以。不同前作為止息故。其下,因示前唄。即序初二偈:稽首禮諸佛,及法比丘僧(歸敬三寶);今演毘尼法,令正法久住(歸敬本意,上句明意,下句明益。);優波離為首,及餘身證者(推本結集之眾以為證信);今說戒要義,諸賢咸共聽(舉事誡眾)。多見誦文訛錯,復不解義,略為注釋。律制不得半唄,今或但誦優波離下四句者,正乖法律;雖非大害,寧免無知。
二中。施以歡喜,以合作與。
三中。偈詞,上三句喜遇三寶,下句拔濟群生。四並言快,快即是樂。值佛最難,故云第一。得聞正法,近障三塗,遠清二死,故云安隱。事和無諍,統理平等,故云寂滅。上三慶己,下一喜他,即兩利也。安樂字,《尼鈔》作解脫。注令禮散。《尼鈔》更加三歸,今須準用。上來十科行事,並據正文。況經聖心,研詳安布。今諸律肆,妾自改作。執非為是,見是謂非。此由素闕討尋,抑又自無明識。或多輕略,廢置而不行;縱有行之,事同於厭課;塵緣可棄,不憚奔趨;王法宜尊,反生薄濫;業繩彌固,苦海尤長;徒喪天齡,真可憐愍。
雜相者。前列行事,且據一途;事起臨機,何由盡述;略之則闕,參之則繁;是以總括諸相,別科於後。述作之意,在文可見。
告淨中,但約長行序後三問以為分齊。初明問前不告。後自問故。若下,明問後須告又三,初止住說戒。戒師自止,謂知法者。不住須呵,謂迷教者。待下,明告淨。待坐字語通上下,據義則綴上為優,約句則貫下為便,詳之。一人告者,恐妨僧故。若有下,明發露。依次說者,接前止處也。準此,不明再和;以陳淨入坐,和相已彰。今時有行略和,未見所出。
次科中。多等須重說者,謂制主從客。若少不須,或出界說,或往他寺,謂制客從主。此約說竟為言,未竟隨來,告淨同聽,不勞再說。(有將前利為制客從主非。)如法治,吉羅異名也。
三中。對犯不說,此制戒師也。或令悔露,或加治擯,事在臨機。如比丘犯盜,佛不為說。然佛初自說,眾唯純淨;必有妄隱,五百金剛杵碎其頭;後付弟子,則通淨穢;故知必約三根無濫,不可對說也。即下,會同律論。
四中。總前各列者,如云某寺某寺尼眾和合僧差某尼某尼。後總結者,半月半月已下詞也。
五中。比近人,謂隣高座者。令字去呼,謂言教也。準此,先須定囑一人。不下,遮非。今多此過,不得不慎。
六中,初文。說戒本制,竟無能者,方誦經法。疏云:所以次者,戒制附相,切要易持;經授心識,託虛難攝;故隨時制,輕重不倫,各其致也。文中三位,初誦經法。語通無在,然須軌範行門,誡勒切要之者,頗符今用,故云餘教誡等。今藏中略教誡經,亦可依誦。(舊云《三千威儀經》者,文繁事碎,何由可誦;又云下卷令誦《勝鬘》佛藏。下明常時受持,亦非說戒時誦。)若全下,次令說偈。比即迦葉佛略教。注指阿含解者。下卷引云:上句戒具足清白之行,次句心意清淨,第三句除邪顛倒,末句去愚惑想。若不下,後略誡勅。詳此律意,未必愚暗而至於此。欲明住持之本,攝僧之要,必不可廢,故曲示之。
次科,初顯示深益。佛囑累者,即上制法。而下,斥世不行,初指非。染下,彰失。污淨識者,輕法之源,實由染世;不聞正法,已是盲冥;況舉輕心,更招殃禍;欲令反本,其可得乎!於法無味者,積惡漸深,去道轉遠故。大法者,通目佛教。出家無益者,乖本意故。口下,斥言行相違。師徒義絕,揀從外道,不亦宜乎。《高僧傳》中。隋東川僧雲法師住寶明寺。以四月十五臨說戒時,乃白眾曰:戒本防非,人人誦得,何勞徒眾數數聞之。可令一僧竪義,令後生開悟。當時無敢抗者。訖於夏末,廢說戒事。至七月十五日早,將昇草座,失雲所在。大眾崩騰,四出追覓,乃於寺側三里許古塚間得之。遍體血流,如刀屠割。借問其故。云有一大丈夫執三尺大刀,厲色瞋雲改變布薩;刀膾身形,痛毒難忍。因接還寺,端情懺悔。乃經十載,說戒布薩。臨終之日,異香迎之,神色無亂,欣然而卒。此乃上智,故動幽呵;今時下愚,竟無顯驗;縱令永廢,反自安然;法滅於時,可用長歎!
