占察善惡業報經卷上(出六根聚經中)
占察善悪業報経 巻上(六根聚経の中から出たもの)
天竺三藏菩提燈譯
天竺三蔵菩提燈訳
如是我聞:
私はこのように聞きました。
一時,婆伽婆一切智人,在王舍城耆闍崛山中,以神通力,示廣博嚴淨無礙道場,與無量無邊諸大眾俱,演說甚深根聚法門。
ある時、婆伽婆(世尊)である一切智者は、王舎城の耆闍崛山の中におられ、神通力によって広く深遠で清らかな、何ものにも妨げられない修行の場を示し、無量無辺の多くの大衆とともにおられて、きわめて深遠な根聚の法門を説かれました。
爾時,會中有一菩薩名堅淨信,從坐而起,整衣服,偏袒右肩,合掌白佛言:「我今於此眾中,欲有所問,諮請世尊,願垂聽許。」
そのとき、集会の中に堅浄信という名の菩薩がいて、座から立ち上がり、衣服を整え、右肩をはだけて、合掌して仏に申し上げました。「私は今、この集まりの中で、お尋ねしたいことがあります。世尊にお伺いいたしますので、どうかお聞き入れください。」
佛言:「善男子!隨汝所問,便可說之。」
仏がおっしゃいました。「善男子よ、あなたが問いたいと思うことを、そのまま尋ねなさい。すぐに説きましょう。」
堅淨信菩薩言:「如佛先說:『若我去世,正法滅後,像法向盡,及入末世。如是之時,眾生福薄,多諸衰惱,國土數亂,災害頻起,種種厄難,怖懼逼擾。我諸弟子失其善念,唯長貪、瞋、嫉妬、我慢。設有像似行善法者,但求世間利養名稱,以之為主,不能專心修出要法。爾時眾生覩世災亂,心常怯弱,憂畏己身及諸親屬不得衣食充養軀命。以如此等眾多障礙因緣故,於佛法中鈍根少信,得道者極少。乃至漸漸於三乘中,信心成就者亦復甚尠。所有修學世間禪定,發諸通業,自知宿命者,次轉無有。如是於後,入末法中經久,得道獲信、禪定、通業等一切全無。』我今為此未來惡世,像法向盡及末法中,有微少善根者,請問如來。設何方便,開化示導,令生信心,得除衰惱。以彼眾生遭值惡時,多障礙故,退其善心。於世間、出世間因果法中,數起疑惑,不能堅心專求善法。如是眾生可愍可救。世尊大慈,一切種智!願興方便而曉喻之。令離疑網,除諸障礙,信得增長。隨於何乘,速獲不退。」
堅浄信菩薩が申し上げました。「仏が以前お説きになったとおりです。『私が世を去り、正法が滅びた後、像法がまさに尽きようとし、末世に入るころ。そのような時には、衆生の福は薄く、さまざまな衰えや悩みが多く、国土はたびたび乱れ、災害が頻繁に起こり、種々の厄難と恐怖に逼られます。私の弟子たちは善念を失い、ただ貪り・瞋り・嫉妬・我慢ばかりを増やします。たとえ善法に似た行いをする者があっても、ただ世間の利益や名声を求め、それを主として、専心に出要の法を修めることができません。そのときの衆生は世の災乱を見て、心は常に怯弱で、自分自身や親族が衣食を得て身命を養えないのではないかと憂い恐れます。このような多くの障碍の因縁によって、仏法においては鈍根で信仰が少なく、道を得る者はごくわずかです。さらには次第に三乗の中で信心を成就する者も、また非常にまれになります。世間の禅定を修学して諸々の通業を発し、自ら宿命を知る者も、次第にいなくなります。このようにして後に、末法に入って久しくなると、道を得ること、信を得ること、禅定、通業などはすべてまったくなくなります。』私は今、この未来の悪世、像法がまさに尽きようとする時および末法の中で、わずかな善根を持つ者のために、如来に問い申し上げます。どのような方便を設けて開化し示導し、信心を生じさせ、衰えや悩みを取り除くことができるのでしょうか。それらの衆生は悪い時に遭い、障碍が多いために、その善心を退いてしまいます。世間と出世間の因果の法において、たびたび疑惑を起こし、堅い心で専ら善法を求めることができません。このような衆生はあわれむべきであり、救うべきです。世尊は大慈にして一切種智でいらっしゃいます。どうか方便を起こして彼らを明らかに教え示してください。疑いの網を離れ、もろもろの障碍を取り除き、信が増長しますように。どの乗においても、速やかに不退を得ますように。」
佛告堅淨信言:「善哉!善哉!快問斯事,深適我意。今此眾中,有菩薩摩訶薩,名曰地藏,汝應以此事而請問之。彼當為汝建立方便,開示演說,成汝所願。」
仏は堅浄信に告げられました。「善いかな、善いかな。よくぞこのことを問いました。それはわたしの意に深くかなっています。いまこの集まりの中に、地蔵という名の菩薩摩訶薩がいます。あなたはこのことを、その方に問い尋ねるがよいでしょう。その方はあなたのために方便を打ち立て、開示し演説して、あなたの願いを成就してくださいます。」
時堅淨信菩薩復白佛言:「如來世尊,無上大智!何意不說,乃欲令彼地藏菩薩而演說之?」
そこで、堅浄信菩薩は、ふたたび仏に申し上げました。「如来・世尊は、無上の大きな智慧をお持ちです。なぜご自身でお説きにならず、あの地蔵菩薩に説かせようとされるのでしょうか。」
佛告堅淨信:「汝莫生高下想。此善男子發心已來,過無量無邊不可思議阿僧祇劫,久已能度薩婆若海,功德滿足。但依本願自在力故,權巧現化,影應十方。雖復普遊一切剎土常起功業,而於五濁惡世化益偏厚,亦依本願力所熏習故,及因眾生應受化業故也。彼從十一劫來,莊嚴此世界,成熟眾生。是故在斯會中,身相端嚴,威德殊勝,唯除如來,無能過者。又於此世界所有化業,唯除遍吉、觀世音等諸大菩薩,皆不能及。以是菩薩本誓願力,速滿眾生一切所求,能滅眾生一切重罪,除諸障礙,現得安隱。又是菩薩,名為善安慰說者。所謂,巧演深法,能善開導初學發意求大乘者,令不怯弱。以如是等因緣,於此世界,眾生渴仰,受化得度。是故我今令彼說之。」
仏は堅浄信に告げました。「あなたは高い低いという思いを起こしてはなりません。この善男子は発心してこのかた、無量無辺にして不可思議な阿僧祇劫を過ぎ、すでに長く薩婆若の海を渡ることができ、功德は満ち足りています。ただ本願の自在の力に依るがゆえに、方便をもって巧みに現れ化し、その姿を十方に影のように応じさせています。すべての刹土を広く巡り常に功業を起こしていますが、五濁の悪世においては教化の利益が特に厚いのです。これもまた本願の力に熏習されたがゆえであり、また衆生が教化を受けるべき業に応じるがゆえです。彼は十一劫このかた、この世界を荘厳し、衆生を成熟させてきました。それゆえこの法会の中にあって、身相は端正で、威徳は殊勝であり、如来を除いては、これに勝る者はありません。またこの世界におけるすべての教化の業は、遍吉や観世音などの諸大菩薩を除いては、みな及びません。この菩薩は本誓願の力によって、速やかに衆生のすべての求めを満たし、衆生のすべての重罪を滅し、もろもろの障礙を除いて、ただちに安隠を得させることができます。またこの菩薩は、善安慰説者と名づけられます。すなわち、深い法を巧みに演べ、初学で発意して大乗を求める者をよく開導し、怯弱にさせないのです。このようなもろもろの因縁によって、この世界の衆生は渴仰し、教化を受けて度されるのです。それゆえ私が今、彼に説かせようとするのです。」
爾時,堅淨信菩薩既解佛意已,尋即勸請地藏菩薩摩訶薩言:「善哉,救世真士!善哉,大智開士!如我所問:『惡世眾生,以何方便而化導之,使離諸障,得堅固信?』如來今者,為欲令汝說是方便。宜當知時,哀愍為說。」
その時、堅浄信菩薩は、すでに仏の御心を理解すると、すぐに地蔵菩薩摩訶薩に勧め請うて言いました。「善きかな、世を救う真の士よ。善きかな、大いなる智慧の開士よ。私がお尋ねしたとおり、『悪世の衆生を、どのような方便によって教化し導き、もろもろの障りを離れさせ、堅固な信を得させることができるでしょうか』と。如来は今、あなたにその方便を説かせようとしておられます。どうか時を知り、哀れみをもってお説きください。」
