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慧上菩薩問大善権経 (慧上菩薩問大善權經)

「慧上菩薩問大善權經」について

西晋 · 底本の訳者:竺法護

1.4 万字 · 約 45 分

竺法護は西晋の著名な経典翻訳家であり、本経は彼が翻訳した大乗仏教経典の一つである。内容は慧上菩薩と仏陀との対話を記し、菩薩行者がどのように巧みな方便をもって衆生を救済するかを深く説き、智慧と慈悲を融合させて大乗の道を実践することを詳述している。経中では権智と実智の応用が強調され、般若思想と方便法門の結合を重要な形で示している。この経典は大乗仏教の初期の発展の様相を表しており、菩薩道の修行や漢伝仏教の教義の変遷を理解する上で重要な参考価値を持ち、大乗菩薩行の理念を研究する鍵となる文献の一つとされている。


慧上菩薩問大善權經卷上

慧上菩薩問大善権経 巻上

西晉月氏國三藏竺法護譯

西晋・月氏国・三蔵竺法護訳

聞如是:

このように私は聞きました:

一時,佛遊舍衛城祇樹給孤獨園,與大比丘眾俱,比丘八千,諸大弟子學戒具足,菩薩萬二千,一切聖通無所不達,已得總持辯才無量不起法忍,其德無限,徹覩諸根,應病授藥為師子吼,救濟十方,眾生百千莫不蒙度。爾時世尊,從宴坐起斯須未久,與無數之眾眷屬周匝而為說經。

ある時、仏は舎衛城の祇樹給孤独園におられました。大比丘衆(だいびくしゅ)八千人が共にあり、諸々の大いなる弟子たちは戒律を学び完全に具えておりました。菩薩は一万二千人おり、全ての聖なる神通(じんずう)を得て通じないところはなく、すでに総持(そうじ)と無量の弁才(べんざい)を得て、不退転の法忍(ほうにん)を成就していました。その徳は限りなく、全ての衆生の心の根を明らかに見通し、病に応じて薬を与え、獅子吼(ししく)のように説法して十方の世界を救済し、百千の衆生は利益を受けない者がありませんでした。 その時、世尊は宴座(えんざ)から上がって間もなく、数えきれない大勢の眷族(けんぞく)に囲まれて、かれらのために経を説かれました。

時會菩薩名曰慧上,即從坐起,更整衣服,長跪叉手前白佛言:「願欲有所問,唯如來至真聽者,乃敢陳說。」

その時、会座の中に慧上という名の菩薩がいた。彼は席を立ち、衣を整え、ひざまずいて両手を合わせ、仏の前に進み出てこう言った。「どうかお尋ねしたいことがあります。如来・至真がお許しくだされば、謹んで申し上げます。」

世尊告曰:「恣所欲問,佛當為汝開解結滯。」

世尊がおっしゃいました。「あなたの思うままに質問しなさい。あなたの迷いを解きほぐして差し上げましょう。」

慧上白佛:「所云善權,為何謂乎?」

慧が仏に問うた。「先ほどおっしゃった『善巧方便』とは、いったいどのようなものなのでしょうか?」

佛告慧上:「善哉,善哉!族姓子!多所愍傷哀念安隱諸天人民,勸化將來導引三塗,開闡佛法獲微妙慧,乃問闓士善權方便。」

仏は慧上に告げられた。「よい、よい。在家の者よ。あなたは多くの者を慈しみ、天や人々を安らかに導こうとし、未来を教え導き、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)の者たちをも救おうとし、仏法を開き示して微妙な智慧を得させようとしている。よくぞ菩薩の巧みな方便について問うた。」

佛言:「諦聽!善思念之!吾當為汝申暢其要。」

佛は言われた。「よく聞き、よく考えなさい。あなた方のために、その要点を明らかに述べましょう。」

慧上菩薩及與眾會受教而聽。

智慧の菩薩と、その場に集まった皆さんは、教えを受け入れ、耳を傾けて聞きました。

於是佛告慧上曰:「族姓子!善權闓士以一揣食,隨時方便弘施流普,勸發黎元墜畜生者,使此二品悉趣德本,興諸通慧,其心曉了具足佛慧。是謂菩薩善權方便。

そこで仏は慧上に告げられた。 「善き家の子よ。善巧方便(うまいやり方)を身につけた菩薩は、たった一度の食事でも、時と状況に応じて施しの心を広く大きく広げ、獣の道に落ちた者たちをも励まし導く。この二つの品(施す側と受ける側)の両方を、功徳の根源へ向かわせ、あらゆる智慧を開き、その心ははっきりと覚りの智慧をそなえている。これを、菩薩の善巧方便というのだ。」

「又,族姓子!善權闓士,若人殖德勸讚代喜,以斯善本則施眾生。以覺之心,順一切心而不墮落。講斯教已,成諸弟子,緣覺之乘為諸通慧。是謂菩薩善權方便。

また、善き家の方々よ。巧みな方便を備えた菩薩は、人が功徳を積むのを見て、その喜びを称賛し、その善根をすべての生きとし生けるものに施します。目覚めた心をもって、一切の心に従い、決して退転することはありません。この教えを説き明かすことで、声聞や縁覚の者たちを完成させ、すべての智慧を得させます。これこそが、菩薩の巧みな方便というものです。

「又,族姓子!善權闓士,十方諸樹其華煒曄,香氣芬馥人所欽尚,而無主名,敬採集合奉散諸佛,誓以德本,已及眾庶志諸通慧使備道明,具獲無量戒品、定品、慧品、解脫品、度脫知見品。是謂菩薩善權方便。

また、善き家の方々よ。善巧方便を具えた菩薩は、十方の世界にあまねく咲き誇る美しい花々や、人々が慕い求める馥郁たる香りを、主の定めなきものとして敬い集め、諸仏に捧げます。その功徳の根を誓願とし、全ての人々が、ありとあらゆる智慧を志し、悟りの道を備え、無量の戒、定、慧、解脱、解脱知見の功徳を具えんことを願うのです。これこそが、菩薩の巧みな方便なのです。

「又,族姓子!善權闓士,愍察群萌,在安助喜、彼患代受,以諸通慧因緣方便,建立德本用施眾類,為十方世界誓被德鎧,其遭惱害者則救攝所,患代受其罪勸,以通慧使獲大安。是謂菩薩善權方便。

また、善き家の子よ。善巧方便の菩薩は、迷える人々を哀れみ、彼らが安楽にあれば共に喜び、苦しみにあればその身代わりとなって受け止める。あらゆる智慧による因縁と方便を用いて、功徳の基盤を築き、それをすべての人々に施す。十方の世界のために、誓いの鎧をまとい、悩み苦しむ者たちを救い、その罪を代わりに受け、智慧によって彼らに大いなる安らぎをもたらす。これを菩薩の善巧方便という。

「又,族姓子!善權闓士,供一如來,觀慮諸佛法身平等,戒、定、慧、解、度知見品亦復如之。知是供養一如來等,則為奉養十方諸佛,所見供祚,闓士歷受施祐眾生。是謂菩薩善權方便。

また、善き家の子よ。善巧方便を備えた菩薩は、一人の如来に供養を捧げながらも、諸仏の法身がすべて平等であり、戒・定・慧・解脱・解脱知見(戒め・精神統一・智慧・苦しみからの解放・知恵の見解)もまた同じく平等であると観じます。このように、一人の如来への供養が、すなわち十方の諸仏を供養することと同じであると知るならば、その菩薩は供養の功徳を受け、さらにその恵みをすべての生きとし生けるものに施すのです。これが菩薩の善巧方便というものです。

「又,族姓子!善權闓士,敢所生處,其所住處不計吾我,未曾自輕;如令諷讀四句之頌,觀察其義心不怯羸,宣顯備具,不想利養。蓋諸佛土;若入國邑,輒興大哀踊躍說之,誓願聞吾四句頌者,皆成諸佛無礙辯才。是謂菩薩善權方便。

また、善き家の子よ。善巧方便を備えた菩薩は、いかなる境遇に生まれようとも、その住む場所において「私」や「我」を想うことがなく、決して自分を卑下することもない。たとえわずか四行の偈を誦し、その義を観察する時も、心は弱らず、その教えを十分に明らかに示し、世間の利益を求めないのである。

あまねく仏の浄土を荘厳し、もし村や町に入れば、常に大いなる慈悲を起こして、喜び勇んでその教えを説く。願わくは、私の説く四行の偈を聞くものが、皆、諸仏の妨げない辯才を成就せんことを。これを菩薩の善巧方便というのである。

「又,族姓子!善權闓士,假使生在貧匱之門,設行乞匃求一夕饍,無鄙劣心轉奉賢眾;若惠獨人內自惟察,如來有言務恢廣施,今吾乞與所進微尠。建諸通慧誓意無量,殖斯德本勸發眾生,僥獲寶掌,若如來、至真、等正覺。以斯妙慧光護夕供,所服納者持戒學道,緣崇功德多所彼致。是謂菩薩善權方便。

また、族姓子よ。善巧方便を得た菩薩は、たとえ貧しい家に生まれても、托鉢して一日の食を得るとき、卑しむ心なく、それを賢者たちに捧げます。もし独りで施しを受けるときも、心の中でこう考えます。「如来は、施しは広く行うべきだと説かれた。今、私が施すものはごくわずかである。」そして、一切の智慧を完成させるという誓いを立て、その心は限りなく広がります。この功徳の種を育て、衆生を目覚めさせ、いつか宝手の如来・正等覚のような存在となることを願うのです。この絶妙な智慧によって、夕べの施しを清らかにし、戒律を保ち、道を学び、功徳を積み、多くの者を悟りへ導きます。これが、菩薩の善巧方便というものです。

