慧上菩薩問大善權經卷下
慧上菩薩問大善権経 巻下
西晉月氏國三藏竺法護譯
西晋・月氏国・三蔵竺法護訳
「何故菩薩而有室娶?菩薩無欲不尚配匹,其於離欲則為正士,所以示現眷屬妻息,傍人懷疑:『菩薩非男,斯黃門耳?』欲除沈吟,故納瞿夷釋氏之女,緣此現生子男羅云。假論羅云胞胎生者,則非義也。所以者何?羅云於天變沒化生,不由父母合會而育,又是菩薩本願所致。昔錠光佛,瞿夷有誓:『後世為仁妻,殖其德本。』不違久要故娉納之,情無所在俗人擾動,迷惑色欲慇懃戀著,菩薩示現妻子眷屬,尋復捨國。或有人言:『正士之妃端正姝妙,乃尚捐去,何況吾等?』又菩薩本始學道時,所有妻婦群從眷屬,相敬重故各共發願:『世世與仁俱,生生相侍,隨至成佛道。』故廣敷演清白之法,中宮婇女四萬二千人發無上正真道意,其餘群類悉度惡趣,以故菩薩現有眷屬。其諸婇女,以恩愛情自煩惱者,適見菩薩澹然清淨如明月珠,則離色欲。假使菩薩化於所化,顏姿容貌由若己身。爾時婇女與化人俱,恣可所娛,各心念言:『吾等今日與菩薩俱,志慕永異。』於時菩薩往閻浮樹蔭下而坐禪思,歡喜行安,由如化人所造之變。菩薩昔從錠光佛來,所見愛欲因緣之業,皆是無始感發之應,是為菩薩善權方便。
なぜ菩薩に妻帯があるのでしょうか。菩薩は欲望がなく、配偶者を求めません。欲望を離れているからこそ正しい人なのです。それなのに眷属や妻や子を示し現すのは、傍らにいる人々が疑いを抱いて、「菩薩は男ではないのではないか、これは黄門ではないのか」と思うからです。その迷いを除くために、瞿夷という釈氏の娘を娶り、それによって男子の羅云を生んだのです。ただし羅云が胎内から生まれたと論じるのは、正しい意味ではありません。なぜなら、羅云は天で変没し化生したのであって、父母の交わりによって育ったのではなく、またこれは菩薩の本願によるものだからです。昔、錠光仏のとき、瞿夷は誓いを立てました。「後の世で仁者の妻となり、その徳本を殖やそう」と。長い約束に背かないために彼女を娶ったのであり、情がどこにあるわけでもありません。俗人は心が揺れ動き、色欲に惑わされて深く恋着します。そこで菩薩は妻や子、眷属を示し現し、すぐにまた国を捨てるのです。ある人は言います。「正しい人の妃は端正で美しいのに、なお捨て去った。まして私たちはなおさらだ」と。また菩薩がもともと道を学び始めたとき、すべての妻や婦女、従者や眷属は、互いに敬い重んじるゆえに、それぞれ共に願を発しました。「世々に仁者と共にあり、生々に相侍り、成仏の道に至るまで従おう」と。それゆえ清白の法を広く説き述べ、中宮の婇女四万二千人が無上正真道の意を発し、その他の群類もすべて悪趣を度されました。それゆえ菩薩は眷属があることを示し現すのです。それらの婇女たちは、恩愛の情によって自ら悩まされていましたが、ちょうど菩薩が明月珠のように澹然として清浄であるのを見て、色欲を離れました。仮に菩薩が教化される者を化し出せば、その顔かたちは自分の身のようです。そのとき婇女たちは化人と共に、思うままに楽しみましたが、それぞれ心に念じました。「私たちは今日、菩薩と共にいるが、志の慕いは永遠に異なっている」と。そのとき菩薩は閻浮樹の蔭に行き、坐して禅思し、歓喜して安く行じ、化人の造り出した変りのようでした。菩薩は昔、錠光仏のもとからこのかた、見てきた愛欲の因縁の業は、すべて無始の感発の応であり、これが菩薩の善権方便なのです。
「何故菩薩於閻浮樹蔭而坐禪思,化七十億諸所天子令發道意?又復欲使皇后見之,心自念言:『會當捨家。』是故菩薩坐閻浮樹蔭而寂思惟,是為菩薩善權方便。
「何故菩薩夜半出家,至于江流而自洗浴?感諸群生為現德本,悉當念言:『所立之處功德自然,清白法故。』由此夜半出家無礙,極樂事皆當捨棄,清白之法不可離也,是為菩薩善權方便。
なぜ菩薩は真夜中に出家し、川に至って自ら沐浴したのでしょうか。それは、すべての生きとし生けるものに徳の根本を示すためであり、彼らに『菩薩の立った場所には、自然と功徳が備わっている。それは清らかな法(教え)ゆえである』と気づかせるためです。このように、真夜中に出家することに障害はありません。究極の楽しみ(極楽)もすべて手放すべきであり、清らかな法は決して離れてはならないものです。これが菩薩の巧みな方便なのです。
「何故菩薩在兜術天勸化諸天,來下現生,天人叉手,時到可去,門自然開?菩薩有念:『王儻懷疑,聞此不了,長夜不安,遭值恐患墜于惡趣。』故化天人,天人開門,諸天坐中舉聲稱揚。非菩薩咎,欲慰王心,委之于天。由觀斯義有所勸化,是為菩薩善權方便。
問う、なぜ菩薩は兜率天にありて諸天を勧め教化し、下界に降り立ち姿を現すとき、天人が双手を合わせ、時至りて去るべく門が自然と開くのか。菩薩は想う、「王はもし疑念を抱き、これを聞いても悟らず、長き夜に不安を覚え、恐怖の患いに遭い、悪趣に堕ちるならば」と。故に天人を教化し、天人は門を開き、諸天は座の中で声を挙げ称える。これは菩薩の過ちにあらず。王の心を慰めんがために、これを天に委ねたのである。この義を観察して教化を施すこと、これこそ菩薩の巧みな方便(善巧方便)である。
「何故菩薩棄國捐王而現捨去?人當解知,菩薩畏生老病死是故出家,不為增避家室親族眷屬枝黨,是為菩薩善權方便。
なぜ菩薩は国を捨て、王位を捨て去るのでしょうか。人はこれを理解すべきです。菩薩は生・老・病・死を恐れるがゆえに出家するのです。家庭や親族、一族や仲間から逃れたり避けたりするためではありません。これこそが菩薩の巧みな方便なのです。
「何故菩薩自剃頭鬚髮?三千大千世界諸天龍神,揵沓和人與非人,無能堪見菩薩頂者,況能為尊除鬚髮者。於時菩薩,勸度眾生自除鬚髮,念白淨王當起恨意:『誰剃子首?』從使者聞,自剃之耳。王乃默然,是為菩薩善權方便。
なぜ菩薩は自らの髪や鬚を剃るのでしょうか。三千大千世界のすべての天や龍神、乾闥婆、人や非人でさえ、菩薩の頭頂を見ることができる者はなく、ましてや尊き方の髪や鬚を剃ることなどできる者はありません。そこで菩薩は、衆生を導き救うために自らの手で髪や鬚を剃りました。そして浄飯王が「誰が我が子の頭を剃ったのか」と怒りを抱くであろうことを念頭に置き、使者から「王子ご自身が剃られたのです」と聞いて、王は黙って受け入れられました。これこそが菩薩の巧みな方便なのです。
「何故菩薩取寶瓔珞冠幘,手付車匿,發起眾念?菩薩為道,不復貪樂珍寶之飾,於一切物而無所著,故皆釋之。後世邊地法効菩薩:『吾等出家亦當請學,從佛法則猗四賢行,一切無著,不為陰入狐疑出家。』設不如是,人當疑言:『不知產業故出家也!』是為菩薩善權方便。」