爾時,地藏菩薩摩訶薩語堅淨信菩薩摩訶薩言:「善男子!諦聽。當為汝說。若佛滅後,惡世之中,諸有比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷,於世間、出世間因果法,未得決定信,不能修學無常想、苦想、無我想、不淨想,成就現前;不能勤觀四聖諦法及十二因緣法;亦不勤觀真如、實際、無生無滅等法。以不勤觀如是法故,不能畢竟不作十惡根本過罪。於三寶功德種種境界,不能專信。於三乘中,皆無定向。如是等人,若有種種諸障礙事,增長憂慮,或疑或悔,於一切處心不明了。多求多惱,眾事牽纏,所作不定,思想擾亂,廢修道業。有如是等障難事者,當用木輪相法,占察善惡宿世之業、現在苦樂吉凶等事。緣合故有,緣盡則滅。業集隨心,相現果起。不失不壞,相應不差。如是諦占善惡業報,曉喻自心。於所疑事,以取決了。若佛弟子,但當學習如此相法,至心歸依,所觀之事,無不誠諦。不應棄捨如是之法,而返隨逐世間卜筮、種種占相吉凶等事,貪著樂習。若樂習者,深障聖道。
そのとき、地蔵菩薩摩訶薩は堅浄信菩薩摩訶薩にこうおっしゃいました。「善男子よ、よく聴きなさい。あなたのために説きましょう。もし仏が滅度された後、悪世の中において、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷たちが、世間と出世間の因果の法について、確かな信を得ることができず、無常想・苦想・無我想・不浄想を修学して、それを現前に成就することができません。四聖諦の法や十二因縁の法を熱心に観察することもできず、真如・実際・無生無滅などの法を熱心に観察することもできません。このように法を熱心に観察しないために、十悪の根本の罪を決して犯さないということができません。三宝の功德というさまざまな境界について、ひたすら信じることができません。三乗のうちのいずれにも、定まった方向を持てません。このような人々に、さまざまな障害の事柄があると、憂いや心配が増え、あるいは疑い、あるいは悔い、あらゆる場面で心が明瞭になりません。多くを求め、多くの悩みを抱え、多くの事柄に縛られ、なすことが定まらず、思いが乱れ、修道の業を放棄してしまいます。このような障害や困難な事柄がある者は、木輪の相の法を用いて、善悪の宿世の業や、現在の苦楽・吉凶などの事柄を占うべきです。縁が合えばあるものとなり、縁が尽きれば滅します。業が集まることは心に従い、相が現れれば果が起こります。失われることなく壊れることなく、相応して違うことはありません。このようにして、よく善悪の業報を占い、自らの心に悟らせなさい。疑っている事柄について、決着をつけなさい。もし仏弟子ならば、ただこのような相の法だけを学び、至心に帰依すれば、観察する事柄について、誠実で正しくないものはありません。このような法を捨てて、かえって世間の卜筮や、さまざまな占いの吉凶などの事柄に従い、貪り執着して好んで習うべきではありません。好んで習う者は、聖道を深く妨げます。」
「善男子!欲學木輪相者,先當刻木如小指許,使長短減於一寸,正中令其四面方平,自餘向兩頭斜漸去之。仰手傍擲,令使易轉,因是義故,說名為輪。又依此相,能破壞眾生邪見疑網,轉向正道,到安隱處,是故名輪。其輪相者,有三種差別。何等為三?一者,輪相能示宿世所作善惡業種差別,其輪有十。二者,輪相能示宿世集業久近,所作強弱、大小差別,其輪有三。三者,輪相能示三世中受報差別,其輪有六。
「善男子よ、木の輪の相を学ぼうとするならば、まず木を小指ほどの大きさに刻み、長さを一寸より短くして、中央を四面とも正方形に平らにし、それより両端に向かって斜めに少しずつ削って細くしていきます。手を仰向けにして横に投げ、よく回転するようにします。このような意味から、これを輪と名づけます。また、この相によって、衆生の邪見と疑いの網を打ち破り、正道へと向かわせ、安隠な場所に至らせることができるので、輪と名づけるのです。その輪の相には、三つの違いがあります。三つとは何でしょうか。第一に、輪の相は前世で行った善悪の業の種の違いを示すことができ、その輪は十個あります。第二に、輪の相は前世で積んだ業の久しさと近さ、行ったことの強弱・大小の違いを示すことができ、その輪は三個あります。第三に、輪の相は三世における受報の違いを示すことができ、その輪は六個あります。」
「若欲觀宿世所作善惡業差別者,當刻木為十輪。依此十輪,書記十善之名。一善主在一輪,於一面記。次以十惡書對十善,令使相當,亦各記在一面。言十善者,則為一切眾善根本,能攝一切諸餘善法。言十惡者,亦為一切眾惡根本,能攝一切諸餘惡法。
過去世で行った善悪の業の違いを観察したいと思うなら、木を刻んで十の輪を作るべきです。この十の輪に、十善の名称を書き記します。一つの善が一つの輪を受け持ち、一方の面に記します。次に十悪を十善と向き合うように書いて、それぞれ相応させ、やはりそれぞれを一方の面に記します。十善とは、すべての善の根本であり、他のすべての善法を包み込むことができます。十悪とは、すべての悪の根本であり、他のすべての悪法を包み込むことができます。
「若欲占此輪相者,先當學至心總禮十方一切諸佛。因即立願:『願令十方一切眾生,速疾皆得親近供養,諮受正法。』次應學至心敬禮十方一切法藏。因即立願:『願令十方一切眾生,速疾皆得受持讀誦,如法修行,及為他說。』次當學至心敬禮十方一切賢聖。因即立願:『願令十方一切眾生,速疾皆得親近供養,發菩提心,志不退轉。』後應學至心禮我地藏菩薩摩訶薩。因即立願:『願令十方一切眾生,速得除滅惡業重罪,離諸障礙。資生眾具,悉皆充足。』如是禮已,隨所有香華等,當修供養。
「この輪相を占おうとする者は、まず至心に十方の一切の諸仏を総じて礼拝することを学ぶべきです。そこで願を立てます。『十方の一切の衆生が、速やかに皆、仏に親しみ供養し、正法を聞いて受けられるように。』次に、至心に十方の一切の法蔵を敬礼することを学ぶべきです。そこで願を立てます。『十方の一切の衆生が、速やかに皆、法を受け持ち読誦し、法の通りに修行し、また他のために説くことができるように。』次に、至心に十方の一切の賢聖を敬礼することを学ぶべきです。そこで願を立てます。『十方の一切の衆生が、速やかに皆、聖者に親しみ供養し、菩提心を起こし、その志が退かないように。』最後に、至心に我が地蔵菩薩摩訶薩を礼拝することを学ぶべきです。そこで願を立てます。『十方の一切の衆生が、速やかに悪業と重い罪を除き滅ぼし、諸々の障碍から離れるように。暮らしを支える品々が、すべて十分に満ち足りるように。』このように礼拝し終えたなら、手にある香や花などに応じて、供養を修めるべきです。」
「修供養者,仰念一切佛法僧寶,體常遍滿,無所不在。願令此香華,等同法性,普熏一切諸佛剎土,施作佛事。又念十方一切供具,無時不有。我今當以十方所有一切種種香華、瓔珞、幢幡、寶蓋、諸珍妙飾、種種音樂、燈明、燭火、飲食、衣服、臥具、湯藥,乃至十方所有一切種種莊嚴供養之具,憶想遙擬,普共眾生奉獻供養。當念一切世界中有修供養者,我今隨喜。若未修供養者,願得開導,令修供養。又願我身,速能遍至一切剎土,於一切佛法僧所,各以一切種莊嚴供養之具,共一切眾生等持奉獻。供養一切諸佛法身、色身、舍利、形像、浮圖、廟塔一切佛事,供養一切所有法藏及說法處,供養一切賢聖僧眾,願共一切眾生,修行如是供養已,漸得成就六波羅蜜、四無量心。深知一切法本來寂靜,無生無滅,一味平等,離念清淨,畢竟圓滿。