「又,族姓子!善權闓士,與諸弟子緣覺俱遊,心不同歸;見人供養弟子緣覺,意不欽獲;興于二念:一、從菩薩心成佛世尊。二、弟子緣覺因佛法生。造斯觀已,諸所供養未以為上,吾所學習則三品最,觀無適莫無所貪樂。是謂菩薩善權方便。

また、族姓子よ、善権の菩薩は、弟子や縁覚と共に行動しながらも、その心は同じ方向には向かいません。人が弟子や縁覚に供養するのを見ても、それをうらやむことはありません。二つの思いを起こします。一つには、菩薩の心から仏世尊が成ること。二つには、弟子や縁覚は仏法によって生じることです。このように観察したならば、なされた供養を最上のものとは考えず、私が学ぶところの三品こそが最も優れていると見て、偏りも執着もなく、貪りも楽しみも持ちません。これが菩薩の善権方便です。

「又,族姓子!善權闓士,行一布施則具六度無極。何等六度?善權闓士見貧乞者,具足大施無慳貪心,斯施度無極。身自護禁奉持戒者,其犯惡者使立戒法,尋而給施令無所毀,斯戒度無極。若瞋恚者,御以慈心、淨心、明心、愍哀等心,興施布施,斯忍度無極。隨宜供辦飲食之饍,身口意行身等如空,斯進度無極。一心等施進止臥夢而無亂行,斯定度無極。如茲施已御念諸法,誰有施者?何所食者?誰受報應?造斯求者法不可得,不見施者及食施者,無受報應,斯慧度無極。是族姓子!權施若斯,則具六度無極之法。」

また、善き家の子よ。菩薩(ぼさつ)は、たった一度の施しによっても、六つの完全な実践(六波羅蜜)をそなえることができるのです。

どのような六つかというと、善巧(ぜんぎょう)な菩薩は、貧しい乞食(こつじき)の人を見れば、惜しみなく施しを行い、貪りの心がありません。これが布施波羅蜜(ふせはらみつ)です。 自ら戒律を守り、戒を保つ人を敬い、戒を破る人がいれば、その人を戒の道に導き、同時に施しを与えて、戒を破ることのないようにします。これが持戒波羅蜜(じかいはらみつ)です。 もし怒りの人に対しては、慈しみの心、清らかな心、明らかな心、哀れみの心をもって対し、施しを行います。これが忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)です。 状況に応じて食べ物や飲み物を整えて施し、身・口・意(しん・く・い)の行いは空のように平等です。これが精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)です。 心を一つにして平等に施し、進むにも止まるにも眠りにも夢にも乱れることのない行いを保ちます。これが禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)です。 このように施しを行った後に、すべての現象(諸法)をよく観察します。「誰が施したのか?」「何が施されたのか?」「誰がその報いを受けるのか?」と探求しても、それらは得られません。施す者も、施される者も、受ける報いも見いだせません。これが智慧波羅蜜(ちえはらみつ)です。

善き家の子よ、このように巧みに施すならば、その一行が六つの完全な実践そのものをそなえること

於是慧上菩薩白佛言:「未曾有也,天中天!闓士丈夫權施具足,一切佛法多所攝護,振于生死贍及餘類。」

そこで慧上菩薩(けじょうぼさつ)が仏様に申し上げました。 「まことに未曾有(みぞう)のことです、天中天(てんちゅうてん)*のお方よ。 菩薩という尊き方々は、権巧方便(ごんぎょうほうべん)を完全に具えていらっしゃいます。 あらゆる仏法を広く摂(おさ)め護(まも)り、 生死の迷いにあっても、他の人々までも救いの光を届けてくださるのです。」

## 注釈 - 天中天(てんちゅうてん):仏様への最高の敬称。「天の中の天」の意味。日本の読者には「仏様」と理解してよい。

佛言:「至哉!誠如所云。權施雖微,審成眾德無量難計。又,族姓子!行權闓士,何謂退還?以權方便而以施與,縱隨惡友為之所拘,畢償罪者自觀念言:『陰種諸入得無不滅,當除斯患乃至無為,吾誓當被道德之鎧,任力發起周旋終始則務究竟。』」

仏は言われた。「その通りである。たとえわずかな方便の施しであっても、それは確かに無量・計り知れない功徳を果たすのだ。

さらに、善き家の子らよ。方便を施す菩薩にとって、『退転』とは何か。方便の力によって施しを行い、たとえ悪友に従い、その束縛を受けることがあっても、罪の報いを果たす者は、自らこう観じる。 『五陰・十八界・十二入は、尽きることのないものではない。この苦しみを除き、無為の境地に至ろう。私は必ずや、道徳の鎧をまとい、力を奮い起こして、生死の迷いを巡りつつも、究極の悟りを成し遂げるのだ』と。」

慧上又問:「唯,天中天!假使有人犯于四罪,有所想念,發意出家為菩薩道。然後云何?」

慧上がまた問いました。「天中天よ、もしも四つの重罪を犯した人がいても、思いを起こし、心に決めて菩薩の道のために出家したならば、その後どうなるのでしょうか?」

佛言:「設當毀失四重之禁,以權消罪,眾患悉除。是族姓子!為菩薩道無有罪釁。」

仏は言われた。「たとえ四重の禁戒を破ってしまっても、方便によって罪を消し去れば、あらゆる苦しみはすべて除かれる。この善き家の子よ、菩薩の道には、いかなる罪の咎もないのである。」

爾時,慧上菩薩白世尊曰:「何謂菩薩而有罪殃?」

その時、慧上菩薩が世尊に申し上げました。「どのような菩薩が罪や災いを受けるのでしょうか。」

佛言:「若有闓士學得脫戒,得脫戒者則二百五十禁,於百千劫服食果蓏,為人所辱而皆忍之。若有想念弟子緣覺之行,闓士則為生死根縛。如族姓子!聲聞緣覺犯本諸禁,不除陰種諸入,不得滅度也。如族姓子!捨闓士行不自改正而有想念,志求聲聞、緣覺,欲得無上正真之道為最正覺者,終不能成也。」

仏は言われた。「もし菩薩が戒律を学び、それを身につけるならば、その戒律とは二百五十の禁戒である。彼は百千劫もの間、果実や瓜を食し、他人から侮辱されてもすべて耐え忍ぶ。しかし、もし声聞や縁覚の修行を思い描くならば、その菩薩は生死の束縛に縛られることになる。たとえれば、善き家の子よ! 声聞や縁覚が本来の禁戒を犯し、陰・種・入(五蘊・十二因縁・六入)を除かないならば、涅槃に至ることはできない。同様に、善き家の子よ! 菩薩の行いを捨てて自らを正さず、思い描くことにとどまり、声聞や縁覚を志し求めながら、無上正等覚(最高の完全なる悟り)を得ようとしても、決して成就することはないのだ。」

於是阿難白世尊曰:「憶念我昔入舍衛城而行分衛,見有闓士名重勝王,在他室坐與女人同床。我謂犯穢,心用惟慮:『得無異人學梵行者,於如來教,將無造見聞想念於一切乎?』時我世尊,瞻見立想歎發斯言,三千大千世界而六反震動。時重勝王,即自踊身住於空中,去地四丈九尺,報阿難曰:『云何,賢者!犯禁穢者寧能踊身止虛空乎?在如來前何不問耶?何謂菩薩犯罪之法?』阿難投身即自悔過曰:『唯然,世尊!我甚迷謬,如何偏見求大龍短?』」

そこで阿難が世尊に申し上げました。

「私はかつて、舎衛城に入って托鉢をしていた時のことを思い出します。すると、重勝王という名の菩薩(修行者)が、他の部屋で女性と一緒に床に座っているのを見ました。私は『これは汚れた行いをしているのではないか』と思い、心配になりました。『もしかすると、この人は如来の教えに従って清らかな行いをしているのに、私が誤った見方や思いを抱いてしまっているのではないか』と。

その時、世尊よ、私は立ったままそんな思いを巡らせて、『三千大千世界が六度にわたって震動した』と言いました。すると重勝王は、すぐに身を躍らせて空中に浮かび上がり、地面から四丈九尺も上がって、阿難にこう答えました。

『どう思いますか、尊者よ。戒律を犯して汚れた者が、どうしてこのように空中に浮かび上がることができるでしょうか?如来の前で、なぜそのことをお尋ねにならないのですか?菩薩にとって、戒律を破るとはどういうことなのでしょうか?』

阿難はひれ伏して、すぐにこう悔い改めました。

『本当に、世尊よ。私は大きな誤りを犯しました。どうして偏った見方で、尊い龍のような方の欠点を求めようとしたのでしょう?』」

佛告阿難:「宜自修慎,無察大乘正士之便而想其闕,由如賢者志弟子乘,若一若二同修雜行,不當視之狐疑懈廢得無盡漏。如是,阿難!勿觀善權闓士有廢退想於諸通慧。所以者何?菩薩大士愛納眷屬業以三寶,不違佛法,賢聖眾也,使志無上正真之道。」

仏は阿難に告げられた。「自ら慎み深く修行しなさい。大乗の正しい修行者の都合をうかがったり、その欠点を思ってはなりません。ちょうど、賢者が弟子たちと共に二、三の者と共に様々な行を共に修行するように、彼らに対して疑いや怠りの心を抱いて、尽きることのない煩悩を得てはならないのです。阿難よ、このように、方便に優れた菩薩に対して、一切智に至る道において退転するような考えを持ってはなりません。なぜなら、菩薩は大いなる慈悲によって眷属を受け入れ、三宝をよりどころとして行い、仏法や聖なる僧伽に背くことなく、人々を無上の正しい悟りへと導くことを志しているからです。」