「なぜ菩薩は宝玉の瓔珞や冠を手に取り、車匿に手渡して、人々の様々な思いを引き起こすのでしょうか。菩薩は悟りの道を求める者であり、もはや宝物や飾りを愛好することはありません。あらゆるものに執着しないからこそ、それらをすべて手放すのです。 後の世の辺境の人々は、この菩薩の模範に従って、『私たちが出家する時も、このように学ぶべきだ。仏の教えに従い、四つの賢者の行いを拠り所として、全てに執着せず、五陰や十二入について疑いを持つことなく出家しよう』と願うでしょう。 もしこのような模範がなければ、人々は『生活の手段を知らないから出家したのだ』と疑いの言葉を口にするかもしれません。これこそが、菩薩の巧みな方便なのです。」
佛言:「族姓子!今且聽。此菩薩何故六年志修苦行?為諸菩薩有殃罪故,故現勤苦,為諸群生權其方便,於斯菩薩所興為也。迦葉佛時口發是言:『髠頭沙門耳,云何為佛?』是則菩薩善權方便。當知是義。何故菩薩而有斯言?優多摩納(晉言上志,一名焰花),有五親友及五百弟子,為大梵志貴族姓子,本學大乘,為惡知友所見迷謬,失其道意。其五親友,信外異學不從真教,修外道經不習佛法,自謂有道為彼師長,其身自號吾等是佛,五百弟子亦復如是。焰花學志以權方便入斯志類,因發言呵難提和曰:『何所為佛?髠頭沙門,佛道難得,用往覲乎?』焰花稍稍化五族姓子及五百弟子在異學者,故發斯言:『何所是佛?髠頭沙門,佛道難得。』」
仏は言われた。「善きかな、族姓の子よ。今、よく聞け。なぜこの菩薩が六年もの間、苦行を志したのか。それは、諸々の菩薩に罪障があるからである。そのために、あえて苦行を現し、すべての人々のために巧みな方便を施したのだ。これはこの菩薩の働きによるものである。
かつて迦葉仏の時代に、口からこう発した言葉がある。『剃髪した沙門ごときが、どうして仏でありえようか』と。これこそ菩薩の善巧方便である。この意味をよく知るべきである。なぜ菩薩がそのような言葉を発したのか。
優多摩納(晋の言葉で「上志」、別名を焔花という)には、五人の親友と五百人の弟子がいた。彼は大梵志の貴族の家に生まれ、もともと大乗を学んでいたが、悪友に惑わされて道心を失った。その五人の親友は、外道の異学を信じて真実の教えに従わず、外道の経典を修めて仏法を学ばず、自ら道があると称してその師長となり、自ら『我らは仏である』と名乗った。五百人の弟子もまた同じであった。
焔花の学志は、巧みな方便を用いてこのような者たちの中に入り、あえて難提和を責めて言った。『何が仏か。剃髪した沙門ごときが。仏道は得がたい、どうしてわざわざ参拝する必要があるのか』と。焔花は徐々に、異学にあった五人の族姓の子と五百人の弟子を教化するために、あえてこの言葉を発したのである。『何が仏か。剃髪した沙門ごときが。仏道は得がたい』と。」
佛語慧上:「觀於彼世焰花學志,時在別處與五親友五百眷屬俱共正立,於時陶家者名難提和(晉言歡豫),往至其所,嗟嘆迦葉如來功德。謂焰花學志:『來共俱往詣迦葉佛。』焰花心念:『此諸學志德本未滿,設吾今歎迦葉如來道之功德,毀諸異學,族姓子等便當愕住必不俱行。』以故焰花,護其本願智慧無極,因權方便,故言『髠頭沙門非是佛,佛道難得,智慧無極,何所處乎?行智度者無彼此想,亦無道想。』焰花通達究竟空慧普無所著,善權方便隨一切法,故發斯言。焰花學志與五親友五百弟子,至池水側浴訖出水,乘馬車侶五親友,從弟子遊行講經。
仏は慧上に語られた。「あの世の焔花学志(えんかがくし)を見なさい。彼はある時、別の場所で五人の親友と五百人の眷属(けんぞく)とともに立っていました。その時、難提和(なんだいわ)という陶器作り(すえものつくり)の人が彼のところに来て、迦葉如来(かしょうにょらい)の功徳を称え、『一緒に迦葉仏のもとへ参りましょう』と言いました。焔花は心の中で考えました。『これらの学志たちはまだ徳の基が十分でない。もし私が今、迦葉如来の道の功徳を讃え、異学(いがく)を非難すれば、彼らは驚いて必ず一緒に行かないだろう』と。そのため焔花は、自らの本願(ほんがん)と智慧(ちえ)の無限を守り、巧みな方便(ほうべん)を用いて、あえて『坊主頭の沙門(しゃもん)は仏ではない。仏の道は得がたく、智慧は無限である。どこにそのようなものがあるだろうか。智慧の完成を行ずる者は、自分と他人という考えも、道という考えも持たない』と言いました。焔花は空(くう)の智慧に通達し、一切に執着せず、善巧方便(ぜんぎょうほうべん)によってあらゆる法(ほう)に従ったので、このような言葉を発したのです。焔花学志は五人の親友と五百人の弟子とともに、池のほとりに行き、沐浴を終えてから馬車で五人の親友と連れ立ち、弟子たちと共に遊行しながら経を説いていました。」
「爾時歡豫,承佛威神欲化彼師從,迎焰花乘及侶弟子,即相問訊言所從來。歡豫以誠答曰:『覲迦葉佛還。』焰花曰:『髠頭沙門非為是佛,佛道難得。』陶者聞之甚用不悅,以手捉髮:『卿不信者可俱往質也。』焰花籌慮:『歡豫志性安隱仁和,未曾卒暴,今𢭀吾急,終不忘也。吾及弟子宜當共侶,俱觀其道。』僉曰:『唯然。』於是陶者、焰花五友五百弟子,便共俱行覲迦葉佛。佛則為說前世所興道德之本。心即喜踊,讚焰花曰:『世尊道德權慧乃爾,何惜不早為吾等說。』五友弟子見迦葉佛,道德巍巍辯才無量,皆發無上正真道意。時迦葉如來至真等正覺,說大乘業,開闡法藏不退轉輪,五大梵志五百弟子皆得不起法忍。」
その時、歓喜は仏の威神力に支えられ、師である炎花とその弟子たちを教化しようと思い立ちました。迎えに出た炎花の乗り物とその弟子たちに挨拶し、どこから来たのか尋ねました。歓喜は誠実に答えました。「迦葉仏にお目にかかって帰ってまいりました。」炎花が言いました。「坊主頭の沙門など、仏ではありえません。仏道を得るのは難しいのです。」陶工はこれを聞いて大いに不満に思い、手で髪を掴んで言いました。「あなたが信じないなら、一緒に確かめに行こう。」炎花は考えました。「歓喜は穏やかで思いやりがあり、これまで粗暴なことはなかった。今、突然私をせかすのは、きっと大切なことがあるに違いない。私と弟子たちは一緒に行って、その教えを自ら見よう。」皆が「その通りです」と言いました。そこで陶工と炎花、その五人の友と五百人の弟子たちは、共に迦葉仏を訪ねました。仏は彼らのために、前世において積んだ功徳の根本について説かれました。彼らの心はたちまち喜びに満ち、炎花は讃えて言いました。「世尊の道徳と智慧はこのようなものだったのですか。どうしてもっと早く私たちに説いてくださらなかったのですか。」五人の友とその弟子たちは、迦葉仏の崇高な徳と尽きない弁才を目の当たりにし、皆が無上正等正覚の心を起こしました。その時、迦葉如来・至真・等正覚は、大乗の教えを説き、法の宝庫を開き、不退転の法輪を転じられました。すると、五人の大梵志と五百人の弟子たちは皆、無生法忍を得ました。
佛告慧上:「族姓子!聽。焰花若以佛智慧歎迦葉尊毀異學者,五大梵志五百弟子終不從化。又無由得覲迦葉佛,用欲開化之故因行權慧,故發斯言:『髠頭沙門非為是佛,佛道難得。』得不退轉,無所不達不復疑道,是為菩薩善權方便。」