供養を修める者は、一切の仏法僧の宝を仰ぎ念じて、その本体は常に遍満し、どこにでも存在しないところはないと観じます。この香と華が、法性そのものと等しく、あまねく一切の諸仏の刹土を薫じ、仏の教えをなすことができますようにと願います。また、十方のすべての供養の具は、いつでも存在しない時はないと念じます。私は今、十方にあるすべてのさまざまな香華、瓔珞、幢幡、宝蓋、あらゆる珍宝の妙なる飾り、さまざまな音楽、灯明、ろうそくの火、飲食、衣服、臥具、湯薬に至るまで、十方にあるすべてのさまざまな荘厳の供養の具を思い描き、はるかに思いをめぐらして、すべての衆生とともに捧げて供養いたします。一切の世界の中に供養を修める者がいるならば、私は今、その功徳を随喜します。もし供養をまだ修めていない者があれば、願わくは導き開いて、供養を修めることができますように。また願わくは、わが身が速やかに一切の刹土に遍く至り、一切の仏法僧のもとにおいて、それぞれにすべての種類の荘厳の供養の具をもって、一切の衆生とともに等しく保ち捧げることができますように。一切の諸仏の法身、色身、舍利、形像、浮図、廟塔、すべての仏事を供養し、一切のすべての法蔵および説法の場を供養し、一切の賢聖の僧衆を供養し、一切の衆生とともにこのような供養を修行し終えて、しだいに六波羅蜜と四無量心を成就することができますように。一切の法はもともと寂静であり、生もなく滅もなく、一味平等であり、念を離れて清浄であり、畢竟円満であると深く知ります。
「又應別復係心供養我地藏菩薩摩訶薩。次當稱名,若默誦念。一心告言:『南無地藏菩薩摩訶薩。』如是稱名,滿足至千。經千念已,而作是言:『地藏菩薩摩訶薩!大慈大悲!唯願護念我及一切眾生,速除諸障,增長淨信,令今所觀稱實相應。』作此語已,然後手執木輪,於淨物上而傍擲之。如是欲自觀法,若欲觀他,皆亦如是。
また別に、心を集中させて、私・地蔵菩薩摩訶薩を供養するべきです。次に、その名を称え、あるいは黙って念じます。一心にこう告げます。「南無地蔵菩薩摩訶薩。」このように名を称え、千回に達するまで満たします。千回の念を経たのち、こう言います。「地蔵菩薩摩訶薩よ。大慈大悲の方よ。どうか私と一切の衆生を護り念じてください。速やかに諸々の障りを除き、清らかな信を増し、今観ているものが真実の相とよく相应するようにしてください。」この言葉を述べたのち、それから手に木の輪を持ち、清らかな物の上で横に投げます。このように自ら法を観ようとする場合も、他を観ようとする場合も、いずれも同じようにします。
「應知占其輪相者,隨所現業,悉應一一諦觀思驗。或純具十善,或純具十惡,或善惡交雜,或純善不具,或純惡不具。如是業因,種類不同,習氣果報,各各別異,如佛世尊餘處廣說。應當憶念思惟觀察所現業種,與今世果報所經苦樂吉凶等事,及煩惱業習得相當者,名為相應;若不相當者,謂不至心,名虛謬也。
占いで輪相に現れるものは、現れた業に従って、その一つ一つをよく観察し、思い検討しなければなりません。あるいは純粋に十善を備えていることもあり、あるいは純粋に十悪を備えていることもあり、あるいは善と悪が交じり合っていることもあり、あるいは純粋な善でありながら不完全であることもあり、あるいは純粋な悪でありながら不完全であることもあります。このような業の原因は種類が異なり、習気や果報もそれぞれに異なっています。これは仏世尊が他の場所で広く説かれた通りです。現れた業の種と、今世の果報として経験する苦楽や吉凶などの事柄、および煩悩や業の習気が互いに相当するかどうかを、よく思い、思い巡らし、観察しなければなりません。相当するならば、これを相応といいます。相当しないならば、すなわち至心でなかったのであり、これを虚謬といいます。
「若占輪相,其善惡業俱不現者,此人已證無漏智心,專求出離,不復樂受世間果報,諸有漏業展轉微弱,更不增長,是故不現。又純善不具、純惡不具者,此二種人,善惡之業所有不現者,皆是微弱未能牽果,是故不現。若當來世佛諸弟子,已占善惡果報得相應者,於五欲眾具得稱意時,勿當自縱以起放逸。即應思念:『由我宿世如是善業故,今獲此報。我今乃可轉更進修,不應休止。』若遭眾厄種種衰惱不吉之事擾亂憂怖,不稱意時,應當甘受,無令疑悔,退修善業。即當思念:『但由我宿世造如是惡業故,今獲此報,我今應當悔彼惡業,專修對治及修餘善。無得止住懈怠放逸,轉更增集種種苦聚。』是名占察初輪相法。
「もし占輪の相で、その善悪の業がともに現れない場合、この人はすでに無漏の智心を証得しており、もっぱら出離を求めて、もはや世間の果報を受けることを楽しみとせず、諸々の有漏の業は次第に微弱になって、さらに増長することがありません。それゆえに現れないのです。また、純善が具わらない者と純悪が具わらない者、この二種の人について、善悪の業が現れないのは、いずれも微弱で果を牽引できないためです。それゆえに現れないのです。もし未来世の仏弟子たちが、すでに善悪の果報を占って相応する相を得たならば、五欲の種々の具が意にかなった時には、自らほしいままにして放逸を起こしてはなりません。すぐにこう思い巡らすべきです。『私が前世でこのような善業を行ったからこそ、今この果報を得たのです。私は今こそ、さらに一層進んで修行し、休止してはなりません』と。もし種々の災難や衰悩、不吉な事に遭って心が乱れ憂い恐れ、意にかなわない時には、甘んじて受け入れ、疑い悔いる心を起こして善業の修行を退けてはなりません。すぐにこう思い巡らすべきです。『ただ私が前世でこのような悪業を造ったために、今この果報を得たのです。私は今、かの悪業を悔い改め、もっぱらその対治を修め、また他の善を修めるべきです。懈怠と放逸にとどまって、かえって種々の苦の集まりをさらに増し集めてはなりません』と。これを占察の初輪の相の法と名づけます。」
「善男子!若欲占察過去往昔集業久近,所作強弱、大小差別者,當復刻木為三輪,以身口意各主一輪,書字記之。又於輪正中,一面書一畫,令麁長使徹畔。次第二面書一畫,令細短使不至畔。次第三面作一傍刻如畫,令其麁深。次第四面亦作傍刻,令使細淺。當知善業莊嚴猶如畫飾,惡業衰害猶如損刻。其畫長大者,顯示積善來久,行業猛利,所作增上。其畫細短者,顯示積善來近,始習基鈍,所作微薄。其刻麁深者,顯示習惡來久,所作增上,餘殃亦厚。其刻細淺者,顯示退善來近,始習惡法,所作之業,未至增上。或雖起重惡,已曾改悔,此謂小惡。
「善男子よ、もし過去の往昔に積んできた業の久しさや近さ、行いの強弱・大小の違いを占いたいと思うなら、さらに木を刻んで三つの輪を作り、身と口と意にそれぞれ一つの輪を担当させ、字を書いてそれを記します。
また輪の真ん中に、一面には一筋の線を書き、それを太く長くして端まで届くようにします。次に二面目には一筋の線を書き、それを細く短くして端まで届かないようにします。次に三面目には横に一本の刻みを入れ、絵を描くようにして、それを太く深くします。次に四面目にも横に刻みを入れ、それを細く浅くします。
善業の飾りはちょうど絵の飾りのようであり、悪業の衰え害することはちょうど削り刻んだ損傷のようであると知るべきです。
その線が長く大きいものは、善を積んできたことが久しく、行いが猛利で、なしたことが増上であることを示します。その線が細く短いものは、善を積んできたことが近く、学び始めたばかりで基が鈍く、なしたことが微薄であることを示します。
その刻みが太く深いものは、悪を習ってきたことが久しく、なしたことが増上で、残りの災いもまた厚いことを示します。その刻みが細く浅いものは、善から退いてきたことが近く、悪法を学び始めたばかりで、なした業がまだ増上に至っていないことを示します。あるいは重い悪を起こしたとしても、すでに改悔したことがあれば、これは小さな悪であると言います。」
「善男子!若占初輪相者,但知宿世所造之業善惡差別,而不能知積習久近、所作之業強弱大小,是故須占第二輪相。若占第二輪相者,當依初輪相中所現之業。若屬身者,擲身輪相;若屬口者,擲口輪相;若屬意者,擲意輪相。不得以此三輪之相一擲通占。應當隨業主念,一一善惡,依所屬輪,別擲占之。
善男子よ、もし最初の輪相を占うなら、ただ前世で造った業の善悪の違いを知るだけで、積み重ねてきた習いの久しさや近さ、造った業の強弱・大小を知ることはできません。ですから、第二の輪相を占う必要があります。もし第二の輪相を占うなら、最初の輪相の中に現れた業に従うべきです。もし身に属するものであれば、身の輪相を投げます。もし口に属するものであれば、口の輪相を投げます。もし意に属するものであれば、意の輪相を投げます。この三つの輪相を一度に投げてまとめて占ってはなりません。業を主として念じ、一つひとつの善悪に応じて、属する輪に従い、それぞれ別に投げて占うべきです。