佛語阿難:「若族姓子、族姓女,心存大乘,不離諸通慧,不荒五樂抑制五欲,觀于五通得如來根,當知正士與女人俱。又聽,阿難!彼女人者乃往去世為重勝王百生之偶,宿情未拔故有色恩,貪重勝顏口發誓言:『若與我俱得遂所娛,當從其教發無上正真道意。』時重勝王心知其念,晨現整服由斯法門入之其室,觀內外地心等無持,執手同處已如其欲。則頌曰:

仏は阿難に仰せられました。「もし族姓の子、族姓の女が、心に大乗を存じ、もろもろの通慧から離れず、五楽にふけらず五欲を抑え、五通を観じて如来の根を得るならば、正士は女人と共にあることを知るべきです。また聞きなさい、阿難よ。かの女人は、過去世において重勝王の百生の伴侶でした。宿の情を抜き切れなかったため、色の恩があり、重勝の顔を貪り、口に誓いを発しました。『もし私と共にいてその娯しみを遂げることができるなら、その教えに従って無上正真道の心を発しましょう。』その時、重勝王は心にその思いを知り、朝に整った服を現し、この法門によってその室に入り、内外の地を観じて心は等しく執着なく、手を執って同じ処にあり、すでにその欲のままになりました。そこで頌して曰く。

「『愚哉悖於欲, 諸佛所不歎,
能蠲恩愛者, 得佛人中上。』

「愚かにも欲に迷う者は、 諸仏が称賛することはない。 しかし恩愛を断ち切る者は、 人の中でも最も優れた仏となるのだ。」

「時女喜踊,即從坐起,自投于地,歸命自責,伏罪悔過,為重勝王而歎頌曰:

時に女は喜び踊り、すぐに座から立ち上がり、地に身を投げて、仏に帰依し、自らを責め、罪を伏して懺悔した。そして重勝王のために、この賛歌を詠んだ。

「『吾已離諸欲, 世尊之所歎,
節止恩愛著, 願佛無上道,
前心之所想, 今首自悔過,
傷愍諸群生, 究竟發道意。』

「私はすでに様々な欲望を離れ、 目覚めた方(世尊)からもお褒めいただきました。 しかし、愛情や執着を断ち切れずにいた心を、 今、初めて素直に悔い改めます。

これまでの思いを、今こそ改めて、 迷い苦しむ多くの生きとし生けるものへの深い憐れみから、 徹底して悟りを求める心を起こしたいと願います。」

「爾時重勝王菩薩,隨欲化女,使發無上正真道意,即從坐起而出其室。阿難觀斯心持清淨,今吾授彼女決,轉女身後九十九劫當得作佛,號離無數百千所受如來、至真、等正覺、明行成為、善逝、世間解、無上士、道法御、天人師,為佛、眾祐。以是賢者觀菩薩行,所行無短不墮罪法。」

そのとき、重勝王菩薩は女性を教化しようと望み、彼女に無上の正しい悟りの道への志を起こさせようとして、席を立ち、部屋を出ました。阿難はこの心が清らかに保たれているのを見て、今、私(仏)は彼女に成仏の予言を授けよう。彼女が女性の身を捨てた後、九十九劫を経て仏と成るであろう。その名を「離無數百千所受如来・至真・等正覚・明行成就・善逝・世間解・無上士・道法御・天人師・仏・衆祐」という。

このように、賢者よ、菩薩の行いを観察しなさい。菩薩の行いには欠けるところがなく、罪過の法に堕ちることがないのです。

重勝王菩薩從虛空下,稽首佛足,白世尊曰:「闓士當行善權方便立于大哀,若勸一人導以法本,從其所生輒當獲之信於善權,墮大地獄至于百劫,所遭苦痛惱劇之患,則當忍之,寧化一人使立德本不避此難。」

重勝王菩薩が虚空から降り立ち、仏の足もとに額づいて、世尊に申し上げました。 「菩薩は善巧方便(上手な方法)を行い、大いなる慈悲を心に立てるべきです。 たとえ一人でも、教えの根本に導き、その人が生まれながらにして持つ善巧方便への信を得させるなら、 たとえ百劫もの間、大地獄に落ちて、激しい苦しみや悩みの災いを受けることになっても、 その苦しみを耐え忍びましょう。 むしろ、一人でも教えの徳の基を築かせるなら、この災いを避けはしません。」

世尊告曰:「善哉,善哉!正士通達,是為菩薩大哀之行,超度諸受。」

世尊はおっしゃいました。「善いかな、善いかな。正しい人はよく悟っている。これこそが菩薩の大いなる慈悲の行いであり、あらゆる執着を超え渡るのである。」

佛言:「族姓子!吾念過世無數劫時,有一學志,名曰焰光,處於林藪行吉祥願,四百二十萬歲淨修梵行,過闋歲已,入沙竭國。有陶家女,見此學志姿貌姝好端正絕妙,欲意隆崇即自投託。學志問姊:『何所求乎?』答曰:『慕仁。』學志報言:『吾不樂欲。』女曰:『設不然者,吾將自賊。』焰光自念:『吾護禁戒淨修梵行,四百二十萬歲,今若毀之,非吉祥也。』念已捨却,離之七步乃發慈哀:『毀犯禁戒則墮地獄,若不如是女自殘賊,寧令斯女獲致安隱,吾當堪忍地獄之痛。』焰光即還,又執其臂而喻之曰:『從女之欲,幸勿自危。』學志退居習家之業十有二年,厭礙止足乃淨四等,壽終之後生于梵天。」

仏陀は言われた。「善き家の子よ、私は過去の無数の劫の昔、焰光という名の一人の学志(修行者)がいたことを思い出す。彼は林の中で吉祥の願いを立てて修行し、四百二十万年の間、清らかな梵行を積んでいた。その歳月が過ぎた後、沙竭国に入った。そこに陶器を作る家の娘がいて、この学志の姿が美しく、端正で素晴らしいのを見て、激しい情欲を起こし、自ら身を投げ出した。

学志は彼女に尋ねた。「お姉さん、何を求めるのですか?」娘は答えた。「あなたが慕わしいのです。」学志は言った。「私は欲望を喜びません。」娘は言った。「そうでなければ、私は自ら命を絶ちましょう。」

焰光は心の中で考えた。「私は戒律を守り、清らかな梵行を四百二十万年も積んできた。今これを破ってしまえば、吉祥ではない。」そう考えて、彼女から離れようとした。しかし七歩離れたところで、彼は慈悲の心を起こした。「もし戒律を破れば地獄に堕ちる。しかしそうしなければ、この娘は自らを傷つけてしまう。それならば、この娘に安らぎを得させよう。私は地獄の苦しみを耐え忍ぼう。」

焰光はすぐに戻り、彼女の腕を取ってこう言った。「あなたの望みに従いましょう。どうか自分を危険にさらさないでください。」学志は修行をやめて、俗世の業に従う生活を十二年送った。やがてその生活に飽き、障りを感じて満足することを知り、清らかな四無量心を修めた。命終の後、梵天に生まれたのである。」

佛言:「族姓子!欲知爾時焰光學志,豈異人乎?莫造此觀,則吾身是。陶家女者,即瞿夷也。彼尚色欲此順其心,吾以大哀越度生死百千之患。賢者且觀,餘人所犯墜趣地獄,善權闓士更昇梵天。」

仏は言われた。「善き家の子よ、あの時の焔光学志(えんこうがくし)は、まさか別人だと思うか。そんなふうに見てはならない。それはこの私である。陶工の娘こそ、瞿夷(くい)である。彼女はまだ色欲に執着していたが、私はそれに従って彼女の心をなだめた。そして大いなる慈悲(大哀)によって、生死の迷いを超え、百千の苦難を乗り越えたのだ。賢者よ、よく見なさい。他の者たちは罪を犯して地獄に落ちるが、巧みな手段を持つ菩薩(善権開士)は、かえって梵天(ぼんてん)に昇るのである。」