仏が慧上に告げられた。「族姓子よ、聞きなさい。もし焔花が仏の智慧をもって迦葉尊を讃え、他の学びを非難したならば、五人の大梵志と五百人の弟子たちは決して教化されなかっただろう。また、彼らが迦葉仏を拝見する機会もなかったであろう。開化しようという目的のため、権慧を用いたのである。それゆえ、『頭を剃った沙門は仏ではない。仏道は得難い』と発言したのだ。不退転の境地を得て、一切に通達し、もはや道に疑いがなければ、これこそが菩薩の巧みな方便である。」
佛告慧上:「菩薩所以隨時如化,現有餘殃勤苦之行,設不然者,沙門梵志清淨奉誡,諸餘黎民將無知之,懈怠不進。適相見已,得無說之是藏異藏。斯等長夜曾無利義,不得安隱則歸惡趣用眾罪釁,如來故現餘殃未盡。菩薩都無罪蓋之患,持戒沙門梵志,若說麁言即當自疑,不加精進不得解脫,欲建斯等猶豫志者,菩薩以權口發此言:『緣是度之即當自說,吾等無智自責悔過,唯學道慧普行恭敬。』又外異學貢高自由,以故如來勤苦六年,非為餘殃。所以者何?或有沙門梵志,食一麻一米清淨自在,欲攝此等具足其願,故菩薩日服一麻一米以為限度,若不時食,不得不還致于聖道。菩薩發言:『髠頭沙門不得是佛,佛道難得。』故以罪殃六年苦行,六年之中所可開度,則非異學之所及知。而令外道五百二十萬人住平等慧,所可見發誘化人民,是為菩薩善權方便。
仏が慧上に告げられた。「菩薩が時に応じて幻の如く振る舞い、残った災いや苦しみの行を現すのは、そうでなければ、沙門や梵志、清らかな戒めを奉じる者たち、その他の民が無知で怠け、進もうとしないからである。彼らは菩薩を見ても、『これは隠れた業であり、異なる業である』と言うだろう。そのような者たちは長い間、利益もなく、安らぎを得られず、悪趣に落ちてしまう。その罪の汚れのゆえに、如来はあえて残った災いが尽きていない姿を示すのである。
菩薩には、もともと罪の覆いという悩みはない。戒律を守る沙門や梵志がもし粗い言葉を聞けば、自ら疑いを抱き、精進せず、解脱を得られなくなる。そのような者たちのため、ためらいの心を取り除くために、菩薩は方便を用いてこう語るのである。『この縁によって彼らを導こう』と。そして自ら言う、『我々は無知である。自ら責め悔い改めよ。ただ道の智慧を学び、広く敬意を払え』と。
また、外道の異学は高慢で自由気ままである。そのゆえに、如来は六年の間、苦行されたのであり、それは残った災いのためではない。なぜか?ある沙門や梵志は、一粒の胡麻や一米だけで清らかに生活し、自由を得ている。そのような者たちの願いを満たすために、菩薩は一日に一粒の胡麻と一米だけを食される限度を設けられたのである。もし時に応じて食べなければ、聖なる道に至ることはできないからだ。
菩薩はこう宣言される。『剃髪した沙門は、この仏陀を得ることはできない。仏道は得難いものである』と。そのため、罪の災いとして六年の苦行を示されたのである。六年の間に開かれた悟りは、外道の異学の知るところではない。そして、五百二十万人の外道を平等の智慧に留め、人々を導き教化された。これこそが、菩薩の善巧方便である。」
「何故如來聚會四輩——諸天、龍、神及人非人——為講說經?」
なぜ如来は、天や龍、神々、人間、さらに人間でない者たちという、四つの集まりを招集し、彼らのために経典を説かれたのでしょうか。
初夜欲竟,佛告阿難:「取中衣來,吾體少冷。」
初夜が終わろうとする頃、仏は阿難に告げられた。「中衣を持ってきなさい。私の体が少し冷えてきた。」
阿難受教即取奉進。
阿難は教えのままにそれを受け取り、差し出した。
上夜已竟,入於中夜,復命阿難取上衣來:「吾寒欲著。」
上夜が終わり、中夜に入ったとき、再び阿難(あなん)に呼びかけて上着を持ってこさせた。「私が寒いので、それを着たい。」
即復進之。
また差し出した。
中夜已竟,入於後夜,復命阿難:「取眾集衣來,吾欲著之。」
中夜が終わり、後夜に入ってから、再び阿難に命じられた。「大衆の衣を持って来なさい。私はそれを身に着けたい。」
即復重進。
再び深く進んでまいりました。
佛便服著告諸比丘:「吾聽出家學者,一時著三法衣,假使寒者亦可複之。所以者何?後世邊地寒涼國城,不堪單薄,隨其土地應著複重。佛無寒無熱無飢無渴。所以者何?為處寒土不著複重,或致疾病,或能悔退,不能究竟求道之意,是為如來善權方便。
仏はお召し物を整え、比丘たちにお告げになった。 「私は出家して学ぶ者たちに、一時に三つの法衣をまとうことを許す。もし寒いならば、さらに重ねて着てもよい。なぜか?後の世の辺鄙な寒冷の地では、薄着に耐えられないからである。その土地に応じて、重ね着をしてもよいのだ。仏には寒さも熱さも飢えも渇きもない。なぜか?寒い土地で重ね着をしなければ、病にかかったり、あるいは悔いて退き、求道の心を全うできなくなるかもしれないからである。これが如来の巧みな方便なのだ。」
「何故如來坐於草蓐?為來世人出家學者,或貪鮮好床座榻机,志在安軟不加精進,或有少福,不得好坐氍氀毾㲪重莚被蓐,怨望退却。心當念言:『如來世尊身欲成佛,坐於草蓐,不著好床,乃成佛道。何況我等當慕好座?』佛言所教,隨其習俗重茵累蓐,不妨于道,細軟不悅麁堅不憂,人心難齊志行若干。故以權變現若干教,是為如來善權方便。
なぜ如来は草の上に坐したのか?それは未来の世に出でて学び出家する者たちのためである。ある者は豪華で新しい座布団や寝台を欲しがり、柔らかさに安んじて精進せず、あるいは福徳が少なく良い座を得られず、毛氈や敷物や幾重にも重ねた筵に不満を抱いて退いてしまう。心にこう思うべきである。「如来世尊が自ら成仏しようとされた時、草の上に坐し、良い寝台に執着なさらずに仏道を成就された。ましてや我等がどうして良い座を求めることができようか?」仏が説かれた教えは、その習慣に従って幾重にも敷物を重ねることも、道を妨げるものではない。柔らかいものに喜ばず、粗く堅いものを憂えず、人の心はそろい難く志や行いは様々である。ゆえに方便をもって様々な教えを現すのである。これが如来の善巧方便である。
「何故菩薩復起飯食,傍無德者自餓求道?夫以飢餓不能興慧,故安隱食因成道德。說菩薩法開化群萌,多所安隱不以勤苦,菩薩受食得用成佛,由斯逮于一三昧定,以一三昧住百千劫,是為菩薩善權方便。
なぜ菩薩はふたたび食事をとり、徳のない者は自ら飢えながら道を求めるのでしょうか。そもそも飢えによって智慧は生まれません。だからこそ、安らかな食事によって道徳を成就するのです。菩薩の教えを説き、人々を導くことは、多くの者を安らかにし、苦しめません。菩薩は食事を受けて仏となるのです。これによって一つの三昧(さんまい)に達し、その一つの三昧にとどまって百千劫(こう)の時を過ごします。これこそが、菩薩の巧みな方便(ほうべん)なのです。
「何故菩薩閑居求道?草蓐敷于樹下,用過去佛不貪床座,坐敷說諦吉祥禮義,設使菩薩說法粗略則入利義,其有以草施菩薩者因發道意,佛時授吉祥之決:『汝於方來當得成為佛,號離垢如來至真等正覺。』是為菩薩善權方便。