「復次,若占初輪相中,唯得身之善,於此第二輪相中得身惡者,謂無至心,不得相應,名虛謬也。又復不相應者,謂占初輪相中,得不殺業,及得偷盜業,意先主觀不殺業,而於第二輪相中得身惡者,名不相應。
復次、初めの輪相を占う中で、ただ身の善のみを得て、この第二の輪相の中で身の悪を得る場合は、至心がなく、相応を得ないので、虚謬(きょみょう)と名づけます。また、相応しないとは、初めの輪相を占う中で、不殺の業を得、また盗みの業を得て、意がまず不殺の業を主として観じたのに、第二の輪相の中で身の悪を得る場合を、相応しないと名づけます。
「復次,若觀現在從生以來,不樂殺業,無造殺罪,但意主殺業,而於此第二輪相中得身大惡者,謂名不相應。自餘口意中業不相應義,亦如是應知。
次に、もし現在において生まれて以来、殺生の業を好まず、殺生の罪を造らず、ただ心の中で殺生の業を主として、この第二の輪の相において身に大きな悪を得たならば、それは不相応と名づけます。その他の口と意における業の不相応の意味についても、同じように知るべきです。
「善男子!若未來世諸眾生等,欲求度脫生老病死,始學發心修習禪定、無相智慧者,應當先觀宿世所作惡業多少及以輕重。若惡業多厚者,不得即學禪定、智慧,應當先修懺悔之法。所以者何?此人宿習惡心猛利故,於今現在必多造惡,毀犯重禁。以犯重禁故,若不懺悔令其清淨,而修禪定、智慧者,則多有障礙,不能剋獲。或失心錯亂,或外邪所惱,或納受邪法,增長惡見。是故當先修懺悔法,若戒根清淨,及宿世重罪得微薄者,則離諸障。
「善男子よ、もし未来世の衆生たちが、生老病死から脱れようと願い、初めて発心して禅定と無相の智慧を学び修めようとするならば、まず過去世で行った悪業の多いか少ないか、また軽いか重いかを観察すべきです。もし悪業が多く重い人は、ただちに禅定や智慧を学ぶことはできません。まず懺悔の法を修めるべきです。なぜでしょうか。その人は過去世から悪心を激しく習い重ねてきたため、今生においても必ず多くの悪を造り、重い戒めを破るからです。重い戒めを破った者を、もし懺悔して清らかにしないままで禅定や智慧を修めるならば、多くの障礙が生じて成し遂げることができません。あるいは心を失って乱れ、あるいは外の悪鬼に悩まされ、あるいは邪法を受け入れて悪い見方を増長することになります。ですから、まず懺悔の法を修めるべきであり、戒の根が清らかになり、過去世の重い罪が薄まっていくならば、もろもろの障礙を離れることができます。」
「善男子!欲修懺悔法者,當住靜處,隨力所能,莊嚴一室。內置佛事及安經法,懸繒幡蓋,求集香華,以修供養。澡沐身體,及洗衣服,勿令臭穢。於晝日分,在此室內,三時稱名。一心敬禮過去七佛及五十三佛。次隨十方面,一一總歸,擬心遍禮一切諸佛所有色身、舍利、形像、浮圖、廟塔、一切佛事。次復總禮十方三世所有諸佛。又當擬心遍禮十方一切法藏,次當擬心遍禮十方一切賢聖,然後更別稱名禮我地藏菩薩摩訶薩。
「善男子よ、懺悔の法を修めようとする者は、静かな場所に住み、自分の力に応じて、一室を荘厳しなさい。その中に仏事を安置し、経法を置き、繒や幡蓋を懸け、香や華を集めて供養を修めなさい。身体を洗い清め、また衣服を洗い、臭く穢れないようにしなさい。昼の間、この室内で、三時において名を称えなさい。一心に過去七仏および五十三仏を敬礼しなさい。次に十方のそれぞれに随って、一つ一つ総じて帰依し、心を期して一切の諸仏の有する色身・舎利・形像・浮図・廟塔・一切の仏事を遍く礼しなさい。次にまた総じて十方三世のすべての諸仏を礼しなさい。また心を期して十方の一切の法蔵を遍く礼し、次に心を期して十方の一切の賢聖を遍く礼し、その後さらに別に名を称えて我が地蔵菩薩摩訶薩を礼しなさい。」
「如是禮已,應當說所作罪,一心仰告:
このように礼をした後は、自分の犯した罪を述べ、心を一つにして仰ぎ告げるべきです。
「『唯願十方諸大慈尊,證知護念,我今懺悔,不復更造。願我及一切眾生,速得除滅無量劫來十惡、四重、五逆、顛倒、謗毀三寶,一闡提罪。』
唯、十方の諸大慈尊が証知し護念してくださいますように。私は今、懺悔いたします。もう二度と造りません。どうか私と一切の衆生が、無量劫このかたの十悪、四重、五逆、顛倒、三宝を謗毀する一闡提の罪を、速やかに除滅できますように。
「復應思惟:『如是罪性,但從虛妄顛倒心起,無有定實而可得者,本唯空寂。願我及一切眾生速達心本,永滅罪根。』
また、次のように思い巡らせるべきです。「この罪の本性は、ただ虚妄で顛倒した心から起こるものであって、定まった実体として捉えられるものは何もなく、もともとただ空寂である。どうか私とすべての衆生が速やかに心の本源に到達し、罪の根を永遠に滅ぼしますように」と。
「次應復發勸請之願:『願令十方一切菩薩,未成正覺者,願速成正覺。若已成正覺者,願常住在世,轉正法輪,不入涅槃。』
次に、再び勧請の願を起こすべきです。「十方のすべての菩薩で、まだ正覚を成し遂げていない方々が、速やかに正覚を成し遂げられますように。すでに正覚を成し遂げた方々が、常に世に住み、正法の輪を転じて、涅槃に入られませんように。」
「次當復發隨喜之願:『願我及一切眾生,畢竟永捨嫉妬之心,於三世中一切剎土,所有修學一切功德及成就者,悉皆隨喜。』
次に、また随喜の願を起こすべきです。「私とすべての衆生が、ついに永遠に嫉妬の心を捨て、三世のすべての仏国土において、すべての功德を修学し成就した者たちを、ことごとく随喜しますように。」
「次當復發迴向之願:『願我所修一切功德,資益一切諸眾生等,同趣佛智,至涅槃城。』如是發迴向願已,復往餘靜室,端坐一心,若稱誦,若默念我之名號。當減省睡眠,若惛蓋多者,應於道場室中旋遶誦念。
次に、また回向の願を起こすべきです。「私が修めるすべての功徳が、すべての衆生を利益し、ともに仏の智慧へと趣き、涅槃の城に至ることができますように」と。このように回向の願を起こした後、さらに他の静かな部屋へ行き、端坐して一心に、あるいは称えて唱え、あるいは黙念して私の名号を唱えます。睡眠を減らし慎むべきであり、もし昏沈の蓋が多いならば、道場の部屋の中で旋遶しながら誦念するのがよいでしょう。
「次至夜分時,若有燈燭光明事者,亦應三時恭敬供養,悔過發願。若不能辦光明事者,應當直在餘靜室中,一心誦念。日日如是行懺悔法,勿令懈廢。若人宿世遠有善基,暫時遇惡因緣而造惡法,罪障輕微,其心猛利,意力強者,經七日後,即得清淨,除諸障礙。如是眾生等,業有厚薄,諸根利鈍,差別無量。或經二七日後而得清淨;或經三七日,乃至或經七七日後而得清淨。若過去、現在俱有增上種種重罪者,或經百日而得清淨;或經二百日,乃至或經千日而得清淨。若極鈍根,罪障最重者,但當能發勇猛之心,不顧惜身命想,常勤稱念,晝夜旋遶,減省睡眠,禮懺發願,樂修供養,不懈不廢,乃至失命,要不休退。如是精進,於千日中必獲清淨。
次に夜分の時になりましたら、もし灯燭の光明を用意できる場合は、やはり三時それぞれに恭敬し供養して、悔過し発願なさいますように。もし光明を用意できない場合は、ただ別の静かな部屋にじっとこもり、一心に誦念なさいますように。日々このように懺悔の法を行い、怠ってやめてはなりません。
もし人が過去世から遠く善の基(もと)を持ち、一時的に悪い因縁に遇って悪法を造ったとしても、罪障が軽微であり、その心が猛利で、意力が強い者は、七日を経た後、ただちに清浄を得て、もろもろの障礙を除くことができます。このように衆生は、業に厚薄があり、諸根に利鈍があり、その差別は無量です。あるいは二七日を経た後に清浄を得、あるいは三七日を経、さらにはあるいは七七日を経た後に清浄を得ることもあります。もし過去・現在ともに増上なる種々の重罪がある者は、あるいは百日を経て清浄を得、あるいは二百日を経、さらにはあるいは千日を経て清浄を得ることもあります。もし極めて鈍根で、罪障が最も重い者であっても、ただ勇猛の心を発し、身命を惜しむ想いを顧みず、常に勤めて称念し、昼夜に旋遶し、睡眠を減らし省き、礼懺し発願し、供養を修めることを楽しみ、懈らず廃さず、いかに命を失うことがあっても、決して休退してはなりません。このように精進すれば、千日の中で必ず清浄を得ることができます。