七中,初別簡初篇。僧下,總示諸聚。若約聞戒通塞,則六聚並同;若論別眾成不,則根條兩異。如律顯者,即如戒本,有犯懺悔,無犯默然。
八中二,初明對首。露言對眾者,謂於眾前對人作法。律至:當至一清淨比丘所,具威儀,說所犯名種,白云:大德憶念我比丘某甲犯某罪,今向大德發露,後如法懺悔。(三說。說戒時憶者,須用此法,餘時依法懺悔。)又律中,比丘於犯有疑,復逼說戒,佛言:應發露已,得聞戒,亦對人云:大德憶念我比丘某甲,於某犯生疑,今向大德發露;後無疑時,如法懺悔。(三說。已上準《注羯磨》出之。)恐下,二明心念復二,初明識罪法。律中,為在座上忽憶本罪,向比座說,舉眾鬧亂,佛令發露心念,而不出文,鈔家義立。準《羯磨》說戒字下,更加一句,云恐鬧亂眾故。亦須三說。若下,明疑罪法。應云我某甲於某犯生疑,餘詞準同。
第四略去中。標云雜者,據略則純;但緣與法各有多別,故云雜耳。
緣中,本宗。八難餘緣者,若據緣難,二名不局;今須標簡,重者名難,輕者為緣。王難者,疏云:或將士眾擁寺列兵。病人與下緣中相濫,應以重輕分之。非人即鬼神為惱。惡蟲,通目畜獸能為命難者。人難引論釋之;比據常人,不同賊也。餘緣者,通收無限,故但言餘;且列八相,並以若或字簡之。前四通晝夜,後四唯局夜。下云明未出者,止結後四。應略說者,通結前八。
他部中,初科三律,《十誦》。約道行緣,從制至開,一廣三略。略中,上是眾法,下二別法。準眾法對念,多人不開,必應異界分眾作之,或恐彼部緣開,不可常途為妨。開心念者,道行中復有緣故。制白衣前,恐聞障戒,為濟他故;乃至下,命梵緣,為利己故。若論心念,說不明了,不成作法,有緣故開,不足怪也。布薩說戒,華梵言重,臨事單牒。《五分》中。七緣,除草棘、地泥,餘同《四分》。《僧祇》。五緣:偪暮、天陰、來客處遠,此三不同《四分》。
對說中,《十誦》。王難開說,即瓶沙緣,如〈羯磨篇〉中引。《五分》。賊難,事同《僧祇》。彼因突入聞說,不為說故,便加苦惱,制令改誦。
義立中。寒熱二緣,不出諸教,理合開故。初示緣例準。至下,白眾勸導。冬熱者文脫,古本云冬寒夏熱;出法雙提,隨時別用。僧下,引示,初指《僧祇》,明制上座。文如前引。次引《五分》,明制徒眾。囑授即是與欲。露處說者,即明與欲;恐在私屏無人見聞,容非濫故。(有云:此明說戒,令客比丘來易見故,文似不貫。)
次略法中,初科。言二種者,此標取却二種義耳。提名為取,除相為却。一言略者,即具二義:一下,釋,初釋略取。取八篇題者,如云是四波羅夷法等是也。次釋略却者,却即是除。除隨篇種類者,謂不誦篇中諸戒,但云僧常聞是也。上云八篇,下云隨篇,皆謂通舉戒本全數;至於正誦,或多或少,皆不定也。(有人云:單誦八箇題首,名略取說戒;誦一兩篇,名略却說戒;致令後生妄行,至今尚爾,如別所破。)問:八篇可都略否?答:下依《母論》,故廣滅諍;約準《尼鈔》,八篇齊略。(古記云:滅諍是吉羅少分,不名為略;又人云:七滅是息諍之要,故不可略;以《尼鈔》證,皆穿鑒耳。)問:今存幾略耶?答:今但通云略戒,不言幾種。若提名略,則兼取却二義。若不提名,如下卒緣,序竟即略;但有却義,則無取也。問:如誦一二篇已,略其餘者,此名何略?答:前所誦者,自名為廣;文不云乎,為廣三十九十;又云:七滅諍下,如法廣說。餘不誦者,方名略耳。問:如律本中廣一二篇已,難緣忽至,即云餘者僧常聞,復是何略?答:既不舉名,止是略却。問:如提篇目,略至二三;忽有難至,即云餘者等,復是何略?答:前提名者,具兼二義;後言餘者,止是却耳。問:今明略法,為依何出?答:文中,緩則為廣三十九十;及後卒難,說序已略,並依本宗。不說序略,準《注羯磨》乃依《僧祇》;中間各題通結,自出《母論》,故後文云《四分》文不了等。(古記反引本宗十五略配之,致增迷昧,《注羯磨》亦云:律有三五略法,文非明了,故依《母論》,故知非也。)以昔多迷,不免繁細;餘所未盡,備在釋中。