なぜ菩薩は閑居して道を求めるのか。草の敷物を樹の下に敷くのは、過去の仏が寝台や座を貪らなかったからである。座を敷いて真理を説き、吉祥の礼儀を行う。もし菩薩が粗雑に法を説くならば、利益と義理に入るだろう。草を菩薩に施す者は、それによって道心を起こす。仏はその時に吉祥に授記した。「あなたは未来において仏となるであろう。名を離垢如来・至真・等正覚という。」これが菩薩の巧みな方便である。
「何故菩薩坐佛樹下,使魔雲集?設不速趣無上正真道者,其魔波旬不敢至菩薩所。又,族姓子!菩薩初坐樹下,心自念言:『誰於欲界四域最尊?人從教者,當令詣吾俱戰決之。』爾時具足入諸通慧,故使魔試。其魔兵師八萬四千億,天、龍、鬼神、揵沓和、阿須倫、迦留羅、真陀羅、摩睺勒,皆發無上正真道意,是為菩薩善權方便。
なぜ菩薩が仏の木の下に座ると、魔の群れが集まるのでしょうか。もし速やかに無上の正しい道を求めなければ、魔王波旬も菩薩の元に近づくことはできません。また、善き家の子よ!菩薩が初めて木の下に座った時、心の中でこう思いました。『欲界の四つの領域で最も尊い者は誰か。人の教えに従う者よ、私のもとに来て共に戦い、決着をつけよう。』その時、一切の智慧を完全に具えたからこそ、魔に試練を与えさせたのです。その魔の軍勢は八万四千億にも及び、天、龍、鬼神、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、真陀羅、摩睺羅伽も皆、無上の正しい道を発心しました。これが菩薩の巧みな方便なのです。
「何故如來已成佛道,正坐七日而不起行,察樹無厭?是諸天子見其德行變化感動,心大歡喜,各心念言:『吾等當求斯如來心何所倚乎?』宿夜七日一心專精,求之不得。緣是之故,乃觀世尊三十二相,心益踊躍則發無上正真道意,當來之世亦逮如茲坐于佛樹。由斯如來坐樹七日,是為菩薩善權方便。
なぜ如来がすでに仏道を成就した後も、七日間座ったまま動かずに、樹木を見つめて飽きることがなかったのか。この天子たちは、その尊い行いと変化に感動し、心から大いに喜んだ。それぞれが心の中で思った。「私たちは、この如来の心がどこに依っているのかを求めよう。」そして、七日間昼夜一心に専念して求めたが、それを得ることはできなかった。 このような経緯から、世尊の三十二相を観じ、心はますます高ぶり、無上の正しい真実の道への思いを発した。未来の世においても、このように仏樹の下に座ることを得るであろう。 このように如来が樹の下に七日間座ったのは、菩薩の巧みな方便なのである。
「何故菩薩得成佛已,勸率無數天人之眾?梵天不請亦不說法,於是如來心自念言:『其在欲界不可稱計諸天集會,及魔眷屬鬼神羅剎,設見菩薩師子吼步輒發道意,見歡喜者緣致無為。』又,族姓子!詣佛樹下,菩薩即時放頂相光,普照魔宮及三千大千世界,於其光明出一音聲:『今釋種子能仁之尊,棄國捐家,今成無上正真之道,已過汝界多度人民,不可貲量空汝國境,宜當尋往與共戰鬪。』時魔聞斯,甚大愁毒,嚴四部兵,具足三十那術姟俱,往詣佛樹。於時菩薩以智慧寶,建立大慈慧明之勝紫磨金臂,諸天龍神釋梵所敬。時梵志念:『梵天化我,我從梵生,莫能超踰。世無尊師,梵天為上。』如來念曰:『吾致梵天令眾人見,諸天龍神皆倚于梵,梵天猶尚稽首禮佛,宜當勸助如應說法,若無勸請如來不說。承佛威神,令梵天來以法助勸,假使眾人敬念梵天,當勸如來。』於是梵天,自捨其宮來詣世尊。大梵勸佛轉法輪,時六百八十萬梵天皆發無上正真道意,悉歎頌曰:
「なぜ菩薩は成仏した後、無数の天人の人々を導くのでしょうか?梵天が請わなくても説法せず、そこで如来は心の中でこう思われました。『欲界には数えきれないほどの諸天が集まり、また魔の眷属や鬼神、羅刹もいる。もし菩薩の獅子の歩みを見れば、たちまち悟りの心を起こすだろう。喜びを見て悟りの境地に至るのだ。』 さらに、善き家の子よ!菩提樹のもとで、菩薩はただちに頂上の光を放ち、魔宮と三千大千世界を照らしました。その光の中から一つの声が響きました。『今、釈迦の子孫である能仁の尊が、国を捨て家を出て、無上正真の道を成就された。すでに汝の領域を超え、多くの人々を救い、汝の国を空しくしている。すぐに赴き、共に戦うべきである。』 これを聞いた魔は、大いに憂い悩み、四部の兵を整え、三十那術姟の軍勢を率いて菩提樹のもとへ向かいました。その時、菩薩は智慧の宝をもって、大いなる慈愛と智慧の明らかな勝れた紫磨金の腕を建立し、諸天・龍神・釈・梵天の尊敬を受けました。 そこで梵志は考えました。『梵天が私を教化した。私は梵天から生まれた。誰も私を超えることはできない。世の中に尊い師はなく、梵天が最上である。』 如来は思われました。『私は梵天を招いて人々に示そう。諸天・龍神はすべて梵天に依っている。梵天でさえも仏に頭を下げて礼拝する。応じて説法し、勧めるべきである。もし勧請がなければ、如来は説法しない。仏の威神力により、梵天を来らせ、法をもって助け勧めよう。もし人々が梵天を敬うなら、梵天が如来を勧めよう。』 そこで梵天は自らの宮殿を捨てて、世尊のもとに来ました。大梵が仏に法輪を転じるよう勧めると、その時、六百八十万の梵天が皆、無上正真の悟りの心を起こし、皆、讃嘆して言いました。
「『佛尊無有極, 最勝不可及,
行善權方便, 是亦為如來。』」
仏の尊さには限りがなく、 最も勝れた存在で、到底及ぶことはできない。 巧みな方便を用いて善を行うこと、 これこそが如来の姿である。
佛告慧上菩薩:「如來所現餘殃有十,是亦世尊善權方便。當了至誠,欲使如來有毛髮瑕,不具殖德本,欲令有短,行不具足,逮成正覺坐佛樹者,此亦不然。所以者何?暢清白法無有眾瑕。族姓子!欲知如來皆以㨹𢷄諸不善法。世尊無礙,況復立穢而有餘殃?佛為醫王,除一切病無有陰蓋,祐眾生故示現餘釁。欲令眾庶護身口意修清淨行,由如尊貴族姓有子,各長王家習于乳酪,體生瘡瘠上至頸項腹藏亦痛,當服醫藥飲乳乃除困而獲差,父母念之喜其得瘳。又,族姓子!如來至真為普世父,除群𪏭惱使獲安隱,以故現疾。人聞餘殃不敢作罪,是為菩薩善權方便。」
仏が慧上菩薩に告げられた。「如来が示される残余の災いには十の種類がある。これもまた世尊の巧みな方便である。心をこめて誠実に理解すべきである。もし如来に毛髪ほどの欠点があり、徳の根本を完全に積んでおらず、行いが十分でなく、正覚を成就して仏樹のもとに座ることがあるとすれば、それはありえない。なぜなら、清らかな法を明らかにし、いささかの汚点もないからである。善き家の子らよ、知っておきなさい。如来はすでにあらゆる不善の法を打ち砕き尽くしておられる。世尊に妨げるものは何もない。ましてや汚れを存して残余の災いがあろうはずがない。仏は医王であり、すべての病を取り除き、覆い隠すものがなく、衆生を助けるがゆえに、残余の過ちを示される。これは、人々が身・口・意を護り、清らかな行いを修めるようにとの教えである。たとえば、高貴な家の子が王家に育ち、乳酪に親しんだために、体に瘡(できもの)が生じ、それが首から上や腹にも及び、痛みが生じたとする。その時は薬を飲み、乳を飲んでからでなければ治らず、苦しみが去ってようやく快復する。両親はそれを喜び、子が癒えたことを嬉しく思う。同様に、善き家の子らよ、如来は一切の父であり、すべての衆生の悩みを取り除き、安らぎを得させるために、病気を示されるのである。人々は残余の災いを聞いて、罪を犯そうとしなくなる。これこそが菩薩の巧みな方便である。」