「善男子!若欲知得清淨相者,從始修行過七日後,應當日日於晨朝旦,以第二輪相具安手中,頻三擲之。若身口意皆純善者,名得清淨。如是未來諸眾生等,能修行懺悔者,從先過去久遠以來,於佛法中各曾習善,隨其所修何等功德,業有厚薄種種別異。是故彼等得清淨時,相亦不同。或有眾生得三業純善時,不即更得諸餘好相。或有眾生得三業善相時,於一日一夜中,復見光明遍滿其室。或聞殊特異好香氣,身意快然。或作善夢,夢中見佛色身來為作證,手摩其頭,歎言:『善哉!汝今清淨,我來證汝。』或夢見菩薩身來為作證,或夢見佛形像放光而為作證。若人未得三業善相,但先見聞如此諸事者,則為虛妄誑惑詐偽,非善相也。若人曾有出世善基,攝心猛利者,我於爾時,隨所應度而為現身。放大慈光,令彼安隱,離諸疑怖。或示神通種種變化,或復令彼自憶宿命所逕之事、所作善惡。或復隨其所樂,為說種種深要之法。彼人即時於所向乘,得決定信,或漸證獲沙門道果。
善男子よ、清浄な相を得るとはどういうことかを知りたいと思うなら、修行を始めて七日が過ぎた後、毎日朝早く、第二の輪の相を手の中にきちんと置き、三度続けて投げなさい。身と口と意がすべて純粋に善であれば、清浄を得たと名づけます。このように未来のすべての衆生たちで、悔い改めの修行をすることのできる者は、遠い過去からこのかた、仏法の中でそれぞれに善を修めてきました。その修めた功徳がどのようなものであれ、業には厚い薄いいろいろな違いがあります。それゆえ彼らが清浄を得るとき、その相もまた同じではありません。ある衆生は身口意の三つの業が純粋に善となるとき、すぐにさらに他のよい相を得ることはありません。ある衆生は三業の善相を得るとき、一日一夜のうちに、さらに光明がその部屋に遍く満ちるのを見ます。あるいは特別にすぐれたよい香りを聞き、身も心も快くなります。あるいは善い夢を見て、夢の中で仏の色身が来て証を立て、手でその頭を摩り、ほめたたえて言います。『善いかな、あなたは今清浄です。私があなたを証しましょう。』あるいは夢の中で菩薩の姿が来て証を立てるのを見、あるいは夢の中で仏の形像が光を放って証を立てるのを見ます。もし人がまだ三業の善相を得ないのに、ただ先にこのようなさまざまなことを見たり聞いたりしたならば、それは虚妄で惑わし偽るものであり、善相ではありません。もし人がかつて出世の善の基盤を持ち、心を摂めて力が鋭いならば、私がそのとき、導くべきに応じて姿を現します。大きな慈しみの光を放ち、その人を安らかにして、もろもろの疑いと恐れを離れさせます。あるいは神通のさまざまな変化を示し、あるいはまたその人に過去世で経験した事柄や行った善悪を自ら思い出させます。あるいはまたその人の好みに応じて、さまざまな深い肝要の法を説きます。その人はただちに、目指す乗において決定の信を得て、あるいは次第に沙門の道果を証得します。
「復次,彼諸眾生若雖未能見我化身轉變說法,但當學至心,使身口意得清淨相已,我亦護念,令彼眾生速得消滅種種障礙。天魔波旬不來破壞,乃至九十五種外道邪師、一切鬼神,亦不來亂。所有五蓋展轉輕微,堪能修習諸禪智慧。
また、それらの衆生が、たとえ私の化身が姿を変えて説法するのを見ることができなくても、ただ至心に学び、身と口と意を清浄な相に保つならば、私もまた護り念じ、それらの衆生が速やかにさまざまな障礙を消し滅ぼすようにさせます。天魔波旬はやって来て壊すことはなく、さらには九十五種の外道の邪師や一切の鬼神も、乱しに来ることはありません。すべての五蓋は次第に軽くなり、さまざまな禅と智慧を修習することができるようになります。
「復次,若未來世諸眾生等,雖不為求禪定、智慧,出要之道,但遭種種眾厄,貧窮困苦,憂惱逼迫者,亦應恭敬禮拜供養,悔所作惡,恒常發願,於一切時一切處,勤心稱誦我之名號,令其至誠。亦當速脫種種衰惱,捨此命已,生於善處。
「復次、未来世の諸々の衆生たちが、たとえ禅定や智慧、解脱への道を求めるためでなくても、さまざまな災難に遭い、貧窮や困苦、憂いや悩みに逼迫されているならば、その人もまた恭敬し礼拝し供養し、自分の犯した悪を悔い、いつも願を発し、いかなる時、いかなる場所においても、心を込めて私の名号を称え誦み、至誠の心を起こすべきです。そうすれば、その人もまた速やかにさまざまな衰えや悩みから脱れ、この命を終えた後は、善き所に生まれるでしょう。」
「復次,未來之世,若在家、若出家諸眾生等,欲求受清淨妙戒,而先已作增上重罪,不得受者,亦當如上修懺悔法,令其至心,得身口意善相已,即應可受。若彼眾生欲習摩訶衍道,求受菩薩根本重戒,及願總受在家、出家一切禁戒——所謂:攝律儀戒、攝善法戒、攝化眾生戒——而不能得善好戒師,廣解菩薩法藏。先修行者,應當至心於道場內,恭敬供養,仰告十方諸佛菩薩,請為師證。一心立願,稱辯戒相,先說十根本重戒,次當總舉三種戒聚,自誓而受,此亦得戒。
次に、未来の世において、在家であれ出家であれ、もろもろの衆生が、清浄な妙戒を受けたいと願いながら、すでに前に強い重い罪を作してしまい、戒を受けることができない場合も、また above と同じように懺悔の法を修め、その心を至誠にして、身と口と意に善い相が現れたならば、すぐに受けることができます。もしその衆生が大乗の道を学びたいと願い、菩薩の根本の重戒を受け、また在家・出家のすべての禁戒――いわゆる律儀戒を摂し、善法戒を摂し、衆生を教化する戒を摂するもの――をまとめて受けたいと願いながら、よい戒師を得られず、菩薩の法蔵を広く理解できないならば、まず修行する者は、至心に道場の中で恭敬し供養し、十方の諸仏・菩薩に仰ぎ告げて、師となり証をなしてくださるようお願いすべきです。一心に願を立て、戒の相を称え述べ、まず十の根本重戒を説き、次に三種の戒聚をまとめて挙げ、自ら誓って受ければ、これによっても戒を得ることができます。
「復次,未來世諸眾生等,欲求出家,及已出家,若不能得善好戒師,及清淨僧眾,其心疑惑,不得如法受於禁戒者,但能學發無上道心,亦令身口意得清淨已。其未出家者,應當剃髮,被服法衣,如上立願,自誓而受菩薩律儀三種戒聚,則名具獲波羅提木叉出家之戒,名為比丘、比丘尼。即應推求聲聞律藏,及菩薩所習摩德勒伽藏,受持讀誦,觀察修行。若雖出家,而其年未滿二十者,應當先誓願受十根本戒,及受沙彌、沙彌尼所有別戒。既受戒已,亦名沙彌、沙彌尼。即應親近供養給侍先舊出家,學大乘心,具受戒者,求為依止之師,請問教戒,修行威儀,如沙彌、沙彌尼法。若不能值如是之人,唯當親近菩薩所修摩德勒伽藏,讀誦思惟,觀察修行,慇懃供養佛法僧寶。若沙彌尼年已十八者,亦當自誓受毘尼藏中式叉摩那六戒之法,及遍學比丘尼一切戒聚。其年若滿二十時,乃可如上總受菩薩三種戒聚。然後得名比丘尼。若彼眾生,雖學懺悔,不能至心,不獲善相者,設作受相,不名得戒。」
次に、未来世のさまざまな衆生たちが、出家を求めようとし、またすでに出家していながら、すぐれた戒師や清らかな僧衆に恵まれず、その心に疑いを抱き、法にかなった形で禁戒を受けることができない場合でも、ただ無上の道心を発すことを学べば、身と口と意を清らかにすることができます。まだ出家していない人は、髪を剃り、法衣を身にまとい、上に述べたように願を立て、自ら誓って菩薩の律儀である三種の戒聚を受けるならば、それは波羅提木叉の出家の戒を具足して得たと呼ばれ、比丘・比丘尼と名のります。そしてただちに声聞の律蔵、および菩薩が学ぶ摩徳勒伽蔵を求め、受持し読誦し、観察して修行するべきです。たとえ出家していても、まだ年が二十に満たない者は、まず誓願して十根本戒を受け、さらに沙弥・沙弥尼に定められた別の戒を受けます。戒を受けたのちは、同じく沙弥・沙弥尼と名のります。そして、先に出家して大乗の心を学び、戒を具足して受けた人に親しみ、供養し、給仕し、依止の師として教戒を請い求め、威儀を修行し、沙弥・沙弥尼の法に従うべきです。もしそのような人に出会えないときは、ただ菩薩が学ぶ摩徳勒伽蔵に親しみ、読誦し思惟し、観察して修行し、殷勤に仏法僧の宝を供養するべきです。沙弥尼で年がすでに十八になった者は、自ら誓って毘尼蔵の中の式叉摩那の六戒の法を受け、また比丘尼のすべての戒聚をあまねく学ぶべきです。その年が二十に満ちたときには、はじめて上に述べたように菩薩の三種の戒聚をまとめて受けることができます。そうしてのちに比丘尼と名のることができるのです。もしその衆生が、懺悔を学んでも、心から至ることができず、善相を得られないならば、たとえ受戒の作法を行っても、戒を得たとは名のりません。