佛告慧上:「設舍利弗、大目揵連,行善權者不使瞿和離比丘墜于地獄。所以者何?吾憶昔者拘樓秦佛時,有一比丘名曰無垢,處於閑居國家山窟,去彼不遠有五神仙,有一女人道遇大雨,馳走避入無垢比丘所止之窟,雨霽出去。時五仙人見女,各言:『比丘姦穢謂之不淨。』無垢知諸神仙所念,即自踊身在于虛空,去地四丈九尺。諸仙見之,飛處空中,各曰:『如吾經典所記,染欲塵者則不得飛。』尋五體投地伏首誣橫。假使比丘不現神變,其五仙士墮大地獄。爾時無垢比丘,則慈氏菩薩也。若舍利弗、目揵連有權飛昇,則瞿惒離無由陷墜。當知此義,非聲聞、緣覺所能及知,唯獨闓士分別曉了善權方便,猶如放逸女人四時莊嚴貪財利欲,或無智者變改人性,使從其意示於施身,敬重彼人殫盡其產,遂棄遠之,緣所獲入未曾有悔,善權菩薩亦復如斯。觀察人根可開化者,以何方便則化立之,敬施眾生不悋其身,殖諸德本不藏情匿。設使知人已建德本,用其人故續命長善,一切欲樂無所貪慕,捨除恩愛令歸於無,其心清淨無所繫著,猶如蜜蜂接採眾花不計常想,於花枝葉一無所損。行權菩薩,隨俗方便雖樂諸欲,不計愛欲、不發常想,不自毀身亦不損彼,譬如樹種不失鮮色因而生牙無加茷者。如是,族姓子!菩薩以空、無想、不願之法,智度無極廣大之慧,入諸塵勞隨所樂行,不捨習俗、欲不穢身,不違佛歎、未曾退轉。如捕魚工引綱布網,恣意所欲截眾大流,收綱攝網多所獲得。菩薩如是,入空、無想、不願之法,以細微心在一切慧,縛于大欲,諸通慧心,以無護心,自在所獲得生梵天。譬如丈夫工學呪術,為吏所捕五繫縛之。其人自恣,則以一呪斷諸縲紲而得解去。如是,族姓子!善權菩薩,五欲自樂普與眾俱,恣其所幸智力術力,以一通慧壞一切欲,沒生梵天。譬安隱師,以一其心無所惡忌,變現廕庇送大賈人,或有愚謗而傷之曰:『忖察此師,自眷屬財賄尚不合度,安能濟眾使免賊乎?將必遺漏無量錢寶。』於是導師激憤恥之,即從坐起秉心堅強,帶鉀舞刀摧拉怨敵,所護安隱無所亡失。行權菩薩,執智慧刀隨時所欲,以巧方便安習五樂,志弟子乘所不悅可,為發慈愍。云何若此?興放逸行,尚不自度,何能濟眾、降魔怨乎?所不堪偕也。菩薩以智慧度無極法,善權方便恣意所欲,以智慧刀斷截塵勞、裂諸羅網,超遊自恣遍諸佛國,離女人土無有瑕穢。」

仏が慧上に告げられた。「もし舎利弗や大目犍連が善巧方便を修行していたならば、瞿惒離比丘を地獄に堕とすことはなかったであろう。なぜならば、私はかつて拘留孫仏の時代を思い起こすからだ。その時、無垢という名の一人の比丘がいて、国の山中の閑静な洞窟に住んでいた。その洞窟から遠くない所に五人の仙人がいた。ある時、一人の女が大雨に遭い、走って逃げて無垢比丘の住む洞窟に避難し、雨が止んでから出て行った。五人の仙人はその女を見て、それぞれ言った。『比丘は姦淫の穢れを犯した。不浄である。』無垢は仙人たちの心の思いを知り、自ら身を躍らせ虚空に昇り、地上四丈九尺の高さに達した。仙人たちはこれを見て、空中に飛んでいる様子を見て、それぞれ言った。『我々の経典に記されている通り、愛欲の塵に染まれば、飛ぶことはできない。』そして五体を地に伏して、自らの過ちを詫びた。もし比丘が神通変化を示さなければ、五人の仙人は大地獄に堕ちていたであろう。その時の無垢比丘とは、弥勒菩薩であったのだ。もし舎利弗や目犍連に飛び昇る神通力があれば、瞿惒離が陥ることはなかっただろう。この意味は、声聞や縁覚の及ぶところではなく、ただ菩薩のみが分別して善巧方便を明らかにするのである。例えば、放逸な女が四季折々に身を飾り、財や利欲を貪るようなもの、あるいは智者でない者が人の性質を変えて己の意のままにさせ、身を捧げることを示しながら、その人を敬い財産を使い尽くさせ、その後遠くに棄て去る。その者が得たものに対して、悔いることがないようなものだ。善巧方便の菩薩もまた同じである。人の根機を観察し、教化できる者には、どのような方便を用いて教化し、確立させるかを考え、衆生に敬い施し、自分の身を惜しまず、諸々の功徳の根を植え、隠しだてしない。もし人がすでに功徳の根を築いたと知れば、その人のために命を長くし善を育む。一切の欲楽に対して貪り執着せず、恩愛を捨て去って無に帰せしめ、心は清らかで何にも縛られない。例えば、蜜蜂が多くの花を採り集めても、常に花があるとは思わず、花の枝葉を一切損なわないように。善巧方便を修行する菩薩は、世俗の習慣に従って、時に諸々の欲を楽しんでも、愛欲を計らず、常に在るとは思わず、己の身を損なわず、他をも損なわない。例えば、樹木の種が新鮮な色を失わずに芽を生じ、葉を茂らせるようなものだ。このように、善き家の子よ!菩薩は空・無想・無願の法によって、智慧波羅蜜の広大な慧を用いて、諸々の煩悩の世界に入り、欲に従って行動しながらも、愛欲を執着せず、自らの身を穢さず、仏の教えに背かず、退転することはない。例えば、漁師が網を張り、意のままに水流をせき止め、網を引き上げれば多くの獲物を得るように。菩薩もまた、空・無想・無願の法に入り、微細な心で一切の慧に在り、大いなる欲を縛り、諸々の一切智の心によって、護る心なく、自在に行動して梵天に生まれることを得る。例えば、ある男が呪術を学び、官吏に捕らえられ五つの縄で縛られたとする。その男が自在であれば、一つの呪文で全ての縄を断ち切って解き放たれる。このように、善き家の子よ!善巧方便の菩薩は、五欲を楽しみながらも広く衆生と共にあり、その智慧と術の力によって自在に行動し、一つの一切智の慧によって一切の欲を壊し、煩わされることなく梵天に生まれる。例えば、安穏な導き手が、一心に集中して何の恐れもなく、変化を現して影のように守り、大きな商人たちを送り届ける。ある愚か者がこれを謗って言う。『この導き手をよく見よ。自分の財産すらうまく守れず、どうして賊から商人たちを救い守れようか?必ずや無量の宝物を失うだろう。』すると導き師は憤り恥じて座を立ち、心を強固に保ち、鎧を着けて刀を舞わせて怨敵を打ち倒し、守る者は安らかで何の損失もない。善巧方便を修行する菩薩もまた、智慧の刀を手にし、時と欲に随い、巧みな方便で安らかに五欲を楽しむ。声聞の乗りを志す者はこれを好まず、慈悲を起こして言う。『どうしてこのようなことがあり得ようか?放逸の行を起こし、自らすら救えない者が、どうして衆生を救い、魔の怨敵を降伏できようか?そのようなことはできない。』菩薩は智慧波羅蜜の法によって、善巧方便を以て意のままに欲し、智慧の刀で煩悩の塵を断ち切り、諸々の網を裂き、自在に遊行して諸仏の国に遍く至り、女人の国を離れて、そこには汚れはない。」

爾時有菩薩名曰愛敬,入舍衛大城普次行乞。至貴姓家,貴姓有女名曰執祥,在樓觀上聞比丘音,受食便出則覩其形,發放逸意,其欲甚盛不得從志,氣絕命終其身動搖。比丘見女興不淨想,即發念言:「何謂法樂自所喜者?計空無實其猶泡水,無所可遵;耳、目、鼻、口、身、意,如腐肉揣革裹皮覆,從足至頂何所可樂乎?觀無諍訟,無想無念,法無內外亦無壽命,都無所有,心何所著亦何所受。永離欲瑕亦無得也。」諦觀諸法無所起者,愛敬菩薩即得不起法忍,則時欣喜踊躍在虛空,去地四丈九尺,繞舍衛城七匝。

その時、愛敬という名の菩薩がおられた。その菩薩は、舎衛城に入り、托鉢のための普通の行乞をされた。高貴な家の門口に立たれたところ、その家の令嬢・執祥が楼上にいて、菩薩の托鉢の声を聞き、施しの食物を受け取ろうと外に出ると、その姿を一目見た。すると、彼女の中に放逸な心が湧き起こり、欲望が大いに盛り上がった。しかし、その思いは叶わず、息絶えて命を落とし、体は動かなくなった。

菩薩はこの女の姿を見て、不浄の観想を起こされた。そして、こう心の中で言われた。 「いったい、本当の楽しみとは何であろうか? 自ら好むものこそが法の楽しみなのだろうか? よくよく考えてみれば、それらはすべて空(くう)であって実体はなく、泡が水に浮かぶようにかく消え去るものだ。何の依るべきところもない。耳、目、鼻、口、身、意も、腐った肉の塊を包む革袋のようなものだ。足の先から頭頂まで、どこに楽しみがあろうか。 諍いや対立のないものとして観よ。想念や執着のないものとして観よ。法(ものごと)には内も外もなく、命そのものもない。すべては無所有(無実体)である。心はどこに執着すべきだろうか? 何を受けるべきだろうか? 永遠に欲望の汚れを離れ、得るものも得ないという境地に達するのだ。」 こうして諸々の法を諦観し、一切が生じることもないと見極められた愛敬菩薩は、たちまち無生法忍(ものごとの不生を確信する智慧)を得られた。その時、菩薩は限りない喜びに満ち、虚空に飛び

於時世尊,見愛敬菩薩昇在虛空,譬如鴈王,神足無礙自由自在。告賢者阿難曰:「汝見愛敬飛遊進止如鴈王乎?」

そのとき、世尊は愛敬菩薩が虚空に昇り、あたかも雁の王のように、神通力によって自在に動き、何の妨げもなく自由自在であるのをご覧になりました。そして、賢者である阿難に告げられました。「あなたは、愛敬が雁の王のように飛び、進み、とどまるのを見ましたか。」