略法中,初科。緩急兩相,事在高座;緩則可進,急則宜否;並準上緣,須令應教。文中,初雙標。緩下,牒釋。急緣語通多種,如下所明。
別顯中,初文,初指前緣。即十緣中上九種也。說竟儀式,亦同廣法;由緣不定,多不至後,故且指前。至下,示略法為三;問清淨已者,即廣前序也。應言下,略中間七篇。言各題者,七名別舉也。通結者,並云僧常聞也。七滅下,廣後文也。不略七滅者,戒少言約,復接後文,是可說故。若準《尼鈔》,八並通略;無勞臆說,以誤來蒙。故疏云:今有行略,多無法式;就緣緩急,稱時為要;常途寒熱,容所敘致,可廣始終(前序及七滅已下也),而略中廣(即七篇也);準此明據,豈復疑乎。《四分》下,指所出,初點本律。不題篇首,故云不了。今下,取他文。即指上法有誠據也。本律〈說戒犍度〉,初明先廣後略次第八段;彼云:比丘作是念,今以難緣聽略說戒,難來猶遠,我等得廣說;彼比丘應廣說,不說如法治。(下七例比作之。)又云:我胄不得廣說,可說至九十;又云:不得說九十,可說至三十;又云:不得說三十,可說至二不定;又云:不得說二不定,可說十三;又云:不得說十三,可說四事;又云:不得說四事,可說戒序;又云:不得說序,即從座起去。(次第八段,前一是廣,後七是略,古人妄傳為七略一直者,非也。)後明先略後廣三五說戒,彼云:有五種說戒:一說序已,餘者應言僧常聞(已下並從說序去,一一皆以餘者等結之。);二至四事;三至十三;四至二不定;五廣說(三十已後)。復有五種:一說序四事已,餘者略之;二至十三;三至不定;四至三十;五廣說(九十已下)。復有五種:一說序至十三;二至不定;三至三十;四至九十;五廣說(提舍已下)。律本甚廣,今云不了,明非正用;恐人未曉,略引令知。
二中。且約說序竟,舉初例後。故《羯磨》云,應隨到處云:已說至某處,餘者僧常聞;又疏釋云:誦至隨戒,難卒排門,不可轉誦,故知通後也。
三中。此出《僧祇》。(古記將此為本律一直者,非。)未說序者,謂作白纔竟也。問:必未作白,難至如何?答:不成略法,理須再說。或待難靜,或出界外;或眾或別,隨緣作之。
結斷中,初結勸。言就緣者,示略法之本也。並結正者,即前七略中,若可廣說不廣說,乃至可說序不說序,並如法治。比下,斥非,初斥略法乖儀。或下,斥託緣不說。
次明別法說戒中,初文。律因佛制眾僧說戒,一比丘住處,不知云何,白佛,故制。調度者,律云:敷坐具、具水瓶、洗足瓶、然燈火、具舍羅等。待客來者,疏云:出家之人,漂泊無侶;何有定住,是我所也;遊化觀方,縱任自在;隨所弘道,不局坊寺;望剎為居,四海為食故也。
次科,眾法中。此明別法,而列四人者;由本獨住,待擬外客;來不可期,因而明之;不同初位常途僧法。至於行事,還復同前。
對首中。文約三人。後指二人,作法詞中,但除二字。疏問:僧說戒者,一人秉說,餘皆默坐;下至對首,皆各表淨者?答:僧法位強,成辦力大,故白說戒,通四方故;別人力弱,但表內淨,應上教也。
心念,說戒中,初出法。若下,示餘緣。上依律文,且據蘭若;山行聚落無人義同,故準開之。
露罪中,初文。初明輕罪可懺,是本位故。重不可懺,故致異說。
次科,初示無文;今下,義定;云今日下,出法。言通解者,取上初義;按自恣中,即準座上發露為例;即對次義為局,故云通也。問:此發露已,為須更陳三說布薩否?答:文云不應說戒,似不再陳。準《注羯磨》引《王百問》,今如上三說。又約疏中,引《僧祇》,若無客者,作念:若得清淨比丘,罪如法除;念已,當心念口言,三說布薩。此即向四方僧發露,大如僧中。(疏文)今詳《羯磨》及疏,並作念發露,無別詞句,故依三說;此既立法,即當布薩,不勞更陳。然今臨事依疏為佳。
三中。向僧懺悔,即作念陳露也;或可輕罪責心即滅。三說者,謂作法布薩也。廣誦戒者,識知持犯也。然非教制,本不須誦;以前作法,即成說戒;不同僧法白告和僧,非陳淨故。心念既爾;前對首中,殘及重蘭,例開發露,如〈自恣〉中。