爾時,堅淨信菩薩摩訶薩問地藏菩薩摩訶薩言:「所說至心者,差別有幾種?何等至心,能獲善相?」
そのとき、堅浄信菩薩摩訶薩が地蔵菩薩摩訶薩にこう尋ねました。「説かれるところの至心には、どのような違いがいくつあるのでしょうか。どのような至心であれば、善相を得ることができるのでしょうか。」
地藏菩薩摩訶薩言:「善男子!我所說至心者,略有二種。何等為二?一者,初始學習求願至心。二者,攝意專精,成就勇猛,相應至心。得此第二至心者,能獲善相。此第二至心,復有下中上三種差別,何等為三?一者一心,所謂係想不亂,心住了了。二者勇猛心,所謂專求不懈,不顧身命。三者深心,所謂與法相應,究竟不退。若人修習此懺悔法,乃至不得下至心者,終不能獲清淨善相。是名說占第二輪法。
地蔵菩薩摩訶薩がおっしゃいました。「善男子よ、私が説く至心には、大きく分けて二つあります。どの二つでしょうか。一つは、初めて学び始めた者が願いを求める至心です。二つは、心を収めて専ら精進し、勇猛を成就し、法に相応する至心です。この第二の至心を得た者は、善き相を得ることができます。この第二の至心には、さらに下・中・上の三種の区別があります。どの三つでしょうか。一つは一心で、いわゆる想いを繋ぎとめて乱れず、心がはっきりと安住することです。二つは勇猛心で、いわゆる専ら求めて怠らず、身命を顧みないことです。三つは深心で、いわゆる法と相応し、究極に至って退かないことです。もし人がこの懺悔の法を修習しても、下の至心さえ得られなければ、ついに清浄な善き相を得ることはできません。これを占察の第二輪の法を説くといいます。」
「善男子!若欲占察三世中受報差別者,當復刻木為六輪。於此六輪,以一二三、四五六、七八九、十十一十二、十三十四十五、十六十七十八等數,書字記之。一數主一面,各書三面,令數次第不錯不亂。當知如此諸數,皆從一數而起,以一為本。如是數相者,顯示一切眾生六根之聚,皆從如來藏自性清淨心一實境界而起,依一實境界以之為本。所謂依一實境界故,有彼無明。不了一法界,謬念思惟,現妄境界,分別取著,集業因緣,生眼、耳、鼻、舌、身、意等六根。以依內六根故,對外色、聲、香、味、觸、法等六塵,起眼、耳、鼻、舌、身、意等六識。以依六識故,於色、聲、香、味、觸、法中,起違想、順想、非違非順等想,生十八種受。若未來世佛諸弟子,於三世中所受果報,欲決疑意者,應當三擲此第三輪相,占計合數,依數觀之,以定善惡。
善男子よ、もし三世における受報の違いを占いたいと思うなら、さらに木を刻んで六つの輪を作りなさい。この六つの輪に、一・二・三、四・五・六、七・八・九、十・十一・十二、十三・十四・十五、十六・十七・十八という数え方を、文字で書いて記しなさい。一つの数が一面を受け持ち、それぞれ三面に書き、数の順序が間違わず乱れないようにしなさい。これらの数はすべて、一という数から起こり、一を根本としていることを知りなさい。このような数のあり方は、すべての衆生の六根の集まりが、みな如来蔵の自性清浄心という一実の境界から起こり、一実の境界に依ってそれを根本としていることを示しています。すなわち、一実の境界に依るがゆえに、かの無明があります。一法界を理解せず、誤った思いで考え、妄なる境界を現し、分別して執着し、業の因縁を集め、眼・耳・鼻・舌・身・意などの六根を生じます。内の六根に依るがゆえに、外の色・声・香・味・触・法などの六塵に対して、眼・耳・鼻・舌・身・意などの六識を起こします。六識に依るがゆえに、色・声・香・味・触・法において、違うという想い、順うという想い、違わず順わずという想いなどを起こし、十八種の受を生じます。もし未来世の仏の弟子たちが、三世において受ける果報について、疑いを決めたいと思うなら、この第三の輪相を三度投げ、数を合わせて計り、数に依って観察し、善悪を定めなさい。
「如是所觀三世果報善惡之相,有一百八十九種。何等為一百八十九種?一者,求上乘得不退。二者,所求果現當證。三者,求中乘得不退。四者,求下乘得不退。五者,求神通得成就。六者,修四梵得成就。七者,修世禪得成就。八者,所欲受得妙戒。九者,所曾受得戒具。十者,求上乘未住信。十一者,求中乘未住信。十二者,求下乘未住信。十三者,所觀人為善友。十四者,隨所聞是正信。十五者,所觀人為惡友。十六者,隨所聞非正教。十七者,所觀人有實德。十八者,所觀人無實德。十九者,所觀義不錯謬。二十者,所觀義是錯謬。二十一者,有所誦不錯謬。二十二者,有所誦是錯謬。二十三者,所修行不錯謬。二十四者,所見聞是善相。二十五者,有所證為正實。二十六者,有所學是錯謬。二十七者,所見聞非善相。二十八者,有所證非正法。二十九者,有所獲邪神持。三十者,所能說邪智辯。三十一者,所玄知非人力。三十二者,應先習觀智道。三十三者,應先習禪定道。三十四者,觀所學無障礙。三十五者,觀所學是所宜。三十六者,觀所學非所宜。三十七者,觀所學是宿習。三十八者,觀所學非宿習。三十九者,觀所學善增長。四十者,觀所學方便少。四十一者,觀所學無進趣。四十二者,所求果現未得。四十三者,求出家當得去。四十四者,求聞法得教示。四十五者,求經卷得讀誦。四十六者,觀所作是魔事。四十七者,觀所作事成就。四十八者,觀所作事不成。四十九者,求大富財盈滿。五十者,求官位當得獲。五十一者,求壽命得延年。五十二者,求世仙當得獲。五十三者,觀學問多所達。五十四者,觀學問少所達。五十五者,求師友得如意。五十六者,求弟子得如意。五十七者,求父母得如意。五十八者,求男女得如意。五十九者,求妻妾得如意。六十者,求同伴得如意。六十一者,觀所慮得和合。六十二者,所觀人心懷恚。六十三者,求無恨得歡喜。六十四者,求和合得如意。六十五者,所觀人心歡喜。六十六者,所思人得會見。六十七者,所思人不復會。六十八者,所請喚得來集。六十九者,所憎惡得離之。七十者,所愛敬得近之。七十一者,觀欲聚得和集。七十二者,觀欲聚不和集。七十三者,所請喚不得來。七十四者,所期人必當至。七十五者,所期人住不來。七十六者,所觀人得安吉。七十七者,所觀人不安吉。七十八者,所觀人已無身。七十九者,所望見得覩之。八十者,所求覓得見之。八十一者,求所聞得吉語。八十二者,所求見不如意。八十三者,觀所疑即為實。八十四者,觀所疑為不實。八十五者,所觀人不和合。八十六者,求佛事當得獲。八十七者,求供具當得獲。八十八者,求資生得如意。八十九者,求資生少得獲。九十者,有所求皆當得。九十一者,有所求皆不得。九十二者,有所求少得獲。九十三者,有所求得如意。九十四者,有所求速當得。九十五者,有所求久當得。九十六者,有所求而損失。九十七者,有所求得吉利。九十八者,有所求而受苦。九十九者,觀所失求當得。一百者,觀所失永不得。一百一者,觀所失自還得。一百二者,求離厄得脫難。一百三者,求離病得除愈。一百四者,觀所去無障礙。一百五者,觀所去有障礙。一百六者,觀所住得安止。一百七者,觀所住不得安。一百八者,所向處得安快。一百九者,所向處有厄難。一百一十者,所向處為魔網。一百一十一者,所向處難開化。一百一十二者,所向處可開化。一百一十三者,所向處自獲利。一百一十四者,所遊路無惱害。一百一十五者,所遊路有惱害。一百一十六者,君民惡饑饉起。一百一十七者,君民惡多疾疫。