又告慧上菩薩:「往昔久遠世時不知罪福,故為眾人示現殃釁,如來故說:『吾為法王不離宿罪,汝等之類安得離殃?』由斯有言,如來永無餘殃。譬如有人善學書䟽計校之術,教諸童子欲令成就,無所不知不以為礙,小兒見聞則受學了稍稍達本。如來如是,悉學諸法無所不博,示現餘殃欲令眾生具清淨法。譬如有醫始學治病,解方曉藥應病救療,既能自愈,廣能愈人轉復嗟歎。錠光佛時,乃於彼世有五百賈人入海求寶。有異心者,心罪甚重,開其罪門,工學邪術殃害劇賊,觀賈人貌則上有船。於時導師號曰吉財,護眾賈人隨時消息。𣧑人念言:『今我寧可悉害賈人獨取珍寶。』於閻浮提有大導師,名曰大哀。時寐夢中海神語之:『賈眾之中,有一賊人興大惡心,皆欲危沒五百賈人,獨欲取寶。假令事建罪不可量。所以者何?此五百賈人,皆發無上正真道意立不退轉,設使遇害心不迴還,由其殃罪,一一菩薩行得成無上正真之道,賊墜地獄,若干歲數其罪乃竟。今仁導師當行權變,而令此人不更地獄若干之痛,使眾賈人不被危害。』七日思惟無餘方便,念言:『唯當取之危其命耳!假語眾賈者則皆興怒,當殺此人必墮惡趣。』復重自念:『設我獨殺亦當受罪,吾寧忍之。若百千劫受地獄惱,不令賈人普見危害,而令一賊墜地獄也。』時大哀師則為說法,令心欣然踊躍臥寐。」
また、慧上菩薩に告げられた。「遠い昔、罪と福の道理を知らなかった久遠の時代があった。そのため、人々に罪の報いを示すために、如来は『我は法の王であるが、過去の罪から逃れられない。ましてやあなたたちのような者が、どうして災いを逃れられようか』と説かれたのだ。この言葉からも分かるように、如来には永遠に残る罪障はない。例えば、ある者が書物や計算の術に精通し、子供たちに教えて彼らが達者になるのを助け、何も妨げないようなものだ。子供たちはそれを見聞きして学び、次第に本質を理解する。如来もまた、あらゆる法を学び、全てに通じておられる。残余の罪障を示して、衆生に清らかな法を具えさせようとされるのだ。譬えば、医者が病気の治療を学び、方剤や薬草を知って病に応じて治療し、自らも癒え、さらに多くの人を癒して称賛されるようなものである。
錠光仏の時代、五百人の商人が海に宝を求めて入った。その中に心が異なる者がいて、その罪は非常に重く、罪の門を開き、邪悪な術を学んで人を害する大盗賊であった。その者は商人たちの様子を見て、船に乗っていた。当時の導師は吉財と名乗り、商人たちを守り、時宜に応じて導いていた。その凶悪な者は考えた。『今こそ商人たちを全て殺し、独りで宝を奪おう。』閻浮提には大哀という名の大導師がいた。ある時、夢の中で海神が告げた。『商人の中に、大いなる悪心を起こして五百人の商人を全て殺そうと企み、独りで宝を取ろうとする賊がいる。もしそれが成就すれば、その罪は計り知れない。なぜなら、この五百人の商人は皆、無上正真の道心を発し、不退転の位に立っているからだ。もし彼らが害されても心は退かない。その罪によって、一人一人の菩薩が無上正真の道を成就するのに、賊は地獄に落ち、長い年月を経てようやく罪が終わるのだ。今、あなた導師は方便を用いて、この者が地獄の苦しみを長く受けることなく、かつ商人たちが危害を被らないようにせよ。』七日間思案したが、他の方法はなかった。彼は考えた。『ただ彼の命を絶つ他あるまい。もし商人たちに告げれば皆が怒り、この者を殺して必ず悪趣に落ちるだろう。』さらに考えた。『私一人が殺せば、私も罪を受けるだろう。しかし私は耐えよう。たとえ百千劫もの間、地獄の苦しみを受けようとも、商人たちが皆危害を受け、一人の賊が地獄に落ちるのを見過ごすよりはましだ。』その時、大哀導師は法を説き、その心を歓喜させ、踊躍させて眠らせた。」
佛言:「族姓子!彼大導師由眾賈人興于大哀,以權方便害一賊命。壽終之後,生第十二光音天上。時大哀師則吾身也,以斯方便越千劫生死,死則昇天。同船五百賈人,斯賢劫中五百佛興者是。菩薩豈有罪患,越除終始彌百千劫,不當察佛而有愆咎,如來所現為眾生故。時以闕漏權現鐵釴,如來蹈之威神所達。所以者何?如來之身則金剛也。又,族姓子!舍衛城中有二十人,復與二十人共為怨敵。時二十人各欲攝怨而危害之,為最後世相伺方便。彼二十人欲害二十怨者,承佛威神尋詣如來。於時世尊化四十人,亦欲勸導一切大眾,告尊者大目揵連:『今於此地,當有鐵釴自然來出,入佛右足大指。』語未竟,釴在佛前。目連白佛:『今拔鐵釴著異世界。』佛言:『不然。』時大目揵連,以精進力欲拔鐵釴,是三千大千世界為大震動,不能搖釴如毛髮也。於時世尊則往梵天,釴輒隨之;如來還坐,釴則住前。是時如來右手取釴以足蹈上。目連白佛:『如來本罪而獲釴殃?』佛時告曰:『昔與五百賈人共入大海,時有一人心懷惡意,吾時害之,是其餘殃。』時二十人聞佛說此,轉相謂言:『如來法王已得自在,尚有餘殃不能滅除,況於吾等不受罪乎?』即來詣佛,悔過自首。如來應時為說經法,分別罪福,令四十人入平等慧,三萬二千人遠塵離垢諸法眼淨。因是如來示現鐵釴,是亦菩薩善權方便。
仏は仰せになった。「善き者よ。あの大導師は、多くの商人たちのために大いなる慈悲を起こし、巧みな方便によって一人の賊の命を絶った。その生涯を終えた後、第十二の光音天に生まれた。その時の大慈悲の導師こそ、私である。この方便によって千劫の生死を超え、死して天に昇ったのである。同じ船に乗っていた五百人の商人たちは、この賢劫において五百の仏が興起される方々である。菩薩に罪過などあろうか。終始を越えて百千劫を経ても、仏に咎があると見てはならない。如来の示現は、すべて衆生のためなのである。その時、欠けるところがあり、仮に鉄の釴(てつ)が現れたとしても、如来がそれを踏むのは、その威神力の及ぶところによる。なぜなら、如来の身は金剛そのものだからである。