對曰:「已見。」

答えて言った。「もう見えました。」

佛言阿難:「愛敬菩薩因色欲行獲諸佛法,降伏魔兵則轉法輪。執祥女終轉女人身,得生忉利紫紺天宮,自然化有四百八十里殿,萬四千玉女俱共侍之。緣此之德而發慧心,自念:『何行得生此乎?』即知本在舍衛為貴姓女色惑愛敬,緣斯貪欲,壽終轉女即為男子,自然神化無央數眾。志於欲著乃獲此報,豈況清淨恭肅之心,供養奉事盡敬菩薩乎?『今伎樂之娛安可久常,當詣世尊及覲愛敬菩薩。』」

仏、阿難に告げたまわく、「愛敬菩薩は、色欲の行によって諸々の仏法を得、魔軍を降伏して法輪を転じた。祥女はついに女人の身を転じ、忉利天の紫紺の天宮に生まれ、自然に四百八十里の殿が現れ、一万四千人の天女がともに仕えることとなった。この功徳によって智慧の心を発し、自ら考える——『どのような行いによって、このような境地に生まれたのだろうか?』と。そして、もと舎衛国にあった時、貴姓の女で、色に惑い愛敬されたこと、この貪欲によって命終わりて女を転じてすぐに男子となり、自然に無数の人々を神変させたことを知った。欲に執着してこのような報いを得たのである。ましてや清浄で恭しく、誠を尽くして菩薩を供養し奉仕する心はどうであろうか。『今、伎楽の楽しみはいつまでも続くものではない。世尊のもとと、愛敬菩薩に拝謁しに行こう』と。」

於是天子與其眷屬,各執天花栴檀雜香,威光巍巍俱詣世尊、愛敬大士,皆以花香而供上之,前稽首禮繞佛三匝住,各叉手而讚頌曰:

そこで、天の王とその眷属たちは、それぞれ天の花や栴檀などの様々な香りを持ち、その威光は堂々と輝きながら、皆そろって世尊と愛敬大士のもとへ参りました。そして、花や香りを捧げて供養し、前に進み出て頭を地につけて礼拝し、仏の周りを三度巡ってから立ち止まり、それぞれ合掌して次のように賛嘆しました。

「諸佛無思念, 樂最不可量,
如來無心意, 則獲尊上道。

諸仏には思念がない。 その楽しみは最も量り知れない。 如来には心や意識がなく、 それによって尊い最上の道を得る。

「我在舍衛為女人, 其大名德不可議,
號曰執祥長者息, 端正姝好寶嚴身,
以為父母所珍重, 有正覺子無所著,
號曰愛敬威神大。 入舍衛城家分衛,
我聞其音柔軟妙, 歡喜之心取飯食,
即自往詣無極法。 如來之子愛敬道,
吾見彼已起亂心, 迷惑愛欲貪放逸,
假使不得從我願, 即當壽終用活為。
當時不能發口言, 雖奉飲食不能授,
我以愛欲放逸故, 則在其處壽命終。
雖不能應于道行, 降棄瑕穢女人身,
得為男子佛所歎, 即時得生忉利天。
宮殿則尊微妙好, 以寶合成無等倫,
有萬四千諸眷屬, 諸婇女樂悉具足。
即時心自發念言, 吾何因緣得致此,
尋時識念如此事, 愛欲之心報應然。
見於愛敬心歡喜, 以放逸心而貪視,
緣是之德獲是報, 猶如光明照好樹。
當為正覺佛子弟, 所在遊欣安住慧,
愛欲之心報如此, 何況有人供養者。
吾身今即如來子, 願發求尊佛智慧,
便當修行恒沙劫, 未曾捨離大志性,
皆由善師因愛敬, 則當供養法奉事,
供事于道無親屬, 唯願學求在覺軌。
修于尊妙道之行, 以放逸心所覩著,
尋時則轉于女身, 便獲勇猛男子形。
父母在家皆號哭, 臭死于地自捽𢷄,
心自念言是蠱道, 衝口罵詈此沙門。
應時天子承佛威, 往詣父母具解說:
『無得罵詈瞋沙門, 將無長夜獲苦惱。』
父母欲得知我不? 吾已踊至忉利天,
應時退轉女人身, 得為天子光巍巍。
父母當至安住所, 首罵詈罪自悔過,
更求救護不可得, 唯有如來為道慧。
時父母聞佛音響, 彼時勇猛勸化之,
皆和心解眷屬俱, 同時往詣能仁佛,
則共稽首兩足尊, 即自悔過瞋恚心,
悉共恭敬於如來, 啟問安住令決正。
『以何供事應奉佛? 何謂順法佛眾僧?
唯為吾等分別說。』 假使聞者無異心,
最勝則知心所念。 救世口則說如此,
其欲供養一切佛, 堅固道意御諸想,
父母親屬及男女, 具足五百無減少。
聽聞大人之所講, 同時皆發大道心。
最勝所言仁無異, 阿難聽我之所語,
如菩薩行無端底, 善權方便住智慧,
愛敬菩薩願如此: 『假使女人愛敬我,
則當令轉女人形, 速為男子人中上。』
阿難且觀此名德, 餘人所因墮地獄,
以放逸心貪習色, 因愛欲變為男子。
其心天子供養我, 常以恭敬獲豐安,
彼所供養難計劫, 當得為佛號盡見。
此五百人發道意, 亦當自致人中尊,
何人聞此不供佛, 其歡悅心安無量。
計其愛敬菩薩者, 所開化女不一二,
無量百千億那術, 以愛欲心立於道,
則為藥王大名德。 何因菩薩當有穢?
因緣塵勞施安隱, 何況供養奉事者。」

「私はかつて舎衛の都に女として生まれ、 その名高い徳は計り知れませんでした。 『執祥』という長者の娘と呼ばれ、 端正で美しく、宝で身を飾っていました。

父母からとても大切にされていましたが、 一人の正覚の子(弟子)がおられました。何にも執着せず、 『愛敬』という名で、威神は大いなる方でした。 その方が舎衛の城に入り、托鉢をされました。

私はその方の柔らかく妙なる音声を聞き、 喜びの心で食べ物を用意しました。 そして自ら、限りない法(真理)のもとへ参りました。 如来の子である愛敬の道を、 私は見て、心が乱れ始めました。 愛欲に惑わされ、貪り、放逸に流されたのです。

もし私の願いが叶わなければ、 このまま命を終えてしまおうとさえ思いました。 その時、口に出して言うこともできず、 食事を捧げようとしても差し出すことができませんでした。 私は愛欲と放逸のために、その場で命を終えたのです。

道の行いに応えることはできませんでしたが、 汚れた女の身を捨て去り、 仏に歎じられる男子となり、 即座に忉利天に生まれ変わりました。

そこでの宮殿は尊く、微妙で素晴らしく、 宝で作られ、比べるものがないほどでした。 一万四千もの眷属がおり、 多くの嫋女や楽しみがすべて備わっていました。

私はすぐに心の中で思いました。 『私は何の因縁でこのような境遇を得たのだろうか?』 そしてすぐに、このことを思い出しました。 『愛欲の心が報いを生んだのだ。』 愛敬の方を見て心から喜び、 放逸な心で貪り見つめた、 その功徳によってこの報いを得たのです。 まるで光が美しい木を照らすように。

私は正覚の仏の弟子となり、 あらゆる所で安らかに智慧のうちに遊びます。 愛欲の心でさえこのような報いをもたらすのです。 ましてや、心から供養する人があれば、なおさらです。

私は今や如来の子となりました。 尊い仏の智慧を求めて願いを発し、 これから恒河沙の劫もの間、修行を続けましょう。 大いなる志を決して捨てることなく、 すべては善き師である愛敬の方の御蔭です。 ゆえに、法を供養し、お仕えしましょう。

道に仕えることに身内はありません。 ただ、悟りの軌則を学び求めたいのです。 尊く妙なる道の行いを修めれば、 放逸な心で執着した見方も、 即座に女の身を転じて、 勇猛な男子の姿を得られるのです。

(地上では)父母が家で泣き叫び、 彼女は汚物の上に倒れて死んでいるのを見て、 『これは蠱毒(まじない)だ』と思い、 口に任せて沙門(修行者)を罵りました。

その時、天子が仏の威神力を受けて、 父母のもとへ行き、詳しく説き明かしました。 『沙門を罵り、怒ってはいけません。 さもなくば、長い苦しみの闇夜を得ることになります。』

『私が誰だか知りたいですか? 私は今、忉利天に飛び昇り、 即座に女の身を転じて、 天子となり、光輝いています。 父母はどうか如来の安住所においでください。 まずは罵った罪を自ら悔い改めなさい。

他のものに救いを求めても得られません。 ただ如来のみが道の智慧を持つお方です。』 その時、父母は仏の音声を聞き、 勇敢に勧められたその方の力で、 心が和み、理解し、眷属と共に 同時に能仁仏(釈迦牟尼仏)のもとへ参りました。

そして揃って両足尊(仏)に頭を触れて礼拝し、 即座に怒りの心を悔い改めました。 皆で如来に恭敬し、 安住にお尋ねして、決断を仰ぎました。

『どのような供養をもって仏に仕えるべきでしょうか? 何をもって法と僧に順ずるというのでしょうか? どうか私たちのために、それぞれ説いてください。』 もし聞く者が疑いの心を持たなければ、 最勝者(仏)はその心の内を知り給います。 救世主(仏)の口はこうおっしゃいました。

『如来を供養しようと願うなら、 ただひたむきな道心を固め、様々な想念を調御せよ。』 父母と親類、息子娘たち、 五百人は欠けることなく、 大人(仏)の説法を聞いて、 同時に大いなる道心を発しました。