一百一十八者,君民好國豐樂。一百一十九者,君無道國災亂。一百二十者,君修德災亂滅。一百二十一者,君行惡國將破。一百二十二者,君修善國還立。一百二十三者,觀所避得度難。一百二十四者,觀所避不脫難。一百二十五者,所住處眾安隱。一百二十六者,所住處有障難。一百二十七者,所依聚眾不安,一百二十八者,閑靜處無諸難。一百二十九者,觀怪異無損害,一百三十者,觀怪異有損害。一百三十一者,觀怪異精進安。一百三十二者,觀所夢無損害。一百三十三者,觀所夢有所損。一百三十四者,觀所夢精進安。一百三十五者,觀所夢為吉利。一百三十六者,觀障亂速得離。一百三十七者,觀障亂漸得離。一百三十八者,觀障亂不能離。一百三十九者,觀障亂一心除。一百四十者,觀所難速得脫。一百四十一者,觀所難久得脫。一百四十二者,觀所難受衰惱。一百四十三者,觀所難精進脫。一百四十四者,觀所難命當盡。一百四十五者,觀所患大不調。一百四十六者,觀所患非人惱。一百四十七者,觀所患合非人。一百四十八者,觀所患可療治。一百四十九者,觀所患難療治。一百五十者,觀所患精進差。一百五十一者,觀所患久長苦。一百五十二者,觀所患自當差。一百五十三者,所向醫堪能治。一百五十四者,觀所療是對治。一百五十五者,所服藥當得力。一百五十六者,觀所患得除愈。一百五十七者,所向醫不能治。一百五十八者,觀所療非對治。一百五十九者,所服藥不得力。一百六十者,觀所患命當盡。一百六十一者,從地獄道中來。一百六十二者,從畜生道中來。一百六十三者,從餓鬼道中來。一百六十四者,從阿修羅道中來。一百六十五者,從人道中而來。一百六十六者,從天道中而來。一百六十七者,從在家中而來。一百六十八者,從出家中而來。一百六十九者,曾值佛供養來。一百七十者,曾親供養賢聖來。一百七十一者,曾得聞深法來。一百七十二者,捨身已入地獄。一百七十三者,捨身已作畜生。一百七十四者,捨身已作餓鬼。一百七十五者,捨身已作阿修羅。一百七十六者,捨身已生人道。一百七十七者,捨身已為人王。一百七十八者,捨身已生天道。一百七十九者,捨身已為天王。一百八十者,捨身已聞深法。一百八十一者,捨身已得出家。一百八十二者,捨身已值聖僧。一百八十三者,捨身已生兜率天。一百八十四者,捨身已生淨佛國。一百八十五者,捨身已尋見佛。一百八十六者,捨身已住下乘。一百八十七者,捨身已住中乘。一百八十八者,捨身已獲果證。一百八十九者,捨身已住上乘。
このように観察される三世の果報の善悪の相には、百八十九種があります。百八十九種とは何でしょうか。第一は、上乗を求めて不退を得ることです。第二は、求める果が現にまさに証されることです。第三は、中乗を求めて不退を得ることです。第四は、下乗を求めて不退を得ることです。第五は、神通を求めて成就を得ることです。第六は、四梵を修して成就を得ることです。第七は、世間の禅を修して成就を得ることです。第八は、受けたい戒を受けて妙戒を得ることです。第九は、かつて受けた戒を受けて戒が具わることです。第十は、上乗を求めてまだ信に住していないことです。第十一は、中乗を求めてまだ信に住していないことです。第十二は、下乗を求めてまだ信に住していないことです。第十三は、観察する人が善友であることです。第十四は、聞くところに随って正信であることです。第十五は、観察する人が悪友であることです。第十六は、聞くところに随って正教でないことです。第十七は、観察する人に実徳があることです。第十八は、観察する人に実徳がないことです。第十九は、観察する義が誤っていないことです。第二十は、観察する義が誤っていることです。第二十一は、誦するところが誤っていないことです。第二十二は、誦するところが誤っていることです。第二十三は、修行するところが誤っていないことです。第二十四は、見聞するところが善相であることです。第二十五は、証するところが正実であることです。第二十六は、学ぶところが誤っていることです。第二十七は、見聞するところが善相でないことです。第二十八は、証するところが正法でないことです。第二十九は、得るところが邪神に持されることです。第三十は、説くところが邪智の弁であることです。第三十一は、玄知するところが人力でないことです。第三十二は、まず観智の道を習うべきであることです。第三十三は、まず禅定の道を習うべきであることです。第三十四は、学ぶところに障碍がないと観察することです。第三十五は、学ぶところが適していると観察することです。第三十六は、学ぶところが適していないと観察することです。第三十七は、学ぶところが宿習であると観察することです。第三十八は、学ぶところが宿習でないと観察することです。第三十九は、学ぶところで善が増長すると観察することです。第四十は、学ぶところで方便が少ないと観察することです。第四十一は、学ぶところに進趣がないと観察することです。第四十二は、求める果が現にまだ得られないことです。第四十三は、出家を求めてまさに得て去ることです。第四十四は、法を聞くことを求めて教示を得ることです。第四十五は、経巻を求めて読誦を得ることです。第四十六は、作すところが魔事であると観察することです。第四十七は、作すところの事が成就すると観察することです。第四十八は、作すところの事が成就しないと観察することです。第四十九は、大富を求めて財が盈満することです。第五十は、官位を求めてまさに得ることです。第五十一は、寿命を求めて延年を得ることです。第五十二は、世仙を求めてまさに得ることです。第五十三は、学問に多く達するところがあると観察することです。第五十四は、学問に少ししか達するところがないと観察することです。第五十五は、師友を求めて如意を得ることです。第五十六は、弟子を求めて如意を得ることです。第五十七は、父母を求めて如意を得ることです。第五十八は、男女を求めて如意を得ることです。第五十九は、妻妾を求めて如意を得ることです。第六十は、同伴を求めて如意を得ることです。第六十一は、思慮するところが和合を得ると観察することです。第六十二は、観察する人の心が恚を懐くことです。第六十三は、恨みがないことを求めて歓喜を得ることです。第六十四は、和合を求めて如意を得ることです。第六十五は、観察する人の心が歓喜することです。第六十六は、思う人が会見を得ることです。第六十七は、思う人が再び会わないことです。第六十八は、請い呼ぶところの人が来集を得ることです。第六十九は、憎悪するところの人から離れることを得ることです。第七十は、愛敬するところの人に近づくことを得ることです。第七十一は、欲聚が和集するのを観察することです。第七十二は、欲聚が和集しないのを観察することです。第七十三は、請い呼ぶところの人が来ることができないことです。第七十四は、期するところの人が必ずまさに至ることです。第七十五は、期するところの人が住して来ないことです。第七十六は、観察する人が安吉を得ることです。第七十七は、観察する人が安吉でないことです。第七十八は、観察する人がすでに身がないことです。第七十九は、望み見るところを覩ることを得ることです。第八十は、求め覓めるところを見ることを得ることです。第八十一は、聞くことを求めて吉語を得ることです。第八十二は、求めて見るところが意の如くならないことです。第八十三は、疑うところを観察してすなわち実となることです。第八十四は、疑うところを観察して不実となることです。第八十五は、観察する人が和合しないことです。第八十六は、仏事を求めてまさに得ることです。第八十七は、供具を求めてまさに得ることです。第八十八は、資生を求めて如意を得ることです。第八十九は、資生を求めて少ししか得られないことです。第九十は、求めるところが皆まさに得られることです。第九十一は、求めるところが皆得られないことです。第九十二は、求めるところが少ししか得られないことです。第九十三は、求めるところが如意を得ることです。第九十四は、求めるところが速やかにまさに得られることです。第九十五は、求めるところが久しくしてまさに得られることです。