また、善き者よ。舎衛城の中に二十人の者がおり、さらに二十人の者と互いに怨み合っていた。時の二十人は、その怨みを収め、相手を害そうとして、後の世に機会を伺っていた。その二十人が、怨みを抱く二十人の者を害そうとした時、仏の威神の力によって、すぐさま如来の許にやって来た。そこで、世尊は四十人の者を教化し、また一切の大衆を導こうとして、尊者の大目揵連に告げられた。「今、この地に、鉄の釴が自然に現れ出で、仏の右足の親指に入るであろう。」言葉が終わらないうちに、釴は仏の前に現れた。目連は仏に申し上げた。「今、この鉄の釴を抜き取り、異なる世界に置きましょう。」仏は仰せられた。「それはならない。」時に、大目揵連は精進の力をもって鉄の釴を抜こうとしたが、この三千大千世界は大いに震動したものの、釴を毛髪の先ほども動かすことができなかった。そこで、世尊は梵天にまで行かれたが、釴はそれに従い、如来がお帰りになって座に着かれると、釴は前に留まった。この時、如来は右手で釴を取り、足で踏まれた。目連は仏に申し上げた。「如来は、元々の罪によって、この釴の災いを受けておられるのですか?」仏はその時、告げて仰せられた。「昔、五百人の商人と共に大海に入った時、一人の者が悪意を抱いていた。私はその時、その者を絶った。これがその余りの災いである。」時の二十人の者たちが、この話を聞いて、互いに言い合った。「如来・法王はすでに自在の境地を得ておられるのに、なお余りの災いを消し去ることができない。ましてや、我々が罪を受けないでいられるだろうか?」そして、すぐに如来の許に来て、悔い改め、自ら罪を告白した。如来はその時に応じて、経法を説き、罪と福を分別し、四十人の者を平等の智慧に入らせ、三万二千人の者を塵を遠ざけ垢を離れ、諸法の眼を清らかにさせた。これによって、如来が鉄の釴を示現されたのも、これまた菩薩の巧みな方便なのである。」
「何故世尊已離眾病示有疾病,使醫王耆域而合湯藥?佛時立戒二百五十,未久五百比丘在他樹間行道,向欲終畢心懷狐疑:『如來有教,唯以一藥療身眾病,不得習餘。』時佛發念:『以何方便,令諸比丘得習餘藥?』所以者何?假使如來隨意聽者,則後世人毀四賢誡,是以如來行權合藥任于耆域。時淨居天語比丘言:『諸賢者!宜更求藥,無得危命。』則相謂言:『寧自碎身,不毀佛誡。』天答賢者:『今者如來則法王也,令置小便更求餘藥,可改所習而慕所服。』於時比丘離疑猶豫,乃求異藥病即除愈,晝夜七日得無著道。假使如來不習湯藥,此諸比丘不得解脫,將來之世亦當如是。其身安隱然後得道,是亦菩薩善權方便。
なぜ世尊がすでに病を離れておられるのに、病をお見せになり、医王・耆域に薬湯を調合させたのでしょうか。仏が戒律二百五十を制定されて間もなく、五百人の比丘が他の木々の間で修行していましたが、終わりが近づくにつれて心に疑いを抱きました。「如来の教えには、ただ一つの薬で身の様々な病を癒すとあり、他の薬を用いてはならない。」
その時、仏はお思いになりました。「どのような方便によって、諸比丘が他の薬を用いることができるようにしようか。」なぜなら、もし如来が随意に許可されたなら、後の世の人々が四つの賢者の戒めを破ってしまうからです。そこで如来は権巧を用い、耆域に薬を調合させたのです。
その時、浄居天が比丘たちに言いました。「諸賢者よ、他の薬を求めるべきです。命を危険にさらしてはなりません。」すると比丘たちは互いに言いました。「むしろ身を砕こうとも、仏の戒めを破ってはならない。」天は答えました。「今、如来は法王です。小便を用いるのをやめて、他の薬を求めなさい。これまでの習慣を改め、新しい薬を用いなさい。」
そこで比丘たちは疑いと迷いを離れ、別の薬を求めると病はすぐに癒え、七昼夜で無著の道を得ました。もし如来が薬湯を用いられなければ、これらの比丘たちは解脱を得られず、未来世もまた同じであったでしょう。身心が安らかでこそ後に道を得るのです。これもまた菩薩の善巧方便なのです。
「何故如來眾德普具,又入聚落而行分衛空鉢來出?如來無殃,愍觀後世邊地諸國而興慈哀。其有比丘,入於郡國縣邑丘聚行分衛者,而身薄福所乞不得。心念:『如來功德充盛無量福會,時行分衛尚空盋出,我等善本所殖不弘,豈可怨捨而不乞乎?故當分衛。』用是之故,入城分衛空鉢來出。又云:『弊魔化諸梵志長者家,使不供佛、不施眾僧。』未曾有此。其魔波旬,未敢作威嬈固如來、沮廢福意,佛之聖旨所變現也。梵志長者有此異心,非是本意、非佛尠福。彼時眾人無所施者,又見如來空盋來出,魔界天人見不獲饍,世尊得無心懷悵惘,晝夜一心,念如來及弟子眾,將必憂悒。見佛弟子,心不增減前後適等,七萬天子自投佛前,如來如應為說經法,皆得法眼淨,是亦菩薩善權方便。
なぜ如来はすべての功徳を備えながら、村々に入って托鉢をし、空の鉢を持って出て来られるのでしょうか。如来には罪過はありませんが、後の世の辺境の国々を哀れみ、慈しみの心を起こしておられるのです。托鉢のために町や村に入る比丘たちの中には、自らの福徳が薄く、求めても得られない者もいます。その時、彼らは心の中で考えます。「如来の功徳は満ち溢れ、無量の福徳の集まりであるにもかかわらず、托鉢の時には空の鉢で出て来られる。ましてや我々の善根はそれほど深くないのだから、どうして恨んで托鉢をやめることができようか。だからこそ托鉢を続けるべきだ」と。このような理由から、町に入って托鉢をしても空の鉢で出て来られるのです。
また、「悪魔が様々なバラモンや長者の家々を化かして、仏に供養せず、僧伽に施しをしないようにさせている」と言われますが、そのようなことは決してありません。悪魔の波旬は、敢えて如来を悩ませ、福徳の心を妨げるような威勢を振るうことはできません。それは仏の聖なるお力が現わしていることなのです。バラモンや長者たちに異心が生じたのは、彼らの本来の意図ではなく、また仏の福徳が少ないからでもありません。その時、人々は何も施さず、如来が空の鉢を持って出て来られるのを見ました。魔界の天人たちは、世尊が食物を得られなかったのを見て、「仏は心に恨みを抱いておられるのではないか」と思い、昼夜一心に如来と弟子たちを思い、「きっと憂えておられるに違いない」と考えました。しかし仏の弟子たちを見ると、心に増減はなく、前後でまったく同じでした。七万の天子が仏の前に自らひれ伏し、如来はその機に応じて教えを説き、彼らはみな法眼を清らかにしました。これもまた菩薩の巧みな方便なのです。
「何以故旃遮摩尼木魁繫腹誹謗如來?亦非世尊本之餘殃,佛之威神能取暴意,徙置恒沙剎外,如來以權現斯方便。當來比丘,或有出家行作沙門,為人所謗有懷疑者,觀佛世尊雖見譏訕,心不動轉、不却宿罪,念:『佛如來普勝之德,猶復若茲。況我等而無譏議。』思惟此已益加精進,清淨奉戒心不迴轉。假使暴意夢中誹謗,壽終之後不離地獄。如來悉知令護禁戒。所以者何?如來之德不捨眾生,是為如來善權方便。
「なぜでしょうか、チャンダーリーが紐で腹に木の塊を縛りつけて如来を誹謗したのは?これは世尊が本来持っていた余殃(前世の報い)ではありません。仏の威神の力は、もし嵐のような悪意をもってすれば、その者をガンジス川の砂の数ほどの世界の彼方に移し去ることも可能です。しかし、如来はあえて方便としてこの姿を現されたのです。