最勝者は違いのない言葉を語られました。 『阿難よ、私の言葉を聞きなさい。 菩薩の行いには限りがなく、 巧みな方便(智慧)に住している。 愛敬菩薩の願いはこうだ。 「もし女が私を愛敬するならば、 その時は即座に女の身を転じさせ、 速やかに人中の最上である男子とせよ。」と。

阿難よ、この名高い徳を見なさい。 他の因縁では人は地獄に堕ちるが、 放逸な心で色に貪り執着しても、 愛欲によって男子に変わるのである。 かの天子は私を供養し、 常に恭敬して豊かな安らぎを得た。 彼の供養は数え切れない劫にわたり、 やがて仏となり、名を『尽見』というであろう。

この五百人も道心を発し、 やがて自ら人中の尊となるであろう。 誰がこれを聞いて仏を供養しないだろうか。 その歓喜の心は限りがない。 愛敬菩薩が教化した女たちの数は、 一つや二つではない。 無量の百千億那由他もの人々を、 愛欲の心で道に立たせたのである。

これこそが、大いなる徳を持つ薬王なのだ。 どうして菩薩に汚れがあろうか? 煩悩の因縁によって、安らぎを施すのである。 ましてや、供養し仕える者はなおさらである。」』

爾時賢者阿難白佛言:「猶如有人近須彌山,皆隨山光炤為金色。設懷歡喜欲義心奉道法心,得近菩薩皆獲一類,趣諸通慧心性自然,我從今始奉侍菩薩,如須彌山,猶如藥王,名曰見愈,有清淨心若瞋恚意,見此藥者眾病皆除,菩薩如是淨不淨心,婬怒癡心覲菩薩者悉為除愈。」

その時、賢者の阿難が仏に申し上げた。「あたかも人が須弥山に近づけば、その山の光に照らされて皆金色となるように、もし喜びを抱き、真理を求める心と道を尊ぶ心を持って菩薩に近づくならば、その人々はみな同じように、あらゆる智慧へと向かう心が自然と身につくのです。私は今より、菩薩に仕え奉り、須弥山のように仰ぎ見ます。また、『見るだけで癒える』という名の薬王のようなものです。清らかな心も、怒りの心も、この薬を見れば全ての病が除かれるように、菩薩もまた、清らかな心も清らかでない心も、あるいは欲望・怒り・迷いの心さえも、菩薩を拝する者をことごとく癒し除いてくださるのです。」

時佛讚曰:「善哉,阿難!誠如爾言。」

仏はその時、讃えて言われた。「善いかな、阿難よ。まさにあなたの言う通りである。」

於是賢者大迦葉白佛言:「甚難及也,天中天!菩薩大士不可思議,在所遊至,為諸眾生現無畏欲——空、無想、不願。聲聞、緣覺唯行此法,菩薩普護,轉使更入諸通慧跡,以善方便將順其心,終不穢厭色、聲、香、味、細滑法也。」

そこで賢者である大迦葉が仏に申し上げました。 「まことに尊く、稀有なことです、天中天よ。菩薩という大いなる者は、思議を絶した方であり、赴く所々で、一切の衆生のために、『空』『無想』『無願』という、恐れのない境地をお示しになります。声聞や縁覚の方々は、ただこの教えをおこなうだけですが、菩薩は全てを包み込み、彼らを導いて、すべてを知る智慧の道へと入らせます。巧みな手段を用いてその心を向けさせながら、決して色・声・香・味・触の世界を汚らわしいと嫌うことはありません。」

大迦葉復白佛言:「我可歎喻菩薩大士之所行乎?」

大迦葉が再び仏に申し上げた。「私は菩薩(大いなる覚りを目指す方々)の行いを譬えをもって称えることができますでしょうか?」

佛言:「可歎。」

仏が言われた。「まことに嘆かわしいことである。」

迦葉曰:「譬大曠野斷絕無人,自然有牆,上至三十三天,唯有一門。無央數人皆入曠野,去之不遠有一大城,其國豐熟米穀卒賤,快樂難言;人民眾多不可稱計,其在彼城則如金剛。城旁有江,江側有路,曠路之中有黠慧人,聰識念義,懷愍欲度入曠野者,舉聲而盟稱:『去曠野不遠,大城之安永無死懼,吾為導師來趣所樂。』眾人報曰:『吾等不行,於此不動,欲覩城像城自然現,爾乃往耳。』時復有人解微妙者,應曰:『當往,隨仁所湊。吾等如是薄福之人,聞此聲已不信不樂,不從其教,不度曠野。』彼微妙人則度曠野,觀路由河,則乘而進。路之左右,有百千丈深大溪㵎,布諸草木。四方作橋,則濟厄路四出無礙。大賊從後追而不懼,賊自然却終不還顧。稍稍前行亦不恐懅,不左右視則見大城。稍近城郭心不狐疑,入彼城邑為無量人,現其儀式增益福祚。」

迦葉は言いました。「たとえば、広大な荒野に誰もおらず、ただ自然に壁がそびえ立ち、それは天上の三十三天にまで達し、ただ一つの門があるとしましょう。数え切れないほどの人々がその荒野に入ります。そこから遠くないところに大きな城があり、その国は豊かで米や穀物が安く、その楽しさは言葉にできません。そこに住む人々は数え切れず、その城はまるで金剛のように堅固です。城のそばには川があり、川のほとりには道があり、その道の途中に賢い人がいます。彼は賢く、物事の本質をよく理解し、荒野に入る人々を救いたいと願い、声を上げて約束します。『荒野から遠くないところに、永遠に死の恐怖のない大きな城がある。私はあなたがたをその喜びの場所へ導くガイドである。』人々は答えます。『私たちは行かない。ここに留まる。城の姿を見せてくれれば、そして城が自然に現れたなら、その時に行こう。』その時、一人の理解の深い人が応えて言います。『行こう。あなたが進むところに従う。私たちのような福の薄い者は、この声を聞いても信じず喜ばず、その教えに従わず、荒野を渡らない。』その理解の深い人は荒野を渡ります。道は川に沿っており、それに乗って進みます。道の左右には、百千丈もの深い大きな渓谷があり、そこには様々な草木が生い茂っています。四方向に橋が架けられ、困難な道を渡り、四方に障りなく進むことができます。背後から大きな賊が追ってきても恐れることはなく、賊は自然に退き、結局振り返ることもありません。少しずつ前進しても恐れたり慌てたりせず、左右を見ることもなく、やがて大きな城を見ます。城郭に近づいても心に迷いはなく、その城に入れば、無数の人々のためにその姿を示し、福徳を増し加えるのです。」

迦葉歎已陳喻:「大曠野者,謂生死之難。牆至三十三天者,謂無黠所著恩愛之欲也。唯有一門者,謂大乘也。人入曠野者,謂眾愚冥凡夫之士也。黠人發願呼眾人者,謂菩薩大士所樂度無極也。志劣不行欲見城者,謂聲聞緣覺也。應曰:『當往,隨仁所湊。』則菩薩也。聞聲不信者,謂外道異學眾邪行也。度曠野者,謂奉精進至諸通慧,修諸三昧也。路由河者,謂法門也。左大溪㵎百千丈者,謂聲聞地也。右大溪㵎百千丈者,謂緣覺乘也。大布置草木作四方橋者,謂善權方便慧度無極也。四出無礙者,謂菩薩四恩之行攝無量人也。賊追不懼自然却者,謂魔官屬及諸猗行也。終不還顧者,謂忍度無極也。稍稍前行,謂為菩薩之所開化,進度無極也。亦不恐懼者,謂以清淨心發起眾生志,平等覺也。不視左右者,謂不志樂聲聞、緣覺之利也。則見大城者,謂達諸通慧也。稍近城者,謂見道功德習行佛慧也。心無狐疑者,謂曉智慧善權諸度無極,則能遍覩一切眾生無所畏惡。適入城已,為無量人造現儀式增益福祚者,謂如來、至真、等正覺也。佛天中天適興在世,則為菩薩立于名號廣建利義。」

迦葉が讃嘆の後にたとえを述べました。 「広大な荒野」とは、生死の困難さを指します。 「三十三天にまで届く城壁」とは、無知に執着する愛欲を意味します。 「ただ一つの門」とは、大乗を示します。 「荒野に入る人」とは、愚かで暗い凡夫たちのことです。 「賢者が人々を呼び集める」とは、菩薩の大いなる楽しみとして、無極(果てしない救済)を度そうとする姿です。 「志が弱く、都市を見たいだけで行こうとしない者」とは、声聞や縁覚のことです。 「『行こう。あなたに従います』と答える者」こそ、菩薩です。 「声を聞いても信じない者」とは、外道や異学、様々な邪な行いをする人々です。 「荒野を渡る」とは、精進を修めてあらゆる智慧に至り、様々な三昧を修めることです。 「一本の川が道を阻む」とは、法門を指します。 「左にある百千丈の大渓谷」とは、声聞の境地です。 「右にある百千丈の大渓谷」とは、縁覚乗のことです。 「草木を大きく敷き並べて四方に橋をかける」とは、善巧方便の智慧による波羅蜜(度無極)です。 「四方向に障害なく通じる」とは、菩薩の四恩の行いによって無数の人々を導くことです。 「追ってくる賊を恐れず、自然に退却させる」とは、悪魔の軍勢や様々な執着の行いを指します。 「決して後ろを振り返らない」とは、忍辱波羅蜜のことです。 「少しずつ前に進む」とは、菩薩による教化と、進んで波羅蜜を実践することです。 「また恐れない」とは、清らかな心で衆生の志を目覚めさせ、平等な覚りへと導くことです。 「左右を見ない」とは、声聞や縁覚の利益を望まないことです。 「大きな都市を見る」とは、あらゆる智慧に到達することです。 「都市に次第に近づく」とは、道の功徳を見て、仏の智慧を修行し習得することです。 「心に疑いがない」とは、智慧と方便、あらゆる波羅蜜を深く知り、すべての衆生を遍く見渡して、恐れや嫌悪が一切ないことです。 「ちょうど都市に入ったなら、無数の人々のために儀式を示し、福徳を増す」とは、如来・至真・等正覚のことです。 「仏・天中の天が世に現れると、まさに菩薩のために名号を立て、広く利益の義を確立するのです。」