第九十六は、求めるところがあって損失することです。第九十七は、求めるところがあって吉利を得ることです。第九十八は、求めるところがあって苦を受けることです。第九十九は、失うところを観察して求めてまさに得ることです。第百は、失うところを観察して永遠に得られないことです。第百一は、失うところを観察して自ら還り得ることです。第百二は、厄を離れることを求めて難を脱することを得ることです。第百三は、病を離れることを求めて除愈を得ることです。第百四は、去るところに障碍がないと観察することです。第百五は、去るところに障碍があると観察することです。第百六は、住するところが安止を得ると観察することです。第百七は、住するところが安を得られないと観察することです。第百八は、向かうところが安快を得ることです。第百九は、向かうところに厄難があることです。第百十は、向かうところが魔網であることです。第百十一は、向かうところが開化し難いことです。第百十二は、向かうところが開化できることです。第百十三は、向かうところで自ら利を得ることです。第百十四は、遊ぶ路に悩害がないことです。第百十五は、遊ぶ路に悩害があることです。第百十六は、君民が悪しく饑饉が起こることです。第百十七は、君民が悪しく疾疫が多いことです。第百十八は、君民が善く国が豊楽であることです。第百十九は、君が道なく国が災乱することです。第百二十は、君が徳を修して災乱が滅することです。第百二十一は、君が悪を行じて国がまさに破れることです。第百二十二は、君が善を修して国が還り立つことです。第百二十三は、避けるところを観察して難を度することを得ることです。第百二十四は、避けるところを観察して難を脱しないことです。第百二十五は、住むところの衆が安隠であることです。第百二十六は、住むところに障難があることです。第百二十七は、依るところの聚衆が安でないことです。第百二十八は、閑静な処に諸難がないことです。第百二十九は、怪異を観察して損害がないことです。第百三十は、怪異を観察して損害があることです。第百三十一は、怪異を観察して精進が安であることです。第百三十二は、夢に見るところを観察して損害がないことです。第百三十三は、夢に見るところを観察して損があることです。第百三十四は、夢に見るところを観察して精進が安であることです。第百三十五は、夢に見るところを観察して吉利であることです。第百三十六は、障乱を観察して速やかに離れることを得ることです。第百三十七は、障乱を観察して漸く離れることを得ることです。第百三十八は、障乱を観察して離れることができないことです。第百三十九は、障乱を観察して一心に除することです。第百四十は、難とするところを観察して速やかに脱することを得ることです。第百四十一は、難とするところを観察して久しくして脱することを得ることです。第百四十二は、難とするところを観察して衰悩を受けることです。第百四十三は、難とするところを観察して精進して脱することです。第百四十四は、難とするところを観察して命がまさに尽きることです。第百四十五は、患うところを観察して大いに調わないことです。第百四十六は、患うところを観察して非人に悩まされることです。第百四十七は、患うところを観察して非人と合することです。第百四十八は、患うところを観察して療治できることです。第百四十九は、患うところを観察して療治し難いことです。第百五十は、患うところを観察して精進すれば差えることです。第百五十一は、患うところを観察して久しく長く苦しいことです。第百五十二は、患うところを観察して自ずからまさに差えることです。第百五十三は、向かう医がよく治すことができることです。第百五十四は、療治するところを観察してこれ対治であることです。第百五十五は、服する薬がまさに力を得ることです。第百五十六は、患うところを観察して除愈を得ることです。第百五十七は、向かう医が治すことができないことです。第百五十八は、療治するところを観察して対治でないことです。第百五十九は、服する薬が力を得られないことです。第百六十は、患うところを観察して命がまさに尽きることです。第百六十一は、地獄道から来たことです。第百六十二は、畜生道から来たことです。第百六十三は、餓鬼道から来たことです。第百六十四は、阿修羅道から来たことです。第百六十五は、人道から来たことです。第百六十六は、天道から来たことです。第百六十七は、在家から来たことです。第百六十八は、出家から来たことです。第百六十九は、かつて仏に値いて供養して来たことです。第百七十は、かつて賢聖に親しく供養して来たことです。第百七十一は、かつて深法を聞くことを得て来たことです。第百七十二は、身を捨ててすでに地獄に入ることです。第百七十三は、身を捨ててすでに畜生となることです。第百七十四は、身を捨ててすでに餓鬼となることです。第百七十五は、身を捨ててすでに阿修羅となることです。第百七十六は、身を捨ててすでに人道に生まれることです。第百七十七は、身を捨ててすでに人王となることです。第百七十八は、身を捨ててすでに天道に生まれることです。第百七十九は、身を捨ててすでに天王となることです。第百八十は、身を捨ててすでに深法を聞くことです。第百八十一は、身を捨ててすでに出家を得ることです。第百八十二は、身を捨ててすでに聖僧に値うことです。第百八十三は、身を捨ててすでに兜率天に生まれることです。第百八十四は、身を捨ててすでに浄仏国に生まれることです。第百八十五は、身を捨ててすでに尋いで仏を見ることです。第百八十六は、身を捨ててすでに下乗に住することです。第百八十七は、身を捨ててすでに中乗に住することです。第百八十八は、身を捨ててすでに果証を得ることです。第百八十九は、身を捨ててすでに上乗に住することです。
「善男子!是名一百八十九種善惡果報差別之相。如此占法,隨心所觀主念之事,若數合與意相當者,無有乖錯。若其所擲所合之數,與心所觀主念之事不相當者,謂不至心,名為虛謬。其有三擲而皆無所現者,此人則名已得無所得也。
善男子よ、これが百八十九種の善悪の果報の違いの相です。この占い方では、心に観じる主たる念いの事柄に従って、もし数が合い、意に相当するならば、少しの誤りもありません。もしその投げた数が合って、心に観じる主たる念いの事柄に相当しないならば、それは至心でないといい、虚謬と名づけます。もし三度投げて、すべて何も現れないならば、この人はすでに無所得を得たと名づけるのです。
「復次,善男子!若自發意,觀於他人所受果報,事亦同爾。若有他人不能自占,而來求請欲使占者,應當籌量觀察自心,不貪世間,內意清淨,然後乃可如上,歸敬修行供養,至心發願而為占察。不應貪求世間名利,如行師道,以自妨亂。又若內心不清淨者,設令占察而不相當,但為虛謬耳。
「また、善男子よ。もし自分から発心して、他人が受ける果報を観察する場合も、事は同じであります。もし他人が自分で占うことができず、占ってもらいたいと訪ねて求めてきたならば、まず自分の心をよく観察し、世間を貪らず、内なる心を清浄にしてから、以上の通りに帰依し礼敬し、修行し供養し、真心から願を起こして、その人のために占察してあげるべきであります。世間の名誉や利益を貪り求めてはなりません。占い師の流儀のように振る舞うことは、自分自身を妨げ乱すことになります。また、もし内心が清浄でなければ、たとえ占察しても当たることはなく、ただ虚偽と誤りになるだけであります。
「復次,若未來世諸眾生等,一切所占,不獲吉善,所求不得,種種憂慮,逼惱怖懼時,應當晝夜常勤誦念我之名字。若能至心者,所占則吉,所求皆獲,現離衰惱。」
また、未来世のさまざまな衆生が、占いによって吉善を得られず、求めるものが得られず、さまざまな憂いや悩みに迫られ、恐れおののくときには、昼も夜も絶えず私の名を唱え念じるべきです。もし真心を尽くすならば、占いは吉となり、求めるものはすべて得られ、今この世で衰えや悩みから離れることができます。
占察善惡業報經卷上
占察善悪業報経 巻上