将来の比丘たちには、あるいは出家して沙門となったものの、人から誹謗され疑いを抱く者がいるでしょう。そのような者は、仏世尊でさえ非難や嘲笑を受けたのに、心が動かず、過去の罪を悔いることなく、あらゆる点で勝れた徳をお持ちであるのを見て、『こうしてなお、まさにその通りである。ましてや我々に非難がないわけがあろうか』と考えるでしょう。これをよく観じて、さらに精進に励み、清らかに戒律を守り、心を諦めないのです。
たとえ暴意が夢の中で誹謗しても、寿命が終わった後には地獄を離れられません。如来はこれをすべて知り、戒律を守らせるのです。なぜでしょうか。如来の徳は決して衆生を捨てることがないからです。これが如来の巧みな方便なのです。」
「何故異道害須多利,埋著勝樹間?佛諸通慧普觀無礙,知當興怒,則以示現如斯比像。設不以刃加須多利者,須多利或投餘患。佛解知女壽命終盡,是故彼類相教殺之。緣邪異學,身所犯害必反罪辜,佛以等慧而化立之,由斯所建增益群生功德之本。是以如來七日不入城,化六十億諸天入道。過七日後,其四部眾皆來詣佛聽法,八萬四千人獲平等慧,三億人得道跡往來不還果證,是亦菩薩善權方便。
なぜ異道が須多利を害し、勝れた樹の間に埋めたのでしょうか。仏は諸通慧をもってあまねく観て妨げがなく、怒りが起こるであろうことを知り、そこでこのような姿をお示しになったのです。もし刃を須多利に加えなければ、須多利は別の災いを招いたかもしれません。仏は女の寿命が尽きることを解知しておられたので、それゆえ彼らは互いに教え合ってこれを殺したのです。邪な異学に縁り、身に犯す害は必ず罪の報いとして返ってきます。仏は平等の慧をもってこれを教化し導かれたので、このことによって積まれたものは群生の功德の本を増し加えました。それゆえ如来は七日間、城に入らず、六十億の諸天を教化して道に入らせました。七日を過ぎた後、その四部の衆は皆、仏のもとに来て法を聞き、八万四千人が平等の慧を得、三億人が道跡・往来・不還の果証を得ました。これもまた菩薩の善権方便です。
「何故如來三月食麥?如來素達,雖梵志請佛,不得迷忘佛所興化。所以者何?今五百馬者,昔佛弟子也。所從食已,前世皆學菩薩大乘,供養過去諸世尊矣!從惡友教,犯眾罪殃墜為畜生。彼時又有五百馬師,有菩薩名日藏,本立願生其中,普化斯等令發道意,使弘大乘化諸馬師。本非馬師,如來護彼,令諸馬畜皆得受決。為緣一切如來不食,無所志願,威德能化瓦石刀杖為美飲食,三千大千世界所有,悉為甘饍奇特之味。所以者何?世尊自然有大人相、上味之味,以故當知,如來所化飲食皆美。耆年阿難未得大哀,心自念言:『云何世尊捨轉輪膳,今乃服麥?』佛知其念,以五百馬師之德,時五百馬皆識宿命,得近道心,五百菩薩發大慈哀往覲如來,五百馬師自減半廩以用供佛,捐五百馬穀供五百比丘。馬師及馬皆自悔過,見佛眾僧竟三月已,五百馬命終生兜術天,為天所敬,如應說法,得立不退轉地,當成無上正真之道。阿難得知所施供養,時宮中人得未曾有,來白佛言:『我等生長深宮之內。世尊!阿難未曾習此安隱歡喜,七日不食。』族姓子!當知如來之身無有罪殃,後世或有持戒之人,請諸沙門而不設供,故為彼現。是為如來為人所請,雖不供辦,不令其人墮于罪地。又,五百比丘與如來俱三月一夏,四百比丘悉有慾態、無清淨想,設得美食慾意遂盛,用麁食故慾心則薄,三月之中可得羅漢。如來以斯諸學比丘及化菩薩,隨時示現,非罪殃也,是亦如來善權方便。
なぜ如来は三ヶ月もの間、麦を食されたのか。如来は本来、バラモンの招待を受けても、仏がおこなう教化に迷いや忘失は生じない。それはなぜか。今いる五百頭の馬たちは、かつての仏の弟子たちである。彼らが食しているものがあるのは、前世において皆、菩薩の大乗を学び、過去の諸仏に供養してきたからである。しかし悪友の教えに従ったことで、多くの罪を犯し畜生に堕ちてしまった。その時、また五百人の馬使いがいた。そこに日蔵という菩薩がおり、もともと彼らの中に生まれようと誓願を立てていた。その菩薩は彼らすべてを教化して仏道を発心させ、大乗を弘めさせて馬使いたちを導いた。元来、彼らは馬使いではなかったのだ。如来は彼らを護り、畜生の馬たちまでもが皆、成仏の保証(受決)を得られるようにされた。すべての縁の衆生のために、如来は食べずともよい。何も願うところはなく、その威徳によって瓦や石、刀や杖さえも美味しい飲食に変えることができる。三千大千世界にあるすべてのものも、甘露のごとき特別な味わいへと変えるのだ。なぜなら、世尊は自然に大人の相と最上の味覚を備えておられるからである。ゆえに知るべきである。如来が変化させた飲食はすべて美味なのである。 老年の阿難は、まだ大いなる慈悲(大哀)を得ていなかったので、心の中で思った。「どうして世尊は転輪王の食事を捨てて、今、麦を食べておられるのだろうか」と。仏はその心の内を知って、五百の馬使いの功徳を示された。その時、五百頭の馬は皆、前世を憶え、仏道に近づく心を得た。五百の菩薩は大いなる慈悲を起こして如来を拝しに来た。五百の馬使いは自分たちの食料を半分に減らして仏に供養し、五百頭の馬のための穀物を減らして五百人の比丘に供えた。馬使いと馬たちは皆、自ら悔い改めた。仏と僧団が三ヶ月の修行を終えた後、五百頭の馬は命終えて兜率天に生まれ、天の尊敬を受けるようになった。そして、相手に応じて説法し、不退転の地に立つことができ、やがて無上正等覚を成就することになった。阿難は、この布施供養のことを知った。その時、宮中の人々は未曾有の体験をし、仏のもとに来て申し上げた。「私たちは深い宮中で育ちました。世尊よ、阿難はかつてこのような安らかで歓喜に満ちたことを経験したことがなく、七日間食事をとりませんでした」と。 族姓子よ、知るがよい。如来の身には何の罪も落ち度もない。後世に、戒律を保つ者がありながら、修行者(沙門)を招いても供養を設けない者が出ることを見越して、そのためにこのような姿を示されたのである。これが、如来が人の招きを受けても、もし供養が十分に整えられなくとも、その人を罪の境涯に堕とさないための方便である。また、五百人の比丘が如来と共に三ヶ月の夏安居(一夏)を過ごしたが、そのうち四百人の比丘には欲望の状態があり、清らかな思いがなかった。もし美味しい食べ物を得れば欲望の心はますます盛んになるが、粗末な食べ物を用いたため欲望の心は薄まり、三ヶ月の間に阿羅漢を得ることができた。如来はこのような学びの比丘たちや菩薩を教化するために、時に応じてこのような姿を示されたのである。これは罪によるものではない。これもまた、如来の巧みな方便(善権方便)なのである。
「何故如來告大迦葉曰:『汝當說經,吾腰背痛』?時八千天子本弟子行,迦葉所化,於時來會,樂仰三寶,慇懃在行,聞說覺意。設百億佛為說經法終不能解,唯迦葉比丘能度之耳!故佛告之,分別覺意,八千天子聞義得慧。其疾病者往會聽經,各心念言:『如來法王因說覺意,病即除愈。吾等云何不聽經乎?』何以故?族姓子!欲、化諸天及病比丘使承經道,示現腰痛,故如來曰:『迦葉說經令我除病。』是亦如來善權方便。