於是世尊讚迦葉曰:「善哉,善哉!乃歎斯喻。」

そこで世尊は迦葉を称賛して言われました。「素晴らしい、素晴らしい。まさにその譬えは見事である。」

說此言時,萬二千天與人發無上正真道意。

この言葉が語られたとき、一万二千の天と人が、この上ない真実の道への志を起こした。

佛語迦葉菩薩:「德行不可稱計,學諦微妙善權方便,大士所作,不為已舉、不他人施,不言有我亦不言彼。」

仏が迦葉菩薩に語られた。

「その徳のはかり知れない行いは、真実の教えを学び、微妙で巧みな方法を備えている。大いなる菩薩のなすことは、自分のためにすることもなく、他人のために施すこともなく、私があるとも言わず、彼があるとも言わないのである。」

時慧上菩薩白世尊曰:「何謂一生補處?而迦葉、佛時口說斯言,用為覲是剃頭沙門,安能有道佛道難得,世尊爾時何緣說此?」

その時、慧上菩薩が世尊に申し上げました。「一生補処(一度の生で仏となる境地)とはどういう意味なのでしょうか。また、迦葉仏の時代に、『あの頭を剃った修行者に会いに行っても、どうして悟りが得られようか。仏の道は得難いものだ』と口にされたことがありますが、世尊はその時、どのような理由でこの言葉を述べられたのですか。」

佛語慧上:「且止!族姓子!無得節限平相如來及開士行。所以者何?菩薩大士善權方便不可思議,其有正士,當作斯觀緣是化人。族姓子聽,善思念之。有法號曰善權方便菩薩,從定光佛已來,所興之慧不可思議,隨時之宜敢可發起,講菩薩法。從見定光世尊以來,得不起法忍,無一瑕闕無所忘失,亦無亂心智慧無損,已得法忍所造菩薩,一念之頃七日成佛,有菩薩志,發意之間一劫之喻。為一切人所在示現開化眾生,以智慧力欲得成佛大平等覺,無量億劫稱歎邪見多所發起,是為菩薩善權方便。

仏は慧上に告げられた。「やめなさい、善き家の子よ。如来や菩薩の行いを、限られた尺度で推し量ってはなりません。なぜなら、菩薩大士の巧みな方便は、思いはかることのできないものだからです。真実の学び手は、このように観じて、人々を教化するべきです。善き家の子よ、よく聞き、よく考えなさい。『善巧方便』という法があります。定光仏の時より以来、菩薩が起こしてきた智慧は、はかり知れず、時に応じてふさわしく、菩薩の法を説き起こすのです。定光世尊にお会いして以来、菩薩は無生法忍を得て、欠けるところもなく、忘失もなく、心の乱れもなく、智慧の損なわれることもありません。すでに法忍を得た菩薩は、一瞬の思いで七日間の成仏をなしとげることもあります。また菩薩の志を持つ者は、一瞬の思いで一劫のたとえを示します。一切の人々のために、それぞれの場所に現れ、衆生を教化し、智慧の力によって正しい覚りを得ようと願い、無量億劫にわたって邪見を歎きつつも、多くの教化を起こします。これこそが、菩薩の巧みな方便なのです。」

「又,族姓子!諸聲聞學設使自在,於三昧者未曾有也,不逮菩薩三昧之定,身亦不動心無所想,亦非眾人身心所及。又使菩薩三昧正受不進不退,常以四恩救攝群萌,不失精進、不為懈怠,而為眾人講六度無極,是謂菩薩善權方便。

また、善き家の子らよ。声聞の弟子たちがたとえ自在の境地に達し、三昧に入ったとしても、それは未曾有のものではない。菩薩の三昧の定には及ばないのだ。菩薩の三昧は、身も動かず、心も何も思わない。また、それは一般の人々の身心が及ぶところでもない。さらに、菩薩は三昧に安住していても、進むことも退くこともない。常に四つの恩愛(布施・愛語・利行・同事)で衆生を救い摂り、精進を失わず、懈怠にならない。そして人々のために六波羅蜜の教えを説く。これが菩薩の巧みな方便(善巧方便)である。

「又,族姓子!菩薩發意之頃,於兜術天逮正真覺、轉于法輪,閻浮利人不能自致昇兜術天聽受經法,菩薩心念,天上諸天能下至此。是故正士,於閻浮利而現成佛,是為菩薩善權方便。

また、善き方々よ。菩薩が悟りを求めようと発心した瞬間に、兜術天(とすてん)において真の悟りを開き、法の輪を転じることができるのです。しかし、閻浮提(えんぶだい)の人々は自ら兜術天に昇って経典の教えを聞き受けることができません。そこで菩薩は心にこう思います。「天上の諸天は、ここに下りてくることができる」。この故に、善き方よ、菩薩は閻浮提において姿を現し仏陀となるのです。これこそが菩薩の巧みな方便(方便)なのです。

「又,族姓子!菩薩發意,能從兜術忽然沒已,不由胞胎,一時之頃成最正覺。傍人有疑此所從來為是天耶?揵陀羅變化所為乎?若懷狐疑不聽受法,是故菩薩現處胞胎,是為菩薩善權方便。

また、善き家の子らよ。菩薩が悟りを開こうと志し、兜率天から忽然と姿を消し、母胎を経ることなく、一瞬のうちに最高の悟りに達したとしよう。すると人々は疑問を抱くだろう。「この方はどこから来られたのか。天の神なのか、それともガンダーラの変幻術によるものか」と。もし疑いの心を持てば、教えを聴き受けることができない。それゆえに菩薩はわざと母胎に現れるのである。これこそが菩薩の巧みな方便なのだ。

「又,族姓子!無得興念:『菩薩處胞。』勿懷斯意,菩薩大士不由精胎。所以者何?有三昧名曰無垢,菩薩大士以斯正受而自莊嚴。兜術天人謂菩薩沒而無動搖,不覩菩薩遊於胞胎。現處母腹而從脇生,棄國捐家尋坐佛樹,示勤苦行,普現悉遍無所不變,無有勞擾而無染污。所以者何?菩薩之瑞所化清淨,是為菩薩善權方便。」

また、族姓子よ、こんな思いを起こしてはならない。「菩薩は胎内にいるのだ」と。そのように思ってはならない。菩薩大士は、精血の胎によって生まれるのではないからだ。なぜか。無垢と名づけられる三昧がある。菩薩大士はこの正受によって自らを荘厳する。兜率天の衆生は、菩薩が没し動かないと思い、菩薩が胎内に遊ぶのを見ない。母の腹に現れ脇から生まれ、国を捨て家を出て、すぐに菩提樹の下に座し、苦行を示す。すべてに遍く現じ、変じないところはなく、労れ惑うこともなく、汚れもない。なぜか。菩薩の瑞相は、その変化が清らかであるからだ。これが菩薩の巧みな方便である。

佛告慧上:「何故菩薩自化其身紫磨金色,現入胞胎?」

仏が慧上に告げられました。「なぜ菩薩は自らの身を紫磨金色に変えて、母胎に入る姿を現すのでしょうか。」

慧上答曰:「寂然清淨明白之品。」

回答:明るく清らかな境地、さとりの域です。

世尊曰:「然。其菩薩者,處眾生上則第一尊,是則化來,諸天人民所不能及,是為菩薩善權方便。

世尊がおっしゃった。「そのとおり。その菩薩は、あらゆる生きとし生けるものの上にあって、最も第一の尊い者である。これは教化の力によるものであり、天の人々や人間たちの及ぶところではない。このように菩薩は、巧みな方便を備えているのである。」

「何故菩薩在母胞胎,具足十月無見而生?人儻起念在母之懷,日月不足諸根不具。現滿十月,是為菩薩善權方便。

なぜ菩薩は母の胎内に十か月の間、完全な姿で留まりながら、姿を現さずに生まれてくるのでしょうか。人々は「母の胎内にいるとき、日月が足りず、五体が満たされないのではないか」と疑うかもしれません。しかし、あえて十か月を満たして現れること、これこそが菩薩の巧みな方便なのです。

「何故菩薩生於樹園不在中宮?菩薩長夜習在閑居,志樂寂寞行平等淨,欲令天、龍、鬼神、揵沓和、阿須倫、迦留羅、真陀羅、摩睺羅、人與非人,皆捨室宇寂然供養,此諸華香普流天下,使迦維羅衛國中人民歡喜悅預不為放逸,是故菩薩在於樹下寂寞處生,不在宮舘,是為菩薩善權方便。

なぜ菩薩は樹園で生まれ、中宮で生まれなかったのでしょうか。菩薩は長い間、静かな場所での修行に親しみ、志は寂けさを楽しみ、平等で清らかな行を行ってきました。天・龍・鬼神・揵沓和・阿須倫・迦留羅・真陀羅・摩睺羅・人と非人たちが、皆、家屋を捨てて静かに供養できるようにするためです。また、これらの花や香が広く天下に流れ、迦維羅衛国の人々が歓喜し喜びにあふれ、放逸にふけることがないようにするためです。それゆえ菩薩は樹の下の寂けさの場所で生まれ、宮殿の中では生まれませんでした。これが菩薩の善権方便です。