なぜ如来が大迦葉に「あなたが経を説きなさい。私は腰が痛い」と告げたのか。その時、八千の天子たちが元々は弟子の立場であり、迦葉の教化を受けていた。彼らがこの場に集まり、三宝を敬い慕い、熱心に修行に励み、覚りの教えを聞くことを望んでいた。百億の仏が経を説いても、彼らはついに理解できなかったが、ただ迦葉比丘だけが彼らを救済できたのである。それゆえ、仏は迦葉に覚りの教えを説くよう告げ、八千の天子たちはその義を聞いて智慧を得た。また、病に苦しむ者たちが集まって経を聞き、各々心の中で思った。「如来という法の王が覚りの教えを説かれたので、病が癒えた。どうして私たちが経を聞かないでいられようか」と。なぜこのようなことがあったのか。族姓子よ、諸天や病の比丘たちを教化し、彼らに経の道を継承させるためであり、また、腰痛を示して「迦葉が経を説くことで私の病が除かれる」と如来が言われたのである。これもまた、如来の巧みな方便なのだ。
「何故如來舍夷國敗而佛頭痛?眾人悉當念言:『如來親屬不盡其壽。』護黎庶意坐枯樹下,告侍者曰:『吾頭甚痛。』爾時諸天計有常者三千人會,剎利之眾不可稱數,聞告阿難頭痛之咎,念言:『如來尚有餘殃。』聞經尋化天人七千,是亦如來善權方便。
なぜ如来(仏陀)が舎夷国(シャーキヤ族の国)の滅亡を前にして頭痛を患われたのか?人々は皆こう思うだろう。「如来の親族であっても、寿命を全うすることはできないのだ」と。民の心を思いやり、枯れた木の下に座って、おそばに仕える者に告げられた。「わが頭はひどく痛む」と。その時、「常(永遠)」があると考える天人が三千人会し、刹利(クシャトリヤ)の民も数えきれないほど集まっていた。彼らは阿難(アーナンダ)に頭痛の悩みを告げるのを聞いて、「如来にもなお、残りの災いがあるのだ」と考えた。その後、経を聞いて悟った天人(神々)は七千人にのぼった。これもまた、如来の巧みな方便(人を導くための智慧ある方法)なのである。
「何故披羅陀梵志以五百事而罵世尊,時佛默然,後更稱譽,佛亦默然。應時自歸一心悔過,無所復言?佛能厭却使不出言,投徙置于殊異之土。爾時會中諸天世人無數之眾,見佛忍辱慧力平等心柔和雅,四千人發無上正真道意。如來徹覩當來有所化,故現默然,非佛餘殃,是亦如來善權方便。
なぜバラドヴァージャのバラモンが五百もの言葉で世尊を罵った時、仏は沈黙を守ったのでしょうか。その後、彼が褒め称えた時も、仏はやはり黙っていました。その時、彼は自ら仏に帰依し、心から悔い改めて、それ以上何も言わなくなりました。仏が彼を言葉も出せないようにして、別の土地に追いやることはできなかったのでしょうか?あの時、会の中にいた多くの天や人々は、仏の忍辱の力、平等の智慧、そして柔和で穏やかな心を見て、四千人の者が無上正等覚の道心を発しました。如来は未来において教化すべき者があるのを見通しておられたため、あえて沈黙を示されたのです。これは仏の余殃(余罪)ではなく、如来の巧みな方便なのです。
「族姓子!聽。調達所生,常與菩薩共相嬈害,懷怨憎心欲相危害,是亦如來菩薩方便。」
「善き人よ、聞きなさい。提婆達多が生まれるたび、常に菩薩と互いに悩まし合い、恨み憎む心を抱いて害そうとした。これもまた、如来や菩薩の巧みな方便なのだ。」
佛告慧上菩薩:「諸天往來有所求索,則為具弘施度無極。所以者何?多所饒益覆滿諸願,發起一切。以何因緣興斯行乎?假使眾生安淨自利,則不解施、不知受者,是故諸天化從空來詣菩薩所,試求妻子、頭目、手足、國城、丘聚。應時菩薩,周滿所欲勇慧無難。眾人見之則効布施,奉尊所行無所矜悋:『我等亦當發願求佛,修習禁戒不敢毀失,順菩薩法未曾違捨。』捶罵不恚、輕易不恨,則弘忍辱度無極,以斯教化無數之眾。其諸天人見有怨來,詣如來所,則長戒禁,是亦如來善權方便,非餘殃罪。所以者何?敢來試者則皆權也。尋皆導利無央數人,取要言之,如來所現殘有十殃。皆當知佛行權隨時。眾庶懷惡多崇非法,故為現應,非有殃也。使知去就至無上慧,如來所歎權宜最尊,皆非殃罪但示現耳!作是得是,聞者悚懼不敢為非。
「又,族姓子!廣宣善權時時乃說,非為下愚薄福祚者,亦非聲聞、緣覺所知講也。所以者何?彼等未曾學善權方便,唯菩薩大士解暢深歸。喻如闇夜家中然火,悉照室內妻子眷屬。菩薩如是,其有聞善權度無極,則曉達菩薩一切所行,當勤順學吾本所習。佛囑累汝:『族姓子!族姓女!欲求佛道,其有講說善權方便,若百千里當往受學,則蒙光明。所以者何?假能聽受如斯像法者,則為顯發一切經典,除諸疑網使無結恨。』」
さらに、善き家の子らよ、広く巧みな手段を説き明かすのは、時が満ちて初めて行われるのであり、浅はかで福徳の薄い者たちのためではなく、また声聞や縁覚が知り理解できる話でもありません。なぜなら、彼らはこの巧みな方便をこれまで学んでいないからです。ただ菩薩の大いなる者だけが、その深い趣旨を理解し得るのです。例えて言えば、暗夜の家の中で火を燈せば、室内の妻や子、眷属のすべてを照らし出すようなものです。菩薩もまた同じく、巧みな手段の完成(善権波羅蜜)を聞けば、菩薩の行うすべての道を明らかに理解し、努めてそれに従い、私(仏)がかつて修めた道を学ぶべきです。仏はあなたがたにこう遺言します。「善き家の子よ、善き家の娘よ、もし仏道を求めようと願うなら、巧みな方便を説く者があれば、百千里の遠方であっても赴いてその教えを受けなさい。そうすれば光明に包まれるでしょう。なぜなら、このような法を聞き受けることができるならば、それはあらゆる経典を明らかにし、すべての疑惑の網を取り除き、もはや心のわだかまりを残さないからです。」
爾時諸天世人四部眾咸皆歎曰:「其有聞斯權便經者,非法器人多不信樂。」
そのとき、天の人々と四部の弟子たちは皆、口々に称賛して言いました。 「この巧みな方便の経典を聞くことができる人は、教えを受け入れるにふさわしくない者(非法器)には、多くは信じ喜ぶことがないものである。」
佛說經已,七萬二千人皆發無上正真道意。
仏がこの経を説き終えると、七万二千人の人々が皆、無上の正しい悟りを求める心を起こした。
阿難白佛:「當何名斯經?云何奉持之?」
阿難が仏に問うた:「この経の名は何と申すべきでしょうか。また、どのようにしてこれを奉じ、保ち行うべきでしょうか。」
佛告阿難:「是經名『善權方便所度無極隨時品』也。當持!當行!」
仏は阿難に告げられました。「この経典の名は『善巧方便による限りなき救いの法門』といいます。しっかりと心に留め、実践しなさい。」
佛說如是,慧上菩薩及比丘眾,菩薩大士,諸天、龍神、阿須倫、世人,莫不歡喜。
仏はこのように説かれた。慧上菩薩や比丘たち、菩薩大士たち、さらに天・龍・神・阿修羅・世の人々は、皆、喜びに満たされたのである。
慧上菩薩問大善權經卷下
慧上菩薩問大善権経 巻下