「何故菩薩從右脇生?若不如是眾人有疑,則謂菩薩因由遘精而處胎藏,不為化育。眾必懷結猶預難決,是故示現令人開解。菩薩雖從右脇而生,母無瘡瘠出入之患,往古尊聖因時如然,所行無違,是為菩薩善權方便。

なぜ菩薩は右脇(わき)から生まれるのか。 もしそうでなければ、人々は疑いを抱き、 「菩薩は精を受け、胎内に宿って生まれたのであって、神としての力によるものではない」と思うだろう。 人々は確信が持てず、迷い、決断できなくなる。 それゆえ、この姿を示して、人々に道理を理解させるのだ。

菩薩は右脇から生まれるが、母には傷や痛みはない。 遠い昔の聖者たちも、時の流れに従い、同じように生まれた。 その行いは自然の理に反しない。 これこそが、菩薩の巧みな方便(はたらき)なのである。

「何故菩薩母攀樹枝,然後而生?設不爾者,眾人當謂:『皇后雖生菩薩必有惱患,若如凡庶而無殊別。』欲為黎元示現安隱,母適攀樹枝,志性柔和,則菩薩誕育,是為菩薩善權方便。

なぜ菩薩の母は木の枝を掴んで出産するのか。もしそうしなければ、人々はこう言うだろう。「皇后は菩薩を産むとき、必ず苦しみ悩みがあるはずだ。まるで普通の人のようにしか見えず、何の違いもない」と。そこで、人々の目の前で安らかで穏やかな様子を示すために、母が枝を掴むその時、心が柔和であれば、菩薩は安らかに生まれる。これこそが菩薩の巧みな方便なのである。

「何故菩薩安和澹泊忽然而生,其身清淨無有垢穢?菩薩至尊三界之上,雖處胎中如日炤水,淨無所著不增不減,故現脇生不與凡同,是為菩薩善權方便。

なぜ菩薩はこのように安らかで清らかであり、忽然として現れ、その身は清らかで汚れがないのでしょうか。菩薩は最も尊く、三界の上にあり、たとえ母胎の中にいても、太陽が水を照らすように清らかで、何にもとらわれず、増えも減りもしません。それゆえ、脇の下から生まれるという姿を示し、凡夫と同じではないのです。これが菩薩の巧みな方便なのです。

「何故菩薩適生斯須,帝釋即下前稽首奉,不使餘天?其釋無始立茲本願:『菩薩若生,當以淨意而奉受之。』亦為菩薩本德之徵,是為菩薩善權方便。

なぜ菩薩が生まれると、帝釈天がすぐに下りてきて、前にひざまずき、敬意を表して供物を捧げるのか。それは、他の天の者たちに任せないためである。この帝釈天は、遠い昔にこう誓ったのだ。「菩薩が生まれたならば、清らかな心でお迎えし、お仕えしよう」と。また、これは菩薩本来の功徳を示すものであり、菩薩の巧みな方便なのである。

「何故菩薩適見受已,行地七步亦不八步?是為正士吉祥之應,應七覺意覺不覺者也。自古迄于今,未有能現行七步者,是為菩薩善權方便。

なぜ菩薩は生まれてすぐに七歩歩き、八歩ではなかったのか。それは正しき者(正士)の吉兆であり、七つの覚りの要素(七覚意)に対応し、覚りと迷いの区別を示すためである。古来より、生まれてすぐに七歩歩いた者はいない。これこそが菩薩の巧みな方便(善権方便)なのである。

「何故菩薩已行七步,舉手而言:『吾於世尊,天上天下為最第一,當盡究竟生老死原!』釋、梵、梵志及諸天子,彼時眾會莫不遍集,設不現斯當各自尊,則懷憍慢,便不復欲禮侍菩薩。菩薩愍念外道梵志、諸天之眾長夜不安,必墜惡趣而受苦痛。是故菩薩舉聲自讚:『吾於世尊,天上天下第一,權慧超異獨步無侶,當究竟盡生老死根。』以此音告三千大千世界。其諸天子未有來者,應聲便至。爾時異學梵志及諸天子,皆共稽首敬禮讚音,叉手歸誠,是為菩薩善權方便。

なぜ菩薩は七歩歩んで、手を挙げて「私は世尊において、天上天下で最も第一であり、生老病死の根源を究め尽くすであろう」と言ったのか。帝釈天、梵天、梵志、そして多くの天の神々が、その時に集会に集まらなかった者はなかった。もしこのような姿を示さなければ、彼らはそれぞれが自分を尊び、慢心を抱いて、菩薩を礼拝し仕えようとしなかったであろう。菩薩は外道の梵志や天の神々が長い間安らかでなく、必ず悪道に落ちて苦しみを受けることを哀れに思った。それゆえに菩薩は声を上げて自らを称え「私は世尊において、天上天下で第一であり、その智慧と方便は超越して並ぶ者なく、生老病死の根源を究め尽くすであろう」と言った。この声で三千大千世界に告げた。まだ来ていない天の神々は皆、その声を聞いてすぐに集まった。その時、異学の梵志や多くの天の神々は皆、共に頭を下げて敬礼し、その言葉を讃え、合掌して心から帰依した。これが菩薩の巧みな方便である。

「何故菩薩大悅而笑,不懷輕戲,笑而不諂笑?菩薩興念:『一切眾類本與我俱,發上道意無上正覺,恐畏懈怠放逸自恣,故為卑賤愚冥貢高;或音聲者解一切法,至諸通慧精進敏達,使歸命佛。』猶斯大哀,發起萌類除却放逸,見已願果彼亦普具,以故正士現大欣笑,是為菩薩善權方便。

「なぜ菩薩は大いに喜んで笑うのでしょうか。それは軽んじたりふざけたりする心からではなく、人を欺くような笑い方でもありません。菩薩はこう考えます。『すべての生きとし生けるものは、本来私と同じく、最も尊い悟りを求める心を起こした。しかし、怠けや勝手な振る舞いによって、卑しく愚かで傲慢な状態に陥ってしまった。ある者は声(教え)を通じてすべての法を理解し、あらゆる智慧に至る精進力を持ちながら、仏に帰依するに至らない。』そこで菩薩は、このような大いなる慈悲によって、迷える者たちを目覚めさせ、放逸を除こうと願う。自らの願いが成就すれば、彼らもまた全てを具えることができると見極め、そのために正しき者は大いに笑いを示すのです。これが菩薩の巧みな方便なのです。」

「何故菩薩清淨無垢而復洗浴,釋梵四天所見供侍?凡人初生皆當洗浴,菩薩清淨,隨俗而浴。況世人乎故現此義,是為菩薩善權方便。

なぜ菩薩は清らかで汚れがないのに、さらに沐浴し、帝釈天や梵天、四天王が供養し仕えるのか。凡夫が生まれる時には必ず沐浴する。菩薩は清らかであるが、世俗に従って沐浴するのである。ましてや世間の人々はなおさらであろう。ゆえにこの意味を示すのである。これが菩薩の巧みな方便である。

「何故菩薩初生之後,去到空閑於樹下坐,然後入城?欲以具足諸根之本,示現中宮絃歌倡伎音樂之娛,然火四錠由斯現緣,令眾學勸,棄離財寶樂昇微妙,入家復出不興異行,去家學道則坐佛樹,是為菩薩善權方便。

なぜ菩薩は生まれた後、静かな場所に行き、木の下に座ってから都に入るのか。それは、あらゆる感覚の基盤を完全に養い、後宮での弦楽や歌、舞、音楽の楽しみを示すためである。しかし、四面に燃える火の縁によって、人々は財宝を捨て、微妙な境地に昇ることを勧められ、家に入っても再び出て異なる行いを起こさず、家を出て学道すれば仏の樹の下に座る。これが菩薩の巧みな方便である。

「何故菩薩生後七日其母便薨?后壽終盡福應昇天,非菩薩咎。前處兜術,觀后摩耶大命將終,餘有十月七日之期,故從兜術神變來下現入后藏,以是推之,非菩薩咎,是為菩薩善權方便。

なぜ菩薩が生まれて七日後にその母が亡くなられたのか?それは、母の寿命が尽き、その福徳により天に昇るべき時が来たからであり、菩薩の責任ではない。かつて兜率天にあった時、母の摩耶夫人の命が終わろうとしており、あと十箇月と七日の命であると観じられた。それゆえ、兜率天から神通力をもって変じ、降りてきて母の胎内に入られたのである。このことから推せば、菩薩の責任ではなく、これこそが菩薩の巧みな方便である。

「何故菩薩學書射御、兵仗伎術、摴蒱戲樂?隨世習俗現前因緣,三千大千世界諸所伎樂,經藏道要詩頌術數,神呪所療言談嘲調,示現悉學無所不博,欲令庶人不自憍慢,是為菩薩善權方便。

なぜ菩薩は、文字の読み書きや弓術・馬術、武術や技芸、さらには博打や遊びや音楽までも学ぶのでしょうか。それは、世の中の習慣や目の前にある因縁に従い、三千大千世界にあるあらゆる技芸、経典や教えの要、詩や学問、神呪の治療法、会話や冗談に至るまで、すべてを学び、博識にならないものはありません。そうすることで、一般の人々に「自分だけが知っている」と傲慢にならないようにさせるためです。これこそが菩薩の巧みな方便(善巧方便)なのです。

慧上菩薩問大善權經卷上

慧上菩薩問大善権経 巻上


第二

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